五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第12話】聖バレンタインデーの虐殺

 1929年2月14日。

 

 朝、事務所の扉を押すと、サルはもう来ていた。机に新聞を広げたまま、椅子の背もたれに寄りかかって天井を見ている。コートを脱ぐ気配もない。窓際のスチームが小さく鳴っていた。二月の朝の北風は、まだ骨まで届く。

 

「どうした」

 

「見ろ」

 

 サルが顎で新聞をしゃくった。一面の活字が、そのまま葬式の告知になりそうな厚みで並んでいた。

 

『シカゴで七人射殺 倉庫に並べて銃撃 カポネの報復か』

 

 記事を読んだ。ノース・クラーク・ストリート二一二二番地。SMCカーテージ社の倉庫。バグズ・モラン配下の七人が壁に向かって並ばされ、トンプソン短機関銃で掃射された。犯行者は警官の制服を着ていたと目撃者は言った。偽の手入れを装って武器を下ろさせ、二列に並べさせてから、後ろから撃った。壁に空いた穴の数まで新聞は書いていた。

 

 (教科書の脚注に、聖バレンタインデーの虐殺、という活字で残っていたはずの事件だ。年までは覚えていた。日付までは、覚えていなかった)

 

「壁に並べて七人だ」サルが唸った。「警官のフリして、両手を上げさせてから、全員だ。バレンタインの日にだぞ、レオ」

 

「カポネの指示か」

 

「記事にはそう書いてないが、モラン一味を狙って、カポネの筋書きじゃないなんて誰が信じる」

 

 サルが煙草に火をつけた。指がわずかに震えていた。

 

「レオ。マッシモが同じことを考えないって保証はないぞ」

 

 レオはコーヒーカップに手を伸ばした。取っ手が冷たかった。ゆうべ飲みかけたまま、朝の空気に取り残されていた。指を戻した。

 

「マッシモの最近の動きは」

 

「先月、従兄弟のトニーから漏れた。マッシモの下で帳簿を数えてる、あのトニーだ。マッシモが俺たちの売上を嗅ぎ回ってる。ハーレムのクラブ、レコードの流通、コロムビアの経理まわり。あちこちに人を出して、いくら入ってきてるか調べさせてる」

 

「みかじめ料の算段だな」

 

「ああ。で、このタイミングだ」

 

 全米が七つの遺体の写真で震えている日に、この街の路上で足音を立てる。恐怖の背中に隠れて動くと、動いていることが見えづらい。マッシモは粗野だが、その手の呼吸は身体で覚えている男だった。

 

 サルが目を伏せた。天井を見ていた分の何かが、机の木目のほうに沈んでいった。

 

 

 

 

 二日後。

 

 午後、サルが青白い顔で事務所に来た。コートの襟を立てたまま、それを下ろすことも忘れて立ち尽くしている。

 

「レオ。マッシモから伝言だ。トニー経由で」

 

「座れ」

 

「立ってる方が話せる」

 

 サルは水も飲まなかった。コートの袖の端が、少しだけ湿っていた。外は雪ではなかった。手のひらから染みたものだ。

 

「マッシモの言葉をそのまま言う。『シカゴで何があったか聞いたか。あっちは七人だ。派手にやりすぎだ。俺たちはもっと穏便にやりたいんだがな。モレッティに伝えろ。穏便にやりたいなら、話がしたい、と』」

 

 事務所の壁の時計の秒針が、やけに大きく刻んでいた。

 

「穏便に、だとさ」サルが吐き捨てた。

 

「それだけか」

 

「もう一つある」

 

 サルの声が変わった。低くなったが、そこには奥から押し戻される震えがあった。

 

「トニーが最後に、こう言った。『マッシモがサルの家族のことを言ってた。ベンソンハーストは夜道が暗い。ロザリアさんは毎朝、マルコとジーナを学校に送ってるだろう。気をつけた方がいい』」

 

 レオは奥歯を噛んだ。噛んでいることに気がついたのは、顎の関節が痛みを立て始めてからだった。ロザリアの名を、マッシモは知っていた。子供たちの名を、マッシモは呼んだ。学校の門から家までの、あの短い坂道の勾配まで、頭に入れているという合図だった。

 

「サル」

 

「俺のせいだ」

 

 声が固かった。だが怒りではなかった。サルの視線は、レオを見ていなかった。机の帳簿の背表紙を睨んでいた。

 

「俺がこの仕事に関わったからだ。お前の出版社が大きくなる。金が回る。マッシモが嗅ぎつける。それは分かってた。分かってて、俺はここにいた。ロザリアと子供たちのことを考えれば、親父の八百屋で野菜を積み下ろしてれば良かったんだ」

 

「サル」

 

「俺が選んだんだ。お前に誘われて、自分で選んだ。それがロザリアと子供たちを危険に晒した」

 

 サルが机を叩いた。コーヒーカップが跳ねた。黒い液体が帳簿の上に散った。だが拳は、自分を殴りたい行き場を失った拳だった。

 

「俺がもっと早く気づいてれば。ロザリアを実家に帰しておけば。子供たちを」

 

 声が途切れた。目のふちが赤かった。

 

「サル。お前のせいじゃない」

 

「……何だと」

 

「お前は仕事をしただけだ。集金も配送も、店との交渉も、全部お前が回してきた。マッシモが目をつけたのは、俺の事業が大きくなったからだ。お前じゃない。俺だ。それは事実だ」

 

 サルの拳が、ゆっくりと机の上でほどけた。自分を殴る手が行き場を失って、指の関節が机の木目の縁に触れているだけになった。

 

「だからサル。お前の家族は、俺が守る。ロザリアと子供たちを、しばらくニュージャージーの親父の農場に預けろ」

 

「ニュージャージーに」

 

「マッシモが盾に使うなら、盾を遠ざけておく。その間に、俺があの男を止める」

 

「止める? 相手はマフィアだぞ。シカゴじゃ七人だ、レオ」

 

「暴力で勝つとは言ってない」

 

 レオはサルの目を見た。サルが目をそらさなかったのは、目をそらす余力もなかったからだ。

 

「暴力以外の方法がある」

 

 サルが椅子を引いて座った。座ったというより、身体の重みを椅子に預けた。机の上の帳簿が、コーヒーの染みで黒く滲んでいた。

 

「……お前は、怖い奴だな、レオ。俺が頭抱えて震えてる横で、もう次の手を考えてる」

 

「考えてないと、生き残れない」

 

