五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第11話】投機熱

 1928年。

 

 ニューヨーク、ウォール街。

 

 

 

 

 3月。

 

 モーの事務所で、ティッカーテープの機械音を聞きながら、レオは自分のポートフォリオを広げていた。パイン・ストリートの雑居ビル四階。葉巻とインクの匂い。窓の外にトリニティ教会の尖塔が見える。

 

「RCA。今朝の寄り付きで95ドルだ」

 

 モーが紙テープを持ち上げた。片手には父親の懐中時計、ドイツから持ってきた銀の時計を無意識に弄んでいる。

 

「去年の今頃は85ドルだった。1年で12パーセントの上昇。だがこれからが本番だ」

 

 モーの目に、冷徹な計算とは違う熱が混じっていた。レオの胃が微かに痙攣した。

 

「本番?」

 

「ラジオ産業の成長はまだ始まったばかりだ。NBCが全国ネットワーク放送を始めて1年。CBSも動き出した。広告収入は前年比で倍に伸びている。RCAはラジオだけじゃない。無線通信、レコード、ヴィクターの買収も噂されている。この会社はアメリカの未来そのものだ」

 

「その未来に、いくら賭けるつもりだ」

 

「賭けるじゃない。投資だ」モーが懐中時計を握りしめた。「市場は嘘をつかない。数字が全てを語っている。RCAの売上、利益率、成長率。どれを見ても買いだ」

 

 市場は嘘をつかない。モーは正しい。しかし市場は狂う。集団の熱狂は、数字の論理を蒸発させる。

 

(420ドル。そして28ドル。99パーセントの暴落)

 

「モー。RCAは確かにいい会社だ。だが集中投資は危険だ。1銘柄に資産の何割をかけてる?」

 

「40パーセントだ。先月から積み増した」

 

「40パーセント。マージンは使ってるか」

 

「当然だ。証拠金25パーセント。つまり4倍のレバレッジだ。$10,000の元手で$40,000分のRCAを持っている」

 

 レオは息を止めた。4倍のレバレッジ。RCAが25パーセント下がれば、モーの証拠金は吹き飛ぶ。追証が来る。払えなければ強制決済だ。今のモーには、25パーセントの下落が想像できない。

 

「……4倍か。RCAが4分の1落ちたら、証拠金が消えるんじゃないか」

 

「下がらないよ」モーが鼻で笑った。「レオ。お前は音楽で稼いだ金を銀行の預金口座に寝かせてるだろう。金を殺しているのと同じだ。市場が上がっているのに、なぜ乗らない?」

 

「乗ってるよ。ただし控えめに」

 

 モーが懐中時計のチェーンを指に巻きつけた。銀が蛍光灯の光を反射した。

 

「レオ。親父がドイツから船に乗った時、この時計しか持っていなかった。ロウワー・イーストサイドの掃除夫から始めて、食料品店をやり、息子を学校に行かせた。俺はその息子だ。俺はこの国で這い上がった。市場は嘘をつかない。数字は俺を認めている。この国で数字だけは、ユダヤ人もWASPも区別しない」

 

 その気持ちは痛いほど分かる。俺もイタリア系だ。パーカーに「靴磨きか犯罪者か」と言われた。この国で移民が認められるには、金を稼ぐしかない。

 

 しかし市場は、認めるのと同じ速さで裏切る。

 

「……モー。約束してくれ。株価が下がり始めたら、迷わず売ると」

 

「下がらないよ、レオ。下がる理由がない」

 

 モーの声には、疑いの余地がなかった。

 

 

 

 

 4月。

 

 レオは自分のポートフォリオの見直しを行った。AT&T、US Steel、GM、GE、RCAと5銘柄に分散し、証拠金50パーセントのレバレッジ2倍。時価合計$91,600、年初来の上昇分を含む。

 

 守りの投資だ。面白みはない。しかし暴落で全滅しない。

 

 モーがレオのポートフォリオを見て言った。

 

「分散が効いてるな。だが面白みがない。RCAが40株しかないのは勿体ないぞ」

 

「十分だよ」

 

「十分? 俺のRCAは年初来で12パーセント上がっている。レバレッジ4倍で、元手に対して48パーセントの含み益だ。お前の18パーセントの3倍近い」

 

「機会損失は、損失ではない」

 

 モーが首を振った。

 

「お前は変わった投資家だな。金を増やすことに興味がないように見える」

 

