『待っているよ、僕の可愛いクイーン』
有栖への返信を済ませ、端末をポケットに戻す。
僕の左右では、ひよりとなずな先輩が、互いの様子をそれとなく窺いながら歩いていた。
夕暮れの並木道。時折吹き抜ける風がひよりの銀髪を揺らし、先輩はそのたびに乱れる前髪を指で押さえている。
傍から見れば、女の子2人と仲良く下校する男子高校生。実に健全で、実に羨ましい光景だろう。
いやぁ、青春って素晴らしいね。
もっとも、僕を挟んで漂う微妙な緊張感さえなければ、という但し書きはつくけれど。
「神代くん。図書館に行くんじゃなかったんですか?」
先に口を開いたのはひよりだった。
「ああ、うん。ひよりと本を探す約束をしてたからね」
「はい。あの、お時間がなければ別の日でも......」
その言葉に遠慮が滲んでいるのを聞き取り、僕は小さく首を振った。
「時間はあるよ。ただ、せっかくケヤキモールに向かってるんだし、今日はそこの書店を見て回らない?図書館はまた今度、ゆっくり2人で行こう」
「......はいっ」
一瞬の間を置いて、ひよりは花が開くように微笑んだ。
【好感度59】
うん。『また今度、2人で』の部分が効いたらしい。
「ちょっと待って。今は私も一緒にいるんだけど?」
反対側から抗議の声が飛んでくる。
「もちろん、なずな先輩とも一緒に遊びたいですよ。今日だけじゃなくて、何度でも」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないし......」
なずな先輩はそっぽを向いたものの、歩幅を合わせてくる足取りはどこか弾んでいた。
【好感度 76】
この2人、反応がいちいち可愛いんだよね。
「ところで先輩、本屋さんは好きですか?」
ひよりが尋ねる。
「んー、漫画なら読むよ。小説もたまにはね。でも、ひよりちゃんみたいに詳しくないからさ」
「詳しくなくても、好きな作品があれば十分だと思います。私も知らない本の方がずっと多いですし」
ああ、いいね。お互いを牽制してはいるけれど、別に相手のことを嫌っているわけじゃない。
僕としては、このまま仲良くなってくれると助かる。
なんなら、僕抜きで遊びに行くくらいの仲になってもらいたい。そうすれば、いつかハーレムの話をする時にも余計な衝突が減るかもしれないし。
......我ながら都合のいい希望だけどね。
自動ドアをくぐると、外の涼しさに代わって明るい照明と人々の話し声が僕たちを包んだ。
放課後ということもあり、制服姿の生徒が目立つ。食料品の袋を提げて歩く生徒、友達と笑い合う生徒、店先の商品を眺める生徒。
ここは、学園の外に出られない僕たちにとって、小さな街そのものだ。
「まずは本屋さんだね」
「はい。楽しみです」
書店は静かだった。
モールの喧騒から切り離された店内に、紙とインクの匂いが淡く漂う。平積みの新刊、背表紙が整然と並んだ棚、読者を誘う小さな手書きの紹介文。
ひよりはその光景を見た途端、さっきまでとは違う足取りになった。
「神代くん、こちらです」
「あれ、随分と迷いがないね」
「この前来た時に、気になる本を見つけていたんです。まだ残っていればいいのですが......」
振り返って話すひよりの表情は、普段より少しだけ生き生きとしている。
その変化を面白そうに眺めるなずな先輩と目が合った。
「ひよりちゃんって、本当に本が好きなんだね」
「ええ。好きなものの話をしている時のひよりは、いつも以上に素敵でしょう?」
「......君も、そういうことをさらっと言うよね」
「思ったことを言っただけですよ」
「それが問題なんだってば」
肩をすくめた先輩に笑い返していると、ひよりが1冊の文庫本を胸に抱えて戻ってきた。
