勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
弟の体は、思っていたよりも軽かった。
腕に乗る重みが、あまりに足りない。
湿った布が肌に張り付いているだけで、金属の硬さがない。
鎧を着ていない。
いや、それだけが理由ではない。
骨ばった肩。
やや浮いた鎖骨。
指の先に触れる肋の輪郭。
――こんなに細かったのか。
肌着と、包帯だけ。
久々に間近で見る弟の半裸は、記憶の中の少年よりは逞しくなっているはずなのに、どこか幼い気配を残していた。
十八歳。
啓示を受け、白衣修道会から離脱し、騎士の装いを真似ていただけの、まだ叙任もない従騎士。
包帯は丁寧ではない。
止血のためというより、痛めつけた跡を隠すために巻いたように雑だ。
胸から脇、背中へ斜めに走る帯。
ほどけかけた端が砂塵の中でひらひら揺れる。
松明の火が揺れるたび、布の隙間から覗く皮膚が、色を変えて見える。
手首に、輪のような痕がある。
両肩を外されたのか、炎症が見られる。
指先は、爪が剥がれ血が滲んでいる。
首筋には、誰かが乱暴に掴んだ痣が残っている。
捕虜にして、装備を奪い、無抵抗にして。
そして、弱い者をいたぶった。
私の弟を。
喉が、きゅ、と鳴った。
息が詰まる。
目の焦点が合わない。
合わせない。
合った瞬間に、またはっきりと見てしまうからだ。
アンドレアス。
名を呼べば返事が返る気がして、声を出さずに唇だけが動いた。
戦場に長く立ってきたくせに、古い絆と情が、いまだに胸の奥に居座っている。
私たちは、騎士の家の次男と、歳の離れた三男だった。
長男が家を継ぐ。次男と三男はスペアだ。
父と長男の視線の中で、私たちはいつも少し下に置かれていた。
命令の重さが違う。
期待の熱が違う。
罰の冷たさが違う。
だから逆に、私と弟は仲が良くなった。
同じ食卓で同じ冷たい視線を受け、同じように邪魔にならないように育った。
家を出て騎士修道会へ入ったのも、当然の流れだった。
家を継げない者の居場所は、剣と祈りの中にしかない。
母だけが、違った。
信心深い人だった。
聖音派の祈りを欠かさず、だがその信仰は、父や長男のような冷たさではなく、私たちを温めるために使われた。
そして、特に私に、教えを熱心に説いた。
弟は臆病で、優しくて、相手の顔色をうかがう人間だった。
だから母は弟を急かさなかった。
だが、私は荒っぽかった。
怒りを先に出し、拳で応じようとする。
母は私の将来を危惧したのだろう。
――ゲオルグ。耳を塞いではいけない。
――神の声を、選び取りなさい。
――神の教えに忠実に。
――そして、アンドレアスを守ってやってね。
右耳に右手を添える、祝福の形。
母の指の温かさを、いまでも覚えている。
守れなかった。
思い出が胸を刺し、別の記憶が這い上がる。
弟が捕縛された時のことだ。
夜間に背信者どもが脱出を試みる事態に備え、私たちは監視を怠らなかった。
神兵に近づき過ぎれば裁きの対象となる。
そう聞いていたから距離は取った。
それでも、様子がうかがえる範囲にはいたし、何かあれば斥候も出した。
弟は、その斥候だった。
神兵の戦いを見に行った。
その時、仲間が見たのは、弟が持っていた松明が落ちる様子だけだった。
火が地に転がり、灯りが斜めに揺れる。
誰かが叫んだ。
駆けた。
だが、弟はいなかった。
襲撃されたことだけが分かった。
行方不明。
捕縛されたのだろうと、推測するしかなかった。
何もできなかった時間が、弟を縛った。
何もできなかった時間が、弟を痛めつけた。
何もできなかった時間が、この包帯に変わった。
だが、弟は戻ってきた。
馬の足音。
誰かが「来るぞ」と言い、槍がわずかに持ち上がった。
