五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第11話】投機熱

 三月のパイン・ストリートは、まだ石畳に霜が残っていた。

 

 モーの事務所は雑居ビルの四階にあった。階段の踊り場ごとに真鍮の痰壺が置かれ、どの階からもインクと葉巻の匂いがした。踊り場を折り返すたびに、下の階の事務員が電話に向かって数字を怒鳴っている声が、階段の縦穴を上ってきた。数字は聞き取れなかった。ただ、上がる調子だけがどこも同じだった。

 

 ドアを押すと、暖房と葉巻の熱が顔にぶつかった。窓越しにトリニティ教会の尖塔が、灰色の空を刺して立っている。壁の一枚に、ティッカーテープの機械が据え付けられ、細い紙が絶え間なく吐き出されて、床の籠にとぐろを巻いていた。金属の駒が硝子ケースの中で叩く音が、鼓動より少しだけ速かった。

 

「レオ。座れ」

 

 モーは机の向こうで、指の先で紙テープを繰っていた。左手は机上の懐中時計の鎖に絡んでいた。銀のケースに、うっすらとハンブルクの刻印がある。父親が船で持ってきたものだった。

 

 レオは向かいの椅子に腰を下ろした。革の座面が冷たい。

 

 

「今朝の寄り付きで、RCAが九十五ドルだ」

 

 モーが紙テープの端を指で押さえた。指の甲の血管が、いつもより青く盛り上がっていた。

 

「去年の同じ月は八十五だった。一年で十二パーセント。だが、これは序章だ」

 

 声には、以前と違うものが混じっていた。数字を読み上げる時のモーの声は、いつも仕入れ値を口にする商人のように乾いていた。それが、今日は少しだけ湿っていた。

 

(水気が入っている)

 

「本番は、これからだと」

 

「ラジオ産業の話は昨日した通りだ。NBCが全国網を回し始めて一年経つ。CBSも動き出した。広告収入は倍だ。RCAはラジオだけじゃない。無線通信、レコード、ヴィクター買収の噂もある。この会社の値は、まだこの国の未来の値段になっていない」

 

「その未来に、いくら賭ける」

 

「賭けるじゃない。投資だ」

 

 モーが懐中時計を握りしめた。銀の縁が、蛍光灯の光を一瞬だけ跳ね返した。

 

「市場は嘘をつかない。数字が全てを語っている。RCAの売上、利益率、成長率。どれを見ても買いだ」

 

 レオは机の上で指を組んだ。組んだ指の関節が、いつもより硬い。

 

(市場は嘘をつかない。モーは正しい。ただし、市場は正気を失う。集団の熱狂は数字の論理を溶かす)

 

「モー。集中投資の比率は」

 

「RCA一銘柄で、時価の四十パーセントだ。先月から積み増した」

 

「マージンは」

 

「証拠金二十五パーセント。四倍のレバレッジだ。手元の一万ドルで、四万ドル分のRCAを持っている」

 

 レオは息を吐かなかった。吐けば、吐き方で不安が伝わる。

 

「モー。二十五パーセントの下落が来たら、証拠金は消える」

 

「下がらないよ」

 

 モーが鼻を鳴らした。笑ったのではない。息を短く吐いた。

 

「レオ。お前は音楽で稼いだ金を、銀行の預金口座に寝かせているだろう。金を殺しているのと同じだ。市場が上がっているのに、なぜ乗らない」

 

「乗っている。ただし、控えめに」

 

「控えめが好きだな、お前は」

 

 モーが懐中時計のチェーンを指に絡めた。銀の鎖が、二回、三回、指の関節を回った。

 

「レオ。親父がドイツから船に乗った時、この時計しか持っていなかった。……俺はこの国で這い上がった。市場は嘘をつかない。数字は俺を認めている。この国で数字だけは、ユダヤ人もWASPも区別しない」

 

 レオは黙って、その言葉を胸の一段深いところに置いた。この街で名を通すために移民が何を差し出したか、モーの三十年と自分の三年は、同じ地層に埋まっている。

 

「モー。約束してくれ。株価が下がり始めたら、迷わず売ると」

 

「下がる理由がないと言った」

 

「理由なんぞ、下がってから見つければいい」

 

 モーは答えなかった。ティッカーテープの機械が、また紙を吐いた。数字が、また上がっていた。

 

 レオはコートを取って立ち上がった。ドアの外の廊下で、下の階の事務員がまだ電話に怒鳴っていた。声が数字を追いかけていた。

 

(数字が声を追い越した瞬間に、この階段は逆流する)

 

 

 

 

 四月。

 

 レオは自分のポートフォリオを机の上に広げた。

 

 AT&T、US Steel、GM、GE、RCAの五銘柄。証拠金五十パーセントのレバレッジ二倍。時価合計は年初来の含み益を乗せて$91,600。

 

 守りの投資だ。面白味はない。しかし全滅もしない。

 

 モーがその一覧を斜めから覗き込んで、鼻を鳴らした。

 

「分散が効いてるな。だが、面白味がない。RCAが四十株しかないのは勿体ないぞ」

 

「十分だ」

 

「十分? 俺のRCAは年初来で十二パーセント上がっている。四倍のレバレッジで、元手に対して四十八パーセントの含み益だ。お前は?」

 

「元手対比で十八パーセント」

 

「三分の一だ」

 

