大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか?   作:Wig

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失墜に響く産声

同日 深夜 ヴェアヴォルフ大隊本部 格納庫

猛吹雪の雪原から帰還した第8小隊の4機が、駐機スポットへと滑り込む。機体の停止音と共に、張り詰めていた空気が緩む。はずだった。減圧音と共に管制ユニットが開く。

「……あーあ。マジで疲れた。……さっさとシャワー浴びて、泥のように寝てぇ」

ミハイルは強化装備のグローブを外すなり、盛大にため息をついた。

体力的には問題無いが、やはり亡命者の粛清という任務は、精神的にキツイ。ミハイルにとって、これが初めての汚れ仕事というわけではない。だが、何度やっても慣れるものではなかった。早く報告を済ませてベッドにダイブしたい。それだけが今の彼の偽らざる本音だった。

「……おーい、生きてるか?リィズちゃん」

隣の機体から降りたルーカスが、いつもの軽い調子で声をかけた。だが、リィズからの返事はない。彼女は開いた管制ユニット内に座ったまま、動こうとしなかった。視線は手元、操縦桿に釘付けになっている。

「……リィズ?どうした、降りないのか?」

ミハイルが怪訝そうにタラップを登り、リィズの機体を覗き込んだ。

「……あ……あ……」

リィズは震えていた。彼女の視線の先。黒い操縦桿のグリップに、赤黒いしみがこびりついていた。血に濡れた雪原。少年を射殺した時、返り血を浴びたまま彼女は機体に乗り込み、ここまで操縦して帰投してきたのだ。その痕跡が、グリップの指の形に合わせて、ベットリと残っていた。

「……汚れてる……」

リィズの唇が震える。

「……ミーシャ……取れないの……拭いても、取れないの……っ」

彼女はグローブで何度も操縦桿を擦っていた。だが、乾きかけた血は伸びるだけで、余計に汚く広がっていく。それはまるで、彼女の罪が決して消えないことを嘲笑うかのようだった。

「……おい、リィズ」

「……汚い……!私の手も、この操縦桿も……あの子の血で……!」

「落ち着け!」

ミハイルはリィズの肩を掴み、無理やりこちらを向かせた。

「……早く着替えろ。……顔を洗ってこい」

「……で、でも……報告が……」

「待っててやる。……ルーカス、ハンナ。悪いが少し待ってくれ」

下で待つ二人に声をかけると、ルーカスは「へいよ」と軽く手を挙げ、ハンナは無言で時計を見た。

「……10分だ。それ以上は待たねぇ」

ミハイルの言葉に、リィズは弾かれたように操縦席を飛び出した。

彼女はタラップを転がり落ちるように駆け下り、格納庫の隅にある手洗い場へと走っていった。

「……やれやれ。手のかかるやつだ。……ハンナ、悪いがリィズの事、頼むぞ?」

ハンナは無言で頷き、リィズの後を追って行った。

ミハイルは頭をガシガシとかきむしり、忌々しそうに、血で汚れたリィズの操縦桿を一瞥した。

(……クソったれ。俺まで気分が悪くなってきやがった)

10分後、第3中隊の中隊長執務室に第8小隊の姿があった。

「……遅かったね、何かあったの?」

革張りの重厚な椅子に座り、エルケ・アオスト大尉は不満げに書類を指で弾いた。部屋には暖炉の火が爆ぜる音だけが響いている。その前で、ミハイル、ルーカス、ハンナ、そして顔色が蒼白なリィズの4名が直立不動の姿勢をとっていた。

