ラバウルに着任してから一週間。
神崎隼人はようやく、この巨大な基地の空気に慣れ始めていた。
朝は日の出前に起床。
飛行服に着替え、簡単な朝食を済ませる。
その後は天候確認、機体点検、作戦会議。
敵襲がなければ訓練飛行。
敵襲があれば迎撃。
毎日が慌ただしく過ぎていく。
だが不思議なことに、神崎は嫌ではなかった。
むしろ心地よかった。
空を飛ぶ。
それが自分の仕事なのだ。
「神崎!」
食堂で朝食を食べていると、佐伯がやってきた。
「また卵かけ飯か」
「好きなんだ」
「お前、毎日同じ物食べてよく飽きないな」
「お前こそ毎日カレーじゃないか」
「カレーは別だ」
何が別なのか神崎には分からなかった。
佐伯は笑いながら席に座る。
「そういえば聞いたか?」
「何をだ」
「新しい零戦隊が来るらしい」
「補充か」
「らしいな」
ラバウルは常に人が入れ替わる。
戦死。
転属。
病気。
理由は様々だ。
だから補充も頻繁に来る。
「今度は若い連中が多いらしいぞ」
「俺たちも十分若いだろ」
「それもそうだな」
二人は笑った。
その時だった。
基地中にサイレンが鳴り響いた。
食堂が一瞬で静まり返る。
次の瞬間。
「総員配置につけ!」
怒鳴り声が響いた。
神崎と佐伯は同時に立ち上がる。
敵襲だった。
◇
「敵編隊接近中!」
飛行場は一気に慌ただしくなった。
整備兵が走る。
搭乗員が飛行機へ向かう。
通信兵が怒鳴る。
誰も無駄な動きをしない。
神崎は愛機へ駆け寄った。
「状態は?」
「絶好調です!」
整備兵の青年が胸を張る。
まだ十代後半だろう。
名前は村田。
神崎の担当整備兵だった。
「頼むぞ」
「こちらこそ!」
村田は満面の笑みを見せた。
その顔を見ていると、不思議と安心する。
搭乗員だけが戦っているわけではない。
地上にも仲間がいる。
それを神崎は少しずつ理解し始めていた。
◇
零戦隊は次々と離陸した。
高度三千。
高度四千。
ラバウル上空へ上がる。
「敵機確認!」
報告が飛ぶ。
神崎は目を凝らした。
遠くの空に機影。
しかも数が多い。
「十……いや十五機以上!」
「爆撃機だな」
鬼塚大尉が冷静に言う。
双発爆撃機が編隊を組んで飛んでいる。
護衛戦闘機もいる。
前回の偵察機とは違う。
本格的な空戦になる。
「全機突撃!」
鬼塚の号令。
零戦隊が散開した。
◇
空が戦場になる。
神崎は急降下した。
風圧が機体を叩く。
照準の中に敵戦闘機が入る。
引き金。
火線。
敵機が回避。
「速い!」
神崎は即座に追う。
敵も熟練者らしい。
旋回。
上昇。
降下。
目まぐるしく位置が変わる。
だが零戦の旋回性能は優秀だった。
徐々に背後を取る。
距離百五十。
百。
八十。
「もらった!」
射撃。
二十ミリ弾が命中する。
敵機の右翼が吹き飛んだ。
機体はそのまま錐揉みしながら落下する。
撃墜。
だが喜ぶ暇はない。
「神崎! 後ろ!」
佐伯の叫び。
反射的に機体を傾ける。
直後。
銃弾が機体脇を通過した。
「くっ!」
敵機。
もう一機いた。
神崎は急旋回する。
Gが体を押し潰す。
視界が狭まる。
それでも操縦桿を引く。
零戦は応えてくれた。
敵機の背後へ滑り込む。
「逃がすか!」
射撃。
命中。
敵機から煙。
だが落ちない。
しぶとい。
再度接近。
引き金。
今度はエンジンへ直撃。
炎が上がった。
敵機は黒煙を引きながら離脱していく。
◇
その時だった。
「鬼塚隊長!」
通信に悲鳴が混じる。
神崎は振り向いた。
一機の零戦が煙を吐いている。
尾翼が破損していた。
若い搭乗員の機体だ。
先日補充されたばかりだった。
「被弾しました!」
声が震えている。
「落ち着け!」
鬼塚が叫ぶ。
「高度を保て!」
だが敵戦闘機が追っている。
神崎は考えるより先に動いていた。
全速力。
敵機へ向かう。
照準。
発砲。
敵機が急回避した。
その隙に若い搭乗員は離脱する。
「助かった……」
通信から安堵の声。
神崎は短く答えた。
「帰ったら飯を奢れ」
一瞬。
通信が笑い声で埋まった。
ほんの数秒。
それだけで恐怖が和らぐ。
◇
戦闘終了。
敵編隊は撤退した。
ラバウルへの爆撃は阻止。
損害軽微。
勝利だった。
だが飛行場へ帰還した神崎は、妙な疲労感を覚えていた。
今日の空戦は今までと違う。
敵も強かった。
仲間も危なかった。
運が悪ければ誰か死んでいた。
その事実が胸に残っていた。
◇
夕方。
基地の外れ。
神崎は一人で海を見ていた。
波の音だけが聞こえる。
南国の夕日は美しかった。
「難しい顔してるな」
振り向くと鬼塚大尉だった。
「隊長」
「隣いいか」
「もちろんです」
鬼塚は岩に腰掛けた。
しばらく沈黙。
やがて口を開く。
「今日の戦果は二機だったな」
「はい」
「上出来だ」
神崎は首を振った。
「でも危なかったです」
「そうだな」
「もし私が間に合わなかったら……」
「死んでいたかもしれん」
鬼塚はあっさり言った。
神崎は言葉を失う。
「だがな」
鬼塚は海を見つめたまま続ける。
「戦争ってのはそういうものだ」
「……」
「誰も死なない戦場なんてない」
夕日が海を赤く染めている。
「だから俺たちは飛ぶ」
鬼塚は静かに言った。
「少しでも仲間を生きて帰すためにな」
神崎は黙っていた。
その言葉は不思議と胸に残った。
◇
夜。
宿舎では宴会が始まっていた。
「神崎!」
佐伯が酒瓶を持ってくる。
「お前のおかげで新人が助かったぞ!」
「俺だけじゃない」
「そういうところだぞ」
周囲の搭乗員たちも笑う。
神崎は苦笑した。
騒がしい。
だが悪くない。
この仲間たちとなら、どこまでも戦える気がした。
今のラバウルは強い。
物資もある。
飛行機もある。
熟練搭乗員もいる。
誰もが勝利を信じていた。
しかし歴史は容赦しない。
半年後。
一年後。
敵はさらに増え。
新型機が現れ。
この楽観は少しずつ消えていく。
だが今はまだ誰も知らない。
歓声が響く宿舎で、神崎は仲間たちと笑っていた。
ラバウルの空は、まだ日本海軍のものだった。