大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
同日 夜 国家保安省 武装警察軍 本部食堂
格納庫での整備と書類仕事を終えた第8小隊の4人は、すっかり人の少なくなった夜の食堂に席を取っていた。
テーブルの上に並べられたのは、味気ない合成肉の煮込みと、代用パン、そして薄いスープという代わり映えのしない遅めの夕食だ。
リィズは時間が経ち、硬くなったパンを少しずつ千切ってスープに浸しながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、ミーシャ」
「ん?」
代用コーヒーを不味そうに啜っていたミハイルが、気だるげに視線を向ける。
「ヴァーグナー中尉に第1中隊と第2中隊のことは教えてもらったけど……私たちのいる第3中隊って、部隊としてはどんな感じなの?」
その問いに、ミハイルは「あー……」と少しだけ天井を見上げてから、手元のフォークで宙を指した。
「一言で言えば、対BETA戦における、切り込み隊だな。一番最初に最前線に放り込まれて、敵陣に風穴を開けるのが俺たちの仕事だ。生存率は大隊の中でも一番低い」
「切り込み隊……」
「そうだ。だから集まってる連中も、どっかぶっ飛んでる奴が多くてな……」
ミハイルは合成肉を口に運びながら、面倒くさそうに言葉を続けた。
「うちの第8小隊以外の連中が極端なんだよ。アオスト大尉は別だが、第7小隊の奴らは、暇さえあればギャンブルや喧嘩ばっかりしてるようなガラの悪い連中ばかりだしな。かと思えば、第9小隊の連中はやたらと規律やマニュアルにうるさい、クソ真面目でお堅い連中ばかりだ。……どいつもこいつも偏りすぎてて、正直やりづらくてしょうがねぇよ」
自分のサボり癖や勤務態度の悪さを完全に棚に上げ、やれやれと肩をすくめて深い溜息をつくミハイル。
そのあまりにも見事な自己認識の欠如に、向かいの席に座っていたルーカスとハンナの動きがピタリと止まった。だが、二人より先に口を開いたのはリィズだった。彼女は目を瞬かせ、少し呆れたような、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべてミハイルの顔を覗き込んだ。
「……それって、周りが極端なんじゃなくて、ミーシャが不真面目すぎるだけじゃないの?」
「はぁ?」
ミハイルが心外だと言わんばかりに眉をひそめるが、リィズは全く怯まずに人差し指をビシッと突きつけた。
「だってミーシャ、いっつもサボることばっかり考えてるじゃない。第9小隊の人たちから見たら、ミーシャの方がよっぽどやりづらいよ」
「俺は効率よく生きてるだけだ。無駄な労力を省いてるんだよ」
「それにね」
言い訳を遮り、リィズはさらに身を乗り出した。
「ミーシャだって、いっつも目付き悪いし、口調だって乱暴だし……十分ガラが悪い部類に入ると思うよ?第7小隊の人たちのこと、全然言えないと思うな」
リィズの容赦のない、しかしド正論のツッコミ。
その瞬間、耐えきれなくなったルーカスが「ブフッ!」とスープを吹き出し、腹を抱えて大爆笑した。
「ハハハッ。違いねぇ!リィズちゃんの言う通りだぜ」
「ルーカスさん、食堂では静粛に。……ですが、リィズさんの意見は完全に事実に基づいていますね」
ハンナも静かに口元をナプキンで拭いながら、眼鏡の位置をクイッと押し上げた。
「客観的に見ても、ミハイルさんの勤務態度は明らかに不真面目であり、言動や風紀の観点から見てもガラが悪いに分類されます。ご自身のことを棚に上げすぎかと」
「お前らなぁ……っ!」
リィズのド正論なツッコミと、それに便乗したルーカスとハンナの容赦ない追撃。完全に四面楚歌となったミハイルが気まずそうに舌打ちをした、まさにその時だった。
