勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。   作:筆負野ユウ

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第39話 耳を塞いでいれば

弟の体は、思っていたよりも軽かった。

 

腕に乗る重みが、あまりに足りない。

湿った布が肌に張り付いているだけで、金属の硬さがない。

鎧を着ていない。

いや、それだけが理由ではない。

 

骨ばった肩。

やや浮いた鎖骨。

指の先に触れる肋の輪郭。

 

――こんなに細かったのか。

 

肌着と、包帯だけ。

 

久々に間近で見る弟の半裸は、記憶の中の少年よりは逞しくなっているはずなのに、どこか幼い気配を残していた。

 

十八歳。

啓示を受け、白衣修道会から離脱し、騎士の装いを真似ていただけの、まだ叙任もない従騎士。

 

包帯は丁寧ではない。

止血のためというより、痛めつけた跡を隠すために巻いたように雑だ。

 

胸から脇、背中へ斜めに走る帯。

ほどけかけた端が砂塵の中でひらひら揺れる。

松明の火が揺れるたび、布の隙間から覗く皮膚が、色を変えて見える。

 

手首に、輪のような痕がある。

両肩を外されたのか、炎症が見られる。

 

指先は、爪が剥がれ血が滲んでいる。

首筋には、誰かが乱暴に掴んだ痣が残っている。

捕虜にして、装備を奪い、無抵抗にして。

 

そして、弱い者をいたぶった。

私の弟を。

 

喉が、きゅ、と鳴った。

息が詰まる。

目の焦点が合わない。

合わせない。

合った瞬間に、またはっきりと見てしまうからだ。

 

アンドレアス。

名を呼べば返事が返る気がして、声を出さずに唇だけが動いた。

戦場に長く立ってきたくせに、古い絆と情が、いまだに胸の奥に居座っている。

 

私たちは、騎士の家の次男と、歳の離れた三男だった。

長男が家を継ぐ。次男と三男はスペアだ。

 

父と長男の視線の中で、私たちはいつも少し下に置かれていた。

 

命令の重さが違う。

期待の熱が違う。

罰の冷たさが違う。

 

だから逆に、私と弟は仲が良くなった。

同じ食卓で同じ冷たい視線を受け、同じように邪魔にならないように育った。

 

家を出て騎士修道会へ入ったのも、当然の流れだった。

家を継げない者の居場所は、剣と祈りの中にしかない。

 

母だけが、違った。

信心深い人だった。

 

聖音派の祈りを欠かさず、だがその信仰は、父や長男のような冷たさではなく、私たちを温めるために使われた。

そして、特に私に、教えを熱心に説いた。

 

弟は臆病で、優しくて、相手の顔色をうかがう人間だった。

だから母は弟を急かさなかった。

 

だが、私は荒っぽかった。

怒りを先に出し、拳で応じようとする。

母は私の将来を危惧したのだろう。

 

――ゲオルグ。耳を塞いではいけない。

 

――神の声を、選び取りなさい。

 

――神の教えに忠実に。

 

――そして、アンドレアスを守ってやってね。

 

右耳に右手を添える、祝福の形。

母の指の温かさを、いまでも覚えている。

 

守れなかった。

 

思い出が胸を刺し、別の記憶が這い上がる。

弟が捕縛された時のことだ。

 

夜間に背信者どもが脱出を試みる事態に備え、私たちは監視を怠らなかった。

 

神兵に近づき過ぎれば裁きの対象となる。

そう聞いていたから距離は取った。

それでも、様子がうかがえる範囲にはいたし、何かあれば斥候も出した。

 

弟は、その斥候だった。

神兵の戦いを見に行った。

 

その時、仲間が見たのは、弟が持っていた松明が落ちる様子だけだった。

火が地に転がり、灯りが斜めに揺れる。

 

誰かが叫んだ。

駆けた。

だが、弟はいなかった。

 

襲撃されたことだけが分かった。

行方不明。

捕縛されたのだろうと、推測するしかなかった。

 

何もできなかった時間が、弟を縛った。

何もできなかった時間が、弟を痛めつけた。

何もできなかった時間が、この包帯に変わった。

 

だが、弟は戻ってきた。

 

馬の足音。

 

誰かが「来るぞ」と言い、槍がわずかに持ち上がった。

私も反射で剣に手を掛けた。

 

