大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1982年 夏 国家保安省 武装警察軍 ヴェアヴォルフ大隊本部 喫煙所
換気扇が重々しい音を立てて回る、コンクリート打ちっ放しの殺風景な空間。
ミハイル・ホフマンは壁に背を預け、深く紫煙を吸い込んだ。
ニコチンが肺を満たし、鉛のように重い頭をわずかに軽くしてくれる。最近、眠りが浅い。ベッドに入っても、雪原で泣き叫んでいたリィズの声が頭から離れずに、目を覚ましてしまうからだ。
「……あー、クソ。頭痛てぇ」
吸い殻を灰皿に押し付け、二本目に火をつけようとジッポライターを取り出した、その時だった。
「やぁ、ミハイル。君もサボり?」
鼓膜を撫でるような、ひどく甘くて柔らかい声。同時に、タバコの煙を上書きするように、高級な香水の匂いが喫煙所に流れ込んできた。
ミハイルの背筋が反射的に強張る。振り返ると、第3中隊隊長エルケ・アオスト大尉が、艶やかな笑みを浮かべて立っていた。
「お疲れ様です、アオスト大尉。隠れてる俺が言うのもなんですが。……ここ、将校用じゃなくて下士官や一般兵用の喫煙所ですよ」
「いいじゃない、たまには部下たちの空気を味わってみるのも」
そう言ってエルケはミハイルの隣に並ぶと、細い指でタバコを一本抜き出し、ゆっくりと火をつけた。ふぅ、と紫煙を吐き出すその仕草は、どこにでもある職場の休憩時間の、ただの他愛ない雑談の始まりのように見えた。
「珍しいね、今日はリィズと一緒じゃないんだ?」
「……俺たちは四六時中一緒にいるわけじゃありませんよ。あいつは今、ハンナたちとシミュレーターで機体の調整中です」
ミハイルが気だるげに、興味なさそうに答える。だが、エルケはその言葉を聞いて「ふふっ」と楽しそうに笑い声を漏らした。
「そうかな?私には、二人はとっても仲が良いように見えるけどね。……どこに行くにも一緒で、君が右と言えば右を向き、撃てと言えば一切の躊躇なく引き金を引く。本当に、息の合った素晴らしいコンビだよ」
エルケは灰皿の縁でトントンとタバコの灰を落としながら、まるで昨日の夕飯のメニューでも思い出すかのような気軽さで言葉を続けた。
「でも、本当に不思議な縁だよね。……君が、あの地下の尋問室からあの子を引っ張り上げてきたんでしょ?」
ミハイルの肩が微かに強張る。
「亡命しようとした娘が、いきなりとびっきりの衛士の適性を見出されて、よりにもよってこのヴェアヴォルフに配属されるなんて……本当に奇跡みたいな話だ。君のその素晴らしい先見の明には、ベアトリクスもさぞかし感心してると思うよ」
(……この女狐、知ってやがる)
公文書偽造。自分の首を賭けた細工を、彼女は完全に把握している。だが、エルケはそれを直接口には出さず、ただ口元にタバコを運びながら細く煙を吐き出した。
「でもさ、ミハイル。リィズをあの暗い独房から救い出したつもりかもしれないけど。……君が連れてきたのは、毎日誰かの肉片が飛ぶ、この国で一番の地獄だよ?」
ミハイルはジッポライターを弄る手を止め、舌打ちを堪える。エルケの言葉には、明らかな毒が混じっていた。
「そして、半年前のあの雪原で、逃亡者を殺した夜から。……あの日を境に、リィズは変わった。普通の怯えた女の子から、一切の感情を交えずに人を殺せる、私好みの素晴らしい兵器にね。……でもそれは、あの子が自分の意思でなったわけじゃない」
「……何が言いたいんですか、大尉」
ミハイルの声が、一段低くなる。エルケはそれを意に介さず、紫煙の向こう側から獲物をいたぶる蛇のように目を細めた。
「君が背負ったんでしょ?リィズの罪悪感も、人殺しの業も、何もかも」
「……ッ」
ミハイルはギリッと奥歯を噛み締め、苦悶に満ちた表情で顔を深く歪めた。絶対に誰にも触れられたくなかった、血の滲むような本心を容赦なく抉り出されたからだ。
「優しいね、ミハイルは。自分が地獄に落ちる覚悟で、彼女の指に自分の指を重ねて、「道具になれ」っていう逃げ道を与えてあげた」