 興味はある。しかし1929年10月に全てが崩壊することを知っている以上、守りながら増やすしかない。問題は、その情報をモーに伝えられないことだ。

 

 

 

 

 5月。

 

 マッシモからの伝言が来た。

 

 サルが事務所に入ってきた時の顔色で分かった。

 

「マッシモが、月500ドルに上げろと言ってる」

 

 レオの手が止まった。月300ドルが500ドルに。年間6,000ドル。売上の15パーセント以上を持っていかれる。

 

「理由は」

 

「お前の事業が伸びてるからだ、と。ASCAPの分配金が増えたことも知ってやがる。映画音楽の契約も。こっちの収入を把握してる」

 

 情報が筒抜けだ。マッシモの組織の誰かが業界の人間から聞き出しているのか。あるいはトニー経由か。

 

「交渉の余地は」

 

「トニーが言うには『500はマッシモが決めた。値切ったら面子が潰れる。面子が潰れたら次は穏便じゃない』」

 

 シカゴのギャング戦争は日々の新聞を賑わせている。先月もカポネの組織と対立派閥の銃撃戦が報じられたばかりだ。「穏便じゃない」。この言葉だけで充分な脅しになる。

 

「……分かった。500ドル、払う」

 

「レオ」

 

「ただし、これで最後にしてもらう。金額の見直しは年一回。それ以上のエスカレーションは、帳簿の話を持ち出す」

 

 サルが身を乗り出した。

 

「帳簿? マッシモの帳簿に何か……」

 

「俺の方の帳簿だ。まだ動かない。ただし準備はする」

 

 月500ドル。年間6,000ドル。帳簿から引くときの手が重い。だがマッシモとの正面衝突は今はできない。前世の知識で知っている、カポネが脱税で起訴されるのは1931年だ。IRSの捜査はすでに水面下で始まっている。マッシモはカポネよりはるかに小物だが、同じ構造を持っている。非合法の収入を申告していない。

 

 帳簿に「顧問料」と書いた。500ドル。嘘の項目だが、嘘をつかなければ生きていけない種類の支出がある。

 

(カポネの前例を使う。帳簿の不整合を証拠として抑え、IRSに匿名で通報する。ただしタイミングが問題だ。早すぎれば報復を受ける。暴落後の混乱期がベストだ。マッシモも金に困る。困った時に追い詰める)

 

 帳簿を閉じた。裏帳簿、マッシモへの支払い記録を別に管理する必要がある。表の帳簿は税務上の正規の記録。裏の帳簿は、いつかマッシモを追い詰めるための弾薬。

 

 レオは新しいノートを取り出して、表紙に何も書かなかった。白い表紙のまま、棚の奥にしまった。

 

 

 

 

 6月。

 

 タクシーの中。革のシートが太陽で温められ、汗と煙草の匂いが籠もっていた。

 

 運転手が信号待ちの間に振り返った。40代半ばの恰幅のいい男。

 

「旦那、株はやってるかい?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけか。俺は先月から始めたんだ。女房に内緒でな」

 

 レオの肩が強張った。

 

「何を買った?」

 

「モンゴメリー・ウォードだ。百貨店の。15パーセントのマージンで500株入れた」

 

「15パーセントのマージン?」

 

「ああ。証拠金が15パーセントでいいって、ブローカーが教えてくれた。7倍くらいのレバレッジだな。株価は$60だから、500株で$30,000分の株を$4,500で持ってるってことだ」

 

(7倍のレバレッジ。14パーセント下がっただけで全てが吹き飛ぶ)

 

「値下がりした時のことは考えているか?」

 

「値下がり?」運転手が笑った。「下がらないよ、旦那。クーリッジ大統領が言っただろう。株は安い、って。大統領がそう言ってるんだ。下がるわけがない」

 

「追証って知ってるか?」

 

「追証?」

 

「マージン・コールだ。株価が下がると、ブローカーから追加の証拠金を要求される。払えなければ、株を強制的に売られる。底値で」

 

「考えたくもないね」運転手がクラクションを鳴らした。「旦那、心配性だな。株なんてのは、買って待ってりゃ上がるんだ。俺の仲間も皆やってる。おっと、着いたぜ」

 

 レオは1ドル25セントの料金を払い、タクシーを降りた。

 

 タクシー運転手が7倍のレバレッジで株を買っている。妻に内緒で。「仲間も皆やってる」。これがバブルだ。資産の裏付けのない信用が膨張し、膨張が膨張を呼ぶ。全員が上がると信じている時、誰も売らない。だから上がる。

