五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第10話】帝国の設計図

 1927年の秋が終わろうとしていた。

 

 NBCが全国ネットワーク放送を始めてからちょうど一年。CBSが開局して二ヶ月。ラジオの勢力図が塗り変わるのを横目に、レオはデスクの上に広げた帳簿を見つめていた。

 

 モレッティ・ミュージックの収入源は、いつの間にか四つの柱を持つようになっていた。

 

 楽曲版権。録音。ラジオ。映画。

 

 一年前は二本柱だった。楽曲版権と録音。電気録音に早期参入して掴んだ契約が安定した頃、ネットワーク放送が始まった。NBCの包括ライセンスがASCAPの分配金を押し上げ、三本目の柱が立った。そしてジャズ・シンガーが映画産業をひっくり返した後、ワーナーとの契約が四本目の柱になった。

 

 四本柱。全て機能している。

 

 ルーが事務所のドアを開けた。腕に書類の束を抱え、眼鏡の奥で何かを計算している顔をしている。ルーが計算している時は、いい数字か悪い数字かのどちらかだ。中間はない。

 

「ASCAP、10月分の通知。あなたの分配金——$520」

 

「先月より上がったな」

 

「NBCの影響。地方局のネットワーク加盟が増えてるの。あなたの曲がシカゴでもデトロイトでも流れてる。一曲書けば全米で収入が出る」

 

(ネットワーク効果。プラットフォームが拡大するほどコンテンツの価値が指数関数的に増える。インターネット以前のインターネット。1927年のアメリカは、その構造に気づいていない)

 

「ルー。月間の収支を出してくれ」

 

「もう出してある」

 

 ルーがデスクの上に紙を置いた。

 

 ――――――――――――――――――――――

 モレッティ・ミュージック 月間収支

 1927年11月

 

 【収入】

  楽曲版権(楽譜・ライセンス)$480

  録音関連          $650

  ASCAP演奏権料       $520

  映画音楽使用料       $380

  ラジオ局供給料       $45

  演奏料           $130

  合計            $2,205

 

 【支出】

  家賃        $80

  食費        $40

  サル給与      $250

  ルー報酬      $150

  クリフ報酬     $140

  ゴールドバーグ楽譜店$30

  印刷・郵送費    $40

  録音スタジオ費   $130

  事務費・通信費   $35

  マッシモへの支払い $100

  雑費        $30

  合計        $1,025

 

 【月間剰余】$1,180

 ――――――――――――――――――――――

 

 マッシモへの支払い、$100。帳簿の末尾に、その一行がある。ルーの字で「保護費用」と注記されていた。

 

 この夏、アンジェロ経由の要求に折れる形で毎月$100を払い始めた。直接会ってはいない。サルの従兄弟のトニーが封筒を受け取り、マッシモの組織に渡す。顔の見えない取引だ。金だけが動く。

 

「月$1,180の剰余。年間で$14,000以上」ルーが数字を指で追った。「悪くないわ。でも——」

 

「マッシモからの要求が上がる。そうだろう」

 

 レオが先に言うと、ルーは少しだけ目を丸くし、すぐに頷いた。

 

「ええ。トニーがサルに伝えてきたわ。『お前たちの社長はもっと出せるだろう』って。来月から倍の$200」

 

 レオは帳簿を閉じた。

 

(事業が成長すれば、寄生虫の取り分も増える。当然の論理だ。マフィアは少額から始め、相手が払える体力を見極めて段階的に絞り上げる)

 

「分かった。予定通りだ。帳簿の資金繰りは、当面$200の出費を前提に回してくれ」

 

「予定通り? レオ、あなたまさか、このまま黙って払い続けるつもり?」

 

「まさか」

 

 レオはデスクのペンを指で弾いた。

 

「いつ、どうやって反撃するか、タイミングを計算しているところだ。今はまだこちらの手札が足りない。だから時間を買う」

 

 ルーが眼鏡を押し上げた。「時間を買う」。レオのその言葉に納得したわけではないだろうが、彼女は食い下がらなかった。代わりに別の書類をデスクに置いた。

 

「FOXから問い合わせが来てる。トーキー映画2本分の楽曲提供。ワーナーの契約と同じ条件でいいかって」

 

「いい。クリフに伝えてくれ」

 

 ルーが頷いて出ていった。ドアが閉まった後、レオは帳簿を開き直した。マッシモへの支払いの行を指で押さえた。

 

