勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
第28話 視線
――今日はセトのお供。
二人で大市での買い物、のはずだった。
ガスパーレ様のもとでは、ほとんど外出は許されなかった。
楽しみでもある。
けれど、汚物が散乱する街を歩くことには、まだ慣れない。
王宮の門をくぐると、石床の匂いが朝の水で薄まって、代わりにパンと植物の混じり合った空気が濃くなる。
私は無意識に、親指で指輪を撫でていた。
体温で温まっているはずだが、僅かに冷たい。
いつも通り。
なのに、耳の奥で、石を打つ音と同じ高さで、かすれた囁きが聞こえた気がした。
母の声。
いや、空耳。
そう決めると、冷たさはただの金属に戻る。
「行くぞ、エリサ」
セトは軽い声だった。
脚の運びは、いつも通り遊びが多い。
ノア様が角を曲がって現れたのは、その時だった。
二人は一歩だけ近づき、立ち止まる。
礼と、間合いと、言葉の順番を、互いに譲り合うように。
「……先日は、すまなかった」
「いや、俺こそ。他にやりようがあったな」
謝罪のような何かが、二人の間を行き来して、そのまま地面に落ちた。
誰も拾わない。
見向きもしない。
私には内容が分からない。
けれど、声の温度だけは分かった。
下手に触れば火傷する。
しかし、当人たちは平気そうにしている。
「……そういえば、伝え忘れていた」
ノア様が言う。
「祭壇の遺跡……遺体の回収に赴いた隊から報告が来た。祭壇は破壊されていたそうだ。使い切り、機能していないはずなのに、わざわざ。誰の仕業かは不明だ。目的も」
「ふうん。そうか」
セトは、興味がないふりをすることが多い。
いや、本当に興味がない場合が多い。
けれど、そうでない場合もかなりあると、最近、分かってきた。
たぶん、その演技に深い意味はない。
もしかしたら、無意識でやっているのかもしれない。
視線が一瞬だけ王都の外へ抜けて、すぐに戻ってくる。
戻ってきた視線は、いつもの軽さにちゃんと着替えていた。
「買い物に行くんだ。ノア、またな」
「……ああ。良い一日を」
内城の門を出る。
大市の日で、声が空に積み上がっている。
露店の天幕が風に鳴る。
私は少しだけ身じろぎをした。
人が多い場所はまだ苦手だ。
けれど、店を回るのは嫌いではない。
新しい皿。
糸。
香草。
今日の目当ては日用品。
清潔に過ごすための食器や道具でも探すのだろうか。
セトは、少し極端なくらい綺麗好きだ。
彼の故郷では、それが普通。むしろ彼は雑な部類らしい。
確かに、部屋は驚くほどよく散らかす。
「ようっ、ちょうど良かった! どこ行くんだ? 暇だから付いてく」
肩に陽を乗せたような声。
今度はララ様が駆けてきて、私とセトの間にするりと入る。
赤い髪が朝の光で薄く透けて、陽そのものより眩しく見えた。
「暇って、騎士が堂々と言うことじゃないだろ。働け」
「訓練の一環……いや、護衛かな。大市か? 何買うんだ? 俸給の増額を強要されたって、ノアが愚痴ってたぞ。どうやったんだ?」
ララ様はセトの肩に寄り掛かるように歩きながら、にやにやと楽しそうだった。
面倒くさそうな態度を前面に出すセトも、彼女を見る目はやはり、どこか楽しそうだ。
「今日はエリサの服だな。全然足りない。あと、いい日用品があれば」
私の服。
胸の奥で、糸が一筋だけきゅっと締まる。
嬉しい、が半分。
より膨れた不安、が半分。
捨てられないために、もっと役に立たなければ。
昔の声が、まだ胸のどこかに棲んでいる。
「エリサの服ね。色は?」
「洗えるやつ」
「……色は?」
「……露出が多くてエロいのも欲しいな」
その色ではない。
冗談を言っているのは分かる。
けれど、まだ気の利いた応答は難しい。
「その前にちょっと、あの店に寄らせてもらうよ」
金物の露店。
刃物が太陽を細かく刻んでいる。
食事用ナイフ。
セトが一本抜き、親指の腹で刃の背を撫でた。
柄に銀の葡萄の房。刃に波紋。
