神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~   作:筆負野ユウ

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第7話 こっち仕様

馬車の車輪が土を踏みしめる音が、規則正しく耳に届いていた。

 

森の匂いは濃い。湿った葉の匂いに、時々、獣の気配のようなものが混じる。

 

ようやく戦いは終わったのだと、頭では理解している。だが、身体はまだ緊張を解けずにいた。

 

左腕は完全には動かない。

魔法による治療らしきものをルナから施され、傷そのものは、もう塞がっている。だが、傷ついた筋肉や神経は別物らしい。

 

「治癒」だの「魔法」だのという言葉に、勝手に万能を期待していた分、その不自由さは妙に現実的だった。

 

異世界にも、後遺症はあるらしい。

そこは空気を読んでファンタジーしてほしかった。

 

がたがた揺れる馬車。固いシート。

まともに休めたものではない。

新幹線が恋しい。

 

よく冷えたビール――いや、水が欲しい。

自販機はどこだ。

 

人は文明に守られて初めて、大自然の素晴らしさを感じるのだ。

防虫スプレーをよこせ。

 

馬車は、泉のほとりで停まった。

 

御者が馬に水を飲ませる。兵士たちも全員ではないが、鎧の一部を外して、思い思いに休んでいた。

 

こちらに来てから、革袋に入ったエールしか口にしていない。

 

水だと思い込んで勧められるまま飲んだら、温いエールだった。最初の一口目は思わず吐き出してしまった。二口目も、やはり温くて気持ち悪かった。

 

俺も泉へ歩み寄る。喉の渇きは耐え難い。

 

生水。

腹を壊すよな。

 

誘惑をこらえ、革臭いエールで我慢することにした。

 

とりあえず、手くらいは洗おう。

 

まだ少しこびり付いていた血が乾いて、指の間に赤黒い痂が張りついている。泉に浸して軽く揉み込むと、痂が剥がれ、ゆらゆらと流れていった。

 

掌を広げる。

 

穴だらけだったはずなのに、皮膚は薄く張り直されていた。ほとんど治っている。

 

そんな気はしていた。

 

「……どうなっちまったんだ、俺の体」

 

皮膚の下にある筋肉の動きが、前よりも機械的に正確に分かる。

 

見慣れたはずの自分の掌。

最も見慣れたはずの身体部位。

 

だからこそ、小さな違和感がはっきり浮かび上がる。

 

骨ばり方。

指の節の形。

皮膚の張り。

爪の角度。

 

確かに“俺”なのに、“俺じゃない”。

 

顔を洗おうと、泉へ身を乗り出した。

 

水面が揺れる。そこに、顔が映る。

 

――俺じゃない。

 

輪郭も、目鼻立ちも、確かに面影はある。だが、はっきりと違う。

 

水面が揺らぐたび、違和感がノイズのように増幅していく。

 

解析するように、じっと見てしまう。

情報は正しい。

目の前にあるものは、俺の顔だ。

だが、受け入れたくない。

 

似ている誰かの顔が、そこに映っていた。

 

あの時の痛みを思い出す。全身をいったん細かく分解され、別の型紙に合わせて縫い直されているような痛み。

 

比喩では済まなかったのかもしれない。

 

たぶん、俺は魔法のある世界に転移してきたのだろう。こっちの人間は、微妙に俺の世界の人間と違う顔立ちをしている。そして俺も、もう“こっち仕様”になっている。

 

そうだ。

 

体は――。

 

ためらいながら、血と穴だらけのシャツを脱ぎ捨てる。

 

鍛えられた肉体美なんてものはない。

 

肩の厚み。

胸板の張り。

腰の細さ。

腕の筋の通り方。

 

わずかな違いだ。だが、そのわずかさが気持ち悪い。

 

完全な別人なら、まだ諦めがついたかもしれない。

中途半端に俺だから、嫌だった。

 

触れれば自分の肌だ。痛みも、冷たさも、ちゃんと自分のものとして返ってくる。なのに、触覚と視覚の情報が一致しない。

 

俺は、俺のまま肉体が変化したのか。

それとも、俺の記憶をコピー&ペーストされた別人なのか。

 

――どちらでも同じことか。

 

それなりに深刻な問い。考えても答えは出ない。ならば、棚上げする。いつもやっていることだ。

 

もちろん、それで不安や嫌悪が消えてなくなりはしない。

 

今ここに、俺がいることには変わりがない。

そう処理した。

処理しただけだ。

納得したわけではない。

 

「……本当に、どうなっちまったんだ俺の体」

 

泉のさざめきが、耳にまとわりつく。まるで嘲っているようだった。

 

いや。

 

それだけではない。

 

――ばさり。

 

森の茂みで、重く湿った葉擦れの音がした。鳥や小動物の音ではない。

 

伏兵か。

カイルスの薄い笑みが、脳裏をよぎる。

 

ノアが即座に剣を抜いた。彼は、ルナを背後へ庇う。兵士たちも武器を取る。

 

