神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~   作:筆負野ユウ

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第8話 希望(Desire)

「約束しましょう」

 

私がそう言うと、ルナ王女はどこか安堵したような様子を見せていた。無理もない。休戦の提案は、疑わしくも救いだったのだろう。

 

あのサモンドが会話を理解していたなら、もう少し面倒なことになっていたかもしれない。いや、すでに充分面倒か。

 

我ながら苦しい提案だったように思う。

 

ルナ王女とノアは、警戒を解かぬまま階段へ向かう。その後ろを、サモンドの男が続く。

 

彼だけは、階段を昇る前に一度こちらを見た。

 

警戒。

敵意。

困惑。

 

それらは当然ある。

だが、それだけではない。

 

観察する目だった。

 

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている、だったか……いや、それは意味が違うか……ふふっ」

 

私は小さく笑った。

 

くだらない独り言。

そして、くだらない高揚。

 

らしくない。

だが、それも無理はない。

 

これでまた、途切れたはずの道がつながったのだ。

 

彼らの足音が、階段の上へ遠ざかっていく。やがて、地下室には静けさが戻った。

 

死体。

血。

砕けた武具。

消え残る魔力の残滓。

 

そして、祭壇。

 

私はその祭壇に腰掛けたまま、しばらく動かなかった。

 

まだ、気配を探る。

 

ルナ王女。

ノア。

サモンドの男。

 

彼らが充分に離れていくのを待つ。

 

殺すだけなら、できた。

おそらくは。

 

だが、殺してはならぬ者がいる。殺すべきではない場面がある。そして、壊してはならぬものがある。

 

勝てる戦いでも、勝ち方を選べないなら避けるべきだ。

 

刃が逸れる。

魔法が跳ねる。

あの男が、また何かを壊す。

 

それが、このテロスだったなら。

 

「……まったく」

 

思わず息が漏れた。

 

ルナ王女は、私が慈悲で見逃したと思うだろうか。それとも、私があのサモンドを恐れたと考えるだろうか。

 

私は祭壇の天板に手を置いた。

 

召喚の宝具としての機能は、すでに停止している。一度きりの使い捨て。

それは予想通りだった。

 

ルナ王女もそれは理解していたのだろう。交渉の際、この祭壇そのものへ強い関心を示す様子はなかった。

 

だが、彼女が知らぬものは、まだ下にある。

 

私は立ち上がり、天板の縁へ指をかける。蝶番も留め具もない。最初から、“蓋”として置かれていただけだ。

 

力を込める。

 

石材が、がりがりと擦れる音を立てた。天板の片側が持ち上がる。祭壇本体に残されたのは、中央の金属プレート。

 

いや。プレートではない。

 

四角く開いた天板の穴を塞いでいたのは、金属製の箱の上面だ。

 

一つ息を吐く。

吸う。

 

天板を垂直に立ち上げ、そのまま重みに任せて反対側へ落とした。喧しい破砕音が室内に響き渡る。埃が舞い上がった。

 

私は外套で口元を覆い、しばらく待つ。やがて埃が収まり、箱が再び姿を現した。

 

金属質の外殻。

継ぎ目のない面。

そして横面にある、硝子のように透き通った小窓。

 

その奥に、淡く揺らめく光の塊が見えた。

 

私はその箱を両手で持ち上げる。

重い。

 

見た目の寸法に対して、妙な重さだった。金属の重さではない。中に別の規則が詰まっているような重み。

 

しばらく見つめる。

何も起こらない。

 

思わず眉を寄せた。

 

語りかけてくるかとも思ったが。

 

「起動は……しているな」

 

箱――テロスに向けて言う。

 

果たして、反応はあった。

 

小窓の奥の光球が、脈打つようにわずかに収縮する。膨張する。また収縮する。

 

その律動が、私の鼓動と一瞬だけ重なった気がした。

背筋が粟立つ。

 

見られている。

そんな気がした。

 

これもまた、私を観察しているのだろうか。

 

サモンドの男。

ルナ王女。

そして、これ。

 

今日はずいぶんと、こちらを見るものが多い。

 

「……私の言葉が理解できるか?」

 

問いかける。

 

光は、わずかに早いリズムで明滅した。それが合図なのか。ただの揺らぎなのか。判別はできない。

 

だが、理解しているように見えてしまう。

そう見えてしまうこと自体が、不愉快だった。

 

私は自身の魔力を、慎重にテロスへ走らせる。

 

即座に拒絶された。

魔力が滑り落ちるように、何も返ってこない。

 

深い井戸に小石を投げ込んだのに、落ちる音さえ届かない。こちらの魔力だけが消え、空虚さだけが残る。

 

光の呼吸めいた律動は、やがて収まった。小窓の奥には、沈黙だけが戻る。

 

話しかけても、もう反応はない。

 

「……ふん。私に用はないか」

 

吐き捨てる。

 

光は美しい。

だからこそ、吐き気がする。

 

美しいものほど、人を従わせる。

希望のような顔をして、選択肢を奪う。

 

叩き壊し、塩をぶちまけ、鉛で封じ、泥炭地の底へ沈めたい衝動に駆られる。

 

もちろん、そんなことはしない。

まだ。

 

私はテロスを外套で包んだ。

 

持ち帰る。

検証する。

 

この様子では、機能が不完全ということも考えられる。あるいは、相手を選んでいるだけか。

 

どちらにせよ、ここで結論は出ない。

 

これからどう動くべきか。

考えなくてはならない。

 

王女一派が召喚儀式を行うという情報が駆け込んできたのは、直前だった。

 

ルナ王女たちにとって、この遺跡の発見は、偶然に近い僥倖だったはずだ。

 

だから、こちらも準備不足は否めない。それでも、簡単な作戦のつもりでいた。

 

サモンドを殺し、テロスを回収する。

それで終わり。

 

だが、結果は想定外へ転がった。

 

あの異邦の男。

 

わずかな時間で、戦いに適応した。

魔法に適応した。

スピリットを消した。

 

あの場で戦闘を激化させるわけにはいかなかった。

 

これに万が一のことがあれば、勝者など残らない。少なくとも、この地下室にいた者の未来はなかった。

 

私を含めて。

 

殺すべき者がいる。

生かさねばならぬ者もいる。

 

その区別を、私は間違えてはならない。

これから私は、誰を殺し、誰を生かすべきなのか。

 

少なくとも今日は、想定外の危険を避け、これを確保した。ひとまずは上出来だ。そう評価するべきだろう。

 

残された時間は、おそらく多くない。

 

準備不足が祟ることは、今回の一件で思い知らされた。だが、準備万端でことに臨めることの方が少ない。

 

いつだって、そうだった。

 

人はいつも、足りないまま選ぶ。

そして、足りないまま後悔する。

 

私は、それを嫌というほど知っている。

 

「修正が必要だな」

 

私はテロスを抱え直した。

 

計画に修正が必要だ。大幅な修正が。

 

「……悪くない」

 

思わず笑みがこぼれる。

 

今日は、本当によく笑う日だ。

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