 

 

 

 

 7月。

 

 床屋に行った。

 

 石鹸と整髪料の甘い匂いが充満した小さな店内。ハサミの金属音とラジオのジャズが交差している。レオが椅子に座ると、隣の客が話しかけてきた。

 

「あんた、US Steelは持ってるかい?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけ? 勿体ないな。うちのブローカーの話だと、秋までに200ドルを超えるってよ」

 

 床屋の主人が鏡越しに口を挟んだ。

 

「US Steelもいいが、俺はRCA派だな。先週120ドルを超えた。年初は85ドルだったんだぜ? 半年で40パーセント以上の上昇だ」

 

「RCAは高すぎる」隣の客が反論した。「PERが100倍を超えてる。利益に対して株価が……」

 

「PERなんて関係ないよ」床屋が笑った。「RCAは成長株だ。将来の利益で買ってるんだ」

 

 床屋がPERについて議論している。バブルの末期には、誰もがファンダメンタルズを語り始める。しかしその議論は「だから買い」という結論にしか至らない。全員が答えを先に決めているからだ。

 

「お客さん、何か気になる銘柄はあるかい?」

 

「いや。俺は保守的な投資家でね。退屈な株を少しだけ持ってるだけだ」

 

「勿体ないねえ。今は歴史上最高の強気相場だ」

 

 その通りだ。歴史上最高の強気相場。そして歴史上最悪の暴落が、1年後に来る。

 

 

 

 

 8月上旬。

 

 事務所にクリフとパールが来た。

 

「レオ。あんたに話がある」

 

 パールが男物のソフト帽を被ったまま、ソファに腰を下ろした。

 

「ヴィクターが、あたしに専属を提示してきた」

 

 レオの手がペンの上で止まった。

 

「ヴィクターのレース部門か」

 

「ナサニエル・シュルツって覚えがあるかい。三年前にクリフを引き抜きに来た男だ」

 

 覚えがある。あの時、クリフを条件改善で引き留めた。シュルツはクリフを諦めなかった。今度は歌い手を狙った。

 

「条件は」

 

「三年の専属。年俸3,000ドル。版権はヴィクター保有。でもあたしの名前はクレジットに残る」

 

 版権はヴィクター保有。名前だけ残る。ブレナンが俺にやったのと同じ構造だ。だがパールにとって年俸3,000ドルは、歌で生まれて初めて手にする安定だ。

 

(三年。1928年から1931年。レコード産業はその間に壊滅する。ピーク時の1割になる。三年の専属は、来年から錘になる)

 

「パール。昨年も言ったろう。専属の話が来たら、録音義務枠を最小に交渉しろと」

 

「覚えてるよ。でもな、レオ、あたしの声が盤に乗って、全国に出るんだ。年俸3,000ドルだぞ。歌で生まれて初めて手にする安定だ」

 

「版権はヴィクター保有だ。名前だけ残る。あんたの声が売れたら、あんたの声で稼ぐのはヴィクターだ」

 

「それはビジネスの話でしょ。あたしは歌で食っていければいい」

 

(来年、その「食っていく」が消える。レコード産業が壊滅する。三年の専属は来年から錘になる)

 

「クリフ」レオはクリフを見た。

 

 クリフは窓の方を向いた。答える前に窓を見る癖だ。

 

「……俺はレオに従う。だがパール、お前の声の問題だ。お前が決めろ」

 

「あたしの声の問題だ。なら、あたしが決める」

 

 パールの目が計算していた。年俸3,000ドル、三年で9,000ドル。数字で生きている女だ。目の前の幸福を、自分の判断で掴もうとしている。

 

(サルと同じだ。止められない。言えない。沈黙するしかない)

 

「パール。契約の録音義務枠だけは最小にしてくれ。それだけは守ってくれ」

 

「録音を減らせ? 売るために録音するんじゃないか」

 

「売るためだ。だが一枚一枚が、あんたを長く縛る」

 

 パールは長い間レオを見ていた。それから帽子を被り直した。

 

「考えておくよ。録音枚数の件は。でも専属自体は降りない。あたしのチャンスだ」

 

 パールが出ていった後、クリフが言った。

 

「レオ。お前の勘は、何だ」

 

「……言えない」

 

「またそれか」

 

「悪い」

 

「パールを追い詰めるなよ。あいつは音楽で食う女だ。勘で飯は食えないことを知ってる」

 