「ありました。『博士の愛した数式』です」
「小川洋子さんの作品だね。数学を通して、人と人の繋がりを描いた物語」
「はい。難しい計算の知識がなくても楽しめるんです。登場人物の間に少しずつ生まれる温かさが、とても好きで」
ひよりは表紙をそっと撫でる。
本の説明をしているはずなのに、まるで大切な友人を紹介しているみたいだ。
「ひよりがそんな顔で薦めてくれるなら、読まないわけにはいかないな」
「......あの、気に入っていただけると嬉しいです」
「読んだら感想を聞いてくれる?」
「もちろんですっ」
【好感度62】
わかりやすいね。
「なんかさ、2人だけの世界になってない?」
なずな先輩が僕の袖を引っ張った。
「あ、ごめんなさい」
ひよりが慌てて謝る。
「ううん、責めてるわけじゃないよ。むしろ、ひよりちゃんがそんなに楽しそうなの、ちょっと意外だっただけ」
「私......本の話になると、つい夢中になってしまって」
「いいじゃん。そういうの。私も何かおすすめしてほしいな。できれば、途中で眠くならないやつ」
ひよりが目を丸くした。それから、ふわりと嬉しそうな笑みを浮かべる。
「でしたら、いくつか候補があります。朝比奈先輩は、どんなお話がお好きですか?」
「えーと、暗すぎないやつかな。あと、登場人物が難しいことばっかり言ってないの」
「ふふっ。それなら、読みやすくて楽しい作品を探しましょう」
2人は並んで別の棚へ歩いていく。
おや。これは予想以上にいい流れだ。
僕を取り合って睨み合うより、こうして共通の話題を見つけてもらう方が、長い目で見ればずっといい。
とはいえ、僕のことを忘れるほど仲良くなられても、それはそれで少し寂しいけど。
しばらくして、なずな先輩はひよりから紹介された本を1冊手に取り、僕の前でひらひらと振った。
「これにしてみる。ひよりちゃんのお墨付きだし」
「じゃあ、僕もこれを買おうかな」
「ね、神代くん。読み終わったら3人で感想会とかしない?」
「いいですね。僕も先輩がどう感じたか聞いてみたいです」
「......私も、ぜひ」
ひよりの控えめな賛同に、なずな先輩が満足そうに頷く。
本をきっかけに次の約束までできるとは。ひよりを攻略するために立ち寄ったはずの書店で、なずな先輩との関係まで進んでいる。
実に効率がいい。
もっとも、僕が今この場で2人に向ける笑顔が、すべて打算でできているわけでもない。
楽しそうに笑う彼女たちを見て、僕自身も嬉しくなる。それも本当だ。
欲しいと思う気持ちと、大切にしたいと思う気持ちは、別に矛盾しないだろう?
少なくとも、僕の中ではね。
会計を済ませた後、僕たちはモール内のカフェへ向かった。
なずな先輩が期間限定の甘いドリンクを見つけ、ひよりも同じものに興味を示したからだ。
「神代くんは何にする?」
「僕はアイスティーにします。2人はそれでいいんですか?」
「うん。せっかくだし新作飲んでみたい」
「私も......少し気になります」
「じゃあ、決まりだね」
3人分の注文を終えて、通路に面した休憩スペースの席に腰を下ろす。
窓越しに見える店の明かりは、夕方から夜に変わりつつあるモールの空気を鮮やかに彩っていた。
「うわ、おいしい。ひよりちゃん、ひと口飲んでみる?」
「あ、ありがとうございます。でも、私も同じものを頼みましたから......」
「そっか。そうだったね」
なずな先輩は照れ笑いを浮かべる。
こういうところは、思っていた以上に面倒見がいい人だ。
「それにしても、今日は来てよかったなぁ」
「僕もですよ。先輩とひよりと一緒に過ごせて、楽しいです」
「......誰にでもそういうこと言ってない?」
「本当のことは、誰にだって言いますよ」
「それ、否定になってないんだけど」