「俺が関わらなきゃ、こんな心配をせずに済んだのかもな」

 

 棘のある声ではなかった。後悔だった。自分の選択を舌の上で転がしている男の声だった。

 

「サル。マッシモには会う。俺一人で」

 

「一人で。馬鹿を言うな」

 

「お前を連れていったら、お前の家族を人質にされる。俺一人なら、交渉の余地がある」

 

 サルが長く息を吐いた。

 

「……分かった。ロザリアに話す。だがレオ、お前がもし」

 

「死なない。マッシモは俺を殺しても金にならない。金の卵を産む鶏を殺す馬鹿はいない」

 

 (そう祈るしかない、というほうが正直だ。金の勘定と、面子の勘定と、どちらが優先するかは、あの男の場合、その日の酒の量で変わる)

 

 

 

 

 二月末。夜。

 

 リトル・イタリー、マルベリー・ストリート。表通りから細い階段が地下に降りていた。看板はない。看板がないことが看板だった。

 

 階段を降りると、煙草の煙と密造ウィスキーの匂いが、鼻の奥までねじ込まれた。壁の塗装は所々剥がれ、下地のセメントが顔を出している。天井から裸電球が三つ、それぞれ別の高さで吊るされていた。テーブルは五つ。四つは空いていた。奥の一つに男が座っていた。

 

 フランク・マッシモ。49歳。禿げ上がった頭に、分厚い首。仕立ての良いスーツを着ていたが、着ている中身が服の縫い目と釣り合っていなかった。両脇に若い男が二人。片方は葉巻を咥え、片方はマッチを弄っていた。マッチの角が、指の腹で、揃わない拍子で鳴った。

 

「モレッティ。一人で来たか。度胸があるな」

 

「お招きいただいたのは私ですから」

 

 丁寧に。徹底的に丁寧に。尊敬の形式が保たれている限り、最初の会話は、少なくともテーブルの上では暴力に至らない。

 

「座れ」

 

 座った。裸電球の光がウィスキーの瓶に反射して、卓布の縁を琥珀色に切り取っていた。

 

「モレッティ。シカゴで何があったか、もちろん知ってるな」

 

「新聞で読みました」

 

「七人だ。壁に並べて。カポネのやり方は派手すぎる。俺はああいうのは好きじゃない。穏やかに、ビジネスとして、やりたい」

 

「同感です」

 

「だろう。お前は頭がいい。音楽で稼いでる。レコード。ラジオ。コロムビアとの契約。うちの人間が調べた」

 

 マッシモが、四つ折りにした紙をテーブルに置いた。指の腹で押し伸ばして、皺を消してからレオの方に押し出した。レオは目を落とした。

 

 数字が並んでいた。月間売上の内訳。ASCAPの分配金。映画音楽の契約料。コロムビアへのマスター提供料。ラジオ局への楽曲供給料。振込の日付らしきものまで、右端にメモされていた。

 

 月間収入、四千二百ドル。ASCAP分配金、直近四半期で千八百ドル。コロムビア契約、年間八千ドル。

 

 (喉の奥に何かが引っかかった。この紙は単なる脅しではない。俺が帳簿で攻める道を封じるための、先手の宣言だ。お前が俺を刺せる材料を持っているように、俺もお前を刺せる材料を持っている。そう読めと、この紙は言っている)

 

 背中の襟の中に、冷たいものが下から這い上がった。

 

「おかげさまで」

 

「おかげさまで、か」マッシモが唇の端を持ち上げた。笑いではなかった。値踏みの表情だった。「モレッティ。お前の事業は、この街で動いてる。この街は、俺たちの街だ。分かるな?」

 

「分かります」

 

「分かるなら話は早い。月に700ドル。お前の音楽事業の売上から、俺たちに払え」

 

 月700ドル。前の500ドルから200ドルの値上げ。年間で8,400ドル。

 

「それと、俺の店で月に二回、演奏しろ。客が喜ぶ」

 

「マッシモさん。金額については、お引き受けするか検討します。ですが、演奏についてはお断りします」

 

「演奏が嫌か」

 

「嫌ではありません。ただ、私がマッシモさんの店で演奏したという話が広まると、コロムビアやラジオ局との取引に響きます。あちらは、表向き、そういうお店との縁を避けたがる。金づるを逃せば、月700ドルもお渡しできなくなります」

 

 マッシモが黙った。裸電球の下で、禿げた頭の額に汗が滲んでいたが、拭わなかった。金の論理は通じる男だ。面子を取るか実利を取るかの、天秤の傾き具合を、脇の若い男に見せない程度に、頭の中で計っている。

 

「……ふん」マッシモがグラスを置いた。氷の音がした。氷が入っていないのに、氷の音が聞こえた気がした。「演奏は保留にしてやる。金は月700ドル。来月から。遅れるな」

 

「承知しました。ただ、領収書をいただけますか」

 

 マッシモが目を丸くした。

 

「領収書」

 

「帳簿に記録する必要がありますので。経費として処理するには」

 

「俺に領収書を書けと」マッシモが低く笑った。「面白い男だな、モレッティ。マフィアに領収書を要求する奴は初めてだ」

 

「音楽出版社ですから。帳簿は正確に」

 

 領収書は、もちろん出てこない。出せるはずがない。マッシモの収入は一切申告されていない。だが、要求したという事実だけが残る。この場に居合わせた若い男二人の頭にも、経理という単語が一秒だけ座った。それだけで足りる。

 

 (カポネは何で捕まる。殺人でも密造酒でもない。脱税だ。帳簿の不整合だ。マッシモはカポネよりはるかに小物だ。だが、同じ構造を持っている)

 

 マッシモが立ち上がった。テーブルに両手をつき、レオを見下ろした。裸電球の光が、額の骨と頬骨の稜線に深い影を刻んでいた。

 

「モレッティ。一つ言い忘れていた」

 

「何でしょうか」

 

「お前の親父さんを覚えてるか」

 

 レオの息が、止まった。

 

「カルロ・モレッティ。仕立て屋だった。背広の仕立てが上手かった。リトル・イタリーの、マルベリー・ストリートとヘスター・ストリートの角にある店」

 

 父カルロは、1920年の冬、レオがこの身体に目覚める直前に肺炎で死んでいた。仕立て屋だった。生涯堅気を貫いた。仕立て上げた自分の服の裏地には、白い糸で「C.M.」の印を入れた。

 