「機会損失は、損失ではない」

 

 モーが首を振った。

 

「お前は変わった投資家だな。金を増やすことに、興味がないように見える」

 

「興味はある。だから守っている」

 

「守るために生きているのか、それとも生きるために守っているのか」

 

 哲学者の口ぶりだった。ユダヤ系の実利主義の中に、時折こういう問いが混ざる。答えを求めているのではなく、自分の投資姿勢を強化するための問いだ。

 

「モー。前世で、と言ったら笑うか」

 

「笑うね」

 

「なら言わない」

 

 レオは書類を鞄にしまった。窓の外で、トリニティ教会の鐘が四時を打った。鐘の余韻の中で、ティッカーテープがまた紙を吐いていた。

 

(一九二九年の秋に全てが崩れる。教本に書いてあった一行を、俺は今、教室のない世界で守っている。教本は、あの深夜の1Kのアパートで、パソコンの画面の中にあった。パソコンはここにはない。記憶しか残っていない。記憶は変質する。それが怖い)

 

 

 

 

 五月の朝、サルが事務所に入ってきた時の顔色で、話の中身が分かった。

 

 紅潮ではない。少し青ざめている。上着の下の背中が、ドアを閉める瞬間だけ強張った。

 

「レオ。マッシモが」

 

「いくらだ」

 

「月に五百」

 

 レオは書きかけの譜面の五線紙の上に、ペンを寝かせた。インクが紙に薄く滲んだ。

 

 月に五百。年に六千。売上の一割五分を、あの男に呑ませる。

 

「理由は」

 

「お前の事業が伸びてるからだ、と。ASCAPの分配が上がったのを知ってやがる。映画音楽の契約も。トニーが金額の紙を寄越した時、こっちの帳簿を写したような数字が並んでた」

 

「筒抜けか」

 

「業界の誰かが喋ってる。あるいは、トニーが自分で拾ってきた」

 

 レオはペンを筆立てに戻した。指先が、譜面のインクの跡に触れた。

 

「交渉の余地は」

 

「トニーが言うには『五百はマッシモが決めた。値切ったら面子が潰れる。面子が潰れたら次は穏便じゃない』」

 

 シカゴの銃撃戦が新聞を賑わせている。先月もカポネの組織と対立派閥の間で発砲があった。「穏便じゃない」。この街に生きて何年か経つ耳には、その一語が具体的な音を連れてくる。

 

「……分かった。払う」

 

「レオ」

 

「ただし、これで最後だ。金額の見直しは年に一度。それを超えて上げてきたら、その時は、俺の帳簿の話を持ち出す」

 

 サルが身を乗り出した。

 

「帳簿? マッシモの帳簿に何か」

 

「俺の方の帳簿だ。まだ動かない。ただし準備はする」

 

 サルは何か言いかけて、口を閉じた。テーブルの上のインク瓶を、指の腹で押さえるように触った。それから頷いた。

 

「分かった」

 

 サルが出て行った後、レオはノートを一冊、棚の下から出した。表紙に何も書かれていない、新しい白いノートだった。

 

 その一頁目に、日付だけを書いた。「一九二八年五月」。数字の下に線を引いた。線の下は、白紙のままにした。マッシモへの支払いを、この頁から先に、順に積んでいく。表の帳簿には「顧問料」と書く。表と裏で数字が食い違わないように、月末ごとに突き合わせる。

 

(カポネは、確か、脱税で捕まったはずだ。殺人ではなく、帳簿の不整合で。年は覚えていない。三〇年代の初めのどこかだ。IRSは既に水面下で調査を始めている、と教本の脚注にあった。マッシモはカポネよりずっと小物だが、構造は同じだ。非合法の収入を申告していない。同じ罠に、時期を選んで填め込む)

 

 棚の奥に、そのノートをしまった。隣に、まだ何も書いていない、もう一冊の白いノートが立てかけてあった。二冊とも、白い表紙。一冊は防衛のためだった。もう一冊が何のためかは、まだ書いていない。

 

 机に戻って、五百ドルを表の帳簿に書いた。ペンの重さが、いつもより増していた。

 

 

 

 

 六月の朝、五番街を走るタクシーの中で、革のシートが太陽で温められ、汗と煙草の匂いが後部座席に籠もっていた。運転手は四十代半ばの、腹の出た男だった。信号待ちの間に、こちらに向けて肩越しに話しかけてきた。

 

「旦那、株はやってるかい」

 

「少しだけ」

 

「少しだけか。俺は先月から始めたんだ。女房に内緒でな」

 

 レオはコートの襟の内側に指を掛けた。裏地の縫い目に、白い糸で「C.M.」の印字がある。父の癖だった。仕立てた服には、必ずこの印を入れた。指の腹で、その二文字の高まりを、無意識に確かめる。

 

「何を買った」

 

「モンゴメリー・ウォードだ。百貨店の。証拠金一割五分で、五百株入れた」

 

「一割五分」

 

「ああ。ブローカーが親切に教えてくれてな。株価は六十ドルだから、五百株で三万ドル分の株を、四千五百ドルで持ってるってことだ」

 

(十四パーセント下がっただけで、全てが吹き飛ぶ)

 

「値下がりした時のことは」

 

「値下がり?」

 

 運転手が笑った。歯の間から、煙草の脂の色が覗いた。

 