(脱税。マッシモが帳簿をごまかしていること自体は、彼と関わる人間なら誰でも推測できる。だが、それが致命傷になると知っているのは俺だけだ。前世の知識——連邦政府が本腰を入れ、1931年にアル・カポネを脱税で逮捕する。それがマフィアの黄金時代の終わりの始まりだ。

 

 連邦政府が動くそのタイミングに合わせて、マッシモの裏帳簿を手に入れ、匿名で送りつける。国家権力という最大の暴力に潰させる。そのカードを切るための準備は進めている。だが、今すぐには使えない)

 

 

 

 

 11月のある夜。

 

 パーティがあった。

 

 ミッドタウンのホテルのボールルーム。音楽出版社、レコード会社、ラジオ局の関係者が集まる業界パーティだ。招待状が来たのは三度目で、今回は断る理由がなかった。

 

 レオは部屋の隅に立って、シャンパンのグラスを持っていた。飲んではいない。

 

 部屋の中は熱気で湿っていた。百人以上の人間が笑い、叫び、グラスを打ち合わせている。バンドがチャールストンを演奏し、ダンスフロアで男女が踊っている。煙草の煙が天井に渦を巻いていた。

 

「永遠の繁栄だ!」

 

 誰かが叫んだ。ティン・パン・アレーの出版社を経営する男。名前は覚えていない。

 

「クーリッジの経済政策は完璧だ。この好景気は止まらない。株は上がり続ける。ラジオは全米に広がり、映画は音を手に入れた。アメリカは世界の覇者だ!」

 

 拍手。歓声。グラスが掲げられる。

 

「レオ!」サルが人混みをかき分けてきた。「お前もグラスを上げろよ。永遠の繁栄だってさ」

 

(永遠の繁栄。あと23ヶ月で、この部屋の半分が破産する。グラスを上げている手が、1年後には失業保険の列に並ぶ。しかし今夜は、全員が未来を信じている。信じている人間に「嘘だ」とは言えない。言っても信じない。だから黙る)

 

「——ああ」

 

 レオはグラスを上げた。飲まなかった。

 

 ルーが隣に来た。黒いドレスに眼鏡。業界の男たちの視線を気にしていない、あるいは気づいていない。

 

「楽しそうじゃないわね」

 

「楽しいよ」

 

「嘘ね。あなた、一口も飲んでない」

 

 ルーは観察力が鋭い。数字だけでなく、人間も読む。だからこそ、レオが隠している「矛盾」——未来への異常なまでの確信と、それを裏付ける合理的な根拠の欠如——を、いつか嗅ぎつけるかもしれない。

 

「ルー。お前はどう思う。この好景気は続くか」

 

「続くかって?」ルーが眉を上げた。「ラジオ、自動車、トーキー。新しい技術が次々と生まれて、経済の構造自体が変わっているのよ。今までのような一時的な好景気とは違う、新しい時代に入ったと考えるのが自然じゃないかしら。数字もそれを裏付けてる。GNPは伸び、失業率は低い。——なぜ?」

 

「なぜって?」

 

「なぜそんなことを聞くの。あなた、儲かってるのに。事業は好調で、株も上がってる。なのにパーティで一人で立ってる。——何が不安なの」

 

(全部だ。この繁栄が砂上の楼閣だと知っているから。しかしそれを言えば、「なぜ知っている」と聞かれる)

 

「不安じゃない。慎重なだけだ。市場がマージン取引で過剰に膨らんでいる。FRBの低金利がバブルを煽っているだけだ。実体経済との乖離が大きすぎる」

 

 レオはもっともらしい経済の理屈を並べた。しかし、ルーはシャンパンを一口飲み、小さく首を振った。

 

「それは『暴落が起きるかもしれない可能性』の理屈であって、あなたが『暴落が起きると確信している』ことの理由にはならないわ」

 

 心臓が一拍、跳ねた。

 

「レオ。モーがレバレッジを勧めても、あなたは絶対に乗らない。ただの『慎重さ』なら、少しは乗るはずよ。でもあなたは、まるでこの先の崖が確実に見えているように振る舞う」

 

 ルーの目が、眼鏡の奥から真っ直ぐにレオを見ていた。疑惑ではない。観察者の目。数字の裏にある論理を探す目。

 