「俺と親父さんは、同じ村の出身だ。ナポリの東、山の中にある小さな村だ。俺が生まれる前に親父さんが船でアメリカに来た。二十年後に、うちの親父が俺を連れてきた。年は親父さんの方が上だったが、一族の遠い縁戚みたいなものだ」

 

 マッシモがウィスキーを一口飲んだ。喉仏が、光と影の境目で動いた。

 

「親父さんは堅気だった。俺がこの街で力を持った後も、一度も頼りに来なかった。俺が『何かあったら言え』と言っても、『商売は別だ』と言って、ずっと線を引いていた。意地だったんだろう。堅気の意地で、最後は孤独に死んだ」

 

 レオの手が、膝の上で握られた。コートの布地越しに、内ポケットの紙の縁が指に当たった。マッシモが押し出した、あの数字の紙だ。

 

「お前は親父さんに似てるな。堅気の意地がある。だがな、モレッティ。親父さんは間違っていた。この街で一人で生きようとするのが間違いだった。孤独に死んだ。誰にも看取られずに」

 

 マッシモが身を乗り出した。テーブルの木目の上に、両手の指が広がった。

 

「俺はお前をそんな風にさせない。俺のものとして扱う。分かるか。親父さんが拒んだものを、お前は拒むな。一族は助け合うものだ。お前が稼いだ金は、一族の金だ。俺がそれを預かる」

 

 (親父の記憶を、この男に汚させはしない)

 

 レオは立ち上がらなかった。表情も動かさなかった。丁寧に頭を下げた。頭を下げる角度は、ブレナンの前で二十五ドルを受け取ったときの角度と、一度だけ同じにした。

 

「マッシモさん。お言葉、ありがたく頂戴します。月700ドル、来月第一週にお持ちします」

 

「賢い男だ」

 

「ただ、一つだけ。俺の周りの人間には、手を出さないでください。従業員も、取引先も、友人も。彼らは俺の事業の歯車です。歯車を壊されたら、月700ドルもお渡しできなくなります」

 

 マッシモが、長い間レオを見た。目のふちが、ほんの少しだけ細くなった。

 

「お前の周りの人間は全員、俺の街に住んでいる。どこにも逃げられない。だが、お前が大人しくしている限り、指一本触れるつもりはない。ビジネスの邪魔をする奴はいない」

 

「ありがとうございます」

 

 マッシモが、脇の若い男の一人にうなずいた。若い男が奥のドアを押し開けた。マッシモがそちらへ歩いた。三歩進んでから、振り返った。

 

「モレッティ。帳簿は大事だぞ。お前が几帳面に帳簿を付けていることは、俺も知っている。だが帳簿で攻めようとしても無駄だ。俺の帳簿はお前が思っているほど単純じゃない」

 

 言い置いて、階段を昇っていった。革靴の踵が、段板の三段目で、少しだけ長く止まった。それから、上の扉が閉まる音がした。

 

 レオはテーブルの上の紙を、四つ折りに戻した。コートの内ポケットにしまった。マッシモが押し出したときの折り筋に、指先を沿わせて、同じ折り目で畳んだ。折り目が、レオの指の腹に、砂粒ほどの高さで残った。

 

 階段を昇った。表通りに出た。リトル・イタリーの夜は静かだった。二階の窓からイタリア語の会話が漏れていた。油で揚げた魚の匂いが、通りの上を薄く這っていた。

 

 (帳簿で攻める道は、封じられた。この男は自分の帳簿を、複数の架空の名義と、赤字申告の食料品店に分散させているはずだ。表面の税務矛盾だけでは、連邦は動かない)

 

 では、どうする。答えは一つしかなかった。マッシモの外側。現場の生の情報だ。帳簿の数字は書き換えられる。だが、毎晩スピークイージーで流れる金、客の顔、酒の搬入経路、そういう現場の事実は、地下の扉の内側にいる人間しか知らない。

 

 アンジェロ・ルッソ。

 密造酒と、噂話で食っている男。

 

 レオは歩き出した。マルベリー・ストリートを北へ、二本東に折れて、また北へ。

 

 

 

 

 三月最初の週。

 

 FRB が投機抑制の警告声明を出したのは、マッシモとの会談から十日ほど後のことだった。事務所のデスクで、レオは記事を三度読み返した。

 

『連邦準備制度理事会、投機抑制の警告声明を発表。加盟銀行に対し、投機目的の融資を抑制するよう警告』

 

 (転換点だ。だが市場は止まらない。一度下げても、また戻る。夏にかけて、さらに上がる。ピークは秋のはずだ。三百八十ドル台。正確な日付までは覚えていない)

 

 電話が鳴った。モーだった。

 

「レオ。FRBの声明を見たか」

 

「見た」

 

「市場が少し下げた。今日だけでRCAが十五ドル下げた。だが俺の客の大半は買い増してる。お前はどうする」

 

「当面は動かない」

 

「動かない。買い場だぞ」

 

「モー。一つだけ。手持ちの一部を、現金にしておけ。少しだけでも、余裕を作っておけ」

 

 モーが黙った。三秒ほどの沈黙が、電話線の向こうで、金属の唸りに置き換わった。

 

「……レオ。FRBが声明を出すたびに市場が止まるなら、二七年に止まってる。市場を止めるのは、市場だけだ」

 

「分かっている。だからこそ、だ」

 

「お前は心配性だ」

 

 電話が切れた。

 

 (トロイアの城壁の上で、燃える街を先に見ていた女がいた。誰にも信じてもらえなかった。俺の場合は、預言ではない。教科書の脚注だ。格は落ちる。孤独は同じだ)

 

 だが今は、モーではない。マッシモだ。

 

 

 

 

 三月中旬。

 

 アンジェロ・ルッソのスピークイージー。ムルベリー・ストリートから二本東の通りの、表札のないドア。

 

 ノックした。覗き穴が開いた。アンジェロの目がレオを認め、内側で鎖が外れた。

 

 地下室は薄暗かった。テーブルが十、椅子が四十。天井の格子には古新聞が挟んであった。煙草の煙を少し濾す仕組みらしかった。バーテンダーのルイジが、カウンターの奥でグラスを磨いていた。空のグラスと空のグラスを、拭き布の同じ位置で、いつまでも磨いていた。

 

「レオ。久しぶりだ」アンジェロがカウンターから出てきて手を握った。手の平が乾いていた。「演奏に来てくれたのか。ここの客は、お前のピアノを覚えてるぞ」

 

「アンジェロ。話がある」

 

「話」

 

「マッシモのことだ」

 

