五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第12話】聖バレンタインデーの虐殺

 1929年2月14日。

 

 朝、事務所に着くと、サルがもう来ていた。新聞を机の上に開いたまま固まっている。

 

「どうした」

 

「見ろ」

 

 一面。

 

『シカゴで7人射殺 倉庫に並べて銃撃 カポネの報復か』

 

 記事を読んだ。ノース・クラーク・ストリート2122番地。SMCカーテージ社の倉庫。バグズ・モラン配下の7人が壁に向かって並ばされ、トンプソン短機関銃で掃射された。犯行者は警官の制服を着ていた。偽の手入れを装い、武器を下ろさせたところを。

 

(聖バレンタインデーの虐殺。教科書で読んだあのページが、今日の朝刊だ)

 

「壁に並べて七人だ」サルが唸った。「七人。警官のフリをして近づいて、全員殺した。バレンタインの日に」

 

「カポネの指示か」

 

「記事にはそう書いてないが、誰が見たって分かるだろ」

 

 サルの声が低くなった。

 

「レオ。マッシモが同じことを考えないって保証はない」

 

 レオはコーヒーカップに手を伸ばした。取っ手に触れて、やめた。指が冷えている。

 

「マッシモの最近の動きは」

 

「先月、従兄弟のトニーから聞いた。マッシモが俺たちの音楽事業の売上を嗅ぎ回ってる。ハーレムのクラブのオーナーとか、レコードの流通業者のところに行って」

 

「いくら稼いでいるか調べている」

 

「ああ。みかじめ料の算段だろう。で、このタイミングだ」

 

 全米が震え上がっている日に動く。恐怖を利用する。マッシモは粗暴だが、その手の嗅覚はある。

 

 

 

 

 二日後。

 

 サルが青白い顔で事務所に来た。

 

「レオ。マッシモから伝言だ。トニー経由で」

 

「座れ。水を飲め」

 

 サルは水も飲まず、立ったまま言った。

 

「マッシモの言葉をそのまま言う。『シカゴで何があったか聞いたか。あっちは七人だ。派手にやりすぎだ。俺たちはもっと穏便にやりたいんだがな。モレッティに伝えろ。穏便にやりたいなら、話がしたい、と』」

 

 事務所の時計の秒針が、やけに大きく刻んでいた。

 

「穏便に、だとさ」サルが吐き捨てた。

 

「それだけか」

 

「もう一つある」

 

 サルの声が変わった。低く、しかし振るえていた。

 

「トニーが最後にこう言った。『マッシモがサルの家族のことを言ってた。ベンソンハーストは夜道が暗い。ロザリアさんは毎朝、子供たちを学校に送ってるだろう。気をつけた方がいい』」

 

 レオの歯が鳴った。奥歯を噛み締めたのに気づいたのは、顎が痛み始めてからだった。

 

「サル」

 

「俺のせいだ」

 

 声が硬かった。だが怒りではない。サルの目は、レオを見ていなかった。机の上の帳簿を見つめている。

 

「俺がこの仕事に関わったからだ。お前の出版社が大きくなる。金が回る。マッシモが目をつける。それは分かってた。分かってて、俺はここにいた。ロザリアと子供たちのことを考えれば、親父の八百屋で大人しくしていれば良かったんだ」

 

「サル」

 

「俺が選んだんだ。お前に誘われて、自分で選んだ。それがロザリアと子供たちを危険に晒した」

 

 サルが机を叩いた。コーヒーカップが跳ねた。黒い液体が帳簿の上に散った。

 

 だが拳は、自分を殴りたくて行き場を失っているように見えた。

 

「俺がもっと早く気づいてれば。ロザリアを実家に帰しておけば。子供たちを」

 

 声が途切れた。サルの目が赤い。

 

「サル。お前のせいじゃない」

 

「……何?」

 

「お前は仕事をしただけだ。集金も、配送も、交渉も、全部お前が回した。お前がいなければ、この出版社はない。マッシモに目をつけられたのは、俺が稼いだからだ。お前じゃなく、俺の事業が原因だ。それは事実だ」

 

 サルの拳がわずかに緩んだ。自分を責める言葉を止められて、行き場のない感情が宙に浮いている。

 

「だからサル。お前の家族は、俺が守る。ロザリアと子供たちを、しばらくニュージャージーの親父の農場に預けろ」

 

「ニュージャージーに?」

 

