勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
執務室の丸ガラス窓は、薄曇りの光を受けて白く鈍っていた。
壁に掛かる地図の上を、春先の埃が漂っている。卓上の封蝋は、まだ柔らかい。
「……流石に驚きましたよ。ノアなんて、呆れて頭を抱えていました」
軽口で報告を締めると、レオトバイ兄は口元だけで笑った。
今は、武人の仮面を外し、家族の仮面を纏っている。
「では、侍従の手配は不要となったな。隣室の小間は、その奴隷に使わせてやれ」
兄は書状に目を落としながら、さらりと言った。
「しかし、サモンドが奴隷を抱えるとは、なんとも皮肉なものを感じる」
「どういう意味ですか? それと、その呼び方はやめてください」
「おお、こわい」
兄は肩をすくめてみせる。
表情は柔らかい。
つまり、ここからが本題ということだ。
「……まあ、イノセントローズは問題なく稼働。本人も順調に力を付けている。引き続き頼むぞ」
「はい」
「それはそうと……」
言葉に合わせ、眉がわずかに引き締まった。
家族の顔が薄くなり、王太子の顔が戻ってくる。
「先日の攻勢で失われた物資の補填はせねばならん。だが、満額の補給は今すぐには難しい」
兄は地図の東側を指で押さえた。
「前線を宥めるためにも、お前とセトに動いてもらえないだろうか」
「私に……東方の前線へ、ですか」
「トラキス公に言わせておくわけにはいかん。むしろ対抗として、王族が顔を出すべきだ」
兄の声は静かだった。
「それに、セトが戦場を知るには良い頃合いだろう」
それは分かる。
東方の戦地で、王族が存在感を示すことは重要だ。トラキス公の言葉だけが、国境の声になってはいけない。
王家もまた、前線を見ていると示さなければならない。
それは、分かる。
だが、その分かるが、喉に刺さった小骨のように引っかかった。
「私には王都での使命がございます。施療院……そして救貧の事業は始まったばかりです」
兄は短く息を吐いた。
「……その件についてもだ。予算が苦しいのは知っているだろう」
「苦しむ者の救済より軍備を優先するなど、正気の沙汰ではございません」
即答した。
兄の瞼が、一瞬だけ揺れた。しかし、すぐに平板な声で話し出す。
「軍備を優先するのではない」
声が少し低くなる。
「軍備を削れば、別の者が苦しむと言っている」
自然と、唇が引き結ばれる。
「前線で矢を待つ兵がいる。村を焼かれぬよう祈る民がいる。商路が絶えれば、王都の者も困る」
地図の上で、兄の指がゆっくり動いた。
東の国境。
公爵領。
街道。
王都。
教会領。
王領。
すべてが、一本の線で繋がっているかのようだった。
「お前の施療院に運ばれる者だけが、苦しむ者ではない」
それは、そうだ。
兄は間違ったことを言っていない。
前線にも民がいる。
兵も人だ。
糧食が届かなければ、飢える者が出る。
商路が乱れれば、王都に暮らす貧しい者たちもさらに追い詰められる。
分かっている。
分かっているはずだった。
けれど、正しい言葉であるほど、目の前の痛みから遠ざかっていくように聞こえた。
脳裏に、白樹の家の寝台が浮かぶ。
白く変色した手。
血膿の滲む包帯。
痛みに耐えて目をつむる少女。
「全面的に取りやめと言っているわけではない」
兄は声を抑えた。
「今はまだ小さな事業だ。だからこそ、続けるために額とやり方を見直せと言っている」
「父上の裁可をいただいている事業です」
沈黙。
地図の上を埃がゆっくり巡る音まで聞こえそうだった。
「……父上の裁可を盾にするか」
責める声ではなかった。
「盾ではありません。正しい裁可です」
「そうだな」
兄は静かに頷いた。
「父上は、お前の願いを退けられない」
「兄上ッ」
思わず、声が強くなる。
父を侮られたような気がした。
兄は封蝋のまだ柔らかい書状へ視線を落とした。
「父上は優しい。お前にも、民にも、貴族にも、教会にもな」
穏やかな言葉だった。
しかし、続く言葉は冷たかった。
「だが、優しさは銀貨を増やさない」
私は息を呑む。
兄は顔を上げない。
「お前は、苦しむ者の声を退けぬ。そこは尊い。私もそう思っている」
羊皮紙の端を、兄の指が軽く押さえた。
「だが、苦しむ者は一人ではない。苦しむ場所も一つではない。願いをすべて受ければ、結局、別の誰かから奪うことになる」
私は何も言えなかった。