すべて見透かされていた。あの日、二人きりの屋上で交わした歪な契約を、この女狐はまるでその場で見ていたかのように語る。エルケは吸い終わったタバコを優雅に灰皿へ押し付けた。
「本当に美しい自己犠牲だ。……でもね」
彼女はミハイルの耳元に顔を寄せ、休憩時間の雑談とは思えないほど冷酷な囁きを落とした。
「君がどれだけ罪を被って、サボり魔のフリをして平気な顔を作っても……自分が無垢な女の子を人殺しの道具に洗脳したっていう事実は、一生君を苛み続ける。……ねえ、ミハイル。どんな気分?自分の勝手なエゴで、一人の女の子の人生をめちゃくちゃにした気分は」
プツン、と。
ミハイルの中で、何かが決定的に切れる音がした。
「――てめぇ……ッ!!」
ミハイルの右手が弾かれたように伸び、エルケの制服の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。
ガツン!と鈍い音を立てて、エルケの華奢な身体が喫煙所のコンクリートの壁に叩きつけられる。
「……ふふっ」
下士官が上官に手を上げる。それは即座に銃殺刑に処されてもおかしくない明確な反逆行為だ。だが、壁に叩きつけられ、ミハイルの怒りに満ちた瞳で至近距離から睨みつけられながらも、エルケは全く怯えることなく、むしろ歓喜に満ちた妖艶な笑みを浮かべていた。
「いい顔だね、ミハイル。……いつもみたいに、サボり魔の仮面で隠せばいいのに」
「黙れ……ッ!あんたに、あんたにあいつの何が分かる……ッ!!」
ミハイルの怒声が、薄暗い喫煙所に響き渡る。掴み上げた拳が小刻みに震えていた。それは怒りか、それとも図星を突かれたことへの絶望か。
あの夜からずっと一人で抱え込み、必死に覆い隠してきた痛みのど真ん中を、この女狐は休憩の雑談のついでに土足で踏み荒らし、笑っているのだ。
「……俺だって!あんなことしたくなかった……ッ!」
ミハイルは歯を食いしばり、血を吐くような声で叫んだ。気だるげなサボり魔の仮面は完全に砕け散り、そこには罪悪感に苛まれ、ボロボロになった17歳の少年の素顔が剥き出しになっていた。
「あのまま独房に放っておけば、あいつはアクスマンに薬漬けの廃人にされて終わりだった!生き延びさせるためには、この地獄に引きずり込んで戦わせるしかなかったんだよ!兄貴に会わせるためには……ここで実績を作らせてやるしか、道がなかったんだ!」
ガンッ!と、ミハイルはエルケをさらに強く壁に押し付け、自らの額を擦り付けるようにして言葉を絞り出す。
「「道具になれ」……?ふざけんな。誰がそんなこと言いたかったもんかよ……!俺のせいで、リィズは人殺しになった。俺が、あいつの手に自分の手を重ねて、無理やり引き金を引かせたんだ!……あいつが俺を頼りにして、あの空っぽな笑顔を向けてくるたびに……俺がどれだけ自分の頭を撃ち抜きたくなってるか、あんたに分かるかよ……ッ!!」
それは、今まで誰にも言えなかったミハイルの魂の叫びだった。
ルーカスにすら見せなかった、血の滲むような葛藤。リィズの命を救った代償として、彼女の人間性を奪ってしまったという耐え難い自己嫌悪。自分が地獄に落ちる覚悟などとっくにできている。だが、彼女の純粋な依存と信頼を向けられるたびに、自分の犯した罪の深さに心が軋み、夜も眠れなくなるほど悲鳴を上げているのだ。
「……ハァッ……ハァッ……」
全てを吐き出し、ミハイルは荒い息を繰り返した。掴みかかっている右手に込められた力が、限界を迎えたように微かに震え、緩んでいく。
その間、エルケは一言も発しなかった。乱暴に壁に押し付けられた衝撃で、漆黒の制服の襟元は大きく乱れ、艶やかな赤髪もパラパラと顔にかかるように解け落ちていた。
だが、彼女は自分の乱れた衣服を直そうとも、ミハイルの腕を振り解こうともしなかった。
ただ、静かに。ミハイルの口から溢れ出る血を吐くような葛藤と絶望を、まるで極上のオペラでも鑑賞するかのように、うっとりと目を細めて受け止めていたのだ。
