神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~   作:筆負野ユウ

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第6話 希望(Wish)

「ルナ王女。お初にお目に掛かります。カイルスと申します。家名なき身ではございますが、どうか、お見知りおきを」

 

カイルスは、恭しく頭を下げた。

 

その所作だけを見れば、礼儀正しい貴人のようだった。だが、石床には兵の血が広がり、異形の残骸が黒い煙となって消えかけている。

 

礼を尽くすには、あまりにも場が汚れていた。

 

頭を上げたカイルスが、真っすぐこちらを見る。先ほどまでの牽制とは違う。今度は、明確に私へ用がある目だった。

 

「単刀直入に申し上げます。不躾ながら、私は、あなた達三人を殺すことができます」

 

本当に、ずいぶんと不躾な宣言だった。

 

ちらりとノアを見る。ノアは剣を構えたまま、カイルスを睨みつけている。否定しない。反論もしない。

 

直接剣を交えたノアがそうなのだから、虚言ではないのだろう。

 

「しかし、あなたが呼び出したサモンドは予想以上の力を持っているようだ」

 

「その呼び名はやめてください」

 

思わず言い返していた。

 

サモンド。

召喚されたもの。

呼び出された道具。

 

その響きは、あまりに冷たかった。

 

「私たちは“クロス”と呼んでいます」

 

「失礼。昔はそう呼ばれることが多かったもので」

 

カイルスは、何が面白いのか、くすくすと笑った。すぐに表情を戻すと続ける。

 

「とにかく、私にとっても不確定なものが多い。そこで提案なのですが……ここで一度、休戦といたしませんか?」

 

休戦。

 

あまりにも場違いな言葉だった。

 

つい先ほどまで、彼は私たちを殺そうとしていた。本人の言うように、今もその気になれば殺せるのだろう。

 

それなのに、休戦。

 

意味が分からない。

 

だが、支離滅裂なのではない。カイルスの中には、きっと理由がある。私たちには見えていない、何かの理屈がある。

 

それが、余計に不気味だった。

 

「……ずいぶん勝手な申し出ですね。あなたから一方的に仕掛けて来たのでしょう」

 

「ええ、そうですね。私のほうが優位ですから、勝手を申しますとも」

 

カイルスは悪びれもせずに言った。

 

「断るならご自由に。三人とも殺すなり、それが危険であると判断したなら逃げるなり、こちらも好きにさせていただきます」

 

冷ややかな声音だった。

 

交渉の形を取ってはいる。けれど、これは対等な提案ではない。

 

選ばされているのだ。

彼の都合で。

彼の余裕の中で。

 

「ルナ殿下、受けましょう」

 

ノアが小さく言った。剣は下げていない。視線もカイルスから外していない。

 

「奴はセトを警戒しています。しかし……」

 

ノアはちらりとセトを見やる。

 

セトは険しい顔でカイルスを見ていた。その衣服は破れ、血で汚れている。背中も腕も、まともな状態ではないはずだった。

 

それでも立っている。

立っていること自体が、不自然にさえ見えた。

 

ノアは一歩後退してこちらへ寄り、声をさらに落とす。

 

「……セトはそう長く戦えません。今は興奮状態にありますが、満身創痍です。そしてカイルスは、私が二人いても勝てる相手ではありません」

 

重い言葉だった。

 

ノアは自分を過小評価する人間ではない。そのノアが、そう言った。

 

私はセトを見た。

 

彼は私たちのやり取りにも意識を向けているようだった。言葉のすべては分からないはずなのに、こちらの表情や空気感を読もうとしている。

 

彼の命も、私の決断に懸かっている。

そう思った瞬間、胸の奥が重くなった。

 

私が呼んだのだ。

 

彼はこの世界を望んだわけではない。この戦いを望んだわけでもない。それでも、彼は血を流し、殺し、そして生きている。

 

「あなたが裏切らないという保証がありません」

 

私は言った。

 