「申し訳ありません。……機体からデータを吸い出すのに、少し手間取りまして」

ミハイルがやる気なさそうに嘘をつく。隣のリィズは、まだ髪が少し濡れていた。必死に顔と手を洗ってきたのだろう。だが、その指先はまだ微かに震えている。

「ふーん。……まぁ良いや」

エルケは艶やかな唇を吊り上げ、手元の報告書に目を落とした。

「逃亡した衛士3名、および関係者全員の排除を確認。……流石だね。仕事が早いし、確実だ」

「……どうも。早く帰って寝たかったんで」

ミハイルがあくびを噛み殺すような顔で答える。だが、エルケの視線は、ミハイルを通り越して、その隣の少女へと向けられた。

「ねぇ?ホーエンシュタイン少尉。……初めてのお仕事はどうだった?」

「ッ……!」

名指しされ、リィズの肩がビクリと跳ねた。エルケは楽しそうな笑みを浮かべながら、蛇のような目でリィズを見据えた。

「ログを見たんだ。最後の一人……君が直接手を下してたね。……感想は?」

リィズは言葉に詰まった。

感想?「怖かった」「温かかった」「吐き気がした」。どれも口にすれば、不適格の烙印を押される。助けを求めるようにミハイルを見るが、彼は前を向いたまま動かない。

(……自分で言え)

彼の背中がそう語っていた。ここで耐えなければ、また独房行きだ。

「……任務、遂行に……支障はありません」

リィズは絞り出すように答えた。

「……対象の排除を、確認しました。……それだけ、です」

「……ふふっ」

エルケが笑った。それは嘲笑でもあり、歓喜でもあった。

「いいね。その無感情こそが、国家保安省の、私たちヴェアヴォルフ大隊の衛士に必要な資質だよ」

エルケは立ち上がり、リィズの目の前まで歩み寄った。甘い香水の匂いが、リィズの鼻孔に残る鉄錆の臭いを上書きしていく。

「おめでとう。合格だよ、リィズ。……君は使える。罪悪感に押しつぶされず、よく殺したね」

細い指がリィズの頬を撫でる。リィズは悲鳴を上げそうになるのを、必死に堪えた。

「ミハイル。君の教育係としての手腕も評価してあげる。やっぱり真面目にやれば優秀なんだね」

「……そりゃどうも。……で、もう下がっていいですか?限界なんですが」

「うん、いいよ。明日はみんな基地内待機でいいからね。……じゃあおやすみなさい、よい夢を」

「……失礼します」

ミハイルたちは敬礼し、逃げるように執務室を後にした。

重い扉が閉まった瞬間、ルーカスが壁に背を預け、ズルズルとしゃがみ込んだ。

「……あーあ。キツイねぇ。あの大尉の相手は、BETAと戦うより疲れるぜ」

彼はポケットから潰れたタバコを取り出し、火もつけずに咥えた。

「……大丈夫か、リィズちゃん。顔色、死人みたいだぞ」

「……うん、平気。……迷惑かけちゃって、ごめんなさい」

リィズは弱々しく頭を下げた。その手は、無意識のうちに自分の制服の裾を強く握りしめている。洗っても洗っても落ちない汚れを拭うように。

「……ハンナ。リィズを部屋まで送ってやれ」

そんな様子のリィズを視界の縁に収めながら、ミハイルが指示を出す。

「了解しました。……行きましょう、リィズさん」

「……うん。……おやすみなさい、ミーシャ。ルーカスさん」

ハンナに促され、リィズはふらつく足取りで去っていった。一度だけ振り返り、すがるような目でミハイルを見たが、ミハイルは気まずそうに視線を逸らした。廊下に、男二人が残される。

「……冷たいねぇ、ミハイルは」

ルーカスがニヤリと笑った。

「あんな子犬みたいな目で見られて、無視かよ」

「……うるせぇ。ここで優しくしたら、あいつが壊れる」

ミハイルは頭をガシガシとかきむしり、深くため息をついた。

「……俺はちょっと屋上で一服してくる。頭冷やさねぇと眠れねぇ」

「……へぇ。タバコ吸う元気はあんだな」

ルーカスは意地の悪い視線でミハイルを見る。なぜ屋上に行くのか、分かっているようなその表情にミハイルは気付かないふりをした。

「いらねぇよ、その含み笑いは。……お前はさっさと寝ろ」

ミハイルはルーカスの軽口を背中で受け流し、反対方向、屋上への階段へと向かった。足取りは重い。だが、行かなければならない。

あの普通の少女が、部屋でおとなしく眠れるはずがないことを、彼は誰よりも理解していたからだった。

 

 