「ガハハハッ!まったくだぜ、お嬢ちゃんの言う通りだ!」
背後から、ルーカスにも負けない豪快な笑い声が響いた。
リィズが驚いて振り返ると、そこには対照的な雰囲気を持つ二人の男性将校が立っていた。
一人は軍服のボタンを開け、いかにもガラの悪そうなニヤニヤとした笑みを浮かべる男。もう一人は、軍服を一番上のボタンまでキッチリと留め、神経質そうに眉間へ皺を寄せている男だ。
「おいおいホフマン、自分のことを棚に上げるのも大概にしろよ。お前だって、よく俺たちのところにきてポーカーで小銭巻き上げてるじゃねぇか。……なぁ、ルーカス?」
「ああ、こいつのイカサマとブラフには、俺たちいっつも泣かされてるんだぜ?」
「おいコラ、人聞きの悪いこと言うな。俺はただ運と効率がいいだけだ」
ガラの悪い男のからかいにルーカスが肩を竦めて同調し、ミハイルがげんなりとした顔で言い返す。
男はミハイルの反応に満足すると、今度は目を丸くしているリィズの方を見下ろした。
「俺は第7小隊のフェリックス・コヴァチ中尉だ。呼出符丁はヴェアヴォルフ28。お嬢ちゃんが噂の第8小隊の新入りだな?ホフマンのサボり癖には同情するぜ、これからよろしくな」
「あ……はい!リィズ・ホーエンシュタイン少尉です。よろしくお願いします」
気さくに片手を上げるフェリックスに、リィズは慌てて立ち上がり敬礼した。先ほどミーシャが「ギャンブルや喧嘩ばかりのガラの悪い連中」と言っていた第7小隊だが、思いのほか気さくで温かい態度にリィズはホッと胸を撫で下ろす。
「で、こっちのしかめっ面が第9小隊隊長のヴェアヴォルフ09、エルンスト・リヒター中尉だ」
フェリックスが親指で隣の男を指し示す。エルンストと呼ばれた男は、リィズに向けて短く、だが完璧な角度で無言の敬礼を返した。いかにも「お堅い連中」というミハイルの評価通りの、隙のない態度だ。フェリックスはニヤニヤと笑いながら、そのエルンストの肩をバンッと叩いた。
「なぁ、エルンスト。お前も今度俺たちのポーカーに混ざれよ?マニュアル通りにガチガチに生きてちゃ、次の出撃までに息が詰まって死んじまうぜ?」
「……謹んで辞退する。貴様らのような不真面目な連中とつるんで、軍紀を乱す気はない」
エルンストは心底呆れたように深い溜息をつき、フェリックスの誘いを冷たく、きっぱりと切り捨てた。そして、彼はそのまま視線を、ウンザリした顔でスープを飲んでいるミハイルへと向けた。
「……それよりホフマン。貴様、今ここで何をしている?」
「あ?見りゃわかんだろ、遅めの夕飯だ」
「……小隊長会議をすっぽかして、か?」
その言葉が落ちた瞬間。ミハイルの持っていたスプーンが、カシャンッと音を立てて皿の上に落ちた。
「……は?」
「先ほど作戦会議室で、各部隊の小隊長会議が行われていた。……貴様の欠席に、大隊長がひどくお怒りだったぞ」
「…………ッ!!」
大隊長ベアトリクス・ブレーメ。
その絶対的支配者の「お怒り」という単語を聞いた瞬間、ミハイルの顔から文字通りサーッと血の気が引いた。先ほどの気だるげな余裕など微塵もなくなり、戦場で要塞級の大群に囲まれた時よりも悲惨な顔つきになる。
「う、嘘だろ……会議は明日じゃ……っ!」
「スケジュールの前倒しは今日の昼に通達されている。掲示板を確認しない貴様の怠慢だ。……せいぜい、大隊長とアオスト大尉に殺されないように祈るんだな」
冷徹に事実だけを告げるリヒターの横で、フェリックスが「あーあ、ご愁傷様」と可哀想なものを見る目でミハイルを拝んだ。
「クソッ!おいリィズ!なんでお前教えてくれなかったんだよ!?」
パニックに陥ったミハイルは頭を抱えながら、あろうことか隣に座るリィズへと八つ当たりをした。
