大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1981年 冬 国家保安省 武装警察軍 戦術機大隊ヴェアヴォルフ 本部格納庫
黒く染め上げられたMiG-23チボラシュカが並ぶ、広大な格納庫。
その一角で、ミハイルは腕組みをして、壁に寄りかかっていた。
周囲には、漆黒の強化装備に身を包んだ部隊員たちが整列している。張り詰めた空気。誰も無駄口を叩かない。これが、東ドイツが誇る、武装警察軍最強の戦術機大隊の日常だ。
(……あーあ。今日もベアトリクス様の説教か?胃が痛ぇ……)
ミハイルが内心で毒づいていると、重厚な足音が響いた。現れたのは、部隊指揮官であるベアトリクス・ブレーメ大尉。そして、その背後には一人の新しい衛士が付き従っていた。
「……総員、傾注」
ベアトリクスの声が響く。背後の少女が一歩前へ出る。ミハイルは目を見開いた。いや、来ることは予期していたが、実際にその姿を見ると、口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
「本日付で本隊に配属となった、リィズ・ホーエンシュタイン少尉だ」
「リィズ・ホーエンシュタイン少尉であります!国家保安省の威信と祖国の勝利のため、この身を捧げます!」
完璧な敬礼。凛とした声。表向きは、1年前のトラックで震えていた少女の面影はない。だが、その軍服の下では、周囲の冷酷な視線に晒される恐怖で冷や汗を流し、指先が白くなるほど拳を握り込んでいた。今にも悲鳴を上げて逃げ出しそうな心を繋ぎ止めているのは、視界の端にミハイルの姿があるからだ。ベアトリクスは満足げに頷くと、鋭い視線をミハイルに向けた。
「ホフマン中尉」
「はッ」
「貴方が推薦した素材よ。……第8小隊に組み込むから。面倒を見るように」
「……了解しました」
ミハイルは無表情を装って答えた。ベアトリクスが去り、解散の号令がかかる。隊員たちが散っていく中、ミハイルはゆっくりとリィズに近づいた。
「……よう、新人。ヴェアヴォルフにようこそ」
その気だるげな声を聞いた瞬間。リィズの中で、1年間張り詰めていた地獄の糸がぷつりと切れ、堪えきれない感情が溢れ出した。
「ミーシャ……っ!」
彼女は嬉しさのあまり、周囲の目も忘れて思わずミハイルの元へ駆け寄ってしまった。だが。
「……おいおい、ここは訓練所じゃねぇんだぞ」
ミハイルの声は、氷のように冷たく、一切の感情を排した拒絶を孕んでいた。
「ホフマン中尉って呼べ。ホーエンシュタイン少尉」
ピタリと、リィズの足が止まる。
ハッとして周囲を見渡せば、散り際の大隊員たちが、冷酷で無機質な、あるいは嘲るような視線を新人の彼女に向けていた。
「っ!……失礼しました。ホフマン中尉」
「とりあえずお前のMiG-23を受領してこい。0900に第3格納庫に向かえ、整備班にはもう話をしてある」
周囲の目があるため、会話はこれだけだ。だが、すれ違いざま、リィズの指先がミハイルの手に一瞬だけ触れた。それは「あとでね」という、二人だけの秘密の合図だった。
同日 深夜 基地屋上
雪の降るベルリンの夜景は、どこまでも暗く、冷たい。ミハイルがフェンスに寄りかかってタバコを吸っていると、錆びたドアが開く音がした。
「……遅ぇぞ」
「申し訳ありません、ホフマン中尉。第8小隊、リィズ・ホーエンシュタイン少尉、ただいま到着いたしました」
抑揚のない、完璧な軍人としての報告。リィズは直立不動で敬礼していた。その顔は緊張で青ざめ、ガチガチに強張っている。
ミハイルはゆっくりと振り返り、その生真面目すぎる姿を数秒間じっと見つめた後――。
「……っ、ぶはっ!アハハハハッ!」
