四十年前、アヴァリティアス王国西の海を渡った先、遠く離れた国に一人の男がいた。その国の中で圧倒的な強さを誇っていた男は何度も戦争に駆り出され、その度に破壊的な力によって勝利をもたらした。
そうして国から与えられた使いきれないほどの財産、身に余る名声、周囲からの厚い信頼。
そして何より、
「ねー、パパ! あっ、おとーさん! 見て見て!」
「今お父さんは忙しいみたいだから、代わりに私が見てあげる」
「いや、構わないさ。どれどれ?」
妻子とともに暮らし、彼にとって十分過ぎるほど幸せだった生活。男は自分の行いを善いことだと信じていた。自身も、他人も幸せそうな顔をしていたがゆえに。
しかし、彼の幸福に満ちた生活はそう長く続かなかった。
男は投獄された。戦争において大きな功績を残すのは多くの人間を殺すのと同義である。そんな声が上がり始めた。実際には戦争が終わり不要となった彼の力を恐れた権力者が、反逆される前に男を始末しておこうとしたのである。
いらぬ心配であったことに気づかぬまま男を処刑させようとした権力者は後に、その頭部を滅茶苦茶に殴られた無惨な姿で見つかることとなった。
断頭台に立った男の目の端に写ったのは彼の娘と妻。
男は絶望した。二人とも特に憔悴した様子ではなく、焦りも悲しみも顔には浮かんでいない。
男は思い出した。娘が自分のことをパパと呼んだり、おとーさんと呼んだり、呼び方が定まらなかったことを。
「私など、とっくのとうに愛想を尽かされていたか」
周囲の人間にとって、彼は英雄であると同時に恐怖の対象でもあった。
男は、『躊躇する』という思考を持ち合わせていないのだ。自身の行動が正しいかどうかを考える理性と、ある行動をしたいと思う感情はある。この二つの結果としておこなわれる行動に対する最後の砦、
『本当に正しいか? 本当に自分がしたいことはこれなのか?』
そういった思考をすることがない。だからこそ彼は戦場で人を殺すことができた。だからこそ彼は他人にどこまでも優しくすることができた。
だがそれは、他人にとっては恐怖でしかなかった。
躊躇わず人を助け、躊躇わず人を殺す。躊躇わず手を差し伸べ、躊躇わず頭を撃ち抜く。彼は英雄でありながら、怪物だった。
男は断頭台の上で初めて己の罪と業を自覚した。
裁かれるのも仕方あるまい、怯えられて悪だと思われるのも仕方あるまい、そう考えて躊躇うことなく死を受け入れる、その直前。彼の心に浮かんだドス黒い感情。
「だからといって私が、お前たちに断罪される理由があるか? 人が人の業を裁くなどなんたる傲慢か。私を裁くのは矮小な人間ではない! 私と同じ人間であってはならない! ただ天上に在る主のみが私に罰を与えるべきなのだ!!」
その日、その街では血の雨が降った。人々は逃げ惑い、処刑人の血でギロチンの刃は濡れた。
地獄を作り上げたその男の前に、紫のローブの男は現れた。
「素晴らしい力だね。
返り血を浴びて赤く染まった男は答える。
「私はただ罰を待ち続けるだけだ。私程度では到底抗えぬ神の罰。それがこの身を亡ぼすまで、私は何をすれば……」
ローブの男は少し考えてから返答する。
「ふむ、そうだね……。
「私は人に裁かれることに耐えられない。誰であってもだ。ただ一つ例外があるとするのなら、私を圧倒する力があれば良い。全力を以てして何一つ歯が立たぬというのならそれは神の遣いによる罰だと思える」
「冗談さ。でもそれなら丁度いい。
そして、それまでは『悪行』を為し続けてみる、というのはどうかな?」
「悪行、だと?」
「ああ。神はきっと君の行動を見ているはずさ。君が悪となって大罪を犯し続ければ、君の存在を見過ごせなくなり罰を下す、そう考えられないかな?」
「そうか。そうすればよかったのだ。もとより私は悪だ。だからこそ、私は……」
四十年、男は『悪行』を為し続けた。人を殺し、街を壊し、他者の救いを奪い続けた。