その影は、武装していなかった。

鎧はない。

肌着と、包帯だけ。

弟だった。

 

私は駆けた。

周囲の制止も、隊列も、敵への警戒も、全部を置き去りにして駆けた。

落馬しかけた弟を抱き止めた。

 

その体はやはり軽く、体温が薄い。

冷たい。

でも、生きている。

確かに。

 

直後、神兵が襲い掛かってきた。

神兵が弟を追って来た。

 

なぜ。

 

仲間は狼狽しながらも応戦する。

白衣修道会の精鋭として、対応は素早い。

 

私は弟を背に押し込み、声を張り上げ、隊列を立て直した。

弟は、包帯の巻かれた手をひらひらとさせ、ほとんど笑うように言った。

 

「……兄さん。ごめん。でも、生きて、帰れた」

 

声が、出なかった。

泣いているのは弟ではなく、私の方だった。

 

泣くつもりはなかった。

戦場で、兄が、弟の前でみっともなく泣くつもりなどなかった。

 

頬が勝手に濡れた。

歯が鳴った。

 

怒りと安堵と恐怖が一緒に溢れて、どれが涙の理由か分からない。

 

外套を剥いで弟に被せる。

布が触れた瞬間、弟の肩がほんの少しだけ下がった。

 

震えが、わずかに収まる。

弟は息を整えると、ぽつりと言った。

 

「セトさん、ララさんっていう人たちに助けられた」

 

その名が、初めて私の中で恩として形になる。

弟の命を繋いだ名だ。

弟の口がその名を言えたこと自体、神の御加護がある証拠だった。

 

彼らは成り行きであそこにいるだけ。

背信者ではない。

命がけで弟を逃がしてくれた。

彼らも危機的状況にある。

 

それらが弟の推測なのか事実なのか、そのときの私には聞き分ける余裕がなかった。

 

なぜ神兵が弟を、と考えるのは後でいい。

今は目の前の脅威を排除する。

弟が戻った、その奇跡を抱えたまま、持ちこたえる。

 

だが、その喜びは長く続かなかった。

 

白い面。

白い盾。

白い刃。

 

呼吸のない存在が、松明の輪の外に並ぶ。

 

その連携は、嫌になるほど正確だった。

剣を当てても、当てたという手応えだけが返ってきて、倒れる気配がない。

倒れない相手と戦うのは、心を削る。

 

それでも、犠牲を出しながら神兵の隊列を崩した。

必死だった。

 

その時、弟が前に出た。

 

「アンドレアス!」

 

呼んだ声は、弟を止めなかった。

 

弟は強くはない。

だが優しい者は時々、優しさのために前に出る。

怖いくせに前に出る。

あれが弟の勇気の形だ。

 

「セトさんが、俺のために神兵を引き付けてくれてるんだ! たった一人で! 早く助けに行かないと!」

 

弟が黒い箱のような物を抱えて構える。

 

あの魔道具。

私たちも、その威力を遠目に見て知っている。

 

使えるなら心強い。

そう思った。

 

弟が黒曜石のように煌めくそれを向けた時、神兵が動いた。

狙いが、弟に定まるのが分かった。

 

弟そのものか。

箱か。

あるいは、両方か。

 

私は間に合わなかった。

間に合わなかったのに、見えてしまった。

 

白い刃が振り下ろされる軌道。

弟の肩が反射で竦む瞬間。

それでも弟が箱を掲げ、戦いの意思を示した最期の瞬間。

 

弟は崩れた。

崩れるように膝を落とし、そのまま倒れた。

 

続けて刃が振り下ろされた。

魔道具が、鈍い音を立てて砕けた。

黒い破片が松明の光を跳ね、砂に散った。

 

その時、私は駆け寄らなかった。

 

駆け寄れなかった。

 

私が離れれば、隊列が崩れる。

崩れれば、弟の死は無駄な死になる。

指揮官として、騎士として、私は剣を離せなかった。

 

私は弟を見殺しにした。

見殺しにしたようなものだ。

 

その結果、私たちは神兵に勝った。

勝った、という言葉は、舌の上で血の味がした。

 

そして今、その勝利の中身が、腕の中で軽さと冷たさを伴っている。

 

――母さんに、なんて言って報告しよう。

 

故郷の礼拝堂の匂いが浮かぶ。

朝の冷たい床。

膝をついて祈る母の背中。

私たちの名を順番に唱える声。

あの声に、私はどうやってこの現実を返すのか。

 

