大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
シュトラウスベルク特別第4収容所での血みどろの激闘から、数日が経過した。
猛吹雪の夜が嘘のように晴れ渡った今日の昼下がり、ヴェアヴォルフ大隊本部の食堂は、いつになく騒がしい熱気に包まれていた。
「おうホフマン!生きてたかこのサボり魔!さんざんサボってきたんだ、もう有給残ってねぇだろ?」
第7小隊の荒くれ者たちが、ジョッキを片手にドカドカと押し寄せてくる。その中心で、首や腕に痛々しい包帯を巻きながらも、ミハイル・ホフマンはいつもの気だるげな笑みを浮かべていた。
「あぁ、せっかくの長期休暇だったんだけどな、先方が俺のサボり癖に呆れて、叩き出してきたんだよ。……お前らも無事で何よりだ」
「へっ、減らず口を叩けるなら十分だ。……だがまぁ、今回一番の功労者は間違いなくあいつだけどな!」
フェリックスが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら、ミハイルの隣に座るリィズへ視線を向けた。
「このサボり魔を助けるために、ホーエンシュタインが単機で突っ込んでいくんだからな!ちょっと前じゃ考えられねぇよ」
「違いない!ちょっと前の少尉殿といったら、完全に目がいっちまってた。忠実なミハイルの犬だったもんな!」
「そうそう!談話室で膝ついて、嬉しそうにこいつのブーツの紐結んでた時は、俺たち本気でドン引きしたんだぜ?」
周囲の衛士たちがドッと笑い声を上げる。かつて、ミハイルに全てを委ねて彼の道具として振る舞っていたリィズの黒歴史。それを大勢の前で面白おかしく掘り返され、リィズは顔を真っ赤に染めた。
「……っ、そ、それは……!ミーシャが不器用だから、私がやった方が早いし確実だと思って……っ!」
「それだけじゃねぇぞ」
向かいの席で山盛りのソーセージを頬張っていたルーカスが、遠慮なく追撃をかける。
「お前、ミハイルの飲みかけのコーヒーを後生大事そうに両手で持って、がっつり間接キスしながら飲んでただろ!「あの子、ホフマンへの尽くし方がヤバい」って、大隊中で噂になってたんだからな!」
「わ、わわぁぁッ!?」
完全に逃げ場を失ったリィズは、スプーンを取り落とし、パニックになって両手で顔を覆った。
「ち、ちが、あれはただもったいないからで……別に変な意味じゃ……っ!」
「……いやー、あれは見てるこっちが引いたわよ」
隣のテーブルで食事をしていた第9小隊の女性衛士が、当時の光景を思い出して身震いした。
「ミハイルが口つけた場所をなぞるように飲む時、なんていうかこう……恍惚とした、危ない目つきしてたもん。……あれはちょっと、表情がヤバかったわね」
「全くだぜ」
女性衛士の言葉に同調するように、同じ第9小隊の男が苦笑いしながら身を乗り出した。
「あの頃のお前、ホフマン以外の人間をまるで道端の石ころかゴミみたいに見てたじゃねぇか。俺がハンガーでホフマンに話しかけた時なんか、背後から親の仇みたいな殺気飛ばしてきて、マジで背筋が凍ったぞ」
「そうそう!整備班の新入りが泣いてたぜ?……ホフマン中尉に話しかけようとすると、ホーエンシュタイン少尉が冷たい目で睨んでくるんです。ってな!」
別の隊員もジョッキを掲げながらゲラゲラと笑う。
しどろもどろになって否定するリィズ。かつての感情のない道具だった頃の彼女からは想像もつかない、ただの年相応の少女の慌てぶりだ。
