次の話書いたら、続きの話を新しいシリーズではじめます
出会い編を長々書いた小説は読者が定着しませんからね
海外への短期渡航手続きは、想像以上に煩雑だった。
それでも、俺が付き添い人として書類にサインを終えた瞬間から、時計の針は猛烈な勢いで回り始めた。
残された時間はわずか。俺たちの国内での最後の追い込みが始まった。
ガレージの奥から引っ張り出したのは、使い込まれた赤いホンダのCRF250Lだった。
泥を噛むブロックタイヤと、タフな足回りを持つこいつなら、不整地での過酷な並走にも耐えてくれる。
セル一発で単気筒エンジンが目を覚まし、低く乾いたエキゾーストノートが静かな朝の空気に響いた。
鬱蒼とした森の小道、急勾配の山坂、足を取られる河川敷。
CRF250Lのサスペンションが荒れた路面の石をいなし、小気味よく砂利を弾く。
そのすぐ横を、アーモンドアイはほとんど休むことなく、当たり前のような顔で駆け抜けていた。
「はあ、はあ、 はぁ……。ずいぶん遠くまで来てしまいましたね。バイクの燃料は、大丈夫ですか?」
「こちらは大丈夫だけど───君こそ」
「無理するくらいがいいんです、持久力をつけたいので。前回、最終直線で突き放されましたから。ただでさえ、向こうの芝は重いですし。そのためには自分のリズムを維持できるだけの心肺機能を手に入れなきゃ」
彼女の口から出る言葉は、そのすべてが明確に「次のレース」へと直結していた。
辛さを紛らわせるための雑談も、弱音もない。
ただひたすらに、勝利への最短距離だけを見据えた走りだった。
ポツ、とヘルメットのシールドに冷たいものが当たった。
「……と、降ってきましたね。───冷たくて、気持ちいい」
「ちょうどいい、一度休もうか」
「いえ、時間がもったいないので!……あっ、トレーナーさんは帰っていて下さいね!お疲れさまでした!」
躊躇いなく飛び出して、大粒の雨の中、彼女はさらにさらに、加速していく───。
水飛沫の向こうへ消えていく背中を、俺はただ見送るしかなかった。
(····普通じゃない。)
彼女を突き動かすその異常な熱量に、胸の奥のざわつきが、じわりと大きくなっていた。
(俺にも……何かできることはないか···?)
夜の自室、デスクライトの明かりだけが部屋を照らしていた。
彼女に許可をもらい、ビデオカメラで録ったフォームの映像を、コマ送りで何度も再生する。
机の上には、中央トレセン学園の最新のレース教本、解剖学の専門書、ウマ娘の栄養学の資料が山積みになっていた。
呼吸の仕方、可動域の幅、腕の振り、着地時の荷重移動。
一度火がついた職人の意地が、落ちてくる瞼を強引に押し戻す。
データの山を前に、夜通しペンを走らせた。
数値を詰め、理想を探し続ける。
コンマ一秒を削るためなら、夜が明けることなど珍しくもなかった。
ver.1、ver.3、ver.6……。
気づけば、窓の向こうで東の空が白み始めていた。
(……今日のトレーニングは夕方から、か)
タイムリミットは残り約十二時間。
俺は冷めたコーヒーを飲み干し、微調整のために再度机に向かった。
完成したファイルの表紙には、誇らしく『ver.9』の文字が刻まれていた。
「これって───」
「君にとっての理想的なフォームだ」
「ありがとうございます!さっそく試してみますね。こっちは……フォームのためのウエイトトレーニングですか」
「……?……あの。このファイル、『ver.1』と、あるのですが──」
「へっ?」
言われて手元を見ると、確かにそれは、昨夜一番最初に組んだ不完全なデータだった。
徹夜をしたせいで、完全に頭がボケている。
「悪い、本物はこっちなんだ」
「『ver.9』──あぁ!こことここと……ここの数値も違いますね……へぇ……」
彼女の目が、ファイルと俺の目の下の隈を交互に捉えた。
そこまで、何度も、何度も、書き直してくれたのだと。
彼女の表情が、いつもより少しだけ、柔らかく綻んだ気がした。
───無事、一助となれただろうか。
その後も、獅子奮迅のトレーニングの日々は続いた。
「───っ!!まだまだっ、まだまだっ、まだまだぁ!!!」
「はあ!はあ!はあ!はあ!……っ、はあ!ああ!」
「勝つのよ!わたしが!必ず、必ず、必ず───必ず!!!」
「あああああああああああああ゛あ゛ッ!!!!」
己を限界まで削り倒すような咆哮が、異国の地へ飛び立つその日まで、何度も何度もトレセン学園のターフに響き渡っていた。
そして──待ち焦がれた再対決の日がやってきた。
海の向こう、完全アウェーの競馬場。
完全に相手のホームであるその場所で、周囲からの視線は冷ややかだった。
「Welcome to my turf! You ready to run? (ようこそ、我がホームへ。調子はいいかい?)」
「もちろん!完璧に仕上げて、完璧に───貴方に勝ってみせるわ!」
アイは、一切臆することなくその視線を受け止める。
パドックの周囲からは、現地語の囁き声がちらほらと聞こえていた。
──わざわざ日本から?