 レオは頷かなかった。

 

(サルにも、モーにも、パールにも。俺は全員に隠している。株が暴落すると。レコードが壊滅すると。言えない。だから沈黙する。沈黙の代償を、また払う)

 

 

 

 

 8月。

 

 パーカー三世の名前が金融新聞に載った。

 

 『パーカー・インベストメント・トラスト、半年で40%のリターンを達成「RCAは500ドルを超える」とパーカー代表が予測』

 

 レオは新聞をゆっくり折り畳んだ。

 

(505ドル。その後、28ドルへ。パーカーは自分の予測の正しさに殺される)

 

 インベストメント・トラストという構造そのものが罠だ。集めた資金をRCAに集中投資し、運用成績を煽って更なる資金を集める。上がっている間は美しい。だが下がり始めた時、客が解約請求を出す前に、底値が来る。トラストは底値で投げ売りしなければならない。それに「500ドルに届く」と公言した男が、今更「やっぱり売ります」とは言えない。パーカーのプライドが、WASPの意地が、出口を塞ぐ。

 

 理屈の上では、天井で売却すれば最大レバレッジの方が遥かに儲かる。レオの守りの投資など足元にも及ばない。だが、天井で売れる人間はいない。天井にいる時、人間は必ず「まだ上がる」と信じている。だから天井なのだ。

 

 モーの事務所で、その記事を見せた。

 

「パーカーか」モーが鼻で笑った。「あのWASPの坊ちゃんは、親の金で投資信託を始めただけだ。だが言ってることは間違っていない。RCAは500ドルに届く」

 

「お前もか」

 

「市場は嘘をつかない、レオ。RCAのファンダメンタルズは堅固だ。ヴィクター・トーキング・マシンの買収が成立すればレコード産業まで手に入る。この会社の天井は見えない」

 

 モーの資産が膨らんでいた。しかしその大半は借入金だ。RCAが25パーセント下がれば全て消える。

 

「モー。コール・ローンの金利を見てるか?」

 

「見てるよ。今は6パーセントだ」

 

「上がり始めてる。去年は5パーセントだった」

 

「1パーセント上がっただけだ。RCAの上昇率は年40パーセントを超えている。金利の上昇は誤差だよ」

 

 誤差ではない。金利の上昇は信用市場が逼迫し始めている証拠だ。年末には12パーセントを超える。金利が上がれば、マージン取引のコストが上がる。限界的な投資家が撤退する。撤退が売りを呼び、売りが株価を下げ、下落が追証を呼び、追証が強制決済を呼ぶ。逆回転。

 

 言っても無駄だ。3月から同じことを繰り返している。金利が上がれば危ない、集中投資は危ない、レバレッジが高すぎる。言葉は届かない。モーは数字を信じ、数字は今のところモーに味方している。味方している限り、誰の忠告も聞かない。

 

 レオは口を閉じた。窓の外でブローカーたちの怒鳴り声が聞こえた。ティッカーテープの機械が、休みなく紙テープを吐き出し続けていた。

 

 

 

 

 9月。

 

 マンハッタンのどこに行っても、株の話が聞こえた。

 

 レストランで隣の席の老婦人が、連れの女性に言っていた。

 

「ねえ、あなたもGMを買いなさいよ。証拠金は10パーセントでいいんですって。1,000ドルで10,000ドル分の株が買えるの」

 

 10パーセントの証拠金。10倍のレバレッジ。老婦人が。10パーセントの下落で追証が来ることを、彼女は理解していない。説明しない方が、ブローカーは株を買ってもらえるからだ。

 

 ウェイターが釣り銭を持ってきた。仕立てのいい背広の客——金がありそうな相手と見て取って、小声で言った。

 

「お客様。US Steelは買いですか?」

 

「俺は投資の助言はしない」

 

 ウェイターまで。1928年のアメリカは、国全体が証券取引所になっている。

 

 

 

 

 10月。

 

 RCA株が200ドルを突破した。年初の85ドルから、10ヶ月で135パーセント以上の上昇。

 

 パーカーのニュースが新聞に載った。

 

 『パーカー・インベストメント・トラスト、運用資産$2,000,000突破「これが新時代の投資だ」』

 

「新時代」。New Era。「今回は違う」「古い常識はもう通用しない」。バブルの末期に必ず現れる呪文だ。パーカーは自分が呪文を唱えていることに気づいていない。

 