下士官に胸ぐらを掴まれ、服を乱されてなお、彼女の妖艶さは微塵も損なわれていない。むしろ、その乱れた姿が彼女の底知れない異常性を際立たせている。
怒りも、怯えもない。そこにあるのは、自らの手で分厚いサボり魔の殻を叩き割り、中から現れた傷だらけで美しい魂の輝きに見惚れるような、冷酷な彼女の恍惚だけだった。
ミハイルの荒い呼吸音と、換気扇の回る音だけが響く中。エルケは壁に縫い留められた姿勢のまま、ゆっくりと、白く細い右手を伸ばした。そして、絶望と怒りに顔を歪めるミハイルの頬を、まるで泣きじゃくる子供をあやす母親のように、酷く優しく、そっと撫でた。
「……あんただって……」
ミハイルは消え入りそうな声で、掠れた息を吐き出した。エルケの胸ぐらを掴み上げていた腕から、完全に力が抜け落ちる。
「死にそうだった俺に……そう、してくれただろ……っ」
ミハイルの身体がずるりと崩れ落ちる。彼はそのままエルケへと寄りかかり、声にならない嗚咽を漏らした。
「……う、あ……ぁぁ……」
誰にも見せられなかった涙が、エルケの制服を濡らしていく。エルケは、乱暴に掴みかかられて乱れた襟元を直すこともせず、寄りかかってくる少年の重みを静かに受け止めた。そして、空いた両腕で泣き崩れる彼の背中を、まるで迷子をあやす母親のように、酷く優しく抱きしめる。
「……優しいところは、昔から変わらないね」
エルケはミハイルのくしゃくしゃの髪をゆっくりと撫でながら、聖母のように甘く、けれどどこか残酷な響きを持つ声で囁いた。
「アクスマンの下で、君は嫌というほど見てきたものね。……凄惨な拷問で人間性を完全に破壊され、ただ狂って暴走するだけの兵器に成り果てた、同年代の仲間たちの、その残酷な末路を」
その言葉に、ミハイルの肩が微かに震える。地下の尋問室で、薬物と暴力によって心を砕かれ、廃人になっていった無数の子供たちの光景が脳裏を過った。
「普通の女の子だったリィズにとって、ここは地獄かもしれない。……でもね、ミハイル。君はあの子を救ったんだよ」
「……っ、うぅ……違う……俺はっ!」
罪悪感に押し潰され、差し伸べられた救いの言葉すらも拒絶しようと、ミハイルはエルケの胸の中で必死に首を横に振った。
自分が彼女を人殺しにしたのだ。そんな綺麗事で許されていいはずがない。
しかし、エルケはそんな彼の痛切な否定をすっぽりと包み込み、赦すように、抱きしめる腕にさらに温かな力を込めた。そして背中をゆっくりと叩きながら、泣き叫ぶ幼子をなだめるように、深く優しい声を落とす。
「ううん、違わない。君は自分が彼女を歪めたって泣いているけれど。あの子の奥底に今も、仲間と笑い合えるような普通の女の子としての人間らしさが壊れずに残っているのは、君が地下からあの子を掬い上げ、罪を被ったからだよ。それを忘れちゃダメ」
すべてを見透かしたようなエルケの静かな囁き。
それは、道具に貶めたという罪悪感で自分を責め続けていたミハイルにとって、彼の奥底にある本当の願いを掬い上げる何よりの救済だった。
――その肯定の言葉と甘い香水の匂いが、ミハイルの脳裏に血に塗れた記憶を甦らせる。
アクスマンの犬として使い潰され、心が完全に壊れかけていた猛吹雪の夜。亡命者を撃てず、上官に銃口を突きつけられ、ついに死を受け入れたあの瞬間。
破裂音と共に上官の頭部が弾け飛び、血だまりの中に現れたエルケが、今のようにおびえる自分の頬を撫でたのだ。
「……思い出すね。あの吹雪の中でガタガタ震えていた君を」
エルケは、ミハイルの背中を子供を寝かしつけるようにゆっくりとトントンと叩きながら、かつてと同じ呪文を耳元でなぞる。
「「君の罪は、全部私のものにしてあげる。だから、君はただ、私の道具になりなさい。……考えなければ、もう何も痛くないから」……そうやって私が君の心を麻酔で守ってあげたように」
エルケからのその言葉に、ミハイルは弾かれたように両目を見開いた。
「君も、大切なものを壊さないために……あの子に同じ、残酷な選択をしてあげたんだね」
