昭和十七年十一月下旬。
ラバウル基地。
夜明け前。
飛行場は慌ただしかった。
整備兵たちが走り回り、通信兵が次々と命令を伝えている。
いつもの出撃前とは違う。
何か大きな作戦が動いている。
---
神崎隼人が作戦室へ入ると、すでに飛行隊の主力が集まっていた。
鬼塚大尉の表情は険しい。
その横には見慣れない参謀までいる。
---
「全員揃ったな」
鬼塚が口を開く。
---
壁の地図にはガダルカナル島。
そして周辺海域。
---
「昨夜、我が艦隊が敵艦隊と交戦した」
---
誰も口を挟まない。
---
「現在、周辺海域は大混戦状態にある」
---
神崎は息を呑んだ。
---
また海戦か。
---
しかし今回は規模が違うらしい。
---
「我々は上空援護および索敵を担当する」
---
「敵空母ですか?」
---
誰かが尋ねた。
---
「分からん」
---
鬼塚は首を振った。
---
「戦艦かもしれん」
---
「巡洋艦かもしれん」
---
「何が出てくるか誰にも分からん」
---
部屋が静まり返る。
---
◇
---
出撃。
---
二十数機の零戦がラバウルを飛び立つ。
---
神崎の愛機は相変わらず補修跡だらけだった。
---
だが飛ぶ。
---
まだ飛べる。
---
村田たち整備兵が必死に支えているからだ。
---
神崎は操縦席の中で呟く。
---
「帰ったら礼を言わないとな」
---
◇
---
数時間後。
---
ソロモン諸島上空。
---
雲が多い。
---
海は荒れていた。
---
「敵艦発見!」
---
通信が響く。
---
神崎は海面を見る。
---
小さな影。
---
だが近づくにつれ、その正体が見えてくる。
---
駆逐艦。
---
巡洋艦。
---
そして。
---
海面に漂う黒煙。
---
◇
---
戦いの痕跡だった。
---
燃えている艦。
---
転覆しかけている艦。
---
海上には破片が散乱している。
---
神崎は思わず息を止めた。
---
昨日まで戦っていた人々がいる。
---
今はもういないかもしれない。
---
◇
---
「敵機接近!」
---
その時だった。
---
高空から敵機が現れる。
---
今まで何度も戦ってきた機体。
---
だが数が多い。
---
二十機以上。
---
三十機近いかもしれない。
---
◇
---
「迎撃!」
---
鬼塚の声。
---
零戦隊が散開する。
---
神崎も上昇した。
---
空が再び戦場になる。
---
◇
---
敵機との交差。
---
機銃弾。
---
曳光弾。
---
雲の中を突き抜ける。
---
神崎は敵戦闘機を追った。
---
相手も熟練者だ。
---
簡単には背後を取らせない。
---
旋回。
---
降下。
---
上昇。
---
互いに限界近くまで機体を振り回す。
---
◇
---
だが。
---
神崎は違和感を覚えていた。
---
以前より敵が上手い。
---
確実に。
---
開戦当初のような未熟さがない。
---
経験を積んでいる。
---
こちらと同じように。
---
◇
---
「神崎!」
---
佐伯の声。
---
敵機が一機、佐伯機へ向かっていた。
---
神崎は急旋回する。
---
援護。
---
射撃。
---
敵機が回避する。
---
その隙に佐伯が離脱した。
---
「借りは三回目だぞ!」
---
「そのうち請求する!」
---
短いやり取り。
---
しかし二人とも笑ってはいなかった。
---
余裕がなくなってきている。
---
◇
---
空戦終了後。
---
飛行隊は帰投した。
---
だが飛行場へ戻る途中。
---
神崎は編隊を見回して気付く。
---
一機足りない。
---
二機。
---
いや。
---
三機。
---
◇
---
ラバウル帰還。
---
整備兵たちが待っている。
---
だが。
---
戻らない機体があることに皆気付いていた。
---
誰も何も言わない。
---
◇
---
夕方。
---
司令部から戦果報告が発表された。
---
敵艦撃沈。
---
敵機撃墜。
---
数字だけ見れば勝利だった。
---
だが。
---
神崎たちは喜べなかった。
---
失った仲間の顔が浮かぶからだ。
---
◇
---
夜。
---
宿舎。
---
元空母航空隊の搭乗員がぽつりと言った。
---
「この海域にはな」
---
全員が顔を上げる。
---
「沈んだ船が山ほどある」
---
「……」
---
「だから米軍はこう呼び始めたらしい」
---
◇
---
男は静かに続ける。
---
「鉄底海峡」
---
◇
---
誰も喋らなかった。
---
海底に沈んだ無数の艦艇。
---
日本艦。
---
米艦。
---
区別なく沈んでいる。
---
それほど激しい戦いが続いている。
---
◇
---
神崎は窓の外を見る。
---
遠くにラバウル湾の灯火が見える。
---
開戦からまだ一年も経っていない。
---
だが。
---
まるで何年も戦っている気がした。
---
◇
---
その頃。
---
ガダルカナルではさらに状況が悪化していた。
---
補給不足。
---
食糧不足。
---
弾薬不足。
---
前線の将兵たちは飢えながら戦っている。
---
そして海軍もまた消耗していた。
---
艦艇。
---
航空機。
---
搭乗員。
---
何もかもが削られている。
---
◇
---
数日後。
---
ラバウルへ新たな報告が届く。
---
ガダルカナル維持は困難。
---
そんな言葉が司令部内で囁かれ始めていた。
---
もちろん一般の搭乗員には知らされない。
---
だが古参たちは感じていた。
---
潮目が変わりつつあることを。
---
◇
---
鬼塚大尉は飛行場で夕焼けを見つめていた。
---
隣には神崎。
---
「隊長」
---
「なんだ」
---
「勝てますか」
---
神崎は初めてその質問を口にした。
---
鬼塚はすぐには答えなかった。
---
長い沈黙。
---
やがて静かに言う。
---
「分からん」
---
神崎は驚かなかった。
---
鬼塚が嘘を言わない人間だと知っていたからだ。
---
「だがな」
---
鬼塚は続ける。
---
「明日も飛ぶ」
---
「……はい」
---
「その次の日も飛ぶ」
---
「はい」
---
「それが俺たちの仕事だ」
---
◇
---
夕日が滑走路を赤く染める。
---
ラバウルはまだ健在だった。
---
零戦もまだ飛ぶ。
---
だが歴史は静かに進んでいる。
---
そして昭和十八年。
---
神崎たちは新たな時代へ足を踏み入れる。
---
ラバウルが最も輝き。
---
そして最も血を流す時代へ。