 レオは記事を切り抜いて、机の引き出しにしまった。「新時代」が終わった後に見返すために。

 

 

 

 

 10月下旬。

 

 出口戦略の計算を始めた。

 

 レオのポートフォリオ。AT&T、US Steel、GM、GE、RCAの5銘柄。証拠金50パーセントのレバレッジ2倍。時価は年初の$91,600から大幅に膨らんでいた。

 

 問題は、いつ売るかだ。

 

 ダウ平均のピークは、1929年9月だったはずだ。380ドル台。正確な日付までは覚えていない。3日だったか、あるいはその翌週だったか。史料で読んだ記憶と、ドキュメンタリーで見た映像が混ざっている。「9月上旬」と「380ドル台」という大まかな見当だけはあるが、大まかさが怖い。記憶は変質する。確かだと思い込んでいる数字が、ある日突然ずれているかもしれない。

 

 だから天井を当てに行かない。8月末までに全ポジションを清算する。天井の少し手前で降りる。取り損なった利益より、逃げ遅れた損失の方がはるかに大きい。

 

(のり弁を食べながら、パソコンの画面でチャートを見ていた時代。あの画面には全ての答えが載っていた。いつピークが来て、いつ底を打つか。ここでは、自分の記憶だけが地図だ。そして記憶は、信じるほど確かなものではない)

 

 出口戦略をノートに書いた。日付と手順だけの、簡素な計画。

 

 清算開始: 1929年7月

 清算完了: 1929年8月末

 空売り開始: 1929年9月第一週

 

 ノートを閉じて、棚にしまった。マッシモへの支払記録の隣に。白いノートが二冊。一冊は防衛、一冊は攻撃。

 

 

 

 

 11月。

 

 フーバーが大統領選に圧勝した。

 

 ダウ平均は300ドルに迫り、年初から50パーセント近い上昇。

 

 レオのポートフォリオも膨らんでいた。5銘柄で時価合計$118,000。年初来で大幅な上昇。2倍のレバレッジでも含み益は大きい。守りを崩さない。暴落の前に清算する。そのタイミングを逃してはならない。

 

 

 

 

 11月のある午後。

 

 ルーが事務所に来た。いつもの書類の束を抱えているが、様子が違った。

 

「……一つ、聞いていい?」

 

 ルーの声が低い。事務的な報告のトーンではない。

 

「あなたはサルにRCA株を買うなと言った。でも自分は株を持っていて、この数ヶ月、出口の計算をしている」

 

 レオの手が止まった。

 

「よく見てるな」

 

「帳簿を管理しているのは私だもの。それだけじゃないわ。レコードのセッションも減らしてる。ラジオ枠を増やして。レコードの方がロイヤリティが高いのに」

 

 レオは息を止めた。株の出口だけではない。音楽事業の方針転換まで、見抜かれている。

 

「レオ。株を売る準備をしながら、レコードまで減らす。上がるものを二つ、同時に手放している。矛盾が一つなら直感で済む。二つは方針よ。あなたには何か方針がある。そしてその方針の根拠を、私には教えない」

 

「……直感だ」

 

「直感で二つの事業を同時に動かすの?」

 

「ルー……」

 

「あなたの目を見ていると、それだけじゃない気がするの。数字を見ている時の目。ティッカーテープの音を聞いている時の肩の強張り。上がれば上がるほど、あなたの顔から血の気が引いていく。怯えてる」

 

 レオは言葉を失った。ルーは数字だけではなく、数字を見る人間の顔を見ていた。

 

「サルに嘘をつくのは、やめてほしい。直感だと誤魔化すのは。サルはあなたを信じてる。理由が分からなくても従う。でもそれは、不公平だわ」

 

 ルーが書類を一枚持ち上げた。ASCAPの分配金通知書だ。仕事に戻る合図。

 

「11月分の分配金。$1,800」

 

 事務的なトーンに戻っていた。しかしルーの目は、もう一度だけレオを見た。

 

「帳簿は嘘をつかない。でも帳簿を書く人間は嘘をつく。あなたは帳簿に書かないことで嘘をついてる」

 

 ルーが事務所を出ていった。

 

(ルーは正しい。俺はサルに嘘をついている。モーにも。全員に。「なぜ知っているのか」を説明できないまま、「やめろ」とだけ言う。それは、不誠実だ)

 