光が一回、静かに跳ねる。
「セトはさ、散らかす天才だけど、そんな中で、必要な物だけは一瞬で見つけるんだ。あれは才能だな」
子供のように目を輝かせてナイフを物色するセトを放って、ララ様が、この日初めて私に話しかけた。
この人は、セトの私室に入ったことがあるのだ。
私はそのことを知らない。
私の知らない時間。
私の知らない関係。
――話を聞くかぎり、ララ様はセトの縁談の相手候補らしい。
話の軽さに似合わず、目の前の彼女には強い存在感がある。
赤い髪は陽を飲み、笑うたびに肩から腰へ線がしなやかに連なる。
露出の多い衣装で強調される女性らしさ。
動きやすさ重視と本人は言うが、きっとそれだけでもない。
それでいて、これでも貴族だという。
だからなのだろうか。
セトが私に手を出さないのは、この人がいるからなのかもしれない。
そんな考えが、時々、胸を擦る。
初めて会った日。
ガスパーレ様が私の譲渡を口にした時、セトから雄の視線を感じた。
欲情が、確かにそこにあった。気のせいではないと思う。
あられもない姿でいたせいも、あるのだろうけれど。
私はガスパーレ様の別宅で、行き届いた――時に行き届きすぎる――庇護のもとに育った。
大切にされていた。
大切なモノとして。
読み書き。
礼法。
計算。
魔術の基礎。
家庭教師は来たが、外出はほとんど許されなかった。
魔封じの腕輪は、魔法の教師がいる時以外は外されなかった。
ある日、突然、馬車に乗せられた。
初めての旅。
行き先も何も知らないまま。
車輪の揺れが怖かった。
行き先のない揺れに合わせ、ずるずると滑り落とされていく気分だった。
護衛の男たちが盗賊に化けたのは、その最中だった。
隙を見て逃げ出そうとした下働きの男が背を割られ、私の脚は地面に縫い付けられたみたいに動かなくなった。
布は裂かれ、肌は風に晒され、あとは踏み躙られるだけ。
その手前で、セトが来た。
(王都で競売に掛ける予定だった奴隷です)
ガスパーレ様の言葉に、背骨の芯が冷たくなった。
ハーフエルフの奴隷は高値が付く。
だから大切に扱われる。
つまり、モノだ。
若い女のモノに、世の中は決まりきった用途を与える。
盗賊が死んでも、何も終わらない。
所有者が代わるだけで、行き先は同じかもしれない。
――だが。
(……従います。あなたに)
私は先手を取るつもりで、そう言った。
セトが躊躇うなら、前へ押す。
ガスパーレ様が契約を進めるなら、その流れに身を乗せる。
細かい計算があったわけではない。
どこの誰に買われるか分からないより、この男に所有されるほうが、ずっと良い。
直感がそう告げた。
王宮の客人だと名乗った。
ガスパーレ様が繋がりを持とうとするほどの相手。
物腰は軽いのに、触れる手は柔らかかった。
さっき私を助けた人。
酷い扱いはしない。
そんな未来が見えた。
そして実際、扱いは良かった。
衣食。
寝床。
学び。
酷い目には遭っていない。
それどころか、セトは私を抱きもしない。
最初は安心だった。
次に、不安になった。
興味がないからなのか。
私は不要で、いつか売られるのか。
そこへ、『奴隷契約だけど、解除してもいいんだぞ』と何でもない調子で言われた時、喉まで上がったものを飲み込むのに必死だった。
吐き気と一緒に、悲鳴がこぼれそうだった。
行く場所はないこと。
ハーフエルフの小娘がひとりで生きる術を持たないこと。
役に立てること。
役に立ちたいこと。
『あなたにお仕えさせてください』と言った時、声が少し震えたのを覚えている。
いま、私たちは三人で市場を歩いている。
今日は大市の日。
つまり、私がセトの所有となってから、ひと月が経ったということだ。
露店の天幕が風で鳴り、パンの匂いと獣脂と香草が混じる。
ララ様は陽を纏って先を行き、セトは横で値踏みをするような眼で品物を眺める。
私は、歩調を半歩だけ早めた。
置いていかれないように。
いや。
置いていかれたくないのだと、自分に認めるために。