「あなたの判断にはいつも合理的な根拠があった。でも、この市場への恐怖だけは違う。根拠のレベルを超えている。——あなた、本当は何を見ているの?」

 

「——言えないこともある」

 

「言えない」

 

「ああ」

 

「……そう」

 

 ルーはそれ以上追及しなかった。グラスを傾けて、残りのシャンパンを飲み干した。

 

「私はあなたを信じてるわ、レオ。CFOとして、あなたの投資判断に従う。でも信じることと、リスクを共有することは別よ。私があなたの見ているものを見えない限り、この会社の財務を本当の意味で守ることはできないわ。——いつか教えてくれる?」

 

「いつか」

 

 いつか、は来ない。この秘密は墓まで持っていく。しかしルーにそう言うことはできなかった。

 

 パーティの喧騒が遠くなった。バンドが演奏を続け、笑い声が渦巻いている。永遠の繁栄を信じる百人の人間の中で、レオだけが黙っている。

 

(孤独だな)

 

 前世でも、こんな風に周囲と隔絶された感覚に陥ることがあった。ITコンサルタントとしての激務の中、クライアント企業の財務や経営効率の数字ばかりを追い求め、本当にやりたかった音楽に費やす時間も体力も残されていなかったあの頃。高給と引き換えに、常に空虚さを抱えていた。

 

 だが、今の孤独は前世のそれとは違う。知っていることを言えない孤独は、共に会社を育ててきた仲間に嘘をつき続ける孤独だ。人間関係を根本から腐食させる。

 

 ルーの背中が人混みの中に消えていった。

 

 

 

 

 11月末。

 クリフとパールが事務所に来た。

 

 パール・ワトキンス。クリフのクインテットのボーカリスト。1925年のブラック・スワン録音から数えて、もう2年になる。麻色の肌、目が強い。歌う時より喋る時の方が声が低い。

 

「レオ。来年の話がある」

 

 パールがソファに腰を下ろした。男物のソフト帽を被ったまま。

 

「コロムビアがね、来年の録音枠を倍にするって。あたしの盤が南部でも売れ始めたのよ。ジョージア、アラバマ。黒人棚から白人棚に渡る店も出てきた」

 

「売上はどのくらいだ」

 

「先月の盤で3,000枚。モレッティ&ジョンソンの『Harlem After Hours』。クリフのトランペットとあたしの声のやつ」

 

 3,000枚。レース・レコードとしては上出来だ。電気録音でマイクに映えるパールの声が売れている。

 

(レコードの売上は今年がピークだ。1927年。来年は横ばい。再来年から減り始める。1932年にはピーク時の1割になる)

 

 そのことを知っている。言えない。

 

「パール。来年は録音の本数を増やさない」

 

 パールの目が細くなった。

 

「増やさない? 売れてるのに?」

 

「代わりにNBCの生放送枠を増やす。あんたの声をラジオに乗せる」

 

「ラジオ?」パールが鼻を鳴らした。「生放送なんてレコードのロイヤリティより安いよ。それに生ものでしょ。盤みたいに残らない。——あたしは残るものがいい。あたしの声が盤になって、棚に並ぶ」

 

(残るもの。——だが来年、その「残るもの」を買う人間が消える)

 

「ラジオの方が長く続く」

 

「根拠は」

 

「NBCの加盟局は昨年比で倍増。広告収入も倍。ラジオの聴取者は増え続けている」

 

「レコードだって増えてる」

 

「レコードの成長率は鈍り始めている。四半期ベースで前年比プラス12パーセント。一昨年はプラス35パーセントだった。成長のペースが落ちている」

 

 パールがクリフを見た。クリフは窓の方を向いていた。答える前に窓を見る癖だ。

 

「……レオの勘は、外れたことがない。電気録音も、トーキーも」

 

「勘?」パールの声が尖った。「あたしの声を勘で動かすのかい。クリフ、あんたは黙ってるのか」

 

「パール。レオの言う通りにしろ。録音を減らすわけじゃない。ラジオを増やすだけだ」

 

「あたしの声は盤が一番いいんだよ。マイクの前で歌って、針で削って、それが何万枚にもなる。ラジオの生放送なんて——その場限りだ」

 

(その場限り。——だが来年、その「盤」を買う人間が消える。レコード店が消える。パールの声が乗った盤は、棚から消える。ラジオだけが残る)

 

「パール。一つだけ約束してくれ。専属契約の話が来たら、録音義務枠を最小に交渉しろ」

 