 しかし「1929年10月に暴落が来る」と言えば、狂人扱いされるだけだ。沈黙を選ぶしかない。沈黙は嘘の一種だ。

 

 ルーはそれを見抜いている。

 

 

 

 

 12月。

 コール・ローン金利が12パーセントを超えた。6月の倍だ。ブローカーズ・ローンの総額は60億ドル。去年は40億ドルだった。

 

(金利上昇は椅子取りゲームの音楽が速くなっているシグナルだ。音楽が止まった時、椅子の数は減っている)

 

 モーのレバレッジは5倍に上がったらしい。証拠金を20パーセントに下げたと、事務員から聞いた。もう止めに行かなかった。3月から同じことを繰り返している。言葉は届かない。モーは数字を信じ、数字は今のところモーに味方している。味方している限り、誰の忠告も聞かない。

 

 

 

 

 12月中旬。

 

 サルが事務所に来た。

 

 顔が紅潮していた。いつものサルの表情ではなかった。興奮と、微かな後ろめたさが混じっている。

 

「レオ。ちょっと話がある」

 

「座れ」

 

 サルが椅子に座った。帽子を手の中でぐるぐる回している。何かを切り出そうとして、切り出せない。

 

「サル。何をやった」

 

「……RCA株を買った」

 

 レオの血が凍った。

 

 文字通り凍った。指先から温度が消え、背骨に沿って冷たいものが這い上がった。

 

「いつだ」

 

「先週。モーに口座を開いてもらって……」

 

「何株だ」

 

「5株。350ドルの時に。マージン25パーセントで。元手は$437。5株で$1,750分のRCAを持ってる」

 

 4倍のレバレッジ。25パーセントの下落で証拠金が吹き飛ぶ。RCAは来年、85パーセント以上暴落する。サルの$437は消える。

 

「……サル」

 

「分かってるよ、レオ。お前は株を買うなって言った。マージンを増やすなって言った。だがな……」

 

 サルが帽子を握りしめた。

 

「俺だって自分の金を運用したいんだ。お前が株で儲けてるのを毎日見てる。モーの事務所に出入りして、帳簿の数字がどんどん増えていくのを見てる。ベンソンハーストの酒場のバーテンダーも、一緒に仕事をしてるミュージシャンも、みんなやってる。隣の肉屋の親父までRCAの話をしてやがる。その中で俺だけ指を咥えて見てろってのは、お前、それは無理だよ」

 

「サル。聞いてくれ。RCAは……」

 

「何が悪い?」

 

 サルの声が上がった。帽子を膝に叩きつけた。

 

「何が悪いんだ、レオ。お前は株をやってる。モーもやってる。パーカーもやってる。俺の知ってるミュージシャンも、近所の商店主もやってる。俺がやったら何が悪い? $437だぞ。俺の貯金から出した。家の金には手をつけてない。ロザリアにも相談した。何が悪い」

 

 何も悪くない。その通りだ。サルは自分の金で、自分の判断で、株を買った。$437。サルの月給の2ヶ月分だ。大金だが、全財産ではない。論理的には、何も間違っていない。

 

 問題は論理ではなく、未来だ。

 

「サル。RCAはいい会社だ。今は上がっている。だが……」

 

「だがなんだ」

 

「もし下がった時に、追加で買うな。ナンピンするな。$437以上のリスクを取るな。それだけ約束してくれ」

 

「それだけ? それだけなら約束する。だが、お前はなんでそんなに怖がるんだ、レオ。株なんて上がったり下がったりするもんだろう。モーだって言ってる、RCAは来年500ドルに届くって」

 

(505ドル。そして28ドル)

 

「……モーがそう言ったか」

 

「ああ。モーは市場の専門家だ。お前だってモーを信頼してるだろう? モーが言うなら……」

 

「サル」

 

 レオの声が硬くなった。自分でも制御できなかった。

 

「いいか。モーがどう言おうが、株は上がり続けるものじゃない。いつか下がる。必ず下がる。その時にマージンで買っていたら……」

 

「だからナンピンしないって約束しただろう。$437以上のリスクは取らない。それでいいだろう? お前は、俺の保護者かよ」

 

 サルが笑った。しかし目は笑っていなかった。レオに反抗するのは、サルにとって珍しいことだ。

 

「……分かった。お前の金だ。お前が決めろ。ただ、約束は守れよ」

 

「守るよ。ああ、それとな、レオ」

 

「何だ」

 