屋上へ繋がる鉄の扉を開けると、刃物のような冷気が肌を刺した。雪は止んでいたが、放射冷却のせいで気温は氷点下を大きく下回っている。吐く息が瞬時に白く凍りつく夜だった。

「……寒っ。マジで勘弁しろよ……」

ミハイルはコートの襟を立て、小さく身震いした。

本来なら、こんな場所に長居する理由はない。さっさと温かいベッドに潜り込むべきだ。だが、彼は吸いもしないタバコを指で弄びながら、屋上の奥、給水塔の裏にある洗い場へと足を進めた。

ジャアアアア……。

静寂な夜に、蛇口から水が迸る音だけが響いている。

「……やっぱりかよ」

ミハイルは舌打ちをし、その音の元へと歩み寄った。そこに、彼女はいた。コンクリートの粗末な流し台の前。リィズが一人、背中を丸めて立っている。彼女は上着と帽子を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を捲り上げ、凍りつくような冷水に素手を晒していた。

「……落ちない……なんで……まだ、温かいの……?」

リィズは独り言のように呟きながら、固形石鹸を乱暴に手にこすりつけ、皮膚が擦り切れるほどの勢いで洗っていた。彼女の手は、冷水と摩擦のせいで真っ赤に腫れ上がり、所々から血が滲んでいる。それでも彼女は止めない。

「……熱い……あの子の熱が……消えない……」

彼女が見ているのは、現実の手ではない。あの雪原。少年が足にすがりついてきた時の、生々しい体温。そして、引き金を引いた瞬間に飛び散った、あの熱い鮮血の感触だ。それが今も、皮膚の下にこびりついている。洗っても、洗っても、その人殺しの熱だけが消えない。

「……こんなとこで、何やってんだ?」

ミハイルが背後から声をかける。だが、リィズは聞こえていない。一心不乱に、自分の汚れを削ぎ落とそうとしている。

「……嫌だ……取れてよ……お願いだから……!」

「……やめろ!」

ミハイルはリィズの腕を掴み、強引に蛇口をひねって水を止めた。突然の静寂が屋上を支配する。

「……あ……」

リィズが虚ろな目でミハイルを見上げる。その瞳には、焦点が合っていない。

「……ミーシャ?……ねぇ、水……止めちゃダメ……」

「これ以上やったら凍傷になる。……見ろ、血が出てるぞ」

「……違うの!」

リィズは狂ったように首を振った。

「これは私の血じゃない!……あの子の血なの……洗わなきゃ……」

今にも壊れそうなリィズに、ミハイルはかける言葉が見つからない。彼女の腕を掴んだまま、彼女から目を反らした。

「……怖いよぉ……!あの子の目が……悪魔って呼ぶ声が、耳から離れない……ッ!」

リィズはその場に崩れ落ち、ミハイルのコートを掴んで泣き叫んだ。

限界だった。気丈に振る舞い、アオスト大尉の前では無感情を演じていたが、中身はただの16歳の少女だ。人を殺した重圧に耐えられるはずがない。

「……助けて、ミーシャ……!私、人を殺しちゃった……!怖い、怖いよぉ……!」

ミハイルは、泣きじゃくるリィズを見下ろした。その小さな背中が、罪の意識で押しつぶされそうになっている。

だが、その涙の隙間からミハイルを見上げた瞬間、リィズはハッと息を呑んだ。

目の前に立つミハイルの佇まいは、昼間と、あるいは昨日と、何一つ変わっていなかった。いつも通りの、ひどく気だるげで、平然とした、温度のない空気。つい数時間前、自分と一緒に同胞の命を奪ったはずなのに、なぜこの人はこんなにも普通の少年でいられるのか。

リィズの胸の奥で、彼のいつも通りの姿が、得体の知れない恐怖となって弾けた。

「……おかしいよ。なんで……なんでミーシャは平気なの!?」

虚ろな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出す。それは、理解の及ばない狂気に対する、純粋な恐怖だった。

