大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1981年 冬 ザクセン州ライプツィヒ 市街地外縁部
『――第3中隊各員、傾注』
通信回線越しに響くその声は、これから始まる地獄絵図を思わせないほど、甘く、艶やかだった。
ライプツィヒの市街地上空。灰色の雲が垂れ込める中、漆黒の戦術機部隊が低空を滑走する。戦術機大隊ヴェアヴォルフ第3中隊。中隊長エルケ・アオスト大尉の命令が、各機の管制ユニット内に流し込まれる。
『作戦を確認するよ。……今回の目標は、このライプツィヒでクーデターを起こした反体制派と、それに与した国家人民軍の離反兵たちの殲滅。彼らはすでに市街地に強固な防衛陣地を構築して立て籠もっちゃってるんだ』
エルケは、まるで手のかかる子供の悪戯を報告するかのような、呆れたようなトーンで言葉を続けた。
『まともに付き合って大規模な市街戦をやれば、街も市民もタダじゃ済まない。……無闇に街を吹き飛ばすわけにはいかないからね』
それは一見、市民を思いやる言葉に聞こえる。だが、そこには国家保安省特有の冷酷な政治的計算が隠されていた。
彼らにとって国民とは、国家というシステムを維持するための労働力であり、資源に過ぎない。加えて、今回の鎮圧作戦には用意周到なプロパガンダのシナリオが存在していた。
戦闘によって生じる最低限の市街地の損害や民間人の犠牲を、すべてクーデター部隊の暴挙として大々的に喧伝するのだ。反逆者に全ての罪を擦り付け、自らを暴徒から市民を救った正義の盾に仕立て上げる。そのためには、街全体を灰燼に帰すような大味な戦闘は避け、被害をコントロール可能な範囲に収める必要があった。
『だから、外堀からちまちま崩すような無駄は省くよ。……突入経路は3方向に限定。各小隊は指定されたルートを一直線に駆け抜け、クーデターの首謀者たちが隠れているニコライ教会を直接叩いてね』
戦術データリンクを通じて、ライプツィヒ市街を真っ直ぐに貫く3つの強襲ルートが各機に共有される。
『進行ルート以外の路地裏で隠れてる臆病者たちに、わざわざ寄り道して構ってあげる必要はないよ。3方向から一気に教会まで突破して、頭を叩き潰す。……頭さえ切り落としちゃえば、残りの操り人形たちは勝手に崩れ落ちるから』
ニコライ教会。近年、平和を祈る市民たちが集う場所として、反体制運動の象徴になりつつある場所だ。そこに逃げ込んで防衛線を敷けば、国も無下には攻撃できないと踏んだのだろう。
『みんな、降伏勧告なんて無粋な真似はしなくていいからね。……さぁ、この世界に神様なんて居ないことを、反逆者どもに教えてあげよう』
『『『了解!!!』』』
通信が切れる。直後、第3中隊の機体群が四方へと散開し、死神の群れのように無音で、ライプツィヒの市街地へと滑り込んでいった。
「……はぁ。相変わらず、血も涙もねぇ女狐だ」
ミハイルは操縦桿を握りながら、盛大にため息をついた。
同胞同士の殺し合い。しかも今回は、非武装の逃亡者を撃つような簡単な仕事ではない。相手も戦術機に乗り、死に物狂いで抵抗してくる本格的な市街地戦だ。
『……おっかねぇなぁ。データリンクされたこの突入ルート、見ろよ。敵が待ち伏せしそうな交差点や、対空車両が潜んでいそうな死角を悉く潰すような位置取りになってる。これ、情報提供者から敵の防衛陣形を全部聞いてんじゃないのか?』
通信越しに、ルーカスが引き攣ったような軽口を叩く。
『ええ、事前の情報提供もあるでしょう。ですが、それだけでここまで完璧なルートは引けません。恐らくアオスト大尉は、敵の心理と市街地の防衛セオリーを完全に読み切った上で、伏兵を全て無力化できるように自ら作戦を立案したはずです。……大尉の対人類戦における戦術理解度の高さは、尋常じゃありませんから』
ハンナが冷静に分析するが、その声にも微かな緊張が混じっていた。
第8小隊の面々が実戦の空気に飲まれそうになる中、ミハイルは自身の僚機へと回線を開いた。
