勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
王都の朝は、いつも騒がしい。
馬車の車輪が石畳を叩き、露店の主が声を張り、職人が店先で弟子を叱る。
だが、近頃の騒がしさは少し違っていた。
まず、馬が消えた。
正確には、消えたわけではない。
王家が買い上げたのだ。
馬喰の馬。
荷馬車の馬。
商家の馬。
金を出すと言われた。
王家の証文も出された。
だが、馬を連れていかれた者たちは、みな同じ顔をしていた。
金は食えない。
証文は畑を耕さない。
そして、証文を換金できる頃には、たぶん麦の値段は今の倍になっている。
「戦争だってよ」
肉屋の男が言った。
「政略だろ」
隣の粉屋が言った。
「同じことだろ」
「違う。政略は戦争じゃない」
「じゃあ、なんで俺の荷馬が持っていかれるんだ」
粉屋は答えなかった。
政略。
最近、王都ではその言葉がよく使われていた。
神託に基づく政略。
王太子殿下が主導する東方政策。
サボエとの関係正常化。
ミストラティ神聖国との外交的圧迫。
言葉だけなら、どれも立派だった。
だから、庶民は短くまとめた。
戦争だ。
その方が早い。
鍛冶屋の煙突は、昼も夜も黒い煙を吐いた。
剣。
槍。
矢じり。
蹄鉄。
鍋。
なぜ鍋まで、と弟子が問うと、親方は槌を振り下ろしながら言った。
「兵隊も飯は食う」
「戦争に鍋が要るんですか」
「人を殺すには飯が要る。飯を作るには鍋が要る。鍋も戦争の道具だ」
弟子はなるほどと思った。
なるほどと思ってから、自分は何を納得したのだろうと思った。
商人たちは忙しかった。
麦を買う者。
塩を買う者。
乾肉を買う者。
布を買う者。
革袋を買う者。
娼婦を手配する者。
祈祷用の香油を買う者。
軍隊というものは、祈りながら進み、食いながら進み、時には女を買いながら進む。
たいへん人間らしい。
その人間らしさというものには、大抵の場合は値段がついていた。
市場では、数日前まで銀貨一枚で買えた麦袋が、昨日は銀貨二枚になった。
今日には三枚になりそうだ。
昼には、売り惜しみが始まった。
「卑しいぞ!」
買いに来た下級騎士が怒鳴った。
穀物商は頭を下げた。
「申し訳ございません。入荷が滞っておりまして」
嘘ではない。
王家が買い、貴族が買い、傭兵隊の雇い主が買い、修道院が買い、金の匂いを嗅いだ者が買った。
その結果、入荷は滞った。
正確には、倉庫の中で滞った。
「王国の危機に商売か」
騎士は言った。
「はい」
穀物商は答えた。
一瞬、空気が止まった。
「……正直だな」
「嘘をつくと、神に叱られますので」
「値上げは叱られないのか」
「神も相場には詳しくないかと」
騎士は怒らなかった。
怒るより先に、銀貨を追加した。
王国の大事にも、腹は減る。
王都の教会では、聖職者たちが忙しく祈っていた。
戦勝祈願。
王太子殿下の武運長久。
王女殿下の慈悲と加護。
東方の民を正しき秩序へ導く祈り。
祈りの文句は日によって少しずつ変わったが、寄進箱の扱いだけは変わらなかった。
最近、その寄進箱の前で足を止める者が増えた。
戦争へ行く者。
戦争へ夫や息子を送る者。
戦争で儲ける予定の者。
戦争で儲けそこなう予定の者。
皆、神に祈った。
「神様は忙しいな。あちらの国でも今頃……ああ、担当者が違うのか」
通りすがりの黒髪の男が言った。
隣を歩く赤髪の女が肘で突いた。
王都では、近頃、神への冗談も少し言いにくい。
ケルテス伯の件があったからだ。
王都の隅々まで、噂は広がっていた。
