勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
幕舎の中では、レオトバイが地図の前に立っていた。
額には包帯が巻かれている。
左肩にも厚く布が巻かれ、血が滲んでいた。
こちらへ顔を向ける。
「ルナ」
「兄上」
ルナが膝をついた。
レオトバイは妹の姿を確かめるように見た。
「怪我は」
「ありません。ノアたちも無事です」
「そうか」
それだけだった。
感動の再会をする余裕はないらしい。
地図を挟んだ反対側には、トラキス公がいる。
王宮で見た時と同じ黒い外套。
泥と埃で汚れてはいるが、背筋はまっすぐだった。
マリウスはトラキス公の後ろではなく、地図の右手に立った。
位置だけ見れば、王太子と公爵の話を記録する書記官に近い。
だが、書板を持っているわけでもない。
当たり前のように、話へ加わる位置だった。
「総数は、帳面上では一万六千余」
レオトバイが言った。
「サボエへの抑え、徴発に出ていた諸隊、ルナの別動隊を合わせた数だ。負傷者と、武器を失った者も含む」
まともに戦える者が一万六千いる、という意味ではないらしい。
「敵は東にミストラティとパールスの主軍。北からはハンブディフ方面の軍が下る。サボエ守備隊も健在だ」
つまり、このままここに布陣を続ければ挟撃を受ける。
「今夜から、全軍を西へ退かせる」
俺たちが到着する前から、話はほとんど終わっていたのだろう。
相談ではない。
決まったことを伝えるだけだった。
レオトバイが続ける。
「重要な食料と武具を積んだ荷駄は、すでに一部を先行させた。残った兵には、携行できるだけの食料を配る」
「何日分ですか」
ノアが尋ねた。
「一日。騙し騙し使って三日」
通常行軍なら、ここからトラキス領の比較的大きな街まで三日だ。
しかし、通常行軍が出来るわけでも、街に着けば即時食料が手に入るわけでもない。
おそらく、追撃も止まない。
「煮炊きは?」
「原則として認めない。火を使えば時間を失う。日暮れに炒り麦か干し肉を口へ入れる程度だ。水は街道沿いの水場で取る」
道中で見た、糞を投げ込まれた井戸を思い出す。
王国軍の進路にある水場が、全部まともに残っているとは思えなかった。
それ以前に、ケンタウルスは水場へ先回りできる。
間道や原野を通っても、小部隊なら充分に先行できるだろう。
まともな食事を取る撤退ではない。
歩ける間は歩き、倒れるまで進む。
そういう予定らしい。
「先行させなかった荷駄は?」
ルナが尋ねた。
レオトバイは地図から目を上げた。
「本隊の後ろへ置く」
「負傷者も乗せるのでしょう」
「乗せられる者はな」
トラキス公が、地図上の街道を指でなぞって言う。
「荷駄が追撃軍に追いつかれた場合は、道へ残します。馬を外し、車輪を壊し、可能であれば横倒しにさせます」
言葉遣いは穏やかだった。
内容まで穏やかになるわけではない。
「街道が狭まる地点なら、敵の足を止められましょう。荷と馬へ群がる者が出れば、なおよろしい」
荷車には負傷者も乗っている。そこには誰も触れなかった。
触れる必要がないほど、全員分かっているらしい。
「つまり、囮にするのですか」
ルナが言った。
「囮というだけではありません」
マリウスが答えた。
「運べる間は負傷者を運びます。追いつかれなければ、そのまま王国まで帰れるでしょう」
「追いつかれれば」
「荷駄ごと切り離します」
声は静かだった。
「道を塞ぎ、敵の進路を乱す。残った兵が距離を稼げます」
「負傷者を乗せたまま?」
「降ろす時間はありません。運ぶ余裕も」
ルナの顔が強張った。
「そのようなことは認められません」
「決まったことだ」
レオトバイが言った。
「兄上」
「決まったことだ、ルナ」
先ほどより、少し強い声だった。
「歩けないというだけで、まだ助かる者もいます」
「知っている」
「では……」
「ならば、全員が助かる夢のような対案を出せ」
ルナが口を閉じた。