「……おい、リィズ」
『なに、ミーシャ?』
ノイズに混じって鼓膜に届いたのは、これから凄惨な殺し合いに向かう人間のものとは到底思えない、ひどく甘くて、穏やかな声だった。
屋上での一件から数日。ミハイルからの「道具になれ」という洗脳めいた宣告を受け入れた彼女が、実戦に出るのは今日が初めてだった。
「……聞いてたか。この戦闘は前回みたいな的当てじゃない。相手も戦術機だ。気を抜けば、こっちがミンチにされるぞ」
『うん、大丈夫。ちゃんとできるよ』
「……そうか。俺の背中はお前に預ける、だから絶対に俺の側から離れるな。いいな?」
ミハイルは、彼女がどこかで恐怖にすくみ上がり、再びパニックを起こすのではないかと危惧していた。相手の戦術機から飛んでくるのは、本物の殺意を持った実弾だ。
だが、リィズからの返答は、ミハイルの背筋に冷たいものを這い上がらせるには十分すぎるほど、澄み切っていた。
『わかった。……ミーシャの敵は、私が全部落とすから。ミーシャは安心して、私に命令してね』
一切の恐怖も、同胞と殺し合うことへの躊躇いもない。あるのは、持ち主の役に立てるという純粋な喜びだけ。
ミハイルは奥歯を強く噛み締め、己の内に湧き上がる強烈な自己嫌悪を無理やり飲み込んだ。
「……行くぞ。第8小隊、戦闘態勢を維持したまま前進」
漆黒の猟犬たちが、コンクリートの墓標が立ち並ぶ市街地へと足を踏み入れる。凄惨な同胞殺しの幕開けだった。
同時刻 ザクセン州ライプツィヒ 防衛陣地
『――同志たちよ、恐れるな。我々がここで盾となれば、必ずこの国は変わる』
ライプツィヒの街。ニコライ教会へと続く防衛線の要となるメインストリートの交差点で、離反した国家人民軍第524戦術機大隊シュヴァルベの指揮官は、決死の覚悟を込めて部下たちへ通信を送った。
彼らが乗るMiG-21の左腕部装甲には、反体制派の証として急造の黄色いペイントが施されている。彼らは皆、かつては国を守るために戦術機に乗った若者たちだった。
『密告と監視に怯え、隣人すら信じられない。……国家保安省の恐怖に支配されたこの狂った東ドイツを、我々の手で終わらせるんだ。市民を国家保安省の呪縛から解放し、本当の自由を勝ち取る。そのための決起だ!』
『『『おおおおッ!!!』』』
部下たちの士気は高い。彼らは地の利を活かし、市街地の要所へ国家人民軍の教本通りに完璧な迎撃陣形を敷いていた。大通りには十字砲火のキルゾーンを構築し、死角には対戦車兵器を構えた歩兵を配置済みだ。どれほど強力な鎮圧部隊が来ようと、この入り組んだ市街地で正面からやり合えば、防衛側が圧倒的に有利である。
『気を引き締めろ。国家保安省の鎮圧部隊が来るぞ。……相手が誰であろうと、罠に誘い込み、十字砲火で蜂の巣に――』
『大隊長!レーダーに感あり!接近してくる戦術機部隊、数は……たったの11機?』
索敵を担当していた部下からの報告に、中隊長は眉をひそめた。
11機。わずか1個中隊にも満たない戦力だ。こちらは市街地全域に大隊規模の防衛線を敷いている。いかに鎮圧部隊とはいえ、たった11機でこの要塞化したライプツィヒに突入してくるなど、正気の沙汰ではない。
『たった11機だと……?先遣隊か?いや、いくらなんでも少なすぎる。機種の特定を急げ!』
『機種特定!これはMiG-23……しかし、黒い……!?』
通信越しに、部下の声が裏返った。
モニターに映し出されたのは、灰色の空を滑走してくる異様な機体群。一般的な国家保安省の迷彩塗装ではない。死神のローブのように、一切の光を吸い込む漆黒の戦術機。
『黒い機体……所属識別信号、国家保安省武装警察軍ッ!大隊長、奴ら……ヴェアヴォルフ大隊です!!』
『なっ……!?』
その名を聞いた瞬間、中隊長の全身から血の気が引き、強化装備の下で嫌な冷や汗がどっと吹き出した。
対人類戦において頂点に立つ、粛清部隊の人狼ども。BETAだけではなく、同胞を殺すことにも特化した武装警察軍の最高戦力。
(奴らが、直接ここへ来たというのか……!)