むくれる先輩の横で、ひよりがくすくすと笑った。
「神代くんは、相手が喜ぶ言葉を見つけるのがとても上手なんですね」
「そうかな。ひよりだって、さっき先輩にぴったりの本を選んでたよ」
「それは......朝比奈先輩とお話しして、喜んでもらいたいと思ったので」
「ほら。同じだよ」
「......そう、でしょうか」
ひよりは困ったように笑い、それでも嬉しそうにストローに口をつけた。
そこへ、なずな先輩が思い出したように立ち上がる。
「あ、ごめん。私ちょっとお手洗い行ってくるね」
「でしたら、私もご一緒していいですか?」
「もちろん。神代くん、すぐ戻るから待ってて」
「荷物を見ておきますよ」
「ありがとう、神代くん」
ひよりも丁寧に頭を下げ、2人は連れ立って歩いていった。
さて。
少しだけ静かになったテーブルには、買ったばかりの本が入った紙袋と、飲みかけのカップが3つ。
ひよりは、本のことになると自然に積極的になる。なずな先輩は、そんな彼女の意外な一面に興味を持ち始めている。
今のところ、悪くない。というか、かなり順調だ。
僕は椅子の背にもたれ、行き交う人々をぼんやり眺めた。
すると、不意に視界の端で誰かが足を止めた。
「......あの」
か細い声がする。
「神代......くん」
ゆっくり顔を上げると、そこには見覚えのある少女が立っていた。
......声をかけてしまいました。
どうしましょう。どうしましょう。どうしましょう。
今ならまだ、別の人と間違えましたと言って逃げられるでしょうか。
いえ、無理です。私ははっきりと神代くんの名前を呼んでしまいました。
山村美紀。落ち着いてください。
私は今日、神代くんに渡したいものがあって、ここまで来たんですから。
胸元に握りしめた端末が、妙に重く感じられます。
少し前、南雲副会長が神代くんを睨みつけている場面を見ました。
あの人は、私にとって大切な神代くんを、まるで自分より下の存在として扱っていました。
許せません。
だから、私は南雲副会長を尾行しました。
自分の存在感が薄いことを、これほどありがたいと思ったのは初めてです。
そのおかげで、私は見つけることができたんです。南雲副会長が、彼に従う男子生徒たちに女の子をあてがっている場面を。
これならきっと、神代くんの役に立てる。
そう思ったのに......
ケヤキモールで見つけた神代くんは、2人の綺麗な女の子と一緒でした。
茶道部でご一緒しているらしい、Cクラスの椎名ひよりさん。それから、南雲副会長と親しい朝比奈なずな先輩。
2人とも、神代くんの隣を歩く姿が驚くほど自然でした。
私とは違います。
私は遠くから見ていることしかできません。声をかければ邪魔になるでしょうし、そもそも......覚えていてもらえるかどうかも分かりません。
中学時代、卓球の都大会で出会った時のことを、私は今でも鮮明に覚えています。
皆が誰かと楽しそうに話している中、私だけが隅の席に座っていました。
そんな私に、神代くんは声をかけてくれた。
名前を聞いてくれた。
『美紀、いい名前だね』
そう言ってくれました。
それだけではありません。
あの人は私を綺麗だと言って、私自身が知らなかった私の価値を、何の迷いもなく認めてくれたんです。
ほんのわずかな時間。
でも、私にとっては宝物でした。
だから怖いんです。
私だけが覚えていて、神代くんの記憶からは消えていたら。
あの日のことを、取るに足らない出来事だと思われていたら。
そんなことを想像するだけで、指先が冷たくなる。
それでも、2人の女の子が席を立った今を逃したら、また話しかけられなくなるかもしれません。
私は端末をぎゅっと握り直し、ひと足、もうひと足と近づきました。
そして......