「ひ、ひどいっ!私……そんな目してないもん!」
そんな彼女を見下ろして、隣のミハイルは「くくっ」と意地悪そうに肩を揺らして笑っていた。
「ミーシャ!笑ってないでなんとか言ってよぉ!私、あの時は本当に……その、色々と必死だっただけで……っ!」
「ははっ、いいじゃねぇか。靴の紐まで結んでくれる便利な手下だったけどな。……まぁ、周りの目が痛すぎて、正直ちょっと気味が悪かったが」
「もうっ!ミーシャのばかぁ!」
ミハイルにまでからかわれ、リィズは涙目になる。たまらず、彼女はすがるような目で、向かいで静かに紅茶を飲んでいる親友へと視線を向けた。
「ハ、ハンナちゃん!ハンナちゃんからもなんか言ってよ!私、あの時はその……あれだったけど、最初からじゃなかったよね!?」
リィズの悲痛なSOS。だが、ハンナの様子は少しおかしかった。ミハイルが席についてからずっと、彼女はどこか彼の顔を直視できず、ティーカップの縁を指で所在なげになぞっていた。その僅かなぎこちなさに気づき、リィズは不思議そうに小首を傾げて彼女の横顔を見やる。
リィズの視線に気づき、彼女は小さく深呼吸をすると、わざとらしくコホンと咳払いをした。
「……リィズさん。貴女の記憶は、都合よく改竄されているようですね」
「え……?」
「貴女がまだ配属されて間もない頃の食堂で、野菜嫌いのミハイルさんに無理やり人参を突きつけて、「ほら、あーん」と食べさせていたのを忘れたとは言わせませんよ」
「あ……っ!」
ハンナの無慈悲なトドメの一撃に、食堂のあちこちから「あー、あったな!」「あのホフマンが顔を真っ赤にして人参食わされてたやつ!」と更なる爆笑が沸き起こる。
「……つまり、貴女のミハイルさんに対する強烈な執着心とスキンシップの激しさは、最初から何も変わっていなかったということです。……非常に興味深い生態ですね」
「ハ、ハンナちゃんまで意地悪言わないでぇぇぇッ!!」
完全にノックアウトされたリィズは、ついに真っ赤な顔を両手で覆い、隣で笑っているミハイルの背中にすっぽりと隠れてしまった。
「おい、こら、背中に隠れるな。重傷者だぞ俺は」と口では文句を言いながらも、ミハイルは彼女を引き剥がそうとはしない。むしろ、心地よさそうな笑みを浮かべていた。
国家保安省という血も涙もない組織。他人はおろか、身内すらも信じられないこの武装警察軍という組織の中で。今、このテーブルの周りだけは、確かな温かさと、人間らしい笑い声に満ちていた。
ひとしきり笑い声が弾け、宴の熱気が少し落ち着いた頃。ミハイルがふと立ち上がり、首元の包帯を軽く直した。
「ん?おいホフマン、どこ行くんだよ。退院祝いの主役が帰るにはまだ早ぇだろ!」
フェリックスがジョッキを掲げて引き留めようとするが、ミハイルはヒラヒラと適当に手を振り返した。
「悪いな、まだ本調子じゃねぇんだ。……お前らで勝手に盛り上がってろ」
そう言い残し、ミハイルはいつもの気だるげな足取りで、騒がしい食堂を後にした。
残されたテーブル。リィズの視線は自然と、その遠ざかる背中をじっと追いかけていた。心配と、そしてどこか彼を一人にしておきたくないという、無意識の熱がこもった瞳。
それに気づいたルーカスが、面白そうにジョッキを置き、隣のリィズの肩をポンと小突いた。
「……行ってやれよ」
「えっ……?で、でも、ミーシャは休むって……」
リィズはどこか落ち着きの無い、不安そうな表情でルーカスを見やる。