「施療院を閉じろとは言わん。救貧をやめろとも言わん。ただ、事業を広げる速度を落とせ。教会とも協議しろ。周辺住民への対処も必要だ。医薬や食糧の流れも、別口で整える」
兄は書状を一枚、こちらへ押し出した。
「善意だけで人は救えん。善意を運ぶ仕組みがいる」
「仕組みを待つ間にも、人は苦しみます」
「だから、次からは待たせぬための仕組みを作る」
返答は早かった。
「目の前の一人へ手を伸ばすことはできる。だが、その手を離した後も救いを残すには、誰かが帳簿を見なければならん」
言葉がぶつかって、落ちる。
兄妹の間に置かれた地図は、ただ黙っていた。
私は、帳簿と地図が嫌いだった。
いや、帳簿と地図を盾にする言葉が嫌いだった。
人の痛みを線に変える。
人の飢えを数字に変える。
人の命を、物資と距離と日数に変える。
兄はいつも、それを見ている。
剣を取り、政務をこなし、貴族たちと渡り合うだけの強さがある。誰よりも兵の顔を知り、誰よりも国境の苦しみを聞いている。
立派な王太子だ。
次代の王として、異存はない。
それでも。
強さとは、剣を取ることや、貴族を黙らせることだけではない。
目の前で苦しむ者を、見捨てないのも強さだ。
その意味で、父は強かった。苦しむ者の前で、ためらわなかった。
兄は違う。
兄はいつも、地図と帳簿を見る。
兵の数。
矢の数。
糧食の数。
貴族たちの動向。
数多くの折衝。
そういうものを数えた後でなければ、正しいことを正しいと言えない。
それは、王太子として正しいのだろう。
分かっている。分かっているが、その正しさは臆病に見えた。
「父上は、苦しむ者の声を聞いてくださいました」
「父上は、お前の声を聞いたのだ」
兄の返答は早かった。
私は言葉に詰まる。
「お前が苦しむ者を見た。お前が救いたいと願った。父上は、そのお前を退けられなかった」
「それの何がいけないのですか」
「いけないとは言っていない」
兄の声は、少しだけ柔らかくなった。
「ただ、それは父上の強さだけではない。弱さでもある」
「父上を、王太子のあなたが、そのように言わないでください」
「では、誰が言う」
静かな問いだった。
兄は、ようやく顔を上げた。
その瞳には怒りがなかった。
ただ、重いものがあった。
「父上を責めたいわけではない。お前を責めたいわけでもない。だが、誰かが数えなければならん。誰かが削らなければならん。誰かが恨まれなければならん」
兄は、顔をそむけるように横を向いた。
その横顔を見た。
美しい横顔ではなかった。
父のような温かさもない。
だが、国を背負う者の顔ではあった。
だからこそ、悲しかった。
「……私は、施療院を見捨てません。救貧事業も続けます」
「見捨てろとも、やめろとも言っていない」
「ならば、必要な予算を認めてください」
兄は、少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
「お前は、父上に似ているようで、似ていない」
それは褒め言葉ではないのであろう。
胸の奥がざわつく。
「……前線へは、行きます」
兄の表情がわずかに動いた。
「王族が顔を出す必要があることは、分かります。セトにも戦場を知ってもらうべきでしょう」
「助かる」
「ですが、施療院と救貧事業は続けます。必要な予算も、父上に改めて願い出ます」
「……そうか」
兄は短く言った。
そこで話は打ち切られた。
形式上は。
私は一礼する。
レオトバイ兄が次の書状へ手を伸ばすのを見て、踵を返した。
扉へ向かう。
その途中で、一度だけ振り返りそうになった。だが、振り返らなかった。
兄上は立派だ。
次代の王として、異存はない。
誰よりも強い。
誰よりも現実を見ている。
優しさを持ち合わせているのも知っている。
だからこそ、私には分からない。
なぜ、その強さを、目の前で泣いている者のために使えないのか。
なぜ、苦しむ者に手を伸ばす前に、いつも地図と帳簿を見るのか。
扉を閉める寸前、兄の横顔が一瞬だけ翳った気がした。
疲れている。
疲れているのは、心を削られているからだ。
だからこそ、正しさを見失わないでほしい。
トラキス公などに、惑わされませんように。
薄い雲が流れ、祈りの丘の鐘が正午を告げる。
執務室を出ると立ち止まり、短く息を吸い、そして歩を速めた。
まずは、伝えるべきことがいくつかある。
ノア。
そして、セトにも。