「専属? まだ誰からも——」

 

「来る。あんたの声なら」

 

 パールは長い間レオを見ていた。それから帽子を被り直した。

 

「考えておくよ。——でもラジオなんて、あたしの本筋じゃない」

 

 パールとクリフが出ていった後、レオはルーを呼んだ。

 

「ルー。来年の予算を組み替えてくれ。録音予算は維持。だがNBC生放送枠を月4本追加する」

 

「レコードのロイヤリティよりラジオ枠の方が安いのに。利益が減るわ」

 

「減らしていい。柱は多い方がいい。一本折れても倒れない」

 

 ルーが眼鏡を押し上げた。

 

「……一本折れるって、レコードが? レコードは売れてるのよ」

 

「売れている。だが——」

 

(だが来年、ピークを打つ——言えない)

 

「直感だ」

 

 ルーがため息をついた。

 

「また直感ね」

 

「悪い」

 

「悪いと思ってるなら、たまには根拠を教えてよ」

 

「いつか」

 

「いつか、は来ないんでしょう」

 

 ルーが書類を持って出ていった。

 

(レコードは死ぬ。だが音楽は死なない。パールの声を、ラジオに移しておく。それが来年からの保険だ)

 

 

 

 

 12月。

 

 リンドバーグがパリから帰ってきた当時の興奮が、ようやく沈静化した頃だった。

 

 5月の大西洋単独横断は、アメリカ中を熱狂させた。レオもルーもサルもその夜はラジオの前にいた。33時間30分の飛行。ル・ブルジェ空港に着陸した時、15万人がリンドバーグを迎えた。ニューヨークに帰還した時のブロードウェイのパレードには400万人が詰めかけた。

 

 その熱狂がアメリカに刻み込んだのは、「不可能はない」という確信だった。

 

 一人の男が大西洋を飛べるなら、株式市場も上がり続けるだろう。自動車が馬車を駆逐し、ラジオが全米を繋ぎ、映画が音を手に入れた。この数年間、技術の進歩が次々と不可能を可能にしてきたという、彼らなりの強烈な成功体験がある。だからこそ人々は、「過去の経験則が通用しない新しいパラダイムに入った」と信じ込んだのだ。

 

 FRBがさらに金利を引き下げた。

 

 モーの事務所で、その数字を見た。

 

「公定歩合が3.5パーセントに下がった」モーが懐中時計を弄りながら言った。「ストロングの判断だ。ヨーロッパの金本位制を支えるために、アメリカの金利を低く保ちたがっている」

 

「金利が下がれば——」

 

「マージン取引のコストが下がる。借金して株を買うのが安くなる。つまり、もっと借りて、もっと買う」

 

(1927年の金利引き下げ。大恐慌の遠因。ストロングは来年の秋に死ぬ。結核で。58歳。彼がいなくなった後、FRBは方向を見失う。引き締めは遅すぎ、緩和は止められず、バブルは限界まで膨張する)

 

「モー。お前はレバレッジを上げたか」

 

「少しだけだ。RCAを追加で50株。証拠金25パーセント。4倍だ」

 

「4倍か」

 

「お前にも勧める。マージンを使えばポートフォリオを3倍に——」

 

「やらない。俺の金は俺が決める」

 

 モーが口を閉じた。一度断れば引き下がる男だ。

 

 

 

 

 サルが事務所に来た。顔色が悪い。

 

「レオ。——マッシモの件だ」

 

「何があった」

 

「トニーから連絡があった。来月から——$200だ」

 

「$100から$200に倍増か」

 

「ああ。マッシモが——」サルが唇を噛んだ。「モレッティ・ミュージックの売上を調べたらしい。映画の契約が入ったことを知ってる。$100じゃ足りない、$200出せ、と」

 

 レオはデスクの上のペンを回した。

 

 事業の成長が、搾取の増大に直結する。稼げば稼ぐほど、マッシモの取り分も増える。寄生虫の構造だ。宿主が太れば、寄生虫も太る。

 

「サル。払うしかないのか」

 

 サルの声が苦い。

 

「ああ……リトル・イタリーに俺の家族がいる限り、表立って逆らうわけにはいかない。最初はマフィアなんかにお前を関わらせないと言っていたのにな。すまない」

 

「謝るなよ。お前一人の責任じゃない」

 