私も反射で剣に手を掛けた。
その影は、武装していなかった。
鎧はない。
肌着と、包帯だけ。
弟だった。
私は駆けた。
周囲の制止も、隊列も、敵への警戒も、全部を置き去りにして駆けた。
落馬しかけた弟を抱き止めた。
その体はやはり軽く、体温が薄い。
冷たい。
でも、生きている。
確かに。
直後、神兵が襲い掛かってきた。
神兵が弟を追って来た。
なぜ。
仲間は狼狽しながらも応戦する。
白衣修道会の精鋭として、対応は素早い。
私は弟を背に押し込み、声を張り上げ、隊列を立て直した。
弟は、包帯の巻かれた手をひらひらとさせ、ほとんど笑うように言った。
「……兄さん。ごめん。でも、生きて、帰れた」
声が、出なかった。
泣いているのは弟ではなく、私の方だった。
泣くつもりはなかった。
戦場で、兄が、弟の前でみっともなく泣くつもりなどなかった。
頬が勝手に濡れた。
歯が鳴った。
怒りと安堵と恐怖が一緒に溢れて、どれが涙の理由か分からない。
外套を剥いで弟に被せる。
布が触れた瞬間、弟の肩がほんの少しだけ下がった。
震えが、わずかに収まる。
弟は息を整えると、ぽつりと言った。
「セトさん、ララさんっていう人たちに助けられた」
その名が、初めて私の中で恩として形になる。
弟の命を繋いだ名だ。
弟の口がその名を言えたこと自体、神の御加護がある証拠だった。
彼らは成り行きであそこにいるだけ。
背信者ではない。
命がけで弟を逃がしてくれた。
彼らも危機的状況にある。
それらが弟の推測なのか事実なのか、そのときの私には聞き分ける余裕がなかった。
なぜ神兵が弟を、と考えるのは後でいい。
今は目の前の脅威を排除する。
弟が戻った、その奇跡を抱えたまま、持ちこたえる。
だが、その喜びは長く続かなかった。
白い面。
白い盾。
白い刃。
呼吸のない存在が、松明の輪の外に並ぶ。
その連携は、嫌になるほど正確だった。
剣を当てても、当てたという手応えだけが返ってきて、倒れる気配がない。
倒れない相手と戦うのは、心を削る。
それでも、犠牲を出しながら神兵の隊列を崩した。
必死だった。
その時、弟が前に出た。
「アンドレアス!」
呼んだ声は、弟を止めなかった。
弟は強くはない。
だが優しい者は時々、優しさのために前に出る。
怖いくせに前に出る。
あれが弟の勇気の形だ。
「セトさんが、俺のために神兵を引き付けてくれてるんだ! たった一人で! 早く助けに行かないと!」
弟が黒い箱のような物を抱えて構える。
あの魔道具。
私たちも、その威力を遠目に見て知っている。
使えるなら心強い。
そう思った。
弟が黒曜石のように煌めくそれを向けた時、神兵が動いた。
狙いが、弟に定まるのが分かった。
弟そのものか。
箱か。
あるいは、両方か。
私は間に合わなかった。
間に合わなかったのに、見えてしまった。
白い刃が振り下ろされる軌道。
弟の肩が反射で竦む瞬間。
それでも弟が箱を掲げ、戦いの意思を示した最期の瞬間。
弟は崩れた。
崩れるように膝を落とし、そのまま倒れた。
続けて刃が振り下ろされた。
魔道具が、鈍い音を立てて砕けた。
黒い破片が松明の光を跳ね、砂に散った。
その時、私は駆け寄らなかった。
駆け寄れなかった。
私が離れれば、隊列が崩れる。
崩れれば、弟の死は無駄な死になる。
指揮官として、騎士として、私は剣を離せなかった。
私は弟を見殺しにした。
見殺しにしたようなものだ。
その結果、私たちは神兵に勝った。
勝った、という言葉は、舌の上で血の味がした。
そして今、その勝利の中身が、腕の中で軽さと冷たさを伴っている。
――母さんに、なんて言って報告しよう。
故郷の礼拝堂の匂いが浮かぶ。
朝の冷たい床。