 アンジェロの顔が、変わった。曲がっていた腰が伸びた。温厚な中年の顔から、一枚の膜が剥がれた。剥がれた下は、三十年、地下室で酒を注いできた男の顔だった。

 

「……奥に入ろう」

 

 一番奥の個室。アンジェロがドアを閉め、鍵をかけた。閉めたドアの向こうから、客のかすかな笑い声が、板一枚を隔てて聞こえていた。

 

「レオ。マッシモに、何をされた」

 

「月700ドルのみかじめ料。俺の事業の売上を把握されている。脅された」

 

「700ドル」アンジェロが椅子に沈んだ。椅子の脚が短く鳴った。「俺は先月、200ドルから350ドルに上げられた。酒の仕入れ値も上げられた。今月は客が減ってる。マッシモが客に直接声をかけて、別の店に流そうとしてる」

 

「店を潰して、安く買い叩くつもりだ」

 

「……お前は、何を考えてる」

 

 レオはアンジェロの目を見た。アンジェロ・ルッソ。54歳。元パスタ屋。禁酒法施行後に地下室を改装してスピークイージーを始めた。父カルロを知る、古いリトル・イタリーの住人。温厚だが臆病。長年、あの男に屈服してきた。

 

「アンジェロ。あんたの店を、あの男から解放する方法がある」

 

 アンジェロの顔から、血の気が引いた。

 

「レオ。俺にかかわるな。お前も殺される。シカゴで何があったか、新聞を読んだだろう。マッシモは同じことを、穏便に、と俺に言った。穏便に、だぞ。お前の計画に巻き込まれるくらいなら、350ドルを払い続けた方がましだ」

 

「あと三ヶ月で450ドル。半年で600ドルになる。あんたの店の売上では、払えない額だ。払えなくなったら、店はマッシモに安く買い叩かれる。あんたは追い出される。三十年かけて築いた常連を、マッシモの手下に取られる」

 

 アンジェロの唇が、震えた。

 

「それを、どうやって止める」

 

「連邦の検察が動く。マッシモの店の帳簿、食料品店の申告、ドライクリーニング店の収入。全部突き合わせれば、税務矛盾が浮かぶ。シカゴのカポネが今、連邦の追及を受けている。連邦は組織犯罪の資金洗浄に神経質だ。時期はいい」

 

「連邦」アンジェロが声を落とした。「連邦が動くとして、誰が情報を渡す。お前か。お前が動いたとマッシモに悟られたら、お前の命が」

 

「俺は表からは動かない。俺が渡せるのは、新聞と電話帳で調べられる範囲の情報だけだ。それだけでは弱い。連邦が本格的に動くには、現場の情報が要る」

 

「現場の情報」

 

「あんたの店の客の動きだ。マッシモの酒の搬入経路。客が誰に金を払っているか。帳簿に書いてあることと、現場で起きていることの食い違い。そういう情報は、地下の扉の内側にいる人間しか、持っていない」

 

 アンジェロが首を横に振った。

 

「俺には、できない。俺が情報を渡したと分かったら、ルイジが殺される。ルイジの家族も。俺の家族も」

 

「アンジェロ。あんたの名前は、どこにも出ない。俺が情報を整理して、匿名で連邦に渡す。あんたが話した内容は、業界の人間なら誰でも知っている公然の秘密として組み直す。あんたが情報源だと特定できる要素は、全部、除く」

 

「それでも、バレたら」

 

「バレない方法を、俺が考える。あんたは聞かれたことに答えるだけだ。紙には書かない。電話にも残さない。この部屋で、二人だけで」

 

 アンジェロは、長い間、黙っていた。個室のドアの向こうで、客の笑い声が聞こえた。ルイジがグラスを並べる音が聞こえた。木のテーブルの角に、誰かのグラスが軽く当たる、乾いた音。三十年かけて作った、店の音だった。

 

「レオ。一つだけ、聞かせてくれ。お前の親父さんは、マッシモと同じ村の出身だったな」

 

 レオは息を止めた。マッシモがそう名乗ったのを知っている人間は、あの地下のテーブルにいた四人しかいないはずだった。だがリトル・イタリーは、そういう話が壁の向こう側に染み出す街だった。

 

「俺は親父さんを知ってる。仕立て屋だった。親父さんが死んだ時、俺は葬式に出た。マッシモは、出なかった」

 

 アンジェロがテーブルの木目を見た。

 

「親父さんが生きてる間、マッシモは一度も店に行かなかった。それが『一族』か。マッシモは、親父さんが死んだ後になってから、『一族』とか『同じ村』とか言い始めた。生きてる間は、堅気の仕立て屋なんて、見向きもしなかった。俺はそれを知ってる。リトル・イタリーで三十年暮らしていれば、分かる」

 

 アンジェロが顔を上げた。目が、変わっていた。三十年、地下の扉の内側で耐えてきた男の目に、何かが、灯り直していた。

 

「……お前が、本当に俺を守れるのか」

 

「守る。約束する」

 

「約束か」

 

「俺の親父は、堅気の意地で孤独に死んだ。マッシモはそれを笑う。だが俺は、親父の意地を無駄にはしない。あんたの店を、あんたのものにする。それが、親父が拒んだマッシモの論理を、俺も拒むということだ」

 

 アンジェロが、長い息を吐いた。息の最後に、少しだけ震えが残った。

 

「——何をすればいい」

 

 

 

 

 四月。

 

 RCA株が四百ドルを超えた。

 

 サルが事務所に来た。ロザリアと子供たちをニュージャージーに送った後、サルはアパートを引き払い、事務所の奥の小部屋に泊まり込んでいる。ベッドは折りたたみの簡易寝台一つ。壁には、ロザリアが編んだ茶色のマフラーが掛けてあった。

 

「レオ。RCA、四〇五ドルだ」

 

「聞いた」

 

「五株が、一株あたり五十五ドル上がった。建値の三五〇ドルから、四〇五ドルだ。五株で二七五ドルの含み益。元手の四三七ドルは、七百ドル台に化けた」

 

 (サルは俺との約束通り、ナンピンはしていない。四三七ドル以上のリスクは取らないと。だが二七五ドルの含み益は、サルの月給のほぼ一ヶ月分だ)

 

「サル。その含み益だが」

 

「言うな、レオ。俺は約束を守ってる。五株のままだ。だが俺が約束を守ってる間に、RCAは五十ドル以上上がった。俺が正しかったんだ」

 

「分かっている」

 

