神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~ 作:筆負野ユウ
「ルナ王女。お初にお目に掛かります。カイルスと申します。家名なき身ではございますが、どうか、お見知りおきを」
カイルスは、恭しく頭を下げた。
その所作だけを見れば、礼儀正しい貴人のようだった。だが、石床には兵の血が広がり、異形の残骸が黒い煙となって消えかけている。
礼を尽くすには、あまりにも場が汚れていた。
頭を上げたカイルスが、真っすぐこちらを見る。先ほどまでの牽制とは違う。今度は、明確に私へ用がある目だった。
「単刀直入に申し上げます。不躾ながら、私は、あなた達三人を殺すことができます」
本当に、ずいぶんと不躾な宣言だった。
ちらりとノアを見る。ノアは剣を構えたまま、カイルスを睨みつけている。否定しない。反論もしない。
直接剣を交えたノアがそうなのだから、虚言ではないのだろう。
「しかし、あなたが呼び出したサモンドは予想以上の力を持っているようだ」
「その呼び名はやめてください」
思わず言い返していた。
サモンド。
召喚されたもの。
呼び出された道具。
その響きは、あまりに冷たかった。
「私たちは“クロス”と呼んでいます」
「失礼。昔はそう呼ばれることが多かったもので」
カイルスは、何が面白いのか、くすくすと笑った。すぐに表情を戻すと続ける。
「とにかく、私にとっても不確定なものが多い。そこで提案なのですが……ここで一度、休戦といたしませんか?」
休戦。
あまりにも場違いな言葉だった。
つい先ほどまで、彼は私たちを殺そうとしていた。本人の言うように、今もその気になれば殺せるのだろう。
それなのに、休戦。
意味が分からない。
だが、支離滅裂なのではない。カイルスの中には、きっと理由がある。私たちには見えていない、何かの理屈がある。
それが、余計に不気味だった。
「……ずいぶん勝手な申し出ですね。あなたから一方的に仕掛けて来たのでしょう」
「ええ、そうですね。私のほうが優位ですから、勝手を申しますとも」
カイルスは悪びれもせずに言った。
「断るならご自由に。三人とも殺すなり、それが危険であると判断したなら逃げるなり、こちらも好きにさせていただきます」
冷ややかな声音だった。
交渉の形を取ってはいる。けれど、これは対等な提案ではない。
選ばされているのだ。
彼の都合で。
彼の余裕の中で。
「ルナ殿下、受けましょう」
ノアが小さく言った。剣は下げていない。視線もカイルスから外していない。
「奴はセトを警戒しています。しかし……」
ノアはちらりとセトを見やる。
セトは険しい顔でカイルスを見ていた。その衣服は破れ、血で汚れている。背中も腕も、まともな状態ではないはずだった。
それでも立っている。
立っていること自体が、不自然にさえ見えた。
ノアは一歩後退してこちらへ寄り、声をさらに落とす。
「……セトはそう長く戦えません。今は興奮状態にありますが、満身創痍です。そしてカイルスは、私が二人いても勝てる相手ではありません」
重い言葉だった。
ノアは自分を過小評価する人間ではない。そのノアが、そう言った。
私はセトを見た。
彼は私たちのやり取りにも意識を向けているようだった。言葉のすべては分からないはずなのに、こちらの表情や空気感を読もうとしている。
彼の命も、私の決断に懸かっている。
そう思った瞬間、胸の奥が重くなった。
私が呼んだのだ。
彼はこの世界を望んだわけではない。この戦いを望んだわけでもない。それでも、彼は血を流し、殺し、そして生きている。
「あなたが裏切らないという保証がありません」
私は言った。
違和感を拭えなかった。危険を冒さずに済むのなら、カイルスは言った通り逃げてしまえばいい。あるいは、今すぐ私たちを殺してもいい。
なのに、休戦。
なぜ。
「ええ、ありません」
カイルスはあっさり頷いた。
「ですが、背中を切りつけようにも、貴女たちは警戒を解きはしないから意味がないでしょう。周辺の森に兵を伏せているのであれば、今すぐ突入させれば早い。私が待ち伏せることを心配するなら、先にここを出てください。しばらく私はここを動かないと約束しましょう」
そこで、彼はまた薄く笑った。
「その約束も保証する術はありませんが」
「……」
「とにかく、休戦した後は油断せずに私から逃げればいいのですよ」
理屈は通っている。けれど、理由は見えない。
見逃してくれると言っているのだろうか。何かを試されているのだろうか。
やはり、分からない。
だが、私たちに選べるものは多くなかった。セトは傷ついている。ノアも疲弊している。私は、二人を連れて帰らなければならない。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
この邂逅も。
この休戦も。
あるいは、聖音の導きなのだろうか。
そう考えた自分を、私は少しだけ恥じた。
導きと呼ぶには、あまりに多くの血が流れていた。
「分かりました。休戦を受けましょう」
私は背筋を伸ばした。声が震えないように。
「あなたは私たちが離れるまでここに留まり、決して追わない。それでいいですね」
「約束しましょう」
カイルスは、また丁寧に頭を下げた。
その礼儀正しさが、やはり恐ろしかった。
決めたのであれば、早いほうがいい。
私はセトに手招きし、ノアと共に階段へ向かう。セトは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、こちらの意図は伝わったらしい。警戒を解かないまま、ゆっくりと歩いてくる。