「......あの。神代......くん」
ついに、声をかけてしまったんです。
神代くんが顔を上げます。
あの日と同じ、整った顔。
でも、あの頃よりずっと大人びていて、私なんかが簡単に近づいていい人ではないように思えます。
その瞳が私を捉えた瞬間、心臓がぎゅっと縮みました。
「......あれ?」
やっぱり、覚えていないのでしょうか。
背中に冷たい汗が伝います。
「美紀じゃないか。久しぶりだね」
「......え?」
自分でも情けないくらい、間の抜けた声が出ました。
「どうしたの、そんなに驚いて。まさか僕のこと、忘れちゃった?」
神代くんは悪戯っぽく笑います。
「い、いえっ!忘れるわけ、ありません......!」
私の声が、思った以上に大きく響いた。
近くを通りかかった生徒が、ちらりとこちらを見ます。
恥ずかしくなって俯くと、神代くんはおかしそうに笑いました。
「それならよかった。卓球の大会以来かな。久しぶりだね」
「......覚えて、くれていたんですか?」
「もちろん。あの時、会場の隅で1人で座っていたでしょ。美紀と話したくて、僕の方から隣に座ったんだったよね?」
間違いありません。
あの日のことです。
私だけが覚えていた、私だけの宝物だと思っていた時間を、この人も覚えていてくれたんです。
「それに、こんなに可愛い子のことを忘れるほど、僕の記憶力は悪くないつもりだよ」
「か、可愛い......」
頬が熱い。
どうしてこの人は、こんなにも簡単に、私の欲しい言葉をくれるのでしょう。
神代くんの視線が、私の手元に落ちます。
「何か用事があったんだよね?」
「あ......はい。その、神代くんに......」
私は端末を差し出しかけて、慌てて引っ込めました。
こんな人通りの多い場所で見せていいものではありません。
「あの、少しだけ......こちらに来ていただけませんか?」
「うん、いいよ」
神代くんは買い物袋の置かれたベンチに視線を向けてから、すぐそばの、人通りの少ない柱の陰へ移動してくれました。
私は画面を開き、保存していた動画を再生しました。
映像には、南雲副会長と数人の男子生徒が映っています。
『今回の件はよくやったな。話を通しておいたが、あんまりハードなプレイはするなよ』
『マジっすか。ありがとうございます、南雲さん』
『俺についてきて損はないだろ。次も期待してるぞ』
別の場面では、女子生徒が戸惑ったように立ち尽くし、南雲副会長が彼女と男子生徒の間に入って話をまとめています。
『そんな顔するなって。ちょっと付き合ってやるだけだろ。悪い話じゃないはずだぜ?それとも、俺と敵対するつもりか?』
そして、さらに別のやり取り。
『俺の言うことを聞けば、いろいろ融通してやれる──どういう意味かはわかるよな?』
これは全て、南雲副会長が自分に従う男子生徒への褒美として、女の子たちをあてがっている動画です。
もちろん、映っている女の子全員が嫌がっているとは限りません。ですが、明らかに脅迫している女子もいました。
「......なるほど」
神代くんの声が、少し低くなります。
私は息を止めました。
やっぱり、余計なことをしてしまったのでしょうか。
「あの......南雲副会長が、神代くんを睨んでいたので。何か、役に立つものがないかと思って......」
「美紀が撮ったの?」
「は、はい。姿が目立たないので......近くにいても、あまり気づかれなくて」
神代くんは画面をもう一度確認します。
「これ、他にもある?」
「はい、他にもいくつか。全部保存してあります。撮影した日時も......」
「そっか。僕にも送ってもらえる?それから元の動画は消さずに持っておいてね。誰かに見せたり、無理に追加で撮ろうとしたりもしないで」
「は、はい」
私は動画を神代くんの端末に送り、送信できたことを確かめました。
何か、重大なものを渡せたのでしょうか。
それとも、困らせてしまったのでしょうか。
顔を上げるのが怖い。
沈黙が続き、私は思わず謝ろうとしました。
「す、すみま──」
「すごいね、美紀」
「......え?」
「これ、かなり貴重な情報だよ。よく見つけてくれたね」
視界が滲みそうになりました。
「僕のために、ここまで頑張ってくれたんだ」
その声は、あまりにも優しくて。
「......はい」
小さく答えるのが精一杯でした。
次の瞬間、神代くんが1歩近づいてきます。
え、と思う暇もありませんでした。
ふわりと、身体が温かな腕に包まれたんです。