突然、タバコを咥えたまま腹を抱えて盛大に吹き出した。
「えっ……?ちゅ、中尉……?」
「あー、腹痛ぇ……っ!お前、何だその顔!ガチガチじゃねぇかよ!」
「だ、だって……昼間、あんなに冷たく「ホフマン中尉と呼べ」って言うから……!私、怒られたと思って、一日中ずっと気を張って……!」
涙目になりながら笑い転げるミハイルを見て、リィズは戸惑ったように目を白黒させた。
「あー、あれな。お前があんな嬉しそうに駆け寄ってくるから、ついからかいたくなってよ。……てかお前、今日他の連中にはどう接された?」
「え……?」
ミハイルに問われ、リィズは昼間の部隊員たちとのやり取りを思い返す。
「ま、新兵は気楽にやれよ」「そんなガチガチに緊張してたら、息が詰まらない?」と、思い返せば先輩の衛士たちは皆、拍子抜けするほどフランクだった。
「ここはあの糞みたいな訓練所じゃねぇんだ。やることさえやってれば、無理に取り繕う必要はねぇよ」
意地悪にニヤニヤと笑うミハイルを見て、リィズは自分が完全に遊ばれていたことにようやく気付いた。
「……いじわる」
リィズは抗議するように小さく呟くと、ムスッとして頬を膨らませ、ジト目を向けた。
「ははっ、悪い悪い」
ミハイルは全く反省していない様子で肩をすくめると、ふぅと細くタバコの煙を吐き出した。すると、リィズはほんの少しだけ不安げに、上目遣いで彼を見つめ直した。
「……じゃあ、また……ミーシャって、呼んでもいい?」
昼間の冷たい態度がまだ少しだけ心に残っているのか、恐る恐る確認するように尋ねるリィズ。ミハイルは呆れたように息を吐いた。
「今さらだろ、好きに呼べよ」
その言葉を聞いて、リィズの不満げだった顔がパッと明るくなる。彼女はミハイルの隣にすがりつくように並び、彼のタバコの匂いを肺の奥まで吸い込んで、ようやく強張っていた身体の力を完全に抜いた。
「……ここは居心地が悪いか?」
リィズは懐かしむように懐からあのボロボロの手帳を取り出した。それは1年前よりも更にボロボロになり、血と泥で薄汚れている。けれど、大切に扱われていたことが分かる艶があった。
「ううん、あの訓練所に比べたら全然まし。ありがとう……これ、すごく役に立ったよ。特にボイラー室の隙間」
リィズは悪戯っぽく微笑んだ。
「あそこ、本当に暖かかった。……辛い時はいつも、あそこに隠れてこの手帳を読んでたの。ここに書いてあるミーシャの悪口みたいなメモを見て、一人で笑ってた」
「……悪口じゃねぇよ。業務改善の提案だ。……てか、物持ちのいい奴だな。そんな汚ぇもん、まだ持ってたのか」
「私の命綱だもん。捨てられるわけないでしょ」
リィズは手帳を大切そうに胸に抱いた。そんな彼女の様子にミハイルは苦笑し、ふと気だるげな表情を少しだけ引き締めた。
「……よく戻ってきたな。そんな地獄を乗り越えたお前に、俺からとびっきりの合格祝いをやるよ」
「合格祝い?……なに?」
リィズが不思議そうに小首を傾げると、ミハイルは真っ直ぐに彼女の目を見て告げた。
「お前の義兄、テオドール・エーベルバッハは生きてる」
ミハイルはタバコの煙を吐き出しながら、そう口にした。
「……本当?」
「ああ、間違いない。……奴は今、国家人民軍の第666戦術機中隊っていう部隊にいる。しぶとく生き残ってるみたいだぜ」
「……そっか。よかった」
リィズは心底ホッとしたように、夜空を見上げた。
「生きててくれてよかった。……死なれちゃうより、ずっといい」
(……こいつ、本当に兄貴のことが好きなんだな)
ミハイルは、彼女の歪みなくらい純粋な愛情に、呆れつつも感心した。義兄が尋問に屈した事実すら、裏切り者と揶揄することなく、生きていればそれでいいと肯定する。その強さが、彼女を地獄から生還させたのだろう。
