五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第10話】帝国の設計図

 1927年の秋の、しまいの日だった。

 

 窓の外で、NBCの中継トラックが二台、二十八番街の角を曲がっていった。全国ネットワーク放送が始まってからちょうど一年。一月にはCBSが電波を開いた。街の空気が電波の湿度で滲むように変わっていくのを、レオは事務所の窓越しに二年見ていた。

 

 デスクの上には、ルーがさっき置いていった月次の紙が広げてある。

 

 四本柱。楽曲版権。録音。ラジオ。映画。

 

 二年前は二本だった。電気録音に先回りして取った契約が根を張り、NBCの包括ライセンスがASCAPの分配金を押し上げ、ジャズ・シンガーがワーナーを寄越した。指で紙の縁をなぞると、印刷したての油の匂いがした。

 

(四本。全部、動いている)

 

 その一行を頭の中で置いてみて、なぜかその重さが手に伝わらなかった。四本の柱を立てたのは自分だ。設計図も引いた。しかしこの部屋の空気が、それを祝っていない。祝う相手が、ここにはいない。

 

 ドアが開いた。

 

「ASCAP、10月分の通知。あなたの分配金、$520」

 

 ルーが書類の束を抱えて入ってきた。眼鏡の奥で、何かを計算し終えた顔。ルーが計算している時は、いい数字か、悪い数字か、そのどちらかだ。中間はない。

 

「先月より上がったな」

 

「NBCの影響。地方局のネットワーク加盟が増えてる。シカゴでもデトロイトでも、あなたの曲が流れてる。一曲書けば全米で金が入る」

 

 ルーがデスクの上に紙を置いた。ペンで押さえた癖のある、四つ折りの跡が細く残っていた。

 

(電波の距離が金額に化ける。この構造に、彼らはまだ気づいていない。気づいた頃には、遅い)

 

 紙の見出しはルーの字だった。

 

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 モレッティ・ミュージック 月間収支

 1927年11月

 

 【収入】

  楽曲版権(楽譜・ライセンス)$480

  録音関連          $650

  ASCAP演奏権料       $520

  映画音楽使用料       $380

  ラジオ局供給料       $45

  演奏料           $130

  合計            $2,205

 

 【支出】

  家賃        $80

  食費        $40

  サル給与      $250

  ルー報酬      $150

  クリフ報酬     $140

  ゴールドバーグ楽譜店$30

  印刷・郵送費    $40

  録音スタジオ費   $130

  事務費・通信費   $35

  マッシモへの支払い $100

  雑費        $30

  合計        $1,025

 

 【月間剰余】$1,180

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 支出欄の末尾に、ルーの字で「保護費用」と注記された一行があった。マッシモへの支払い、$100。この夏、アンジェロ経由の要求に折れる形で払い始めた。直接会ってはいない。サルの従兄弟のトニーが封筒を受け取り、マッシモの組織に運ぶ。顔の見えない取引だ。金だけが動く。

 

「月$1,180の剰余。年間$14,000以上ね」ルーが指で数字を追った。「悪くない。でも」

 

「マッシモからの要求が上がる。そうだろう」

 

 レオが先に置くと、ルーは少しだけ目を丸くして、すぐに頷いた。

 

「ええ。トニーがサルに伝えてきた。『お前たちの社長はもっと出せるだろう』って。来月から倍の$200」

 

 レオは紙を裏返した。裏の白い面が、事務所のランプの下で薄く光っていた。

 

(成長すれば、寄生虫の取り分も増える。少額から始め、宿主の体力を見極めて段階的に絞る。マフィアの帳簿は、経営学の教科書と同じ論理で書かれている)

 

「分かった。予定通りだ。当面は$200の出費を前提に資金繰りを回してくれ」

 

「予定通り?」

 

 ルーが眼鏡を押し上げた。押し上げた指が、フレームの上で一拍だけ止まった。

 

「レオ、あなたまさか、このまま黙って払い続けるつもり?」

 

「まさか」

 

 デスクの上のペンを、指で弾いた。転がって、紙の縁で止まった。

 

「いつ、どうやって反撃するか、タイミングを計算しているところだ。今はまだ、こちらの手札が足りない。だから時間を買う」

 

 ルーはそれ以上追わなかった。追わなかったが、納得したわけでもないのが、書類を仕舞い直す指の速度で分かった。

 