泉の縁に片膝をついていた俺も、反射的に立ち上がった。

 

茂みから姿を現したのは、獣だった。だが、ただの獣ではない。

 

ネコ科の猛獣に似ている。

だが、骨格が歪んでいる。

肩が異様に隆起している。

前足が異様に大きい。

爪が、洒落にならないほど長い。

 

異様。

 

ノアが、低く吐き捨てるように、何か言った。

 

俺も構える。

 

体勢を低く。

右腕だけを怪物に向ける。

 

距離は十メートルほど。

よく狙って――。

 

その瞬間、獣は唸り声を上げるでもなく、全身をバネのように使って跳んだ。

 

一直線に、俺へ。

 

速い。

そして、確実にここまで届く。

 

反射で右手に杭を構築する。

射出。

狙いは、開かれた口。

巨大な牙が光るその奥。

 

獣が空中で身をよじった。

 

杭は、毛皮を掠める。だが、衝撃で跳躍の軌道を逸らすことには成功した。

 

射出と同時に、俺も回避行動に入っている。それでも、長大な前足の制空権からは離脱しきれなかった。

 

爪が頬を掠める。

 

薄く裂ける感触。

遅れて、熱。

 

獣は俺の横を通り過ぎ、数メートル後方に着地した。

 

「セト!」

 

背後からルナの声が飛ぶ。その後にも何か言っているが、まだ理解できない。ただ、心配していることだけは分かった。

 

獣はすぐに切り返す――と思った。

だが、違った。

 

着地の勢いをそのままに、鎧を脱いでいた兵士へ向かう。狙いを変えた。

 

相手の身体スペックを、大きく見誤っていた。しかし、もう、おおよそ見切った。

 

跳躍距離。

旋回の遅れ。

爪の有効範囲。

 

掠めた杭と、わずかに滲んだ血。

毛皮の硬さ。

防御面も、だいたい見当がつく。

 

何より、今度は俺が狙われているわけではない。

落ち着ける。

 

俺は右手の人差し指を獣へ向けた。指さし確認のように。マシンガンや拳銃のイメージのせいか、この方が照準をつけやすい。

 

弾丸を生成。

連射。

狙いは後ろ足。

 

これなら、外しても味方撃ちの心配は少ない。地面をえぐるだけだ。

 

数発の弾丸が、獣の後ろ足に食い込む。獣は前のめりに崩れ、土を削りながら転がった。なおも暴れようとする。

 

俺は駆け寄りながら、長い杭を構築した。勢いのままに突き立てる。

 

杭が胴体を貫く。

崩壊し、塵と化す。

吹き出す鮮血。

 

半裸の俺に降り注ぐ。顔にだけはかからないように、背ける。

 

すぐに洗い流せる泉があってよかった。

本当に、よかった。

 

胴体を貫かれた獣は痙攣し、やがて動かなくなった。

 

「セト、無事ですか!」

 

おそらくそんな意味のことを言いながら、ルナが駆け寄ってくる。

 

彼女は倒れた獣ではなく、まず俺の頬を見た。

爪が掠めた傷。

そこから流れる、細い血。

 

ルナの表情が、痛みを見た人間のものに変わる。自分が傷ついたわけでもないのに、そんな顔をする。本当に、そういう女なのだろう。

 

彼女が手を伸ばす。

治療するつもりなのだと分かった。

 

ありがたい。

ありがたいはずだった。

 

けれど、反射的に半歩下がりかけた。

 

素直に受け入れれば、楽になる。たぶん、傷も塞がる。この身体はまた、彼女の何かで満たされる。

 

そう思った瞬間、腹の底が冷えた。

 

ルナは、俺の反応に気づいたのかどうか分からない。だが、それ以上は踏み込んでこなかった。

 

伸ばしかけた手を、胸元で小さく握りしめる。何かを言いたそうに唇を動かし、それでも言葉が通じないことを思い出したようだ。

 

代わりに、心配そうな目で俺を見上げる。

 

一瞬だけ、胸と下半身が熱くなる。

 

こんな状況で、まだそういう反応をする自分にも呆れる。だが、否定する気もない。

俺は、そういう生き物だ。

 

それよりも、俺は自分の掌を見た。

 

血に濡れている。

獣の血と、俺の血と、誰かの血。

 

泉の光を受けて、赤黒く輝くそれは、やはり“俺の知る俺の手”ではなかった。

 

異物感の象徴のように感じられる、自分の手。

俺は、本当にもう元の俺じゃないんだな。

 

森は、静けさを取り戻していた。泉に映るのは、相変わらず面影だけが残された他人の顔。

 

俺はこの顔で、一体誰の人生を生きればいいんだ。

 

「……履歴書、もう一回作り直しだな」

 

声に出すと、少しだけ呼吸が楽になった。

 

「人体破壊は印象悪いから『特技:猛獣退治』って書くか」

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