勇者として召喚された社畜、王女による魔力供給がないと死ぬブラック環境に配属。『解析』『構築』能力を悪用して王国も正義も神も容赦なく破壊する。 作:筆負野ユウ
第72話 撤退戦
御者の仕事は馬を操ることだ。
戦場に出る以上、槍を持たされることもあるが、基本的には荷車を動かすのが役目だ。
馬へ餌をやる。
緩んだ蹄鉄を打ち直す。
車軸へ油を差す。
荷が偏らないよう積み直す。
だから、馬には乗れる。
それが、最後尾にいる人間の中で、俺が持っていた数少ない取り柄だった。
夜が明けると、軍は西へ動き始めた。
食料や武具を積んだ荷駄は、夜のうちに先行している。
向かう先はトラキス領ブトアニナ。
俺たちの荷車に積まれているのは、人間だった。
脚を砕かれた者。
腹を縫われた者。
矢が深く刺さり、抜くこともできなかった者。
高熱に浮かされ、何度も母親を呼んでいる者。
そして、すでに息のない者。
荷台に隙間はない。
道中で新しく歩けなくなった者が出ても、載せる場所などなかった。
そもそも、ここへ来る前に、動かせない負傷者を大勢置いてきている。
この荷車に載っている者たちは、まだ運ぶ価値があると判断されたのだ。
少なくとも、昨日までは。
後ろから角笛が聞こえた。
短く、二度。
敵が出たという合図だ。
いくらなんでも追い付いてくるのが早すぎる。
「馬を外せ!」
誰かが叫んだ。
俺たちは命令どおりに動いた。
革具を外す。
指がうまく動かない。
留め金を何度も滑らせた。
荷台の中で、誰かが呻いている。
「何だ」
俺は振り返らずに言った。
「水を……」
「後でな」
後などない。
俺の水筒にも、死ぬ者に飲ませる水など入っていない。
ようやく革具が外れた。
馬が鼻を鳴らした。怯えている。
ケンタウルスの匂いがするのか。
俺たちの緊張した気配を察しているのか。
「横へ向けろ!」
外した馬を引き、荷車の向きを変える。
街道を塞ぐよう、横向きに並べる。
隣の一台は車輪が溝へ嵌まり、動かなかった。
「倒せ!」
兵たちが車体へ背を当てた。
俺も押す。重い。
荷台の男たちが何か叫んでいる。
「待て」
「何をする」
「降ろせ」
「頼む。やめてくれ」
聞こえないふりをした。
三人で押す。荷車が傾く。
中で身体が滑った。
人間同士がぶつかる音。
木の板へ頭が当たる音。
悲鳴。
もう一度押す。
派手な音を立てて荷車が横倒しになった。
下敷きになった者もいるだろう。
車輪が空を向いて回っている。
これで街道は塞がれた。
敵は街道を通れない。ほんの少しの間。
そのほんの少しのために、荷車へ人間を詰めたまま倒した。
もちろん、街道脇の原野は通れるし、荷車もどければ済む話だ。
「盾を並べろ!」
今度の命令には、誰も従わなかった。
命じた者も、繰り返すことはしなかった。
荷車を防壁にして抵抗する。
可能な限り敵を止める。
そう命じられている。
可能な限り。
俺の可能な限りは、もう終わった。
荷車は道へ並べた。横倒しにした。
誰が最初に逃げたのかは分からない。
ほとんど、一斉にだったように思う。
兵の一人が、外した馬の背へよじ登った。
鞍はない。手綱も、荷車用の革紐をまとめただけだ。
別の兵が脚へ縋りついた。
「俺も乗せろ」
馬上の男は、そいつの顔を蹴った。
鼻血を出して倒れる。
馬が走り出した。が、すぐに落馬。
鼻血を出した兵が剣を抜いて、落馬した兵に踊りかかった。
多くの者は、西へ向けて自分の脚で走り出している。
盾を取る者はいなかった。
俺も馬へ跨がる。
荷台から腕が伸びた。俺の上着を掴む。
「私を乗せろ。褒美は思うままだぞ」
誰だかは知らない。
身なりが良いので、貴族だろう。
少しだけ心が動く。
俺はその手を払った。
指が布から外れる。
「待て」
俺は馬の腹を蹴った。
「待ってくれ」
馬が走る。荷車が遠ざかる。
後ろで誰かが怒鳴っていた。
臆病者。
脱走兵。
人殺し。
