勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
矢が放たれた。
最初の一本は、空へ逃げるように高く上がった。
まっすぐではない。山なりだ。
だが、遅くはなかった。
風を裂き、弧を描き、丘の上へ落ちてくる。
「盾」
私が言うより早く、前列の盾持ちが動いた。
木と革と鉄で補強された大盾が持ち上がる。
直後、矢が突き刺さった。
乾いた音ではなかった。
鈍く、重い音。
魔力が込められている。
ただの矢ではない。
盾を構えた兵の腕が沈む。膝が揺れる。
それでも倒れない。
「まだ射つな」
私は言った。
焦って返せば、外す。
距離は遠い。敵は動いている。
しかも、こちらの射程を測るように、丘の裾をかすめている。
アマゾネスの一騎は、矢を放つとすぐに馬首を返した。
こちらへ突っ込んでくる気はない。
挑発。
測定。
挨拶。
そんな言葉が頭をよぎる。
次の矢が来た。
今度は一本ではない。
数十の矢が、空へ上がった。青空の中に黒い点が散る。
一瞬遅れて、それがこちらへ落ちてくる。
「盾、上げろ」
命令が伝わる。
盾が並ぶ。
弓兵が伏せる。
魔法兵が身を低くする。
矢が降った。
盾を叩く音。
地面に突き立つ音。
鎧を掠める音。
誰かの短い悲鳴。
一人が倒れた。
首筋に矢を受けている。
もう一人は腕を押さえて膝をついた。
損害は軽い。
軽い。
そう言える程度だった。
だが、血は出る。人は倒れる。
軽い損害でも、矢は矢だ。
「治療班、下げろ。列を乱すな」
声を張る。
丘の上の兵たちは、まだ崩れていない。
当然だ。この程度で崩れてもらっては困る。
だが、初撃を受けた兵の顔は硬かった。
敵が遠い。遠いのに、矢が届く。騎射でこの射程。
それだけで、人の心は少しずつ削れる。
「こちらの射程は」
「なんとか届くかと」
弓兵長が答えた。
「魔法兵は」
「撃てます。ですが、当てるのは難しいかと」
その通りだ。
こちらの弓が届かないわけではない。
魔法も、同様に遠くへ飛ばすことができる。
だが、届くことと当たることは違う。
敵は止まらない。近づきすぎない。
射って、逸れ、丘の影へ消え、別の場所からまた現れる。
まるで、こちらの周囲を削る水のようだ。
「まだ撃つな。近づいたものだけを狙え」
「は」
焦れた兵が無駄矢を撃つ。
それが敵の望みだ。
こちらは丘を取っている。
盾もある。弓も魔法もある。
そして、重装騎兵はまだ動かしていない。
悪くない。
悪くないはずだ。
◇◇◇◇
ミストラティ騎兵は、丘の正面に留まらなかった。
散る。
集まる。
また散る。
小さな群れが、波のように寄せてくる。
丘の裾まで近づき、矢を放ち、すぐに下がる。
こちらが射返そうとすれば、もうそこにはいない。
「右」
幕僚が叫ぶ。
右側の斜面へ、三十騎ほどが寄った。
王国軍の弓兵が反応する。
矢が放たれる。
しかし、当たらない。
アマゾネスたちは馬を傾けるように走らせ、矢を避け、こちらを嘲るように弧を描く。
数騎が馬上で身をひねり、走りながら矢を返した。
盾持ちの一人が倒れた。
矢が腿に深く刺さっている。
「追うな」
私は言った。
前列の兵がわずかに前へ出かけていた。
声で止める。
「丘を降りるな。命令があるまで動くな」
兵は黙って盾を構え直す。
悔しいだろう。分かる。
攻撃を受けている。
敵は見えている。
こちらにも武器がある。
なのに、動くなと言われる。
兵にとっては苦痛だ。
だが、丘を降りれば、敵の場所だ。彼女たちの距離だ。