「FOXから問い合わせが来てる。トーキー映画2本分の楽曲提供。ワーナーの契約と同じ条件でいいかって」

 

「いい。クリフに伝えてくれ」

 

 ルーが出ていった後、レオは紙をもう一度表に戻した。マッシモの一行を、指で押さえた。

 

(脱税で潰す。そのカードは、国家が動く時にしか切れない。連邦が本腰を入れるのはもう少し先だ。カポネが帳簿の不整合で立たされる年——正確な年は覚えていない。1930年代のどこかだ。それまでは、餌を食わせて肥らせておく)

 

 

 

 

 11月末の夜。

 

 ミッドタウンのホテルのボールルーム。招待状が来たのは三度目で、今回だけは断る口実がなかった。音楽出版社、レコード会社、ラジオ局。業界の顔ぶれが百人以上、天井の下で笑い、叫び、グラスを打ち合わせている。バンドがチャールストンを叩き、ダンスフロアで男女が跳ねていた。煙草の煙が天井に渦を巻き、シャンパンの糖の匂いが、湿った熱にまじって鼻の奥に張りついた。

 

 レオは部屋の隅に立って、グラスを持っていた。飲まなかった。

 

「永遠の繁栄だ!」

 

 誰かが叫んだ。ティン・パン・アレーの中堅出版社の男。名前は知っているが、覚えるつもりがない類の名前だ。

 

「クーリッジの経済政策は完璧だ! この好景気は止まらない! 株は上がり続ける、ラジオは全米に広がる、映画は音を手に入れた! アメリカは世界の覇者だ!」

 

 拍手。歓声。グラスが掲げられる。ダンスホールの床板が、掲げられたグラスの数だけ、細かく揺れた。

 

「レオ!」

 

 サルが人混みを掻き分けてきた。額に汗を浮かべ、蝶ネクタイが片方だけ曲がっていた。

 

「お前もグラスを上げろよ。永遠の繁栄だってさ」

 

(永遠の繁栄。この部屋の半分が、あと二年で自分の靴の値段を気にする側に回る。今夜、金を撒いている手が、公園のベンチで新聞紙を敷く手になる。それを言えば、正気を疑われる。言わなくても、正気を疑いたくなる夜だ)

 

「ああ」

 

 レオはグラスを上げた。口には運ばなかった。

 

 ルーが横に来た。黒いドレスに眼鏡。ダンスフロアの光が、レンズの縁で一度だけ跳ねた。

 

「楽しそうじゃないわね」

 

「楽しいよ」

 

「嘘ね。あなた、一口も飲んでない」

 

 嘘は、ルーには効かない。数字だけでなく人間も読む。だからいつか——レオが隠している「未来への異常な確信」と、それを裏付ける「合理的な根拠の不在」の、その隙間の音を、彼女は聞きつける。

 

「ルー。お前はどう思う。この好景気は続くか」

 

「続くか、って」

 

 ルーがシャンパンを一口だけ含んだ。飲む前に、含む間隔がわずかに長い。ルーの癖だ。

 

「ラジオ、自動車、トーキー。新しい技術が次々と生まれて、経済の構造そのものが変わっている。今までのような一時的な好景気とは違う、新しい時代に入ったと考える方が自然じゃないかしら。数字も裏付けてる。GNPは伸び、失業率は低い。なぜ?」

 

「なぜって?」

 

「なぜそんなことを聞くの。あなた、儲かってるのに。事業は好調で、株も上がってる。それなのに、パーティで一人だけ立ってる。何が不安なの」

 

(全部だ。この繁栄が砂上の楼閣だと知っている。しかしそれを言えば、「なぜ知っている」と問い返される。俺には答えられない)

 

「不安じゃない。慎重なだけだ」

 

 レオは声の高さを、天井の下の熱気の高さより一段だけ下げた。

 

「マージン取引の残高が異常な速度で膨らんでいる。FRBの低金利が投機を煽っている。実体経済との乖離が大きすぎる」

 

 もっともらしい経済の理屈を並べた。ルーはそれをシャンパンと一緒に飲み下し、小さく首を振った。

 

「それは『暴落が起きるかもしれない可能性』の理屈であって、あなたが『暴落が起きると確信している』ことの理由にはならないわ」

 

 心臓が、一拍だけ跳ねた。

 

「レオ。モーがレバレッジを勧めても、あなたは絶対に乗らない。ただの慎重さなら、少しは乗るはずよ。でもあなたは——まるでこの先の崖が、確実に見えているように振る舞う」