「分かってるなら、いいだろう。俺の金だ。俺が決める」

 

「サル。一つだけ。含み益が千ドルを超えたら、その時は、半分だけでも現金にすることを考えてくれ」

 

「半分」

 

「半分だ。元手の四三七ドルだけでも戻しておけば、残りがどう転んでも、マイナスにはならない」

 

「マイナスになんかならないよ。RCAはこれからも上がる」

 

「かもしれない。だが、マイナスにならない方法を取っておくのが賢い」

 

 サルが首を傾げた。傾げ方に、以前より、幅があった。

 

「……考えておく。だが今は売らない。まだ上がる」

 

「分かった」

 

 サルが出ていった後、レオは帳簿を開いた。サルのRCA、五株、建値三五〇ドル。現在値四〇五ドル。含み益二七五ドル。まだ千ドルには、遠い。

 

 (あと数ヶ月でRCAはピークに向かう。ピークは夏。五百ドル付近のはずだ。そこで半分売れば、元手を回収して、残り二株を保有できる。残り二株が暴落でゼロになっても、元手は戻る。ロザリアとマルコとジーナの生活は、崩れない)

 

 (説得は、夏にする。マッシモを倒した後に。信頼の順序がある)

 

 ピアノの蓋を開けた。Cmaj7を一つだけ鳴らした。解決の直前の和音。だが次の和音を、弾かなかった。指を鍵盤の上に残したまま、しばらく動かなかった。まだ、何も解決していない。

 

 

 

 

 同じ週。

 

 パールがヴィクターの専属契約書を持ってきた。三年の専属。年俸三千ドル。版権はヴィクター保有。録音義務は年六枚——最小ライン。

 

「サインした」

 

 パールの声が弾んでいた。男物のソフト帽の下で、目のふちが光っていた。

 

「録音義務枠は、最小にしたか」

 

「あんたの言う通りにした。年六枚。それ以上録音したいって言ったら、追加ボーナスがつく。来年は全国ツアーよ。ヴィクターが南部の黒人向けラジオ局と提携して、ジョージアからテキサスまで回る」

 

 パールが計画書を広げた。アトランタ、メンフィス、ニューオーリンズ、ヒューストン。

 

 (来年、レコード産業は壊滅する。ピーク時の一割にまで縮む。この全国ツアーは、来年の今頃にはキャンセルの通知が机の上に積まれているはずだ。ヴィクター自身が、それどころではなくなる)

 

「パール。おめでとう」

 

「ありがとう。あんたの録音枠の忠告、守ったよ」

 

「助かる」

 

「でもレオ、あたしはレコードで行くよ。盤で。あたしの声が盤になって、棚に並んで、南部の店で売れる。それが歌い手の証だ。ラジオは、電波が届く間だけの音でしょ。盤は、家の棚に残る」

 

 パールが立ち上がった。ソフト帽を被り直した。

 

「来年のツアーの話、また相談に来る」

 

 パールが出ていった。契約書のコピーが、机の上に残った。

 

 (サルがRCAを持っているのと、同じ構造だ。サルは株のバブルに乗り、パールはレコードのバブルに乗る。俺だけが崩壊に気づいている。そして俺は、二人とも止められない)

 

 契約書のコピーを引き出しにしまった。サルのRCAの記録と、同じ引き出しに。

 

 

 

 

 四月から五月にかけて、レオはアンジェロの店に、三度通った。

 

 一度目。客の動きの話。半年前まではリトル・イタリーの職人が多かった。最近はスーツの男たちが増え、金の使い方が荒い。夜十時を過ぎると奥の個室でトランプ賭博が始まる。酒は三本目からサービスになる。それは酒ではなく、賭博の参加料だ、とアンジェロは言った。

 

 二度目。酒の搬入の話。アンジェロの店の酒は二系統で入ってくる。一つはトニーが知っている経路。もう一つは、アンジェロが直接ブロンクスの小さな蒸留所から仕入れているものだ。だが最近、マッシモがブロンクスの経路も押さえにかかった。

 

「あいつが全部の蛇口を握れば、俺の店はあいつのものだ」とアンジェロが言った。「蛇口を締めていって、俺が払えなくなったところで『店を譲れ』と言う。あいつの、いつもの手だ」

 

 三度目。帳簿の話。アンジェロは自分の店の帳簿を出した。売上、月二千八百ドル。酒の仕入れ、千二百ドル。人件費、四百ドル。家賃、三百ドル。みかじめ料、三百五十ドル。だが、最近客が減っている。売上は二千二百ドルに落ちた。みかじめ料は三百五十ドルのまま。利益はマイナス五十ドル。あと二ヶ月で、赤字が固まる。

 

「俺がマッシモに払ってる三百五十ドルは、表の帳簿には『食材仕入れ』と書いてある。マッシモが指定した食料品店への支払いということになってる。でも、その食料品店は、マッシモの店だ。俺が払った金が、あいつの食料品店の売上として計上される。あの店は、表の帳簿では赤字だ。売上で税務署を煙に巻いて、経費で赤字にする。二重、三重だ」

 

 みかじめ料の循環だ。末端の店が『仕入れ』としてマッシモの食料品店に払う。食料品店はそれを『売上』にするが、同時に別の経費をでっち上げて赤字にする。

 

 (現場の数字と表の帳簿を突き合わせれば、矛盾が浮く。月に三百五十ドルの『食材仕入れ』を計上している店が、リトル・イタリーに何軒あるか)

 

「アンジェロ。あと二つ、教えてくれ。他の店も、同じ『食材仕入れ』をしているか。そして、その『食材』が、実際に届いているか」

 

「他の店は、俺は知らない。俺は、自分の店のことしか。だがレオ、うちに『食材』なんて、届いてない。俺は、酒と、オリーブと、チーズと、パンを仕入れてる。それだけだ。肉も、魚も、野菜も、うちで出したことがない。でも帳簿には、『肉類三百ドル』と書いてある。マッシモが書けと言った」

 

「分かった」

 

 レオは事務所に戻り、書き留めたメモを、灰皿の縁で燃やした。紙が黒く縮み、灰の縁が机の木目に触れた。情報は、紙に残さない。頭の中だけにしまう。

 

 その夜、サルに尋ねた。

 

「サル。トニーに、聞いてほしいことがある。ただし、聞くだけだ。答えを受け取れなくていい。ただ、投げかけるんだ」

 

「何を、聞く」

 

「マッシモの食料品店に『肉類』を仕入れている店が、リトル・イタリーに何軒あるか。トニーは、帳簿に触れてる」

 

