神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~ 作:筆負野ユウ
「ノア、あなたまで緊張しないでください」
少しからかうように、ルナ殿下が小声で語りかけてくる。
そうは言うが、私とて、このような謁見に慣れているわけではない。これでも緊張を悟られぬように努力しているのだ。
まして今日は、ただの謁見ではない。
異邦より呼び出された男。
言葉も通じず、素性も知れず、しかも戦場で異様な力を見せた男。
その男を、王の前に連れていく。
胃が痛くならない方がおかしい。
「王女ルナ=アグディス=アストライア、入廷!」
謁見の間に、紋章官の声が響き渡る。同時に、左右に並ぶ兵たちが槍の石突きを床へ打ち鳴らした。乾いた音が、広い間に一斉に反響する。
赤絨毯を進みながら、私はその呼吸の揃い方に気づいた。
張り詰めた眼光。
職務に徹した沈黙。
無駄のない姿勢。
だが、実態は違う。
それは礼ではなく、備えだった。
異物に対する、隠しもしない警戒。その対象は明白だった。
セトだ。
王宮に連れ込まれた異邦の男。
粗野で、常識知らず。
言葉もまだ満足に通じない。
今は落ち着きなく、きょろきょろと周囲を見回している。
しかし、あの場にいた私たちは知っている。この男は、ただの迷い込んだ民間人ではない。
戦場で見せた力は尋常ではなかった。魔法を見て驚きながら、すぐに模倣した。スピリットを前にしても、恐怖しながら戦った。
人を殺すことにも、少なくとも動きの上では、躊躇がなかった。
彼らがその姿を知れば、警戒はさらに数段階上がるだろう。
「面を上げよ」
陛下の声が落ちる。
圧をかける意図はないのだろう。だが、自然と重みがある。
その声に従い顔を上げた瞬間、私は横から視線を感じた。
――バハム。
白銀の胸甲をまとい、髪も髭も刈り揃えられた男。磨き上げられた刃そのもののような佇まいだった。
戦場を幾度も渡り歩き、平民から一代騎士に昇り詰め、今では王直々に二百の精鋭を預かる近衛隊長。
王の剣。
そう呼ばれるにふさわしい男だ。
彼の忠義に疑いはない。
だからこそ厄介だった。
忠義ゆえに、王へ近づく異質な存在を警戒する。忠義ゆえに、危険と判断すれば迷わず刃を抜く。忠義ゆえに、自分の判断を疑わない。
私は、できることなら今日だけは彼と目を合わせたくなかった。
ルナ殿下が陛下へ報告を始める。
召喚に成功したこと。
謎の集団に襲われたこと。
兵を失ったこと。
そして、セトの力によって撃退できたこと。
そのすべてを、神の導きであると。
ルナ殿下の声は澄んでいた。
王宮に戻ってから、彼女は王女の顔になっている。恐怖も疲労もあるはずだ。それでも、背筋を伸ばし、言葉を選び、王の前に立っている。
その姿は美しい。
だからこそ、私は怖かった。
ルナ殿下は本気で信じている。
セトを希望だと。
王国に与えられた救いだと。
しかし、彼女の信じる希望が、セト本人にとって何であるのか。それを、殿下がどこまで考えているのかは分からない。
陛下はセトをじっと見つめ、それから小さく頷かれた。
納得したわけではないだろう。だが、無体なことを仰る方でもない。
「いずれ働いてもらうとして、当面はルナの預かりとして面倒を見るのが良いであろうか。レオトバイはどうか?」
レオトバイ王太子。
柔和な父王とは違い、一目見た印象からして武人だった。儀礼服の袖口から覗く手首は日に焼け、指の節は固い。剣の柄に馴染んだ跡が、皮膚に刻まれている。
その体躯だけなら、バハムにも遜色はない。
だが、ただの剛毅ではない。
すでに陛下に代わって政務を執ることも多く、実質的な王国の柱石と言って差し支えない方だ。