 

 ルーの目が、眼鏡の奥から真っ直ぐレオを見た。疑いではない。観察者の目。数字の裏の論理を探す時と、同じ角度だった。

 

「あなたの判断にはいつも根拠があった。でも、この市場への恐怖だけは違う。根拠のレベルを超えている。あなた、本当は何を見ているの?」

 

「言えないこともある」

 

「言えない」

 

「ああ」

 

「……そう」

 

 ルーはそれ以上追わなかった。グラスを傾けて、残りのシャンパンを飲み干した。飲み下す喉の動きが、レオが答えなかった長さと同じだけ、少し長かった。

 

「私はあなたを信じてる。CFOとして、投資判断には従う。でも信じることと、リスクを共有することは、別よ。あなたの見ているものが見えない限り、この会社の財務を、本当の意味では守れない。いつか、教えてくれる?」

 

「いつか」

 

 いつか、は来ない。この秘密は墓まで持っていく。しかしルーにそう言うことは、できなかった。

 

 ルーの背中が、人混みの中に消えた。バンドがチャールストンからスロー・フォックストロットに切り替わり、フロアの回転が一段ゆるくなった。ゆるくなったぶんだけ、笑い声の粒が耳の側で肥大した。永遠の繁栄を信じる百人の中で、一人だけ、その言葉の重量を知っている男が立っていた。

 

(孤独だな)

 

 前世でも、この感覚に覚えがあった。深夜の会議室。誰もいないフロア。クライアントの粗利率を並べたスプレッドシートを、疲労で霞む眼で見ていた頃。あの空虚とは、種類が違う。あれは自分の時間を売った空虚だった。これは、共に会社を育てた人間に、嘘をつき続ける空虚だ。人間関係を、根の側から腐らせる種類の。

 

 

 

 

 同じ11月末。事務所。

 

 クリフとパールが来た。クリフはトランペットのケースを膝の脇に立て、いつもの通り、口を先に開けなかった。パールはソファに腰を下ろした。男物のソフト帽を被ったまま。麻色の肌、目が強い。歌う時より、喋る時の方が声が低い。

 

「レオ。来年の話がある」

 

 パールが帽子のつばを一度だけ触った。

 

「コロムビアが、来年の録音枠を倍にするって。あたしの盤が南部でも売れ始めた。ジョージア、アラバマ。黒人棚から白人棚に渡る店も出てきたのよ」

 

「先月の売上は」

 

「3,000枚。モレッティ&ジョンソンの『Harlem After Hours』。クリフのラッパとあたしの声」

 

 3,000枚。レース・レコードとしては上出来だ。25年のブラック・スワン録音の時は、名前も出なかった歌手が、二年でここまで来た。電気録音の技術がマイクとパールの声を正しく繋いだからだ。

 

(レコードの売上は、今年がピークだ。マクロでは覚えている。29年の暴落の後、レコード産業は事実上ゼロに近い底まで落ちる。ラジオの生放送が、聴取の主戦場になる。年までは覚えていない。ただ、方角は間違えていないはずだ)

 

「パール。来年は録音の本数を増やさない」

 

 パールの目が細くなった。帽子の下で、瞳の色が一段暗くなった。

 

「増やさない? 売れてるのに?」

 

「代わりにNBCの生放送枠を増やす。あんたの声をラジオに乗せる」

 

「ラジオ?」

 

 パールが鼻を鳴らした。鼻が鳴った音の高さで、この話題への評価がもう決まっていた。

 

「生放送はレコードのロイヤリティより安い。それに、生ものでしょ。盤みたいに残らない。あたしは残るものがいい。あたしの声が盤になって、棚に並ぶ」

 

(残るもの。だが数年のうちに、その残るものを買う人間の数が消える。棚の側が消える)

 

「ラジオの方が長く続く」

 

「根拠は」

 

「NBCの加盟局は昨年比で倍増。広告収入も倍。聴取者は増え続けている。レコードの四半期成長率は前年比プラス12パーセントに落ちた。一昨年は35パーセントだった。伸びが折れている」

 

 地の文で言えるのは、そこまでだった。折れているのは伸びであって、市場そのものはまだピークにいる。ピークの直前が一番怖いというのは、前世の教科書で読んだ一行だ。読者は、その一行を金融危機の事例で覚えていた。パールはその一行を読んでいない。

 

