五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く 作:生サーモン
最後の記憶は、のり弁の湯気だった。
電子レンジで温めた白い容器の蓋を剥がすと、白身魚のフライと海苔のかかった飯から蒸気が立った。深夜零時過ぎ。1Kのアパートの、蛍光灯がひとつだけ切れた台所。テーブルの上のノートPCの画面には、匿名で上げた曲の再生数が並んでいる。三桁。半年前に上げた曲だ。時々ゆるやかに山ができては、なだらかに水平に戻る。バズるでもなく、消えるでもない中途半端な折れ線。
壁際には、埃をかぶった安いMIDIキーボードがある。買ってから五年経つ。学生の頃、音大の練習室で夜通しさらった鍵盤の感触が、指の腹にだけ残っている。中退したのが二十三の春だった。「まず社会の仕組みを覚えてから戻ってくればいい」。自分にそう言い訳をした。就職先は外資系のITコンサルティングファーム。日中はクライアント先で、経営効率と粗利率の数字を回した。作曲は、休日に気まぐれで鍵盤に向かうだけになった。
のり弁を半分食べたところで、画面がふっと暗くなった。バッテリー切れかと思った。
次に鼻を突いたのは、のり弁の匂いではなかった。
■
石炭の煤と、馬糞と——甘ったるい腐敗臭。
目を開けた。
薄い毛布の中で、身体だけが先に覚めていた。天井から裸電球が一つ、細い鎖でぶら下がっている。壁は漆喰が剥がれ、下地の煉瓦がのぞいていた。窓の外で、鉄の車輪が石畳を打つ音がする。誰かがイタリア語で怒鳴っている。返す声は、それより若い女の甲高い声だ。
自分の手を持ち上げた。
白い、労働者の手。指先にインクの染みが残っている。右手の中指にペンだこ。爪は短く切り揃えられ、鍵盤に触れて磨り減った皮膚が薬指の腹にだけ薄く残っている。この手を知っている。
いや、知らないのに知っている。二十二年間この手で生きてきた記憶と、二十六年間別の手で生きてきた記憶が——頭の中で重なり合っている。
名前が浮かんだ。レオナルド・モレッティ。二十二歳。父はリトル・イタリーの仕立て屋で、去年の冬に肺炎で死んだ。母もその後を追った。マルベリー・ストリートの角の店は、今は他人が使っている。教育は公立学校まで。ピアノは、父が近所の教会から引き取ってきた中古のアップライトで、独学で覚えた。
そして、この身体は今、ティン・パン・アレーと呼ばれる界隈の、無名のソングライターとして生きている。
(ここは、いつだ)
毛布を跳ねのけて起き上がった。壁際の棚に、日付の入った新聞が丸められて放り込まれていた。指の震えを堪えて広げる。
一九二〇年一月。
合衆国憲法修正第十八条の施行日が、四日後に迫っていた。禁酒法。
新聞を握ったまま、しばらく動けなかった。
(禁酒法が始まる年だ。合っている)
合っている、と頭の中で置いてみたその一語が、この部屋の湿った空気の中でだけ、妙に軽く聞こえた。
部屋を見回した。六畳ほどの広さ。鉄パイプのベッド。テーブルに椅子が一脚。窓は一つ。壁際に、中古のアップライトピアノ。象牙の白鍵は端の何本かが黄ばんで欠けている。
机の引き出しを開けた。皺の寄った一ドル紙幣が数枚と、二十五セント硬貨、十セント、一セント。数える指がもたついた。二度数え直した。
四十七ドルと二十三セント。
(これで、全部か)
窓を開けた。凍った空気が肺の底まで届いた。眼下の通りを、フォードのモデルTが一台、埃を上げて走っていく。その脇を、二頭立ての荷馬車が、白い息を吐きながらすれ違う。反対側の歩道では、厚いウールコートを着た男が、通行人相手に何か大声で売り込んでいる。金属を叩き続けるような英語だ。この身体の耳が、それを勝手に翻訳した。石炭の値段だった。