「……ま、お前がそう思うなら、それでいいんじゃねぇの」
「うん。……いつか、会えるかな?」
リィズはそう言いながらも、胸に抱いた手帳をぎゅっと握りしめた。義兄に会いたい。でも、あの暗闇の底で自分を救ってくれたのはお兄ちゃんではなく、目の前の少年だ。
「さぁな。……俺たちがここで生き残り続ければ、いつか前線で一緒になるかもしれねぇ。それまでは、せいぜい生き残ることだ」
ミハイルはタバコの灰を携帯灰皿に落とし、意地の悪い笑みを浮かべた。
「……それまで死ぬなよ?ホーエンシュタイン少尉。お前に死なれたら俺の負担が増える」
「もちろん。……ミーシャだってちゃんとしてよ?私と同じ分隊なんだから」
リィズはミハイルに向き直り、ニカっと笑った。
「お兄ちゃんに会えるその日まで……ううん、会った後もずっと。私はミーシャの隣で戦うよ」
「……やっぱり変わったやつだよ、お前は」
ミハイルは呆れたように肩をすくめ、タバコの吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。雪が強くなってきた。そろそろ戻らなければ、体が凍りついてしまう。ドアノブに手をかけた時、リィズがミハイルの袖をクイっと引いた。
「……あ、そうだ。もう一つだけ」
「あ?なんだよ。まだ何かあんのか?」
ミハイルが振り返ると、リィズは少しだけ拗ねたような、それでいて期待を込めた上目遣いで彼を見ていた。
「……ミーシャって私のこと、名前で呼んでくれないよね」
「は?」
「尋問の時はいつもお前って呼ばれてたし、ここに来てからも、お前とかホーエンシュタイン少尉ばっかり。……私にはリィズって名前があるんだけど」
言われてみれば、確かにそうだ。1年前の尋問の時も、訓練所へ送る時も、そして再会した今日も。
ミハイルは彼女を対象や役職、あるいはお前という記号でしか呼んでいなかった。それは無意識のうちに自らが引いていた、看守と囚人の境界線だったのかもしれない。
「……尋問中に名前でなんて呼べるわけねぇだろ?あと、業務上は階級で呼ぶのが規則だ」
「今はもう尋問じゃないもん……それに、名前で呼んじゃダメなんて規則、無いでしょ」
リィズは一歩近づき、ミハイルの目を覗き込んだ。
「……呼んでよ、ミーシャ。……私の名前」
それは、甘えのようでいて、切実な願いだった。両親を失い、義兄と離れ、国に番号で管理される彼女にとって、ミハイルに名前を呼ばれることは、私が私であることの証明なのだ。
ミハイルは数秒間、面倒くさそうに頭をかいた。この娘のこういう押しに弱いことを、彼は自覚し始めていた。
「……はぁ。めんどくせぇ」
彼は大きなため息をつくと、観念したようにボソッと言った。
「……よく耐えて戻ってきたな。おかえり……リィズ」
ぶっきらぼうで、低く、少し照れくさそうな声。それを聞いた瞬間、リィズの顔が花が咲いたように輝いた。
「うん!……ありがとう、ミーシャ」
彼女は嬉しそうに駆け出し、ミハイルの隣に並んだ。
ただ名前を呼んだだけ。それだけのことなのに、二人の間の空気が少しだけ温かく、柔らかいものに変わった気がした。
雪の降る暗い基地の屋上。二人の肩は触れ合うほど近くにあった。二つの足音は、ぴったりと重なって温かい屋内へと消えていった。
1981年 冬 オーデル・ナイセ川流域絶対防衛線 フランクフルト・アン・デア・オーデル要塞陣地 ブリーフィング・ルーム
タバコの煙と、電子機器の排熱が混ざり合った独特の臭気。薄暗い部屋の中央に浮かび上がった戦術マップは、絶望的な赤色で埋め尽くされていた。
「先ほど司令部が、オーデル川東岸にBETA群の集結を確認したわ。数は推定2万以上」