 パールがクリフを見た。クリフは窓の方を向いていた。答える前に窓を見る癖だ。窓の向こう、二十八番街の並木が、街灯の下で影を作っていた。

 

「……レオの数字は、外れたことがない」

 

 クリフが、窓に向いたまま言った。

 

「電気録音の時も、トーキーの時も。レオが早く動けと言った時に動いた奴だけが、間に合った」

 

「数字?」

 

 パールの声が、少しだけ尖った。

 

「クリフ、あんた、あたしの声を数字で動かすのかい」

 

「動かせとは言っていない。俺は、レオが窓の外の何を見ているのかを、まだ知らない。だが二年、外していない」

 

 パールは長い間、二人を交互に見ていた。それから帽子を被り直した。

 

「専属の話が来たら、って言うんだろ?」

 

「来る」レオは言った。「あんたの声なら、来年の頭にも」

 

「その時に、あんたは何を勧めるの」

 

「録音義務の枠を、契約書で最小に絞れ。ラジオ出演を義務じゃなく権利にしろ。契約年数は短くしろ。三年より、二年」

 

 パールは黙ってレオを見た。目の強い、率直な視線だった。

 

「あんたの言うことは、いつもきれいに理屈が立ってる。でも、そこに何かが足りない気がする。あんたが本当に何を怖がってるのか——それが、今日は分からない」

 

(怖がっている。当たりだ。恐ろしいのは、俺の記憶の方だ。前世で読んだ一行が、この時代のあんたの棚を、決めてしまうかもしれない)

 

「怖がってはいない。慎重なだけだ」

 

「慎重ね。あんたの慎重は、他人の意気地の分まで慎重だ」

 

 パールが立ち上がった。クリフもゆっくり腰を上げた。トランペットのケースの持ち手を、右手で握り直した。ドアの手前で、パールがもう一度振り返った。

 

「考えておくよ。でもラジオなんて、あたしの本筋じゃない」

 

 二人が出ていった。ドアが閉まって、事務所の空気の温度が、少しだけ下がった気がした。

 

 レオはルーを呼んだ。

 

「ルー。来年の予算を組み替えてくれ。録音予算は維持。だがNBC生放送枠を、月4本追加する」

 

「レコードのロイヤリティより、ラジオ枠の方が安い。利益は減るわ」

 

「減っていい。柱は多い方がいい。一本折れても倒れない」

 

 ルーが眼鏡を押し上げた。

 

「一本折れる、って、どれが」

 

「四本のうち、遅かれ早かれ、どれかは折れる。それが構造だ」

 

 ルーはしばらく黙って、書類を胸に抱え直した。

 

「あなた、以前『一本足打法は素人のやることだ』って書いた紙を、机の端に置いてたわね。1920年の一月末の日付が入ってた」

 

「よく覚えているな」

 

「あの紙を見た時、私は、この人のCFOをやろうと思ったの。だから今の話は理屈は分かる。分かるけど——理屈より先に、あなたの声の高さで、また『いつか』が来ようとしてるのが分かる」

 

 レオは答えなかった。答えを持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 12月半ば。モーの事務所。

 

 リンドバーグがパリから戻って、ブロードウェイのパレードに詰めかけた400万人の熱が、ようやく引いた頃だった。33時間30分の飛行の話は、街の子供の会話の芯にまだ残っていた。一人の男が大西洋を飛べるなら、株式市場も上がり続ける。人々の頭の中で、この二つの命題は同じ論理で繋がっていた。

 

 モーが公定歩合の紙を寄越した。指の先にインクの染みがある。

 

「3.5パーセントに下がった」

 

 モーは懐中時計を弄っていた。父親が船から降りた時の唯一の財産、と、九月に見せられた時計だ。

 

「ストロング総裁の判断だ。ヨーロッパの金本位制を支えるために、アメリカの金利を低く保ちたい」

 

「金利が下がれば」

 

「マージン取引のコストが下がる。借金で株を買うのが安くなる。もっと借りて、もっと買う。それだけの話だ」

 

(1927年の金利引き下げ。前世の教本で読んだ一行の中に、確かこの年の名前があった。ストロングは、来年か再来年に死ぬ。結核。58歳だったはずだ。彼がいなくなった後、FRBは方向を失う。引き締めは遅すぎ、緩和は止められず、バブルは限界まで膨らむ)

 

「モー。お前はレバレッジを上げたか」

 