「ルーカスさんも、ハンナちゃんも……あんな風に人を撃ったのに。なんでみんな、普通に報告して、普通にご飯が食べられるの……!?おかしいよ、みんな狂ってる……っ!」

リィズは自身の血に滲む両手を見つめ、絶望の淵で泣き叫んだ。

「……私も、あの子を撃った。……私も、みんなと同じ、狂った人殺しになっちゃったんだ……っ!嫌だよ……嫌だぁッ!私もいつか、人を殺しても何も感じない化け物になるの……!?そんなの絶対に嫌だ……ッ!!」

錯乱するリィズは、そのままミハイルの胸にすがりつき、ドンッと弱々しくその胸を叩いた。それは、世界で唯一の拠り所に対する、理不尽で哀しい八つ当たりだった。

「……ミーシャの嘘つきっ!衛士になって……人を殺す事になるなんて、あの時言ってなかったじゃない……っ!」

(嘘つきなんて、本当は思ってない。ミーシャがあの暗闇の底から私を助け出してくれた。ミーシャがいてくれたから、私は今日まで生きてこられたのに……っ)

頭では分かっている。これはただの理不尽な八つ当たりだ。だが、このやり場のないドロドロとした恐怖と罪悪感をぶつけられる相手は、世界中で目の前の少年しかいなかった。

「……リィズ」

「なんで……なんで私だけ、こんな思いしなきゃいけないの……!?私はただ、お兄ちゃんに会うために……生きたかっただけなのに……っ!」

(違う、お兄ちゃんじゃない。私は、ミーシャと……)

涙でぐしゃぐしゃになった視界の先で、ミハイルの顔がひどく歪むのが見えた。

いつも気だるげで、どんな時も冷たい無表情を崩さない彼が、まるで自分の胸を直接刃物で抉られたかのような、ひどく悲痛で、痛ましい顔をして黙り込んでいる。

(言っちゃダメ。ミーシャを傷つけたいわけじゃない。なのに、ミーシャにこんな酷いこと――)

溢れ出る感情にブレーキが効かない。彼女はついに、心の底で渦巻いていた、絶対に言ってはいけない最悪の言葉を吐き出した。

「……こんな……こんな苦しい思いをするくらいなら……あのまま独房で、殺された方がずっとマシだった……っ!」

その悲痛な叫びを聞いて。ミハイルは激昂することも、冷たく突き放すこともなかった。彼はただ、ひどく自嘲気味に、どこか安心したような顔で力なく笑った。

「……ああ。お前の言う通りだ、リィズ」

「え……?」

予想外の肯定に、リィズの嗚咽が止まる。

ミハイルはリィズの側にしゃがみ、血の滲む彼女の冷たい手を、自身の温かい両手でそっと包み込んだ。

「俺たちがおかしいんだ。……同胞を殺して、普通に飯が食える俺たちが、狂った化け物なだけだ」

「ミー、シャ……?」

「安心しろ、お前は俺みたいな化け物にはならない。……罪悪感で泣き叫んでるお前の方が、よっぽどまともな人間だよ」

こんな思いをするくらいなら死んだ方がマシだった。その言葉を否定せず、彼女の人間性を肯定し、全ての責任は自分にあると認めた。

だが、ミハイルはその包み込んだ手を、絶対に離そうとはしない。ここで慰めるのは簡単だ。だが、このヴェアヴォルフという狂った地獄で、まともな人間のまま生き延びることなど不可能だ。これから先も同胞の粛清は続いていくなかで、いつか必ずリィズの心は耐えきれずに壊れて死ぬ。

ミハイルは奥歯を強く噛み締め、己の内に残っていたわずかな甘さを殺した。

「……リィズ。俺を見ろ」

「……う、うぅ……」

「よく聞け。……今日、あいつを殺したのは、お前じゃない」

ミハイルは、あえて冷徹な声色で、彼女の瞳の奥を覗き込んだ。

「……殺したのは俺だ。俺が命令し、俺がお前の指に自分の指を重ねて、無理やり引かせた。……そうだろ?」

「……え……?」

リィズが瞬きをする。

「銃だけじゃ人を殺せねぇ。……引き金を引いたのは俺の意思だ。お前はただの道具……俺が生き残るための銃として使われただけだ」

それは、あまりにも身勝手な論理だった。リィズから殺人の主体性を奪い、彼女をただの道具に貶める言葉。だが、罪に押しつぶされそうな今の彼女にとって、それは唯一の救済だった。