こちらの隊列は伸び、盾は薄くなり、弓と魔法の支援も乱れる。
「奴らは、我らを下ろしたい」
私は言った。
「だから、下りるな」
命令は単純な方がよい。
兵は戦場で複雑な理屈を処理できない。
いや、処理すべきではない。
盾を上げろ。
列を崩すな。
下りるな。
それでよい。
「魔法兵、前へ」
私は言った。
「連中の射程まで近づいた騎兵だけを狙え。広く撃つな。追うな。見えている敵に釣られるな」
少なくとも牽制にはなるだろう。
魔法兵たちが杖を構える。
火球が一つ、丘の下へ飛んだ。
遅い。そして、敵は速い。
火球はアマゾネスの背後で弾け、草を焼いただけだった。
魔法兵の隊列が石の矢を放つ。
斉射。それが一騎の馬の前脚を掠めた。
馬が崩れる。アマゾネスが落ちた。
すぐに別の騎兵が寄り、彼女を引きずるように乗せて離れる。
王国兵から歓声が上がった。
一騎だ。
一騎落としただけだ。
だが、兵には効く。
敵にも血が流れる。
それを見せる意味はある。
「今の距離を覚えろ」
私は魔法兵へ言った。
「届くのは、そこからだ」
「は!」
王国軍も無力ではない。
敵の矢は届く。
こちらの矢も、魔法も、届く。
ただ、敵はそのぎりぎりの縁を走っている。
厄介だった。
◇◇◇◇
昼を過ぎても、戦は決まらなかった。
いや、戦が始まっていると言ってよいのかも怪しい。
会戦。
野戦。
衝突。
そうした言葉から想像するものとは違った。
槍と槍がぶつかるわけではない。
騎士が突撃するわけでもない。
歩兵が押し合うわけでもない。
敵は近づき、射ち、去る。
こちらは盾で受け、隙を見て返す。
その繰り返し。
被害は軽い。軽いが、増えている。
矢を受けた者。
火球を撃ちすぎ、呼吸を荒げる魔法兵。
盾を構え続けて腕を痛めた兵。
馬上で待たされ、苛立ちを募らせる騎士。
戦場は、何もしていない者からも体力を奪う。
丘の上に立っているだけで、喉が渇く。
鎧の中に汗が溜まる。
馬は鼻を鳴らし、脚を踏み替える。
人は水を飲む。
水を飲めば、運ばねばならない。
矢を射れば、矢が減る。
魔法を使えば、魔力が減る。
盾を上げ続ければ、腕が悲鳴を上げる。
そして、飯も減る。
「兵糧は」
私は尋ねた。
「丘へ運び込んだ分は、二日分です」
分かっている。
だが、聞いた。
聞けば増えるわけではない。
それでも、確認せねばならない。
「後方からの追加は」
「契約商人の市には随時運び込まれているでしょう。ですが、戦場まで運び込むには時間が」
時間。
今、最も価値のあるもの。
そして、最も足りないもの。
「商人は」
「後方に留まっています」
当然だ。
商人は金の匂いに敏い。
だが、矢の雨の下へ麦袋を担いでは来ない。
戦場で死んだ商人は、利益を数えられない。
「このままでは、野戦ではなく籠城だな」
私が言うと、幕僚たちは黙った。
誰も笑わなかった。
野戦で籠城。
冗談としては悪くない。
現実としては最悪に近い。
こちらは丘を取っている。敵を受けている。
戦術的には悪くない。
だが、二日しか食えない丘に籠もることを、勝利とは呼ばない。
「敵は、それを狙っているのか」
コスタ卿が言った。
私は東を見た。
ミストラティ騎兵は、変わらず戦っている。
だが、無理をしていない。
被害を嫌っている。
こちらを挑発している。
距離を保っている。
勝とうとしているというより、負けないように戦っている。
「今日で決める気はないな」
私は言った。
言葉にしてから、嫌な確信が胸に沈んだ。
敵は、今日勝つつもりではない。
こちらを丘に縛りつけるつもりだ。
だが、何のために。
援軍。
