神様、ちょっと黙ってろ ~神は死んだ。聖女はまだ祈っている。~ 作:筆負野ユウ
「約束しましょう」
私がそう言うと、ルナ王女はどこか安堵したような様子を見せていた。無理もない。休戦の提案は、疑わしくも救いだったのだろう。
あのサモンドが会話を理解していたなら、もう少し面倒なことになっていたかもしれない。いや、すでに充分面倒か。
我ながら苦しい提案だったように思う。
ルナ王女とノアは、警戒を解かぬまま階段へ向かう。その後ろを、サモンドの男が続く。
彼だけは、階段を昇る前に一度こちらを見た。
警戒。
敵意。
困惑。
それらは当然ある。
だが、それだけではない。
観察する目だった。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている、だったか……いや、それは意味が違うか……ふふっ」
私は小さく笑った。
くだらない独り言。
そして、くだらない高揚。
らしくない。
だが、それも無理はない。
これでまた、途切れたはずの道がつながったのだ。
彼らの足音が、階段の上へ遠ざかっていく。やがて、地下室には静けさが戻った。
死体。
血。
砕けた武具。
消え残る魔力の残滓。
そして、祭壇。
私はその祭壇に腰掛けたまま、しばらく動かなかった。
まだ、気配を探る。
ルナ王女。
ノア。
サモンドの男。
彼らが充分に離れていくのを待つ。
殺すだけなら、できた。
おそらくは。
だが、殺してはならぬ者がいる。殺すべきではない場面がある。そして、壊してはならぬものがある。
勝てる戦いでも、勝ち方を選べないなら避けるべきだ。
刃が逸れる。
魔法が跳ねる。
あの男が、また何かを壊す。
それが、このテロスだったなら。
「……まったく」
思わず息が漏れた。
ルナ王女は、私が慈悲で見逃したと思うだろうか。それとも、私があのサモンドを恐れたと考えるだろうか。
私は祭壇の天板に手を置いた。
召喚の宝具としての機能は、すでに停止している。一度きりの使い捨て。
それは予想通りだった。
ルナ王女もそれは理解していたのだろう。交渉の際、この祭壇そのものへ強い関心を示す様子はなかった。
だが、彼女が知らぬものは、まだ下にある。
私は立ち上がり、天板の縁へ指をかける。蝶番も留め具もない。最初から、“蓋”として置かれていただけだ。
力を込める。
石材が、がりがりと擦れる音を立てた。天板の片側が持ち上がる。祭壇本体に残されたのは、中央の金属プレート。
いや。プレートではない。
四角く開いた天板の穴を塞いでいたのは、金属製の箱の上面だ。
一つ息を吐く。
吸う。
天板を垂直に立ち上げ、そのまま重みに任せて反対側へ落とした。喧しい破砕音が室内に響き渡る。埃が舞い上がった。
私は外套で口元を覆い、しばらく待つ。やがて埃が収まり、箱が再び姿を現した。
金属質の外殻。
継ぎ目のない面。
そして横面にある、硝子のように透き通った小窓。
その奥に、淡く揺らめく光の塊が見えた。
私はその箱を両手で持ち上げる。
重い。
見た目の寸法に対して、妙な重さだった。金属の重さではない。中に別の規則が詰まっているような重み。
しばらく見つめる。
何も起こらない。
思わず眉を寄せた。
語りかけてくるかとも思ったが。
「起動は……しているな」
箱――テロスに向けて言う。
果たして、反応はあった。
小窓の奥の光球が、脈打つようにわずかに収縮する。膨張する。また収縮する。
その律動が、私の鼓動と一瞬だけ重なった気がした。
背筋が粟立つ。
見られている。
そんな気がした。
これもまた、私を観察しているのだろうか。
サモンドの男。
ルナ王女。
そして、これ。
今日はずいぶんと、こちらを見るものが多い。
「……私の言葉が理解できるか?」
問いかける。
光は、わずかに早いリズムで明滅した。それが合図なのか。ただの揺らぎなのか。判別はできない。
だが、理解しているように見えてしまう。
そう見えてしまうこと自体が、不愉快だった。
私は自身の魔力を、慎重にテロスへ走らせる。
即座に拒絶された。
魔力が滑り落ちるように、何も返ってこない。
深い井戸に小石を投げ込んだのに、落ちる音さえ届かない。こちらの魔力だけが消え、空虚さだけが残る。
光の呼吸めいた律動は、やがて収まった。小窓の奥には、沈黙だけが戻る。
話しかけても、もう反応はない。
「……ふん。私に用はないか」
吐き捨てる。
光は美しい。
だからこそ、吐き気がする。
美しいものほど、人を従わせる。
希望のような顔をして、選択肢を奪う。
叩き壊し、塩をぶちまけ、鉛で封じ、泥炭地の底へ沈めたい衝動に駆られる。
もちろん、そんなことはしない。
まだ。
私はテロスを外套で包んだ。
持ち帰る。
検証する。
この様子では、機能が不完全ということも考えられる。あるいは、相手を選んでいるだけか。
どちらにせよ、ここで結論は出ない。
これからどう動くべきか。
考えなくてはならない。
王女一派が召喚儀式を行うという情報が駆け込んできたのは、直前だった。
ルナ王女たちにとって、この遺跡の発見は、偶然に近い僥倖だったはずだ。
だから、こちらも準備不足は否めない。それでも、簡単な作戦のつもりでいた。
サモンドを殺し、テロスを回収する。
それで終わり。
だが、結果は想定外へ転がった。
あの異邦の男。
わずかな時間で、戦いに適応した。
魔法に適応した。
スピリットを消した。
あの場で戦闘を激化させるわけにはいかなかった。
これに万が一のことがあれば、勝者など残らない。少なくとも、この地下室にいた者の未来はなかった。
私を含めて。
殺すべき者がいる。
生かさねばならぬ者もいる。
その区別を、私は間違えてはならない。
これから私は、誰を殺し、誰を生かすべきなのか。
少なくとも今日は、想定外の危険を避け、これを確保した。ひとまずは上出来だ。そう評価するべきだろう。
残された時間は、おそらく多くない。
準備不足が祟ることは、今回の一件で思い知らされた。だが、準備万端でことに臨めることの方が少ない。
いつだって、そうだった。
人はいつも、足りないまま選ぶ。
そして、足りないまま後悔する。
私は、それを嫌というほど知っている。
「修正が必要だな」
私はテロスを抱え直した。
計画に修正が必要だ。大幅な修正が。
「……悪くない」
思わず笑みがこぼれる。
今日は、本当によく笑う日だ。