勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
王太子の執務室は、会議室よりずっと狭い。
狭い場所ほど、人は自分の愚かさを正確に測れる。
鎧を脱いでいても、胸の内の重さは脱げない。
剣を持つことは苦手ではない。
だが今日、剣は一度も抜かなかった。
抜くべきは舌だった。
「殿下、外務卿が……」
「後にしてくれ」
侍従を追い払う。
コスタ卿の顔を見るだけで、腹の底が冷える。
あの男は、神の言葉を本気で信じている。
本気で信じているから、手に余る。
嘘をつけないのではない。
嘘をつく必要すらないのだ。
机上の書類を掴み、握り潰しそうになるのを堪えた。
(神託は“いつ”サボエを奪還せよとは述べていない)
私は父上に逃げ道を差し出したつもりだった。
神託に背かず、なお決断を先へ送るための道だ。
だがコスタ卿は、その逃げ道を“今こそ最も血を流さずに神託へ応えられる時”に変えた。
間違っているとは言い切れない。
だからこそ、質が悪い。
ミストラティは今、パールスへの対応で余裕がない。
こちらが大軍を集めれば、サボエを巡って正面から戦うことは避けようとするだろう。
それも、間違っているとは言えない。
(脅しとは、安く済むから脅しなのだ)
(勝利の根拠がいささか曖昧に思える)
だがコスタ卿は、その懸念を逆に使った。
半端な脅しではなく、剣を抜いた後の勝利まで用意すべきだ、と。
どう言えば良かったのかは分からない。
最初から明確な反対の立場をとっていれば、少なくとも総司令官の席に座らされる事態は避けられたかもしれない。
そして父上は――国王陛下は、その刃を受け取った。
半年。
動員。
使節。
期限。
拒絶なら侵攻。
戦争をするなら準備を整える。
和戦両様の構えで交渉に臨む。
いずれも間違っているとは言えない。
だからこそ、止めにくい。
動員が始まれば、兵は動く。
兵が動けば、金が動く。
金が動けば、民が削られる。
削っておいて、やはりやめます、とは言えない。
それは王権の自傷行為だ。
陛下はそれが分かっていないわけではない。
だが陛下は、いつも最後の痛みを先に見ない。
温和さは、時に未来をぼかす。
それが分かっていたから、私は最後に背中を押した。
(半年で整える。動かすなら、勝てる形でなければならない)
そう言った。
それは開戦への同意ではない。
コスタ卿も開戦は望んでいない。
だが、会議室では別の意味を持ち始めていた。
陛下が戦備を決断されたときに感じた貴族たちの熱気。
サボエの権益への期待。
あの場にいた貴族たちのなかで、それを持たない者はいない。
信仰への使命感。
それもあるだろう。
だが、おそらくそれだけではない。
貴族たちは動員の出費を少しでも回収したい。
だが、サボエでは広く分配するには足りない。
もちろん、ミストラティを滅ぼして支配するなど、現実的ではない。
短期の動員では済まなくなる。出費がかさむどころの話ではない。
誰でも理解できる理屈だ。
では、どうするか。
簡単だ。
略奪。
乱暴狼藉。
物品を奪って補填する。
兵や騎士を自由にさせ、給金や手当を抑える。
戦もそうだが、それは損得の外側にある野生の解放だ。
あのとき感じた熱には、きっと暴力に対する意識、無意識の期待が混じっていた。
そして、私はそうなることを承知の上で動員に合意した。
私なりの合理性が、ぼやけた未来を望まぬ形で固定してしまった。
そうせざるをえなかった。
私は窓の外を見た。
城下は静かだ。平和だ。
平和だからこそ、戦争を準備できる。
人々は、まだ気づかない。
トラキス公は反対だった。
あの男は現場を見ている。国境を知っている。
中央が正義で兵を動かす時、最初に踏まれるのは東方だと分かっている。
だから無用な波風を嫌う。
だが、あの男の反対は私欲に見える。
実際、私欲でもあるのだろう。
だから退けられる。
皮肉な構図だ。
あの奸臣が、内心では誰より平和を求めている。
そして、構図を作るのが外務卿の仕事だ。
いや、トラキス公も、最終的には反対意見を引っ込めた。
最終的には、新たな権益を全力で獲りに来るかもしれない。
私は息を吐き、思考を整える。
やることは二つ。
壊れない形にする。
そして、勝てる形にする。
壊れない形。
軍を整え、情報を集め、敵の事情を読み切る。