「マッシモが家族を盾に使うなら、盾を遠ざけておく。その間に、俺がマッシモを止める」

 

「止める? 相手はマフィアだぞ。シカゴじゃ七人」

 

「暴力では勝てない。だが暴力以外の方法がある」

 

 サルが黙って椅子に座った。机の上で、帳簿が黒く滲んでいる。

 

「……お前は怖い奴だな、レオ。俺が頭を抱えてる横で、もう計画を立ててる」

 

「計画がなければ生き残れない」

 

「俺が関わらなきゃ、こんな心配をしなくて済んだのかもな」

 

 サルの声は低かった。棘ではない。後悔だ。自分の選択を噛み締めている。レオにはそれが分かった。

 

「サル。マッシモには会う。俺一人で」

 

「一人で? 馬鹿言うな」

 

「お前は家族をニュージャージーに送る方が先だ。お前を連れていったら、お前の家族を人質に取られる。一人なら、交渉の余地がある」

 

 サルが長い息を吐いた。

 

「……分かった。ロザリアに話す。だがレオ、お前が死んだら」

 

「死なない。マッシモは俺を殺しても金にならない。金の卵を産む鶏を殺す馬鹿はいない」

 

(いてくれるな、と祈るしかないが)

 

 

 

 

 2月末。夜。

 

 マッシモとの面会。リトル・イタリー、マルベリー・ストリートの地下。

 

 階段を降りると、煙草の煙と密造ウィスキーの匂いが鼻を突いた。壁の塗装が剥がれ、裸電球がぶら下がっている。テーブルは五つ。奥のテーブルに、マッシモがいた。

 

 フランク・マッシモ。49歳。禿げ上がった頭に、分厚い首。スーツは仕立てが良いが、着る人間が洗練されていないから、服が泣いている。両脇に若い男が二人。

 

「モレッティ。一人で来たか。度胸があるな」

 

「お招きいただいたのは私ですから」

 

 丁寧に。徹底的に丁寧に。尊敬の形式を守る限り、最初の会話は暴力に至らない。

 

「座れ」

 

 座った。裸電球の光が、テーブルのウィスキーの瓶に反射していた。

 

「モレッティ。シカゴで何があったか、もちろん知ってるな」

 

「新聞で読みました」

 

「七人だ。壁に並べて。カポネのやり方は派手すぎる。俺はああいうのは好きじゃない。穏やかに、ビジネスとしてやりたい」

 

「同感です」

 

「だろう。お前は頭がいい。音楽で稼いでる。レコード。ラジオ。コロムビアとの契約。うちの人間が調べた」

 

 マッシモが紙切れをテーブルに置いた。レオは目を落とした。

 

 数字が並んでいた。月間売上の内訳。ASCAPの分配金。映画音楽の契約料。コロムビアへのマスター提供料。ラジオ局への楽曲供給料。 Wire上の振込記録らしきメモ。

 

 月間収入、4,200ドル。ASCAP分配金、直近四半期で1,800ドル。コロムビア契約、年間8,000ドル。

 

(喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。これは単なる脅しではない。俺の帳簿攻撃を読んだ上で、先手を打っている)

 

 背中に冷たいものが這い上がった。

 

「おかげさまで」

 

「おかげさまで、か」マッシモが唇の端を持ち上げた。笑いではない。値踏みの表情だ。「モレッティ。お前の事業は、この街で動いてる。この街は、俺たちの街だ。分かるな?」

 

「分かります」

 

「分かるなら話は早い。月に700ドル。お前の音楽事業の売上から、俺たちに払え」

 

 月700ドル。前回の500ドルから200ドルの値上げ。年間8,400ドル。

 

「それと、俺の店で月に二回、演奏しろ。客が喜ぶ」

 

「マッシモさん。金額については検討します。ただ、演奏については、お断りします」

 

「演奏が嫌か?」

 

「嫌ではありません。ただ、私がマッシモさんの店で演奏すると、コロムビアやラジオ局との取引に支障が出ます。レコード会社は、表向き、組織との関わりを避けたがります。金づるが逃げれば、月700ドルもお渡しできなくなります」

 

 マッシモが黙った。裸電球の下で、禿げ上がった頭が鈍く光っている。金の論理は通じる男だ。面子よりも実利を取るかどうかが分かれ目だった。

 

「……ふん」マッシモがグラスを置った。「演奏は保留にしてやる。だが金は月700ドル。来月から。遅れるな」

 