市民を解放するという気高い決意が一瞬で凍りつき、理屈抜きの死の恐怖が部隊全体に伝染していく。
『大隊長!敵部隊散開!3方向から市街地を北上してきます!』
『あの機体数で分散しただと!?……狙いは最初からニコライ教会の司令部か!第3中隊の各小隊は3方向へそれぞれ展開し、敵の進軍を食い止めろ!』
大隊長はすぐさま迎撃の指示を飛ばした。市街地の強固な防衛網に飛び込んでくる以上、少数で分散すれば各個撃破の的になるだけだ。
だが、その常識は、交戦が始まった瞬間に無惨に打ち砕かれた。
『ぎゃぁぁぁッ!?な、なんだこいつらの機動――ッ』
『だめだ、攻撃が当たらないっ――うわぁぁぁっ!』
部隊の通信回線に、次々と味方の悲鳴と管制ユニットが粉砕される爆発音が響き渡る。前線で激突した第3中隊からの報告は、絶望的なものだった。MiG-23とMiG-21という機体性能の差もさることながら、それ以上に、ヴェアヴォルフの対人類戦における練度の高さが常軌を逸していたのだ。
BETA戦のセオリーしか知らない国家人民軍の衛士たちと、息を吸うように同胞を狩り続けてきた武装警察軍の人狼たち。その絶対的な技量と殺意の差は、市街地という複雑な地形で残酷なまでに露呈した。
『……大隊長、第3中隊との通信途絶。……敵部隊なおも進行中です』
『ええい、狼狽えるな!相手はたかが11機だぞ! 第2中隊はこちらに合流しろ、連携して敵をトラップ地帯へ誘い込む!路地の死角を利用し、十字砲火で確実に削り取るんだ!』
大隊長は焦りを押し殺し、決死の陣地変換と連携攻撃を命じた。
ライプツィヒの入り組んだ市街地は、本来であれば防衛側が圧倒的に有利な地形である。地の利を活かした死角からの待ち伏せ、建物の陰からの対戦車ミサイル、そして十字砲火。離反した人民軍の衛士たちは、そのセオリー通りに市街地の要所へ完璧な迎撃陣形を再構築した。
だが、彼らが相手にしているのは、BETAではなく人間同士の殺し合いにおいて頂点に立つ処刑部隊だった。
交戦距離まであとわずか。そして、彼らが恐怖に呑まれかけたその時――まるで彼らを嘲笑うかのように、ヴェアヴォルフ大隊第3中隊の恐るべき蹂躙が始まった。
『――馬鹿なッ!?なぜそこから来る!』
後退してヴェアヴォルフ大隊を待ち構えていたシュヴァルベ大隊の指揮官は、血走った目で自機のモニターを睨みつけていた。
彼らは大通りに敵を誘い込み、十字砲火で蜂の巣にするはずだった。だが、迫り来る漆黒の戦術機部隊は、誘い込まれるどころか、防衛陣地の死角になるルートだけを的確に、かつ一切の躊躇いもなく突き進んでくる。
『迎撃陣形を再構築しろ!陣地変換!第2小隊は右翼へ展開して敵の側面を叩け!』
必死に部下へ指示を飛ばし、部隊を動かす。だが、彼らが移動を完了するよりも早く、その移動先のポイントにはすでにヴェアヴォルフ第9小隊が陣取っていた。
『ひっ……!? な、なんで俺たちの動きが――』
通信越しに響く部下の悲鳴。まるで自分たちの作戦が、一から十まで完全に読まれているかのようだった。国家人民軍の教本通りの陣形変更など、彼女たちの前では、次にどう動くかを自ら教えているのに等しかったのだ。
『ええい、こうなったら後退しつつ敵を誘い込め!路地裏のトラップ地帯まで引きつけるんだ!』
小隊長は決死の覚悟で後退射撃を指示した。追撃してくる漆黒の機体を罠へ誘導するため、反撃しながらじりじりと後退する。よし、敵が追ってくる。このまま路地の奥まで引きずり込めば――。
――ドンッ!!