 サルは顔をしかめた。「でもレオ。お前、何か考えてるんだろう。前に『タイミングを計算してる』って言ってたよな。——何をするつもりだ」

 

「まだ言えない」

 

「まだ? いつなら言えるんだ」

 

 サルの目に、初めて苛立ちが浮かんでいた。己の親戚のせいで会社の血肉である利益を撥ねられ続けていることへの不甲斐なさ。そして、事態を打開するかもしれない計画を、相棒である自分にすら隠されていることへの苛立ちだ。

 

「サル。信じてくれ。計画はある」

 

「計画? お前の立てる事業計画はいつも完璧だ。だが、この裏の計画については俺に何も教えてくれないじゃないか。お前が必死で稼いだ会社の金を、俺の家族のせいで毎月マッシモに貢ぎ続けてる……。レオ、俺たちはいつまで、マフィアに怯えながらこんなことを続けなきゃいけないんだ」

 

(いつまでか。禁酒法は1933年まで続く。しかしマッシモを排除する方法は、それより前にある。カポネが脱税で逮捕されるのは1931年。マッシモの帳簿を手に入れれば——)

 

「もう少しだ。もう少し待ってくれ」

 

 サルは何も言わずに出ていった。ドアが静かに閉まった。怒鳴るよりも、静かに閉まるドアの方が重い。

 

 $200/月。年間$2,400。金額自体は払える。問題は金額ではない。方向だ。$200が$300になり、$500になり、やがてマッシモは金だけでなくビジネスそのものに手を伸ばしてくる。演奏しろと言い、楽曲を使わせろと言い、最終的にはモレッティ・ミュージックを自分の傘下に入れようとする。

 

(時間との競争だ。マッシモが本格的に食い込んでくる前に、カードを切れる状態を作らなければならない)

 

 

 

 

 年が明けて、1928年。

 

 レオは引っ越した。28番街の安アパートから、パーク・アベニューの高級アパートメントへ。月$200。

 

 贅沢ではない。投資だ。映画会社の重役が28番街のボロアパートに住む男と取引したいとは思わない。住所がパーク・アベニューなら信用が変わる。くだらないが、現実だ。この時代の信用は、見た目と住所でできている。

 

 新しいアパートからはセントラル・パークが見えた。広いリビングにグランドピアノを置いた。寝室とは別に書斎がある。

 

 書斎の壁に、白い紙を一枚、画鋲で留めた。

 

 「1929年9月3日 DJIA 381.17」

 

 手書きの数字。この紙は誰にも見せない。ルーにもサルにもモーにも。この数字の意味を知っているのは、この世界でレオだけだ。

 

 ピアノの前に座った。鍵盤に指を置いた。A。440ヘルツ。

 

 この時代の標準ピッチはA=435だ。440ヘルツが国際標準になるのは1939年のロンドン会議。11年後の基準で調律されたグランドピアノ。俺だけが正しいと知っている音。

 

 その音が夜の部屋に溶けて消えるまで、長い間聴いていた。

 

 

 

 

 2月。

 

 モレッティ・ミュージックの版権カタログが50曲を超えた。

 

 自社出版の楽曲50曲。楽譜の売上、レコード会社へのライセンス料、ASCAPの作家分と出版者分の両取り。版権は消えない。レオが死んでも、レオの曲が演奏される限り金が入る。

 

 FOXとの契約が正式に始まった。ワーナーに加えて二社目の映画会社。トーキー映画の急拡大に追いついた形だ。

 

 ルーが月次報告を持ってきた。

 

「2月の映画音楽収入、$450。ワーナー$280、FOX$170。——レオ、映画が三本目の柱になったわ」

 

「三本目じゃない。四本目だ。楽曲版権、録音、ラジオ、映画」

 

「四本も? 急激に広げすぎじゃないかしら。今は録音とラジオに集中した方が効率がいいわ」

 

「前にも言ったろう。柱は多い方がいい」

 

 ルーが眼鏡を押し上げた。あの時と同じ「一本折れても倒れない」——その裏にある前提を、ルーは聞き逃さなかった。しかし何も言わなかった。

 

 帳簿を更新した。

 

 ――――――――――――――――――――――

 モレッティ・ミュージック 月間収支

 1928年2月

 

 【収入】

  楽曲版権(楽譜・ライセンス)$500

  録音関連          $680

  ASCAP演奏権料       $540

  映画音楽使用料       $450

  ラジオ局供給料       $45

  演奏料           $130

  合計            $2,345

 