窓を閉めた。ラジエーターがカンカンと蒸気を吐く。
(無事に転生した、と言うべきなのか)
その言葉を頭の中で置いてみて、笑いそうになって、笑えなかった。転生。冗談の語感で覚えていた言葉が、今、皮膚の内側にある。
ピアノに歩み寄って、蓋を開けた。
鍵盤に触れる。中音のFの音が半音落ちて、Gに寄っていた。B♭も少し狂っている。だが、弾ける。
Cメジャーのスケールを弾いた。次にドリアン、ミクソリディアン、ロクリアンと、少しずつ響きを崩していく。この身体の指が、迷わずついてきた。次に頭の中で、DTMのソフトの画面を思い出した。マウスで小節を刻み、コードトラックを一段下に配置し、パッドで低音のサブベースを鳴らしていた画面。あれは、もう、思い出せる。
鍵盤の上に、右手の四本の指を平らに置いた。テンションを乗せたCmaj9を鳴らす。二十八番街の空気が、その響きに——一瞬だけ揺れた気がした。
手を下ろした。指の腹に和音の残りがあった。前世で夜中の1Kにこもって鳴らしていたのと同じ和音が、この時代のこの部屋のこのピアノからも出た。
テーブルに戻り、鉛筆と紙を引き寄せた。前世でコンサルの上司に叩き込まれた癖が、この状況で先に動いた。曖昧な感覚ではなく、数字と項目で現実を並べろ。
■
紙の左半分に、今この身体が知っている情報を書き出した。ほとんどは、モレッティの日常の暗い襞から拾ってくる情報だ。家賃、質屋の位置、隣に住む夫婦の姓、階段の何段目が抜けているか。
紙の右半分に、前世の記憶から拾える情報を書き出した。
こちらは、書きながら手が何度も止まった。
禁酒法。あと十三年ほど続く。連邦の取り締まりは早々に骨抜きになり、地下の酒場が街の裏側で花開く。スピークイージーには生演奏が要る。
電気録音。マイクロフォンを使った録音方式。今のラッパ型ホーンによる録音とは音の質が根本から違う。数年で切り替わる。年までは覚えていない。二十年代の半ばだったはずだ。
ラジオ。今はまだ、実験放送に毛が生えた程度。数年で商業放送が本格化し、二十年代の後半には、都市部の家庭のかなりの割合が受信機を持つ。楽曲の版権収入の構造そのものが変わる。
トーキー映画。二十年代の後半に、音声つきの長編が公開される。作品名を思い出そうとして、思い出せなかった。ジャズがどうとかいうタイトルだった気はする。それだけだ。
株式市場。二十年代の後半に大きな暴落が来る。ダウ平均が、ピークからおおむね九割落ちる。ピークの数字は三百八十台のどれかだったはずだ。底は四十そこそこ。年は、二十九年の秋。月まで覚えている自信はない。
書き終えて、鉛筆の腹で、右半分の記述の下に線を引いた。線を引いた指の動きに、癖が残っていた。前世でエクセルの数字を睨みつけていた頃の癖だ。方角と距離。方角だけは書けている。距離は書けていない。二十九年の「秋」までは書けるが、十月の何日、と書こうとすると、ペン先が浮く。方角だけを頼りに、この時代を渡る。
紙を裏返し、もう一つ書き出した。
武器。
音楽の理論と編曲。前世の音大と、五年続けた素人のDTM。
金融と経営の実務語彙。前世のコンサルの現場で叩き込まれたもの。株を触った経験はないが、財務諸表と資本コストの読み方は身体に入っている。
英語の押韻感覚。この身体が公立学校とストリートで覚えた分。前世の頭では書けない類の言葉が、勝手に出てくる。
弱み。
金は四十七ドル二十三セント。
肩書はイタリア系移民二世。父の店は他人の名義になっている。
人脈はゼロ。前のモレッティが持っていた面識は、街角のカフェの店主と、家賃の督促に来る大家、あとはブレナン・ミュージック・パブリッシングの受付の女程度。