カイルスは祭壇に腰掛けていた。くつろいでいるようにすら見えた。
背後に残していくには、あまりにも不気味な男だった。
◇
地上に出るまでの間、何度も足が止まりそうになった。
倒れている兵がいた。
顔を知っている者もいた。
名前を知っている者もいた。
昨日、馬車の脇で笑っていた者もいた。
本当なら、一人ひとりの傍らに膝をつきたかった。開いたままの目を閉じ、乱れた襟を整え、血で汚れた手を握り、祈りたかった。
あなたの献身を、神はご覧になっています。
そう告げたかった。
けれど、今はできない。
カイルスはまだ地下にいる。セトは傷を負っている。ノアだって疲弊している。
死者のために足を止め、生者まで失うわけにはいかなかった。
私は名を知る者の顔を胸に刻み、その傍らを通り過ぎた。
地上に出ると、日が高くなっていた。木々の葉が光を受けて揺れている。空は青い。
地下の血と鉄の匂いが嘘のようだった。
しかし、外にも亡骸はあった。
地上を守っていた兵たち。
襲撃者たち。
こちらも、向こうも。
同じように倒れ、同じように動かなかった。
暗い階段の下には、まだカイルスがいる。
私は一度だけ天を仰ぎ、足を止めないまま、短い祈りを胸の内で唱えた。
今は、生きて帰らなければならない。
ノアを先頭に、森を進む。
セトは物珍しげにあたりを眺めながら、私たちの後ろをついてくる。血まみれで、傷だらけで、それでも目だけは忙しく動いている。
この世界を見ているのだ。
彼の世界ではない、この世界を。
特に険しい森というわけではない。王都より伸びる街道から、少し入っただけの場所だ。
王都に戻れるだろうか。
馬車は無事だろうか。
三人きりで歩くには、あまりに心許ない。
しばらく進んだところで、前方から見覚えのある兵士が現れた。馬車で待機していた三人のうちの一人だ。騒ぎの音が聞こえ、様子を見に出たのだろう。
彼は私を見るなり駆け寄ってきた。
「殿下!」
言葉は震えていた。負傷の有無を確かめるように視線が動き、私が歩いていることを確認して、ようやく安堵の表情を浮かべる。
儀礼ではない。
心からの心配だった。
だからこそ、私は応えなければならない。
守られるだけの王女ではいられない。彼らの命を受け取り、彼らの死を背負い、生きて戻らなければならない。
さらに進むと、馬車が見えてきた。
華美なものではない。兵員用の無骨な輸送馬車が二台。
それだけで、胸が少し軽くなる。
兵士三人。
御者二人。
味方の存在が、こんなにも心強いとは思わなかった。
私は馬車に乗り込む前に、足を止めた。遺跡の方へ振り返る。
もう、倒れた者たちの顔は見えない。血の匂いも薄れている。
それでも、そこに置いてきた者たちの重さだけは、背中に張りついていた。
ノアが何か言いかける。
急がねばならない。それは分かっている。
だが、これだけはしなければならないと思った。
私は胸の前で両手を組む。
「ミルコ。ヤニス。バルド。ニコ。ハイラム。ペトロ。アレク……」
名を呼ぶ。
呼べる名を、ひとつずつ。
すべての名を覚えているわけではない。
それが、悔しかった。
「あなたたちの忠節を、神はご覧になっています」
声が震えそうになる。けれど、震わせてはならないと思った。
私が泣き崩れれば、彼らの死は私の悲しみになってしまう。
そうではない。
彼らは王国の兵だった。私を守るために剣を取り、そして倒れた。
ならば、私は彼らを悼まなければならない。
王女として。
巫女として。
そして、彼らの名を知る者として。
「どうか、その魂に安息を。彼らの家族に慰めを。彼らの忠義に報いを」
風が森を揺らした。
返事はない。
当然だ。
死者は返事をしない。
それでも私は、呼べる名をすべて呼んだ。そして、私の知らない者たちのためにも祈った。
「名を呼べなかった者たちにも、同じ安息を」
一瞬、敵兵の顔が脳裏をよぎった。
私を殺そうとした者たち。
セトを狙った者たち。
私の兵を殺した者たち。
それでも、死者は死者だった。
彼らにも、家族があったのだろうか。名を呼ぶ者が、どこかにいるのだろうか。
私には、彼らの名が分からない。
だから、同じ祈りの中に置くことしかできなかった。
「名を知らぬ者たちにも、神の御許に至る道が開かれますように」
祈りを終えて、目を開ける。
ノアは何も言わなかった。兵士たちも、御者たちも、頭を垂れていた。
セトだけが、少し離れた場所でこちらを見ている。
言葉は通じていない。けれど、何をしているのかは分かっているようだった。
その顔に、何が浮かんでいるのかは読み取れない。
困惑か。
警戒か。
それとも、ただの疲労か。
私は彼に笑いかけようとした。うまくできたかは分からない。
「セト」
彼がこちらを見る。
私は彼の前へ歩み寄った。
彼は血に汚れていた。衣服は破れ、傷も残っている。
だが、生きている。
そのことに、胸の奥が震えた。
「生きていてくれて、ありがとうございます」
伝わらないだろう。
それでも、言わずにはいられなかった。
彼は今日、この場所に呼ばれ、血を流し、人を殺した。
私たちのために。
王国のために。
私が、呼んだから。
その事実を、胸の奥に押し込める。
今は、立ち止まれない。
彼こそが希望。
王国の未来。
神が遣わされた、驚くべき異能者。
そう信じたい。
そう信じなければ、今日ここで流れた血に、意味を与えられない気がした。
私は息を吸い、王都の方角を見る。
「帰りましょう」
そして、もう一度セトを見る。
「私たちの王都へ」