 【支出】

  家賃(パーク・アベニュー)$200

  食費          $45

  サル給与        $250

  ルー報酬        $160

  クリフ報酬       $140

  ゴールドバーグ楽譜店  $30

  印刷・郵送費      $40

  録音スタジオ費     $130

  事務費・通信費     $35

  マッシモへの支払い   $200

  雑費          $30

  合計          $1,260

 

 【月間剰余】$1,085

 ――――――――――――――――――――――

 

 月$1,085の剰余。悪くない数字だ。だが$200がマッシモに流れている。年間$2,400。5年で$12,000。払い続ける気はない。しかし今はまだ払う。時間を買っている。

 

 レオは帳簿を閉じて、別の紙を取り出した。

 

 出口戦略。

 

 誰にも見せていない紙。書斎の引き出しの奥にある。壁に貼った「381.17」と対になるメモだ。

 

 ――――――――――――――――

  出口戦略(メモ)

  1929年夏:全ポジション清算

   → ワーナー、RCA、GE、AT&T、GM

   → 天井の前に売る。天井は9月

  1929年秋:空売り開始

   → 暴落を利用して利益を出す

  注意:空売りの利益 ≠ 正義

   → 他人の破滅から儲ける行為

   → それでもやる。やらなければ

     生き残れない

 ――――――――――――――――

 

 メモを引き出しに戻した。鍵をかけた。

 

 この計画を知っているのは、この世界で一人だけだ。ルーにも言えない。サルにも言えない。言えば「なぜ暴落が来ると知っているのか」を説明しなければならない。説明できない。

 

(孤独だな。——また同じことを思っている)

 

 

 

 

 レオの株式ポートフォリオは、慎重ながらも着実に成長していた。

 

 AT&T 43株 @$178(取得平均$152)

 GE  175株 @$60(取得平均$42)

 GM  50株 @$175(取得平均$145)

 ワーナー 100株 @$35(取得$8.25)

 RCA  30株 @$90(取得平均$82)

 

 ポートフォリオ時価: $25,550

 マージン借入: $5,000

 ポートフォリオ純資産: $20,550

 

 ワーナーが$8.25から$35。4倍以上。ジャズ・シンガーの大ヒットとトーキー映画の急拡大が株価を押し上げた。まだ天井は遠い。

 

 RCAは少量だけ持っている。パーカーの銘柄だ。モーが勧めたが、集中投資はしない。上がることは知っている。しかし上がる前に急落する局面もある。レバレッジをかけていなければ、急落は耐えられる。

 

 年度末の帳簿を仮締めした。

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1928年3月末(仮)

 

 【資産】

  現金・銀行預金    $94,000

  株式ポートフォリオ  $25,550(時価)

  パーク・アベニューの家具等 $1,800

  グランドピアノ・楽器 $850

  ゴールドバーグ楽譜店(運営権・在庫)

  モレッティ・ミュージック版権 52曲

 

 【負債】

  マージン借入 $5,000

 

 【純資産】$117,200

  (= 現金$94,000 + 株式$25,550 + 固定資産$2,650 - 負債$5,000)

 

 【年間推移】

  1920年: $82

  1922年末: $500

  1923年末: $3,000

  1924年末: $5,000

  1925年末: $25,000

  1926年末: $23,800

  1927年末: $40,800

  1928年3月: $117,200

 ――――――――――――――――――――――

 

 $117,200。$120,000に手が届きそうだ。

 

 しかし成長の速度は鈍化している。事業収入の天井が見え始めている。楽曲版権の伸びは緩やかで、録音は契約数に限界がある。映画音楽は成長中だが、映画会社との契約は一朝一夕には増えない。ラジオは安定しているが爆発的な伸びは期待できない。

 

 月$2,300の収入で、$1,300の支出。剰余は月$1,000前後。年間$12,000。ここから先、資産を大きく伸ばすには——株式市場しかない。

 

(だからモーもルーもレバレッジを勧める。合理的だ。事業の成長が鈍化したら、金融レバレッジで加速する。MBAの教科書に書いてある基本だ。しかし俺は教科書の先を知っている。加速の先に崖がある)

 

 レバレッジは使わない。現金を厚く持つ。四本柱で安定的に稼ぐ。そして1929年の夏に全ポジションを清算し、空売りに転じる。

 