「……道具……?」

「ああ。道具に罪はない。罪があるなら、使った俺にある。地獄に落ちるのも俺だ。リィズ、お前じゃない」

そう言うと、ミハイルは呆れたように小さく息を吐き、ポン、と乱暴にリィズの頭に手を置いた。わしゃわしゃと髪を撫でてやるその仕草は、ひどく気だるげで、けれど怯える彼女をあやすような確かな温もりがあった。

狂気に満ちた道具だという宣告とは裏腹に、彼女を見つめる瞳と声色には、呆れが混じった底なしの甘さが滲んでいる。

「だから……お前が勝手に背負い込むな。道具が持ち主の心配なんざすんじゃねぇよ」

その言葉を聞いた瞬間、リィズの瞳から、恐怖の色が消えていった。代わりに宿ったのは、暗く、澱んだ安堵の色。

(……そっか。私は、道具でいいんだ。……ミーシャの道具なら……私は……)

私は知っている。ただの家族や義妹でいるだけじゃ、人間は簡単に私を見捨てて、どこかへ行ってしまうってことを。あの日、お兄ちゃんが私を一人で残していなくなったように。

だったら、私は人間じゃなくていい。この人のためだけに引き金を引く、絶対に手放せない便利な道具になればいい。そうすればきっと、ミーシャだけは私を捨てない。

人間だから辛いのだ。人間だから、殺した相手の人生を考えてしまうのだ。でも、道具なら。ミーシャの銃なら。何も考えなくていい。何も感じなくていい。

「……ミーシャ」

リィズはすがるようにミハイルの腕を掴んだ。

「……私、道具になる」

「……あ?」

「もう……痛いのも、怖いのも嫌……。だから、私をミーシャの道具にして」

リィズは懇願した。それは、自らの意志を放棄し、全てをミハイルに委ねるという完全な依存の宣言だった。

「ミーシャが撃てって言ったら撃つ。死ねって言ったら死ぬ。……だから、お願い」

リィズはミハイルの胸に顔を埋め、震える声で囁いた。

「……全部、ミーシャが決めて。……私を一人にしないで」

ミハイルは息を呑んだ。彼女を守るために言った嘘が、彼女を歪な形に変えてしまった。

(……なんて顔してやがる。けどな……)

だが、今はそれでいい。この狂った世界で彼女が生きていけるなら、どんな形であれ繋ぎ止めるしかない。

「……ああ。……お前は俺のモンだ」

ミハイルは彼女の頭を抱き寄せ、その震える背中を撫でた。それは所有の宣言であり、逃れられない呪縛の言葉。

「俺が命令してやる。俺がそばにいてやる。……だからお前はもう、何も余計なことを考えるな」

「……うん……うん……ッ!」

「嘘つき」なんて罵り、「死んだ方がマシだった」とまで言った、醜くて最低な自分。そんな理不尽な八つ当たりすらも、ミーシャは突き放さず、怒りもせず、すべてを受け止めて、私の代わりに地獄へ落ちてくれると言う。

リィズはミハイルにしがみつき、安堵の涙を流した。ミハイルの匂い。タバコと、微かなオイルの臭い。そして、確かな温もり。それだけが、今の彼女の世界の全てだった。

「……戻るぞ、リィズ。風邪引く」

「……うん」

「立てるか?」

「……ううん。……おんぶして」

リィズは甘えるように手を伸ばした。さっきまでの恐怖に怯える姿はない。そこにあるのは、持ち主に絶対の信頼を寄せる、無垢で残酷な道具の顔だった。

「……ったく。調子に乗るなよ」

ミハイルは悪態をつきながらも、背中を向けた。リィズの身体が、ずしりと背中に乗る。その重みこそが、彼がこれから背負っていく罪の重さだった。

冷たい月の光が、二人の影を一つに重ねていた。

共犯者たちの夜。二人は、決して戻れない一線を、手を取り合って越えていった。

 

