さてさて、今日は他流派との合同練習がある。
流れとしては、最初に各々アップを済ませてから団体戦を行い、そのあとは自由に申し込み試合をしていくというものだ。
朝から夕方まで丸一日がかりになるらしい。お弁当を持参しなければならないため、お母さんが朝早くから起きて腕を振るってくれている。
「──凪、ちょっとこっちに来なさい」
「どうしたの、お父さん?」
リビングのソファでだらだらと寝っ転がりながら本を読んでいると、少し改まった声色のお父さんに呼ばれた。
「ンン......コホン。道場を辞める理由はなんだ?」
「んー、なんか色々?」
ああ、その件か。うんうん、そうそう。僕は今日の合同練習を最後に、この空手道場を辞めることにしている。
「そういう誤魔化しはいいから、ちゃんと答えなさい。道場で何か嫌なことでもあったのか?」
「うん、実はさ......」
嫌なこと?いや、別になかったけど。
「──何があったのか、正直に話しなさい」
「何もなかったよ。あ、強いて言うなら道着が重たいのは嫌だったかも」
重たいんだよね、これ。実際に着てしまえばそこまで重さを感じないのに、バッグに入れて持ち運ぶ時はやたらとずっしり重たく感じる。なんでだろうか。
「......それなら続けなさい。1度始めたことを、大した理由もなく短期間で辞めるのはダメだ」
「えー、でも、この道場で学べることは全部学んだからさ」
今世の両親は本当にいい人たちだ。前世では決して与えられることのなかった、無償で温かい両親からの愛情を惜しみなく僕に与えてくれる。
だからこそあまり心配をかけたくはないんだけど....まあ、それはそれとして、道場を辞めるのは僕の中での決定事項だ。
堀北先輩との組手や指導のお陰で、僕の身体能力ステイタスは無事に『A』まで上がった。
そして何より──そろそろ、帆波が受けているいわれのない風評被害を完全に消し去るべきタイミングだ。
これ以上放置すれば、精神的な耐性をつけるどころか、彼女の心を無駄に深く傷つけるだけの結果になりかねない。トラウマになっても困る。
そして、そのためにも、まずは道場を辞めておく必要があるのだ。
僕が学校で暴力事件なんて起こせば、少なからず所属している道場側に迷惑をかけることになるからね。飛ぶ鳥跡を濁さず、だ。
まあ、表沙汰にするつもりはないんだけどさ。
「そうか。お前がそこまで言うなら本当にそうなんだろうが......他に何か新しく習いたいことはあるか?」
「今は特にないかな。しばらく運動は学校の部活だけでいいや」
「......はぁ。やりたいことができたら、すぐに言いなさい。父さんは、お前のフリーの時間が増えて、また女を誑かす時間が増えるんじゃないかと怖いんだよ」
「そんな、人聞きが悪いな」
実の息子に向かってなんてことを言うんだ。さっきのは訂正する。心配もかけるし、迷惑もかけてやる。
「うるさい、黙れ、喋るな。将来の夢が『ハーレムに囲まれて暮らすこと』なんて、親の前で自信満々に話すバカ息子の戯言は知らん」
「聞かれたことに素直に答えただけなのに。大丈夫だよ、外ではそんなこと言ってないから」
「......はぁ。母さん、このバカ息子をどうにか説得できないか?」
台所に立つお母さんに助けを求めるお父さん。
「そうねえ。あなたも独身の頃は色々と遊んでいたみたいだし、あなたに似たのね」
「昔の話じゃないか......」
呆れながらもどこか温かい、そんな両親との会話を終え、僕はお弁当を受け取った。
この後、お父さんが車で道場まで送ってくれた。自分で歩かなくて済むんだから、車って本当に便利でいいよね。
朝の道場は、特有の冷たい空気に包まれていた。
他流派との合同練習を控えていることもあり、門下生たちの顔には適度な緊張感が走っている。
そんな中、稽古が始まる前の整列時、館長から一つの報告があった。僕、神代凪が今日の合同練習を最後にこの道場を去ることだ。
僕自身からも、前へ出て短く一言だけ挨拶をさせてもらった。
その発表直後から、僕の背中には刺さるような視線が向けられ続けていた。ああ、人気者は注目を集めてしまうよね。
合同練習のためのアップが始まり、各自が散らばったタイミングを見計らって、彼女は足早に僕の前にやってきた。
「──聞いてないのだけれど」
不満を隠そうともしない、氷のように冷たい声。
射抜くような鋭い視線を向けてくるのは、もちろん堀北鈴音だ。
道着姿の彼女はいつも以上に凛としていて、怒った顔すらも絵になる。
「ん?あれ、言ったと思うんだけど?なら、もう1回言うね。今日も綺麗だよ、鈴音」
僕はわざと論点をずらし、ふんわりとした笑顔で褒め言葉を返す。ごまかせない?だめ?