「少しな。RCAを追加で50株。証拠金25パーセント。4倍だ」

 

「4倍か」

 

「お前にも勧める。マージンを使えばポートフォリオを3倍にできる」

 

「やらない。俺の金は俺が決める」

 

 モーは口を閉じた。一度断れば、モーは引き下がる。数字の男は、他人の判断の速度も数字で計る。断りの速度が、断りの重さだ。

 

 

 

 

 同じ月末。事務所。

 

 サルが入ってきた。封筒を持っていた。顔色が悪い。

 

「レオ。マッシモの件だ」

 

「何があった」

 

「トニーから連絡があった。来月から、$200だ」

 

「$100から$200に、倍か」

 

「ああ。マッシモが」サルが唇を噛んだ。「映画の契約が入ったことを、どこかで嗅ぎつけたらしい。売上が上がった分だけ、寄越せ、と」

 

 レオはデスクの上のペンを回した。ペン軸の側面に、二年前に指で押しつけた凹みが、まだ残っていた。

 

 事業の成長が、搾取の増大に直結する。稼げば稼ぐほど、宿主は太る。宿主が太れば、寄生虫も太る。マフィアの帳簿は、経営学の教科書と同じ論理で書かれている——今日、この文言を頭の中で二度置いた、と気づいた。

 

「サル。払うしかないのか」

 

 サルの声が、いつもより低かった。

 

「ああ……リトル・イタリーに俺の家族がいる限り、表立って逆らうわけにはいかない。ロザリアも、マルコもジーナも、あそこの通りを歩く。最初は、マフィアなんかにお前を関わらせないと言っていたのにな」

 

「謝るな。お前一人の責任じゃない」

 

 サルが額に手を当てた。両手で頭を抱えて、椅子の背にもたれた。

 

「レオ。お前、何か考えてるんだろう。前に『タイミングを計算してる』と言ったよな。何をするつもりだ」

 

「まだ言えない」

 

「まだ? いつなら言える」

 

 サルの目に、初めて苛立ちが浮かんだ。自分の従兄弟が寄生虫の運び屋になっていることへの、身内の側の恥。そして、事態を打開するかもしれない計画を、相棒であるはずの自分にすら、明かされないことへの苛立ち。

 

「サル。信じてくれ。計画はある」

 

「計画? お前の事業計画はいつも完璧だ。だが、この裏の計画については、俺には何も教えてくれない。俺の家族のせいでお前が稼いだ金が、毎月マッシモに流れてる……レオ、俺たちはいつまで、マフィアに怯えながらこんなことを続けなきゃいけないんだ」

 

(いつまで、か。禁酒法は当分続く。だが、マッシモを潰す道具は、その終わりを待たなくても手に入る。連邦が動くタイミングに乗ればいい。乗るためには、こちらの帳簿を先に整えておく必要がある。今、その準備を進めている。しかし、それをお前に話すことは、お前の従兄弟の身の始末を、お前に先に決めさせることになる。それは俺の側でやる)

 

「もう少しだ。もう少し、待ってくれ」

 

 サルは何も言わずに出ていった。ドアが、静かに閉まった。怒鳴られるより、静かに閉まるドアの方が重い。

 

 $200/月。年間$2,400。金額そのものは、払える。問題は金額ではない。方向だ。$200が$300になり、$500になり、やがてマッシモは金だけでなく事業そのものに手を伸ばしてくる。演奏しろ、と言い、楽曲を使わせろ、と言い、最後にはモレッティ・ミュージックを自分の傘下の看板に書き換えようとする。時間との競争だ。マッシモが本気で食い込んでくる前に、こちらのカードを、切れる形にしなければならない。

 

 

 

 

 年が明けて、1928年。

 

 レオは引っ越した。28番街の安アパートから、パーク・アベニューの高級アパートメントへ。月$200。

 

 贅沢ではない。投資だ。映画会社の重役が、28番街のボロアパートに住む男と本気で取引したいとは思わない。住所がパーク・アベニューなら、話の入り口の温度が変わる。くだらないが、この時代の信用は、住所と仕立ての線でできている。父が生きていれば、その仕立ての線のことなら、レオよりよく分かったはずだった。

 

 新しい部屋の窓からはセントラル・パークが見えた。冬の枯れた枝が、公園の光を横に払っていた。広いリビングにグランドピアノを置いた。寝室とは別に、書斎がある。

 