「──っ!?」
抱きしめられて、います。
神代くんに。
私が、神代くんに。
頭の中で同じ言葉が何度も繰り返されます。なのに、その意味を理解することができません。
近くで聞こえる穏やかな呼吸。制服越しに伝わってくる体温。私の背中に添えられた手の、あまりにも優しい感触。
心臓の音がうるさくて、きっと全部聞こえてしまっています。
「ありがとう、美紀。本当に助かったよ」
耳元で囁かれます。神代くんの声が。神代くんの息が、耳に触れて──
「か、神代......くん......」
「でも、危なかったんじゃない?南雲先輩は、気に入らない相手に何をするか分からない人だから」
「......だ、大丈夫です。私は、誰にも見つかっていません」
「それでも、心配だよ」
神代くんの腕が、ほんの少しだけ強くなりました。
「美紀に何かあったら、僕は悲しいからね」
......ああ。
どうしましょう。
私は、誰かに心配してもらえる人間だったんですね。
見つけてもらえるだけで嬉しかったのに。
名前を覚えていてもらえただけで、今日という日は十分幸せだったのに。
こんなふうに抱きしめられて、私が傷つけば悲しいと言ってもらえるなんて。
「......っ」
喉の奥が熱くなります。
泣いたら、困らせるでしょうか。
制服を濡らしてしまうでしょうか。
それでも、どうしても胸の奥からこみ上げてくるものを止められません。
私はおそるおそる、神代くんの制服の裾を指先で掴みました。
離れたくない。
ほんの少しだけ、あと少しだけ。
そう願ってしまう自分が、ひどく欲張りに思えました。
神代くんは、急かすことも、笑うこともありませんでした。
ただ、静かに待ってくれたんです。
やがて腕が緩み、私たちはゆっくりと離れました。
神代くんは、すぐ目の前で微笑んでいます。
「また会えてよかったよ、美紀」
「......わ、私も......です」
「これからは、気軽に声をかけてね。せっかく同じ高校に入れたんだから」
私は何度も頷きました。
そんなこと、できるでしょうか。
今だって、立っているのがやっとなのに。話しかけるだけで、とてつもない勇気が必要だったのに。
「それじゃあ、美紀。また今度でね」
「......また、今度?」
「うん。また話そう。次はもっとゆっくり、ね」
胸の奥で、何かが弾けた気がしました。
これだけで終わりではない。
神代くんは、次に会うことを当たり前のように話してくれている。
「は、はい......っ!」
私は端末を胸に抱き、深く頭を下げました。
一度だけ振り返ると、神代くんはまだこちらを見て、小さく手を振ってくれました。
私も、ぎこちなく手を振り返します。
角を曲がって、人目の少ない場所まで来たところで、ついに足から力が抜けました。
壁に背を預け、ゆっくりしゃがみ込む。
「......覚えて、いてくれた」
声にすると、胸の中がさらに熱くなりました。
「名前も......呼んでくれた......」
指先で、先ほど触れた制服の感触を確かめる。
「抱きしめて......くれた......」
夢ではないでしょうか。
もし夢なら、どうか覚めないでください。
端末にはまだ、神代くんに見せた動画が残っています。
私が勇気を出した証拠が、確かにここにあるんです。
「......また、今度」
何度か小さく繰り返してみます。
他の人にとっては、なんでもない約束。
けれど私には、世界で何よりも大切な約束。
もう、あの人の記憶から消えてしまうことを怖がるだけの私ではありません。だって、私はあの人の──神代くんの心の片隅に存在することがわかったから。
いやぁ、可愛かったなぁ。
山村美紀。
中学の卓球大会で出会った時も相当なものだったけど、再会して改めて見ると、やっぱりとんでもなく可愛い。
【好感度 99】
最後にちらりと確認した数字を思い出して、思わず口元が緩む。
あれほど自己評価が低いと、褒め言葉ひとつでも深く響く。
軽くハグしてあげただけで、好感度が跳ね上がった。まさか、こんなに簡単に落ちるなんてね。
美紀が持ってきてくれた南雲先輩に関する動画は、大きな収穫だった。
画面に映っていた男子生徒、会話の流れ、女子生徒の反応。これを拡散するだけで立場を地の底まで落とすことができるだろう。
でも、これをそのまま表に出すのは得策じゃない。それよりもいい使い方がある。
さて、南雲先輩は何を差し出してくれるだろうか。楽しみで仕方がない。それに、この動画は──もう1人使える人がいる。
そうですよね、なずな先輩?
