機動戦士マジカルチャンネル、配信中 作:余燼
ラバータイルの冷たい廊下に、その音が、やけにはっきりと響きました。
金属が、やわらかいものへ沈み込む音。
小さな影が、グレイルの背後から滑り出ていました。ピンク色のぬいぐるみのような体。片手に握られた包丁。
それがグレイルへ届く直前、私の少し後ろにいたカラードさんが床を蹴りました。小さな毛玉の体が、私の視界を横切って後ろへ飛びます。グレイルと包丁のあいだへ、迷いなく割り込んだのです。
「カラードさんっ!?」
悲鳴が、自分の喉から出ていました。
包丁が、カラードさんの身体に沈んでいます。
丸い体が小さく跳ね、床へ落ちました。
ころん、と。
あまりにも軽い音でした。
短い手足が投げ出され、ぴくりとも動きません。首輪のタンマツだけが、力なく赤く点滅していました。
「カラにゃん……?」
グレイルの声から、いつもの軽さが抜け落ちていました。マーリンの掌に灯っていた光も、行き場をなくしたように揺れています。
「……うそ、でしょう」
マーリンの声が、聞いたことのない響きで廊下に落ちました。
《EP 0》。
戦闘不能。
防護膜消失。
EPが尽きれば、タンマツの保護は切れます。モンスターの攻撃だけではありません。ダンジョンそのものから身を守る機能も失われるのです。そのまま長く置けば、侵食が進むかもしれませんでした。
早く、医務室へ。早く、この場から連れ出さなければなりませんでした。
冷たいものが、背骨を駆け上がってきました。
私の、せいです。
変なタンマツだから。三人だけでは不安だったから。そして何より、私が「助けに行きましょう」なんて言ったからです。
逃げてきた方々を見捨てたくありませんでした。ここで止めなければ、誰かが傷つくと思いました。そう言い出したのは、私です。
そして今、その場所に倒れているのは、私ではなくカラードさんでした。
今日、私たちの仲間になってくださったばかりなのに。
まだ、何も返せていないのに。その方が、グレイルを守って動かなくなっているのです。
言葉が、頭の中で渦を巻きました。膝が、笑いそうになりました。
いつもの私なら、ここで逃げていたと思います。声が震えて、視線が泳いで、「ごめんなさい」が口から零れて、それきり何もできなくなる。私はそういう人間でした。格好いい白銀の鎧をまとっていても、大きな剣を持っていても、その内側にいるのは、ずっと誰かの助けを待つだけの人間でした。
――けれど。
『毛玉ェ……』
『今の庇った?』
『グレイル守ったのか』
『なにこれ泣く』
『主人思いのペット』
流れ落ちるコメントの白い光が、視界の端を焼きました。
ああ、と思いました。
この方は、グレイルのために、考える間もなく自分の体を投げ出したのです。間に合うかどうかなんて、きっと計算していません。ただ、間に合わせたのです。
それを見て、震えていることなんて出来ません。
胸の奥で、燃えさかる炎が生まれました。弱気も、自信のなさも、後悔も、罪悪感も、消えたわけではありません。
でも、だから、それが何ですか。
足りないことは知っています。未熟なことも知っています。間に合わなかったことも、私のせいだということも、全部分かっています。だからこそ、今ここで止まるわけにはいきません。
氷のような恐怖が溶けていき、胸の奥で、赤く、強く、形を持ちました。
この方を、絶対に死なせない。もう一度、あの声を聞くのです。
「――グレイル」
自分でも驚くほど、低く、静かな声が出ました。
「カラードさんをお願いします。包丁は抜かないでください。傷が広がります」
「……っ、わかった!」
グレイルが弾かれたように膝をつき、カラードさんへ取りつきました。下手に刺さったままの包丁を抜けば、流れ出る血が止まらなくなります。彼女は片手でカラードさんの体を支えながら、もう片方の手でタンマツを操作し、傷の周囲を固定していきました。
時間がありません。
カラードさんを抱えて逃げることも、考えました。でも、それは出来ません。
背を向けた瞬間、あのスプライトの雷がこちらへ飛んでくるでしょう。それに、ゾンビポメラニアンの足は、見た目に反して速い。逃げ切れる相手ではありませんでした。
なら、答えは一つです。
敵を倒すしかありません。今すぐに。
私は儀礼剣を握り直しました。柄を伝う冷たさが、むしろ心地よく感じられました。