 書斎の壁に、白い紙を一枚、画鋲で留めた。

 

 「1929年秋 DJIA 380台」

 

 手書きの数字。誰にも見せない紙だ。ルーにもサルにもモーにも。日付までは覚えていない。前世の教本で、線グラフのピークの側に、赤の細い矢印で書き込まれていた記憶だけが残っている。9月だったはずだ。前後1ヶ月の幅は、覚悟しておく。記憶が変質していないことを祈るしかない。

 

 ピアノの前に座った。鍵盤に指を置いた。Aの音。440ヘルツで調律させてある。この時代の標準はA=435が多いが、俺の耳が覚えているのは440だ。国際標準として世界がこの数字に揃うのは、確か戦間期のどこか。前世の音楽史のノートで、下線が引いてあった気がする。年までは、思い出せない。

 

 俺だけが正しいと知っている音。

 

 その音が、夜の部屋の壁と天井にゆっくり吸われて消えるまで、耳を澄ませた。前世の1Kの狭さで鳴らした和音とは、残響の長さが違う。しかし、指の腹に残る感触は、同じだった。

 

 

 

 

 2月。

 

 モレッティ・ミュージックの版権カタログが、52曲になった。

 

 自社出版の楽曲52曲。楽譜、レコードへのライセンス、ASCAPの作家分と出版者分の両取り。版権は消えない。俺が死んでも、俺の曲が誰かに弾かれる限り、金が入り続ける。この一行を、去年ブレナンの二階の階段の五段目を降りる時に、頭の中で置いたことがある。あの時の五段目の軋みは、今も指の関節の記憶にある。

 

 FOXとの契約が正式に始まった。ワーナーに続く二社目の映画会社。トーキーの拡大に、こちらの供給が追いついた形だ。

 

 ルーが月次を持ってきた。

 

「2月の映画音楽収入、$450。ワーナー$280、FOX$170。四本目の柱が、はっきり利益として立ってきたわ」

 

「四本目じゃない。四本目のうちの、最若だ。まだ細い」

 

「細くても、立ってれば柱よ」

 

 ルーの声から、11月の夜の刺は消えていた。消えたのではなく、押し戻したのだと分かった。眼鏡を押し上げるいつもの指の動きの、間隔が少しだけ短い。

 

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 モレッティ・ミュージック 月間収支

 1928年2月

 

 【収入】

  楽曲版権(楽譜・ライセンス)$500

  録音関連          $680

  ASCAP演奏権料       $540

  映画音楽使用料       $450

  ラジオ局供給料       $45

  演奏料           $130

  合計            $2,345

 

 【支出】

  家賃(パーク・アベニュー)$200

  食費          $45

  サル給与        $250

  ルー報酬        $160

  クリフ報酬       $140

  ゴールドバーグ楽譜店  $30

  印刷・郵送費      $40

  録音スタジオ費     $130

  事務費・通信費     $35

  マッシモへの支払い   $200

  雑費          $30

  合計          $1,260

 

 【月間剰余】$1,085

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 剰余$1,085。数字としては悪くない。しかし、そのうち$200が、封筒に入ってサルの従兄弟の手に渡り、リトル・イタリーの裏路地を歩き、マッシモの帳簿に別の名で書き込まれる。同じ$200が、支払い側の帳簿では「保護費用」で、受取り側の帳簿ではおそらく「架空の運送費」だ。その二つの帳簿の、噛み合わない歯車の隙間に、いつか国家の指を差し込ませる。

 

 レオは月次を閉じて、別の紙を取り出した。

 

 書斎の引き出しの奥に、鍵をかけて仕舞ってある紙。壁の「1929年秋 DJIA 380台」と、対になるメモだ。

 

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  出口戦略(メモ)

  1929年夏:全ポジション清算

   → ワーナー、RCA、GE、AT&T、GM

   → 天井の前に売る。天井は秋

  1929年秋:空売り開始

   → 暴落を利用して利益を出す

  注意:空売りの利益 ≠ 正義

   → 他人の破滅から儲ける行為

   → それでもやる。やらなければ

     生き残れない

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 メモを引き出しに戻した。鍵をかけた。鍵の音が、書斎の板の間に短く落ちて、消えた。

 

 この計画を知っているのは、この世界で一人だけだ。ルーにも言えない。サルにも言えない。言えば、「なぜ暴落が来ると知っているのか」を、説明する番になる。そこで俺の言葉は止まる。