健康は普通。栄養状態は薄い。窓を閉めても指先の血の気が戻らないのは、たぶん、朝から何も食っていないせいだ。
鉛筆を置いた。紙の余白に、右手が勝手に別の一行を書きつけた。「頭の中の音符と、まだ組み立てられていないコード進行の設計図」。書いてしまってから、その一行を眺めた。他の欄には金額と地名と姓しか並んでいない。この一行だけが、金額のつかない項目だった。値段のつかない資産を、値段のつく資産の隣に並べて書く癖も、前世のコンサル現場で覚えたものだった。
鉛筆を置いて、コートの襟に手を伸ばした。父の遺したものだった。裏地の縫い目に、白い糸で「C.M.」の印字がある。カルロ・モレッティ。仕立て屋の癖で、自分で仕立てた服には全部この印を入れていた。指でその二文字をなぞった。糸の結び目が、指の腹に、砂粒ほどの高さで盛り上がっていた。
窓の外で、荷馬車の御者が馬に何か短く命じた。
■
通りに出ると、鼻の内側が凍った。
一月のニューヨークは、乾いた寒さの底に、石炭の煙の粒がまじる。息を吸うと喉の奥がざらつく。
西二十八番街。両側に軒を並べた石造りの建物の窓から、ピアノの音が漏れてくる。右の三階からラグタイム。左の二階からワルツ。正面の四階からは女のヴォカリーズ。それぞれの音は互いに構わず、通りの真ん中で乱雑に混ざり合っていた。ティン・パン・アレー。錫鍋を叩くような音の路。そう呼ばれる由来を、レオはこの身体で初めて肌で理解した。
角の新聞売りに二セントを差し出した。少年は素早く受け取り、レオの顔を一瞬だけ確かめてから、新聞の束の上のを引き抜いて渡した。イタリア人と分かった上で、金の色は取る、という手つきだった。
一面の見出しに目を落とす。
「禁酒法、一月十七日より施行、ヴォルステッド法発効」
(明後日)
記事の下段に、別の見出しがあった。マサチューセッツ州ブレインツリーの靴工場で、給料輸送車が襲われて、警備員が撃たれた。犯人はイタリア系の男二人という証言。二人の名前が並んでいた。ニコラ・サッコ。バルトロメオ・ヴァンゼッティ。まだ逮捕前の指名手配だ。
その名前を、頭の中の一部が、遠くから知っていた。裁判が長引く。有罪判決が出る。処刑される。年までは覚えていない。ただ、この二人は「イタリア人だから」処刑される、という文脈で覚えていた。歴史の教科書の脚注くらいの扱いだった。この身体で読むと、脚注ではなかった。
(二人は、たぶん、この街の空気ごと死ぬ)
新聞を折り畳んでコートのポケットに突っ込んだ。
通りを歩き出すと、正面から来た三人組の男が、レオの前でだけ、わざと歩幅を広げて避けた。三人のうち一人が、通り過ぎざまに連れの耳元に何か言った。相手は笑った。振り返らなかった。振り返っても、あの三人は「何のことだ」という顔をして立っているだけだろう。
カフェの窓際に貼り紙があった。「イタリア人お断り」の一行だけが、他の告知より一回り大きな活字で刷られていた。店員募集の但し書きだった。カフェの中では、白いエプロンをかけた店員がコーヒーを注いでいる。硝子の向こうの湯気が、こちら側の凍った顔と、間に一枚だけ壁を挟んでいた。
レオは店に入らなかった。喉が渇いていたが、入らなかった。
入っても、店員はコーヒーを注ぐ手を止めて、顔を上げてから、その一行を指差すだろう。前のモレッティが何度か経験したことだった。この身体の胃の底に、その所作の順番が沈殿している。
(金を稼ぐ。この身体の顔立ちに向けられる視線の色は、金の重みで変わる)