半年は長い。
そして短い。
私にとっては短い。
短いなら、短いなりにやるしかない。
勝てる形。
少なくともサボエは取らねばならない。
それができなければ『やっぱりやめます』と同じく王権が傷つく。
だが、本当にサボエだけで終わるのか。
ミストラティは、こちらの望む形で折れるのか。
東方の同盟都市。
パールスの圧迫。
魔族同士の均衡。
そのどれもが、地図の上では簡単に見える。
だが、戦場では簡単なものから順に裏切る。
私は自分の言葉の責任から逃げられない。
このまま何もせず失敗すれば、国は割れる。
割れた国は、魔族より先に自滅する。
私は机上の呼び鈴を鳴らした。
「軍務卿を。あと、財務頭もだ」
側近の文官が驚いた顔をする。
いまからですか、と言いたげだった。
既に夜間と言ってよい時間帯だ。
しかし、私は続ける。
「半年で整えるべき戦備から必要なものを逆算しろ。整わない、という報告にも同等の価値がある。現在の備蓄、動員可能な騎士の頭数、馬の数、輸入に回せる資金、とにかく全部だ。まずは概算で構わん。正確性は後で詰める」
「はっ」
「それと、ミストラティ方面の情報を洗い直せ。サボエだけではない。マリリポ、パールス、他の同盟都市の動きもだ」
文官の表情が、少し引き締まった。
ようやく、ただの政務ではないと理解したらしい。
文官が退室したのを確認すると、私は机に手を置いて項垂れた。
武人の仮面を被っている?
そうだ。
だが仮面は、外すために被るのではない。
必要な時に、顔を守るために被る。
コスタ卿の考えは、間違っているとは言えない。
サボエに経済的うま味は少ない。
しかし、王の権威という側面では確かに悪くない。
この国には神の後ろ盾が必要なのも否定はしない。
サボエは、おそらく取れる。
問題は、その後だ。
我が国の軍が、周辺を荒らしまわる。
できる限り制御するつもりだが、限界がある。
その後の統治には必ず支障が出る。
魔族同士のごたごたに、自ら足を踏み入れることにならないか。
トラキス公の動きが、ますます読みづらくならないか。
そして、サボエの利権はコスタ卿が最も多く獲得することになる。
力を増す彼を、いかにして制御すべきか。
「……やられたな」
誰もいない部屋で、私は自身の顔を両手で覆った。
この呟きは祈りにならない。
だが、祈りよりも余程、切実で真実に近いはずだ。
◇◇
トラキス公爵領の主として、代々受け継いできた王都邸宅。
今ほど公爵家が力を持っていない頃に構えたものだが、その権力を見せつける華美な装飾は充分なものだ。
その私室には、応接間やエントランスのような香はない。
あるのは皮革とインクの匂い。前線とは異なる意味で、現場の匂い。
私は地図を机に広げ、指で国境地帯をなぞった。
サボエ。
ミストラティ領。
そして、東方諸侯の領地。
国王は温和だ。
だからこそ、誰かに正義の判決文を差し出されると、それを採用してしまう。
温和な人間は、自分が刃を持っていることに気づきにくい。
扉が叩かれる。
「公爵閣下。東方の諸侯より返書が」
「入れ」
書簡が机上に積まれる。
国境領主は皆、勘が良い。
戦局がまずいことになれば、最初に燃えるのは中央ではない。国境だ。
だから彼らは、中央の正義より、自分の持つ武力と、近隣の仲間を信じる。
実のところ、外務卿の動きは察知できていた。
なので、東方の仲間には、既に大規模動員の可能性を伝えていた。
私は書簡に目を走らせる。
兵糧の供出は難しい。
無理な徴発が始まれば反乱が起きる。
当然だ。
国境の現実はいつも当然で、中央の正義はいつも例外だ。
私は筆を取り、なるべく短く指示を書いた。
――要約すると、死にたくなければ死ぬ気でなんとかしろ、だ。
無理でも、戦備を整えないわけにはいかない。
無理だと言う彼らの言葉は正論だ。
だが、正論では政略は止まらない。
止まらないのなら、せめて死ぬ順番を変えるしかない。
それが政治だ。
私は別の紙を引き寄せた。
こちらは通常の書簡ではない。
封蝋もない。差出人もない。
――こちらは簡単に言えば、ミストラティの動向を可能な限り全力で探れ、だ。
国境紛争の相手のこと。
既に全力で諜報活動はしている。
そんなことはよく分かっているが、指示を出す。
「トラキス公爵はコスタ外務卿と政敵だ。内心では大動員に反対らしいと噂を流せ」