南雲先輩から切り離して、完全に僕のものにしてあげますよ。
「神代くーん!」
明るい声がして顔を上げる。
向こうからなずな先輩とひよりが戻ってくるところだった。
「お待たせ!思ったより混んでてさ」
「お待たせしてしまって、すみません」
「全然。2人ともお帰り」
手を振って迎えると、なずな先輩がじっと僕の顔を覗き込んできた。
「......なんか、機嫌よくない?」
「そう見えます?」
「うん。さっきよりにこにこしてる」
「可愛い女の子2人と一緒にいるんですから、機嫌が悪くなる理由なんてありませんよ」
「またそういうこと言う!」
「ふふっ。神代くんらしいですね」
ひよりも楽しそうに笑う。
僕たちは荷物を持ち直し、休憩スペースを後にした。
「この後、どこ行こうか?」
「私は、もう少しお話しできれば......」
「じゃあ、雑貨屋さんでも覗いてみる?なずな先輩も、こういうところ好きそうですし」
「好き!あ、でも神代くんは退屈しない?」
「そんなわけないじゃないですか。先輩とひよりが何を選ぶのか、興味ありますから」
「......ほんと、ずるいなぁ」
小さく呟いた先輩は、僕の腕を軽く叩いてから先に歩き出した。
雑貨店には、色とりどりの小物が並んでいた。
髪飾りにキーホルダー、文房具、季節を先取りした飾り物。棚の前を通るたび、なずな先輩が楽しそうに足を止める。
「ねえ、これ可愛くない?」
先輩が手にしたのは、小さな星の飾りがついたヘアピンだった。
「似合いそうですね。つけてみます?」
「えっ、ここで?」
「鏡もありますよ」
僕が指さすと、なずな先輩は少し迷った末に髪へ当ててみせた。
「......どう?」
「すごく似合ってます。先輩の明るい雰囲気にぴったりです」
「そ、そっか。じゃあ、買っちゃおうかな」
「朝比奈先輩、こちらも似合うと思います」
ひよりが控えめに差し出したのは、落ち着いた淡い色の髪飾りだった。
「あ、本当だ。ひよりちゃん、センスいいね!」
「そんな......ありがとうございます」
2人が並んで鏡を覗き込む姿は、もうすっかり仲のいい友人同士のようだ。女子の関係性はどこまで信じてもいいか疑問ではあるけど。
「あ、これ」
今度はひよりが足を止めた。
綺麗な色合いのしおりが、透明なケースの中に並んでいる。
「気になる?」
「はい。とても綺麗だなと思って......」
その横顔に浮かんだ柔らかな笑みを見て、僕はひとつ思いついた。
「せっかくだから、今日の記念に同じものを買わない?」
「僕たち3人で?」
「うん。さっき本も買ったし、ちょうどいいでしょ?」
なずな先輩は目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、色違いにしよっか」
「......嬉しいです」
ひよりはしおりを大事そうに見つめている。
3人で少し悩み、それぞれ好きな色を選んだ。
同じ形で、色だけが違う、小さな記念品。
たったそれだけのものだけど、今日という日の思い出にはなる。
店を出たところで、なずな先輩が突然、端末を取り出した。
「あっ、そうだ。せっかくだし、写真撮ろうよ!」
「写真、ですか?」
「うん。今日の記念!ね、神代くんもいいよね?」
「もちろん」
「ひよりちゃんも、こっちおいで」
先輩に手招きされたひよりが、少し恥ずかしそうに僕の隣へ並ぶ。
反対側にはなずな先輩。
3人の顔が画面に収まるよう、先輩が端末を持ち上げる。
「はい、笑ってー!」
画面が一瞬だけ明るく光った。
写真の中で、なずな先輩は満面の笑みを浮かべ、ひよりは少し頬を染めながら穏やかに微笑んでいる。
そして真ん中には、我ながら腹立たしいくらい整った顔で笑う僕。
うん、いい写真だね。
ひよりが写真を受け取り、しばらく画面を見つめてから、宝物をしまうように端末を胸元へ寄せる。
「......今日は、本当に楽しかったです」
「私も!ひよりちゃんとも仲良くなれたし」
「はい。朝比奈先輩と、また一緒にお買い物できたら嬉しいです」
「もちろん!今度はもっと時間ある時にね」
なずな先輩が自然にひよりの手を取る。
ひよりは少し驚いていたけれど、すぐに笑って握り返した。
......いいじゃないか。
恋の競争相手でありながら、一緒に笑える相手でもある。
僕の望む関係は、案外こういう小さな時間の積み重ねから生まれるのかもしれない。