 計画は明快だ。問題は——計画を説明できないことだ。ルーには「慎重だ」としか言えない。モーには「直感だ」としか言えない。サルには「信じてくれ」としか言えない。

 

 三人ともレオを信じている。しかし信頼にも限界がある。理由なき信頼は、いつか疑惑に変わる。その転換点が、ルーの「何を怖がってるの」だった。

 

 

 

 

 3月末。

 

 サルが事務所に来た。封筒を持っている。

 

「今月分の——$200。トニーに渡してきた」

 

「ああ。ありがとう」

 

「ありがとうじゃないよ、レオ」

 

 サルが椅子に座った。両手で頭を抱えた。

 

「毎月トニーに会うたびに、気が狂いそうになる。俺の従兄弟だぞ。子供の頃は一緒にストップボールで遊んだ。それが今は——マフィアの使い走りだ。俺から金を受け取って、マッシモに届ける」

 

「辛いのは分かってる」

 

「分かってるなら——何とかしてくれよ。お前の頭なら何とかできるだろう。電気録音もワーナーもトーキーも、全部お前が先を読んだ。マッシモの一人くらい——」

 

「マッシモは株じゃない。人間だ。しかも暴力を使う人間だ」

 

「だから——」

 

「だから時間がかかる。サル。俺を信じろ。計画はある。ただし今は動けない。時期が来れば動く」

 

 サルが顔を上げた。目が赤い。

 

「……分かったよ。お前を信じる。——でもレオ、お前最近おかしいぜ。パーティでも黙ってるし、ルーとも何かあったのか。前はもっと——何ていうか——」

 

「何だ」

 

「楽しそうだった。音楽を書いてる時は、楽しそうだった。最近は——計算してる顔ばっかりだ」

 

 サルが出ていった。

 

 レオは一人になった事務所で、窓の外を見た。マンハッタンの春の空が、高いビルの隙間から覗いている。

 

 サルは正しい。楽しんでいない。音楽を書いている時でさえ、頭の片隅で計算している。あと18ヶ月。株式のポジション。出口戦略。マッシモの対策。ルーの疑惑。全てが同時に回っている。

 

 ピアノの前に座った。何かを弾こうとした。指が動かなかった。

 

(俺は何のためにここにいる?)

 

 金を稼ぐためか。暴落を生き延びるためか。ルーやサルやモーを守るためか。——前世で叶わなかった夢を、この時代で叶えるためか。

 

 前世の記憶が薄くなっている。深夜のオフィスで見たスプレッドシートの数字。疲労で霞むDAWの画面。時間がない中で無理やり作り上げたトラックのチープな音色。覚えているが、感覚が遠い。今の俺にとってリアルなのは、この街の熱気と、迫り来る恐慌の足音だけだ。

 

 鍵盤に指を置いた。A。440ヘルツ。11年後の国際標準。俺だけが正しいと知っている音。

 

 弾けない。曲が出てこない。計算が音楽を殺している。

 

 廊下の向こうで、足音がした。ルーだ。忘れ物を取りに来たのだろう。足音がドアの手前で止まった。ノックしようとして、やめたのが分かった。足音が遠ざかっていった。

 

 ルーが立ち止まったことに気づいていた。声をかけずに去ったことにも。その沈黙の中にある——配慮か、それとも諦めか、もう分からない——何かが、暗い部屋に残った。

 

 翌朝、ルーが事務所に来た。いつも通りの顔。いつも通りの報告。昨夜のことには触れなかった。

 

「4月のスケジュール。コロンビアの録音が2回、FOXの楽曲提出が1件、ASCAP分配金の受取が——」

 

「ルー」

 

「何?」

 

「——いや。何でもない」

 

 ルーが一瞬、レオを見た。何かを言いかけて、やめた。眼鏡を押し上げて、書類に目を戻した。

 

 二人の間に、言葉にならない距離が生まれ始めていた。

 

「あなた、最近おかしい」

 

 ルーが言った。書類から目を上げずに。

 

「おかしい?」

 

「前は——間違った選択肢を選ぶ可能性が怖かった。今は——正しい選択肢しか選ばないあなたが怖い。人間は間違うものよ。あなたは間違わない。——それが、おかしい」

 

 レオは黙った。

 

 答えはなかった。

 

(終わりの始まりを、俺だけが知っている。そしてそれを、誰にも言えない)

 

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