「バカ言え、あいつが大人しくベッドで寝るタマかよ。……多分、屋上だ。いつもの指定席だからな」
ルーカスはニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、出口の方を顎でしゃくった。向かいのハンナも、静かに紅茶を啜りながら小さくコクリと頷いている。二人の無言のエールを受け取り、リィズの顔がパッと明るく輝いた。
「……うん!ありがとう、ルーカスさん、ハンナちゃん!」
リィズは弾かれたように椅子から立ち上がると、ミハイルの後を追って食堂を駆け出していった。
パタパタという小さな足音が扉の向こうへ消えていくのを見送りながら、ルーカスは満足げに笑い、残った合成ビールを飲み干した。
ギィィ……と重い音を立てて、錆びた鉄扉を押し開ける。刃物のように冷たい冬の風が、火照ったリィズの頬を撫でた。夕闇が迫るベルリンの空は、血のように赤く、そしてどこまでも冷たく澄んでいる。
その屋上の片隅、給水塔の裏のフェンス際に、見慣れた背中があった。
「……遅ぇぞ」
ミハイル・ホフマンは振り返りもせず、口にくわえたタバコから紫煙を吐き出した。その声は相変わらず気だるげで、少しだけ掠れている。
「……ミーシャのばか」
リィズはツカツカと足音を立てて歩み寄ると、ミハイルの隣に立ち、ぷくっと頬を膨らませて彼を睨みつけた。
「なんで食堂で、私を庇ってくれなかったの?みんなして私の恥ずかしい過去ばっかり……ミーシャまで一緒に笑ってたじゃない」
「はぁ?なんで俺がそんな面倒くせぇことやらなきゃなんねぇんだよ」
ミハイルは呆れたように片眉を上げ、悪びれる様子もなく言い放った。
「だいたい、あいつらが言ってたことは全部事実だろうが。お前が俺のブーツの紐を結んでたのも、コーヒー飲んでたのもな。……庇う義理がねぇよ」
「うぅ……っ。だ、だからって、あんなに嬉しそうに笑わなくたっていいじゃん……!」
顔を真っ赤にして抗議するリィズを見て、ミハイルは「ふっ」と小さく吹き出し、携帯灰皿にタバコを押し付けた。
「もう……!せっかくミーシャが退院するからって、わざわざ部屋の掃除もしたのに。本棚も、クローゼットも整理して綺麗にしたんだよ?」
ぷりぷりと怒りながら言い放ったリィズの言葉に、ミハイルの動きがピタリと止まった。
「……は?掃除?部屋の整理……俺の?」
ミハイルの顔から、先ほどの余裕のある笑みがスーッと消え去っていく。代わりに浮かんだのは、戦場でBETAの大群と遭遇した時以上の、明らかな焦燥だった。
「い、いや……それはありがたいけどな。……整理って、お前……まさか」
「うん?」
小首を傾げるリィズに、ミハイルは冷や汗を流しながら恐る恐る尋ねる。
「……本棚の中も、クローゼットの中もか?」
「うん。なんかごちゃごちゃ散らかってたから、綺麗にしといたよ?」
「…………ベッドの下もか?」
ミハイルの声が、微かに裏返った。
「うん、なんかいっぱいゴミが落ちてたから、捨てといたよ?」
リィズが事もなげに言い放つ。その瞬間、ミハイルは頭を抱え、文字通りその場に崩れ落ちた。
「アホかお前ええええッ!!あれはゴミじゃねぇよ!!俺のコレクションだ!!」
「だ、だって……!」
リィズは悪びれるどころか、さらに唇を尖らせて、ミハイルをジト目で睨み下ろした。
「私よりずっと胸が大きくて、スタイルのいい女の人ばっかり載ってるから……なんか、すっごくムカついたんだもん!」