今日の収穫を思い返す。
ひよりとなずな先輩との距離は縮まった。美紀とも再会できたし、南雲先輩の秘密まで手に入った。
何もかも、予定通り......と言いたいところだけど、美紀の行動だけは予想外だったな。
だからこそ、面白い。
「神代くん?どうかした?」
なずな先輩に顔を覗き込まれ、僕は笑みを浮かべた。
「ううん。今日は本当にいい日だなと思って」
「......ふふっ。私も、そう思います」
ひよりが頷き、先輩も嬉しそうに笑う。
さて、そろそろ解散だろうか。なずな先輩のことは後で僕の部屋に呼び出そう。
南雲先輩。女の子に秘密を作っても、いつかバレることになるんですよ。
それでは──ありがたくいただきますね。
「......どうしよ」
ベッドの上に並べた服を前に、私はもう何度目か分からない溜息を吐いた。
時計は午後8時を少し回ったところ。ついさっきまで、神代くんとひよりちゃんと3人でケヤキモールを歩いていた。買ったばかりの本も、色違いで揃えたしおりも、机の上に置いたままだ。
楽しかった。
それは間違いない。ひよりちゃんとも仲良くなれたし、神代くんと撮った写真だって、帰り道に何度も見返してしまった。
なのに、その余韻に浸っていたところで届いたメッセージが、私の心を落ち着かなくさせている。
『今夜、少しだけ僕の部屋に来てもらえませんか。先輩にだけ、どうしても話したいことがあるんです』
「どうしても、って......何?」
しかも、こんな時間に。
いや、分かってる。別に男の子の部屋に行くだけで、何かが起こると決まったわけじゃない。神代くんは可愛ければ誰にでも優しいし、昼間だってひよりちゃんに甘いことばっかり言っていた。
それでも、私だけを夜に呼んでくれた。
その事実を、少し嬉しいと思ってしまっている自分がいる。
「これじゃデートに行くみたいじゃん......」
手に取っていたワンピースを慌てて戻す。
頑張りすぎだと思われたら恥ずかしい。でも、制服のままで行くのも、なんだかもったいない。
結局、白いブラウスに薄手のカーディガン、膝丈のスカートを合わせた。髪を整え、鏡の前で1度だけくるりと回ってみる。
「......変じゃない、よね?」
誰も答えてくれない。
当然だ。部屋には私しかいない。
私は端末を握り直し、神代くんへ『今から行くね』と返信した。
少し前までの私なら、男の子の部屋に呼ばれたくらいでこんなに緊張することはなかったと思う。
だけど、今は違う。
神代くんに会う度、知らなかった自分を見つけてしまう。
彼に可愛いと言われたい。私のことを見てほしい。あの笑顔が、私に向けられる時間を少しでも長くしたい。
「......ほんと、調子狂うなぁ」
目的の部屋の前で深呼吸し、呼び鈴を押す。
ほどなくして、扉が開いた。
「いらっしゃい、なずな先輩」
「やっほ。急に呼び出して、どうしたの?......って、あれ?」
軽い調子で言いかけた言葉が、途中で止まる。
神代くんの表情が、いつもと違ったからだ。
笑ってはいる。でも、目が笑っていない。
「ごめんなさい。せっかく来てくれたのに、楽しい話じゃなくて」
「......何かあった?」
「中へどうぞ。見てもらいたいものがあるんです」
私は頷き、靴を揃えて部屋へ入った。
案内されたソファに腰掛けると、神代くんはテーブルの上に端末を置いた。
「まずは、これを見てください」
再生された動画に映っていたのは、見間違えるはずのない金髪の男子生徒だった。
「......雅?」
画面の向こうで、南雲雅が数人の男子と話している。
『よくやったな。約束通り、あの子には俺から話を通しておいた』
『本当っすか!ありがとうございます、南雲さん!』
『次も俺の期待に応えてくれよ。そうすりゃ、悪いようにはしない』
映像が切り替わる。
今度は女の子がいた。笑っているというより、困っているように見える。
『そんなに警戒すんなって。こいつは俺が保証する。少し付き合ってやれよ』
また別の場面。
『俺についてくれば、女の紹介くらい融通してやれる。分かりやすいだろ?』
そこで動画が止まった。
「......なに、これ」
上手く声が出ない。
雅が自分に従う生徒を優遇していることは知っていた。人を使うのが上手いことも、勝つためには強引な手段を選ぶことも。
中学からの付き合いだから、それくらいは分かっているつもりだった。