「えぇっ!?私、そんな会議あったなんて知らないもん!なんで私に言うの!?」
理不尽すぎる責任転嫁に、リィズはぷくっと頬を膨らませて至極真っ当な返しをする。そのあまりに見苦しいミハイルの態度に、ルーカスが呆れ果てたように深くため息をついた。
「おいおいミハイル。自分のサボりをリィズちゃんに当たるのは、流石にダセェぞ」
「ミハイルさんのスケジュール管理はご自身の責任です。……ここで喚いている暇があるなら、とりあえず大隊長に謝ってきたらどうですか?」
ルーカスに窘められ、ハンナからは淡々と無慈悲な正論で追い打ちをかけられる。
完全に言い逃れができなくなったミハイルの情けないやり取りを見て、フェリックスは「ガハハハッ!違いねぇ、ダセェ小隊長だ!」と腹を抱えて笑い転げ、その隣でエルンストは「……本当に度し難い男だ」と氷のように冷めた目を向けていた。
「あぁもう、最悪だ!!」
ミハイルはヤケクソのように叫ぶと、食べかけの夕飯を放り出し、弾かれたように食堂の出口へと猛ダッシュしていった。
「ミーシャ!廊下走ったら危ないよー!」
リィズがパタパタと遠ざかっていくミハイルの背中に向けて呑気に手を振る。
直後。食堂の入り口を飛び出そうとしたミハイルの足が、急ブレーキをかけたようにピタリと止まった。
「ふふっ……奇遇だね、ミハイル。私も今、すごく最悪な気分なんだ」
甘く、鼓膜を直接撫でるような妖艶な声。だが、その声が食堂に響いた瞬間——。
ガタッ!!バサァッ!!
フェリックスの笑い声がピタリと止まり、エルンストが椅子を蹴立てて立ち上がる。ルーカスもハンナも、その場にいた全員が弾かれたように立ち上がり、一切の隙がない直立不動の姿勢で一斉に敬礼をした。
食堂の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りつく。事態が飲み込めていないリィズだけが、慌てて周囲に倣って不格好な敬礼をした。
入り口に立っていたのは、第3中隊隊長、エルケ・アオスト大尉だった。彼女はいつものように花が綻ぶような美しい笑みを浮かべている。だが、その背後にはどす黒い吹雪のような、底知れない不機嫌なオーラがはっきりと滲み出していた。
エルケは「みんな、楽にして良いよ」と言いながらコツ、コツと軍靴の音を響かせ、直立不動で真っ青になっているミハイルの目の前まで歩み寄った。そして、彼のだらしなく緩められたネクタイへ、そっと白く細い指を伸ばす。
「ねぇ、ミハイル」
「あ……っ、アオスト、大尉……」
まるで出勤する恋人の身だしなみを整えるかのような、酷く優しく、丁寧な手つき。エルケはミハイルの開いたままだったシャツの襟を、指先で滑らせるように綺麗に整えていき、ネクタイをゆっくりと首元まで締め直した。
「……私、さっきの会議で、ベアトリクスにすっごく怒られちゃったんだ。何でだと思う?」
吐息がかかるほど近い距離から落とされる、酷く甘くて冷たい声。その底知れない不気味さと、首元に触れる彼女の指先の冷たさに、ミハイルはガチガチと歯を鳴らした。
「こ、これは不可抗力と申しますか……っ、スケジュール変更の伝達が……」
「「貴女のところのサボり魔。私を待たせるなんて、随分と偉くなったものね」だってさ。……あの氷みたいな目で睨みつけられた私の気持ち、君ならわかるよね?」
エルケはミハイルの胸元のシワをパンパンと優しく払い、最後にふわりと微笑んで彼の頬を撫でた。
「……っ!」
「苦しい言い訳は、作戦会議室でたっぷり聞いてあげる」
言葉を区切り、エルケはそのままミハイルの耳元へ顔を寄せた。そして、周囲の誰にも聞こえない、彼にだけ届く吐息のような声で囁く。
「……それに、君の可愛い相棒にとって、すごく特別で嫌な任務が決まったから。その相談にも乗ってもらわなきゃね」