壇上に立つベアトリクス・ブレーメ大尉の声は、氷のように冷徹だった。ざわめき一つ起こらない。ここにいるのはヴェアヴォルフ大隊の衛士たちだ。2万という数字を聞いても、眉一つ動かさない。
「確認されている種別は突撃級、戦車級、要撃級、要塞級。そして後方には光線級の展開も確認されているそうよ」
ベアトリクスが指示棒でマップを叩く。
「今回の作戦は、国家人民軍、第2戦術機連隊によるレーザーヤークトの支援。彼らが側面から迂回し、光線級を排除するまでの間……私達はBETA本隊の進行を正面から受け止める」
つまり、壁になれということだ。味方が光線級を排除するまで、2万のBETAを足止めする。一歩でも下がれば、後方の都市が焼かれる。全滅すれば、迂回中の友軍が孤立する。文字通りの死守だ。
「各中隊の配置を通達する」
ベアトリクスがマップ上の駒を動かす。
「第2中隊は左翼、オーデル川沿岸部に展開。水際での侵入を阻止しなさい。第1中隊は右翼、および遊撃戦力として予備配置。各戦線の支援に回すわ」
そして、彼女の指示棒がマップのど真ん中、最も敵の圧力が高まる死地を指した。
「第3中隊は中央最前列。BETA主力の進撃を真正面から受け止め、これを撃破」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。中央。それは、敵の津波を一身に浴びる防波堤の役目だ。生存率は極めて低い。
「……うわぁ、マジかよ」
部屋の隅、パイプ椅子に座っていたミハイル・ホフマン中尉は、誰にも聞こえない声量で毒づいた。
「2万相手に正面衝突?正気じゃねぇな。……リィズ、遺書は書いたか?」
「……書いてないよ。ミーシャが死なせないって信じてるから」
隣に座るリィズはミハイルの横顔だけを見つめて即答した。その瞳に迷いはない。あるのは盲目的な信頼だけだ。
「……重いんだよ、お前」
ミハイルがため息をついた。その時だった。
「ふふっ。相変わらず、ミハイルには可愛げが無いね」
背後から、鼓膜を直接撫でるような甘い声がした。足音など一切なかった。気づけば、ミハイルの首筋、頸動脈の真上に、氷のように冷たい指先がそっと添えられていた。
「……ッ!」
反射的に身体を強張らせるミハイルの肩越しに、長い赤髪が滑り落ちる。振り返らずともわかる、ヴェアヴォルフ大隊第3中隊隊長、エルケ・アオスト大尉だ。
「……ゲッ。アオスト大尉。気配くらい消さずに歩いてくださいよ。寿命が縮みます」
「ゲッ、は失礼じゃないかな?せっかく最前線の特等席を用意してあげたのに」
エルケはミハイルの目を見ない。彼女の視線は、指先が触れているミハイルの首筋の脈動を、まるで面白い実験動物を観察するように見つめていた。
「今回の配置、第3中隊はミハイルも聞いた通りの特等席だよ。……君の第8小隊には、一番おいしい場所を任せるね」
「……勘弁してくださいよ、大尉。俺は後方で整備班の手伝いをしてたいんですがね」
ミハイルはいつもの気だるげなサボり魔の顔を作ってため息をつく。だが、エルケはさらに顔を近づけ、ミハイルにしか聞こえない声で耳元に囁いた。
「……怠け者の中尉を演じてる方が、国家保安省の目をごまかしやすいでしょ?優秀すぎると、色々と面倒な汚れ仕事を押し付けられちゃうもんね」
「……!」
ミハイルの背筋に、本物の冷たい汗が走る。完璧なカモフラージュであるはずの自分の生存戦略を、この女は初めから全て見透かしているのだ。それでいて、上層部に報告する気配もなく、ただこの状況を楽しんでいる。
エルケは微かに強張ったミハイルの反応に満足したのか、ふわりと身体を離し、今度はリィズへと視線を移した。蛇が獲物を品定めするような、それでいてどこか愛おしむような、ひどく無機質な瞳。