「ロザリアが言ってた。RCAがもう少し上がったら、ずっと貯めてたのに足りて、ベイ・リッジの家の頭金ができるって。子供たちが走り回れる庭付きの家だ」

 

 レオは何も言えなかった。

 

 サルが出ていった後、レオはデスクに両肘をついて、額を手のひらで覆った。

 

 庭付きの家。ロザリアが子供たちに約束したい家。サルの月給では、ブルックリンの借家がやっとだ。何年も少しずつ貯めてきた。RCA株が上がれば、その貯金に足りない分が埋まる。サルの家族の、手の届きかけている夢。

 

 その夢が消える日を、レオだけが知っている。

 

 ルーの言葉が蘇る。「サルに嘘をつくのは、やめてほしい」。

 

 嘘ではない。ただ真実を言えないだけだ。それは嘘と何が違う?

 

(靴磨きの少年ではなく、自分の相棒が。自分の金を預けて走っている仲間が。RCA株を買った。前世の記憶にある「靴磨きの少年のエピソード」は、靴磨きの少年じゃなくてもいい。自分にとって近い人間がバブルに巻き込まれた時、初めて恐怖が実体を持つ)

 

 

 

 

 12月下旬。

 

 年末の帳簿を締めた。

 

 音楽事業と株式投資の両輪が、資産を大きく押し上げていた。

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1928年12月末

 

 【資産】

  現金・銀行預金   $77,500

  株式ポートフォリオ(時価)

   AT&T   100株 × $205 = $20,500

   US Steel 100株 × $160 = $16,000

   GM     80株 × $210 = $16,800

   GE    120株 × $165 = $19,800

   RCA    80株 × $360 = $28,800

   ワーナー  100株 × $130 = $13,000

    時価合計    $114,900(元手$57,450、借入$57,450)

  パーク・アベニューの家具等 $2,000

  グランドピアノ・楽器 $850

  ゴールドバーグ楽譜店(運営権・在庫)

  モレッティ・ミュージック版権 68曲

 

 【負債】

  マージン借入   $57,450(コール・ローン金利12%)

  マッシモみかじめ料 $500/月(年$6,000)

 

 【月間収入】

  ASCAP演奏権料   $1,800/月

  レコード版権料   $800/月

  映画音楽契約料   $650/月

  楽譜売上      $100/月

  ラジオ局供給料   $100/月

  演奏料       $150/月

  株式配当(AT&T他) $200/月

  合計        $3,800/月

 

 【月間支出】

  家賃(パーク・アベニュー)$200

  食費     $50

  サル給与   $300/月

  ルー報酬   $180/月

  クリフ報酬  $160/月

  ゴールドバーグ楽譜店 $30/月

  印刷・郵送費 $40/月

  録音スタジオ費$150/月

  事務費・通信費$40/月

  マージン金利 $570/月($57,450 × 12% ÷ 12)

  マッシモ上納金$500/月

  雑費     $30/月

  合計     $2,250/月

 

 【純資産】$250,000

  (現金$77,500 + 株式時価$114,900 + 固定資産$2,850

   + 音楽事業資産$112,200 − 負債$57,450)

  前年末比: +$109,800 (+78%)

 

 【年間推移】

  1920年: $82

  1922年末: $500

  1923年末: $3,000

  1924年末: $5,000

  1925年末: $25,000

  1926年末: $23,800

  1927年末: $40,800

  1928年末: $250,000

 ――――――――――――――――――――――

 

 $250,000。前年末から大幅な増加。株式市場の上昇と音楽事業の成長の両輪で。しかしこの数字の中に5万7千ドルのマージン借入が含まれている。コール・ローン金利は12パーセント。月$570の金利コスト。株式の含み益がそれを上回っている。今は。

 

 人件費に目を落とした。サル$300、ルー$180、クリフ$160。サルが最も高いのは、専属のフルタイムだからだ——集金、配送、契約交渉、裏社会との緩衝まで、何から何までサル一人で回す。ルーは経理と契約管理に絞っており、楽譜店の店番は別にある。クリフには固定報酬に加えて、録音と演奏の都度収入が乗る。格差は役割の違いで、不合理ではない。ただ——経理と財務と契約を一手に束ねるルーの仕事は、前世の会社で言えばCFOだ。$180は安すぎる。分かっている。だが今は、キャッシュの全てを事業の拡大とマージン金利とマッシモに吸い取られている。ルーへの評価は、金額以外で返すしかない。

 

 帳簿から目を上げた。

 

