神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~ 作:筆負野ユウ
背中に、冷たく硬い感触があった。
ざらついた石が、シャツ越しに皮膚へ食い込んでいる。目を開けると、知らない天井が見えた。石造りの室内らしい。
「……どこだよ」
声は出た。
喉がひどく痛む。さっきまで叫んでいたような痛みだった。実際に叫んでいたような気もするが、自分の声を聞いた覚えはない。
慌てて身体を起こす。
俺は祭壇のような石台の上に寝ていたようだ。
天板の中央には二十センチほどの金属板が埋め込まれ、奇妙な紋様が彫られている。
それを見た瞬間、背中の内側がぞわりとした。
触りたくない。
そう思ってから、自分がたった今まで、その上に寝ていたことに気づく。
気分は最悪だ。
部屋の中央に祭壇。周囲はがらんとしている。窓はなく、出入口らしいものは上へ続く階段が一つだけだった。
わけの分からない状況に、逃げ道を探したつもりだった。
探した結果、逃げ道が一つしかないと分かった。
周囲には見知らぬ連中。
西洋人とも東洋人ともつかない顔立ち。肌の黒い者もいるが、俺の知る黒人とはどこか違う。
服装は中世ヨーロッパ風のコスプレ――いや、状況的にそう言い切れるほど気楽でもない。
石の部屋。祭壇。知らない連中。そして、全身の奥に残っている得体の知れない痛み。
イベント会場にしては、手が込みすぎている。
何やら俺へ話しかけてきたが、ひとつも理解できなかった。
――訂正。
英語でもフランス語でもなく、俺がまったく知らない言語だということだけは理解できた。
その中で、中央にいる女が目を引いた。
肌は白磁のように白く、金糸の髪が燭火を受けて淡く光っている。周囲の兵士に守られるような立ち位置も、服の仕立ても、明らかにほかの連中とは格が違う。
とりあえず、心の中で“女神”と呼ぶことにした。
そう呼ぶにふさわしい美貌だった。
すぐ隣には、長身の美丈夫が立っている。こちらは剣士らしい。姿勢が違う。腰に吊った剣も、飾りには見えなかった。
「……瀬戸」
俺は自分を指差して名乗った。
言葉は通じない。それでも名前だとは伝わったらしい。
女神も何かを言った。たぶん名乗ったのだろうが、やたらと長い。姓名なのか、肩書きなのか、何かの口上なのか、さっぱり分からない。
シンプルに姓だけでいいんだよ。
見習え。
そう思った直後、階段から兵士が駆け込んできた。
息を切らし、何かを叫ぶ。
場の空気が変わった。ざわめきが起こり、あちこちで金属の擦れる音が鳴る。さらに上から、硬いもの同士が激しくぶつかる音が響いてきた。
思わず、美丈夫の腰の剣を見る。
剣と剣を打ち合わせる音に聞こえる。
嘘だろ。
女神たちが動き出した。
俺も祭壇から降ろされ、わけも分からないまま階段へ向かわされる。状況説明はない。あったとしても理解できない。
ただ、ここに留まるより、上へ出た方がいいらしい。
それだけは分かった。
だが、こちらが階段へ辿り着くより早く、武装した兵士たちが雪崩れ込んできた。
敵だ。
言葉も、所属も、襲ってくる理由も分からない。
だが、殺意だけはきちんと伝わった。
こちらの兵士が七。敵は十二。
数えようと思ったわけではない。視界へ入った瞬間、数が頭に落ちてきた。
しかも、敵の視線は女神よりも俺へ集まっている。
なんでだよ。
指揮官らしい男が何かを叫んだ。その直後、敵兵が一斉に踏み込む。
こちらの兵士も応戦した。石室に金属音が反響し、怒号が壁を叩く。すぐに鉄錆のような匂いが混じり始めた。
女神の隣にいた長身の剣士が前へ出る。
踏み込みの音が一つ。速い。
次の瞬間には敵の一人が斬り伏せられ、血しぶきが宙へ舞っていた。
俺は息を呑んだ。
映画じゃない。ゲームでもない。
人間が斬られ、血を噴き、床へ倒れた。
後方から光が走った。
光り輝く矢だった。それが敵の鎧へ直撃し、硬い音を立てて弾かれる。
振り返ると、女神が銀色の弓を構えていた。弦は引かれている。だが、矢筒はない。新しい矢をつがえる動作すらしていなかった。
どういう仕組みだ。
魔法。
そんな言葉が頭をよぎる。
馬鹿馬鹿しい。
だが、いま目の前で起きていることの方が、もっと馬鹿馬鹿しかった。
誰かが叫ぶ。意味は分からない。
それでも、俺にも分かることがある。
敵が二人、防御線を抜けた。
こちらへ来る。
「……やべ」
振り下ろされた剣を見て、反射的に後ろへ跳んだ。
跳びすぎた。
二メートル以上、身体が下がる。運動不足の会社員が出していい距離ではない。
足が床へ着く。勢いを殺しきれず、体勢が崩れた。
おかしい。
自分の身体ではないみたいだ。
考える時間はなかった。
もう一人が迫る。剣が来る。
今度は横へ逃げた。