そんなリィズに対してミハイルは、まるでおもちゃを取り上げられ、駄々をこねる子供のように喚いた。
「はぁ!?お前、中身見たのかよ!つかムカついたからって捨てるなよ。だいたい、あの色気にお前みたいなガキが対抗できるわけねぇだろうが!?」
「が、ガキ……っ!?」
ミハイルのデリカシーの欠片もないその一言に、リィズの肩がピクリと跳ねた。彼女の顔が、怒りと羞恥で先ほどよりもさらに赤く染め上げられていく。
「紙の上の女の人なんかより、現実にいる女の子を見ればいいじゃない!ミーシャがあんな女の人と付き合えるわけ無いもん!絶対に無理なんだから!」
「はぁ!?なんでお前にそんなこと断言されなきゃなんねぇんだよ!俺だって一応、武装警察軍のエリート将校だぞ!?給料だっていいし、本気出せばあのレベルの女の……!」
「無理無理絶対無理!ミーシャはすぐサボるし、口悪いし、人参残すし、部屋だって私が掃除しなきゃすぐ散らかすじゃん!」
「うっ……!」
リィズの容赦の無い言葉に、ミハイルは言い返そうとするが、全て事実という厚い壁が立ちはだかる。
「あんなスタイルのいい綺麗なお姉さんが、そんなだらしないミーシャの面倒を見てくれるわけないでしょ!絶対に騙されて身ぐるみ剥がされるのがオチだよ!」
「んだと!?お前、俺のことナメすぎだろ!だいたい誰が面倒見てくれって頼んだよ!」
ミハイルがなんとかムキになって言い返すが、リィズは全く引かない。むしろ、さらに一歩距離を詰めて、ビシッとミハイルを指差した。
「私が頼まれてなくてもお世話してあげるの!ミーシャの面倒を文句言わずに見きれるのは、世界中探しても私だけなんだから!だからあんな雑誌は必要ありませんーっ!」
純真な顔のまま無自覚に漏れ出た、あまりにも重すぎる独占欲と正妻宣言。
共に地獄の戦場を生き抜いてきた冷徹な衛士たちの面影などどこにもない。そこにあるのは、秘密のコレクションを捨てられてキレる男子と、それに嫉妬して怒る女子の、ただの子供らしい口喧嘩だった。
ミハイルは絶望と理不尽さに頭を抱え、文字通りその場に崩れ落ちた。
「あー……もう、話が通じねぇ……。ルーカスに土下座して借りたやつまであったのに……俺が苦労して集めた秘蔵のコレクションが……」
「ルーカスさんのだったの!?もう、あの人ったらミーシャに変なもの押し付けて……!今度文句言ってやるんだから!」
「やめろバカ!俺が頼んで借りたんだよ!ああもう……マジで終わった……」
いつもは、気だるげな凄腕の小隊長である彼が、ただの17歳の少年の顔になって崩れ落ちている。
しばらくして、項垂れていたミハイルはようやく立ち上がり、魂が抜けたような深いため息を吐いた。
「……はぁ。まぁいい。生きてりゃまた集められるしな」
「ミーシャ……なんでまだ懲りずに集める気でいるの?」
リィズがジト目で凄むが、ミハイルはフェンスに背を預け、どこか完全に毒気を抜かれたような顔で彼女を見下ろした。
そんなミハイルの態度にリィズはゾッと背筋が凍るような笑みを浮かべた直後、彼の袖をくいっと掴んだ。
「ミーシャには私がいれば十分でしょ?」
その、あまりにも重すぎる純愛と狂気の落差に、ミハイルの背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
(……俺のせいで歪んじまったのかと気に病んでたが……よく考えたらこいつ、元からクソ重てぇ気質だったんじゃねぇか……?)