好きに言えばいい。ここに残れば死ぬ。
命令を出した奴は、もうずっと前にいる。
俺まで負傷者と一緒に死んで、何の意味がある。
ブトアニナへ着いたら、こう言えばいい。
荷車を障害物として配置した。
敵が想定より早く迫った。
抵抗したが、数に押された。
やむを得ず後退した。
嘘ではない。抵抗しなかったところ以外は。
俺たちよりも前を進んでいた荷車の隊列を追い越す。
彼らも、馬を外した荷車を横倒しにする作業の最中だった。
その脇を通り抜ける。
咎める声が聞こえるが、聞こえないことにする。
いくつか隊列を追い越すと、また荷車。
しかし、今度は荷車の壁が出来上がっており、街道は塞がれていた。
壁の足元からは、動けない者たちの呻きが聞こえる。
歩ける者たちの姿はなかった。
仕方なく、迂回して原野を通る。
草が覆い茂り、速度は出せない。たまに行く手を遮る低木も厄介だ。
それでも、慎重に、馬を傷めないように進む。
荷車の壁を迂回するだけだというのに、ずいぶんと時間を食ってしまった気がする。
だが、これが敵に対しても同じ効果を発揮するなら、心強くもある。
いくつか、同じような壁を超える。
街道の先に、人間の集まりが見えた。
荷車はない。自分の脚で歩ける負傷者たちだ。
腕を吊った者。
頭へ布を巻いた者。
槍を杖にしている者。
部隊ではない。
負傷した人間を、固めて配置しているだけだ。
俺たちの馬が近づくと、何人も振り返った。
「後ろは?」
答えなかった。
「荷車はどうした?」
一人が道の中央へ出た。
馬を止めようと、両手を広げる。
俺は速度を落とさなかった。
男が慌てて脇へ飛ぶ。
別の男が革紐を掴んだ。
「乗せろ!」
構わず、引きずりながら走る。
俺は腰の短剣を抜いた。
革紐を掴む手を刺す。
指が離れる。男が転がる。馬は走る。
俺はあいつらより前へ出た。
荷車より前。
歩ける負傷者より前。
これで助かるだろうか。
やや後方、街道脇の原野の方から、弦の鳴る音がした。
悍ましい予感に体が震えるが、振り返らない。
速く。
もっと速く。
ブトアニナまで行けば――。
首の横へ、何かが当たったような衝撃。
それほど、痛みはなかった。
何か暖かい物が肌を這い、衣服を濡らす感覚がある。
そのまま、走り続ける。
馬へ身体を伏せて。
自分が呼吸を忘れていることに気付く。
息を吸おうとした。
口の中へ鉄臭い液体が流れ込む。
握っていたはずの革紐が、どこかへ消えた。
馬の背が傾いた。
違う。
傾いたのは俺だった。
地面がゆっくり近付いてきた。
◇◇
俺はまだ歩ける。
右の脇腹へ布を巻いている。
会戦で敵の弓が掠めただけだ。
深くはない。軍医もそう言った。
だから荷車には載せられなかった。
歩ける者は歩け。当たり前だ。
荷車の上には、俺よりひどい奴がいくらでもいる。
その荷車が行軍しているはずの後方からは、何度も角笛が聞こえた。
正確な距離は分からないが、おそらく最後方が敵に襲われているのだろう。
俺はまだ歩ける。
走れと言われても、少しなら走れる。
そう思っていた。
馬蹄の音にびくりとして、振り返る。
騎士やアマゾネスが乗るような馬じゃない。
もちろん、ケンタウルスでもない。
ひと目で分かる駄馬だ。
馬は徐々に脚を緩めると、俺の近くで常歩にまで速度を落とした。
荷車を引かせるための革具には、血がついていた。
俺に馬術の心得などない。
まして、裸馬になど乗れるとは思えない。
だが、しがみついていることぐらい、出来ないものだろうか。
馬が、すぐ近くを通る。
俺は槍を捨てた。
革紐へ手を伸ばす。
掴んだ。馬は止まらない。腕が引かれる。
「止まれ!」
止まるわけがない。
もう片方の手も伸ばそうとする。左腕は上がらなかった。
肩にも矢傷を受けていたことを思い出す。
脚を革具の輪へかけようとする。届かない。
脇腹が裂けた。痛みで指が緩む。
「どけ!」
後ろから肩を突かれた。
俺は道へ倒れた。