王国に必要なものを、情ではなく論理と数値で見ることができる。それが美徳か、欠点かは、時と場合による。
今この場では、私の胃に悪い方へ働きそうだった。
「そうですな……ルナが預かるのが筋ではありますが……」
王太子が、視線をわずかに横へ流した。
一瞬だった。
知らぬ者なら見落とす程度の動き。
だが、バハムはそれに応えた。
列から一歩進み出て、玉座の前に片膝をつく。
「陛下、どうか私に進言をお許しください」
鋼のように硬い声が、謁見の間に落ちた。
近衛兵の鎧が、わずかに軋む。
命令を待つ気配。
その声だけで、場の緊張がさらに張り詰める。
――そういうことか。
胸の奥が、嫌な重さを帯びた。
これはバハムの独断ではない。少なくとも、王太子殿下はこの流れを望んでいる。
「異邦の力など、いかほどのものか。王族の方がそのようなあやふやな力を頼みとするのは、危険に過ぎましょう」
バハムの声には、揺らぎがない。
セトは言葉を理解していない。ただ、不安げにこちらを一瞥する。
あるいは、少しは理解しているのかもしれない。それでも、きっと軽口でごまかすのだろう。
だが、バハムの眼差しは、軽口を一切許さぬものだった。
私は息を呑んだ。
頼むから、ふざけた態度は取らずに大人しくしていてくれ。
そう願った瞬間、セトが曖昧に笑った。
やめろ。その顔は、きっと何かをごまかしている時の顔だ。
言葉が通じないことが、今だけは救いだった。通じていたら、この男は何か余計なことを言っていたに違いない。
バハムの剣は王のためにある。
セトに害意がなくとも、国王陛下に有害な存在と判断されれば、それだけで斬り捨てる理由になり得る。
一方で、私から見てもセトは危うい。
そして、この場で最も不安定な立場にいるのもまた、セトだった。
言葉も通じず、弁明もできず、誰の庇護下にあるのかさえ曖昧なまま、王と王太子と近衛隊長の前に立たされている。
彼からすれば、自分が裁かれているのか、値踏みされているのか、処分されるのかすら分からないはずだ。
誰も間違っていない。
それが、いちばん悪かった。
バハムは王を守ろうとしている。レオトバイ殿下は王家の利を測り、ルナ殿下はセトを信じている。そしてセトは、おそらく自分がどう扱われるのかを見極めようとしている。
誰も悪意で動いていない。
だからこそ、誰も止まらない。
ルナ殿下が一歩進み出て、真っすぐに言葉を返す。
「バハム。この者の実力は、私が保証します」
あのカイルスと渡り合ったのだ、とは言わない。
言えるはずがない。
カイルスはトラキス公爵の影にいる男だ。公爵が王女を害そうとしたなどと、この場で口にすれば、謁見の間は別の意味で血の気を失う。
バハムは片膝をついたまま、なおも王を見上げている。
引く気はない。
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
「……陛下。この男の真偽を確かめる必要がありましょう。王女殿下を謀っているやもしれませぬ。仮に本当に異邦からの者だとして、その実力は知れませぬ」
バハムの声が続く。
「謁見の間を乱すわけには参りませぬゆえ、訓練場にて、私が試みてよろしいでしょうか」
玉座の間にざわめきが走った。
鎧の軋む音が重なり、整列する兵の視線が一斉にセトへ向けられる。
セトは意味を理解していないのか、ただ落ち着きなく辺りを見回している。だが、その掌は握りしめられていた。
注目による緊張か。
危機を察したのか。
それとも、いつでも動けるようにしているのか。
分からない。
分からないことが、怖い。
「言葉も通じず、素性も知れぬ。力を持つというのなら、その力を証明させるべきです。使い物になるかも分からぬ者を頼りに、王族の御傍に置くなど正気の沙汰ではございませぬ」