ちょっとした保険。
自分に関する噂を流すのは簡単だ。出所をいくらでも用意できる。
近くに控えていた家臣が、声を落とした。
「……外務卿は、閣下を魔族討滅を邪魔する奸雄と触れ回るでしょう」
「だろうな」
私は笑わなかった。
笑えない。
コスタ卿は本気だ。
本気の正義は、冗談を許さない。
あの男は私が餌に食いついたと思っているだろう。
新たな利権を見せれば黙る、と。
半分は正しい。
しかし、半分しか正しくない。
サボエだけならば、旨味は薄い。
それどころか害が大きい。
東方に、中央の息がかかった新たな拠点が生まれる。
王都の文官が地図の上で色を塗り、聖職者が正義の名で旗を立てる。
そして実際に最大の血を流すのは、東方だ。
その未来は避けたい。
だが、ミストラティ本国への進軍を視野に入れた大動員となれば、話は変わる。
止められるなら止めたい。
戦争も、脅迫も、動員も、本音では全て反対だ。
だが、反対したまま止められず、成功されるのが最悪だ。
ミストラティが崩れれば、東方の地図そのものが変わる。
前線を預かる東方貴族という特別性は薄れる。
中央は新たな秩序を作り、王家に近い者たちが新たな土地と役職に手を伸ばす。
そこに私がいなければ、トラキス公爵家は、古い国境の番犬として鎖だけを残される。
反対派のまま、戦争に勝たれる。
それが最悪なのだ。
ならば、関わる。
できる限り深く。
そして、必要なら別の形も用意する。
私は地図を畳み、窓の外の暗さを見た。
この国が、戦争に勝つ前に、戦争で壊れることもあるだろうか。
――いや、反対派のまま、戦争に勝たれるのは二番目か。
本当に最悪なのは、それではない。
口元が綻ぶ。
思わず笑ったのではない。
笑わなければ、顔が固まるだけだ。
「……よし。動かすかもしれんぞ」
私は家臣に言った。
「こちらでの仕事が終われば、領地に帰る。東方の諸侯を集めろ。そして……」
私は言葉を切った。
言い切ってしまえば、現実になる。
現実は、一度言った言葉に引き寄せられる。
「そして、最悪の時に備える。国王がまともに決断できないなら、私が決断するしかない」
言葉そのものの意味は曖昧だ。
だが、あえて、かなり踏み込んだ決意表明にした。
家臣が退室し、扉が閉まった。
静けさが戻りかける。
私は地図を畳み、蝋燭の芯を指で整えた。
炎が小さく揺れる。
「……トラキス公」
背後から声がした。
振り返る必要はなかった。
振り返ったところで、そこに居るのが誰かは分かっている。
私の館に、私の許可なく入り、護衛に止められず、気配も残さない男は一人しかいない。
「例の件の準備は?」
男が不躾な声で問う。
国王ですら、この私に、こんな態度を取ることはない。
トラキス公爵家の主は私だ。
だが、この男の前でだけは、その事実が少し軽くなる。
「進めていますよ。ただ……」
「ただ?」
問いが短い。
刃物のように、こちらに余分な言葉を許さない。
私は息を吐いた。
「早めます。この交渉の転がり方次第では……動きますか?」
返答は即座だった。
「そうだな」
淡々としている。
この男にとって、戦争も叛乱も、天候の話と同じ種類の現象なのだろうか。
私は声を落とす。
「それこそ、本当に叛乱ということになりますが……」
「それを恐れる貴殿ではあるまい」
諭すでもなく、煽るでもない。
恐れるな、ではない。
恐れるはずがない、と断じる。
お前のような化物と一緒にするなと言いたい。
こちらは真っ当な人間なのだ。
私は苦く笑う。
「……恐れてはいません。ただ、必要な形に整えたいだけです」
「形か」
カイルスは小さく鼻を鳴らした。
嘲りにも、感心にも取れる。
「神託が落ちました。半年後の期限は人間が付けました。すでに止まれない形になりつつある」
「なら、なおさらだ」
カイルスの声が、少しだけ低くなる。
「止まれない戦争の外側に、止まらなくても良い仕掛けを作っておけ。貴殿はそれが得意だろう。最悪の場合、国境はいつも最初に壊れる。壊れきる前に、別の形を用意しろ」
「本格的な戦争にするのですか?」
「そうなったときの備えの話だ。私がなにか仕掛けるわけではない」
命令ではない。
だが、トラキス公爵家にとって、この男の言葉は王命より重い。
私は頷いた。
この男に頷かされるのは、不愉快だ。
だが不愉快で済むなら安い。
