神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~ 作:筆負野ユウ
第9話 王都
途中、数度の休憩と一晩の野営を挟んだ。
食事は、塩辛いだけの干し肉と黒パン。どちらも、えらく固い。
黒パンは食べ物というより、鈍器に近かった。腹を満たすものではなく、敵兵の頭を割るために焼かれた可能性を検証したい。
森を抜けた。
瞬間、まず鼻をついたのは、獣臭と腐敗臭が混ざったような空気だった。
開けた視界の先には、灰色の城壁が立ち上がっている。それほど高くはない。近くにいる人間と比べるに、高さは五メートルほどか。
映画や漫画だと、十や二十メートルはあるイメージなんだけどな。現実の防衛施設は、見栄えより建築費を優先するらしい。
「セト、あれが、私たちの、王都です」
ルナが指を差しながら、ゆっくりと話しかけてくる。
単語を区切る。
発音をはっきりさせる。
こちらの反応を見ながら、難しそうな言葉は避ける。
道中でずいぶん俺と話したため、外国人相手のコミュニケーションも板についてきたらしい。
彼女は少し誇らしげだった。
自分の家を。
自分の街を。
自分の国を。
ようやく俺に見せられることが嬉しい。そんなふうに見えた。
その横で俺は、まず臭いに負けていた。
申し訳ない。
感動より鼻が先だった。
「すごい。大きいね」
口をついて出たのは、実感の伴わない相槌だった。
自分の語彙力に軽く絶望する。
幼児か。
いや、異世界語学習二日目にしては上出来だ。英会話教室なら講師が大げさに拍手してくれる。
ありがたいことに、言語の習得は思ったより早い。俺の解析能力は、魔法や身体の動きだけでなく、言葉にもある程度通用するらしい。
音の並び。
表情。
身振り。
状況。
同じ単語が出る場面。
名詞と動詞の位置。
それらを勝手に拾い、照合し、意味らしきものを組み上げていく。もちろん、まだ完璧にはほど遠い。
単語の拾い読み。
短い文の推測。
相手の表情込みでの、だいたいの理解。
その程度だ。
だが、その程度でも、普通なら数か月かかるはずだろう。不本意ながら、俺の脳は語学アプリより優秀らしい。
その優秀な脳が、いま一番欲している言葉は「清潔な水」だった。
王都へ近付くにつれ、城壁は人の三倍の高さで迫り、やがて威圧感を帯びてくる。
実際に戦争で使うなら、これくらいで充分なのだろう。高ければいいというものでもない。
壁も人生も、維持費というものがある。
城門の前には長蛇の列ができていた。
荷馬車。
旅人。
農夫。
老若男女。
兵が通行証らしきものを確認している。
行列の端では、子供がぐずり泣いていた。母親が必死にあやしている。
その横を、俺たちの馬車はすいすいと進んでいった。
列に並ぶ民衆の視線が、こちらに集まる。
ルナが王女だと分かるからだろうか。それとも、泉で血を洗い流し、仕方なく着直した穴だらけのシャツを見ているのか。洗ったところで、赤茶色の染みまでは消えていない。
ざわめきが広がる。
羨望。
不安。
好奇。
いろいろ混じった視線だった。
こっちの連中はマナーがいいな。不躾にスマホのカメラを向けてくる奴が一人もいない。
ノアは馬車を降りることなく、紋章の刻まれた札を掲げた。短いやり取りを終えると、衛兵たちは頭を垂れ、道を開ける。
俺たちは行列を飛ばして城門をくぐった。
王族って、便利だな。
背後から、列に並んでいた商人や旅人たちのざわめきが追いかけてくる。俺を指差して何か言っている子供が、母親に窘められた。
居心地は悪い。
だが、誰も咎めない。
王族って、ほんと便利だな。
身分制社会の素晴らしいところを、到着初日に利用してしまった。
人間、堕落は早い。
城壁を抜けると、匂いが強くなった。
広場から、石畳の大通りがまっすぐに伸びている。おそらくメインストリートなのだろう。
建ち並ぶ建物は、木と石の混合造り。二階建てが多いが、三階建てもちらほら見える。
軒を連ねる露店。
果物屋。
服屋。
薬草か何かを抱えた行商。
活気はある。
焼けたパンや香辛料の香りが、鼻腔をくすぐった。
その直後を、馬糞と生皮と淀んだ排水の臭いが追いかけてくる。道端には傷んだ野菜や残飯が転がり、どこかで家畜の脂を煮ているらしい煙まで混じっていた。
甘い匂いと腐った匂いが、同じ通りで仲良く同居している。
地面を見下ろす。
残飯。
泥。
家畜の糞尿。
――家畜の、だよな?