傷のない男が馬へ飛びつく。
なぜ、こいつがここにいる。
こいつは普通に歩ける。走ることもできるだろう。
なのに、俺の馬を取るのか。
「俺のだ!」
俺が叫んでも、男は聞かなかった。
革紐を掴み、馬の背へ腹ばいになる。
そのまま遠ざかっていく。
「畜生!」
俺は立ち上がった。
捨てた槍を拾いに戻る。
その時、街道脇の茂みから、何か音がした。
そう思った次の瞬間、茂みから矢が飛び出してきた。
それほど数は多くない。
が、周囲の者が二人、三人と斃れる。
とっさに伏せていた兵が今度は立ち上がり、逃げようとした。
背中へ矢が突き刺さる。
火球が一つ上がった。
茂みの近くへ落ちる。
二つ目。
今度は茂みに直撃した。
しかし、着弾前に茂みからケンタウルスが飛び出して、後方の原野へ散る。
こちらには、まだ武器を持てる奴がいる。
皆、それぞれに構える。
三つ目の火球は上がらなかった。
角笛が鳴る。周囲に敵の存在を知らせている。
周りの負傷者たちも、原野を見ていた。
先ほど茂みから飛び出した十騎ほどのケンタウルスが、草むらの中を駆けている。
その馬格に似合わず、低木を身軽にかわしながら。
誰も何も言わない。
こんなところまでケンタウルスが進出してきている。
ああやって、街道脇の原野を進んできたのだろうか。
後方の輜重隊はやられてしまったのだろうか。
後方からも角笛が鳴る。近い。
いま見えているケンタウルスとは別に、馬蹄の音がわずかに聞こえる。
次は俺たちだ。
誰かが走り始めた。
俺も走った。
傷がさらに開く。腹の中が熱い。それでも走る。
頭へ布を巻いた男を追い越す。
片脚を引きずる男を追い越す。
俺より遅い奴がいる。
そいつらより前ならいい。
全員より速く走る必要はない。
敵より速くなくていい。
後ろの奴より速ければいい。
風切り音。
一人が倒れた。
俺ではない。
まだ大丈夫だ。
「盾を寄せろ!」
誰かが叫んだ。
盾を持つ者が止まった。
俺もその後ろへ入る。
三枚。
四枚。
隙間から槍を出す。
近くの丘の上に人馬の影がいた。ここにも、ケンタウルス。
距離を取ったまま弓を引いている。
矢が盾へ当たる。重い音。
盾を持つ男の腕が少し下がる。
こちらからも矢を返す。
火球を撃つ奴もいる。
当たらない。
それでも、ケンタウルスは丘の陰に隠れた。
追い返した。俺たちはまだ戦える。
「行くぞ!」
盾が下がる。
また西へ向かう。
少し歩く。
角笛。
敵が近づく。
また止まる。
盾を並べる。
矢を防ぐ。
敵が離れる。
歩く。
また来る。
止まる。
激しい攻撃ではない。
戦えば簡単には死なない。戦っている間だけは。
だが、前を行く王国軍が遠くなる。
さっきまで見えていた旗が、小さくなっている。
盾を使ってから、俺たちは敵に負けていない。
誰も射られていない。
弓兵も魔術師もいる。
それなのに、軍から剥がされていく。
「走れ!」
誰かが叫んだ。
次に止まれば戻れない。
盾を持つ男まで走り始める。
俺も走る。
脇腹の痛みが消えた。
治るわけがない。感覚がなくなっただけだろう。
脚が重い。
前の男が遠ざかる。
待て。
俺はまだ歩ける。
まだ戦える。
声を出そうとした。
息しか出なかった。
足がもつれた。
膝をつく。
喉が渇きのあまり貼り付きそうだ。
腰の水筒に手を掛けるが、指に力が入らずに落としてしまう。
藁と麻布で包んだ無骨な陶器瓶が地面を転がる。
誰かが俺の横を通り過ぎた。
通り過ぎ際に、俺の水筒を拾っていった。
「それは俺のだ」
言ったつもりだった。
男は振り返らない。
男へ向けて右手を伸ばし、左手が使えないので、そのまま地に伏す。
別の男が、俺の腰から食料袋を外した。
返せ。俺はまだ生きている。
手を伸ばす。届かない。
周りから人がいなくなる。
起き上がることも出来ないので、もがいて転がる。
地面へ耳がついた。蹄の音が聞こえた。
俺は必死で身体を起こそうとした。