廊下の奥を見ます。スプライトの緑色の光。包丁を持ったピンク色の兎。薄汚れた毛並みを逆立てるゾンビポメラニアン。そして、私たちの背後には、倒れたカラードさん。
戦場は、はっきり見えていました。
『クラリオンちゃんメンタル強い』
『さっきまでオロオロしてたのに』
『なんか雰囲気ちがう』
視界の端にコメントが流れます。今は気にしている場合ではありません。私が見るべきものは、倒すべきものだけでした。
「マーリン」
「――言われずとも」
マーリンが、すっと横に並びました。いつものふざけた感じはしません。その指先で、青白い光が密度を増していきます。衣装のフリルに、火花めいた魔力が走りました。
「派手に行きますわよ。巻き込まれないでくださいまし」
「お願いします」
マーリンは両の掌を脇へ引き、そのあいだに光を圧し固めました。膨れ上がった光が、廊下いっぱいを白く照らします。
「――ぶっ飛びなさいッ!」
迸った光の奔流が、まっすぐ廊下を貫きました。
真っ先に呑まれたのは、刃を持ったまま逃げかけていたピンク色の小兎でした。光に触れた瞬間、その輪郭が淡くほどけ、声もなく粒子へ変わります。続いて、漂っていた緑の人魂も光の中へ呑まれました。
光の濁流は止まらず、廊下の奥の獣へ叩きつけられます。ゾンビポメラニアンの体が、後ろへ大きく仰け反りました。崩れた毛が焼け、濁った眼から、また別の濁った光が漏れます。
それでも、倒れません。
『OH!KAMEHAMEHA!』
『二体まとめて消えたんだけど』
『ボスだけ耐えた』
『さすが特異個体』
『王の肉体持ちだな』
『硬すぎる』
「しぶといですわね」
マーリンが息を整えながら、髪を払いました。汗が、こめかみを伝っています。さっきの一撃で、相当な消耗をしているはずでした。
けれど、これでいいのです。邪魔なものは消えました。残ったのは、あの一体だけ。
なら、次は私の仕事です。
私は駆け出しました。大剣を低く、横へ流す。刃を地面と平行に倒し、体ごと右へ回す。重い剣が、遠心の力を巻き取って、ぐん、と速度を増していく。
『来た』
『本気の姫騎士』
『めっちゃ迫力ある』
回転の頂点で、私は剣の腹を、獣へ叩きつけました。
「はぁッ!」
断ち割るのではなく、打ち据える。
ゾンビポメラニアンの体が、横へ吹き飛びました。ラバータイルの上を転がり、教室の壁へ叩きつけられます。壁面のロッカーがひしゃげ、廊下の蛍光灯が一斉に明滅しました。
『ぶっ飛んだwww』
『面攻撃賢い』
『大剣は鈍器にもなるのが便利』
『重い音すき』
『いい意味で初心者詐欺』
『まだ生きてるぞ!』
『まだ生きてる(ゾンビ)』
『もう死んでる(ゾンビ)』
手応えはありました。
ですが、特異個体は、ぐるりと生物ではあり得ない身のこなしで起き上がります。黒い体液を撒き散らし、口の奥から唸りを漏らしました。明らかに、こちらを敵として認識した目でした。
獣が、跳びます。濁った牙が、私の喉元へ食らいつこうと迫る。
早い。大剣を振り抜いた後で、体勢が崩れたままです。回避は間に合いません。
そう判断した刹那、獣の正面の空間が、ぶわりと歪みました。透明な泡のようなものが幾重にも膨れ上がり、ゾンビポメラニアンの突進を、ほんの一瞬だけ押し留めます。
「させないって!」
グレイルです。カラードさんの処置から目を離さないまま、空いた手でタブレットを弾いていました。
「クラっち、踏ん張れ!」
泡に阻まれて、獣の軌道がわずかに逸れます。喉元へ向かっていた牙が、少しだけ外れる。
私は咄嗟に腕を上げました。タンマツへ意識を送る。円卓の紋章が、私を守護するように浮かび上がる。光の層が腕を覆う。盾と、もう一枚の盾。重なり合った守りが、汚染された牙を受け止めました。
衝撃が、肩まで抜ける。膝が沈む。
けれど、痛みはありませんでした。牙は鎧の光に弾かれ、肌へは届きません。
――はずでした。
噛みつかれた腕の鎧が、じわりと黒く変色していきます。獣の汚染が、守りの隙間から侵そうとしていました。
「クラリオン、動かないで」
マーリンでした。素早く私の傍らへ寄り、衣装の合わせから小瓶を取り出します。栓を弾き、黒ずみの広がる腕の鎧へ、薬液を流し込むように押し当てました。冷たいものが鎧の隙間へ染み込む。広がりかけていた黒が、しゅうと音を立てて引いていきます。
「ありがとうございます」
続けて、淡い緑の光が私を包みました。マーリンの回復です。失われたEPが、温かく満ちていきます。