相手は革へ鋲を打った鎧を着ている。実物の革鎧なんて触ったことはないが、鎧だ。素手で殴れば、拳が砕けるだろう。
だから殴らない。
骨盤の横を押し込むように、前蹴りを叩き込んだ。
そのつもりだった。
敵の身体が吹き飛び、十メートルほど石床を転がって止まった。
「……は?」
俺の声だった。
火事場の馬鹿力で済ませるには、結果が派手すぎる。
だが、男は生きていた。
それどころか、意外に元気だ。
呻きながら肘をつき、立ち上がろうとしている。
俺だけじゃない。
こいつらも、俺の知っている人間とは違う。
身体がおかしい。
いや、身体だけではなかった。
嗅いだこともない血の匂いが、鼻の奥へこびりついている。心臓は痛いほど脈打ち、呼吸も浅い。
冷静なはずがない。
なのに、見える。
敵の踏み込み。剣の角度。鎧の重さ。次に自分の脚が、どこまで届くか。
考えたわけではない。
視界へ入った情報が勝手に組み上がり、答えと一緒に頭へ流れ込んでくる。答えだけではなく、そこへ至る思考の過程まで、まとめて押し込まれてくる。
外付けのCPUでも差されたみたいだった。
気持ち悪い。
だが、使える。
敵はまだ俺を見ている。
やはり、狙いは俺らしい。
理由は分からない。ここがどこなのかも、女神が何者なのかも分からない。
分かるのは、人生初の殺し合いへ放り込まれたこと。
そして、考えるより早く動かなければ死ぬことだ。
階段から、また足音が響いてきた。
敵兵と同じ、乱暴な金属音。
増援。
たぶん、敵の。
敵の一人が叫んだ。指示を飛ばしているのだろう。
目の前にいた男の意識が、一瞬だけ俺から逸れた。振り向いたわけではない。目線が揺れ、肩に力が入り、呼吸が止まった。
階段から来る仲間へ、意識を向けた。
――見逃すな。
俺は剣を握る男の右腕を掴み、力任せに捻り上げた。
だが、動かない。
俺の身体がおかしくなっているのに、それでも押し切れない。男の力は、元の世界の成人男性より明らかに強かった。
まずった。
男が左手の小盾で、背中と側頭部を何度も殴ってくる。
普通なら、そこで終わっている。
少なくとも、さっきまでの俺なら。
だが、痛みより先に、関節の向きが頭へ入ってきた。
揉みあいを続けるうちに、動きと抵抗から、構造が理解出来た。
肩。肘。手首。
どこまで曲がり、どこから先は戻らなくなるのか。
柔術の経験なんて、もちろんない。
それでも、分かる。
腕を引き、身体を沈め、肩を逆へ捻った。
鈍い音がした。
男が悲鳴を上げる。
肩が外れた。
剣をもぎ取る。嫌な感触が腕に残った。
「履歴書に“特技・人体破壊”って書けるな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
冗談でも言わなければ、叫び出しそうだった。
奪った剣を握る。
鎧の鋲の並びが目に入った。さっき組み合った時の感触が残っている。
革の下に金属板。
本命の防御はそっちだ。
なら、隙間はここ。
剣を突き入れた。
手応えは、思っていたより柔らかかった。
いや、思っていたってなんだ。
俺は何を基準にしている。
人へ剣を刺した経験なんて、あるはずがない。
男が叫ぶ。
俺は構わず、さらに押し込んだ。
ぐにゃりとした感触。血の匂いが鼻を焼く。
男の身体から力が抜けた。
俺は剣を引き抜くことすら忘れ、息を吐いた。
冷静だった。
いや、違う。
冷静に周囲を観察している俺と、恐怖で今すぐ膝をつきたい俺が、同じ身体の中にいる。
どちらも俺だった。
どちらも、いまは邪魔だった。
その時、階段脇に一人の男が立っていることに気づいた。
いつからそこにいたのか分からない。
鎧は着ていない。黒い外套には金糸の刺繍。つま先の尖ったブーツ。
戦場にいる服装ではない。兵士たちの中で、そいつだけが異様に浮いていた。
なのに、誰もそいつを気にしていない。
男は戦わない。命令さえしない。
ただ、俺だけを見ていた。
ジトッとした、観察者の目だった。
兵士じゃない。
こいつが親玉か。
意識が逸れた。
その瞬間、左腕に鋭い痛みが走った。
熱い。
怖い。
視界がぐらつく。
「俺のひだっ……切らっ……た?」
剣から手を放し、転がるように距離を取った。
左腕を見る。
ある。
腕はある。
一瞬、本当に切り落とされたと思った。だが、血は滝のように流れている。
痛い。熱い。だが、動く。
まだ動く。
最悪の確認を終える前に、敵が迫った。
速い。
さっきまでの兵より、明らかに速い。
俺が刺した男は、腹から剣を生やしたまま、その後ろで崩れ落ちている。
体勢を立て直すより早く、間合いを詰められた。
剣が振り下ろされる。
今度こそ死ぬ。
右腕だけでは防げない。左腕はまともに動かない。避けるには遅い。
武器がない。
せめて。
せめて、俺にも剣があれば――。