ラバウルに赴任してから一か月。
神崎隼人はすっかり基地の一員になっていた。
迎撃。
哨戒。
護衛任務。
敵機との空戦。
毎日のように空へ上がり、毎日のように戦う。
最初は緊張していた空戦も、今では冷静に状況を見られるようになっていた。
それでも。
空を甘く見たことは一度もない。
ほんの一瞬の油断で命を落とす世界だからだ。
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ある朝。
飛行場では珍しく騒ぎになっていた。
「来たぞ!」
「あれだ!」
「本当に来やがった!」
整備兵たちが空を指差している。
神崎も顔を上げた。
編隊が近づいてくる。
十数機の零戦。
その飛び方が違った。
無駄がない。
乱れがない。
まるで一つの生き物のようだった。
「すごいな……」
神崎が呟く。
隣の佐伯が頷いた。
「あれが噂の増援だ」
「増援?」
「本土や各地から集められたベテラン連中らしい」
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飛行場へ降り立った搭乗員たちは歴戦の顔をしていた。
日に焼けた顔。
鋭い目。
余裕のある歩き方。
誰もが修羅場を潜り抜けてきたことが分かる。
その中の一人が神崎たちへ近づいてきた。
「新入りか?」
「いえ、赴任して一か月です」
「それなら十分新入りだ」
男は笑った。
三十歳近いだろうか。
左頬に古い傷跡があった。
「岩本だ」
神崎は目を見開く。
その名前を知っていた。
新聞にも載ったことがある有名な撃墜王だった。
周囲もざわつく。
「まさか本人か……」
「本物だぞ……」
佐伯が小声で言った。
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その日の夕方。
歓迎会が開かれた。
古参搭乗員たちの話は面白かった。
中国戦線。
珊瑚海。
数々の激戦。
神崎たちは夢中になって聞いた。
「敵も馬鹿じゃない」
岩本は酒を置いた。
「勝っている時ほど気を付けろ」
「勝っている時ですか?」
神崎が尋ねる。
「ああ」
岩本は頷いた。
「本当に危ないのは負けている時じゃない」
「?」
「勝っていると思い込んだ時だ」
その場が静かになった。
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翌日。
神崎たちは大規模な迎撃任務に参加した。
敵爆撃機十八機。
護衛戦闘機多数。
ラバウル上空は激戦になった。
神崎も一機撃墜。
佐伯も一機撃墜。
だが。
岩本は違った。
神崎が苦戦している敵機を一瞬で仕留めたのだ。
まるで教科書のような空戦だった。
「すげえ……」
神崎は思わず見惚れた。
これが本物のエースか。
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帰投後。
神崎は格納庫で愛機を点検していた。
そこへ鬼塚大尉が現れる。
「神崎」
「はい」
「お前、最近調子に乗ってないか?」
「え?」
「撃墜数が増えてきたからな」
神崎は慌てて首を振る。
「そんなことは」
「ならいい」
鬼塚は笑った。
「だが空は慢心した奴から死ぬ」
その言葉は重かった。
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数日後。
異変が起きた。
最初は小さな噂だった。
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食堂。
昼食時。
いつも騒がしい場所が妙に静かだった。
「なあ」
誰かが言った。
「聞いたか?」
「何をだ」
「南の方で大きな海戦があったらしい」
神崎も耳を傾ける。
「またか」
「いや、今回は違う」
男は声を潜めた。
「空母がやられたらしい」
食堂の空気が止まった。
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「どこの空母だ?」
「分からん」
「敵か?」
「いや……」
男は言い淀む。
「味方らしい」
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佐伯が顔をしかめた。
「デマじゃないのか」
「俺もそう思う」
「だろうな」
日本海軍の空母部隊は最強だ。
誰もがそう信じている。
だから簡単には信じられない。
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しかし。
数日後。
噂はさらに広がった。
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「二航戦がやられたらしい」
「いや、一航戦だ」
「両方だという話もあるぞ」
「馬鹿な」
神崎は耳を疑った。
一航戦。
二航戦。
海軍航空隊の象徴とも言える存在だ。
もし本当なら大事件である。
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夜。
宿舎。
神崎と佐伯は窓際に座っていた。
外では虫の鳴き声が響いている。
「どう思う?」
佐伯が聞く。
「分からない」
神崎は正直に答えた。
「だが嫌な感じはする」
「俺もだ」
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しばらく沈黙。
やがて佐伯が言った。
「もし本当だったら」
「……」
「戦争、思ったより長くなるかもしれないな」
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神崎は答えなかった。
空母が沈む。
それは単なる軍艦の喪失ではない。
そこに乗っていた搭乗員。
整備兵。
指揮官。
全てを失うということだ。
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翌朝。
鬼塚大尉が珍しく難しい顔で飛行場を歩いていた。
岩本たち古参搭乗員も口数が少ない。
何かを知っているようだった。
だが誰も何も言わない。
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その日の夕方。
ラバウルへ一機の輸送機が飛来した。
降りてきたのは数人の搭乗員。
その表情は暗かった。
疲れ切っていた。
そして腕章には――
空母航空隊の印があった。
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神崎は遠くからその姿を見つめる。
胸騒ぎがした。
ただの噂では終わらない。
何か大きな出来事が起きた。
そんな予感がした。
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そして数日後。
ラバウル航空隊全員が集められることになる。
そこで彼らは初めて知る。
日本海軍史上最大級の敗北。
そして沈んだ空母の名を。