 サルが眉をひそめた。

 

「レオ。お前、何を組み立ててる」

 

「まだ何も。ただ、数字を集めている」

 

「……分かった。聞くだけだな」

 

 三日後、サルが戻った。

 

「トニーは、答えなかった。ただ、こう言った。『俺は帳簿の中の数字しか知らない。メモを持って帰れとは、言えない。ただ、あの食料品店の仕入れ先リストに載っている店の数は——片手で足りるとも、足りないとも、言えない』」

 

「片手で足りるとも、足りないとも」

 

「レオ。トニーは脅してるのか、教えてるのか」

 

「教えてる。ただ、自分が教えたとマッシモに悟られない言い方で。トニーも、必死だ」

 

 (片手で足りるとも足りないとも。六軒以上。少なくとも六軒のスピークイージーが、あの食料品店から『肉類』を仕入れていることになる。月に平均三百ドル。六軒で千八百ドル。年間で二万一千六百ドル。それが表の帳簿では『売上』として計上され、同じ帳簿の別の欄で経費が増えて赤字になっている。売上二万ドル超の食料品店が、赤字。あり得ない)

 

 (俺が帳簿で攻めると読んだ男は、自分の帳簿を強固にした。だが、現場の循環の構造までは、消せなかった。アンジェロの店の帳簿と、マッシモの食料品店の申告と、トニーが知っている末端の店の数。この三つを突き合わせれば、連邦の検察が動ける)

 

 (カードは、揃った)

 

 

 

 

 五月初旬。

 

 夜の十時。レオはミッドタウンのアパートの机に向かっていた。窓の外の通りの騒めきが、遠くで、水の底のようになっていた。

 

 タイプライターに紙を挟んだ。手書きではない。筆跡が残らないように。指紋が残らないように、薄い手袋をはめた。手袋の内側で、指の腹がわずかに汗ばんだ。

 

 キーを叩いた。一文字ずつ、慎重に。手紙の内容は、事実だけを書いた。具体的な名前。具体的な住所。リトル・イタリーの六軒のスピークイージーが、一軒の食料品店から『肉類』を仕入れていること。その食料品店が、年間二万ドル以上の売上があるにもかかわらず、赤字申告をしていること。スピークイージーの帳簿には『肉類三百ドル』と書かれているが、実際には肉は仕入れていないこと。関係者の生活水準と申告所得の乖離。

 

 最後に一行だけ、書き足した。

 

『シカゴの一件の後、連邦政府が組織犯罪の資金洗浄に厳しい今、この矛盾は看過できないはずです』

 

 紙を封筒に入れた。封をした。宛先を書いた。差出人の欄は、空白のまま。手袋越しに、糊の匂いがした。

 

 消印は、ニューヨーク以外にする。明日、サルの家族をニュージャージーに送った帰りに、ニューアークの郵便局に寄ればいい。

 

 タイプライターから紙を抜いた。インクリボンを引き出して、灰皿の縁で燃やした。リボンが黒く縮んでいった。灰の匂いは、事務所で燃やしたメモの灰と、同じ匂いだった。

 

 手紙を、コートの内ポケットにしまった。マッシモが残した、あの数字の紙の隣に。二枚の紙が、内ポケットの中で、しばらく別々の折り筋を主張していた。

 

 

 

 

 翌日。

 

 サルの妻と子供たちを、ニュージャージーのサルの父親の農場に送り届けた。マルコが車の窓から手を振った。ジーナはロザリアの膝の上で眠っていた。帰り道、ニューアークの郵便局に立ち寄った。

 

 封筒を、投函口に滑り込ませた。

 

 金属の蓋が、カタン、と閉まった。

 

 一通の手紙。タイプで打たれた、一枚の紙。差出人不明。

 

 郵便局を出た。ニューアークの通りは、マンハッタンの通りより、道幅が広く、空も広かった。見知らぬ街の、見知らぬ通り。投函口の金属の感触が、指先に、まだ残っていた。

 

 駅に向かって歩きながら、空を見上げた。春の午後の空は高く、白い雲が、東へ流れていた。

 

 (シカゴのカポネは、いつだったか、脱税で起訴される。年までは覚えていない。マッシモはカポネよりはるかに小物だ。だが、同じ構造を持っている。連邦が動くには、カポネほどの規模はいらない)

 

 (スピークイージー六軒分の循環と、赤字申告の食料品店、そしてキャデラックに乗る男の生活水準。それで充分だ)

 

 (早すぎれば、マッシモが証拠を消す。遅すぎれば、要求がさらに上がる。今は、シカゴの直後だ。連邦は組織犯罪に神経質になっている。手紙が届けば、放っておけない。必ず、誰かが動く)

 

 

 

 

 五月中旬。

 

 レオの読みは、予想より早く当たった。

 

 サルが息を弾ませて事務所に飛び込んできた。コートの前が開いたままだった。

 

「レオ。マッシモのスピークイージーが、連邦の捜査官に踏み込まれた」

 

「踏み込まれた」

 

「昨夜だ。マルベリー・ストリートの店と、エリザベス・ストリートの店。同時に。連邦禁酒局じゃない。司法省の捜査官だ。帳簿と書類を全部押収された」

 

 レオは顔の表面に何の表情も浮かべなかった。表面の下で、鎖骨のあたりに、金属の鈴が一つだけ鳴った。

 

「マッシモは」

 

「逮捕はされてない。だが弁護士と一日中会議してる。連邦が入ってきたのは初めてだ。市警なら金で黙らせられるが、連邦は、そうはいかない」

 

「トニーは、大丈夫か」

 

「末端の使い走りだ。捜査の対象にはなってない。だがマッシモは、誰かが密告したと確信してる。手下を片っ端から締め上げてる」

 

 サルがレオの顔を覗き込んだ。

 

「レオ。まさか、お前」

 

「俺は、何もしていない」

 

 レオはサルの目を、まっすぐ見た。声は揺れなかった。

 

「表からは何もしていない。新聞と電話帳で調べられる範囲の情報しか、集めていない。俺の名前は、どこにもない」

 

「……そうか」

 

 サルには、詳細を知らせない方がいい。知らなければ、心の底から「知らない」と言える。それが、サルを守る最善の方法だった。

 

「サル。マッシモは今、自分の身を守るのに精一杯だ。もう一度、トニーに確認してくれ。ロザリアとマルコとジーナは、あと一週間、ニュージャージーにいてもらえるか」

 