囁かれた言葉に、ミハイルの顔から完全に血の気が引く。エルケの瞳は笑っていたが、その奥には氷のような冷徹な光が宿っていた。
「……ほら、行くよ。これ以上ベアトリクスを待たせたら、君の首と胴体が文字通りお別れすることになるからね」
エルケが踵を返し、優雅な足取りで廊下へと歩き出す。
ミハイルはまるで死刑台へと向かう囚人のように、カクカクとした足取りでフラフラとその後を追うしかなかった。残された食堂は、水を打ったように静まり返っていた。
エルンストが「自業自得だ。度し難い」と冷たく吐き捨てる。フェリックスは「いやぁ、アオスト大尉のキレた笑顔、マジでちびりそうだったぜ……」と額の冷や汗を拭い。ルーカスが「まったくだぜ……」と同意した。
「み、ミーシャ……生きて帰ってくるかな……?」
リィズが心配そうに、ミハイルが連行されていった廊下の暗がりを見つめる。
「……書類上、彼はまだ戦死扱いにはならないはずです。たぶん」
ハンナの全く慰めになっていない言葉に、リィズは顔を引き攣らせた。
「……でも、やっぱりミーシャが一番、怒られてるよね」
リィズが力なく呟くと、残された隊員たちも、誰もそれを否定しなかった。
第1から第3中隊まで、それぞれの極端な役割と歪なバランスで成り立っているこのヴェアヴォルフ大隊。だが、少なくとも今この瞬間だけは、どこにでもある普通の軍隊の、他愛のない日常風景が広がっていた。
同日 夜 ヴェアヴォルフ大隊隊舎 女子シャワールーム
立ち込める白い湯気の中、シャワーの飛沫音だけが響いている。ヴェアヴォルフ大隊の設備は優遇されているとはいえ、女子用のシャワールームは無骨なタイル貼りで、色気など欠片もない。
「ふぅ……生き返るぅ……」
リィズはシャワーヘッドから降り注ぐお湯を全身で浴び、大きく息を吐いた。過酷な戦闘訓練と、その後の緊張感から解放され、強張っていた筋肉がほぐれていく。彼女は石鹸を泡立て、汗と油で汚れた身体を丁寧に洗い流し始めた。
その時だった。背後から、じっとりと観察するような、熱烈な視線を感じたのは。
「……ん?どうしたの、ハンナちゃん?」
リィズが振り返ると、隣の洗い場で、眼鏡を外したハンナが凝固していた。彼女の視線は、リィズの顔ではなく、首から下に釘付けになっている。
「……リィズさん」
ハンナの声は、いつもの冷静さを保っているように聞こえたが、どこか切実な響きがあった。
「……な、なに?」
「……確認ですが、貴女は現在16歳。私との年齢差は、わずか2歳ですよね?」
「うん、そうだけど……?」
「……信じられません」
ハンナは自分の、子供のように起伏の乏しい胸元に視線を落とし、次にリィズの、まだ幼さはあるものの、膨らんだ双丘へと視線を戻した。重力に逆らわず、それでいてハリのあるその曲線美。泡にまみれて艶めく肌。くびれた腰つき。
「……たった2年。……あと2年経てば、私もその領域に到達できるとでも?……いえ、これは遺伝子の差です。残酷なまでの格差社会です……」
ハンナはがっくりと項垂れ、恨めしそうにリィズを見た。
「……不公平です。ミハイルさんが目のやり場に困るのも無理はありません」
「え、ええと……ハンナちゃんも、これからだよ!いっぱい食べて寝れば、きっと……」
「……慰めは結構です。現実は非情ですから」
ハンナは拗ねたように顔を背け、乱暴にスポンジで自分の体をこすり始めた。その様子を見て、リィズは苦笑するしかない。戦場ではあんなに頼もしかった天才少女が、今は年相応の女の子に見える。
「……でも、意外ですね」
しばらくして、背中を流しながらハンナが口を開いた。声色はいつもの冷静なトーンに戻っている。
「……何が?」
「リィズさんと、ミハイルさんの関係です。……昼間の食堂での行動、あまり合理的とは言えませんでしたが……非常に親密に見えました」
