勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。   作:筆負野ユウ

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第18話 What I don't have.

城壁の際近く、風下の低地に白い小屋が建っていた。

看板には、素朴な筆で『白樹の家』とだけ書いてある。

 

人通りは少ない。

 

通りがかりの女が、こちらを一瞥してから、連れていた子供の肩を抱き寄せ、道の向こう側へ回り込んだ。

 

嫌われている。

 

話には聞いていたが、雁皮病に対する恐れと偏見があるようだ。

 

敷地に入ってすぐの地面に、落書きがあった。子供が書いたものだろうか。丸に、大きくはみ出す形でバツを重ねている。

 

それを見つけたララが、足で踏んで、蹴って、かき消した。

 

「聖音派で“聖別”や“浄化”を表す印なんだけどな。周辺住人が書いていくんだ」

 

ララは、少し悲しそうな表情をした。

 

その顔はすぐに消える。

ララはそのまま、施療院の入口へ向かう。

 

「触ったくらいで移る病じゃない。そう言っても、誰も信じないけどね」

 

軽い調子だった。

だが、声の底には、かすかな棘があった。

 

そこまで嫌われているものを、わざわざ王都の内側に置く話じゃないよな。

 

そう思ってしまう。

 

病人を街の外に追いやれば、清潔な心を保てる。

病人の声も、匂いも、痛みも、城壁の外へ捨てられる。

けれど、それをしていない。

 

つまり、ここにあるだけで誰かが譲っている。

そして、その誰かは周辺住人なのだろう。

 

ララが貧相なドアを開ける。

 

ルナは薄い外套のフードをめくりながら、小屋の入口をくぐった。

 

修道女が迎え入れる。

大げさな反応はない。

いつものことなのだろう。

 

ルナは袖を結わえ、指輪を外した。入口の桶に両手を沈め、肘までごしごしと洗う。

 

慣れた手順だった。

 

貴族の娘が、王女が、こんな場所で何をすればいいのかを知っている。

 

そのことが、まず少し嫌だった。

 

中は薬草と湿気の匂いがした。

 

六つの寝台。

窓は大きく、陽を入れてある。

 

白い小屋という名前のわりに、中は眩しくない。

 

明るくしようとして、明るくなりきれなかった場所、という感じがした。

 

七、八歳くらいの少女が一人、布で手脚を包んで座っていた。

 

一抱えほどもある、犬だか熊だか分からないぬいぐるみを抱いている。古い布を継ぎ足して作られたものだ。片耳が少し曲がり、片目のボタンは色が違う。

 

見えている皮膚の半分ほどが、真っ白く変色していた。そこに黒い斑が走っている。

触るまでもなく、硬化しているのが分かる。

 

少女はルナを見ると、ぬいぐるみを抱く腕に少しだけ力を込めた。

怖がっている。けれど、逃げようとはしない。

 

ルナが来れば、痛いことをされる。

それでも、ルナが来れば少し楽になると知っている。

 

「ミーナ、今日はここが痛む?」

 

ルナは床に膝をついた。

目線の高さを合わせる。

手を取る前に、優しく微笑みかける。

 

「すぐ終わるから」

 

少女は小さく頷いた。

 

包帯を解く手つきは、やはり慣れていた。躊躇がない。

 

露わになった手はひび割れ、裂け目には膨れた水疱がのぞいている。

いくつかはすでに破れ、血膿が包帯をまだら模様に染め固めていた。

 

刹那、腐臭が鼻を刺す。

思わず喉が詰まった。

 

ルナは顔をしかめなかった。

 

痛々しい患部を、湿った布でゆっくり拭う。

薬を塗っていく。

 

少女は目をぎゅっとつむる。

 

泣かない。

泣かないようにしている。

 

ルナが息を合わせると、少女の呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 

「そう。上手。もう少し」

 

ルナは笑っていた。

 

笑わなければ、少女がもっと怖がるからだ。

そのくらいのことは、俺にも分かった。

 

演技じゃない。

 

貴族も、民衆も、見物人もいない。

見せる相手がいないのに、手が迷わない。

 

指先は少し荒れている。

膿が衣の裾に垂れても、構わない顔をしている。

 

その横顔は、やはり美しい。

 

だが、それ以上に目についたのは、膿で汚れた指先だった。

美しい顔より、その手の方が、今はずっと厄介だった。

 

手の処置が終わると、次は脚だった。

手よりもさらに酷い。

 

足先から膝まで、亀裂と水疱が走っている。

腫れにより、足首のくびれがなくなっていた。

 

ルナは手のときと同じように、丁寧に拭っていく。

 

痛みも酷いのか、今度は少女が小さく息を漏らした。

 

「痛いね。ごめんね。でも、ここを綺麗にしないと、もっと痛くなるから」

 

ルナの声は柔らかかった。嘘のない声だった。

 

少女はぬいぐるみを抱いたまま、こくりと頷いた。

 

処置が終わり、新しい包帯を巻き直す。

 

最後に、ルナはその包帯の上から、そっと両手で包み込んだ。

 

祈り。

 

ゆっくりと。

 