「下がらないよ、旦那。クーリッジ大統領が言ったろう。株は安い、って。大統領がそう言ってるんだ。下がるわけがない」

 

「追証は」

 

「なんだそりゃ」

 

「マージン・コールだ。値が下がると、ブローカーが追加の証拠金を要求する。払えなければ、株を強制的に売られる。底値で」

 

「考えたくもないね」

 

 運転手はクラクションを短く鳴らして、前の馬車を追い立てた。

 

「旦那、心配性だな。株なんてのは、買って待ってりゃ上がるんだ。俺の仲間も皆やってる。おっと、着いたぜ」

 

 レオは一ドル二十五セントの料金を払って、タクシーを降りた。歩道の縁石に、片足を先に置いた。街の湿った熱気が、革靴の底から伝わってきた。

 

(タクシーの運転手が七倍のレバレッジで株を買っている。妻に内緒で。「仲間も皆やってる」。全員が上がると信じている限り、誰も売らない。だから上がる。そういう理屈で回っている間だけ、上がる)

 

 角の新聞スタンドで、朝刊を買った。一面はハーバート・フーバーの共和党候補指名の見出しだった。二面に小さく、コール・ローン金利の記事があった。年初から一パーセント上がっていた。

 

 その一パーセントの記事に、指を置いた。

 

(音楽が、少しだけ速くなっている)

 

 

 

 

 七月の午後、床屋に入った。石鹸と整髪料の甘い匂いが充満して、鏡の中でハサミの金属音が跳ねていた。ラジオが薄いジャズを流している。レオが椅子に座ると、隣の客が話しかけてきた。

 

「あんた、US Steelは持ってるかい」

 

「少しだけ」

 

「少しだけ? 勿体ないな。俺のブローカーの話じゃ、秋までに二百ドルを超えるってよ」

 

 床屋の主人が、鏡越しに口を挟んだ。

 

「US Steelもいいが、俺はRCA派だ。先週、百二十を超えた。年初は八十五。半年で四割以上の上昇だ」

 

「RCAは高すぎる」隣の客が反論した。「PERが百倍を超えてる。利益に対して株価が、な」

 

「PERなんて関係ないよ」床屋が笑った。「RCAは成長株だ。将来の利益で買ってるんだ」

 

 床屋がPERを議論している。バブルの末期には、床屋も八百屋もファンダメンタルズを口にするようになる。ただしその議論は「だから買い」という結論にしか行き着かない。全員が答えを先に決めているからだ。

 

「お客さん、気になる銘柄は」

 

「保守的な投資家でね。退屈な株を少しだけ持ってる」

 

「勿体ないねえ。今は歴史上最高の強気相場だぜ」

 

 主人がレオの首筋に温いタオルを当てた。石鹸の匂いが顔の周りを覆った。目を閉じた瞼の裏で、事務室でモーがティッカーテープを繰る指の動きが浮かんだ。同じ指の動きで、この街の何万人が、同じ紙テープを繰っている。

 

(歴史上最高の強気相場。そして、歴史上最悪の暴落が、来年のどこかで来る。教本には、確か、そう書いてあった。書いてあった時期を、俺はうろ覚えのまま持ち歩いている)

 

 剃刀の刃が首筋を撫でた。ひやりと冷たかった。

 

 

 

 

 八月の初め、事務所にクリフとパールが来た。

 

 パールが男物のソフト帽を被ったまま、ソファに腰を下ろした。帽子の縁を、片手で軽く持ち上げてから、また同じ位置に戻した。癖だ。

 

「レオ。話がある」

 

 クリフはドアの脇に立って、窓の方を向いた。答える前に窓を見る。この男の考え事の入り口だった。

 

「ヴィクターが、あたしに専属を提示してきた」

 

 レオの指がペンの上で止まった。ペンの尻が机の木目に軽く当たった。乾いた音がした。

 

「レース部門か」

 

「ナサニエル・シュルツって覚えがあるかい。三年前に、クリフを引き抜きに来た男だ」

 

 覚えがある。あの時は条件改善で引き止めた。シュルツは諦めなかった。今度は、歌い手を狙った。

 

「条件は」

 

「三年の専属。年俸三千ドル。版権はヴィクター保有。あたしの名前はクレジットに残る」

 

 年俸三千。歌い手として生まれて初めて手にする、安定した数字だった。パールの目は、金額の数字を口にする時に、少しだけ乾いていた。もう選び終えた者の目だった。

 

(三年。一九二八年から一九三一年。レコード産業は、その間にほぼ壊滅する。ピーク時の一割まで縮む。三年の専属は、来年の秋から、錘に変わる)

 

「パール。去年、パーク・アベニューで会った時にも言った。専属の話が来たら、録音義務の枠を最小にしろ、と」

 

「覚えてる」

 

「今、それを守れ。年俸は取れ。版権は諦めていい。だが、録音枚数だけは、絞れ」

 

「なぜ」

 

 なぜ、の一音節が、部屋の空気を三ミリだけ薄くした。

 

「……」

 

「レオ」

 

 パールが帽子の縁をもう一度、押し上げた。

 

「あんたは、なぜ、なんだ。あたしがヴィクターの店に入って、一年目からしばらく干されて、また一枚録って、次を待つ。それでも、あたしは食える。名前も残る。あんたが、あたしに何を惜しめって言うんだ」

 