突如、彼らの背後で、巨大な石造りの分厚い壁が内側から吹き飛んだ。
『……え?』
振り返った大隊長の目に映ったのは、いつの間にか自分たちの背後に完全に回り込んでいた、第7小隊の漆黒の機体群だった。
罠に誘導していたつもりが、自分たちが完全に退路を塞がれた処刑場へと誘導されていた。
『――やっぱりここだよね』
通信回線に響くエルケの甘い声は、まるで温かい部屋で優雅にチェスの駒を動かすプレイヤーのようだった。
『小隊各機、射撃開始』
『『『了解!!!』』』
直後、第7小隊の36mm機関砲が一斉に火を噴く。
後退に集中していたシュヴァルベ大隊は完全に虚を突かれ、反撃すら許されずに次々と管制ユニットを撃ち抜かれて沈黙した。
エルケは自らの手を一切汚すことなく、地形と敵の心理を完璧に計算し尽くし、無慈悲な3方向からの同時強襲により、シュヴァルベ大隊の防衛陣地を文字通り内側からズタズタに食い破っていた。
その圧倒的な指揮能力。盤上の駒を弄ぶかのような冷徹さと、対人戦戦術への底知れない理解度。
「……マジで、悪魔みたいな女狐だぜ」
ミハイルは忌々しそうに悪態をついた。防衛線を維持することなど到底不可能となり、パニック状態のまま機体を散らしていく衛士たち。
だが、その崩壊していく戦線の中で、死の雨から命からがら逃れ、たった一つだけ死に物狂いでニコライ教会へ後退しようとする部隊があった。
指揮官機を中心とする、シュヴァルベ大隊の大隊長直属、第1小隊である。
そして、その手負いの彼らが絶望の中で逃げ込んだ先こそが、他ならぬミハイルたち第8小隊の受け持つ突入ルートだった。
「第8小隊、傾注。……最後の仕上げだ。女狐の予想通りなら敵の親玉がこっちに来んぞ」
ミハイルの気だるげな声が通信機から聞こえてくると、ルーカスの軽い声が返ってきた。
『了解。で、ミハイル。作戦はどうする?』
「俺とリィズで連中を大通りへ追い込む。仕上げはお前らでやれ」
『おっ、一番美味しいところを譲ってくれるのか?ありがたく頂くぜ。……で、サブプランは?追い込みが失敗した場合の次善策は用意してあんだろ?』
「あ?そんなもん臨機応変に決まってんだろ」
ミハイルが至極当然のように言い放つと、ルーカスが『出たよ、ミハイルの丸投げ!』と大げさに笑う。それに続くように、ハンナの呆れたような深いため息が通信回線に響いた。
『……はぁ。要するに、いつもの行き当たりばったりですね。相変わらずミハイルさんの辞書には計画性という言葉がないようで、頭が痛くなります』
「うるせぇ。結果が出りゃ同じだろ。……来るぞ、死ぬなよ」
ミハイルが憎まれ口を叩き返した、まさにその時だった。
崩落した廃ビルの陰から、黄色いペイントを施した離反兵のMiG-21の編隊が姿を現した。彼らはニコライ教会へと後退するため、死に物狂いで突撃砲を乱射してくる。
だが、ミハイルは焦ることなく冷静に機体を滑らせ、敵の射線を誘導した。
「リィズ、右から回り込め、タイミング合わせろ!」
『了解。……今っ!』
リィズ機が、ミハイルと寸分違わぬ無駄のない機動で敵の側面に回り込む。ミハイルとリィズ、二機による息の合った威嚇射撃と絶妙な位置取りによって、シュヴァルベ第1小隊は完全に退路を塞がれ、開けた大通りへと追い立てられた。
「ルーカス、お膳立ては済んだぞ、掃除しろ!」
