神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~   作:筆負野ユウ

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第10話 文明、ある?

馬車は、石畳の大通りから緩やかな坂を上り始めた。

 

周囲の建物が次第に背を低くし、開けた視界の先に、外城壁とは比べ物にならない威容を誇る白い城が姿を現す。

 

それはまるで、小高い丘の上で凍結した瀑布が、そのまま凝固したかのようだった。青白い石材が何層にも重なり、塔と壁が複雑に絡み合い、巨大な彫刻群となって空を突き刺している。

 

――などと、少し詩的なことを考えた直後、維持費いくらだよ、という現実的な疑問が湧いた。

 

情緒は長持ちしない。

 

その塔の一つひとつの先端には、優美なドームが天を仰いでいた。細部にまで施された無数の彫刻が、これを建てた者の途方もない権力と財力を物語っている。

 

民からどれだけ吸い上げたら、石でここまで威張れるのだろう。

巨大建築物とは、だいたい権力者の自己紹介である。

 

宮殿を守る内城の城門も、ただの門ではなかった。

 

両脇にそびえる巨大な円塔。

門枠の上で翼を広げる金の鷲。

金具で補強された扉。

 

槍を手に直立する兵士たち。全身メイルの近衛兵だろうか。

 

警備は厳重だった。少なくとも、俺のような血まみれの不審者が通っていい場所には見えない。

 

だが、ルナが顔を見せると、衛兵たちは槍を下げて一斉に頭を垂れた。

 

身分証。

顔パス。

警備突破。

 

王女サマが便利すぎて笑えてくる。

最高に中世って感じだ。

 

馬車は石畳を鳴らし、やがて広場へ入る。

 

広場を取り囲むように、宮殿と比べれば華美ではないが、大邸宅と見まがうほどの建物が立ち並んでいた。

 

兵士。

侍女。

従者。

役人らしき男たち。

 

往来は絶えない。そして、その全員が俺たちに注目している。

 

いや、正確には、血まみれのボロ布をまとった俺に。

 

そりゃそうだ。

自分でも、この情景にそぐわないと思う。

 

「セト、王宮です」

 

ルナが少し緊張したように告げた。心なしか、声が震えている。

 

さきほどまで俺に単語を区切って話していた女は、王宮に入った途端、王女の顔になっていた。

 

背筋が伸びる。

顎の角度が変わる。

微笑みの温度が、一段下がる。

 

ああ、なるほど。

この女にも、仕事用の顔があるらしい。

 

「王宮、ねぇ……近くにユニクロかしまむら、ないかな」

 

日本語でぼそりとつぶやく。もちろん、誰にも通じない。

 

ノアだけが、横目で俺を見て小さく息を吐いた。

 

通じていないのに呆れられた気がする。

こいつ、勘がいいのだろうか。

それとも観察だろうか。

 

馬車が進む。

 

広がるのは整然とした庭園。

刈り込まれた樹木。

色鮮やかな花壇。

磨かれた石畳。

 

さきほどの街中の悪臭は、ここにはない。

 

文明、あるところにはあるらしい。

ただし、俺のものではない。

 

やがて馬車は、石造りの大階段の前で止まった。

 

正面玄関には、色鮮やかな衣をまとった従者たちがずらりと並んでいる。彼らの視線が一斉に俺へ注がれる。

 

血まみれの襤褸切れ男に。

 

まるで見世物だな。

 

芸でもして見せた方がいいのだろうか。

弾丸生成とか。

人体破壊とか。

 

王宮の余興としては、やや刺激が強すぎるか。

 

ルナが先に降り立つと、従者たちが一斉に跪いた。その光景は、息を呑むほど整然としていた。

 

少なくとも、俺の日常には存在しない種類の秩序だった。

 

次にノアが降りる。

 

俺は――どうすんだこれ。

 

血まみれの服を晒したまま、場違いもいいところの階段を上るのか?

 

「服、これで、大丈夫?」

 

シャツの端を摘みながら、カタコトで言う。

 

ルナは振り返り、少し困ったように微笑んだ。

 

何か言ってから、近くにいた従者へ素早く指示を飛ばす。俺に対するような、ゆっくりとした話し方ではなく、ほとんど聞き取れなかった。

 

ただ、ルナとノアは先に王宮へ入るらしい。

 

おそらく、国王への報告だろう。

 

王女の一行が襲撃され、大勢が死に、異世界人を連れて帰ってきたのだ。まず身内で話を通すのは当然か。

 

俺だけが、使用人らしき男たちに囲まれた。

 

親切だ。

とても親切だ。

 

問題は、俺が何ひとつ自分で選んでいないことだった。

 