「綺麗な目。……でも、自分では歩けないお人形の目だね」
「え……?」
突然の言葉に、リィズが戸惑ったようにミハイルとエルケを交互に見る。
「見せてほしいな。ミハイルが拾ってきたその子が、どれだけの牙を持っているのかを。……ミハイルの糸が切れたら、どうなっちゃうのかな?」
「悪趣味ですよ、大尉。いきなり最前線なんて……もしかして、大隊長の指示ですか?」
「さぁ、どうだろうね?……でも、期待してるよ、ミハイル。私の部下を死なせたら、地獄の底まで追いかけて減給処分にするから、覚悟してね?」
エルケはそう言って正面のモニターへ視線を戻した。その優雅な所作は、死地に向かうというより、夜会にでも出かけるような軽やかさだった。
「……食えねぇ人だ」
「ミーシャ。……あの人、苦手?」
リィズが小首をかしげる。
「苦手っていうか……全部見透かされてる気がしてやりづれぇんだよ。……はぁ、これでサボりは不可能になった」
ミハイルは頭をガシガシとかいた。その時、壇上のベアトリクスが声を張り上げた。
「作戦開始は明朝0800。……祖国のために死ぬ必要はないわ。ただ、目の前の敵を殺しなさい」
彼女の眼光が、隊員たちを射抜く。
「私達は人狼。祖国の敵を喰らい尽くす、唯一の牙であることを忘れないで。……総員、解散」
「「「了解!!!」」」
一斉に起立し、軍靴の音を響かせる衛士たち。その熱気の中で、ミハイルだけが気だるげに立ち上がり、リィズの背中をポンと叩いた。
「……行くぞ、リィズ」
「うん。……行こう、ミーシャ」
二人は並んでブリーフィング・ルームを出る。その先には、銀色の雪原と、それを赤く染める2万の絶望が待っていた。
1981年 冬 オーデル・ナイセ川流域 第3防衛線上空
「第3防衛線、突破された!奴らが来る!奴らが中に入っ……ギャアアアアッ!!」
無線から聞こえる断末魔は、ノイズと共に唐突に途切れた。強化装備に締め付けられた身体は、極度の緊張で鉛のように重い。機体のアイドリングに伴う微細な振動が、シート越しに背骨へと直接伝わってくる。自身の荒い呼吸音だけが、管制ユニットの中で異様に大きく響いていた。網膜投射された映像に映し出されるのは、白銀の世界を埋め尽くす不気味な赤と黒の奔流。BETA、人類の敵。
突撃級が進路上の障害物を穿ち、要撃級が逃げ惑う味方をその剛腕で切り払う。それは戦争ではない。一方的な捕食であり、解体作業だった。
「はっ……、はっ……、くっ……!」
リィズ・ホーエンシュタイン少尉、呼出符丁ヴェアヴォルフ31の呼吸は浅く、早くなっていた。
戦場はシミュレーターと何もかも違った。振動、G、そして何よりも、身体に纏わりつく様な死の臭い。
高解像度のカメラは、先行していた友軍のMiG-21が無残に引き裂かれ、中から引きずり出された衛士が戦車級に食われる瞬間を鮮明に映し出していた。
(死ぬ……私も、あんな風に……)
恐怖で指が震え、操縦桿を握る手に力が入らない。
眼下に広がる雪原に今から自分も行くと思うと、身体が言うことを聞かなくなる。行きたくない、まだ、死にたくない。そう思った時だった。
『――総員、傾注』
ノイズ混じりの無線を切り裂く、絶対零度の声が響いた。ヴェアヴォルフ大隊指揮官、ベアトリクス・ブレーメ大尉の声だ。
『これより、我がヴェアヴォルフ大隊は害獣の駆除を開始する。まずは防衛線を立て直す。大隊各機、陣形をアローヘッド・ワンに展開し突入。正面先頭の突撃級集団を撃破する』
雪煙を裂いて現れたのは、漆黒のMiG-23チボラシュカが36機からなる大部隊。その先頭に立つ指揮官機、ヴェアヴォルフ01を先頭に、楔型の陣形をとった。リィズも少し遅れて、ミハイルの横にポジションを取る。