 

翌朝。人工的な照明が照らす、無機質なヴェアヴォルフ大隊の食堂。昨夜の吹雪は止み、窓の外には突き抜けるような青空が広がっていたが、その冷たさはガラス越しでも伝わってくるようだった。配給の列に並び、トレーを持って席に着く。いつもの光景だ。だが、第8小隊のテーブルだけは、どこか空気が違っていた。

「……ほら。食わねぇと保たねぇぞ」

ミハイルは自分の黒パンを半分にちぎり、隣のリィズのトレーに無造作に置いた。いつものぶっきらぼうな仕草だ。だが、リィズの反応は以前とは違っていた。

「……うん。ありがとう、ミーシャ」

リィズは微笑んだ。それは以前見せたような、無邪気で天真爛漫な笑顔ではない。静かで、凪いだ水面のような微笑み。彼女はミハイルから与えられたパンを、まるで聖餐のように大切に手に取り、小さな口でかじり始めた。

「……」

向かいの席で、ルーカスがコーヒーカップを止める。リィズの位置がミハイルに近い。椅子と椅子の間隔が、昨日までより明らかに狭まっている。肩と肩が触れ合う距離。

以前なら、恥ずかしがったり、あるいは無邪気にじゃれついたりしていた距離だ。だが今の彼女は、それが、当たり前の定位置であるかのように、自然にそこに在った。

「……仲が良いこって。昨日の今日で、随分と吹っ切れたみたいじゃねぇか」

ルーカスが探るように軽口を叩く。リィズはパンを咀嚼し、飲み込んでから、ルーカスを見て小首をかしげた。

「……そうかな?普通だよ、ルーカスさん」

声のトーンは一定。怯えも迷いもない。昨夜、格納庫で見せた錯乱状態が嘘のように安定している。それが逆に、ルーカスには不気味に映った。

(……壊れたか?それとも、ミハイルが上手く直したのか?)

その時、横に座っていたハンナが、不意にトレーを動かした。ガタン、と小さな音を立てて、彼女のデザートである缶詰のフルーツが、リィズの手元へと滑らされた。

「……リィズさん。これを」

ハンナはリィズを見ず、眼鏡の位置を直しながら淡々と言った。

「……え?でもこれ、ハンナちゃんの……」

「……昨晩の貴女のカロリー摂取量は、必要値を大きく下回っています。顔色も、いつもより悪いです。……ちゃんと、食べてください」

それは、ハンナなりの精一杯の気遣いだった。合理的理由をつけてはいるが、貴重な嗜好品を譲るなど、ただの同僚にする配慮ではない。昨晩、何もできなかった自分への苛立ちと、リィズへの同情が入り混じっていた。

「……勘違いしないでください。小隊の戦力維持のためです」

ハンナは少し早口で付け加えた。リィズは目を丸くし、それからふわりと笑った。

「……ふふ。ありがとう、ハンナちゃん。……優しいね」

「……事実を述べたまでです」

ハンナは居心地悪そうに視線を逸らし、自分のスープを口に運んだ。だが、その横顔は少しだけ安堵しているように見えた。その穏やかな空気を、無機質なチャイム音が引き裂いた。

『緊急連絡。第3中隊の各小隊長は、0830までに第1ブリーフィング・ルームへ集合。繰り返す……』

呼び出しだ。ミハイルが、飲みかけのコーヒーを一気に煽る。カップを置く音と同時に、彼は立ち上がった。

「……はぁ。ったく朝から呼び出しかよ。リィズ、お前も来い」

「……うん」

リィズもまた、一瞬の遅れもなく立ち上がる。まるで糸で繋がっているかのような、完璧な同期。彼女は自分の帽子を手に取り、ミハイルの背後に自然と位置取った。その動きには、迷いも、個人の意思すらも感じられない。

「……第3中隊全体が呼ばれるなんてな」

ミハイルは帽子を深く被り直し、昨夜とは違う、鋭い眼光を向けた。

「次はマジな殺しあいだろうな。……リィズ、議事録はお前に任せる」

「わかった」

ミハイルの堂々としたサボり宣言に、リィズは迷い無く応え、ミハイルの背中を見つめた。その瞳には、かつてのような恐怖の色はない。あるのは、主人の命令を待つ、静かで澄んだ依存の色だけだった。