顔の上へ蹄が落ちて来た。
◇◇
俺は誰の兵でもなくなっていた。
数日前までは傭兵団にいた。
団長がいて、旗があって、金を払う雇い主もいた。
会戦が終わった時には、どれも見つからなかった。
死んだのか。
逃げたのか。
俺を置いていったのか。
どうでもいい。
金を払わないなら、団長など死んだのと同じだ。
裸馬に乗った男が後方から追いついてきた。
いや、男を乗せた裸馬が、と言い直すべきだろうか。
男は背中に二本の矢を受け、馬にしがみついたまま意識を朦朧とさせているようだ。
常歩で近付いてきた馬の革具を掴んで止める。
革具には血が付いていた。掴んだ手が不快にべたりと汚れる。
馬に乗れれば良かったが、生憎と俺にそんな技能はない。
男を引きずり降ろす。皮鎧と踏み固められた地面がぶつかり、なかなか大きな音を立てる。
周りの兵隊たちが『なにごとか?』とこちらを見るが、すぐに興味を失い、視線を戻す。
馬はそのままとことこと、西の方へ向かって歩いて行った。
早く王国に帰りたいのは、畜生でも同じらしい。
男はまだ何やら呻いている。
とりあえず腰の食料袋と水筒を貰う。
俺の物より上等そうな皮鎧にも目が行くが、着脱に時間がかかるので、さすがに諦める。
背中の防護が弱い部分に穴が空き、血みどろだったせいもあるが。
水筒の中身はエールがひと口だけだった。全部飲んだ。
持ち主には、もう必要ない。
最後に、男の銭袋を自分の腰へ括ると、再び歩き出す。
周りには、俺と似たような連中が集まっていた。
主を失った従士。
ばらばらになった傭兵団。
とにかく、あの会戦で壊れた部隊の生き残り。
それだけで一つの集団になっていた。
周囲を見渡す。
旗はない。
命令する奴もいない。
ただ、西へ向かっている。
その時、角笛が鳴った。
角笛は後方から何度も聞こえてきた。
だが、今度は近い。
皆が歩みを速める。
走り出した者もいる。
今にもケンタウルスの蹄の音が聞こえてくるのではないかと、気が気でないまま歩き続けた。
しばらくは、何事もなかった。角笛の音もない。
疲れを感じ、気が緩み始めたころに、それは来た。
後方から悲鳴。怒声。再び角笛。
火球魔法だろうか。何かが爆ぜるような音。
剣戟の音はない。
止むことのない喧騒が、徐々に近づいて来る。
速足を続けた脚は、そろそろ疲れに痛みを伴い出している。
それでも、進み続ける。
重い馬蹄の音が聞こえ出す。何より聞きたくない音。
しかし、徐々に、確実に、近づいて来る。
ついに、後ろから矢が来た。
「盾を並べろ!」
知らない男が叫んだ。
立派な鎧ではない。
貴族にも騎士にも見えない。
だが、他に命令する奴はいなかった。
盾を持つ者が止まる。
俺も止まる。
確かに、逃げ続けるよりは、一度敵を追い払った方がいい。
落ちていた盾を拾い、戦列に加わる。
ケンタウルス。
ついに来てしまった。
後方の連中は何をしていたのか。
いくらなんでも、ここまで来るのが早すぎる。
突っ込んではこない。弓だけを射る。
こちらの盾が矢を弾く。
何人かが射返す。火球が飛ぶ。
敵の近くへ落ちた。
ケンタウルスが距離を取る。
「見ろ!」
誰かが笑った。
「近付いて来られねえ!」
本当だ。正面からなら戦える。
敵は俺たちを正面から潰せない。
ここは広大な平原でも丘陵地帯でもないのだ。
「今だ! 走れ!」
命令していた男が西を指す。
皆が走る。
俺も走る。
距離を稼ぐ。
敵がまた近付いて来る。
「止まれ! 盾をk」
命令していた男の声が途切れた。
見ると、口から矢が入り、後頭部へ鏃が抜けている。
男は膝をつき、そのまま倒れた。
誰も次の命令を出さない。
盾を持った奴が一人だけ止まった。
他は走った。
俺も盾を捨てて走った。
盾を持った男の横を抜ける。
後ろから叫び声がする。
振り向かない。前だけを見る。
走り続ける。
兜を脱ぎ捨てる。
本当なら鎧も脱いでしまいたい。