違和感を拭えなかった。危険を冒さずに済むのなら、カイルスは言った通り逃げてしまえばいい。あるいは、今すぐ私たちを殺してもいい。

 

なのに、休戦。

 

なぜ。

 

「ええ、ありません」

 

カイルスはあっさり頷いた。

 

「ですが、背中を切りつけようにも、貴女たちは警戒を解きはしないから意味がないでしょう。周辺の森に兵を伏せているのであれば、今すぐ突入させれば早い。私が待ち伏せることを心配するなら、先にここを出てください。しばらく私はここを動かないと約束しましょう」

 

そこで、彼はまた薄く笑った。

 

「その約束も保証する術はありませんが」

 

「……」

 

「とにかく、休戦した後は油断せずに私から逃げればいいのですよ」

 

理屈は通っている。けれど、理由は見えない。

 

見逃してくれると言っているのだろうか。何かを試されているのだろうか。

 

やはり、分からない。

 

だが、私たちに選べるものは多くなかった。セトは傷ついている。ノアも疲弊している。私は、二人を連れて帰らなければならない。

 

こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

この邂逅も。

この休戦も。

あるいは、聖音の導きなのだろうか。

 

そう考えた自分を、私は少しだけ恥じた。

 

導きと呼ぶには、あまりに多くの血が流れていた。

 

「分かりました。休戦を受けましょう」

 

私は背筋を伸ばした。声が震えないように。

 

「あなたは私たちが離れるまでここに留まり、決して追わない。それでいいですね」

 

「約束しましょう」

 

カイルスは、また丁寧に頭を下げた。

 

その礼儀正しさが、やはり恐ろしかった。

 

決めたのであれば、早いほうがいい。

 

私はセトに手招きし、ノアと共に階段へ向かう。セトは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、こちらの意図は伝わったらしい。警戒を解かないまま、ゆっくりと歩いてくる。

 

カイルスは祭壇に腰掛けていた。くつろいでいるようにすら見えた。

 

背後に残していくには、あまりにも不気味な男だった。

 

 

地上に出るまでの間、何度も足が止まりそうになった。

 

倒れている兵がいた。

 

顔を知っている者もいた。

名前を知っている者もいた。

昨日、馬車の脇で笑っていた者もいた。

 

本当なら、一人ひとりの傍らに膝をつきたかった。開いたままの目を閉じ、乱れた襟を整え、血で汚れた手を握り、祈りたかった。

 

あなたの献身を、神はご覧になっています。

そう告げたかった。

 

けれど、今はできない。

カイルスはまだ地下にいる。セトは傷を負っている。ノアだって疲弊している。

 

死者のために足を止め、生者まで失うわけにはいかなかった。

私は名を知る者の顔を胸に刻み、その傍らを通り過ぎた。

 

地上に出ると、日が高くなっていた。木々の葉が光を受けて揺れている。空は青い。

地下の血と鉄の匂いが嘘のようだった。

 

しかし、外にも亡骸はあった。

 

地上を守っていた兵たち。

襲撃者たち。

こちらも、向こうも。

 

同じように倒れ、同じように動かなかった。

 

暗い階段の下には、まだカイルスがいる。

 

私は一度だけ天を仰ぎ、足を止めないまま、短い祈りを胸の内で唱えた。

 

今は、生きて帰らなければならない。

 

ノアを先頭に、森を進む。

 

セトは物珍しげにあたりを眺めながら、私たちの後ろをついてくる。血まみれで、傷だらけで、それでも目だけは忙しく動いている。

 

この世界を見ているのだ。

彼の世界ではない、この世界を。

 

特に険しい森というわけではない。王都より伸びる街道から、少し入っただけの場所だ。

 

王都に戻れるだろうか。

馬車は無事だろうか。

三人きりで歩くには、あまりに心許ない。

 

しばらく進んだところで、前方から見覚えのある兵士が現れた。馬車で待機していた三人のうちの一人だ。騒ぎの音が聞こえ、様子を見に出たのだろう。

 

彼は私を見るなり駆け寄ってきた。

 