補給。
別の動き。
考えるべきことはいくつもある。
しかし、この場で答えは出ない。
「敵後方に動きがあります」
物見が言った。
「騎兵ではありません。荷を積んだ馬が複数。さらに後方の丘上に、簡素な幕舎を張り始めています」
私は目を細めた。
遠すぎる。
肉眼では細部までは見えない。
だが、確かに東の丘の向こう、敵の後方に動きがある。
小さな点が集まり、何かを下ろしている。
馬車ではない。
馬に荷を載せているのだろう。
騎兵の速度に、馬車はついていけない。
ならば、荷も馬に載せる。
「輜重か」
「そのように見えます」
輜重。
敵は、食料を持ってきている。
五千の騎兵が、ただ突っ込んできたのではない。
戦うために来た。
留まるために来た。
今日決める気はない。
その判断が、ほぼ確信に変わった。
「あの幕舎は」
「数は多くなく、全軍を収容するものではありません」
ならば、貴人用か。
指揮官用か。
神官か。
あるいは負傷者用か。
どれでもよい。
重要なのは、敵がここに腰を据える準備をしているということだ。
「面倒な」
私は呟いた。
本当に、面倒だった。
こちらは二日分。
敵は後方から荷を運んでいる。
丘の上にいるのは我々だ。
だが、時間を味方にしているのは、敵かもしれない。
◇◇
右翼が下がっている。
最初にそう報告を受けた時、私は地形の問題だと考えた。
丘陵は平らではない。当然だ。
斜面があり、窪みがあり、見えにくい場所もある。
右翼を任せたトラキス公の軍は、こちらの主力よりやや低い位置に布陣していた。
正面から見れば、少し後ろへ下がっているようにも見える。
だが、時間が経つにつれ、その下がり方は明らかになってきた。
「トラキス公の右翼、射撃戦にほとんど参加しておりません」
幕僚が言った。
「敵が届かぬ位置にいるということか」
「はい。もちろん、こちらからも届きません」
つまり、遊兵ということだ。
トラキス公は無能ではない。
地形も理解している。
ミストラティとの戦闘経験もある。
だからこそ厄介だった。
無能の怯懦ならば、怒鳴ればよい。
臆病者ならば、脅せばよい。
だが、トラキス公は理由を用意する。
右翼の地形が悪い。
突出すれば側面を衝かれる。
敵騎兵が迂回する可能性がある。
公の兵は東方諸侯が多く、地元への配慮も必要だ。
いくらでも言える。
そして、それらは全て、完全な嘘ではない。
「伝令を出せ」
私は言った。
「右翼を前へ出せ。敵騎兵への射撃に参加せよ。戦列を合わせろ」
「は」
伝令が走った。
しばらくして、戻ってくる。
「トラキス公より返答。右翼前面は起伏が激しく、敵騎兵の誘引を受ける恐れがあるため、現位置を保つとのことです」
想定通りの返答だった。
あまりにも想定通りで、怒りより先に疲労が来た。
「再度伝えろ」
私は言った。
「現位置では遊兵となっている。戦線に加われ。これは王太子としての命令だ」
「は」
伝令が再び走る。
コスタ卿がこちらを見た。
「従いますかな」
「従わせる」
私は答えた。
従うかどうかではない。
従わせるしかない。
王国軍は一枚岩ではない。
王家。
王党派。
東方諸侯。
傭兵。
小領主。
大貴族。
それぞれの旗があり、それぞれの利益がある。
平時なら、それを調整するのが政治だ。
だが、戦場では違う。
一瞬の遅れが、血になる。
トラキス公は、それを分かっている。
分かっていて、動かない。
「敵がまた来ます」
正面から声が上がった。
アマゾネス騎兵が、今度は少し厚い群れで近づいてくる。
正面。
左。
右。