彼女の根底にある生来の重たさに今更ながら気づき、ミハイルは己の勘違いに深くため息をついた。
「……重ぇよ。お前の面倒見るだけで俺のサボる時間が削られてんのに、これ以上面倒事増やすな」
「むぅ……冗談じゃないのに」
「はいはい、わかったわかった」
ミハイルは適当に受け流しながら、リィズの額を指で軽く弾いた。
「痛っ」と不満げに額を押さえるリィズ。その子供っぽい反応を見下ろしながら、ミハイルの口元に自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
「……やっぱり、今の方がお前らしいよ」
「……え……?」
不意にトーンが変わったミハイルの言葉に、リィズはきょとんとして瞬きをした。
「一年前、お前が道具になるって泣きついてきた時。……お前は感情を殺して、作り物の笑みを浮かべる精巧な人形になっちまった。あの時の、お前の空っぽな顔に比べりゃ……さっきみたいに真っ赤になってギャーギャー怒ってる顔の方が、100倍マシだ」
からかうような言葉尻の中に隠された、不器用な本音。それはリィズをあの尋問室から地獄へと解き放ち。彼女を道具にしてしまった罪悪感と、普通の17歳の少女に戻ってくれたことへの、彼なりの安堵だった。
それに気づき、リィズは膨らませていた頬をスッと元に戻した。
「……ミーシャが、私をあの尋問室から救いだしてくれたからだよ」
真っ直ぐで嘘偽りのない感謝の言葉。それを正面から受けたミハイルは、気まずそうにスッと視線を逸らし、後頭部をガシガシと掻いた。
「……勘違いすんな。俺はお前を自分の代わりに働かせて、サボりたかっただけだ」
そんな不貞腐れるミハイルの姿を、リィズは愛おしそうに見つめた。
「ふふっ。ミーシャってわかりやすいよね」
リィズは一歩距離を詰めると、ミハイルの腕にぎゅっと抱きついた。冷たい風が吹く屋上で、厚い軍服越しにも彼女の温もりがしっかりと伝わってくる。
「……尋問室から出してくれただけじゃないよ。ミーシャは、ここに来てからも……ずっと、私を守ってくれてたでしょ」
私が人殺しの罪悪感に押し潰されそうになった時も、全部自分が泥を被って、私が壊れないように支え続けてくれた。
その不器用で優しすぎる彼に、リィズは腕に頬を擦り寄せながら心からの想いを伝えた。
「私をずっと守ってくれて……本当に、ありがとう」
「っ!?……お前が使えなくなったら困るから。仕方なくカバーしてただけだろうが」
彼はそっぽを向いて、無言でタバコに火をつける。そんな彼の子供っぽい姿を、リィズは笑みを浮かべ、腕に抱きついたまま見つめていた。冷たい風の音が屋上を支配する。
ミハイルの横顔を見つめながら、リィズは彼を掴む手に少しだけ力を込め、ずっと胸につかえていた言葉を紡いだ。
「……それとね。ごめんなさい、ミーシャ」
「あ?」
「私……自分が傷つきたくなくて、人殺しになるのが怖くて。ミーシャの優しさに甘えて、ずっと道具のふりをして逃げてた」
あの雪原の夜。自分の罪悪感から目を逸らすために、理不尽に彼を責め立て、「死んだ方がマシだった」とまで言ってしまった。
「いっぱい八つ当たりして、傷つけて、全部ミーシャに押し付けて逃げてた。こんなズルくて最低な私を……見捨てないでくれて、ありがとう」
ルーカスに怒鳴られて気づいた自分の浅ましさと、エルケに背中を押されて決めた覚悟。リィズは涙声になりながらも、そのすべてを真っ直ぐに懺悔した。
だが、ミハイルは細く紫煙を吐き出すと、呆れたように深いため息をついた。
「バカか。そんな事、気にしてねぇよ」
「でも……っ」
「……ったく。今更しおらしく謝られても、調子狂うんだよ」
そう言いながらミハイルは携帯灰皿に短くなった吸い殻を押し付けると、不意に腕を動かし、自分に抱きついていたリィズの肩をそっと引き寄せ、自らの両腕で彼女の小さな身体をぎゅっと抱きしめ返した。