衣服を売る露店が並ぶ辺りに辿り着いた。
天幕の影が斜めに落ちて、厚手の外套が並ぶ棒の上で、羊の脂が染みた布の匂いがゆるく漂っていた。
隣には、縫い目の粗い革袋が山になっている。
口金の金具が光って、風が吹くたびに小さく触れ合う。
ララ様が外套の裾をつまみ、肩へ当ててみてから、いきなり言った。
「暇だな。どこか行こうぜ」
セトは女物の衣装――やけに布面積が少ない――を物色し、縫い代の返しを指で確かめていた手を止める。
「なんだ突然」
「お前も王都から離れられるようになったじゃん。訓練……いや、イノセントローズの習熟と確認、名目でどこか行こうぜ」
「どこかってどこだ」
「どこでもいいよ。適当な魔獣狩って遊ぼうよ。ね? ほら、あたし護衛するし」
『遊ぼうよ』のところで、外套のフードを被ってみせ、目だけ出す。
赤い髪が影で暗くなり、いたずらの気配が色を濃くする。
「それが貴族のご令嬢の発言かね……」
セトが苦笑して、言い終える前に、あっ、と短く息を飲んだ。
眼差しが一度だけ遠くへ抜ける。
戻ってくるまでのわずかな間に、さっきまでの子供のような人から、打算で動く人の顔に変わった。
私には、その瞬間が少し分かるようになってきた。
「訓練とかの口実は不要だな。調査に行こう」
ララ様がフードを脱ぎ、目を丸くする。
セトは手にした衣装を店主に渡し、私に合わせて寸法を直すよう依頼してから、こちらへ向き直った。
「祭壇の遺跡。ノアが言ってた。破壊されていたって。使い切りの残骸を、わざわざ壊すなら、何かしら理由がある。何か残っているかもしれない。期待薄だけどな」
ララ様の口角が上がる。
「おお、いいじゃん。セトが召喚されたクロスの祭壇見てみたい! 調査名目なら堂々と城外だ。でかい魔獣に襲われるといいな」
「いいわけあるか。せいぜい旅の途中で俺が獣にならないよう祈ってろ」
「それはそれで構わんよ? ほら、外套はこれ。エリサも、寒いのは苦手だろ? 羊毛詰めのやつにしとけ」
差し出された外套は、表が撥水の油麻、裏に薄い羊毛。
腕を通すと、重みが肩にきれいに乗る。
私は頷いて、裾を手のひらで整えた。
店主が値を告げる。
セトは即答しない。
外套の縁を指でつまむ。
糸の撚り。
針目。
布目の向き。
彼は値切る時、声を上げず、手で話す。
縫い目を一つ指して、ここ、と言うだけで、店主は苦笑し、少し値を下げる。
店主は最後に、じゃあ、この油麻を一本おまけね、と呟き、革袋の山から細い筒を一本、私の外套に差し込んだ。
セトは礼を言い、代金を払う。
「外套、革袋、油麻、携帯食、水袋……ララ、他には?」
「ロープ、靴……セトに火打石は要らないね。長旅じゃないし、それほど気を遣わなくていいかな」
羅列する言葉は、すぐに旅装の形になる。
この二人のこういうところは、凄いともおかしいとも思う。
「食器はどうするの? 野営用の」
私からは、セトの拘りについて確認する。
今では、砕けた物言いにも少し慣れた。
最初は、そうした方がセトの機嫌が良いからだった。
丁寧に包むより、正確に置く。
セトは、そういう言葉の方を面白がる。
どこまで荒く置いていいのかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも今のところ、怒られたことはない。
「……通常の旅仕様でいいよ」
「よく気が付くな、うちの家政長」
ララ様が笑って、肩で私を小突いた。
「ええ。セトのことは把握するよう努めております」
言いながらも、頬の内側が少し緩む。
役に立つと決めた場所で、実際に認められるのは、思っていたよりずっと救いになる。
「決まり。明後日、日の出前。王都の東門集合な」
ララ様が親指を立てる。
赤髪が風に揺れ、陽が散る。
セトは頷き、革袋の口を固く縛った。
セトに促され、ようやく、私が自分の衣装を物色する時間が訪れた。
私は、洗いやすそうな羊毛と、少しだけ勇気のいるデザインの亜麻を、そっと重ねた。