二十八番街と七番街の角で立ち止まった。目の前のビルの二階に、金色の文字でブレナン・ミュージック・パブリッシングの社名が刷られた曇り硝子の窓が見えた。中で誰かがフォックストロットを弾いていた。半音下がったBの音が、外の通りにまで漏れていた。
入る前に、二歩戻った。
まだ、曲が一枚もない。手ぶらで顔を出せば、次に持ち込む時の値段まで下がる。
角を曲がって、アパートに引き返した。
■
午後の光が斜めに差し込む部屋で、鍵盤に向かった。
初めは、この時代のヒット曲を弾いた。この身体の記憶の中から、去年の売れ筋を三、四曲。単純な一度・四度・五度・一度の進行が支配的だった。AABAの三十二小節構成、Bセクションでほんの少し曇る程度。テンションはほとんど使われない。二十年代のポピュラー音楽が、まだこの水準にあることを、指で確かめた。
(十年分だけ先取りする。二十年代の終わりのスウィングが持っていたはずの、あの少しだけ揺れる和声を、今、少し早めに置く。それ以上先取りしたら、この時代の耳には「変な曲」に聞こえて終わる)
左手でCから始まる循環の型を叩いた。C、Am、F、G。手垢のついた四つのコードだ。右手で、その上に旋律を組み立てる。ABABの型を頭の中に置きながら、Bセクションの二小節目にだけ、セカンダリー・ドミナントで一瞬だけ別の調に寄り道するフレーズを差した。着地は元のCに戻す。聴き手が「あれ?」と思った次の瞬間には、安全な場所に戻っている。その緩急。前世のDTMの画面で、モジュレーションをかけて元に戻すあの動きと同じ思想だった。
三時間経った頃、旋律が形になった。四月の月。歌詞の骨格を、この身体の英語で書き起こした。押韻は、この身体が街角で拾って積んできたぶんの手数だけ、勝手に選ばれていく。前世の頭では書けない、微かな移民訛りの残る英語だった。
紙に清書した楽譜を、テーブルに立てかけて、外側から眺めた。
(この時代の基準で、少しだけ上の曲だ。天才の曲ではない。それでいい)
天才の曲を最初に出せば、注目と嫉妬をまとめて呼び込むことになる。無名のイタリア系が、この街で、この顔立ちで、いきなり注目を浴びる意味を、この身体はよく知っている。
楽譜を鞄に入れ、二日後の朝、コートの襟を立てて出た。
■
一月十七日。
角のサルーンには、朝から板が打ちつけられていた。店主が黒い長靴のまま歩道に立って、板を打つ音を、腕組みして聞いていた。表情はなかった。ただ、腕を組む肘の高さが、店の中を振り返るときにだけ、一度、下がった。
その隣を通り過ぎながら、レオは店主と目を合わせなかった。
(この人は、店を潰して、それでも喉が渇く。渇きは、板一枚では止められない)
二十八番街に入ると、通りの空気は、いつもより湿っていた。夜のうちに、どこかの店の扉が塗り替えられた。その塗料の匂いだった。夜が明ける前に、酒場が、酒場でない何かに変わっていた。
ブレナン・ミュージック・パブリッシングの二階に上がる階段は、真ん中の五段目が少し軋んだ。廊下の突き当たりに事務所があった。扉を押すと、葉巻の煙とインクの匂いが、寒さのままの服にまとわりついた。受付の若い女は、レオの顔を見て、名前を聞かず、奥の部屋に顎で示した。前のモレッティを、何度も追い返した女だった。今日は追い返さなかった。
ハーヴェイ・ブレナンは、机の向こうで葉巻を咥えたまま、楽譜の束を睨んでいた。禿げ上がった頭の両脇に白い巻毛が残っている。五十歳。目は小さいが、瞼の下の光が動く角度で、こちらの財布の中身まで見透かしている。前のモレッティが持ち込んだ何曲かを、丁寧に読んで、丁寧に突き返した男だった。
「モレッティか。今日は何を持ってきた」
「一曲、あります」