『あいよ!待ちくたびれたぜ!』
大通りの死角で待ち構えていたルーカスの機体が躍り出る。その両腕には、36mm機関砲が二丁構えられていた。
『あの世で神様に会ったら、俺たちの分までお祈りしといてくれ!』
猛烈な射撃音。ルーカスが両腕から放つ36mmの弾幕が、密集していた2機のMiG-21をまとめて蜂の巣に変える。装甲がひしゃげ、血飛沫代わりにオイルを吹き出しながら崩れ落ちる敵機。
『ひっ……!?ば、化け物どもが!』
仲間の無惨な死を目の当たりにし、恐慌状態に陥った1機が、統制を乱して空へ逃れようと跳躍を試みた。だが、その無防備な背中を、第8小隊の死神が見逃すはずがない。
『……戦場で背を向けるなんて、素人以下ですね』
ハンナの静かな呟きと共に、120mm徹甲榴弾が正確無比な軌道で空を裂く。一発の狙撃弾が、空中に浮き上がった敵機の管制ユニットをピンポイントで貫通した。逃亡を図った機体は糸が切れた人形のように墜落し、瓦礫の山に激突して爆散する。
瞬く間に部下を全滅させられ、残されたのは黄色いペイントがひときわ目立つ大隊長機ただ1機のみとなった。
『き、貴様らぁぁぁッ!!』
自暴自棄になった大隊長機が、血を吐くような絶叫と共にミハイル機へ向けて決死の特攻と36mm機関砲の掃射を放った。建物の死角を突いた、死兵の完全な奇襲。
ミハイルが回避行動を取ろうと操縦桿を引いた、その刹那だった。
「――リィズ、指揮官機をやるぞ」
『わかった』
ミハイルの短く冷徹な指示。その声が終わるよりも早く、ミハイルの斜め後方に控えていたリィズの機体が、弾かれたように前へ飛び出した。
恐怖も、躊躇いもない。ただ持ち主の命令を100%の純度で実行する絶対的な信頼。
ズガガガガッ!!と、敵機の放つ36mmの弾幕がアスファルトを砕き、火花を散らす。
『この国は変わらなければならない。……自由と平和のために!!』
だが、リィズの漆黒の機体は、その死の弾幕を紙一重の最小動作で掻い潜っていく。無駄な機動が一切ない、まるで氷上を滑るようなステップ。
それは、誰よりも間近で背中を見つめ続けてきた、ミハイル・ホフマン自身の回避機動と全く同じだった。
『なっ……!?こいつ――!』
大隊長が驚愕の声を上げた時、リィズ機はすでに敵機の懐、完全なゼロ距離へと潜り込んでいた。右腕には近接戦闘短刀、左腕には36mm機関砲。
それは、ミハイルが最も得意とする二刀流の戦闘スタイル。
「――自由?平和?……そんなの、どうでもいいよ」
管制ユニットの中。リィズの瞳には、かつての同胞に対する同情や殺戮の興奮は一切浮かんでいなかった。ただ凪いだ水面のような無表情のまま、彼女は一切の迷いなく右手の操縦桿を振り抜いた。鋭い金属音が市街地に響き渡る。
リィズの近接戦闘短刀が、大隊長機の構えていた突撃砲の銃身を根本から両断し、その勢いのまま、敵機の装甲の継ぎ目、管制ユニットの装甲を深く抉り裂いた。
『何故だ!?貴様らだって血の通った人間だろう!同胞を恐怖で支配し、食い潰す国家保安省が本当に正しいとでも思っているのか!?この狂った東ドイツを――』
魂を絞り出すような、悲痛な叫びが回線に混線する。昨日まで国家人民軍の制服を着ていたであろう、自由を夢見た同胞の悲鳴。以前のリィズなら、この悲鳴を聞いて泣き叫び、引き金を引けなくなっていたはずだ。
