神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~ 作:筆負野ユウ
第1話 暇つぶしの終わり
会議室は今日も死臭に満ちている。
――もちろん比喩だ。誰も死んじゃいない。ただ、余裕と誠実さが、机の下で何匹か息絶えているだけだ。
スーツ姿の同僚たちは、真剣な顔で業務と責任を押しつけ合っていた。俺はというと、書類をめくりながら、必死で
いや、眠ってはいない。
眠るほど度胸がない。
ただ、起きているほど誠実でもない。
「瀬戸くん、どう思う?」
来た。
俺は顔を上げる。慌てない。こういうときに慌てる人間は、余計な仕事を背負う。
この会議で、俺はすでに三つほど改善案を思いついていた。
そして、そのすべてをなかったことにした。
「……現状の仕様なら、おっしゃるとおりかと。根本から直すより、当面は運用で対応した方が工数もかかりませんし」
ありきたりで、責任の所在をぼかす言葉。
『そうですね』以上の意味はない。
だが、会議では『そうですね』をそれらしく言える人間が重宝される。
下手に意味のあることを言った人間には、仕事が降ってくる。
そして、その報酬は薄い。
周囲が軽く頷くのを確認して、俺は資料へ視線を戻した。
よし、生還。
こいつらも、中身のある発言を期待しているわけではない。必要なのは、議事録に書ける程度の合意と、誰も責任を取っていないことを不明瞭にする空気だ。
仕事とは、時間を切り売りしながら、合間に飛んでくる面倒ごとをいなす作業である。
そう割り切っている。
こういう時間が積み重なって、そのうち人生になるのだろう。
それで何か困るのかと聞かれれば、別に困ってはいない。
何もしていない。
何もしていないから、いまのところ人生は上々だ。
◇◇
定時を少し回って退社したところで、スマホに着信が来た。
地元、横浜時代の友人だ。
名前を見て、少しだけ懐かしくなる。同時に、どうせくだらない用件だろうとも思った。
「理人、今から合コンなんだけど来ない?」
久しぶりに聞く声。魅力的な提案のはずだ。
そのはずなのに、胸は躍らない。
「急だな」
「相手はグラドルの卵に、PiPiにも出てるモデルだぞ」
はい、解散。
性欲の対象として大変に魅力的なのは否定しない。否定したところで誰も信じないし、俺自身が一番信じない。
ただ、モデルやグラドルなんて世界へ足を踏み入れる女は、男に対する採点項目も多そうだ。
年収。学歴。顔面偏差値。会話のテンポ。店選び。靴。時計。余裕のある笑い方。
多すぎる。
俺は別に、自分を過小評価していない。
二十六歳。大手とは言わないまでも、しばらく潰れはしなさそうな会社の技術系職。年収は威張れるほどではないが、恥じるほどでもない。顔も、まあ、鏡を殴りたくなるほどではない。
だが、わざわざ採点台へ乗せられに行く趣味もない。
しかも、このタイミングでのお誘いだ。どうせ急用で来られなくなった、どこぞのハイスペ男子の穴埋めだろう。
代打に文句を言うほど子どもではない。
自分が代打だと気づかないほど無邪気でもない。
「六本木だな。すぐに行く」
短く答えて通話を切った。
――おかしい。
断る流れだったはずだ。
新宿の夜は、相変わらず人間の欲望に照明を当てて売りさばいていた。
歓楽街のネオンを横目に歩く。
俺は女に会いに行く。たぶん何も起きない。何か起きたら、それはそれで面倒だ。
それでも行く。
勝ち筋は薄い。コストに見合わない。居心地も悪い。帰り道で「何やってんだ俺」と思う可能性は高い。
それでも行く。
性欲は、理性が靴を履く前に玄関を出ている。
両親が俺に“理人”などと名付けたのは、たぶん早まった判断だった。
ふと、ここから一時間ほどの実家を思い出した。
横浜の郊外。両親は元気だろうか。
元気だろう。たぶん。
連絡がないのは問題がない証拠だと、勝手に解釈している。
親孝行とは、俺の中で常に来月以降に実施される予定の事業だった。
大江戸線の乗り場へ向けて歩き出す。
そのときだった。
新宿通りを挟んだ向こうにあるはずのネオンが、巨大化して迫ってきた。
錯覚か?
性欲で頭がおかしくなったか?
いや、ネオンだけじゃない。
ビルも、人も、車も、空も。
すべてがこちらへ迫ってくる。
世界が折り畳まれている。
暇つぶしの人生も、ここまでなのか。
そんな馬鹿なことを考えた直後、視界がふさがった。
周囲が潰れる。音が消える。光が線になり、線が点になり、点が俺の身体の中へ押し込まれる。
――痛い。
押し潰される痛みではなかった。
全身をいったん細かく分解され、別の型紙に合わせて縫い直されているような痛みだった。
骨が削り直される。筋肉がほどかれ、血管が引き抜かれ、神経が勝手に結線されていく。
皮膚の内側で――いや、皮膚も。
悲鳴を上げているつもりだった。喉は裂けるほど痛むのに、自分の声は聞こえない。
最後に思ったのは、酷くくだらないことだった。
――もうすぐ給料日なんだけどな。