「荷駄を増やすのか。道を整備してくれるのか。追撃軍を消してくれるのか」
レオトバイは地図へ手を置いた。
巻かれた布の下から、また血が滲んでいる。
「何もないなら、決まった命令へ従え」
「だからといって、負傷者を囮にすることなど」
「お前は別動隊の指揮官として、与えた裁量を勝手に広げた」
幕舎が静かになった。
「命令にない避難民の保護を続け、食料を費やし、独断で商人に手形を切った。すでに報告は受けている」
ルナの唇がわずかに開く。
「それは、民を……」
「理由を聞いているのではない」
レオトバイは遮った。
「帰還を優先し、いまは不問にしているだけだ。ここでなお私の命令に逆らうなら、別動隊指揮官としての命令違反と越権行為を裁かねばならない」
ルナをまっすぐに見る。
「それを、いま私にさせたいのか」
ルナは何も答えなかった。
視線を下げる。
「……いいえ」
小さな声だった。
レオトバイは、それ以上責めなかった。
「続ける」
地図の上へ木札を戻す。
「殿軍は、残存する諸隊から編成する」
ノアが地図を見ながら言う。
「どの軍勢を?」
「指揮官を失った諸隊、損耗した傭兵団、再編の難しい残兵を集めます」
マリウスが答えた。
「一つの旗へ集中させません。部隊を細かく分け、複数の指揮官を置きます」
「寄せ集めで、追撃を止められるのか」
「止める必要はありません」
マリウスは言った。
「崩れながら、時間を稼げばよいのです」
殿軍というと、精鋭が踏みとどまり、味方を逃がすものだと思っていた。
今回の殿は違う。
最初から潰れることを前提にしている。
「なぜ有力な諸侯の軍勢を置かないのですか」
ルナが尋ねた。
マリウスの手が、レオトバイの肩口へ一瞬だけ向いた。
「パールスは指揮官を狙います」
レオトバイの傷を見る。
「旗。上等な鎧。護衛の厚さ。指揮官を示すものを見つければ、弓を集中させる。王太子殿下も、それで傷を負われました」
王太子まで狙い撃ちされた。
指揮位置を見抜かれ、接近を許し、護衛越しに矢を通されたということか。
「奴らは、我々のように貴族を捕虜にして、身代金を取ろうなどとは考えない。後方へ置けば、被害が増えるだけです」
トラキス公が後を続ける。
「指揮官を失えば、その旗下すべてが崩れます。ならば最初から、大きな旗を持たぬ雑多な部隊を分散して置く方がよい」
貴族を守るため。
部隊を長く保たせるため。
そして、潰れても軍全体への影響が小さい兵を後ろへ置くため。
どれが一番の理由かは分からない。
たぶん全部だろう。
「公爵旗下の軍勢は」
ノアが問う。
トラキス公は、待っていたように地図の西側へ手を置いた。
国境の向こう。
トラキス領。
「先行させ、まとまったまま国境まで戻します」
やはり。
ノアの目が細くなった。
「他の軍を殿へ置き、公爵旗下だけは温存すると?」
「そう聞こえましょうな」
トラキス公は穏やかに答えた。
「しかし、追撃が国境で終わるとお考えですか」
誰も答えない。
「敵はそのまま我が領へ入ります。街道、水場、渡河点、城塞。土地を知る兵が、そこで迎え撃たねばならない」
トラキス公は地図を指で叩いた。
「ここで我が旗下まで使い潰せば、国境を越えた先で敵を止める軍がございません」
ずいぶんと本人に都合がいい。
ただ、事実でもある。
国境の先はトラキス領だ。
地形を知り、兵糧を集め、現地の城塞と兵を動かせるのは、トラキス公しかいない。
「私の軍は、予備戦力として中軍へ置きます」
マリウスが言った。
「破滅的な打撃を回避するために動く軍であるとご理解ください」
ノアがマリウスを見る。
「殿の救援には動かないということか」
「状況によります。私が必要と判断した場合に動きます」
「ずいぶんと都合が良いな」
「そう聞こえることは否定しません。しかし、この公爵閣下の案は妥当かと」
平然と答える。
トラキス公への忠誠を口にするわけでもない。
ただ、自分も妥当だと判断したと言う。