彼の言葉に偽りはない。
何も間違ってはいない。
忠義ゆえの直言だ。
そして、決めるのは王の一言だけだ。
「……ルナ。お前はどう思う?」
言葉は発せられた。
だが、決められることはなかった。
ルナ殿下が一歩、王座に向かって進み出る。
その横顔に、一瞬の逡巡。
しかし、すぐに決意の色が宿った。
「父上。私は、この者の力を信じます。ならば、ここで証明すべきです」
声は震えていない。
むしろ強い。
「彼は王国の希望です。それを、この場にいるすべての方々に示すべきです」
ルナ殿下は、本気でそう信じている。
セトを希望として示す。
その言葉に嘘はない。
だからこそ、私は胃の奥が重くなる。
ルナ殿下がこうも信念を見せるとき、そこに思索はあまりない。少なくとも、危険を一つひとつ数え上げた末の結論ではない。
考えた末に結論を出した時ほど、むしろ弱気で自信なさげな態度が出るお方だ。
だが、その危うさに救われた者も、確かにいる。だからこそ、私はその言葉を簡単には否定できなかった。
ルナ殿下が見ているのは希望だ。
だが、レオトバイ殿下が見ているのは、おそらく希望ではない。
戦力だ。
セトが本当に使えるなら、王国にとってこれ以上ない札になる。バハム相手に一太刀でも見せ場を作れば、それだけで噂は広げられる。
異邦のクロスは、王の近衛隊長と渡り合ったと。
多少の誇張など、宮廷では儀礼の一種だ。
逆に、使えないなら。
ルナ殿下が保護する者が一人増えるだけだ。少なくとも、王国の柱にはならない。
その見極めを、ここで済ませるつもりなのか。
バハムが見ているのは、戦力でさえない。
危険物だ。
そして当のセトは、自分が何として見られているのかも分かっていない。
「……よい。試してみよ」
陛下の声が落ちた。
「もちろん殺すな。大怪我も避けよ」
王の裁可が下った瞬間、兵たちの鎧が軋んだ。槍を握る手に力がこもる。
バハムは深く頭を垂れ、わずかに口の端を吊り上げた。
忠義を示したと同時に、武を振るう機会を得たとでも思っているのだろうか。
あまり、バハムの考えは分からない。
いや、分かりたくないのかもしれない。
王太子殿下は何も言わない。表情にも大きな変化はない。
だが、これは予想、あるいは予定していた流れなのだろう。少なくとも、驚いてはいない。
セトは依然として状況を飲み込めず、苦笑いを浮かべている。しかし、その目だけは鋭く周囲を見回していた。
不穏な空気は察している。
なのに、先ほどの緊張があまり見られない。
むしろ、あの時の――カイルスらと戦った時の気配に近づいているように思える。
あの時も、最初はうろたえていた。しかし、戦場に身を置いたことがないであろう男が、躊躇なく命を取りにいった。
なぜ、そんなことができたのか。
おそらく、恐怖からだ。
殺らなければ、殺られる。
単純で冷徹な論理。
この男は、恐怖に震えた次の瞬間、その論理を受け入れ、行動に移せる。
もしここで『殺される』と判断したら?
迷わず、わき目もふらずに、王の命を取りに来る。
そのくらいのことは、やりかねないと考えるべきではないか。
思わず血の気が引くのを実感する。
嫌な予感がした。
そう思った時、セトがこちらを見た。
意味を問う目だった。
何を話している。
俺はどうなる。
これは敵か。
逃げるべきか。
殺されるのか。
そのどれか、あるいはすべて。
私は、何も答えられなかった。
このままでは荒れる。
そして最悪の場合、荒れるのは訓練場だけでは済まない。
セトと、きちんと話さなければ。
丁寧に状況を伝え、過剰な恐怖は取り除いてやらねば。
なのに、今この場でそれができる者は、誰もいなかった。