部屋の隅のアップライトのふたを開けて、腰を下ろした。ペダルを踏んでみて、右のペダルが少し戻りが遅いのを指の感覚で確かめた。ブレナンは椅子を動かして、葉巻を灰皿の縁に置いた。
弾き始めた。
AABAの三十二小節。Bセクションの二小節目で、右手が一瞬だけ半音上の和音を掠める。ブレナンの葉巻の煙が、その一拍だけ——揺れずに止まった。着地でCに戻ると、煙は元の流れに戻った。
弾き終わって、ペダルから足を離した。ホールドが解けたピアノの残響が、二秒だけ部屋に残った。
ブレナンは、それを聞き切ってから、口を開いた。
「あの転調は、どこで覚えた」
「独学です」
「ふん。独学にしちゃ、上出来だ」
椅子の背もたれが軋んだ。ブレナンが立ち上がって、窓際に歩き、通りを見下ろした。二階の高さから、通りを見下ろす角度に、癖があった。この男は、これまで何百人の作曲家を、この角度で計ってきた。
振り返らずに、言った。
「いいだろう、買おう。一曲目を25ドルだ」
知っていた答えだった。だが指先の温度は、それでも少しだけ下がった。工場労働者の週給と同じ額。前のモレッティが去年、この事務所の廊下で他の作曲家から聞かされて、口の中で噛みしめていた数字。
顔には出さなかった。
「分かりました」
契約書は薄い便箋に手書きで、条件はたった三行だった。買い切り。曲の権利の全てがブレナン・ミュージック・パブリッシングに移る。永久に。署名する欄はレオ側だけに用意されていて、ブレナンは既に判子を押してあった。
万年筆を借りて、自分の名を英字で書いた。前のモレッティの筆跡と、なめらかに繋がった。
二十ドル札一枚と、五ドル札一枚を受け取った。紙は少し湿っていて、葉巻の匂いがした。
「また書けたら持ってこい」ブレナンは新しい葉巻に火をつけた。「お前の曲は、悪くない。だがまだ25ドルだ。50ドルの曲を書けるようになったらまた来い」
「ありがとうございます」
レオは頭を下げた。礼儀正しい、イタリア系の青年として。
(25ドル。俺の曲がこの先ヒットしても——1セントも入らない。全てブレナンの懐だ。覚えておけ。いつか、お前の方が俺の条件を飲む側になる。……だが少なくとも、お前に曲を売る必要がなくなる日は、必ず来る)
扉の外で、廊下の突き当たりの窓に、午前の光が斜めに差していた。埃が光の筋の中でゆっくり回っていた。階段を降りるとき、五段目がまた軋んだ。行きに聞いた時より、少しだけ、大きな音がしたように聞こえた。
■
通りに出て、二十五ドルをポケットの奥で握った。指が皺の寄った紙の縁を確かめた。
角のサルーンでは、板の打ちつけがもう終わっていた。店主の姿はなかった。店の裏手に細い路地が伸びていて、その奥の勝手口の前に、若い男が二人、両手をポケットに突っ込んで立っていた。看板はない。だが看板がないことが、これから看板の代わりになる。夜になれば、そこから客が入る。
通りの反対側の壁に、大きな貼り紙が新しく貼られていた。ピアノ弾きを募集する、週末の夜だけの走り書きだった。手書きの雑さで、通りに面したどの店のものかを明かしていない。夜、勝手口から入る類の店の告知だった。
少し離れたところで足を止めて、貼り紙を目の端に入れたまま、新聞売りから今日の夕刊を買った。二セント。買うためのしゃがみ方も、この身体は覚えていた。腰の落とし方に、癖があった。
(週末の夜。ピアノ弾き。……危ない側の店だ)
貼り紙の下の余白に、店の名らしき略号が鉛筆で書き足されていた。頭文字だけだった。前のモレッティが、去年、酔ったサル・コスタンツォという男に一度連れて行かれた店の、頭文字と同じだった。この身体の記憶の底で、そのイニシャルが、細くて甘い匂いと結びついていた。密造ジンの匂い。