馬車から見る街並みは美しい。切り取ってレストランかホテルのロビーにでも飾りたいほどだ。
ただし、カメラマンは絶対にローアングルから撮影してはいけない。
焼き菓子や串肉を売る露店の前を馬車が通り過ぎる。香ばしい煙が鼻を直撃した。
俺の腹が、ぐうと鳴る。
こんな街の、しかも露店。
衛生管理には不安しかない。
俺はこっちの健康保険証なんて持っていないんだぞ。
馬車は石畳の大通りを進んでいく。左右には露店や行商がまだ続き、子どもたちの声や商人の掛け声が混ざり合って、雑踏は熱気に包まれていた。
聞き取れる単語も、少しずつ増えている。
銭。
肉。
エール。
待て。
こっち。
神。
祈り。
単語が、石ころみたいに頭へ転がり込んでくる。
意味はまだ粗い。
だが、文脈に置けば形が見える。
これも解析だ。
魔法のコードを読むのと、どこか似ている。術式も言語の一種と捉えれば当然か。
音の列から、規則を抜き出す。
規則から、意味を推定する。
推定した意味を、次の会話で検証する。
人間の会話をデバッグしている気分だった。
やがて、通りの一角に人だかりができているのが見えた。
白い法衣を着た男女が数人、木製の台の上に立っている。楽器を鳴らしながら、通行人へ向けて声を張り上げていた。
聖歌のようでもあり、説法のようでもある調子。鈴や笛の音は妙に整っていて、行き交う雑踏よりも耳に残る。
まるで、人の意識を捕まえるように。
「シリス教、聖音派です」
ルナが教えてくれる。
彼女の声には、安心感すら滲んでいた。王都への道中でも少し説明があった。
神は声とともにある。
祈りは音となり、音は神に届く。
どうやら、そんな教えらしい。
王都の大通りで布教できるくらいだ。
姫様も信じている。
国教のようなものか。
国教そのものかもしれない。
下手なことは言うまい。
――駅前でよく見かける、宗教のアレみたいなもんかな。
張り出された羊皮紙を見る人々は、真剣な顔をしている。法衣の一人が子どもの頭に手をかざすと、親が深々と頭を下げた。
俺は馬車の揺れに合わせて、ため息をつく。
異世界にもカルトくらいあるか。
いや、国教ならカルトじゃないか。
カルトと、そうでない宗教の違いってなんだ?
新しいか古いかの差か?
こっちでは、国に認可されているかどうかかもしれない。
ノアは特に表情を変えない。
ルナは目を細め、祈る人々に穏やかな微笑みを向けている。
彼女にとっては、見慣れた光景なのだろう。
そして、たぶん好きな光景なのだ。
祈る人々。
音。
神。
王都。
彼女の世界は、きっと、こういうものでできている。
俺は黙って腕を組み、なるべく関わらないように視線を逸らした。観光客扱いで済むなら、それがいい。
相変わらず周辺では、人々の声が飛び交っている。
値段や品物のやり取り。
誰かを呼ぶ声。
馬に怒鳴る声。
子どもの笑い声。
宗教家の歌うような声。
まだ完全には理解できない。
だが、前より分かる。
分かってしまう。
落ち着いたら、本格的に言葉を覚えなければならない。解析能力のおかげで、学生時代の英語よりは楽そうなのが、せめてもの救いか。
命を狙われ、身体を改造され、知らない世界に放り込まれた代償として、語学学習の効率が上がりました。
釣り合ってねえよ。
その後は、この世界のことを知らなければならない。
魔法について。
生活について。
政治について。
宗教について。
元の世界に帰る方法について。
知らなければならないことが、いくらでもある。
ああ。
ちょっと頭痛がしてきた。
「セト、疲れていませんか?」
ルナがこちらに心配そうな視線を向けてくる。
俺は笑ってみせた。
疲れているに決まってるだろうが。
いきなり殺し合いをさせられた。
未来の不安も山ほどある。
衣食住はどうする。
言葉もまだまだ分からない。
宗教は駅前っぽい。
街は臭い。
パンも肉も固い。
水は信用できない。
俺の身体は、俺の知る俺の身体ではない。
むしろ、疲れていない要素を探す方が難しい。
「全然疲れてないよ。これからのことも心配してない」
日本語で返す。
ルナはきょとんとした顔で瞬きを繰り返した。当然、通じていない。
俺は構わず続ける。
「衣食住の面倒は見てくれるんだよね? 清潔な食い物。安全な飲み水。あとウォシュレット付きのトイレ」
一拍置く。
「文化的で健康的な最低限度の生活ってやつだ」
ルナはまだ瞬きをしている。
ノアがじっと俺を見た。何か言いかけて――やめる。
言葉が通じなくとも、俺がふざけていることは伝わったらしい。
笑って誤魔化す。
便利な人間関係の潤滑剤。
けど、本当に欲しいのは潤滑剤なんかじゃない。
殺虫剤。
消臭剤。
抗生物質。
つまり、文明だ。