案内されたのは、宮殿本体から少し離れた建物の一室だった。

 

鏡台。

浴槽。

整えられた衣服。

 

使用人に促され、俺は血と汗で固まったシャツを脱ぎ捨てる。

 

泉で流したはずなのに、改めて見るとやっぱり悲惨だった。

 

血。

泥。

裂けた布。

穴。

謎の黒い染み。

 

洗濯機があっても、たぶん嫌な顔をするレベルだ。

 

体を洗わずに入っていいものかと少し躊躇う。しかし、洗い場のようなものはない。

 

仕方なく湯に浸かり、血と埃を洗い流した。

ぬるま湯が心地いい。

 

文明最高。

 

でも、シャワーとシャンプーとボディーソープも恋しい。

この世界は、俺に文明のありがたみを教えるためだけに存在しているのかもしれない。

 

あまり映りの良くない鏡に、湯気の向こうの顔が映る。

歪んでいる。

 

それでも、やはり“俺の顔”ではないと分かる。元の面影を残しつつ、微妙に違う異世界仕様の顔。

 

洗えば洗うほど、“誰かの顔”を撫でている感覚が強まる。

 

満足に動かなかったはずの左腕は、いつの間にかほぼ違和感なく使えるようになっていた。

 

「……本当に、どうなっちまったんだ俺の体」

 

独り言は、湯気に溶けて消える。

 

用意された衣服は、おそらく上質な麻と絹の混合で仕立てられたチュニックとレギンスだった。

 

手の込んだ刺繍入り。

袖を通すと、不思議と体に馴染む。

 

ちなみに下着は、紐を通したボクサーパンツタイプだ。

 

思ったより悪くはない。

悪くはないが、現代日本の量販店に対する感謝は深まった。

 

ただ、脱いだ衣服がない。

財布もない。

スマホもない。

 

「……勝手に持ってくなよ」

 

ぼやきながらも、あらためて悪くない着心地に苦笑する。

 

財布もスマホも、使い道はない。それでも、あれは俺の世界の残骸だった。

使えないガラクタでも、勝手に持って行かれると腹が立つ。

 

湯浴みと着替えを終えても、ルナたちは戻ってこなかった。

どうやら、報告なり協議なりに時間がかかっているらしい。

 

俺を国王の前へ出す準備も必要なのだろう。正体不明の異世界人を、血まみれのまま玉座へ放り込むほど、この王宮も雑ではないらしい。

 

待っている間に、簡単な食事が運ばれてきた。

 

白パン。

チーズ。

肉と香草の入った煮込み。

 

そして、皿。

 

――だと思ったものは、どうやら硬い黒パンだった。

 

煮込みは汁物というより、肉と野菜を長く煮崩した、どろりとした塊に近い。それが黒パンの上に盛られている。

 

汁気が少ないので、パンから流れ落ちることはない。

 

端からちぎり、煮込みを絡めて食べるのだろうか。

でも白パンもある。よく分からない。

 

文明、あるところにはある。

ただし、俺の想定していた方向とは違う。

 

しかし、皿を洗わなくていい。

食器ごと処理できる。

廃棄物も少ない。

 

なるほど、エコだ。

 

文明がない時代は、だいたい環境に優しい。

人間にはあまり優しくないが。

 

王宮なのだから、銀の皿くらい出てくるかと思った。出てきたのは、皿として使われるパンだった。

 

これが王宮の普通なのか、急ごしらえの軽食だからなのかは分からない。

 

ナイフはある。

だが、フォークはない。

 

手づかみで食えってか。

王宮にも文明、なかったかも。

 

煮込みは、かなり野趣あふれる風味だった。ただ、味はそう悪くない。

特に良くもないが。

 

空腹は最高の調味料だという。

異世界転移と殺し合いと野営を経た空腹は、もはや違法薬物に近いはずだ。

それでこの程度ということは、やはり味は悪いかもしれない。

 

給仕が金属のカップにワインを注いでくれる。

辛うじて文明を感じた。

 

ただ、水をくれ。

 

あっという間に食事を終え、少し横になった。

眠るつもりはなかったが、窓から射し込む光が傾いた頃、扉の開く音で目を覚ました。

 

どれくらい経ったのかは分からない。

 

今度は使用人たちが、俺の服装や髪を整え始める。

 

親切だ。

本当に親切だ。

 

さっきからずっと親切なのに、なぜか檻の中に入れられている気分がする。

 

支度を終えて部屋を出ると、すでに着替えを終えたルナとノアが待っていた。

 

先に国王への報告を済ませ、その後で正式な場へ出るために着替えたのだろう。

 

ルナは純白のドレスをまとっていた。

光そのもののように見える。

 