――弟は死にました。

 

それだけで済むはずがない。

 

――捕虜にされて、爪を剥がされて……。

 

言えるわけがない。

 

彼女は何と言うのだろうか。

 

「アンドレアスが死んだ時、あなたは何をしていたのですか?」

 

そんなことを言うわけがない。そんな人ではない。

しかし、考えてしまう。

 

――アンドレアスは、最後まで戦いました。

 

――仲間のため、恩人のため、勇敢に前に出ました。

 

この言葉だけは、母に渡せる。

それだけが、私に残された救いだった。

 

なぜ神兵は弟を追っていた。

あの魔道具を破壊することが目的だったのか。

 

だとすれば、あれが遺物だったのだろうか。

 

あるいは単純に近づき過ぎたから裁かれたのか。

 

分からない。

 

分からないものは、祈りの中へ押し込んだ。

今は考える時ではない。

 

生き残ったのは私だけだった。

 

アンドレアスを含め、九人が犠牲になった。

 

名を呼べば心がたわむ。

だから呼ばない。

胸の中でだけ、ひとりひとりに別れを告げる。

 

そして、闇の縁が揺れる。

 

先ほどから走って近付く足音がある。

松明の輪の外、光の届かない場所から。

 

影が一つこちらへ、今は歩いて近付いてくる。

歩幅が一定。

 

焦ってもいない。

怯えてもいない。

 

黒い髪。

黒い瞳。

黒い旅装。

 

弟から聞いていた風貌が、影から姿を現す。

 

セト。

弟の恩人。

弟を逃がしてくれた男。

 

そして今、こちらへ迫ってくる男。

一対一なら負けるとは思わない。

 

だが、消耗が大きい。

私だけではない。

セトは神兵を相手に一人で立ち回ったと聞いている。

 

そもそも、彼に戦う意思がどれほどある。

それでも、私の状況は彼に不明瞭だ。

 

成り行きの不幸とはいえ、私たちは既に一度交戦している。

 

私がアンドレアスの兄だということを、彼は知らない。

 

アンドレアスが恩義を語っていたことも、知らない。

 

誤解が解けていないなら、彼は戦わざるをえない。

 

そして私も、生き残った者として、死ぬわけにはいかない。

できれば、弟の恩人とは戦いたくない。

 

私はそこで初めて膝を折り、弟を地面へ横たえた。

セトの存在を視認してからだ。

 

ゆっくり。丁寧に。

包帯の端が砂に触れないように押さえ、肌着がめくれないように整える。

 

無駄だと分かっていても、無駄だからこそやる。

弟が物になってしまうのが怖い。

 

弟は弟だ。

弟は、私の弟だ。

 

馬の手綱に手を伸ばす。

馬は松明の火を嫌がり、鼻を鳴らした。

 

訓練しても、生き物は火を恐れる。

 

神兵は恐れなかった。

だからあれは怖かった。

 

馬の首筋に手を置く。

遠征の間、何度も私を運んだ馬だ。

 

血と煙の匂いに怯えながらも、手綱を預ければ応えてくれる。

生き物は、こちらの迷いをよく拾う。

 

騎乗する。

背を向けるのは臆病じゃない。

責務だ。

 

生き残った者が持ち帰るべきものがある。

まずは弟の死を、母に伝える責務がある。

 

踵を入れ、闇へ向けて走り出す。

 

それでも、背を向けたまま、何もしないでいることはできなかった。

私は馬上で振り向いた。

 

セトはこちらを追ってくる。

やはり、私のことは倒すべき敵だと思っているのだと思うと、寂しさにも似た感情を覚える。

 

母に教わった形。

耳を塞ぐのではない。

聖なる音を受けるための形だ。

聖音よ。

気高き彼に祝福を。

 

祈りは声にしない。

喉の奥で折り畳む。

 

右耳の下に、母の指の温かさが一瞬だけ重なる気がした。

 

再び前を向く。

 

松明の輪が背後に遠ざかる。

火の匂いが薄まり、土の匂いが濃くなる。

 

戦わずに済む。

弟の恩人を殺さずに済む。

弟の死を、これ以上汚さずに済む。

 

そう思った瞬間だった。

 

背後から、声が夜気を裂いた。

 

「おい!」

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