 答えられない。答えれば、狂人扱いを受ける。「来年の秋から、レコードが売れなくなる」。誰の耳にも、根拠のない予言に聞こえる。

 

「……録音義務だけは、最小に交渉してくれ。それだけは、守ってくれ」

 

「録音を減らせ? 売るために録音するんじゃないか」

 

「売るためだ。だが、一枚一枚が、あんたを長く縛る」

 

「クリフ」

 

 パールがクリフの方を向いた。クリフはまだ窓を見ていた。それから、目を戻した。

 

「……俺はレオに従う。だがパール、お前の声の話だ。お前が決めろ」

 

「あたしの声の話なら、あたしが決める」

 

 パールが立ち上がった。帽子の縁を、指の腹で、もう一度、押し上げた。

 

「録音枚数の件は、考えておく。だが専属は降りない。あたしのチャンスだ」

 

 ドアが閉まった。閉まる瞬間、廊下の埃が光の筋の中で、一度だけ揺れた。

 

 クリフが窓から目を離した。

 

「レオ。お前の勘は、何だ」

 

「……言えない」

 

「またそれか」

 

「悪い」

 

「パールを追い詰めるなよ。あいつは音楽で食う女だ。勘で飯は食えないことを、あの女は知ってる」

 

 レオは頷かなかった。頷けば、頷き方で嘘が漏れる。頷かなくても、たぶん、クリフには漏れていた。

 

 クリフはドアを開けて、廊下の暗がりに消えた。廊下の突き当たりの窓に、夕方の光が斜めに差していた。

 

(サルにも、モーにも、パールにも、言えない。株が来年の秋に暴落することを。レコードが同じ秋に壊滅することを。言わない代わりに、俺は沈黙を選ぶ。沈黙は、たぶん、嘘の一種だ)

 

 

 

 

 八月の末、パーカー三世の名前が金融新聞の見出しに載った。

 

 「パーカー・インベストメント・トラスト、半年で四十パーセントのリターン。パーカー代表『RCAは五百ドルを超える』」

 

 レオは記事を丁寧に折り畳んで、机の引き出しにしまった。「新時代」が終わった後で、もう一度、この記事を読み返すつもりだった。

 

(五百五。その後、二十八まで落ちる。パーカーは自分の予測の正しさに殺される)

 

 インベストメント・トラストという構造そのものが、罠だった。集めた資金をRCAに集中投資し、上がり続ける運用実績を煽り文句に、更なる資金を呼び込む。上がっている間は、美しい。だが下がり始めた瞬間、客の解約請求が、底値の売り注文になる。「五百に届く」と紙面で公言した男が、今更「やっぱり売ります」とは言えない。パーカーのプライドが、WASPの意地が、出口を塞ぐ。

 

 モーの事務所に、その記事を持って行った。

 

「パーカーか」モーが鼻を鳴らした。「あのWASPの坊ちゃんは、親の金で投資信託を始めただけだ。だが、言ってることは間違ってない。RCAは五百に届く」

 

「お前もか」

 

「市場は嘘をつかない、レオ。RCAのファンダメンタルズは堅固だ。ヴィクターの買収が成立すれば、レコード産業まで手に入る。この会社の天井は、まだ見えない」

 

「コール・ローンの金利は」

 

「今は六パーセントだ」

 

「上がり始めてる。去年は五だった」

 

「一パーセントだ。RCAの上昇率は年四十パーセントを超えている。金利の一パーセントは、誤差だ」

 

 誤差ではない。金利の一パーセントは、信用市場が細り始めている印だ。年末には十二を超える。金利が上がれば、マージン取引のコストが上がる。限界的な投資家が撤退する。撤退が売りを呼ぶ。売りが株価を下げる。下落が追証を呼ぶ。追証が強制決済を呼ぶ。逆回転。教本には、そう書いてあった。逆回転の絵まで載っていた。矢印の向きだけを、俺は覚えている。

 

 言っても届かない。三月から、同じことを繰り返している。集中投資は危ない。レバレッジが高すぎる。金利の上昇は前兆だ。モーは数字を信じている。そして、数字は、今のところ、モーに味方している。味方している限り、忠告は雑音でしかない。

 

 レオは口を閉じた。窓の外で、ブローカーたちの怒鳴り声が聞こえた。ティッカーテープの機械が、休みなく紙テープを吐き出し続けていた。

 

 モーの手が、また懐中時計に触れた。三度目だった。今日の三時間で、三度。

 

 

 

 

 九月。

 

 マンハッタンのどこに行っても、株の話が聞こえた。

 

 昼のレストランで、隣の席の老婦人が、連れの女性に言っていた。

 

「ねえ、あなたもGMを買いなさいよ。証拠金は十パーセントでいいんですって。千ドルで、一万ドル分の株が買えるの」

 

 十パーセントの証拠金。十倍のレバレッジ。老婦人が、そう言っていた。十パーセントの下落で追証が来ることを、彼女は理解していない。ブローカーは説明していない。説明すれば、株を買ってもらえないからだ。

 

 ウェイターが釣り銭を持ってきた。仕立てのいい背広を着た客と見て取って、小声で言った。

 

「お客様。US Steelは買いですか」

 

「投資の助言はしない」

 

 ウェイターまで、株の助言を求める街になっていた。一九二八年のアメリカは、国そのものが証券取引所になっていた。

 

 

 

 

 十月、RCAが二百を突破した。

 