「あ……」
リィズの手が止まる。無理やり人参を食べさせた一件だ。
「公衆の面前でのあのようなスキンシップは、通常の同僚関係を超えています。……ミハイルさんは嫌がっていましたが、貴女の方からは強い執着を感じました」
ハンナは眼鏡がないため目を細め、ぼんやりとした視界の中でリィズの方を向いた。
「……リィズさんにとって、彼はどういう存在なんですか?」
「……え、えっと……」
リィズは視線を泳がせた。どういう存在か。口が悪くて、態度がデカくて、いつも不貞腐れている。でも、誰よりも頼りになって、あの地獄から私を救い出してくれた人。
ふと、食堂での彼の顔を思い出す。野菜を無理やり食べさせられて、耳まで赤くしていたあの顔。
(……黙ってれば、顔は悪くないし、かっこいいと思うんだけどなぁ……)
リィズは少しだけ頬を染め、泡だらけの手を見つめた。
「……一番、信頼できる人かな。……友達、だもん」
「信頼、ですか」
「うん。……ミーシャがいなかったら、私はここにいないし。……私にとっては、命の恩人だから」
恋だの愛だの、そんな言葉はまだ知らないし、実感もない。ただ、彼が特別であることだけは確かだった。
「……そうですか。では、一つ仮定の質問をしてもいいですか?」
「……仮定?」
「はい。……もしも、の話です」
ハンナは濡れた髪をかき上げ、リィズを真っ直ぐに見据えた。湯気越しに見えるその瞳は、眼鏡がない分、どこか無機質で底知れない光を宿していた。
「もしも上官から、あるいは国から……反逆者であるミハイル・ホフマン中尉を処分せよと命令が下ったら、貴女はどうしますか?」
「……っ」
リィズの心臓が早鐘を打った。シャワーの音が遠くなる。背筋に冷たいものが走る。
これはテストだ。忠誠心の確認か?それとも、ミーシャに疑いがあるのか?下手に答えれば、私も、彼も終わる。
(……怖い)
あの独房の記憶が蘇る。冷たいコンクリート。尋問官の声。義兄の背中。この国では、昨日までの英雄が反逆者として処刑されるなんて、日常茶飯事だ。
「……そ、そんな命令、出るわけないよ。ミーシャは優秀だし……」
「ここはヴェアヴォルフ大隊。BETAから祖国を守る盾であると同時に、国家保安省直属の処刑部隊です。……私情は最大の弱点になります。昨日までの友軍を背後から撃つことも、任務では良くある事ですから」
ハンナの声は淡々としていた。感情がない分、余計に怖い。
「……貴女は、国家への忠誠と、個人の感情……どちらを選びますか?」
リィズは唇を噛んだ。
撃たないと言いたい。でも、それを口にすれば密告されるかもしれない。かといって撃つとは、口が裂けても言いたくない。嘘でも言いたくない。恐怖で声が出ない。
重い沈黙。狭いタイル張りの個室に、シャーッという無機質な水音が、やけに大きく反響する。それはまるで、逃げ場のない檻のノイズのようにリィズの耳を塞いだ。
シャワーのお湯が、冷水のように感じる。リィズは震える手で自分の腕を抱き、視線を床に落とした。
「……わ、わからない……」
絞り出すような声だった。
「……そんなこと、考えたくない。……私はただ、生きていたいだけなの。……でも、ミーシャがいないと、私、戦場で何をしていいかわからなくなるから……」
それは、忠誠でも反逆でもない、弱者の悲鳴だった。思考を放棄し、判断を先送りする。それしか、今の彼女にはできなかった。
長い沈黙。リィズはハンナの次の言葉を待った。不合格と宣告されるのか、反逆罪と罵られるのか。
「…………」
ハンナはふっと小さく息を吐いた。
「……呆れました。やはり貴女はバカですね」
「え……?」
リィズが恐る恐る顔を上げると、ハンナはいつもの無表情に戻っていた。