だが、今の彼女の心は一ミリも揺れない。
彼女の主人は「潰せ」と命じたのだ。それ以外のノイズは、今の彼女には認識すらされない。
リィズは近接戦闘短刀を振り抜いた反動を利用し、機体を滑らかに旋回。がら空きになった大隊長機の管制ユニット、その抉れた装甲の亀裂に、左腕の36mm機関砲の銃口を直接ねじ込んだ。完全なるゼロ距離から轟音と共に、36mmの雨が敵衛士の肉体ごとコックピットを徹底的に粉砕する。
オイルと、大隊長だったモノの赤い肉片が、リィズ機の漆黒の装甲にドロドロと降り注ぐ。硝煙と血の匂いが立ち込める市街地。
『――第3中隊各員、よくやってくれたね。敵部隊の全滅を確認。……これで作戦は終了だよ』
ライプツィヒの灰色の空の下、エルケ・アオスト大尉の艶やかな声が、何事もなかったかのように響き渡った。
彼女がチェス盤を片付けるようにそう告げた瞬間、街を満たしていた凄惨な銃声と爆音は、嘘のように静まり返っていく。
『各小隊は現位置で待機。あとは、後続の歩兵部隊に任せよう』
エルケの言葉通り、第8小隊の戦術機が佇む市街地の向こうから、漆黒の装甲車を連ねた国家保安省の憲兵部隊が、まるで黒い波のように雪崩れ込んできた。
彼らは、瓦礫の山となったライプツィヒの街並みにも、そこに転がる元同胞たちの無惨な肉片にも、一切の視線を向けない。ただ機械的に、そして迅速に、反体制派の司令部となっていたニコライ教会の周囲を包囲していく。
コンクリートの塵が舞いながら、教会の鐘の音がライプツィヒの街に響き渡る。
装甲車から降り立った国家保安省の憲兵たちは、銃を構えたまま教会の重厚な扉を乱暴に蹴破った。
中にいたのは、武器を捨て、ただ平和を祈るように身を寄せ合っていた非武装の市民たちと、生き残ったわずかな離反兵たち。彼らが恐怖に震え上がる中、憲兵たちは容赦なくその細い腕を掴み、泥水の上へと引きずり出していく。
彼らの自由を求めた抵抗は、国家保安省という巨大なシステムの前で、平和を告げる鐘の音と共に踏みつぶされた。
ライプツィヒでのクーデター鎮圧任務を終え、基地の駐機ブロックには帰還した漆黒の戦術機群が並んでいた。
装甲が軋む音と、圧縮空気の排気音が入り混じる無機質な空間。管制ユニットから降り立った第8小隊の面々には、無事に作戦を終えた安堵の空気が漂っていた。
「……お疲れ様です、リィズさん」
汗を拭いながら歩み寄ってきたハンナが、いつものように淡々とした、けれど眼鏡の奥の瞳に確かな称賛を宿して言った。
「作戦中の機動、実に見事でした。初めての市街地戦、しかもあの乱戦の中で、ミハイルさんの回避機動にコンマ1秒の遅れもなく追従するとは……。リィズさんの高い操縦適性を、改めて客観的な事実として認めざるを得ません」
「えっ……本当?」
ハンナからの言葉に、リィズはパッと顔を輝かせた。つい先ほど、同胞の命乞いを一蹴してゼロ距離で粉砕したとは思えないほど、その笑顔は無垢で、純粋なものだった。
リィズはタラップを降りた足でそのままタタタッと小走りで駆け寄ると、ハンナの両手をギュッと握りしめた。
「ありがとう、ハンナちゃん!ハンナちゃんが後ろからしっかり支援してくれたおかげだよ!」
「っ……リィズさん、その、ちょっと近すぎます。……それに、私は自分の役割を合理的にこなしたまでです」