その優しくも呪いのような肯定に、ミハイルは声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。
自分を絶望から救い出し、同時にサボり魔という仮面を被せて地獄の底へ永遠に縛り付けたこの妖艶な女狐の腕の中で。
「よく、一人で頑張ったね。えらいよ、ミハイル」
換気扇の回る音だけが響く薄暗い喫煙所。エルケは泣き崩れる少年を抱きしめたまま、誰に見せるでもなく、ぞっとするほど美しく、聖母のような笑みを浮かべていた。
やがて、ミハイルの肩の震えが少しずつ治まり、子供のような嗚咽が静かな深呼吸へと変わっていく。
彼が完全に泣き止んだのを見計らうように、エルケは抱きしめていた腕をそっと解き、彼の顔を下から覗き込んだ。
「……落ち着いた?」
耳元で優しく、甘く語りかける声。我に返ったミハイルは、自分が上官に掴みかかり、あろうことかその胸の中で号泣してしまったという事実に気づき、サッと顔から血の気を引かせた。
彼は弾かれたようにエルケから身を離すと、ひどく気まずそうに目を伏せた。
「……すみません、アオスト大尉。俺、どうかしてました……」
壁に押し付けられたせいで襟元が大きく乱れ、白い肌と鎖骨があらわになったエルケの姿を直視できず、ミハイルは逃げるように視線を斜め下へ落とす。下士官が上官に手を上げるなど、本来なら即刻軍法会議ものの失態だ。
だが、当のエルケはミハイルの失態を気にする様子も無く、年相応の女性らしい、少しだけ拗ねたようなため息をついた。
「……ほんと、乱暴なんだから。普通の女の子なら、怖くて泣いちゃってたところだよ?」
「……壁に叩きつけられて恍惚と笑ってるようなやつが、普通の女の子なわけないでしょ」
まだ目尻に微かな涙の跡を滲ませながらも、ミハイルは必死にいつもの気だるげな表情を取り繕い、強がるように軽口を返した。泣き顔を見られた気恥ずかしさを誤魔化すような、年相応の不器用な強がりだった。
「もう。私だって、お化粧が崩れたり服が皺になるのは嫌な、ただの乙女なのに」
クスクスと、鈴を転がすように笑うエルケ。その無邪気な表情は、冷酷な国家保安省の将校でも、底知れない女狐でもなく、弟の反抗期をからかって楽しむ、どこにでもいる普通のお姉ちゃんの顔だった。
「まぁ、私としてはご褒美だったくらいだし。……いいよ。このくらい、許してあげる」
「……は?」
「だって私、昔から君のこと……可愛い弟みたいに思ってるからね。こうして時々、私にだけ弱いところを見せてくれるのは、お姉ちゃんとしてすごく嬉しかったよ」
悪戯っぽく目を細め、からかうように微笑むエルケ。
その言葉に、ミハイルは一瞬呆気にとられたように瞬きをし、やがて、憑き物が落ちたように、ふっと肩の力を抜いた。気だるげなサボり魔の仮面の下に隠していた、年相応の少年らしい、少しだけ呆れたような笑みがこぼれる。
「……ははっ。冗談キツいぜ」
「あら、本心なんだけどな」
「あんたみたいに底意地が悪くて、悪魔みたいな姉貴なんて……俺は絶対にごめんだね」
ミハイルがわざとらしく肩をすくめてみせながら笑うと、エルケもまた「ひどいなぁ」と言いながら、緩んだネクタイを外し、襟元を軽く整えてクスクスと楽しそうに笑い続ける。
先ほどまでの、息も詰まるような告白劇が嘘だったかのように。薄暗い喫煙所には、まるで悪戯好きの美しい姉と、それに振り回されながらも心を許している年頃の弟のような、どこか歪で、けれど間違いなく温かい空気が流れていた。
「ほら、こっち向いてミハイル。顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだよ」
「……っ、子供扱いすんじゃねぇ。自分で拭ける」
そっぽを向いて軍服の袖で乱暴に顔を拭うミハイルを見て、エルケはさらに口元を緩める。ミハイルのくしゃくしゃになった黒髪を、まるで幼子を褒めるようにポンポンと撫でた。
「あーあ。せっかく部下を持つかっこいい小隊長になってたのに、私の前じゃまた泣き虫のミハイルに逆戻りだね」
「……うるせぇ」
