昭和十七年六月。
南国特有の強い日差しが海面を照らし、青い海がどこまでも続いている。
輸送船の甲板に立つ神崎隼人二飛曹は、水平線の彼方を見つめていた。
潮風が軍帽を揺らす。
その顔はまだ若い。
二十二歳。
海軍航空隊の戦闘機搭乗員としては珍しくない年齢だった。
だが、その瞳にはすでに幾度もの実戦を経験した者だけが持つ鋭さがあった。
「見えてきたぞ!」
誰かが叫んだ。
神崎は前方を見る。
緑に覆われた巨大な島が姿を現していた。
ニューブリテン島。
そして、その北東端に存在する日本海軍最大級の前進基地。
ラバウル。
南東方面作戦の要。
連合軍に対する最前線。
多くの軍人たちが憧れ、恐れた場所だった。
「ここが……ラバウルか」
思わず呟く。
隣に立っていた同僚の佐伯信吾が笑った。
「なんだ、緊張してるのか?」
「してない」
「嘘つけ」
「してない」
「顔に書いてあるぞ」
神崎は顔をしかめた。
佐伯は同期だ。
訓練時代からの付き合いで、お互いのことはよく知っている。
「まあ、俺も少し緊張してるけどな」
佐伯はそう言って空を見上げた。
「ラバウル航空隊だぞ。南洋一の精鋭部隊だ」
神崎も頷く。
ここには名だたる撃墜王たちが集まっている。
新聞で見た名前。
伝説のように語られる先輩たち。
その中に自分たちが加わる。
考えるだけで胃が重くなった。
数時間後。
二人は基地へ到着した。
そこで神崎は思わず息を呑んだ。
「すごい……」
飛行場だった。
広大な滑走路。
ずらりと並ぶ零戦。
九九式艦上爆撃機。
一式陸上攻撃機。
整備兵たちが忙しく走り回り、航空機が次々と発進していく。
まるで巨大な生き物のようだった。
「おい新人!」
突然声が飛ぶ。
振り向くと一人の大尉が立っていた。
鋭い目つき。
日に焼けた顔。
歴戦の空気を纏っている。
「お前たちが内地から来た補充か」
「はっ!」
二人は同時に敬礼した。
「鬼塚だ。戦闘機隊の指揮をしている」
鬼塚大尉。
その名は神崎も知っていた。
日中戦争以来のベテラン搭乗員。
撃墜数は二十機以上とも言われている。
「歓迎してやりたいところだが時間がない」
鬼塚は腕時計を見た。
「敵偵察機が近くに出た」
神崎の背筋が伸びる。
着任初日。
まさか。
「出撃ですか」
「そうだ」
鬼塚はニヤリと笑った。
「戦闘機乗りは歓迎会より空戦だ」
それから三十分後。
神崎は零戦の操縦席に座っていた。
愛機の二一型。
銀色の機体が太陽を反射して輝いている。
整備兵が親指を立てた。
「頼みますよ!」
「任せろ」
神崎も笑い返した。
緊張はあった。
だがそれ以上に高揚感がある。
ついに最前線。
ついにラバウル。
ここからが本当の戦いだった。
エンジン始動。
栄エンジンが唸りを上げる。
機体全体が震えた。
前方では鬼塚機が滑走を開始している。
続いて佐伯機。
そして神崎。
「各機、発進!」
通信が響く。
零戦隊は次々と空へ舞い上がった。
ラバウル上空。
高度四千。
編隊は青空を進んでいた。
海と雲しか見えない。
だが緊張感は張り詰めている。
「敵機発見!」
先行機が報告した。
神崎は目を凝らす。
遠くに黒い点。
徐々に大きくなる。
「双発機です!」
「偵察機だな」
鬼塚が即座に判断する。
「逃がすな」
編隊が加速した。
敵もこちらに気付いた。
急旋回。
全力で離脱を試みる。
だが零戦の方が速い。
「神崎、行け!」
鬼塚の声。
「はっ!」
神崎はスロットルを押し込んだ。
機体が前へ飛び出す。
距離が縮まる。
五百。
三百。
二百。
照準器の中に敵機が入る。
訓練で何度も繰り返した動作。
だが今度は実弾だ。
本物だ。
人が乗っている。
一瞬だけ指が止まる。
しかし。
次の瞬間。
神崎は引き金を引いた。
七・七ミリ機銃。
二十ミリ機関砲。
火線が伸びる。
命中。
敵機の左エンジンから煙が吹き出した。
「当たった!」
佐伯の声が聞こえる。
神崎は追撃した。
再び射撃。
今度は胴体に命中。
敵機は炎に包まれた。
そのまま海へ向かって降下していく。
やがて雲の中へ消えた。
神崎は呆然としていた。
初撃墜。
訓練ではない。
本当の戦果。
胸の奥が妙に重かった。
「神崎!」
鬼塚の声が飛ぶ。
「考え事は帰ってからしろ!」
「はっ!」
神崎は慌てて編隊へ戻る。
空戦は終わった。
敵機は撃墜。
損害なし。
完璧な勝利だった。
しかし。
帰投中。
神崎は何度も後ろを振り返った。
さっき撃ち落とした機体。
あの中にも誰かがいた。
自分と同じように。
空を飛ぶ人間が。
それを撃ち落とした。
戦争だから当然。
頭では分かっている。
だが。
心はまだ追いついていなかった。
ラバウル基地へ帰還すると、整備兵たちが歓声を上げた。
「お帰りなさい!」
「初出撃成功ですね!」
「撃墜おめでとうございます!」
神崎は苦笑した。
佐伯が肩を叩く。
「浮かない顔だな」
「少しな」
「最初はみんなそうだ」
佐伯は空を見上げた。
「でも生き残るためには慣れなきゃいけない」
神崎は答えなかった。
代わりに滑走路の向こうを見つめた。
そこには数十機の零戦が並んでいる。
まるで無敵の軍団のように。
この時。
誰も知らなかった。
数年後。
この飛行場が爆撃で穴だらけになり。
数百機いた航空機がほとんど失われ。
ラバウルが孤立することを。
そして神崎自身が、その地獄を最後まで戦い抜くことを。
今はまだ。
ラバウルは最強だった。
南海の要塞。
日本海軍が誇る不沈の航空基地。
そして若き零戦搭乗員・神崎隼人の物語は、ここから始まるのであった。
新連載です。