バキラ・オード。己の身に数えきれない罪を刻みながら、ただ神罰を待つ男の名である。
全身に激痛が走る。レヴィンを振るった代償だ。俺の一撃を受けたバキラは腹部から大量の血を流しながら吹き飛んだ。
世界の重さが直撃したのだ。流石にもう動けない、もしくは死んでいることだろう。
そう、思っていた。
バキラが直撃したビルが崩れる。波導の流れが街を飲み込み、空気が変わった。
「ありえねえ……。耐えられるはずがない!」
バキラ・オードは生きていた。それどころか、ビルから飛び降りてこちらに歩いてくる。一目見て分かる満身創痍。だというのに、大地を踏みしめ一歩、また一歩と進んでくる。
「私は、まだ……! これは、この程度では神の罰ではない! 私が傷を負わせられるような者が、神の遣いであってはならない!! 私を裁くのは、お前たちなどでは断じてない!!」
バキラが絶叫する。放っておいても死ぬであろう深い傷を負っているというのに、その構えが崩れることはない。
「バーンさん、来ます!」
「ああ、分かってる!」
突如鳴り響く轟音。隣にいたはずのシエルが遠くのビルの壁に直撃している。代わりに、俺の横にはバキラがいた。
目で追えないどころか、動いたことにさえ気づけなかった。今距離を取ろうとすれば、そのタイミングで確実に殺される。
レヴィンを構えて相対する。
バキラの曇った瞳がこちらを向いた。
次の瞬間には俺の腹にバキラの拳が直撃している。だが、
「づっ! あああ!!」
灰外殻・黒燐で受け止める。
砕け散る灰。内臓が悲鳴を上げる。だが、足は下がることなく耐えきった。それでもバキラの次の一撃が飛んでくる。見えない速さ。
でも予測はできる、右側からだろ!
レヴィンを右半身をカバーするようにして拳を受け止め、そのまま押し返す。
脚から炎を噴出させながら一気に蹴り出して下がるバキラを追い詰める。
「う、おらああっ!!」
レヴィンを上から叩きつける攻撃。先端がバキラの左腕を掠める。直撃は避けられ、地面に巨大な亀裂が入る。
地面を動かしながら跳んで距離を取るバキラだが、その身体が糸に引っ掛かて止まる。
「何っ!? そうか、小娘! だが無駄だ!」
バキラが糸に掌で触れる。動き出す糸。バキラを捕らえていた糸が解け始める。
「んぐぐぐっ! バーンさんッ! 今ッス!!」
アンが糸を握り、噛み、手と口で締め上げる。解けそうになっていた糸が再びバキラを絡めとるが、バキラも全身を使い糸を千切ろうとしている。
レヴィンを持って全力で走る。
神経を焼くような痛み。バキラから受けた攻撃も相まって、既に俺の体は限界を向かえていた。
視界が揺れた。体が傾く。倒れこみそうになる。
だが、体が地面に付くことはなかった。俺の肩を掴み、引き上げたのは竜の姿をしたザイル。
「運びます! 着地は自分で頼みますよ!」
地面スレスレ、左右の建物をギリギリで避けながらザイルが羽ばたく。
バキラが糸から解放されると同時、俺はその頭上でレヴィンを振り上げる。
「つっ、バーンモルトぉぉぉ!!」
バキラが叫ぶ。周囲の地面から土砂が噴き出して肉体を守り、空気を操って俺を空中へ押し返そうとしている。
その程度では止まらない。止まれない。俺はお前たちを倒さない限り、止まるわけにはいかない。
「今度こそ終わりだ。地獄へ堕ちろ! バキラァッ!!」
レヴィンを全力で振り下ろす。空気を押し返し、守りを砕く。迎え撃つバキラの拳を叩き割り、街が沈みかねない勢いで押し潰す。
煙が上がる。地面が割れる。衝撃が周りを吹き飛ばす。
全身から血液を撒き散らしながらバキラは地下深くへと消えていった。
レヴィンによってできたヒビの横に着地する。駆け寄ってくるアンとザイル。少し遠くには歩いてくるシエルの姿が見えた。
もはや痛みさえ感じない。自分の状態が分からない。体のどこにも力が入らない。足が震え、膝から崩れ落ちる。
そして俺は――