「……了解しました。準備を早めます」
返事を終えると、室内の空気が僅かに軽くなった気がした。
「では」
私がそう言う前に、カイルスの気配が遠ざかった。
扉の音はしない。足音もしない。
残ったのは、机上の地図と、蝋燭の炎だけ。
私は指で国境地帯をなぞる。
半年。
二つの巨大事業を準備するには、あまりに短い。
短いからこそ、形は雑になる。
雑な形の上では、人は簡単に死ぬ。
転び方次第で、大勢死ぬ。
「……さて」
独り言が、やけに乾いて響いた。
◇◇
「……主よ、ありがとうございます」
月明かりが、寝室を白く染めている。
祈りの後の静寂は、いつもより熱を帯びていた。
これは予感だ。始まりの予感。
胸の奥だけが、まだ跪いたまま。
扉の外で、侍女が控えめに咳払いをした。
「ルナ殿下……外務卿より書簡が届いております」
「……入って」
銀の盆に載せられた封書は、白い蝋で封じられていた。
押された印は見慣れている。
聖音派に正しく寄り添う者の、整った印。
コスタ外務卿。
私は封を割いた。
羊皮紙の擦れる音が、夜の静けさにやけに大きい。
ルナ殿下。
神託が下りました。
「サボエの地を、人の手に回復せよ」
陛下は神意を厳粛に受け止められ、御立派な決断をされました。
半年の準備の後、兵を起こし、使節を立て、条件を提示し、期限を切って返答を迫ります。
総指揮はレオトバイ殿下。
王太子殿下には良い実績となるでしょう。
しかし同時に、王家が王家として立つための舞台でもあります。
そして、王女殿下。
もしこの件が救済の事業であるなら、あなたが祈りを現場で示すことほど、兵の、サボエの民の心を支えるものはありません。
殿下のお考えを、ぜひお聞かせください。
「……半年」
私は、窓辺でその言葉を反芻した。
施療院での悲しみも、貧民街の荒廃も、すべては私に力がなかったからだと分かっていた。
目の前の火を消すだけでは足りない。
火の元。この国の歪みを正さなければ、人々は救われない。
「力を、持たなければ」
ただ、正しい行いをしているだけでは駄目なのだ。
結局は兄上が正しかった。
力を持たなければ、正しいことは行えない。
兄上が赴くなら、私も共に行こう。
王家の巫女として、兵たちの士気を高め、神の加護を示す。
それは私が、守られる象徴から脱皮するための試練だ。
予定よりも大幅に早まったとはいえ、私も多少の私兵は集め始めている。
質が高いとは言えない。
だが、まだ半年ある。
この私兵は、セトの世界にあるらしい治安警察に充てるはずだった。
王都の弱き人々を守るため。
民に、王の秩序を届かせるため。
それでも、半年だ。
少しばかりの実績は作れる。
「……セト。あなたは、この構想にも苦い顔をするのでしょうね」
彼は以前、街の無秩序について零した私に、冷たく言った。
今だって王都は秩序に満ちている。
貴族の秩序。
商人の秩序。
やくざ者の秩序。
それぞれが身内の論理で秩序を守っている。
私の立場から無秩序に見えるのは、王の秩序が不充分だからだ、と。
不敬で奇妙な言葉だと思った。
けれど、今は真理だと思う。
彼は私のクロスだ。
私の運命を背負い、隣で剣を振るう運命にある。
それに、あの冷めた瞳の奥の合理性は、私の理想を現実の形に変えるために必要だ。
「……一緒に行きましょう、セト。あなたが望まなくても」
口に出してから、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
彼が嫌がることは分かっている。
それでも。
救える者を救うために、必要な力を使わないことは、正しいことではない。
私は手元の書簡に目を落とし、そして閉じた。
この書簡が報告であると同時に、導きであることに、私は気づかないふりをした。
いや、そう意識してしまっているのだから、気づいている。
コスタ卿は悪い人物ではない。
策謀家ではあるのだろうが、信仰に対しては真摯な方だ。
だが、やはり、理想のために私を利用している感は否めない。
それもこれも王家に――いや、私に力がないからだ。
私に力があれば、彼はきっと付いてくる。
彼も、私を利用しようなどと考えずに済むのだ。
そしてそれは、コスタ外務卿だけではない。
明日、ノアを呼ぼう。
私の救済は、ここから始めなければならない。
綺麗な言葉だけで、前には進めないのだ。