「承知しました。ただし、領収書をいただけますか」

 

 マッシモが目を丸くした。

 

「領収書?」

 

「帳簿に記録する必要がありますので。経費として処理するには」

 

「俺に領収書を書けと?」マッシモが低く笑った。「お前は面白い男だな、モレッティ。マフィアに領収書を要求する奴は初めてだ」

 

「音楽出版社ですから。帳簿は正確に」

 

 領収書はもちろん出てこない。出せるはずがない。マッシモの収入は一切申告されていない。

 

(カポネは何で捕まる。殺人でも密造酒でもない。脱税だ。帳簿の不整合だ。マッシモはカポネよりはるかに小物だが、同じ構造を持っている。だが、この男は俺が帳簿を攻撃するつもりだと分かっている。先ほどの紙切れは、俺の収入を把握しているという宣言だ。裏を返せば、お前が俺を攻撃する材料を持っているように、俺もお前を攻撃する材料を持っている、という意思表示だ)

 

 マッシモが立ち上がった。レオを見下ろした。裸電球の光が、男の顔に深い影を刻んでいた。

 

「モレッティ。一つ言い忘れていた」

 

「何でしょうか」

 

「お前の親父さんを覚えてるか」

 

 レオの息が止まった。

 

「カルロ・モレッティ。仕立て屋だった。背広の仕立てが上手かった。リトル・イタリーの、マルベリー・ストリートとヘスター・ストリートの角にある店」

 

 レオは何も言えなかった。父カルロは1920年の冬、レオがこの身体に目覚める直前に肺炎で死んでいた。仕立て屋だった。生涯堅気を貫いた。

 

「俺と親父さんは、同じ村の出身だ。ナポリの東、山の中にある小さな村だ。俺が生まれる前に親父さんが船でアメリカに来て、二十年後にうちの親父が俺を連れて来た。親父さんは年齢が上だったが、一族の遠い縁戚みたいなものだ」

 

 マッシモがウィスキーを一口飲んだ。

 

「親父さんは堅気だった。俺がこの街で力を持った後も、一度も頼りに来なかった。俺が『何かあったら言え』と言っても、『商売は別だ』と言って、ずっと線を引いていた。意地だったんだろう。堅気の意地で、最後は孤独に死んだ」

 

 レオの手が膝の上で握りしめられた。

 

「お前は親父さんに似てるな。堅気の意地がある。だがな、モレッティ。親父さんは間違っていた。この街で一人で生きようとするのが間違いだった。孤独に死んだ。誰にも看取られずに」

 

 マッシモがテーブルに両手をつき、身を乗り出した。

 

「俺はお前をそんな風にさせない。俺のものとして扱う。分かるか。親父さんが拒んだものを、お前は拒むな。一族は助け合うものだ。お前が稼いだ金は、一族の金だ。俺がそれを預かる」

 

(親父の記憶を、こいつに汚させるわけにはいかない)

 

 レオは立ち上がらなかった。表情を変えなかった。丁寧に頭を下げた。

 

「マッシモさん。お言葉、ありがたく頂戴します。月700ドル、来月第一週にお持ちします」

 

「賢い男だ」

 

「ただ、一つだけ。俺の周りの人間——従業員や、取引先や、友人には、手を出さないでください。彼らは俺の事業の歯車です。歯車を壊されれば、月700ドルも払えなくなります」

 

 マッシモが長い間レオを見た。

 

「お前の周りの人間は全員、俺の街に住んでいる。どこにも逃げられない。だが、お前が大人しくしている限り、彼らに指一本触れるつもりはない。ビジネスの邪魔をする奴はいない」

 

「ありがとうございます」

 

 マッシモが若い男を連れて奥の階段を昇っていった。レオはテーブルに一人残された。ウィスキーの瓶が、裸電球の光を反射している。

 

 階段の上からマッシモの声が戻ってきた。

 

「モレッティ。帳簿は大事だぞ。お前が几帳面に帳簿を付けていることは、俺も知っている。だが帳簿で攻めようとしても無駄だ。俺の帳簿はお前が思っているほど単純じゃない」

 

 足音が遠ざかった。ドアが閉まる音がした。

 

 レオはテーブルの上の紙切れを手に取った。マッシモが残していった、自分の収入の内訳。投げようとして、やめた。四つ折りにして、コートの内ポケットにしまった。

 