『祖国を汚す下等生物どもに、慈悲は無用。……人狼達よ』
彼女の声が、戦場の空気を一変させる。恐怖から、狩猟へ。
『……狩りの時間よ。一匹残らず、喰い殺しなさい』
『『『了解!!!』』』
号令と共に、黒い狼の群れが突撃級を正面から食い破った。その中の一角、第8小隊を率いる小隊長機の通信が開いた。
『……あー、こんなの予定にないぜ。まったく、大隊長は相変わらず人使いが荒いことで』
気だるげな、戦場には似つかわしくない声。ヴェアヴォルフ08、ミハイル・ホフマン中尉だ。彼はため息交じりに、しかし的確に部下たちへ指示を飛ばした。
『こちらヴェアヴォルフ08。これより俺達第8小隊は左翼の喰い残しを掃除する。……ヴェアヴォルフ32、33。お前らは分隊を組んで後方から支援砲撃。無理に突っ込むなよ、死なれたら報告書を書くのがめんどくせぇ』
『あいよ!』『わかりました』
2機の漆黒の機体が散開し、敵陣へ突っ込んでいく。ミハイルは残った僚機、硬直しているリィズの機体へと機首を向けた。
『……で、31。大丈夫か?』
その瞬間、リィズはハッとする。そして、ここが戦場の真っ只中で、その最前線に居ることを再認識させられた。
『……ッ!ミーシャ……!』
『本当は、無理をするなって言ってやりたいんだけどな。……とにかく動け、俺の後に付いてこい。でないと死ぬぞ?』
その声を聞いた瞬間、リィズの脳裏から死の恐怖が消え去った。代わりに、ある一つの回路がカチリと接続される音を聞いた。
(……ミーシャの声だ)
彼の機体が動く。無駄のない、生存に特化した動き。それを見てリィズは考えるのをやめた。
恐怖も、戦術も、個人の判断も全て捨てる。ただ、目の前のミハイルをなぞる。それだけに意識を集中させた。
『……31、俺と分隊を組め。背中は守ってやる』
「……了解」
リィズの瞳からハイライトが消え、冷徹な機械のような光が宿る。
(思考はいらない。考えるから怖くなるんだ。……私はミーシャの影を演じる。彼が右へ飛べば右へ、左へ跳べば左へ。その軌跡を完璧になぞるだけでいい。これはお芝居と同じ。彼の完璧な半身になりきるだけ。それだけが、この地獄という舞台で許された唯一の生きる道だ)
ミハイルが左へ噴射跳躍すると同時に、リィズは鏡写しのように右へと跳んだ。
「……邪魔」
リィズは感情のない声で呟き、引き金を引いた。ミハイルの射撃リズムと完全に同期した弾幕。
二機のMiG-23が交差するたび、BETAの群れが肉片へと変わっていく。初めて引いたそのトリガーは、不思議なほど、リィズの手に馴染んだ。
『32、33!左から戦車級が抜けたぞ、撃ち殺せ!』
『言われなくてもやってる!……ッ!数が多すぎる!』
『チッ……泣き言を言ってんじゃねぇ32。おい31、援護するぞ』
ミハイルが機首を振る。リィズは即座に反応し、彼の射線の死角を埋めるように36mmの弾幕を形成する。弾幕が止むと、仲間たちを押しつぶそうとしていたBETAの波は肉片に変わっていた。
『……助かった!』
『一つ貸しだ』
言葉はいらない。ミハイルが小隊全体を動かし、リィズはミハイルの動きを、ただなぞり、追いかける。それは連携と呼ぶにはあまりに異質だった。かつて舞台の上でヒロインを夢見た少女が、生き延びるためにミハイル・ホフマンの完璧な影という役を演じきっているかのような、狂気的なまでの同化だった。
大隊が通過した後には、BETAの死肉と友軍機の残骸のみが残された。進行していたBETAの先鋒は全滅し、崩壊しかけていた防衛線が立て直される。