 年初の八十五から、十ヶ月で一三五パーセント以上の上昇。パーカー・インベストメント・トラストの運用資産が、二百万ドルを超えた。二本目の記事が金融新聞に載った。「これが新時代の投資だ」——ニュー・エラ。

 

 「新時代」。「今回は違う」。「古い常識はもう通用しない」。バブルの末期に、必ず現れる呪文だった。パーカーは、自分が呪文を唱えていることに気づいていない。

 

 レオはその記事も切り抜いて、引き出しにしまった。八月の記事の隣に、並べて置いた。二枚の紙が、いつか同じ引き出しの中で「新時代」の墓標になる。

 

 

 

 

 十月下旬、出口の計算に入った。

 

 机の上に、ノートを一冊、広げた。表紙は白いままだった。棚の奥にしまってある、マッシモへの支払記録の隣に、もう一冊、白い表紙で並べる予定のノートだった。

 

 問題は、いつ売るか、だった。

 

 ダウ平均のピークは、一九二九年の九月だったはずだ。三百八十ドル台。正確な日付までは覚えていない。三日だったか、その翌週だったか。教本の一行と、後年に見たドキュメンタリーの映像が、記憶の中で混ざっている。「九月上旬」と「三百八十台」という大まかな見当だけは、確かにあった。その「大まかさ」が、怖かった。記憶は変質する。確かだと思い込んでいる数字が、明日、少しだけずれているかもしれない。ずれれば、天井は掴めない。掴めなければ、逃げ遅れる。

 

 だから、天井を当てにいかない。八月末までに、全ポジションを清算する。天井の少し手前で降りる。取り損なう利益より、逃げ遅れの損失の方が、はるかに重い。

 

 ノートに、日付と手順だけを書いた。

 

  清算開始 一九二九年七月

  清算完了 一九二九年八月末

  空売り開始 一九二九年九月第一週

 

 三行だけの計画だった。三行以上を書こうとして、書けなかった。三行以上書けば、それは記憶ではなく、願望になる。願望を書き足せば、動く時に迷いが増える。

 

(のり弁を電子レンジで温めていた頃、パソコンの画面には全ての答えが載っていた。一九二九年、一九三〇年、一九三二年。数字も、線の折れ方も、頁を戻せば同じ場所にあった。ここでは、記憶だけが地図だ。地図は、俺の頭蓋の中でだけ、まだ濡れている)

 

 ノートを閉じた。棚に、二冊、並べて立てかけた。マッシモの記録と、出口の設計。防衛のためのノートと、離脱のためのノート。どちらも、時間が味方になるまで、動かない。

 

 棚のガラス戸を閉めた。閉める時、コートの襟の内側の「C.M.」の縫い目が、指の腹に、砂粒ほどの高さで盛り上がっていた。父の癖だった。仕立てた服には、必ず自分の印を入れた。堅気の意地で、隣人にすら値切らせなかった仕立て屋の癖だった。

 

(一本足は、素人のやることだ)

 

 その一行を、一九二〇年の一月末に、鉛筆で紙の裏に書いた。あの紙は、たしか、まだ、机の一番下の引き出しに入っていた。

 

 

 

 

 十一月、フーバーが大統領選に圧勝した。

 

 ダウ平均は三百に迫った。年初来で五割近い上昇だった。レオの五銘柄は、時価合計で$118,000。二倍のレバレッジでも含み益は膨らんでいた。守りを崩さない。清算のタイミングだけ、逃してはならない。

 

 

 

 

 同じ月の午後、ルーが事務所に来た。いつもの書類の束を抱えていた。だが、束の抱え方が、少しだけ違った。左脇に押し当てず、両手で胸の前に持ち直していた。

 

「一つ、聞いていい」

 

 声が、低かった。事務的な報告のトーンではない。

 

「あなたはサルにRCA株を買うなと言った。でも自分は株を持っていて、この数ヶ月、出口の計算をしている」

 

 レオの手が止まった。ペンの尻が、机の木目の上で、二度、小さく跳ねた。

 

「よく見てるな」

 

「帳簿を書いているのは私だもの。それだけじゃないわ。レコードのセッションを減らしてる。ラジオの枠を増やして。レコードの方がロイヤリティは高いのに」

 

 レオは息の入れ方を、一度、直した。株の出口だけではない。音楽事業の方針転換まで、見抜かれていた。

 

「レオ。株を売る準備をしながら、レコードまで減らす。上がるものを、二つ同時に手放している。矛盾が一つなら直感で済む。二つは、方針よ。あなたには何か方針がある。そして、その根拠を、私には教えない」

 

「……直感だ」

 

「直感で、二つの事業を同時に動かすの」

 

「ルー」

 

「あなたの目を見ていると、それだけじゃない気がするの。数字を見ている時の目。ティッカーテープの音を聞いている時の肩の強張り。上がれば上がるほど、あなたの顔から血の気が引いていく。怯えてる」

 

 レオは、何も言えなかった。ルーは、数字だけを見ていたのではない。数字を見る人間の顔を、見ていた。

 

「サルに嘘をつくのは、やめてほしい。直感だと誤魔化すのは。サルはあなたを信じてる。理由が分からなくても、従う。でも、それは、不公平だわ」

 

 ルーが書類を一枚、机の上に滑らせた。ASCAPの分配金通知書だった。仕事に戻る合図だった。

 