心を込めているのが、俺でさえ分かった。

一緒に祈りを唱和する少女の表情も、穏やかだった。

 

神がいるかどうかは知らない。

少なくとも、その数十秒だけは、少女の痛みが少し別の形を取っているように思えた。

 

ルナは、患者全員に同じことをして回るようだ。

 

ララは珍しく何も言わず、火鉢に鍋をかけ、薬草を煎じている。

いつもの軽さはない。

 

俺はララに一声かけると、外へ出た。

 

大きく息を吸う。

 

吸って、吐く。

 

それでも、鼻の奥にあの匂いが残っている。

 

薬草。

湿気。

膿。

血。

腐臭。

 

そして、祈り。

 

隣り合う貧民区画へ足を向ける。

 

王都内でも日当たりの悪い一角。

 

聞いた話では、職人や商人の徒弟になることも、商家の奉公口へ入ることもできなかった者たちが流れ着く区画らしい。

 

日雇い。

物乞い。

盗み。

 

選べる生き方は、そう多くない。

 

石畳などない。

地面はぬかるみ、汚物が堆積している。

匂いは酷い。

 

子供と目が合った。

 

ひどく痩せた、半裸の子供だった。

肋骨が浮いている。

裸足の爪は欠け、膝には黒ずんだ傷がある。

 

隣では母親らしきみすぼらしい女が、粗末な祭壇に祈りを捧げていた。

 

小さな木片。

汚れた布。

欠けた鈴。

 

それでも、そこは祭壇なのだろう。

 

この世界には、怪我も病気も一瞬で元通りにしてしまう、万能な魔法や回復薬なんて存在しない。

 

俺もこっちに来てすぐに世話になったが、せいぜい自己治癒力を高める程度だ。

 

高度な医療もない。

公衆衛生は未整備で、栄養も足りない。

 

俺のように魔力量にものを言わせて肉体を修復することも、普通はできない。

 

人は容易に死ぬ。

生そのものも過酷だ。

 

俺は宗教なんて嫌いだ。

 

現代日本で、平和に豊かに暮らして、それでも宗教を信じている奴なんて、どこか軽蔑さえしていた。

 

もちろん、そんなことを口に出せば面倒だから、出さなかっただけだ。

 

だが、ここで生きる者たちに同じことは思えない。

 

彼らには寄る辺が必要だ。

 

魔法のある世界なら、神もいるだろうか。

 

俺はそうは思わない。

 

魔法は現象であり、法則の呼称に過ぎない。

神がいるという根拠にはならない。

俺が神の存在を信じる理由にはならない。

 

だが、あの病気の少女に「神様はいないんだよ」なんて言えない。

言えるはずがない。

 

ルナの行いに対して、言いたいことはいろいろある。

 

お前は為政者側なんだから、目の前の病人の世話ではなく経済政策とか考えろ、とか。

 

王族の慈善なんて、構造的な貧困の慰めにすぎない、とか。

 

病人の包帯を替えるより、病人がここまで追い込まれる仕組みを変えろ、とか。

 

いくらでも言える。

いくらでも言えるのに。

 

俺は何もできなかった。

 

そう簡単に伝染るような病ではないそうだ。

 

書庫の本にそうあった。

ララもそう言った。

 

事実、そうなのだろう。

 

なのに俺は、あの施療院にある物品の何一つとして触れることができずにいた。

 

桶にも。

布にも。

包帯にも。

薬の瓶にも。

机にも。

壁にさえも。

 

気づけば、浅い呼吸しかできていなかった。

 

今は外にいる。

もう一度、大きく息を吸う。

吸って、吐く。

 

施療院から逃げ、貧民街の親子を、みすぼらしい祭壇を、少し離れて見ている。

 

ポケットを探る。

何も入っていない。

 

パンか菓子でも持っていたら、あの痩せた子供に渡すつもりだったんだな、俺は。

 

そう思った。

だが、持っていない。

 

あらためて食べ物を届けようとも思わない。

 

今から走って買いに行くこともできるはずだ。

できるはずなのに、しない。

 

なぜか。

 

面倒だから。

怖いから。

どうせ一度渡して終わりだから。

あるいは、そういうことをしてしまう自分を見るのが嫌だから。

 

理由はいくらでも出てくる。

そして、どれも本当だった。

 

さっきまでの俺なら、あれを偽善と呼べたかもしれない。

 

王女様の自己満足。

貧者救済ごっこ。

政治から逃げた、分かりやすい善行。

 

いくらでも言える。

 

だが、同じ空気を吸うことさえ無意識に嫌がった俺が、それを言うのか。

 

言えるのか。

 

――言えないことはない。

 

俺は性格が悪い。

 

ただ、今は少し、自分の声を聞きたくなかった。

 

拳を握ってみる。

 

力が増している。

また、魔力量が増えたのだ。

 

理由は分からない。

 

怒りか。

恐怖か。

嫌悪か。

罪悪感か。

それとも、単に身体がこの世界に慣れてきただけか。

 

何でもいい。

 

力が増えた。

それは事実だ。

 

だが、胸の奥に残った不快感は、俺の魔力量でも誤魔化すことができなかった。

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