応えなければなりません。
ゾンビポメラニアンが、体勢を立て直そうと身を低くする。その隙を、私はもう逃しませんでした。
今度は、大剣を地面すれすれまで沈め、切っ先を下から上へ向ける。膝を沈める。腰を落とす。全身の力を、一本の刃へ集める。
「もう一度ッ……!」
刃が、獣の顎の下から空へ向けて駆け上がりました。ゾンビポメラニアンの体が、ふわりと宙へ浮く。重い体が地を離れ、ほんの一メートルほど廊下の空中へ投げ出されました。
『浮いた!』
『打ち上げた!』
『連携くるぞこれ』
『決めろ!』
「マーリン!」
「――いただきますわ」
浮いた獣の真下へ、マーリンが滑り込んでいました。
「リゲイン率が0%なのが残念ですわ」
手刀が宙に浮いた獣の胴体へ、下から深く突き込まれました。
貫いて、抉る。内側から食い破るように、黒い塊を引きずり出す。
獣が、声にならない悲鳴を上げて痙攣しました。
『青ざめた血を求めよ』
『内臓攻撃wwwwww』
『やあ、君が新しい狩人かね』
『ハートキャッチ(物理)』
『魔法少女じゃん。よかった』
『そうかな?そうかも?』
『ゾンポメは再生持ってるぞ。どうすんだ』
崩れた体が、再び廊下の床へ叩きつけられました。もう、ほとんど動きません。
けれど、まだ終わっていません。ゾンビポメラニアンには再生があります。
放っておけば、また立ち上がるでしょう。
「グレイル。あなたがやりなさい」
マーリンが声をかけると、彼女はカラードさんをそっと壁際へ横たえ、立ち上がっていました。傷口の固定は崩していません。首輪の点滅も確認しています。
その上で、大太刀を抜きました。
「はい」
グレイルの声から、ふざけた色が消えていました。その返事は、配信上のグレイルのものではありません。黒江家で聞き慣れた、千景さんの声でした。
軽さも、冗談めいた響きもない。ただ、主の命を受けた従者の声でした。
「参ります」
グレイルが踏み込みます。刃が奔る。抜刀から、連続で四つの軌跡が走る。獣が立ち上がるために必要な場所を、迷わず断つ。動くための線を切る。戻ろうとする力を、戻れない形に変える。
『ゾンビ砕きだ』
『アイザックさんのせいで出来たミーム』
『石村流』
『【解説】某ゲームのおかげで、不死系モンスターは四肢を寸断すると再生が発動しません』
『そんなことになってんのwww』
『わぁ……エンジニアって怖い』
『グレイルの素が超丁寧っぽいんだけど』
『お嬢様にギャル口調を強制されているの?』
『パワハラすぎる』
ゾンビポメラニアンが、初めて悲鳴のような音を上げました。再生しようと蠢いていた肉が、断たれた瞬間、ぴたりと動きを止める。
立ち上がる脚を。
再生を否定する一撃。
ゾンビポメラニアンの体が、今度こそ、光の粒子になってほどけていき、廊下に、静寂が戻りました。
『勝った!!』
『勝利!!』
『うおおおおおおおおお!!』
『勝ったあああ』
『新人パーティが特異個体倒したんだが』
『戦闘不能1で済んでるの奇跡だろ』
『すげええええええ』
『これ伝説回だろ』
『毛玉ェ……』
『医務室へ!』
『はやくしろっ!!間にあわなくなってもしらんぞーーっ!!』
「――終わった」
マーリンが息を吐き、床へ膝をつきそうになります。それを支える余裕は、今はありませんでした。
私は剣を収めることさえ惜しくて、カラードさんのそばへ駆け寄りました。手から離れた儀礼剣は、光になってタンマツへ戻っていきます。
小さな体は、まだ温かい。刃の周りは、グレイルが固定してくれています。
「運びます!」
答えを待たずに、私はカラードさんをそっと抱え上げました。包丁が揺れないように。傷に触れないように。それでも、落とさないように。
森で膝に乗せたときよりも、ずっと軽く、ずっと頼りなく感じました。
「クラっち、出口こっち!」
「医務室まで、わたくしが先導しますわ。走れますわね?」
「走ります」
私は、走り出しました。白銀の鎧が、廊下の蛍光灯を弾いて流れていく。腕の中の毛玉を、強く、けれど傷に障らないように抱え込む。
大丈夫。間に合わせます。
あなたが、グレイルを間に合わせたように。
今度は、私が。
『がんばれ』
『間に合え』
『間に合ってくれ』
『カラード生きろ』
『医務室まで走れ!』
流れ続けるコメントの光を背に、私たちは出口へ向かって駆け抜けました。