「十一月分の分配金。$1,800」

 

 トーンが、事務に戻っていた。しかし、目だけは、もう一度、レオを見た。

 

「帳簿は嘘をつかない。でも、帳簿を書く人間は、嘘をつく。あなたは、帳簿に書かないことで、嘘をついてる」

 

 ルーが事務所を出て行った。書類の束を、また左脇に押し当てた。抱え方が、少しだけ、いつものものに戻っていた。

 

 ドアが閉まる音が、廊下で、二度反響した。

 

(ルーは、正しい。俺は、サルに嘘をついている。モーにも。全員に。「なぜ知っているのか」を説明できないまま、「やめろ」とだけ言う。それは、不誠実だ)

 

 しかし、「来年の秋に暴落が来る」と言えば、狂人扱いされる。沈黙を選ぶしかない。沈黙は、たぶん、嘘の一種だ。ルーは、それを見抜いた。

 

 棚のガラスの向こうに、白いノートが二冊、並んで立っていた。三冊目の白いノートを、たぶん、そう遠くない日に、増やすことになる。

 

 

 

 

 十二月、コール・ローン金利が十二パーセントを超えた。六月の倍だった。ブローカーズ・ローンの総額は六十億ドル。去年は四十億だった。

 

(金利上昇は、椅子取りゲームの音楽が速くなっている印だ。音楽が止まる時、椅子の数は減っている)

 

 モーのレバレッジは五倍に上がった、と事務員から聞いた。証拠金を二十パーセントまで下げたらしい。もう止めに行かなかった。三月から、同じことを繰り返している。言葉は届かない。数字はまだ、モーに味方している。

 

 

 

 

 十二月の中旬、サルが事務所に来た。

 

 顔が紅潮していた。三月にモーの事務所で見た「湿り」とは、色が違った。乾いた興奮に、微かな後ろめたさが混じっている。子供が、隠していた菓子を出す前の顔だった。

 

「レオ。ちょっと話がある」

 

「座れ」

 

 サルが椅子に座った。帽子を膝の上で回している。何かを切り出そうとして、切り出せない。ようやく口を開いた時、目は、机の一点を見ていた。

 

「……RCA株を、買った」

 

 レオの血が、指先から順に、冷たくなった。

 

 指先から手首、そして前腕へ。ゆっくりと、背骨に沿って、冷たいものが上っていった。

 

「いつだ」

 

「先週。モーに口座を開いてもらって」

 

「何株だ」

 

「五株。三百七十で。マージン二十五パーセントで。元手は四百三十七ドル。五株で、千七百五十ドル分のRCAを持ってる」

 

 四倍のレバレッジ。二十五パーセントの下落で証拠金が飛ぶ。RCAは、来年の秋以降、八割以上、暴落する。四百三十七ドルは、消える。

 

「……サル」

 

「分かってる。お前は買うなって言った。マージンを増やすなって言った。だがな」

 

 サルが帽子を握った。指の関節が白くなった。

 

「俺だって、自分の金を運用したいんだ。お前が株で儲けてるのを毎日見てる。モーの事務所に出入りして、帳簿の数字が増えていくのを見てる。ベンソンハーストの酒場のバーテンダーも、一緒に仕事をしてるミュージシャンも、皆やってる。隣の肉屋の親父まで、RCAの話をしてやがる。その中で、俺だけが指を咥えて見てろ、ってのは、レオ、それは無理だ」

 

「サル。RCAは」

 

「何が悪い」

 

 サルの声が、少し上がった。帽子を、膝の上に一度、叩きつけた。

 

「何が悪いんだ、レオ。お前は株をやってる。モーもやってる。パーカーもやってる。俺の知ってるミュージシャンも、近所の商店主もやってる。俺がやったら、何が悪いんだ。四百三十七ドルだぞ。俺の貯金から出した。家の金には、手をつけてない。ロザリアにも相談した。何が悪い」

 

 何も、悪くない。その通りだった。サルは自分の金で、自分の判断で、株を買った。四百三十七ドルは、サルの月給の一ヶ月半分だ。大金だが、全財産ではない。論理としては、間違っていない。

 

 問題は、論理ではなく、未来だった。

 

 しかし未来は、レオの頭の中にしかない。頭の中のものを、他人の判断の根拠にはできない。

 

「サル」

 

「なんだ」

 

「一つだけ、約束してくれ。もし下がった時に、追加で買うな。ナンピンするな。四百三十七ドル以上のリスクを、取るな」

 

「それだけか」

 

「それだけだ」

 

「約束する。だが、レオ、お前はなんでそんなに怖がるんだ。株なんて、上がったり下がったりするもんだろう。モーだって言ってる、RCAは来年、五百に届くって」

 

(五百五。そして、二十八)

 

「……モーが、そう言ったか」

 

「ああ。モーは市場の専門家だ。お前だって、モーを信頼してるだろう。モーが言うなら」

 

「サル」

 

 レオの声が、硬くなった。自分でも、その硬さを制御できなかった。

 

「モーがどう言おうが、株は上がり続けるものじゃない。いつか、下がる。必ず、下がる。その時に、マージンで買っていたら」

 

「だからナンピンしないって、約束しただろう。四百三十七ドル以上のリスクは取らない。それでいいだろう。お前は、俺の保護者かよ」

 