「え……、ミーシャ……?」
突然の温もりにリィズが小さく目を丸くする。その耳元で、ミハイルの低く、静かな声が響いた。
「あの収容所まで……迎えに来てくれて、助かった。お前があの扉をぶち壊してくれなかったら、俺はきっとあそこで完全に壊れてた」
それは、ミハイル・ホフマンという不遜で怠惰な少年が、初めて見せた明確な弱さであり、偽りない感謝の言葉だった。
「礼を言うのは俺の方だ……ありがとな、リィズ」
その低く、優しい声で名前を呼ばれた瞬間。リィズの胸の奥で、ドクン、と大きく何かが跳ねた。
(あ……)
抱きしめられた腕から伝わってくる、確かな体温。今まで何度も、彼に触れてきた。彼の背中に隠れ、時にしがみついて泣いた。これまでのそれは、孤独な迷子が保護者にすがるような依存であり、見捨てられないための執着だった。
でも、今は違う。彼に守られるだけの子供じゃない。彼を救い出し、対等に隣に立つ人間として、彼に触れている。冷たいはずの冬の風が、少しも寒くない。それどころか、心臓の奥が締め付けられるように熱くて、苦しくて、愛おしい。
(やっぱり私……ミーシャのことが、本当に……大好きなんだ)
あの廃棄工場で、エルケの言葉によって自覚させられたこの熱の正体。それを、リィズは今、彼自身の確かな体温と共に、深く、静かに噛み締めていた。
それは国家保安省という地獄の中で芽生えた、あまりにも不器用で、ひたむきな正真正銘の初恋だった。
リィズは彼の背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。
「……私ね。ミーシャがいない世界なんて、やっぱりいらない」
夕暮れの光を浴びながら、リィズはミハイルの胸に顔を埋めたまま囁いた。
「でもそれは、ミーシャの道具だからじゃないよ。……私が、自分の意思で隣にいたいから」
「……相変わらず、重ぇ女だな」
ミハイルは照れ隠しのように呆れたふりをして、リィズの背中を抱く腕に、少しだけ強く力を込めた。
「ま、お前が自分で決めたなら、勝手にしろ。……俺はこのザマで、当分まともに動けねぇからな。俺の分まで、しっかり働いてもらうぞ」
「ふふっ。うん、任せて」
冷たいベルリンの空の下。初めて彼に名前を呼ばれ、そして「道具にして」と泣きじゃくったこの場所で。リィズはミハイルと共に生きるという願いを、胸に抱いた。
1982年 2月 東ベルリン 国家保安省 武装警察軍本部地下。
コンクリートの壁に反響する軍靴の音が、ひどく耳障りだった。鼻をつく消毒液の臭いと、それを覆い隠せない鉄錆と血の臭気。地下独房エリア特有の淀んだ空気は、何度来ても肌に張り付くようで不快だ。
「……はぁ」
薄暗い廊下を歩きながら、リィズ・ホーエンシュタインは、冷たい声で小さくため息をついた。
かつてこの場所の空気にただ怯え、絶望していた少女はもう居ない。その少女は国家保安省武装警察軍の漆黒の制服を身に纏う、冷酷な将校となっていた。彼女の手には、一冊の薄いファイルが握られている。
『対象:クララ・フィッシャー(17)』
西側への亡命と反体制的な思想を疑われ、連行された少女。かつてリィズと同じ学校に通い、同じ演劇サークルで笑い合っていた、親友の一人だ。
だが、ファイルに記された名前に、リィズの心は全く波立たなかった。彼女がこんな地獄に引きずり込まれたというのに、悲しみも、同情も、一切湧いてこない。
(私……何も感じてない)
自分でも驚くほど、心が何も感じていないことに気付く。
リィズの足取りに迷いはなかった。彼女自身、この地下牢で心を壊しかけたところを、一人の少年に拾われた。彼が自分のために罪を被り、血塗られた道を作ってくれたからこそ、今の自分がある。
国家への忠誠心など欠片もない。だが、彼のためならどんな汚れ仕事だろうと完璧にこなしてみせる。彼女の望みはただ一つ。例え何があろうと、大好きな彼の隣に居続ける。それだけだ。