「そのような曖昧な態度は、一番死に近いですよ。……国家保安省は、迷う人間を最も嫌いますから」
「……ハンナ、ちゃん……?」
「……ですが、その合理的な判断のできない愚かさ、嫌いではありません」
ハンナは再びシャワーを出し、背中を向けた。
「……安心してください。今の会話は、シャワーの音で聞こえなかったことにします。……非公式な雑談ですから」
「……っ」
リィズの全身から力が抜けた。へなへなと座り込みそうになるのを、必死で堪える。
「……ありがと……」
「……お礼を言われる筋合いはありません。……のぼせますよ、早く上がりましょう」
ハンナはそれ以上何も言わず、さっさと洗い場を後にしてしまった。
残されたリィズは、シャワーのお湯に打たれながら、自身の震えが止まるのを待つしかなかった。
ここは地獄の釜の底。気を抜けば、湯気の中にすら監視の目が光っている。大切な人を想うことすら、ここでは命がけなのだと、リィズは骨身に沁みて理解した。
同日 深夜 基地屋上
凍てつくような夜風が吹き荒れる屋上で、二つの赤い火種が明滅していた。
「……ふぅー」
ルーカス・マイヤーはフェンスに背を預け、長く細い紫煙を吐き出した。頭上には鉛色の空。雪がちらつき、頬を冷たく刺す。隣では、ミハイル・ホフマンも同じように煙草を吸っていた。偶然の鉢合わせだ。
「……よぉ。無事に首と胴体が繋がったまま帰ってこれたみたいだな。で?女王様たちにたっぷり絞られた後、涙目でリィズちゃんにヨシヨシって慰めてもらったのか?ミーシャ?」
ルーカスがニヤニヤしながら、わざとらしくその名を呼んだ。
ミハイルのこめかみがピクリと動く。
「……殺すぞ。その呼び方やめろ」
「えー?いいじゃねぇか。リィズちゃんは呼んでるぞ?食堂でも熱かったよなぁ……「あーん、ミーシャ」ってさ」
ルーカスは昼間の光景を真似して、口をパクパクさせて見せた。ミハイルは深く煙を吸い込み、忌々しそうに吐き捨てる。
「……あいつはいいんだよ。ガキだし、昔からの癖だ」
「へぇ、特別扱いってか?」
「違う。……いい歳した野郎にその呼び方されても、寒気がするだけだ。気持ち悪いんだよ、お前」
「ハハッ!辛辣だねぇ、中尉殿は!」
ルーカスは楽しそうに笑い、ミハイルの背中をバシバシと叩いた。ミハイルは「痛ぇよ」と文句を言いながらも、本気で嫌がってはいない。
この屋上だけが、階級も監視もない、彼らにとって喫煙所は唯一の聖域だった。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。冷たい風が吹き抜け、ミハイルの纏う空気が、不意に戦場のそれへと戻った。ミハイルが吸い終わった吸い殻を携帯灰皿に押し込み、表情を一変させた。
「……で、ルーカス。笑い話はそこまでだ」
「……ん?」
声のトーンが変わったことに気づき、ルーカスも笑みを引っ込める。ミハイルは懐から一枚のメモを取り出し、ルーカスに見せた。
「……さっき連れて行かれた時、アオスト大尉から特別任務を言い渡された」
「ゲッ。あの女狐かよ。……夜這いでも誘われたか?」
「だったらマシなんだけどな。……仕事だ」
ミハイルは冷たい声で告げた。第3中隊隊長エルケ・アオスト大尉からの直々のオーダー。それは、ろくな用事であるはずがない。
「明日の深夜、第4監視区域で、逃亡を企てているバカがいるらしい」
「……あ?」
ルーカスの目から、陽気な色が完全に消え失せる。
「……情報提供者からタレ込みがあったそうだ。西への亡命を計画している反逆者がいるとな。……ご丁寧に、決行時間とルートまでセットで密告されたらしい」
「……ハッ。売られたか」
ルーカスは乾いた笑いを漏らし、自分の煙草をもみ消した。BETAではない。明日戦う相手は、同じ釜の飯を食ったかもしれない、同じ東ドイツの衛士だ。自由を求めて西へ逃げようとする同胞を、待ち伏せして背後から撃ち殺す任務。