 サルが笑った。しかし、目は笑っていなかった。レオに反抗するのは、サルにとって、珍しいことだった。

 

「……分かった。お前の金だ。お前が決めろ。ただ、約束は守れ」

 

「守る」

 

「それとな、レオ」

 

「なんだ」

 

「ロザリアが言ってた。RCAがもう少し上がって、あと少し貯金に足したら、ベイ・リッジに家の頭金ができる、って。子供たちが走り回れる、庭付きの家だ」

 

 レオは、何も言えなかった。

 

 サルが出て行った後、レオは机に両肘をついて、額を手のひらで覆った。

 

 庭付きの家。ロザリアが子供たちに約束したい家。サルの月給では、ブルックリンの借家がやっとだ。何年も、少しずつ、貯めてきた。RCA株が上がれば、その貯金に足りない分が、埋まる。手の届きかけている、家族の夢だった。

 

 その夢が消える日を、レオだけが、知っていた。

 

 ルーの言葉が、耳の裏で反響した。「サルに嘘をつくのは、やめてほしい」。

 

 嘘ではない。ただ、真実を言えないだけだ。

 

 それは、嘘と、何が、違う。

 

(靴磨きの少年ではない。俺の相棒だ。俺の金を預けて走っている仲間だ。それが、RCAを買った。教本の脚注にあった「靴磨きの少年」のエピソード——バブルの終わりを告げる比喩は、少年である必要がなかった。自分にとって近い人間が、株を買う。それが、恐怖に実体を与える。教本の一行が、体温を持ち始める)

 

 

 

 

 十二月下旬、年末の帳簿を締めた。

 

 音楽事業と株式の両輪が、資産を大きく押し上げていた。ペンで数字を書いていく指の腹に、去年末に同じ帳簿を締めた時の、少し細かった数字の跡が、まだ残っているような気がした。

 

 ——————————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  一九二八年十二月末

 

  【資産】

   現金・銀行預金        $77,500

   株式ポートフォリオ(時価)  $114,900

    AT&T    100株×$205 = $20,500

    US Steel  100株×$160 = $16,000

    GM      80株×$210 = $16,800

    GE     120株×$165 = $19,800

    RCA     80株×$360 = $28,800

    ワーナー  100株×$130 = $13,000

   パーク・アベニューの家具等  $2,000

   グランドピアノ・楽器     $850

   ゴールドバーグ楽譜店(運営権・在庫)

   モレッティ・ミュージック版権 68曲

 

  【負債】

   マージン借入     $57,450(コール・ローン金利12%)

   マッシモみかじめ料  $500/月(年$6,000)

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料    $1,800/月

   レコード版権料    $800/月

   映画音楽契約料    $650/月

   楽譜売上       $100/月

   ラジオ局供給料    $100/月

   演奏料        $150/月

   株式配当       $200/月

   合計         $3,800/月

 

  【月間支出】

   家賃(パーク・アベニュー) $200

   食費         $50

   サル給与       $300

   ルー報酬       $180

   クリフ報酬      $160

   ゴールドバーグ楽譜店 $30

   印刷・郵送費     $40

   録音スタジオ費    $150

   事務費・通信費    $40

   マージン金利     $570

   マッシモ上納金    $500

   雑費         $30

   合計         $2,250/月

 

  【純資産】$300,000

   (現金$77,500 + 株式時価$114,900 + 固定資産$2,850

    + 音楽事業資産$162,200 − 負債$57,450)

   前年末比: +$259,200(一九二七年末$40,800から六倍以上)

 

  【年間推移】

   1920年    $82

   1922年末   $500

   1923年末   $3,000

   1924年末   $5,000

   1925年末   $25,000

   1926年末   $23,800

   1927年末   $40,800

   1928年末   $300,000

 ——————————————————————

 

 $300,000。前年末から六倍以上。株式市場の上昇と音楽事業の成長の両輪で。この数字の中に、五万七千ドルのマージン借入が含まれている。コール・ローン金利は十二パーセント。月$570の金利コストが、含み益の裾を薄く削っている。今は、まだ、削られても余る。

 

 人件費に目を落とした。サル$300、ルー$180、クリフ$160。サルが一番高いのは、専属のフルタイムだからだ。集金、配送、契約交渉、裏社会との緩衝まで、サル一人で回す。ルーは経理と契約管理に絞っていて、楽譜店の店番は別にある。クリフには固定報酬に加えて、録音と演奏の都度収入が乗る。役割の違いだ。不合理ではない。

 

 ただ——経理と財務と契約を束ねるルーの仕事は、前世の会社の呼び方で言えば、CFOだった。月$180は、安すぎる。分かっている。だが、今は、キャッシュのほとんどが、事業の拡大とマージン金利とマッシモに吸い取られている。ルーへの報酬は、金額以外の形で返すしかない。時が来たら、桁を上げる。

 

 帳簿から目を上げた。

 

(出口はもう遠くない。一九二九年の秋、三百八十台のどこか——正確な日付は思い出せない、教本の一行だけをうっすら覚えている——で、全ポジションを清算する。そのあと、空売り。そして、マッシモ。そして、レコード。三つの時限爆弾を、同じ手で扱う)

 

 棚の奥に、白いノートが二冊、並んでいる。十月に書いた出口戦略と、五月に書いたマッシモへの支払記録。どちらも、時間が味方になるまで、動かない。

 