 

(また同じことを思っている。孤独、と。同じ言葉を二度置くのは、思考が固まっている証拠だ)

 

 

 

 

 同じ月末。株式の帳簿。

 

 レオのポートフォリオは、慎重に、しかし着実に伸びていた。

 

 AT&T 43株 @$178(取得平均$152)

 GE  175株 @$60(取得平均$42)

 GM  50株 @$175(取得平均$145)

 ワーナー 100株 @$35(取得$8.25)

 RCA  30株 @$90(取得平均$82)

 

 ポートフォリオ時価:$25,550

 マージン借入:$5,000

 ポートフォリオ純資産:$20,550

 

 ワーナーが$8.25から$35。4倍以上。ジャズ・シンガーの大ヒットとトーキーの拡大が、株価を押し上げた。天井はまだ遠い。

 

 RCAは少量だけ持っている。パーカーの銘柄だ。モーが集中を勧めるが、乗らない。上がることは知っている。しかし上がる前に急落する局面もある。レバレッジさえかけていなければ、急落は耐えられる。教本には、注文が約定しない現実は書いていない。俺はまだ、その一行を実務で読んでいない。

 

 

 

 

 3月末。年度末の帳簿を仮締めした。

 

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 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1928年3月末(仮)

 

 【資産】

  現金・銀行預金    $94,000

  株式ポートフォリオ  $25,550(時価)

  パーク・アベニューの家具等 $1,800

  グランドピアノ・楽器 $850

  ゴールドバーグ楽譜店(運営権・在庫)

  モレッティ・ミュージック版権 52曲

 

 【負債】

  マージン借入 $5,000

 

 【純資産】$117,200

  (= 現金$94,000 + 株式$25,550 + 固定資産$2,650 - 負債$5,000)

 

 【年間推移】

  1920年: $82

  1922年末: $500

  1923年末: $3,000

  1924年末: $5,000

  1925年末: $25,000

  1926年末: $23,800

  1927年末: $40,800

  1928年3月: $117,200

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 $117,200。$120,000に、あと少し。1920年の一月末に、机の上に鉛筆で書いた「$107.23」の隣に、この数字を並べてみる。あの日の紙の余白には、「頭の中の音符と、まだ組み立てられていないコード進行の設計図」と、金額のつかない項目を書いた。あの一行が、8年で$117,200になった、と言ってしまうと、嘘くさい。8年で$117,200になったのは、金額の側だけだ。金額のつかない側の項目は、まだ、あの日の余白のところに置いてある。

 

 成長の速度は鈍っている。事業収入の天井が見え始めている。楽曲版権の伸びは緩やか、録音は契約数に上限がある。映画音楽は成長中だが、映画会社の契約は一朝一夕には増えない。ラジオは安定するが爆発的な伸びは望めない。

 

 月$2,300の収入、$1,300の支出。剰余は月$1,000前後、年間$12,000。ここから先、資産を大きく伸ばすには——株式市場しかない。

 

(だからモーもルーもレバレッジを勧める。合理的だ。事業の成長が鈍化したら、金融レバレッジで加速する。教本の基本だ。しかし俺は、教本の次の頁の、赤い矢印を知っている)

 

 レバレッジは使わない。現金を厚く持つ。四本柱で安定的に稼ぐ。1929年の夏に全ポジションを清算し、秋に空売りに転じる。

 

 計画は明快だ。問題は、明快な計画を、明快な言葉で説明できないことだ。ルーには「慎重だ」としか言えない。モーには「乗らない」としか言えない。サルには「信じてくれ」としか言えない。三人ともレオを信じている。しかし信頼にも、耐荷重がある。理由の見えない信頼は、いつか疑いに変わる。

 

 

 

 

 3月末。夜。事務所。

 

 サルがまた封筒を届けに来た。両手で頭を抱えたまま椅子に座り、しばらく何も言わなかった。窓の外で、パーク・アベニューではない方の街の音がしていた。二十八番街の、二年前と同じ音だ。ラグタイム、ワルツ、女のヴォカリーズ、路面電車の鉄輪。

 

「今月分の$200。トニーに渡してきた」

 

「ありがとう」

 

「ありがとうじゃないよ、レオ」

 

 サルが顔を上げた。目が赤かった。眠っていない目の赤ではなく、泣くのを堪えた後の赤だ。

 