突然のスキンシップに慣れていないのか、ハンナは少しだけ肩をビクッと跳ねさせ、ほんのりと頬を染めて気まずそうに視線を泳がせた。
その照れた顔が年相応でたまらなく愛らしく見えて、リィズは手を離すどころか、さらにニコニコと顔を近づける。
「えへへ、ハンナちゃんってば赤くなってる。可愛い!」
「か、可愛っ……!?リィズさん、からかわないでください。私たちは軍人で、ここは……っ、ちょっと、くっつきすぎです!」
慌てて抗議するハンナをよそに、リィズは「えいっ」とそのまま彼女に抱きついてじゃれつく。
「えへへ。あのね、私ハンナちゃんとお友達になりたいの……。だって、女の子同士だし、歳も近いし。もっと仲良くしたいな!」
「……お、お友達、ですか……?」
口では止めてくださいと文句を言いながらも、ハンナの抵抗はひどく弱々しい。押し返す手には全く力がこもっておらず、眼鏡の奥の瞳はどこか照れくさそうに、けれど嬉しそうに和らいでいた。
「あと、この間のフルーツ缶のお礼、まだちゃんとできてなかったから。今日の夕飯の時、私の分のデザート、ハンナちゃんに半分お裾分けするね!だから、一緒に食べよ?」
真っ直ぐに向けられる、年相応の女の子らしい純粋な好意。
「……っ。あの時のフルーツは、あくまで小隊の戦力維持のための栄養補給として……」
ハンナは耳まで赤くして早口で言い訳を並べたが、リィズが「だめ?」と小首を傾げて上目遣いで見つめると、ついに観念したように小さくため息をついた。
「……わかりました。あなたがそこまで言うのなら、その提案を受け入れます」
「やった!約束ね、ハンナちゃ――わっ!?」
喜んでハンナの手を振ろうとしたリィズは、不意にギュッと体を締め付けられて驚きの声を上げた。
見れば、ハンナが仕返しとばかりに、リィズの背中に腕を回して強く抱きつき返していたのだ。
「ハ、ハンナちゃん……?」
「……私たちはお友達なのでしょう?でしたら、これくらいのスキンシップは一般的なはずです。なにか問題でもありますか?」
耳まで真っ赤にしながら、むすっと口をとがらせて言い放つハンナ。理屈をこねながらも、その腕はリィズを拒絶するどころか、しっかりと温もりを確かめるように抱きしめている。
一瞬目を丸くしたリィズだったが、ハンナの不器用な歩み寄りがたまらなく嬉しくて、ふにゃりと顔をほころばせた。
「えへへ……うん!私たち、お友達だもんね!」
リィズも満面の笑みでハンナを抱きしめ返す。殺伐としたハンガーの中に、二人の少女の笑い声と確かな温かさが生まれていた。
そんな二人の様子を、少し離れた駐機区画の陰から見つめる影が二つあった。
「おーおー、お嬢ちゃんたちがすっかり仲良しなこって」
ルーカスが紫煙を細く吐き出しながらニヤニヤと笑う。彼は携帯灰皿を片手にタバコを吹かしていたミハイルの肩をポンと叩いた。
「なぁ、ミハイル。見たかよ今の。ウチの氷の優等生が、あんなに人に懐くなんてな。明日はベルリンに槍でも降るんじゃねぇか?」
「ああ、槍どころか、BETAが白旗でも上げて投降してくるかもな」
ミハイルはフッと皮肉げに口角を上げ、短くなったタバコの灰を落とした。
「……ま、リィズが勝手に懐に転がり込んだだけだろ。ハンナのやつも、意外と押しに弱いからな」