抵抗を諦めたのか、ミハイルは深くため息をつき、頭に乗せられたエルケの手を払いのけることすらせず、されるがままに項垂れた。
だが、その顔からは先ほどの痛ましいほどの絶望と悲壮感は消え去り、いつもの彼らしい、少しだけ呆れたような気だるい表情が戻っていた。
ミハイルは乱れた軍服の皺を軽く払いながら、ふと、空中に浮かせたままの自分の両手を見つめた。
先ほどまで怒りに任せてエルケの胸ぐらを掴み、そしてかつて、怯えるリィズの手の上に重ねて、無理やり引き金を引かせた自分の手だ。気だるげな仮面の下から、微かな不安と弱音がぽつりとこぼれ落ちる。
「……あのさ」
「ん?」
「あいつは……リィズは、いつか元に戻れると思うか?……このまま俺の道具として、感情を失った人形のままになっちまうのかって、時々怖くなるんだ」
縋るようなミハイルの視線を受け止めて、エルケはふっと優しく目を細めた。
そして、彼の頭に添えていた手をゆっくりと離し、今度はその両手で、ミハイルの震える右手をそっと包み込んだ。
「……時間はかかったけど、君もこうして、今は自分の足で歩けるようになったでしょ?」
「……え?」
思いがけない言葉に、ミハイルは目を丸くする。そんな彼を、エルケは愛おしい弟の成長を喜ぶように、ひどく優しく、穏やかな瞳で見つめ返した。
「リィズは確かに、今はまだ君がなきゃ歩けない、空っぽのお人形かもしれない。……でもね、あの子もいつかは自分の足で立って、歩かなきゃいけない」
エルケの言葉は、酷く静かで、残酷な現実を真っ直ぐに射抜いていた。
「辛いだろうけど……自分の犯した罪に、引いてきた引き金の重さに、あの子自身が向き合わなきゃいけない時は、いつか必ず来る」
突きつけられた残酷な真実に、ミハイルは返す言葉を見つけられず、ただ苦しげに目を伏せた。そんな彼の痛みを掬い上げるように、エルケはさらに優しく語りかける。
「でもそれは、君たちがこの地獄で生きていくために残された、唯一の道だ。……家族のため、恋人のため、友人のため、あるいは自分のために。誰だって、何かを守るための代償として引き金を引かなきゃ、この国では生きていけないんだから」
この国家保安省という狂った組織で、そしてBETAという化け物が蹂躙するこの世界で、無垢なままで生き残れる者などいない。誰もが血に塗れ、業を背負い、それでも立ち上がるしかないのだ。
「その覚悟を、ここにいる皆は決めてきた。……君も、その一人でしょ?」
「……ああ」
「次は、リィズの番ってだけだよ」
エルケはミハイルの手を軽く握り直すと、まるで迷子を励ますような、温かくて力強い微笑みを向けた。
「大丈夫。きっとリィズは覚悟を決められる。あの子は君が思っているより、ずっと強い子だから。……それまでは、君があの子をしっかり支えてあげてね」
その言葉に、ミハイルの心にこびりついていた深い霧が、すっと晴れていくのを感じた。
自分が彼女を歪めてしまったという後悔。いつか彼女が壊れてしまうのではないかという恐怖。そのすべてを、目の前の姉は、残酷な現実と共に優しく肯定し、背中を押してくれたのだ。
ミハイルは小さく息を吐き出し、包み込まれていた手をそっと引き抜くと、憑き物が落ちたような、清々しい顔で笑った。
「……そうだな。あいつは、強い」
「ふふっ、いい顔になったね」
その直後だった。ふわりと甘い香水が香り、エルケの両腕がミハイルの身体を包み込んだ。
「……っ、おいっ!?」
唐突な抱擁に、ミハイルは戸惑い、咄嗟に強張った肩を引こうとする。だが、エルケの腕は彼を逃がすことなく、その温もりごとしっかりと抱き留めた。
「ミハイル」
耳元に落ちた声は、どこまでも甘く、深い慈愛に満ちていた。
「私はね、これから先どんなことがあっても……例え、この国が君の敵に回ったとしても、ずっと君の味方だよ」
それは、血と硝煙に塗れたこの狂った世界で交わされる、何よりも確かな約束だった。
温かなその声と背中に添えられた手の優しさに、ミハイルの身体からゆっくりと警戒心が解け、強張っていた肩から力が抜けていく。