 レコードからの撤退だけは、帳簿に書かない。ルー経由で、粛々と実行する。セッションを減らす。ラジオ枠を増やす。パールには嫌がられた。クリフには疑われた。だが、来年の秋、レコード産業が壊滅した時、この判断が事業の柱を一本、残す。

 

(一本足打法は、素人のやることだ)

 

 その一行が、一九二〇年一月の紙の裏で、まだ、鉛筆の色を保っていた。

 

 

 

 

 大晦日。

 

 事務所にサルが来た。外套に、ブルックリンの冷気を纏ったまま、ドアを押し開けた。

 

「レオ。RCA、三百七十ドルだ。俺の含み益は、百ドルを超えた」

 

 サルの顔が、輝いていた。百ドル。サルにとっては、大金だった。一週間分の給料に近い。

 

「おめでとう」

 

「おめでとうじゃねえよ。お前のおかげだ。……いや、お前は買うなって言ったな。じゃあ、モーのおかげだ」

 

 サルが笑った。屈託のない、乾いた笑いだった。レオのために働き、レオの言うことを聞き、それでも自分の判断でRCAを買った男の笑いだった。家族のために。子供たちに、庭付きの家を買ってやりたくて。

 

「サル。年末年始は、家族と過ごせ」

 

「当たり前だ。ロザリアが七面鳥を焼くってさ。レオも来いよ。ベンソンハーストまで」

 

「考えておく」

 

「『考えておく』は、お前の場合『行かない』だ。いいか、来い。ロザリアの七面鳥は、去年より、いい味付けなんだ。マルコとジーナが、朝から『レオおじさんはいつ来るの』って、うるさくてな」

 

「……行く」

 

「よし」

 

 サルが手を出した。レオは、その手を握った。手のひらは、外の冷気で冷たかった。握り返す指の腹に、二十年近く前、ティン・パン・アレーの寒い階段で握った初めての報酬——二十五ドルの、二枚の紙幣の縁の感触が、なぜか一瞬、混じった。

 

 サルが出て行った後、レオは窓の外を見た。

 

 マンハッタンの冬の夕暮れ。ビルの谷間に、赤い光が斜めに差し込んでいた。タイムズスクエアの方角に、ネオンの光が、薄く滲んでいた。

 

 サルがRCA株を買った。四百三十七ドルの元手で。四倍のレバレッジで。

 

 前世の教本の脚注に、確か、「靴磨きの少年」のエピソードがあった。ジョセフ・P・ケネディが、靴磨きの少年に株の話をされて全株を売却した、という逸話。バブルの終わりを告げるサインとして、あまりにも有名な逸話だった。

 

 しかし今、血が凍ったのは、靴磨きの少年のせいではなかった。

 

 自分の相棒が。自分の右腕が。家族のために、庭付きの家を買いたいと言って、RCA株を、買った。

 

 知っている。四百三十七ドルが消えることを。ロザリアの七面鳥の幸福な記憶が、来年の秋以降、暴落の恐怖に塗り潰されることを。子供たちの庭が、幻になることを。

 

 止められなかった。

 

 止める言葉が、この時代の語彙の中に、ない。「あと九ヶ月後に暴落が来るからやめろ」——そう言えば、狂人だ。

 

「俺の勘だ」——サルは、それを信じた。しかし、百ドルの含み益を前にして、勘だけでは、引き返せない。

 

 ルーが見抜いた通り、レオは嘘をついている。沈黙という名前の、嘘を。

 

 事務所を出た。パーク・アベニューの冬の風が、頬を切った。

 

 ベンソンハーストに行く。サルの家で、七面鳥を食べる。ロザリアと子供たちの顔を見る。そして、来年の秋、サルの四百三十七ドルが消える時に、助けられるだけの現金を、残しておく。

 

(金額の話じゃない。四百三十七ドルなら、俺のポケットから出せる。だが、サルの誇りは、金では買い戻せない。自分の判断で投資して、自分の判断で失敗した、という事実が、この後、サルに、何を残すか)

 

 街路樹が、裸の枝を冬の空に広げていた。遠くで、カウントダウンの練習をしている、若い声が聞こえた。

 

 一九二九年が、来る。

 

 ダウ平均は、三百を超えた。まだ、上がる。三百八十台のどこかまで。

 

 あと、数ヶ月。

 

 レオは歩調を速めた。コートのポケットに、両手を突っ込んだ。裏地の縫い目の「C.M.」の高まりが、指の腹に、砂粒ほどの高さで、あった。父の癖だった。堅気の意地で仕立て屋を続けて、隣人にすら値切らせなかった男の、癖だった。その男の息子が、今、堅気の意地とは違うものを、二冊の白いノートに積み始めていた。

 

 頭の中で、四つの時計が、同じ速さで動き始めていた。

 

 一つ目。市場の時計。ダウが三百八十台の天井に届くまでの、カウントダウン。

 二つ目。マッシモの時計。カポネの脱税訴追が動き出す、その時期までの、カウントダウン。

 三つ目。サルの時計。四百三十七ドルが消えるまでの、カウントダウン。

 四つ目。レコードの時計。パールの声が、盤から消えるまでの、カウントダウン。

 

 四つの時計が、全て、同じ季節に鳴る。

 

 一九二九年の、秋。

 

 その音を、今、この街で知っているのは、レオだけだった。

 

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