「......あなたが道場を辞めるなんて、相談されてないわ」
「え、うん。だって、鈴音の悲しむ顔を見たくなかったから。僕が道場辞めるかもなんて相談したら、泣いちゃうでしょ?」
「あなたの中の私のイメージについて、早急に話し合いが必要なようね」
鈴音は呆れたように深くため息をついた。
出会った頃なら完全に無視するか、あるいは冷たく突き放して終わっていたはずだが、今の彼女はこうして僕のくだらない冗談に付き合ってくれる。
「僕の知ってる鈴音は、ツンツンしてて割と冷たい言動も多いけど、本当は優しくて、誰よりも努力家で......」
「やめな──ひゃっ」
これ以上言わせまいと、鈴音が顔を近づけて僕の口を手で塞いできた。
焦った時にでるこの行動が、今の僕たちの距離感を如実に物語っている。
僕は塞がれた口元にある彼女の手をそっと握り、ゆっくりと引き剥がした。そして、そのまま彼女の細く白い手の甲に、軽く唇を落とす。
鈴音の動きが完全に停止した。昔はこれが挨拶だった国もあるのに、大袈裟だなぁ。
顔が一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まり、口をパクパクとまるで金魚みたいだ。
いつもは冷静沈着で隙のない彼女がキャパシティを超えて完全にフリーズしている姿は、控えめに言って最高に可愛い。
こんなことをしても怒られない。正拳突きが飛んでくるどころか、振り払うことすら忘れて固まっている。
うん。やっぱり【好感度:75】は伊達じゃないみたいだ。
「──離れろ」
その甘い空気を切り裂くように、地を這うような低い声が聞こえた。
振り返ると、そこには鬼神のごときオーラを纏った堀北先輩の姿があった。見事なセコムのお出ましだ。
遠くから僕と鈴音のやり取りを眺めているとは思っていたけど、流石に手の甲へのキスは看過できなかったらしい。
そんな、僕は挨拶がわりのスキンシップをしただけなのに。過保護すぎる。僕は悪くない。きっと、多分。
「今日は他流派との合同練習だ。もう少し緊張感を持て......特に神代。鈴音の精神を無駄に乱すな」
「ごめんなさい、兄さん」
我に返った鈴音が、慌てて僕の手から自分の手を引き抜き、反省の意を示した。
その声には、以前のような過剰な緊張はなく、純粋な兄への尊敬と親愛が込められている。
この兄妹は、本当に仲が良くなった。
いや、元々互いを想い合ってはいたのだけれど、不器用さ故のすれ違いがなくなったおかげで、あるべき元の関係に戻ったと言うべきだろう。
僕がほんの少しだけ介入し、本音を引き出す手伝いをしたことで、鈴音の抱えていた強迫観念は消え、学も妹の成長を正面から受け入れるようになったのだ。
今では、厳しくも温かい、理想的な兄妹の姿がそこにある。うんうん、僕のおかげだよね?
「すみません、先輩。手が口元にきたので、つい」
「......ついでそんなことをするのはお前くらいだ」
頭痛を堪えるようにこめかみを押さえてる。可哀想に。
「ご心配なく。今日の団体戦は、ちゃんと勝ちますから。もちろん、鈴音も全勝しますよ。なんだったら、賭けますか?」
僕が自信満々に提案すると、堀北先輩は鋭い眼光を少しだけ和らげ、口角をわずかに上げた。
「いいだろう。なら、俺は鈴音が全勝するほうに賭ける。負けたらスポドリ1本だ」
「いやいや、それだと賭けが成立しないじゃないですか」
すかさずツッコミを入れた。このシスコンめ。あ、なんでもないです。なんにも思ってないです。睨まないでください。
堀北先輩が小さくため息をはき、僕たちに期待されている鈴音は気合いがより一層入ったみたいだ。
今日でこの道場を去るのは少し寂しい気もするけど、どうせ高育で会うことができる。
堀北兄妹との絆は確かなものになったし、数年会えなくてもそこまで好感度は下がらないはず。
「それじゃあ、気合い入れていきましょうか。もうそろそろ相手も来る頃ですよね?」
「大したことない相手でしたね」
合同練習は予定よりもずっと早く終わった。それは何故か。理由は至極単純で、相手の門下生たちの心が完全に折れてしまったからだ。
「お前は配慮のできる人間なのか、傲慢なやつなのか微妙なところだ」
「もちろん、前者に決まってるじゃないですか」
今だって、ちゃんと相手の道場生たちが意気消沈して帰ってから話している。あ、今僕たちがいるのは道場前の入り口付近だ。
予定より早く終わってしまったため、3人で外の空気を吸いながらだべっている。
まあ、彼らの心が折れた理由は痛いほどわかる。
正統派で努力を積み重ねてきた堀北先輩との圧倒的な実力差を見せつけられ、その直後に、空手を始めてまだそこまで経っていないはずの僕に手も足も出ずにボコボコにされる。
それも、僕と先輩のどちらも、汗の一つもかかずに息も乱していないのだから、絶望するのも無理はない。
男子は僕と堀北先輩の理不尽な強さのせいで、女子は鈴音の容赦のない組手のせいで、数多くの相手門下生の心がポッキリと折れる、もしくは折れかけているのを見て、たまらず向こうの館長が合同練習の切り上げを提案してきたのだ。
「嘘よ。あなたは傲慢な方だわ」
「鈴音がそういうならそうなのかも。いつも僕のことを見てるからね」
僕なんて、全くもって傲慢さの欠片もない、謙虚さが擬人化したような存在なのに。まあ、口には出さないけど。
「......そんなことないわ」
「お前は俺の姿が見えなくなったのか」
呆れたようなため息をつく堀北先輩に対し、僕はわざとおどけてみせる。
「鈴音が可愛くて、霞んでました」
冗談だったのに、真に受けて頬を赤く染めて照れる鈴音と、横でゴゴゴッと威圧的なオーラが増した堀北先輩。殴らないでくださいよ?