『ヴェアヴォルフ01より、大隊各機。前菜はここまでよ、そろそろメインディッシュが来るわ。全機、配置に着きなさい』
「「「了解!!!」」」
一斉にスラスターが噴射され、ヴェアヴォルフ大隊が迎撃隊形へと移行する。ミハイル率いる第8小隊も、指定された最前列中央のポイントへと機体を滑らせた。一時の静寂。張り詰めていた糸が、ふっと緩む瞬間、ミハイルの小隊も例に漏れず通信機から声が響いた。
『……ふぅ。肝が冷えました』
無線を開いたのは、先ほど窮地を救われた小隊員、打撃支援のヴェアヴォルフ33だった。
まだあどけなさの残る、しかし落ち着いた理知的な少女の声だ。丁寧な敬語が、逆に彼女の若さと冷静さを際立たせている。
『08、迅速なカバー感謝します。……それに、31』
『……え?』
突然自分の呼出符丁を呼ばれ、リィズはビクリと肩を震わせた。怒られるのか、そう身構えた時、聞こえてきたのは意外な言葉だった。
『……ごめんなさい。訓練校上がりの新任少尉だと思って侮っていましたが……あの連携、見事でした』
それに続き、もう一機の僚機、強襲掃討のヴェアヴォルフ32が陽気な声を上げる。
『全くだぜ!あの08の変態機動に、コンマ1秒の遅れもなく追従するなんてよぉ……どういう反射神経してんだ?俺なら最初のターンでゲロ吐いて振り落とされてるぜ』
『言葉が汚いですよ、32』
通信越しに、33が静かにたしなめる。そして再びリィズへと真摯な声を向けた。
『……ですが、私も32と同意見です。背中を預けるに足る腕でした。……助かりました、ありがとうございます』
理知的な少女からの、真っ直ぐな敬意。そして軽い男からの、飾らない称賛。死地を共に潜り抜けた者だけが共有できる、連帯感。
ヴェアヴォルフという群れに、リィズが同族として受け入れられた瞬間だった。
『……あ、うん。……どういたしまして』
リィズは戸惑ったように短く答えた。他人に褒められても、彼女の心は凪いだままだ。すると、今まで黙って聞いていたミハイルが、呆れたように割り込んできた。
『……はっ。情けねぇこと言ってんじゃねぇよ、お前ら』
『うおっ、08。なんだ、起きてたのかよ』
『こんな状況で寝れるかっての。……まったく、お前らがドジ踏むから、俺の貴重な休憩時間が削られたんだぞ。31を見習え。余計なこと考えずに動くから燃費がいい』
ミハイルは悪態をつきながらも、その声色は決して怒っていない。むしろ、優秀な新人を自慢するような、どこか楽しげな響きすらあった。
『ふふ、手厳しいですね。08のお気に入りは優秀で羨ましいです』
『次は俺たちも、08に楽させてやるよ』
『おう、期待してるぜ。……俺はサボれるなら、それに越したことはねぇからな』
ミハイルはフンと鼻を鳴らし、最後にリィズへ声をかけた。
『……おいリィズ。褒められてニヤニヤすんなよ?』
『……あ、ご、ごめんなさい』
『ははっ、冗談だ。……新兵が最初の交戦で死ぬ平均時間は8分。通称、死の8分だ』
ミハイルの声色が、少しだけ真面目なトーンに変わる。
『お前はそれを乗り越えた。運じゃなく、実力でな。……ま、良くやったな、リィズ』
ミハイルのその一言を聞いた瞬間。リィズの胸の奥で、カッと熱いものが込み上げた。他人の称賛などどうでもいい。ただ、彼に「良くやった」と言われることだけが、今の彼女の全てだった。
『だが、調子に乗ってすぐ死んだら、俺の負担が増えるからな。……気を抜くなよ』
『……ふふ。うん、わかってる。ありがとう、ミーシャ』
『礼はいらねぇよ。……ほら、無駄口はそこまでだ。仕事が来るぞ』
静かになった管制ユニットの中で、リィズは小さく、けれど誇らしげに口元を緩めた。ぎゅうと手を握りしめ、リィズは来るべき次の地獄へ向け、その瞳を再び冷徹な光で満たした。