膝をついて祈る母の背中。
私たちの名を順番に唱える声。
あの声に、私はどうやってこの現実を返すのか。
――弟は死にました。
それだけで済むはずがない。
――捕虜にされて、爪を剥がされて……。
言えるわけがない。
彼女は何と言うのだろうか。
「アンドレアスが死んだ時、あなたは何をしていたのですか?」
そんなことを言うわけがない。そんな人ではない。
しかし、考えてしまう。
――アンドレアスは、最後まで戦いました。
――仲間のため、恩人のため、勇敢に前に出ました。
この言葉だけは、母に渡せる。
それだけが、私に残された救いだった。
なぜ神兵は弟を追っていた。
あの魔道具を破壊することが目的だったのか。
だとすれば、あれが遺物だったのだろうか。
あるいは単純に近づき過ぎたから裁かれたのか。
分からない。
分からないものは、祈りの中へ押し込んだ。
今は考える時ではない。
生き残ったのは私だけだった。
アンドレアスを含め、九人が犠牲になった。
名を呼べば心がたわむ。
だから呼ばない。
胸の中でだけ、ひとりひとりに別れを告げる。
そして、闇の縁が揺れる。
先ほどから走って近付く足音がある。
松明の輪の外、光の届かない場所から。
影が一つこちらへ、今は歩いて近付いてくる。
歩幅が一定。
焦ってもいない。
怯えてもいない。
黒い髪。
黒い瞳。
黒い旅装。
弟から聞いていた風貌が、影から姿を現す。
セト。
弟の恩人。
弟を逃がしてくれた男。
そして今、こちらへ迫ってくる男。
一対一なら負けるとは思わない。
だが、消耗が大きい。
私だけではない。
セトは神兵を相手に一人で立ち回ったと聞いている。
そもそも、彼に戦う意思がどれほどある。
それでも、私の状況は彼に不明瞭だ。
成り行きの不幸とはいえ、私たちは既に一度交戦している。
私がアンドレアスの兄だということを、彼は知らない。
アンドレアスが恩義を語っていたことも、知らない。
誤解が解けていないなら、彼は戦わざるをえない。
そして私も、生き残った者として、死ぬわけにはいかない。
できれば、弟の恩人とは戦いたくない。
私はそこで初めて膝を折り、弟を地面へ横たえた。
セトの存在を視認してからだ。
ゆっくり。丁寧に。
包帯の端が砂に触れないように押さえ、肌着がめくれないように整える。
無駄だと分かっていても、無駄だからこそやる。
弟が物になってしまうのが怖い。
弟は弟だ。
弟は、私の弟だ。
馬の手綱に手を伸ばす。
馬は松明の火を嫌がり、鼻を鳴らした。
訓練しても、生き物は火を恐れる。
神兵は恐れなかった。
だからあれは怖かった。
馬の首筋に手を置く。
遠征の間、何度も私を運んだ馬だ。
血と煙の匂いに怯えながらも、手綱を預ければ応えてくれる。
生き物は、こちらの迷いをよく拾う。
騎乗する。
背を向けるのは臆病じゃない。
責務だ。
生き残った者が持ち帰るべきものがある。
まずは弟の死を、母に伝える責務がある。
踵を入れ、闇へ向けて走り出す。
それでも、背を向けたまま、何もしないでいることはできなかった。
私は馬上で振り向いた。
セトはこちらを追ってくる。
やはり、私のことは倒すべき敵だと思っているのだと思うと、寂しさにも似た感情を覚える。
母に教わった形。
耳を塞ぐのではない。
聖なる音を受けるための形だ。
聖音よ。
気高き彼に祝福を。
祈りは声にしない。
喉の奥で折り畳む。
右耳の下に、母の指の温かさが一瞬だけ重なる気がした。
再び前を向く。
松明の輪が背後に遠ざかる。
火の匂いが薄まり、土の匂いが濃くなる。
戦わずに済む。
弟の恩人を殺さずに済む。
弟の死を、これ以上汚さずに済む。
そう思った瞬間だった。
背後から、声が夜気を裂いた。
「おい!」