──デビュー前の子でしょ、無茶だよ。
そんな逆風の空気の中、俺だけが静かに、彼女の背中を見つめていた。
ついに、三度目のリベンジマッチが幕を開けた。
レースの展開は、あまりにも速かった。気づけば、勝負は終盤へ差しかかっていた。
磨き上げたフォームで異国の重い芝を切り裂くアーモンドアイの走りが、現地の観客を圧倒していく。
早めの時計でレースは流れていき──第4コーナー……!
「勝負は……!ここから───!……っ、たぁああっ!!」
「Looks like...I'm gonna win again! (今回も──勝利は私のものだ!)」
「勝つ、勝つ、勝つ……っ、勝つ───ッ!!あああああぁああああああああ───!!!」
限界を超えた追い比べの果て、アーモンドアイの身体が、力づくで先頭を奪い去った。
「わたしの、勝ちよ!」
高らかな宣言が、静まり返った異国のターフに響く。
誰もが息を呑んでいた。
罵声も、歓声も、囁き声すら聞こえない。
圧倒的な実力を見せつけられた現地の人々は、ただ静寂で勝者を包み込むしかなかった。
───勝てたら彼女に駆け寄り、「おめでとう!」と声をかけよう。
そう心に決めていたのに、なぜか足が動かなかった。
(俺は……隣で彼女の日々を見てきた)
──────
───
『まだまだっ、まだまだ、……っ、まだまだ!!!』
『まだまだっ、ここからぁあーーーーーッ!!』
───
──────
あの身を焼き尽くすほどの執念の日々が──確かに報われた。
その事実の前で、俺は立ち尽くしていた。
「……随分、遠くまで付き合わせてしまいましたね。でも、おかげで勝てました!本当に、ありがとうございます」
息を整え、額の汗を拭いながら、彼女はいつも通りに嬉しそうに笑った。
「君は……なぜそんなことができるんだ」
気づけば、胸の奥に溜まっていた問いが口をついて出ていた。
なぜ、一度負けた相手に勝つためだけに、厳しいトレーニングを重ね、海外へまで渡り──なぜ、そこまでできるのだろうか。
「……なぜって───」
「勝ちたいから、ですよ?」
「……それだけのために?」
「だって勝てると、嬉しいじゃないですか!すごく、すっごく!」
「昔から、そうなんです。勝つことが好きで──ジュニアクラブでもいろんな子たちに、何度も何度も勝負を挑んだりしてきたっけ」
──────
───
『──うぐっ、ぐす!もういっかい!明日もういっかいレースしよ!』
『次は絶対、わたしが勝つもん……っ!』
体格差があっても。年上の子が相手でも。指導の先生にだって負けたら悔しくて、だからその分、たくさんたくさん鍛えて──
『──はあ!はあ!頭、ふらふら……!……でもまだ、まだまだっ!これじゃ勝てないっ!たああ!!』
───
──────
「───そうして、全部に勝ってきました。頑張って勝てたら嬉しくって。もっと、もっともっと勝ちたいって気持ちが膨むんです!」
「───わたし、勝つことが好きなんです。世界でいちばん!」
背筋が、つ、と冷える感覚。
理解できたと思っていた存在は──彼女ではなかった。
すぐそこにいるのに、遠くにいるような、圧倒的な「勝負師」としての怪物性。
その純粋すぎる狂気から、目が離せなかった。
『ですが──それを果たしうるウマ娘ならば、自然と知っているのでしょう』
あの日のシンボリルドルフの言葉が、ふと脳裏をよぎった。
勝利に憑かれた人間は、俺は何人も見てきた。それでも、どこか俺の見てきた奴らとは違っていた。
世界で一番、勝つことを愛している。
——だから俺には、怪物に見えた。
「……はぁ。ふぅ……」
語り終えたアーモンドアイが、突然、深く息を吐き出した。
「……?」
「……っ、ごめんなさい、さっきからクラクラして。少し、だけ───」
アーモンドアイの身体が、糸の切れた人形のように、ガクリと前に傾いた。
「アーモンドアイ!」
俺は咄嗟に前に飛び出し、崩れ落ちる彼女の身体を両腕で強く抱きとめた。
「熱ッ……!?」
俺が怪物だと思っていた少女は、驚くほど熱く、そして驚くほど脆かった。