腰ぎんちゃくにも、少しくらい独立心はあるらしい。
「この配置を採る」
レオトバイが言った。
「公爵の案だが、命令を出すのは私だ」
ノアへ視線を向ける。
「異論はあるか」
ノアは一度、息を吸った。
「軍事上は、ありません」
政治上はある。
顔にそう書いてあった。
レオトバイにも分かっているのだろう。
この撤退で、王太子直属軍と王党派の諸侯はさらに削られる。
まとまったまま王国へ戻るトラキス公派は、もっと大きな力を持つ。
それでも採る。
今は、戦後の勢力争いより、戦後そのものを迎える方が先だった。
「国境までに、どれほど失いますか」
ルナが尋ねた。
レオトバイは答えなかった。
「この地に残して行くのが千余り」
答えたのはトラキス公だった。
「さらに二千で済めば、最良」
幕舎の中で、誰かが息を呑んだ。
「隊列が一度大きく崩れれば、五千でも足りませぬ」
現在、一万六千余。
そのうち数千人が、帰り道で死ぬ。
可能性の話ではない。
そうなる前提で、どの数千人をどの順番で失うか決めている。
レオトバイが地図を畳んだ。
「今夜中に準備を終えろ。すでに先行する荷駄は出ている」
それで話は終わった。
◇◇
日が傾く頃、俺はノアと共に東側の警戒線へ出た。
幕舎からは、徒歩なら三十分以上離れている。
途中には歩兵の陣があり、その先に柵と浅い空堀がある。
マリウスは、そこで物見の配置を確認していた。
俺が来たのは、敵を見ておきたかったからだ。
ノアも、それに同意して同行した。
ケンタウルス。
本隊を壊した原因の一つ。
そいつらがどんなものなのか、遠目にでも見ておきたい。
警戒線へ着いた時、東から角笛が聞こえた。
短く、二度。
「物見が戻る!」
柵の向こうで兵が叫ぶ。
街道を騎兵が走ってきた。
四騎。
王国軍の物見だ。
一頭はすでに血を流している。
その後ろを、人馬の影が追っていた。
十騎。
ケンタウルス。
遠目でも大きい。
馬体の胴が厚い。
脚も太い。
上半身には革鎧や、小さな金属板を縫い付けた鎧。
装備は揃っていない。だが、全員が弓を持っていた。
走りながら、一騎が弦を引く。
矢が飛ぶ。物見の一人が、馬上からのけぞった。
他の三騎より、少し上等な兜を被っている。
腰には角笛。物見の指揮官だろう。
ケンタウルスは、より近くにいた騎兵を無視して、その男を射た。
二射目が馬へ刺さる。
馬が前脚から崩れた。
指揮官が地面へ投げ出される。
柵の内側で、騎士たちが馬へ飛び乗った。
「救援に出る!」
王太子直属軍の騎士らしい。
五騎が門へ向かう。
「出るな」
マリウスが言った。
騎士たちの動きが止まる。
「まだ間に合います!」
先頭の騎士が叫ぶ。
「門を開けろ!」
「門は開けろ。だが、出るな」
先頭の騎士が振り返る。
「グーリン伯! あれを見捨てろと?」
「そうだ」
「まだ、間に合うんですよ!?」
「出るなと言っている」
声は静かなままだった。
「王太子直属の騎士へ命令するおつもりか」
「そうだ」
騎士がマリウスを睨み付ける。
マリウスは騎士を見もしない。
「この軍の監督は、私が預かっている」
自分に命令する権限があることを、疑いもしない。
王太子の騎士を相手にしても同じだった。
その傲慢な態度と、マリウスの一言で王太子の騎士まで馬首を返す光景は、やはりいくらか鼻についた。
トラキス公の威光というのは、便利なものらしい。
落馬した物見は立ち上がろうとしていた。
片脚が曲がっている。走れない。
ケンタウルスは近づかない。
距離を保ったまま弓を引く。
矢が背中へ刺さった。
男が倒れる。
残った三騎は、振り返らずこちらへ走る。
追う十騎は、少しずつ左右へ広がっていった。
その時、街道の北側にある低い丘から、別の影が現れた。
やはり、十騎。
南の林からも、十騎が出る。
救援へ出ていれば、両側から挟まれていた。
先頭の騎士は何も言わなかった。
マリウスも言わない。勝ち誇りもしなかった。