食堂を出ていく二人の背中。それを見送りながら、ルーカスは残りのコーヒーを飲み干し、苦々しく笑った。

「……やれやれ。本当の化け物は、どっちだか」

「……定義によりますが」

ハンナが冷静に、しかしどこか寂しげに呟く。

「……少なくとも、今のリィズさんは、なんか気味が悪いです」

ミハイルとリィズが去った後のテーブルには、少しの静寂と、冷めかけたコーヒーの香りが残されていた。

ルーカスは二人が消えた廊下の方角を見つめたまま、ポケットからタバコを取り出した。食堂内は禁煙だが、今は誰も咎める者はいない。

「……なぁ、ハンナ」

ルーカスは火をつけず、フィルターを噛みながら呟いた。

「……あの子、どう見えた?」

問いかけに対し、ハンナは丁寧にスプーンを置き、ナプキンで口元を拭ってから答えた。

「……精神状態は安定しています。昨夜のパニック状態が嘘のように。……バイタルデータだけを見れば、正常値でしょう」

「データだけなら、な」

ルーカスは自嘲気味に鼻を鳴らした。

「ありゃあ回復じゃねぇよ。停止だ」

「……停止、ですか」

「ああ。考えるのを辞めたんだ。……自分の頭で善悪を判断するのを辞めて、全部ミハイルに預けた。……そうすりゃあ楽だからな。罪悪感も、恐怖も感じなくて済む」

ルーカスの目は、珍しく真剣だった。彼は戦場の荒事にも慣れているが、人間の心が壊れる音も嫌というほど聞いてきた。リィズの今の安定は、ガラス細工を接着剤で無理やり固めたような、危ういバランスの上に成り立っている。

「……ミハイルさんが、引き受けたんでしょうね」

ハンナがポツリと言った。

「彼女の罪も、判断も、これからの生き方も。……全てを背負う覚悟を決めた。……合理的ですが、残酷な優しさです」

「全くだ。……俺には真似できねぇよ。あんな重いモン、背負いきれねぇ」

ルーカスはタバコをくるくると指で回した。

ミハイルは「サボりたい」「面倒くさい」と口では言うが、結局のところ、一番面倒な損な役回りを引き受けている。そしてリィズは、そんなミハイルを絶対的な指針にしてしまった。

「……でも、ハンナちゃんも大概甘いけどな」

ルーカスが意地の悪い笑みを浮かべ、ハンナのトレーを指差した。

「自分のデザート譲るなんてよ。……お前、甘いモン目がないくせに」

「……っ」

図星を突かれたのか、ハンナが僅かに眉を動かした。

「……言ったはずです。これは戦力維持のための……」

「はいはい、合理的配慮ってやつな。……素直じゃねぇなぁ、お前らどいつもこいつも」

ルーカスは立ち上がり、ハンナの肩をポンと叩いた。

「……ま、仕方ねぇ。歪だろうがなんだろうが、あいつらはウチの可愛い新入りとリーダーだ」

「……ええ」

「ミハイルがリィズちゃんの頭になってやるなら、俺たちは盾になってやるしかねぇだろ。……あいつらが共倒れしないようにな」

「……そうですね」

ハンナもまた、空になったトレーを持って立ち上がった。その表情は相変わらず無機質だったが、眼鏡の奥の瞳には、確かな連帯感が宿っていた。

「……行きましょう。ミハイルさんが投げ出した、昨日の報告書、早いところ終わらせちゃいましょう。……遅れると、またアオスト大尉に嫌味を言われます」

「へいへい。……ったく、ヴェアヴォルフなんて大層な名前だが、実態は傷だらけの迷子犬の集まりだな、ここは」

ルーカスは軽口を叩きながら歩き出す。歪で、不器用で、けれど強固な絆で結ばれた狼の群れ。

彼らもまた、共犯者の一員として、冷たい朝の光の中へと歩みを進めた。

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