伯爵家の館から、聖職者らの命を弄んで作られた魔道具が見つかった。
現場の人間は死んでいた。
人間を素材にした。
神への冒涜。
細部は人によって違った。
ある者は、伯爵が地下で百人の聖職者を煮ていたと言った。
ある者は、邪教の神官が人の魂を箱に詰めていたと言った。
ある者は、魔族が裏で操っていたと言った。
どれも少し違う。
かなり違う。
だが、噂にとって正確さは贅沢品だった。
必要なのは、分かりやすい悪人と、分かりやすい罰である。
その点、ケルテス伯は実によくできていた。
神への冒涜という言葉を載せるには、たいへん都合がよかった。
王太子殿下は、すぐに動いた。
伯爵の屋敷は封鎖され、関係者は尋問され、教会には丁寧な説明がなされた。
丁寧すぎて、皆が理解した。
これは、伯爵が終わる話なのだ。
そして、その伯爵を終わらせる者が、王太子殿下なのだ。
宮廷では、貴族たちが忙しくなった。
ある者は兵を出す準備をした。
ある者は、出すべき兵の数を少なくする準備をした。
ある者は出していない兵を出したことにする準備をした。
皆、王国のために働いていた。
少なくとも、そういう上っ面をしていた。
王太子の役所では、書記たちが倒れそうになっていた。
動員名簿。
兵糧割当。
荷駄契約。
傭兵契約。
教会への協力依頼。
諸侯への督促状。
ケルテス伯関連の告発文書。
文書は増える。
羊皮紙は減る。
インクも減る。
書記の寿命も減る。
「戦場に行く方が楽では」
若い書記が言った。
年配の書記は、赤くなった目で答えた。
「戦場には矢が飛んでくる」
「ここには書状が飛んできます」
「矢は一度当たれば終わりだぞ」
「書状は返事を書くと増えます」
二人は黙った。
誰も笑わなかった。
笑う体力がなかった。
王都の外では、荷車が列を作っていた。
積まれているのは、麦、豆、塩、酒、革袋、矢束、予備の弦、鍋、布、薬草、安物の靴。
それから、祈り。
祈りは荷車に積めないが、どの荷車にも少しずつ載っていた。
無事に帰れますように。
儲かりますように。
負けませんように。
うちの息子だけは死にませんように。
どれも切実だった。
いかに切実な願いも、全て同時には叶わない。
王都の城壁の上から見れば、東へ向かう道は人と馬と荷で黒く見えた。
総勢、二万。
いま東へ向かっているのは、その先遣部隊の一部にすぎない。
王国始まって以来、とまでは言わない。
しかし、近年最大の動員であることは間違いない。
その大きさに、人々は沸いた。
王国は強い。
王太子殿下は頼もしい。
王女殿下も従軍なさる。
神託は正しい。
東方は従うだろう。
そんな言葉が王都に満ちた。
肉屋の男は、空になった馬小屋を見て言った。
「勝つんだろうな」
粉屋は、値上がりした麦袋を見て言った。
「勝ってくれれば、また儲け話もあるだろうよ」
「負けたら?」
「それで儲ける奴もいるだろうよ」
二人は黙った。
とても正しい結論だった。
東へ向かう軍勢の列が、朝日に照らされて進んでいく。
旗が揺れる。
槍が光る。
馬が嘶く。
人々が歓声を上げる。
子どもたちが手を振る。
女たちが泣く。
商人たちが帳簿を確認する。
聖職者たちが祈る。
貴族たちが胸を張る。
王国は、巨大な何かになったようだった。
誰もが、その大きさに酔っていた。
ただ、その巨大な何かが、一日にどれほど食うのか。
どれほど奪うのか。
どれほど犯すのか。
どれほど遅く、どれほど脆いのか。
そのことを、王都に残る者たちはまだ知らなかった。
もちろん、出征する者たちの多くも知らなかった。
知るのは、もう少し後のことになる。