でも、こんなことをしているなんて。女の子を、男子へ与える性処理道具のように扱うなんて、そんなの──
「これ......本当に、雅なの?」
自分でも馬鹿な質問だと思う。
声も顔も話し方も、全部知っている。それなのに、どうしても確認せずにはいられなかった。
「前後の映像もあります。編集して都合よく繋げたものじゃありません」
神代くんの声は静かだった。
「もちろん、映っている全員の事情までは分かりません。ですが、明らかに嫌がっている子も映ってたので......先輩には知っておいてほしかったんです」
「......そっか」
私は膝の上で指を握った。
怒っているはずなのに、胸が冷たかった。
昔から知っている相手だからこそ、こんな姿を見たくなかった。
「ごめんね、神代くん。ちょっと、頭の整理が......」
「謝らないでください」
そう言われて、余計に情けなくなる。
私はいつも通り笑おうとした。
でも、口元が上手く動いてくれなかった。
なずな先輩は、俯いたまま黙り込んでいた。
昼間の彼女とは、まるで別人だ。
南雲先輩とは中学時代からの付き合いらしい。気に入らないところがあっても、長い付き合いの中で積み重ねてきた信頼はあるだろう。
そこへ、この映像だ。
彼女の動揺も、失望も、当然の反応だと思う。
そして、その隙につけ込むようなことを考えている僕は、きっと南雲先輩を一方的に非難できるほど立派な人間じゃない。
......それでも。
なずな先輩を、あの男のそばに置いておきたくない。これは計算だけじゃなくて、僕自身の本心だった。
「なずな先輩」
名前を呼ぶと、彼女がゆっくり顔を上げた。
「僕、先輩が楽しそうに笑っているところが好きなんです」
「......急に、何?」
「今日のケヤキモールでも、先輩はひよりを気遣ってくれたでしょう?自分の好きなものを見せて、ひよりの話も聞いて。ああいう先輩を見ていると、一緒にいてよかったなって思うんです」
先輩の目が、少しだけ見開かれる。
「だから......南雲先輩には、なずな先輩は勿体ないですよ」
「......神代くん」
「先輩が自分で選んで、自分の好きな相手の隣で笑っていてほしい。そしてそれが──」
僕は彼女の隣へ移動した。
「できれば、その相手が僕だったら嬉しいですけどね」
冗談めかした最後の一言に、先輩は笑わなかった。
ただ、じっと僕を見つめている。
【好感度 84】
「......そんなこと言われたら、期待しちゃうじゃん」
「期待してほしくて言ってますから」
「本当に、ずるいよ。昼間はひよりちゃんにも優しくしてたくせに」
「ひよりのことも大切です。でも、今ここにいてほしいのは、なずな先輩ですよ」
僕がそっと頬に触れると、先輩は逃げなかった。
唇が触れそうな距離まで近づく。
「......嫌なら、離れてください」
返事の代わりに、先輩は僕の服の裾を掴んだ。
そして、静かに目を閉じる。
僕は彼女に口づけた。
長くはない、けれど確かに互いの気持ちを確かめるためのキス。離れても、先輩の指は僕の服を掴んだままだった。
「......初めて、だったのに」
恥ずかしそうな声に、僕は少しだけ目を細める。
「嫌でしたか?」
「......嫌だったら、受け入れてないよ」
頬を真っ赤にしたまま、先輩は僕を見上げた。
【好感度 90】
「私、最近はずっと、神代くんのこと考えてた。帰ってからも、写真何回も見て......だから、部屋に呼ばれた時、すごく嬉しかった」
「僕も嬉しかったです。来てくれて」
「......うん」
それから少しの沈黙。
先輩は僕の服を掴んだ指に、ほんの少し力を込めた。
「ねえ、神代くん」
「......もっと、近くに来てよ」
僕は微笑み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、その願いに応えるように、彼女との距離をもう1度縮めた。
そして、なずな先輩の両肩に、そっと手を添えた。ああ、こういうのは初めてだな。先輩が好きな女を奪うなんて、さ。
なずな先輩
Bクラス or Cクラス
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Bクラス
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Cクラス