「だから、もう1人で背負わないで。……また辛くなったら、いつでも私のところにおいで」
ゆっくりと目を閉じると、ミハイルの胸の奥に、自分を突き動かす確かな原点が静かに蘇ってくる。
あの日、雪原で絶望し、死にそうになっていた自分を救い出してくれたこの姉のために、引き金を引く覚悟を決めた。それが彼の始まりだった。
だが、今はそれだけではない。彼女が与えてくれたヴェアヴォルフという地獄の底には、いつの間にか背中を預けられる仲間たちがいた。口うるさいが放っておけない仲間たち。そして、あの独房で出会った、自分が罪と業を背負うと誓った一人の少女。
自分を拾ってくれたこの姉と、ここで出会えた大切な仲間たちを守るためならば、どんな汚れ仕事だってやってのける。あの日から確かに広がったその決意は、今のミハイルを奮い立たせる強固な誓いとなっていた。
不器用な彼は気の利いた言葉を返すこともできず、ただ小さく「……ったく」とだけ呟いて、少し照れくさそうに目を伏せながら、姉の温かい包容を静かに受け入れた。
ひとしきり、穏やかな沈黙と温もりを分かち合った後。エルケはゆっくりと腕を解き、ミハイルから身を離した。感傷的な空気がすっきりと晴れ、いつもの気安い日常の空気が戻ってくる。
「さて、休憩終わり。私は執務室に戻るね。……あ、そうだミハイル」
立ち去ろうとしたエルケが、ふと振り返って悪戯っぽく笑う。
「ごめん、私の香水。君の服にべったり付いちゃったよね」
「……ゲッ。マジかよ、最悪だ」
感傷的な空気を一刀両断され、ミハイルが慌てて自分の襟元を嗅ぎ、露骨に顔を引き攣らせる。
「ふふっ。もしリィズに問い詰められたら、私のせいにして良いからね?」
「……は?なんでリィズに問い詰められなきゃならねぇんだよ」
ミハイルの心底不思議そうな、それでいて面倒くさそうな顔。それを見たエルケは一瞬ポカンと瞬きをし……やがて、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら、これ以上に無いほど大きなため息を吐き出した。
「……はぁ。ミハイル、君ってば本当に……」
「……なんだよ。いきなりため息なんかつきやがって」
むっとしたように口を尖らせるミハイルに、エルケはやれやれと大袈裟に肩をすくめてみせる。
「呆れてるの。君ね、年頃の女の子が、自分の世界の全てである男の服から、他の女の、しかもこんな露骨に甘い香水の匂いがついてたらどうなるか……本気で想像つかないわけ?」
まるで出来の悪い生徒を諭すようなエルケの呆れ顔。その具体的すぎる指摘に、ミハイルは僅かに狼狽えながらも、誤魔化すように顔を背けた。
「……っ!あいつがそんな、面倒くさい感情なんて……」
頑なに否定しようとする弟の言葉をピシャリと遮り、エルケは悪戯っぽく笑いながら断言した。
「持ってるよ、リィズは絶対に持ってる。君が絶望的に鈍感だから気づいていないだけでね」
エルケは確信に満ちた表情を浮かべながら、逃げ道を塞ぐようにミハイルの顔を覗き込んだ。
「あの子にとって、君の隣は誰にも譲れない自分の居場所なの。そこに他の女の影がチラつけば、絶対にいい気はしない。……いい?女の子の嫉妬っていうのはね、BETAよりもずっと怖くて、厄介なんだから」
ミハイルは「んな大袈裟な……」と忌々しそうに口を尖らせたが、エルケはそれ以上言い聞かせるのをやめた。いずれ嫌でも彼が思い知る日が来ることを確信し、悪趣味な期待を込めてクスクスと笑う。
「まぁ、その時はその時か……。よし、そろそろ戻ろっか。あんまりサボってるとまたハンナに怒られるよ?」
「……へいへい。分かってるよ」
いつもの軽口を叩き合いながら、エルケがひらひらと手を振って鉄扉の向こうへと消えていく。
残されたミハイルは、衣服に染み付いた強烈に甘い香水の匂いに頭を抱えながら、深々とため息をついた。
共に業を背負う者として。そして、地獄で寄り添う歪な姉弟として。二人の狼は、吐き出した煙草の煙と共に、再びそれぞれの仮面を被り直すのだった。