物見が、こちらの射程に入る。
続いて、ケンタウルスも。
王国軍の弓兵が、一斉に矢を放った。
届かない。
ケンタウルスは射程に入ると同時に、向きを変えた。
十騎すべてが、ほとんど同じ瞬間に。
合図らしい合図は見えなかった。
北と南から出てきた一団と合流し、そのまま東へ離れていく。
王国軍の物見に与えられるのは、軍でも特に速い馬だ。
ケンタウルスは、それへ追いついた。
ある程度の鎧を着て。
弓を持って。
「速すぎない?」
俺が言うと、ノアが頷いた。
「物見が到着時期を誤った理由だ」
あの巨体なら、人間の重騎兵より遅い。
人間はそう考えた。
実際には、軽騎兵より速かった。
「追えば?」
「追いつけん」
「逃げれば?」
「追いつかれる」
ひどい話だ。
柵の門が開き、生き残った物見が入ってくる。
一騎は馬から降りた途端、その場へ膝をついた。
残った男が息を整えながら報告する。
「敵の斥候、街道の南北へ展開。退路の街道脇まで浸透しつつあるかもしれません」
マリウスが尋ねる。
「敵主力は」
「変わらず距離を保っています」
物見の男が、自分たちの指揮官が倒れた方角を見る。
「奴ら、隊長を、最初に狙いました」
マリウスは短く頷く。
「後方の諸隊へ伝えてください。旗は必要最低限。指揮官は可能であれば外套と兜を替える。護衛を固めすぎないように」
書記が走っていく。
「物見は五騎以上。帰路を一つに絞らない。追われた場合は、救援を期待せず各自で戻ってください」
生き残った物見の顔が強張った。
マリウスは気に留めた様子もなく、次の指示へ移る。
俺でも、もう少し言い方は考えるぞ。
たぶん。
◇◇
夜。
兵へ食料が配られた。
小さな革袋に入った炒り麦。
干し肉が数切れ。
あとは各自の水筒や革袋に、エールを入れてやる。
これで逃げ切るまで持たせるらしい。
いや、違う。食わずに歩かせるのだ。
負傷者を載せた荷車も並んでいた。
兵は荷車の車輪へ布を巻き、軋む音を抑えている。
負傷者の一人が、御者へ尋ねた。
「国境までは、何日だ」
御者は答えなかった。
答えを知らないのか。
知っていて言わなかったのか。
どちらでも同じだ。
殿軍に選ばれた兵たちは、東側へ集められていた。
旗印は少ない。
鎧も外套もばらばら。
王太子直属。
王党派の諸侯。
その他の諸侯。
傭兵。
隊長を失った従士。
どこの軍だったのか分からない兵。
まとまりはない。
まとまりがなくても、後ろにいれば時間にはなる。
先行の荷車は次々と出発している。
重要な物資を積んだ最後の先行便。
トラキス公旗下のまとまった軍勢が、西へ移る。
荷駄の次は彼らだ。
その旗を見て、何人かが顔をしかめた。
誰も文句は言わない。
ここでトラキス公の軍まで失えば、国境の先で王国が崩れる。
分かっている。が、分かっていることと、納得できることは別らしい。
王太子の旗は中央。
ルナもそこへ入る。
負傷者を積んだ遅い荷車は、さらに後ろだった。
そして最後尾に、雑多な殿軍。そして負傷兵。
一万六千余。
いや、千人以上は置いて行くので、一万五千ほどか。
国境へ着く頃、何人になっているのか。
二千で済めば幸運。
五千でも足りないかもしれない。
大勢死ぬ。
誰も口にはしなかった。
知らない者はいないのだろう。
荷車の車輪が、ゆっくり回る。
長い列が、西へ向かって動いている。
東の丘陵は暗かった。
何も見えない。
やがて、遠くで角笛が鳴った。
続いて、地面を打つ音。
いくつもの蹄。
人間の騎兵より重く。
人間の騎兵より速い。
ケンタウルスも動き始めた。
連中は、やはり待っていた。
俺たちの動きを察知して、早速、距離を詰めに来たのだろう。
王国軍は、二万でやってきた。
最初は、全員で帰る予定だった。
王国軍は、一万五千で帰路についた。
その全員が帰り着くことは、もう予定されていなかった。
いったい何人が家族と再会し、自宅のベッドで再び眠れるのだろう。
答えは、東から近づいていた。