「ハハッ、違いねぇ。……でもよ、ずっと気を張ってたハンナに、ああやって年相応に笑い合える本当のダチができたのは、素直に良いことじゃねぇか」
ルーカスの少しだけ真面目で優しい声色に、ミハイルも無言でハンナたちの方へ視線をやった。
「……そうだな。14歳と16歳なんだ、あれくらいが普通だろ」
ミハイルが気だるげに吐き捨てると、ルーカスは呆れたように肩をすくめ、からかうような視線を向ける。
「おいおい。お前だって同じ16歳だろうが。あんまり一人で気を張りすぎるなよ、ホフマン中尉殿?」
「……余計なお世話だ。俺は効率よくサボる算段をしてるだけだ」
図星を突かれたミハイルが不機嫌そうに鼻を鳴らした、その時だった。遠目からこちらに気づいたリィズが、パッと顔を輝かせた。
「あ、ミーシャ!」
彼女はタタタッと小走りでミハイルの元へと駆け寄ってくる。そして、勢いそのままに彼の腕にぎゅっとしがみつくように身を寄せた。
「ねぇ、ミーシャ」
上目遣いで、世界で一番大切な主人を見つめる。
「私、ミーシャの言った通り、絶対に側から離れなかったよ。敵もちゃんと、ミーシャの邪魔にならないようにやっつけた。……私、役に立った?」
純粋な期待に満ちた、甘い声。ミハイルの脳裏に、大隊長機のコックピットをゼロ距離で粉砕した姿が甦る。
あの氷点下の屋上で、自分が「お前は俺の道具だ」と言って心を停止させてしまった少女。ハンナと笑い合うような普通の人間らしさを残しながらも、リィズは戦場に出れば自分の命令を完璧にトレースし、一片の感情もなく同胞を肉片に変える狂った影となっていた。
ミハイルは、それらの事実と込み上げてくる強烈な罪悪感から目を逸らすように、しがみついてくるリィズの頭に、不器用な手つきでポンと手を置いた。
「……ああ。よくやったな、リィズ」
「……っ!ありがとう、ミーシャ!」
ミハイルから発せられたその短い肯定に、リィズは花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、さらに強く彼にすり寄る。そして、ミハイルの腕に抱きついたまま、くるりと振り返ってハンナへ自慢げに笑いかけた。
「えへへっ、ハンナちゃん!私、ミーシャに褒められちゃった!」
「……ええ。良かったですね、リィズさん」
ハンナが眼鏡の奥の瞳を和らげ、静かに微笑む。その隣で、ルーカスもニカッと笑って白い歯を見せた。
「ハハッ、違いねぇ!こいつに褒められるなんて、もう立派な一人前の衛士だな!」
「うんっ!」
ルーカスの言葉に、リィズは弾けるような笑顔で大きく頷いた。
リィズの今の安定が、ミハイルという主人に思考をすべて預けたことで辛うじて成り立っていることを、ルーカスとハンナは知っている。だからこそ、からかうような軽口を叩き、客観的な事実として彼女を褒め、不器用な友情に応え、この幼稚園みたいな小隊の日常を全力で維持しようとしていた。
外から見れば、それは優秀な新人を受け入れる歴戦の部隊の、心温まる帰還の光景そのものだった。
だがその実態は、人殺しの業をすべて主人に押し付けて無邪気に笑う狂った道具と、その罪を一身に背負い続ける主人。そして、二人の共倒れを防ぐために盾となる仲間たち。
凄惨な殺戮の上に築かれた、決して後戻りの許されない狂気の連帯がそこにあった。