「トニーに会うたびに、気が狂いそうになる。子供の頃、リトル・イタリーの角のストップボールで一緒に遊んだ従兄弟だ。それが今は、マフィアの使い走りだ。俺から金を受け取って、マッシモに届ける」

 

「辛いのは分かってる」

 

「分かってるなら、何とかしてくれよ。電気録音もワーナーもトーキーも、全部お前が先を読んだ。マッシモ一人くらい……」

 

「マッシモは株じゃない。人間だ。しかも、暴力を使う人間だ」

 

「だから」

 

「だから時間がかかる。動く時に、動く先を間違えないように、今、道具を揃えている」

 

 サルは長く息を吐いた。息の温度が、二月の事務所の空気より高かった。

 

「……分かった。信じるよ。でもレオ、お前、最近おかしいぜ。パーティでも黙ってるし、ルーとも何かあったんだろ。前はもっと、何ていうか」

 

「何だ」

 

「楽しそうだった。音楽を書いてる時は、楽しそうだった。最近は、計算してる顔ばっかりだ」

 

 サルが出ていった。ドアが閉まった。

 

 レオは一人になった事務所で、窓の外を見た。マンハッタンの三月の空が、高いビルの隙間から狭く見えていた。狭いなりに、光は入っていた。父が孫を見なかった空だ、と、去年の暮れに一度置いた言葉が、今夜また戻ってきた。

 

 ピアノの前に座った。何かを弾こうとした。指が動かなかった。

 

(俺は何のためにここにいる)

 

 金を稼ぐためか。暴落を生き延びるためか。ルーやサルやモーを、守るためか。前世で叶わなかった夢を、この時代で叶えるためか。

 

 前世の記憶が、少しずつ薄い。深夜のオフィスで見たスプレッドシート。疲労で霞むDAWの画面。時間の切れ端でこじつけたトラックの、チープなプラグインの音色。覚えている。しかし、感覚が遠くなっている。今の俺にリアルなのは、この街の熱気と、迫り来る秋の足音だけだ。

 

 鍵盤に指を置いた。Aの音。440ヘルツ。俺だけが正しいと知っている音。

 

 弾けなかった。曲が出てこない。頭の中で四本の柱の帳簿と、パールの帽子の暗い色と、サルの赤い目と、ルーの「いつか教えてくれる?」が同時に鳴っていた。計算が、音楽の隣で、音楽の側の音を消していた。

 

 廊下の向こうで、足音がした。ルーだ。忘れ物を取りに来たのだろう。足音がドアの手前で止まった。ノックしようとして、やめたのが分かった。足音が遠ざかっていった。ドアの向こうで、彼女が息を吸って、吐いた気配だけが、板一枚を隔ててこちら側に届いていた。

 

 翌朝、ルーが事務所に来た。いつも通りの顔。いつも通りの報告。昨夜の足音のことには触れなかった。

 

「4月のスケジュール。コロムビアの録音が2回、FOXの楽曲提出が1件、ASCAP分配金の受取が……」

 

「ルー」

 

「何?」

 

「いや。何でもない」

 

 ルーが一瞬、レオを見た。何か言いかけて、やめた。眼鏡を押し上げて、書類に目を戻した。指の動きが、いつもの間隔だった。

 

 二人の間に、言葉にならない距離が、細く、太く育ち始めていた。

 

 書類に目を落としたまま、ルーが言った。

 

「あなた、最近おかしい」

 

「おかしい?」

 

「前は、間違った選択肢を選ぶかもしれないことを、あなたは怖がっていた。今は、正しい選択肢しか選ばないあなたを、私が怖がってる。人間は間違うものよ。あなたは間違わない。それが、おかしい」

 

 レオは黙った。

 

 答えを、持たなかった。

 

 ルーが書類のページを一枚めくった。ページの端を折らずに、指の腹だけで捲る癖は、二年前からずっと同じだった。

 

「レオ。いつか、根拠を教えてくれる?」

 

「いつか」

 

「いつか、は来ないんでしょう」

 

 ルーはそれ以上、目を上げなかった。書類のインクの匂いだけが、二人の間に残った。

 

 窓の外、パーク・アベニューではない側の街の音が、また上がってきた。ティン・パン・アレーの錫鍋の音は、二年前と同じ音だ。同じ音の下で、事務所の空気だけが、少し違うものに変わっていた。

 

(終わりの始まりを、俺だけが知っている。そしてそれを、誰にも言えない)

 

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