さっきまで馬車の中で、ゆっくり単語を区切って話してくれていた女とは、同じ顔をした別の存在のようだった。

 

ノアも整った礼装に着替えている。

 

似合っている。

腹立たしいことに、似合っている。

 

兵に囲まれ、赤絨毯の敷かれた長い廊下を進む。

 

高窓から射し込む陽光。

壁を飾るタペストリー。

石の床を打つ靴音。

 

重苦しい荘厳さに、思わず背筋が伸びた。

 

「セト、緊張していますか?」

 

ルナが振り返り、小さく笑みを浮かべる。

 

「少しだけ」

 

そう答えた。

 

少しだけ。

 

もちろん嘘だ。

 

内臓が面接会場の待合室で正座している。

 

いよいよ、王様にご挨拶か。

 

俺は無意識に、自分の掌を握りしめていたことに気づく。

 

重厚な扉が開かれる。

 

視界の先には、広大な謁見の間が広がっていた。

 

高い天井にはシャンデリアが灯り、壁面には王国の歴史を描いたとおぼしき大きなタペストリー。

 

赤い絨毯が真っ直ぐに延び、その先には玉座が据えられている。

 

兵士が左右に整列し、長い槍を床へ突き立てて無言で睨んでくる。

 

ああ、帰りたい。

 

おうちに帰して。

 

「――王女……ルナ=アグディス=アストライア……!」

 

廷臣の声が、謁見の間へ響き渡った。

聞き取れたのは、ルナの長い名前と、「王女」を意味するらしい単語くらいだった。

 

その前後にも何か仰々しい言葉が並んでいたが、早口の定型句までは理解できない。

たぶん、ルナが入るぞ、と宣言しているのだろう。

 

俺たちは赤絨毯の上を進んでいく。

 

ルナは気品ある微笑みを浮かべている。

ノアはいつも通り無表情で、こういう場所に慣れきっている。

 

そして俺はというと――異世界就職で就活の面接会場に来た気分だった。

 

志望動機は「帰りたいです」。

 

自己PRは「人を殺せます」。

 

前職ではSE(システムエンジニア)をやっていました。

 

落としてくれ。

いや、落とされたらたぶん死ぬ。

 

半分本気の心臓バクバクと、半分は自分への軽口で誤魔化す。

あまり面白くないなと自嘲することで、少しだけ落ち着きを取り戻す。

 

やがて玉座の前へたどり着き、膝をつくよう促された。

ルナとノアが恭しく頭を垂れるのに倣い、俺も片膝をつく。

 

「面を上げよ」

 

低く落ち着いた声が響いた。

 

意味は正確には分からない。

だが、ルナとノアが顔を上げたので、俺も真似る。

 

声の主――この国の国王だろう。

 

髭を蓄えた、四十代ほどの男。

威厳あるその姿に、周囲の空気すら張り詰めているように感じる。

 

ルナが紹介を始める。

俺の名前を告げる。その先は、聞き知らない単語が多く、よく分からない。

きっと堅苦しい表現で話しているのだろう。

 

言葉というのは厄介だ。

日常会話が少し分かるようになったところで、公式の場では役に立たない。

日本語でもそうだ。契約書と役所の文書は、同じ言語で書かれているとは思えない。

 

国王の視線が、こちらへ注がれる。

 

静かに、しかし重い。

射抜かれるような眼差しに、背中の産毛が総立ちになる。

 

「セト……」

 

王が口を開いた瞬間、背後で兵士たちの槍がわずかに動く気配がした。

 

俺を威嚇するのか。

それとも、刺す準備なのか。

 

俺の立ち位置がよく分からねえ。

 

王が何か俺に問いかける。

ルナが横からすかさず答えた。

 

俺はまだ、言葉が充分に通じない。黙っているしかないのが、むしろ幸いだった。

 

おそらくは、俺のこの先を左右するような内容を話している。

その上で、何を話しているのか分からないのが恐ろしい。

しかし、下手に喋ったら、たぶん失点だ。

 

国王はしばらく俺を見据え、それからゆっくりと頷いた。

 

何か言っている。

やはり、何を言っているのかは分からない。

 

しかし、その目には探るような色がある。

 

まだ判断を保留している。

そんな眼差しだった。

 

そして俺は、場違いな異邦人として、玉座の前で冷や汗を流していた。

 

人体実験の素体にされるとか、ないよな。

 

人権意識とか無さそうだし。

粗相があったら死刑とかは普通にありえそうだし。

言葉が通じないからって動物扱いとかもありえそうだし。

 

いや、もう半分くらいそうなってるのか?

 

そう心の中でぼやいた瞬間、玉座の間に再び緊張が走った。

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