(出口まであと9ヶ月。1929年9月。381ドル。全ポジション清算。空売り。そしてマッシモの件。そしてレコード。三つの時限爆弾を同時に扱う)

 

 棚の奥に、二冊の白いノートが並んでいる。十月に書いた出口戦略と、マッシモへの支払記録。どちらも時間が味方になるまで、動かない。

 

 レコードからの撤退だけは、帳簿に書かない。ルー経由で粛々と実行する。セッションを減らし、ラジオ枠を増やす。パールには嫌がられた。クリフには疑われた。だが、来年、レコード産業が壊滅した時、この判断が事業の柱を一本残す。

 

 

 

 

 大晦日。

 

 事務所にサルが来た。外套にブルックリンの冷気を纏ったまま、ドアを押し開けた。

 

「レオ。RCA、370ドルだ。俺の含み益は、$100を超えた」

 

 サルの顔が輝いていた。$100。サルにとっては大きな金だ。1週間分の給料に近い。

 

「おめでとう」

 

「おめでとうじゃねえよ。お前のおかげだ。いや、お前はやめろって言ったな。じゃあモーのおかげだ」

 

 サルが笑った。屈託のない笑い。レオのために働き、レオの言うことを聞き、それでも自分の判断でRCA株を買った男。家族のために。子供たちに庭付きの家を買ってやりたくて。

 

「サル。年末年始は家族と過ごせ」

 

「当たり前だ。ロザリアが七面鳥を焼くってさ。レオも来いよ。ベンソンハーストまで」

 

「考えておく」

 

「考えておく、はお前の場合『行かない』だ。いいか、来い。ロザリアの七面鳥は……」

 

「分かった。行く」

 

 サルが出ていった後、レオは窓の外を見た。

 

 マンハッタンの冬の夕暮れ。ビルの谷間に赤い光が差し込んでいる。タイムズスクエアの方角に、ネオンの光が薄く滲んでいた。

 

 サルがRCA株を買った。$437の元手で。4倍のレバレッジで。

 

 前世の記憶にある「靴磨きの少年のエピソード」、ジョセフ・P・ケネディが靴磨きの少年の株の話を聞いて全株売却したという逸話。バブルの終わりを告げるサインとして、あまりにも有名な。

 

 しかし今、血が凍ったのは靴磨きの少年のせいではない。

 

 自分の相棒が。自分の右腕が。家族のために庭付きの家を買いたいと言って、RCA株を買った。

 

 知っている。$437が消えることを。ロザリアの七面鳥の幸福な記憶が、暴落の恐怖に塗り潰されることを。子供たちの庭が、来年には幻になることを。

 

 止められなかった。

 

 止める手段がない。

 

「あと9ヶ月後に暴落が来るからやめろ」なんて、言えるはずがない。

 

「俺の直感だ」と、サルは信じた。しかし$100の含み益を前にして、直感だけでは引き返せない。

 

 ルーが見抜いたとおり、レオは嘘をついている。沈黙という名の嘘を。

 

 事務所を出た。パーク・アベニューの冬の風が頬を切った。

 

 ベンソンハーストに行く。サルの家で七面鳥を食べる。ロザリアと子供たちの顔を見る。そして、来年、サルの$437が消える時に、助けられるだけの現金を残しておく。

 

(金額の問題じゃない。$437なら俺がポケットから出せる。だが、サルの誇りは金では買い戻せない。自分の判断で投資して、自分の判断で失敗したという事実が、サルに何を残すか)

 

 街路樹が裸の枝を冬の空に広げていた。遠くでカウントダウンの練習をしている声が聞こえた。

 

 1929年が来る。

 

 ダウ平均は300ドルを超え、まだ上がる。381ドルまで。

 

 あと9ヶ月。

 

 レオは歩調を速めた。コートのポケットに両手を突っ込んだ。指先が冷たい。

 

 頭の中で、四つの時計が同時に動いていた。

 

 一つ目の時計、市場の時計。ダウが381ドルに届くまでのカウントダウン。

 二つ目の時計、マッシモの時計。カポネの脱税訴追が動き出すまでのカウントダウン。

 三つ目の時計、サルの時計。$437が消えるまでのカウントダウン。

 四つ目の時計、レコードの時計。パールの声が盤から消えるまでのカウントダウン。

 

 四つの時計が全て、同じ季節に鳴る。

 

 1929年。秋。

 

 レオだけがその音を知っている。

 

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