「マニュアル通りなら……自白の強要と共犯者の洗い出しか。……大丈夫。今の私なら、完璧にやれる」
彼女は一度だけ深呼吸をし、かつての弱かった自分を心の奥底へと沈め、冷酷な国家保安省の将校としての仮面を被り直す。
そして、重厚な鉄の扉の前で足を止め、電子ロックのパネルに手を伸ばしかけて――ふと、その動きをピタリと止めた。
視線の先にある、鉄扉に刻まれた見覚えのある小さな傷と、無機質な部屋番号。
(……ここ。私が、捕まっていた部屋だ)
幻痛のように、剥がされた爪の先が微かに疼く。だが、不思議と恐怖はなかった。代わりに彼女の胸を満たしたのは、静かな温かさと、一つの疑問だった。
(あの時……どうしてミーシャは、私なんかを助けてくれたんだろう)
何の価値もない、ただ怯えて泣くことしかできなかった亡命未遂者の娘。彼がサボるために、楽をするために、そんな自分を拾うメリットなど、あの怠惰で合理的な彼には一つもなかったはずだ。下手をすれば自分の首が飛ぶこの地獄の底で、彼は自ら血を被り、私を引っ張り上げてくれた。その理由は、今でも分からない。
(……いつか、ちゃんと教えてくれるかな)
リィズは小さく、けれど愛おしそうに微笑むと、今度こそ迷いなく電子ロックを解除し、かつての自分が泣き叫んでいた、冷たい部屋へと足を踏み入れた。
強烈なスポットライトの下、パイプ椅子に縛り付けられた少女が、怯えたように顔を上げる。
「……あ……」
クララの瞳が、漆黒の軍服を着たリィズを捉え、驚愕と希望に見開かれた。
「リィズ……!?嘘、生きてたの!?良かった……お願い、助けて!私、何もしてないの!なのにいきなり連れてこられて……っ!」
必死にすがりつこうと鎖を鳴らすかつての親友。一緒に舞台で演技をし、放課後に他愛のない話で笑い合ったあたたかい日々。怯えて泣きじゃくるその姿に、リィズは学生時代の自分を重ねていた。
(ああ……本当に、どうでもいいんだ)
リィズは、自分自身の心が微塵も揺れ動かないことを、ひどく冷静に自覚した。
(私、本当に変わっちゃったんだ。……もう、お兄ちゃんが知ってる泣き虫で守られるだけの義妹じゃない)
優しい義兄が命懸けで守ろうとした、西側の平和な世界を夢見る、優しくて普通の女の子。その魂は、きっとこの薄暗い独房と、初めて同胞を撃ったあの雪原で完全に死んでしまったのだ。
しかし、不思議と悲しみや喪失感はなかった。それどころか、リィズの胸の奥からは、身震いするほど甘く熱い歓喜が込み上げてくる。
(嬉しい……。きっと、あのままの私だったら、絶対にミーシャの隣には立てなかった)
過去を捨て、優しさを捨て、人間らしさを捨てた。それらを代償として、彼女はヴェアヴォルフの衛士という最強の牙を手に入れたのだ。
ただ守られ、足手まといになるだけの哀れな被害者ではない。今の自分は、最愛のミーシャと背中を合わせ、共に血みどろの地獄を歩いていける対等な人狼だ。
(ミーシャ。……私、あなたの隣に立つために、自分の力でここまで這い上がったよ)
ようやく掴み取ったこの新しい牙が、彼と共に歩む覚悟を持った今の自分が、彼女は嬉しくて、誇らしくてたまらなかった。
「……久しぶりだね、クララ」
喜悦に震える心を完璧に隠し通し、リィズは、背筋が凍るほど美しく、そして絶対零度の微笑みを浮かべた。
「助けて、か。……ふふっ、何言ってるの?」
「え……リィ、ズ……?」
絶望と混乱に顔を歪める親友を見下ろしながら、リィズはコンバットナイフを抜き放ち、その冷たい刃の腹で彼女の頬を優しく撫でた。
「ねぇ、自分の立場わかってる?あなたは囚人で私は国家保安省なんだよ。……だから、早く亡命の計画について知ってることを全部教えてくれないかな?」
もはやかつての弱く優しい少女はどこにもいない。そこに居るのは、愛する彼のためなら過去すらも無慈悲に切り捨て、国家保安省の犬として振る舞う、美しくも狂気的な人狼の姿だった。