「......そうか」
「そんなことより、2人はいつまでここにいるんですか?僕に構わず、帰ってもいいですよ」
僕はまだ帰れない。お父さんが車で迎えに来てくれるまで、あと1時間ほど待たなければならないからだ。
こういう時に、携帯電話を持っていないことの不便さを痛感する。
将来的に高度育成高等学校に進学することを考えると、あそこでは支給される端末を使うことになるはずだ。
今買っても3年もすれば新しい機種が発売されて型落ちになってしまうから、まだ買いたくない。
「今日で最後なんだ。少しくらい付き合ってやる」
堀北先輩が、腕を組みながらポツリと言った。
「優しいなぁ、堀北先輩は。鈴音は?」
「私は......その、兄さんがいるから付き合ってるだけよ」
ぷいっとそっぽを向く鈴音。
「素直じゃないなぁ。まあ、それも鈴音らしいけど」
それからしばらく、他愛のない話をしていると、見慣れた自家用車が道場の前に滑り込んできた。
「あ、迎えが来た。よければ、2人も送っていきますよ?」
「いや、結構だ。俺たちの家はそこまで遠くない」
「分かりました。短い間でしたけど、お世話になりました。組手の指導、本当にありがとうございました、堀北先輩」
僕は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「......ああ」
短い返事だったけど、その声には確かな労いと、ほんの少しの寂しさが混じっているように聞こえた。
「それじゃあ、鈴音もまたね。縁があったらまた会えるよ」
「......ええ。またね」
僕は2人に軽く手を振り、お父さんの待つ車の助手席へと乗り込んだ。
走り去る車のランプを、私たちは静かに見送っていた。
「......行ったか。携帯を持っていたら、これからも関われたんだが」
ぽつりと漏らした兄の言葉に、鈴音は首を横に振った。
「違うわ、兄さん。連絡が取れないくらいで、友達じゃなくなるわけじゃないもの」
私自身、その言葉が自分の口から出たことに少し驚いていた。
今まで他人に無関心で、友人など不要だと切り捨ててきた自分が、彼のことを『友達』だと認識している。
いや、友達どころかそれ以上の......
「それもそうだが、少し寂しくなるな」
彼は、本当に不思議な人間だった。強引で、図々しくて、泣き虫なのに底知れない実力を持っていた。
...それも、嘘泣きだったらしいのだけれど。
彼がいなくなった道場は、明日からきっとひどく退屈に感じてしまうと思う。
少しの沈黙の後、私は兄の横顔を見上げながら、胸の内でずっと考えていたことを意を決して問いかけた。
「その、兄さん。相談なのだけれど......友人同士が学校終わりに一緒に帰るのは普通よね?」
「その質問の意図は分からないが、不自然なことではないな」
兄の真っ当な返答を聞いて、ギュッと拳を握りしめる。
「そ、そう。それなら、私が来月の創立記念日のお休みに、彼の学校に彼を迎えに行って、一緒に帰るのもおかしくないってことよね......?」
早口でまくし立てるように言った私の言葉に、兄さんは一瞬だけ目を丸くした。
そして、すぐに小さく息を吐き、呆れたような、それでいてどこか可笑しそうな表情を浮かべた。
「......ああ。普通かどうかは別として、相手が神代なら喜ぶだろうな」
「っ......!ありがとう、兄さん」
自分でも頬が赤くなるのがわかった。
連絡先を知らないのなら、直接会いに行けばいい。縁があったら、なんて不確かなものに頼るつもりはない。
自ら縁を繋ぎに行けばいいだけのことだから。
来月、突然現れた自分を見て彼がどんな顔をするのか。
それを想像するだけで、私の心臓は自分でも制御できないほどに高鳴っていた。
「──っくしゅん。なんだろう、噂でもされてるのかな?」
「お前はそんなことを感じれるほど繊細な人間ではない」
「自分の息子に酷い言い草だよ」
堀北さん
毎回顔が赤いなぁ、堀北さん。
中学は.....?
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一之瀬さんと一緒
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軽井沢さんと一緒
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