三方から矢を浴びせるつもりだ。
「盾を厚くしろ。魔法兵、近いものを狙え。重騎兵は動くな」
命令を重ねる。
矢がまた空へ上がる。
黒い点が、青空に散る。
それが、死の形に変わって落ちてくる。
盾が鳴る。
兵が呻く。
馬が嘶く。
私は、右翼を見た。
トラキス公の旗は、まだ少し後ろにあった。
その位置は、不自然ではない。
不自然ではないからこそ、腹立たしかった。
◇◇◇
夕刻が近づくころ、ミストラティ騎兵の動きにわずかな鈍りが見え始めた。
最初は、気のせいかと思った。
だが、違う。
馬の返しが遅い。
丘を登る勢いが鈍い。
弓を引く間合いが、ほんの少しだけ乱れている。
当然だ。
彼女たちは、ここまで行軍してきた。
そのまま戦っているに近い。
軽騎兵の戦いは、楽ではない。
近づき、射ち、退く。
丘を登り、下り、また回り込む。
こちらは受けている。
盾持ちや弓兵、魔法兵の疲労はある。
だが、交代させることができる。
敵は、走り続けている。
消耗は、向こうの方が大きい。
「見えるか」
私は幕僚に言った。
「はい。敵の動きが鈍っております」
「今はまだ早い」
そう言いながら、私は重装騎兵の方を見た。
騎士たちは待っている。
不満を溜めている。
怒りを溜めている。
それでいい。
今はまだ、怒りを槍先にする時ではない。
「弓兵、二班を下げろ。三班を前へ。魔法兵も交代」
「は!」
「盾持ちは半数交代。腕が死ぬ前に下げろ」
こちらは回す。
敵は走る。
そうすれば、いずれ差が出る。
戦術としては悪くない。
いや、良い。
問題は、時間だ。
敵を疲れさせる時間。
こちらの兵糧が減る時間。
ハンブディフに敵が迫る時間。
略奪に出た部隊が戻らない時間。
トラキス公が後ろで測っている時間。
戦場には、いくつもの時間が流れている。
私はその全てを、同じ手で掴まねばならない。
できるか。
できる。
できなければ、王の器ではない。
「殿下」
連絡員の一人が、丘の上へ駆けてきた。
息が荒い。
顔色が悪い。
私は、嫌なものを感じた。
「東方より、さらに別の一団が接近しております」
幕僚たちが一斉にそちらを向いた。
「敵の輜重か」
私は問うた。
物見は、首を振った。
「違います。規模が大きすぎます」
「ミストラティの増援か」
「旗は確認できませんでした。ですが……」
物見は一度言葉を切った。
その間が、ひどく長く感じた。
「ケンタウルスの軍勢と思われます」
誰かが息を呑んだ。
ケンタウルス。
パールス部族連合。
東でミストラティと争っているはずの魔族。
マリリポを脅かしているはずの軍勢。
それが、こちらへ向かっている。
「数は」
「およそ五千」
五千。
また、五千。
私は、しばらく言葉を失った。
「到着は」
「現在の進路と速度であれば、明日にはこの戦場へ届く可能性がございます」
明日。
時間が、また縮んだ。
「ミストラティを追っている可能性は」
幕僚の一人が言った。
その声は弱かった。
本人も、信じてはいないのだろう。
私は丘の下を見た。
ミストラティ騎兵は、変わらずこちらを射っている。
後方では荷馬が動き、簡素な幕舎が張られている。
彼女たちは乱れていない。
逃げていない。
追われている軍の振る舞いではなかった。
「追撃なら、あの動きにはならん」
私は言った。
誰も反論しなかった。
ミストラティ騎兵の矢が、また空へ上がる。
盾が鳴る。
兵が呻く。
その音を聞きながら、私は東を見た。
そこにはまだ、パールスの姿は見えない。
見えないが、来ている。
明日には、来る。
その報告だけが、丘の上に重く残っていた。