貼り紙を、頭の中に置いた。書き写しはしなかった。
書き写せば、この道の先に一つだけ橋がかかる。書き写さなくても、明日、もう一度この壁の前を通れば、まだ貼ってあるかどうか、それで分かる。
■
アパートに戻ると、机の上のランプに火を灯した。芯が古くて、赤い炎が長く立った。窓を閉めた。ラジエーターがまた蒸気を吐いた。
テーブルに紙を広げて、鉛筆で、数字だけを並べていく。前世でコンサルの現場で叩き込まれた癖が、この部屋のこの机の前で、今日も動いた。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1920年1月末
【資産】
現金 $72.23
アップライトピアノ $50(推定)
楽譜原稿 $0(在庫1曲、未売却)
【負債】
家賃滞納 $15(1ヶ月分・未解消)
【月間支出(見込み)】
家賃 $15
食費 $12(1日40セント)
雑費 $3
合計 $30/月
【純資産】約$107.23(ピアノ含む)/$57.23(現金正味)
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鉛筆を置いた。
紙の下の欄外に、小さく、当面の順番を書き加えた。
一、曲を書き続ける。売れる曲を、売れる先に。
二、夜の演奏の口を探す。日銭を安定させる。
三、版権を自分側に残す仕組みを、いずれ作る。
四、ラジオ放送の本格化に、曲のカタログで先回りする。
五、二十年代の後半までに、暴落に耐える規模の資産を積む。
五番目を書いた鉛筆の芯が、紙の繊維で少し引っかかった。
その引っかかりで、手を止めた。
(一本足はよくない。ラジオがすべてを持っていく前提で組み立てて、もしラジオの利権が大資本に囲い込まれたら、俺の書いた曲は、一枚も電波に乗らないまま終わる)
紙の裏に回して、細い字で書き足した。
※無声映画のBGMカタログ、あるいはダンスホールの卸し。もう一本、確実な流れを持つ。
※一本足打法は——素人のやることだ。
鉛筆を置いた。
窓の外はもう暗かった。二十八番街の看板の灯りの多くが消え、その代わりに、幾つかの建物の裏口で、白い煙草の火が、二つ、三つ、揺れていた。板を打ちつけたサルーンの裏の路地に、今夜も男が二人立っていた。看板のない店の看板役だった。
鍵盤に指を戻した。二曲目を書く。今度は、明るいランプの下ではなく、地下の薄暗い灯りの下で客の足を止めさせる種類の曲を。フォックストロット。踊るための拍。密造ジンの甘さと、警官の靴音への警戒とが同じ空気の中で溶ける場所で、それでも三分だけ生き延びる旋律。
左手が四分音符でCから循環の型を刻んだ。C、Am、F、G。右手が、その上に旋律の最初の四音を置いた。E、G、A、C。四音目のCを少しだけ長く伸ばして、次の小節でシ♭に落として、Bセクションへの橋を作った。指の腹が、鍵盤の窪みに慣れた場所を探して、勝手に落ちた。
紙の隅に、鉛筆で四つの数字を書き付けた。20、30、50、100。今夜の二曲目が、ダンスホールに入る夜、貼り紙の店の勝手口に入る夜、二曲まとめて次の出版社に持ち込む夜、そしていつか、この事務所の椅子に座って自分の版権を守る夜。それぞれで、この身体が引き出しの上に積み上げているだろう額の見当だった。全部、この一月末の紙の上ではただの数字だった。
角のサルーンの裏の路地から、細い笑い声が上がった。誰かが硝子を割ったのか、続けて、乾いた高い音がした。
レオは鍵盤を叩き続けた。
(始まった)
窓の外で、板を打ちつけた店の裏に、また一人、影が入っていった。
(十年後のカウントダウンが——)