さっきまでの俺たちのように、盾を並べて抵抗しようとする連中がいた。
構わず通り過ぎる。
さっきまでの俺たちのように、背後を気にしながら速足で進む連中がいた。
走って追い抜く。
体力の配分なんて、今はどうでもいい。
大勢追い抜いた。俺は今までの人生で一番走っていることだろう。
それでも、ケンタウルスの気配は迫っていた。
後ろから、追い抜いた連中が俺たちと同じ目に合っている音が聞こえる。
前方には、旗が見えた。形を保った王国軍。
あそこへ入ればいい。
旗が近づく。小さな旗だ。
二十人か、三十人ほどが固まって歩いている。
貴族だろうか。騎士だろうか。嫌に派手だから傭兵だろうか。騎乗した指揮官もいる。
あそこへ入れば、また兵になれる。
「入れてくれ!」
俺は叫んだ。
旗の周囲にいた兵が振り返る。
槍を横へ向け行く手を塞いだ。
「来るな!」
「同じ王国兵だろ!」
「列を乱すな!」
馬鹿か。
俺たちはまだ戦える。人数もいる。
まともに指揮を受け、一緒に動いた方がいいに決まっている。
俺は槍の間へ身体を入れようとした。
柄で胸を突かれて、よろめく。
「ふざけるな!」
もう一度進む。
今度は顔を殴られた。鼻から血が出る。
旗のある部隊は止まらない。
俺たちを入れず、そのまま西へ進む。
「待て!」
追う。周りの連中も押し寄せる。
前の男の外套を掴もうとした。
引き倒せば、俺が一人分前へ出られる。
指先が布へ届く。背中へ衝撃が来た。
たぶん矢だ。
まだ走れる。
矢の一本くらいで止まるものか。
もう一本が腿へ入る。
脚の感覚がなくなった。
地面へ転がる。
何人も俺の横を走り過ぎる。
一人が手を踏んだ。
痛みが脳天まで駆ける。
射られた背中や腿より痛い。
骨が折れたのかもしれない。
それでも、立たなければ。
俺は肘で身体を起こしながら、振り向く。
三本目の衝撃は、耳の後ろだった。
◇◇◇◇
俺たちには旗があった。
泥で汚れ、端が焼けている。
それでも旗だった。
隊長もいる。
二十人ほどしか残っていないが、列を保っている。
だから、後ろの連中とは違う。
あいつらはもう軍ではない。
旗もない。
隊長もいない。
命令も聞かない。
ケンタウルスが、すぐそこに迫っている。
敵が来れば勝手に止まり、怖くなれば勝手に走る。
そんなものを列へ入れれば、俺たちまで崩れる。
「入れてくれ!」
息を切らした男が、無理に入り込もうとしている。
俺は槍を横へ向けて、男を遮る。
「来るな!」
「同じ王国兵だろ!」
馬鹿か。
後方ではまだ戦っている者がいる。
そこから逃げ出して来た奴の言うことか。
「列を乱すな!」
槍と槍の間へ、無理に体を入れてくる男の胸を柄で押す。
男はよろめいた。
また来る。
今度は顔を殴った。
悪いとは思わない。
あいつを入れれば、次も入れろと言われる。
隊列が膨らむ。歩みが遅くなる。統制も取れなくなる。敵にも追いつかれる。
急に視界が開け、見晴らしがよくなる。
橋が見えた。
川面が朝日に光っている。
前を進んでいた軍勢は、次々と橋を渡っている。
西岸には王国兵がいる。
槍も。
旗も。
馬も。
対岸に、白馬にまたがり白い衣を着た女がいた。
遠くからでも分かる。ルナ王女だ。
ハンブディフの聖女。
王女が橋の向こうにいる。
俺たちには聖女という旗もある。後ろの雑兵とは違う。
「歩調を上げろ!」
隊長が命じた。
皆が速度を上げる。
走らない。
列は崩さない。
ここまで形を保ったから生き残った。
最後まで守ればいい。
矢が飛んでくる。
一人の肩へ刺さった。
男は呻いたが歩き続けた。
誰も支えない。
歩けるなら問題ない。
歩けなくなったら置いていく。
橋が近づく。
西岸の騎士が、こちらを見ている。
王女も見ている。
黒髪の男が、その隣にいた。サモンド。
俺たちの旗を見ている。
「あと少しだ。橋で防戦すれば、止められる」
誰かが言った。
俺もそう思った。