「……分かった」

 

 

 

 

 五月の最終週。

 

 サルが、トニーからの伝言を持って、事務所に来た。

 

「レオ。マッシモが、起訴された」

 

「起訴」

 

「連邦大陪審の起訴だ。脱税と、違法収入の税務申告漏れ。マッシモ本人と、食料品店の名義人二人と、帳簿係一人。合計四人」

 

「保釈は」

 

「却下された。連邦の検察が『組織的な脱税と裏帳簿』を強調して、危険性を主張した。シカゴの後だ。連邦裁判所は組織犯罪に厳しい空気だ。保釈金を積んでも、認められない」

 

 レオは椅子の背もたれに深く座り、天井を見上げた。

 

 (いった。本当に、いった)

 

「トニーは」

 

「名前は出てない。帳簿係として起訴されたのは別の人間だ。ただ、組織全体が凍りついてる。誰もが『次は自分か』と怯えて、みかじめ料どころじゃない」

 

「ロザリアとマルコとジーナは、来週、ニューヨークに戻していい」

 

「……ああ。あの組織は、お前への圧力どころじゃない」

 

 サルが、レオの顔を、じっと見た。

 

「レオ」

 

「何だ」

 

「お前は、何もしてないんだな」

 

「俺は、何もしていない」

 

 それは嘘であり、真実でもあった。手紙は書いた。だが、書いた内容は、新聞と電話帳で手に入る範囲だった。アンジェロから聞いた現場の話は、直接は書いていない。連邦の捜査官が現場を調べるための道しるべとして、矛盾の構造を示しただけだ。

 

「……分かった。お前は、何もしてないんだな」

 

 サルの声は、もう震えていなかった。

 

 

 

 

 翌日。

 

 レオはアンジェロの店を訪ねた。

 

 地下室の扉を開けると、アンジェロがカウンターの中にいた。グラスを磨いている手が、以前より、拭き布の位置を素早く変えていた。ルイジがテーブルを拭いていた。ルイジの背中が、いつもより二インチだけ高かった。

 

 アンジェロの顔が、変わっていた。三十年、その顔に張り付いていた慎重さと恐怖の翳りが、消えていた。

 

「レオ。見てくれ」

 

 アンジェロがカウンターの下から、一本の瓶を取り出した。ラベルのない瓶。中身は琥珀色。

 

「新しい酒だ。ブロンクスの蒸留所から、直接仕入れた。マッシモを通さずに」

 

「……マッシモが、消えたのか」

 

「あいつの手下が、来なくなった。先週から。みかじめ料を取りに来る奴も、酒を卸しに来る奴も、全員だ。組織が凍りついてる。誰もが『次は自分が起訴されるか』と怯えて、新しい商売どころじゃない」

 

「おめでとう、アンジェロ」

 

「おめでとうじゃない」アンジェロが瓶をカウンターに置いた。木の板に、コトン、と音が乗った。「あんたのおかげだ。あんたが、連邦を動かしたんだろう」

 

「俺は、何もしていない」

 

「俺は、知ってる。リトル・イタリーで三十年暮らしていれば、分かる。マッシモの帳簿の循環が、俺の店の『肉類三百ドル』から始まってた。あんたが、それを突き合わせた。俺が話した現場の話を」

 

「アンジェロ。あんたが話したことは、どこにも書いてない」

 

「分かってる。あんたが、守ってくれた。俺の名前も、ルイジの名前も、どこにも出てない」

 

 アンジェロが瓶の封を開けた。グラスを二つ、カウンターに置いた。琥珀色の液体を注いだ。片方をレオの前に押した。

 

「レオ。一杯やれ」

 

「俺は飲まない主義だ」

 

「今日は、飲め。俺が頼んでる」

 

 レオはグラスを受け取った。一口だけ、飲んだ。喉が焼けた。粗野な味だが、今までマッシモ経由で入っていた酒より、香りに芯があった。混ぜ物の甘さが、なかった。

 

「……いい酒だ」

 

「だろう。あの野郎が混ぜてた香料がなくなった分、素の味が出てる。三十年ぶりに、自分で選んだ酒を、自分の店に出せる。俺は、自分の店の主人に、戻ったんだ」

 

 アンジェロが、目の縁を親指の腹で拭った。見栄を張って拭った。だが、拭う理由が、確かにあった。

 

「あんたの親父さんに、礼を言わせてくれ。カルロさんの息子が、俺の店を取り戻してくれた。カルロさんが拒んだマッシモの論理を、息子も拒んだ。親父さんの意地を、無駄にしなかった」

 

 レオは、コートの襟に、指を伸ばした。裏地の縫い目に、白い糸の「C.M.」の印字がある。指先が、その二文字の糸の結び目をなぞった。糸の高さは、九年前と同じだった。

 

 (親父——守れたよ。あんたが拒んだ男を、俺も拒んだ。あんたが堅気の意地で孤独に死んだのとは違う道を、俺は歩いている。意地は同じだ。だが孤独じゃない)

 

 指先を襟から離した。

 

「アンジェロ。商売、頑張れ。マッシモが消えた分、客は戻る。あんたの酒は、今までで、一番いい」

 

「ああ。あの年寄りの常連たちも、戻り始めた。マッシモが客に直接声をかけてたのが消えて、客も、安心して来られる」

 

 レオは立ち上がった。グラスの底に、琥珀色の一滴だけが残った。

 

「また来る」

 

「レオ。一曲、弾いていけよ。昔みたいに」

 

「今度な」

 

 階段を昇りながら、頭の中で、三つの針の音が聞こえていた。市場の時計。サルの時計。レコードの時計。マッシモの時計は、止まった。針が止まった位置には、拭き布の跡だけが残っていた。

 

 

 

 

 五月末。

 

 月末の帳簿を締めた。

 

 音楽事業の月間売上、四千二百ドル。経費、千八百ドル。マッシモへの上納金は三月と四月分は支払い、五月分は保留にした。起訴された今、取りに来る手は、当分ない。営業利益、二千四百ドル。抜かれていた700ドルがまるまる戻った計算になる。

 

 株式ポートフォリオも、二月から五月にかけて大きく膨らんだ。RCAが四百ドルを超え、AT&T、USスチール、GM、GE、ワーナーも軒並み上がった。レオはまだ売らない。ピークは秋のはずだ。夏までポジションを持つ。

 

 月末の資産台帳。

 

——————————————————————

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1929年5月末

 