「殿下!」

 

言葉は震えていた。負傷の有無を確かめるように視線が動き、私が歩いていることを確認して、ようやく安堵の表情を浮かべる。

 

儀礼ではない。

心からの心配だった。

だからこそ、私は応えなければならない。

 

守られるだけの王女ではいられない。彼らの命を受け取り、彼らの死を背負い、生きて戻らなければならない。

 

さらに進むと、馬車が見えてきた。

華美なものではない。兵員用の無骨な輸送馬車が二台。

それだけで、胸が少し軽くなる。

 

兵士三人。

御者二人。

 

味方の存在が、こんなにも心強いとは思わなかった。

 

私は馬車に乗り込む前に、足を止めた。遺跡の方へ振り返る。

もう、倒れた者たちの顔は見えない。血の匂いも薄れている。

 

それでも、そこに置いてきた者たちの重さだけは、背中に張りついていた。

 

ノアが何か言いかける。

急がねばならない。それは分かっている。

だが、これだけはしなければならないと思った。

 

私は胸の前で両手を組む。

 

「ミルコ。ヤニス。バルド。ニコ。ハイラム。ペトロ。アレク……」

 

名を呼ぶ。

呼べる名を、ひとつずつ。

 

すべての名を覚えているわけではない。

それが、悔しかった。

 

「あなたたちの忠節を、神はご覧になっています」

 

声が震えそうになる。けれど、震わせてはならないと思った。

 

私が泣き崩れれば、彼らの死は私の悲しみになってしまう。

 

そうではない。

 

彼らは王国の兵だった。私を守るために剣を取り、そして倒れた。

 

ならば、私は彼らを悼まなければならない。

 

王女として。

巫女として。

そして、彼らの名を知る者として。

 

「どうか、その魂に安息を。彼らの家族に慰めを。彼らの忠義に報いを」

 

風が森を揺らした。

 

返事はない。

 

当然だ。

死者は返事をしない。

 

それでも私は、呼べる名をすべて呼んだ。そして、私の知らない者たちのためにも祈った。

 

「名を呼べなかった者たちにも、同じ安息を」

 

一瞬、敵兵の顔が脳裏をよぎった。

 

私を殺そうとした者たち。

セトを狙った者たち。

私の兵を殺した者たち。

 

それでも、死者は死者だった。

彼らにも、家族があったのだろうか。名を呼ぶ者が、どこかにいるのだろうか。

 

私には、彼らの名が分からない。

だから、同じ祈りの中に置くことしかできなかった。

 

「名を知らぬ者たちにも、神の御許に至る道が開かれますように」

 

祈りを終えて、目を開ける。

 

ノアは何も言わなかった。兵士たちも、御者たちも、頭を垂れていた。

 

セトだけが、少し離れた場所でこちらを見ている。

 

言葉は通じていない。けれど、何をしているのかは分かっているようだった。

 

その顔に、何が浮かんでいるのかは読み取れない。

 

困惑か。

警戒か。

それとも、ただの疲労か。

 

私は彼に笑いかけようとした。うまくできたかは分からない。

 

「セト」

 

彼がこちらを見る。

 

私は彼の前へ歩み寄った。

 

彼は血に汚れていた。衣服は破れ、傷も残っている。

 

だが、生きている。

そのことに、胸の奥が震えた。

 

「生きていてくれて、ありがとうございます」

 

伝わらないだろう。

 

それでも、言わずにはいられなかった。

 

彼は今日、この場所に呼ばれ、血を流し、人を殺した。

 

私たちのために。

王国のために。

 

私が、呼んだから。

その事実を、胸の奥に押し込める。

 

今は、立ち止まれない。

 

彼こそが希望。

王国の未来。

神が遣わされた、驚くべき異能者。

 

そう信じたい。

そう信じなければ、今日ここで流れた血に、意味を与えられない気がした。

 

私は息を吸い、王都の方角を見る。

 

「帰りましょう」

 

そして、もう一度セトを見る。

 

「私たちの王都へ」

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