「……相手の規模は?」
「MiG-21が3機。識別コードは……国家人民軍、第2戦術機連隊だ」
「第2……?」
ルーカスの表情が曇る。
「……おいおい。この間の防衛戦で、俺たちの側面を突いてた連中じゃねぇか」
「ああ。俺たちが正面でBETAを喰い止めている間、迂回して後方の光線級を叩きに行かされた、あの部隊だ」
「……なるほどな。そりゃあ逃げたくもなるわ」
ルーカスは重くため息をついた。
第3防衛線での戦闘。ヴェアヴォルフが正面で地獄を見ていた時、第2連隊はそれ以上の地獄、光線級狩り、レーザーヤークトを強要されていた。遮蔽物のない雪原を、光線級の照準に晒されながら突撃する自殺行為。
蒸発する仲間を盾にして、それでも前へ進まなければならない狂気の行軍だ。
「聞いた話じゃ、あの作戦エリアに光線級だけじゃなく、重光線級まで湧いて出たらしいぜ」
「……げっ、重光線級かよ。あんなデカブツまで……」
「おかげで、第2連隊は壊滅状態……生還率は5割を切ったそうだ」
「……半分が蒸発したってことか。正気の沙汰じゃねぇ」
ルーカスは被害の大きさに目を伏せた。
「ああ。あの戦闘中、混線した無線から聞こえてたらしい。『熱い』『助けてくれ』ってな……断末魔の合唱だ」
ミハイルはフェンスを強く握りしめた。革手袋が軋む音がする。彼らは昨日、その地獄を生き延びたのだ。友人の肉片と、融解した鉄の雨を浴びながら、奇跡的に生還した英雄たちだ。だが、その代償として心を壊し、国を捨てることを選んだ。
「……この間は背中を預けた味方だぞ。それが明日は標的かよ」
「……「ヴェアヴォルフの牙はね、裏切り者を食い破るためにあるんだよ」だとさ。大尉の言葉だ」
ミハイルは吐き捨てるように言った。その声には、怒りとも諦めともつかない、重い疲労が滲んでいる。
「……胸糞悪ぃな。せっかく生き延びたのによぉ」
ルーカスは忌々しそうに顔を歪めた。生き延びたからこそ、もう二度とあんな目に遭いたくないと願ったのだろう。その恐怖は、前線を知る者なら痛いほど理解できる。
「2人にはもう言ったのか?」
「まだ言ってない。……明日の朝、ブリーフィングで伝える」
ミハイルはフェンス越しに、暗い雪原を見つめた。
「……特にリィズには、キツい仕事になるだろうな」
彼女はかつて、西へ逃げようとして失敗した亡命未遂者の娘だ。その彼女に、今度は自分が逃亡者を狩る側に回らせる。それは、国家保安省による悪趣味な、忠誠心テストそのものだった。
「……ハンナちゃんは平気だろうが、リィズちゃんは吐くかもな」
「……かもな。けど、やらせるしかない。リィズには、無理やりにでも引き金を引かせる。あいつの為にもな」
ミハイルは目を伏せ、ため息を一つこぼす。
「やらなきゃ、俺たちが不適格者として処分される。……ここはそういう場所だ」
「……わーってるよ。あーあ、嫌だ嫌だ」
ルーカスは頭の後ろで手を組み、わざとらしく大きなため息をついた。だが、その瞳は冷たく冴え渡っている。
「……安心しろ、ミーシャ。汚れ仕事は年長者の役目だ。……いざとなったら俺が全機撃ち落とす」
「……悪いな。あと、ミーシャって呼ぶな」
「へいへい。……さっさと寝ろ。明日の夜は忙しくなるぞ」
「ああ。……おやすみ」
ミハイルが屋上のドアを開け、闇の中へと消えていく。残されたルーカスは、再び冷たい夜風に吹かれながら、空を見上げた。
「……あだ名で呼ばれるのが嫌だって?……嘘つけ。ミハイル、お前にはお似合いだよ……その甘ったるい優しさにはな」
鉛色の空からは、絶え間なく雪が降り注いでいる。
それはまるで、明日流れる同胞の血を隠そうとするかのように、白く、冷たく降り積もっていった。