 【資産】

  現金         $25,000

  銀行預金(チェース) $70,000

  株式ポートフォリオ(時価)

   AT&T   100株 × $230 = $23,000

   US Steel 100株 × $180 = $18,000

   GM    100株 × $220 = $22,000

   GE    120株 × $185 = $22,200

   RCA    100株 × $405 = $40,500

   ワーナー 100株 × $140 = $14,000

    時価合計       $139,700(元手$57,000、借入$82,700)

  パーク・アベニューの家具等 $3,000

  グランドピアノ・楽器 $2,000

  ゴールドバーグ楽譜店 $30,000

  モレッティ・ミュージック版権 72曲(評価額$60,000)

 

 【負債】

  マージン借入   $82,700(コール・ローン金利12%)

  マッシモみかじめ料 停止(5月分支払保留)

 

 【月間収入】$3,800/月

  (ASCAP $1,800 / レコード版権 $800 / 映画音楽 $650 /

   楽譜 $100 / ラジオ供給 $100 / 演奏料 $150 / 株式配当 $200)

 

 【月間支出】$2,060/月

  (家賃 $200 / 食費 $50 / サル給与 $300 / ルー報酬 $180 /

   クリフ報酬 $160 / 楽譜店運営 $30 / 印刷・郵送 $40 /

   録音スタジオ $150 / 事務・通信 $40 / マージン金利 $830 / 雑費 $80)

 

 【純資産】約$400,000

  前章比:+$100,000(+33%)

——————————————————————

 

 四十万ドル。前年末の三十万ドルから、十万ドルの積み増し。株式の含み益と、マッシモへの上納金停止による利益回復の、二つの車輪だ。

 

 棚の奥に、二冊の白いノートが並んでいる。十月に書いた出口戦略のノートと、マッシモへの支払記録のノート。マッシモの方は、もう役目を終えた。連邦の起訴状の中に、あの循環の構造が刻まれている。俺の手元にある証拠は、これから誰の目にも、触れない。

 

 出口戦略のノートは、まだ動かない。ピークは、秋のはずだ。

 

 

 

 

 その日の午後。

 

 事務所の電話が鳴った。受話器を取ると、低い、聞き覚えのある声がした。

 

「モレッティ君か。ハーヴェイ・ブレナンだ」

 

 レオの、受話器を持った手の指が、一度、止まった。

 

「ブレナンさん」

 

「久しぶりだな。三年ぶりか。最後に会ったのは、君が自分の看板を上げた時だった」

 

 ハーヴェイ・ブレナン。59歳。ティン・パン・アレーの楽譜出版社の社長。1920年の一月、レオの最初の曲を二十五ドルで買い叩いた男。

 

「お元気そうで」

 

「元気なもんだ。君の噂を聞いたよ。モレッティ・ミュージック、随分と大きくなったじゃないか。ラジオで君の曲を聞かない日はない。ASCAPの配分ランクも、上がったと聞く」

 

「おかげさまで」

 

「おかげさまで、じゃない。君の実力だ。——今だから言うが、あれは、私の判断ミスだった」

 

「……」

 

「私の出版社が今も権利を持っているのは、君が昔書いた曲の分だけだ。新しい曲は、全部、モレッティ・ミュージックだ。私は、それを、惜しいと思っている」

 

 (忘れるわけがない。あんたが買い叩いた曲が、今もラジオで流れている。印税は、あんたの懐だ)

 

「ブレナンさん。ご用件は」

 

「単刀直入に言おう。君のカタログを、私の流通網に乗せないか」

 

「流通網」

 

「私はティン・パン・アレーで三十年やっている。東海岸のデパートの楽譜コーナー、ヴォードヴィルの劇場、ラジオ局の楽譜部門、全ての販路を持っている。私の流通網に乗っていないのは、損だ。君にとっても、私にとっても」

 

「ブレナンさん。私の楽譜は、ゴールドバーグ楽譜店と、直接注文の顧客に販売しています。それで充分です」

 

「いや、充分じゃない。君が東海岸のデパートに楽譜を置けば、売上は三倍になる。私の流通網は、君が一人で築けるものじゃない。三十年、かけた」

 

 (同じ目だ。値踏みの目。ただし今回は、俺を安く買うのではなく、俺の曲を自分の流通網に乗せて、取り分を増やしたい。構造は、変わらない。だが構造が変わらないなら、こちらの武器も、変わらない)

 

「条件は」

 

「カタログ流通の手数料は、売上の二十五パーセント」

 

「ブレナンさん。十五パーセントなら、お考えします」

 

「十五は、安すぎる。二十にしてくれ」

 

「十八です。それ以上は、払えません」

 

「十八か」ブレナンが笑った。受話器の向こうで、椅子の背もたれが軋む音がした。「君は、交渉が上手くなったな。三年前は、二十五ドルで曲を売るしかなかったのに」

 

「三年前は、金がありませんでした。今は、あります」

 

「違いない。十八で、手を打とう。詳細は、来週、私のオフィスに来てくれ」

 

「分かりました」

 

「楽しみにしているよ、モレッティ君」

 

 電話が切れた。

 

 (感情と勘定は、別だ。恨みは消えない。だが、今のお前には、俺にない流通網がある。それを使う)

 

 引き出しを開けた。マッシモが残した、あの数字の紙が入っている。パールの契約書のコピーが、その隣にある。マッシモの紙は、もう、いらない。裂いて燃やせば、それで終わる。

 

 だが、燃やさなかった。引き出しの奥に、しまい直した。マッシモが父カルロを「俺のもの」と言った瞬間の、あの声を、忘れないために。父が拒んだものを、俺も拒んだ。その紙が、その証だった。

 

 窓の外を見た。

 

 1929年5月。マンハッタンの春。パーク・アベニューの街路樹が緑を厚くして、歩道の日陰が濃くなった。含み益に浮き足立つ人々の帽子の影が、路面を点々と動いていた。

 

 レオの頭の中で、三つの針が動いていた。

 

 市場の針。サルの針。レコードの針。マッシモの針は、止まった。

 

 三つの針が、同じ季節に、鳴る。1929年。秋。

 

 (親父)

 

 コートの襟に、指先を触れた。裏地の「C.M.」の糸の結び目が、指の腹に、確かにあった。

 

 (この道の先に何が来るのか、俺には見えている。見えているから、まだ、止まれない)

 

 帳簿を閉じた。表紙に、コーヒーの染みが、まだ薄く残っていた。二月のあの朝の染みだった。

 

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