(読まれた。俺が帳簿攻撃を準備していることまで読まれた。この男は粗暴な暴力団じゃない。情報を武器にする。逃げ道を塞いでから包囲する。親父の記憶まで兵器にする)

 

 階段を昇った。表通りに出た。リトル・イタリーの夜は静かだった。窓からイタリア語の会話が漏れている。油で揚げた魚の匂い。

 

(俺が帳簿で攻める道は封じられた。マッシモは俺の帳簿攻撃を予期し、自分の帳簿を複数の架空の名義と食料品店の赤字に分散させているはずだ。表面上の税務矛盾だけでは、連邦は動かない)

 

 では、どうする。

 

 答えは一つしかない。マッシモの外側、現場の生の情報だ。帳簿の数字は改竄できる。だが、毎晩スピークイージーで流れる金、客の動向、酒の搬入経路、そういう現場の事実は、現場にいる人間しか知らない。

 

 アンジェロ・ルッソ。

 密造酒と噂話で食っている男。

 

 レオは歩き出した。マルベリー・ストリートを北へ。アンジェロのスピークイージーがある、ムルベリーより二本東の通りの地下室へ。

 

 

 

 

 3月最初の週。

 

  FRB が投機抑制の警告声明を出したのは、マッシモとの会談から十日後のことだった。

 

『連邦準備制度理事会、投機抑制の警告声明を発表。加盟銀行に対し、投機目的の融資を抑制するよう警告』

 

 レオは事務所のデスクでその記事を三度読み返した。

 

(転換点だ。だが市場は止まらない。一時的に下落しても回復し、夏にかけてさらに上昇する。最高値は9月だったはずだ。381ドル。正確な日付までは覚えていない。史料で読んだ記憶があるだけだ)

 

 電話が鳴った。モーだった。

 

「レオ。FRBの声明を見たか」

 

「見た」

 

「市場が少し下げた。今日だけでRCAが15ドル下げてる。だが俺の客の大半は買い増してる。お前はどうする」

 

「当面は動かない」

 

「動かない? 買い場だぞ」

 

「モー、一つだけ。お前自身のポジションのことだが、手持ちの一部を現金化しておけ。自分の金で張っている分だけでいい。少しだけでいいから、余裕を作っておけ」

 

 モーが黙った。三秒ほどの沈黙があった。

 

「……レオ。FRBが声明を出すたびに市場が止まるなら、1927年に止まってる。市場は声明では止まらない。市場を止めるのは市場だけだ」

 

「それは分かってる。だからこそ」

 

「お前は心配性だ」

 

 電話が切れた。

 

(カサンドラの気持ちが分かる。トロイアの滅びが見えていたのに、誰にも信じてもらえなかった女。いや、カサンドラは預言が呪いだった。俺の場合は歴史の教科書だ。格は落ちるが、孤独は同じだ)

 

 だが今は、モーよりマッシモだ。FRBの声明は新聞の片面でしかない。レオのもう片面は、地下のスピークイージーで進んでいる。

 

 

 

 

 3月中旬。

 

 アンジェロ・ルッソのスピークイージー。ムルベリー・ストリートから二本東の通りの、表札のないドア。

 

 ノックすると、覗き穴が開いた。アンジェロの目がレオを認め、鎖が外れた。

 

 地下室は薄暗かった。テーブルが十、椅子が四十。天井の格子には古新聞が挟んであり、煙草の煙を少し濾す仕組みになっている。バーテンダーのルイジがカウンターの奥でグラスを磨いていた。

 

「レオ。久しぶりだ」アンジェロがカウンターから出てきて握手した。「演奏に来てくれたのか。ここの客はお前のピアノを覚えてるぞ」

 

「アンジェロ。話がある」

 

「話?」

 

「マッシモのことだ」

 

 アンジェロの顔が変わった。曲がっていた腰が伸びた。温厚な中年の表情が、一瞬で強張った。

 

「……奥に入ろう」

 

 一番奥の個室。アンジェロがドアを閉め、鍵をかけた。

 

「レオ。マッシモに何をされた」

 

「月700ドルのみかじめ料。俺の事業の売上を把握されている。脅された」

 

「700ドル」アンジェロが椅子に崩れ落ちた。「俺は先月、200ドルから350ドルに上げられた。酒の仕入れ値も上げられた。今月は客が減ってる。マッシモが客に直接声をかけて、別の店に流そうとしてるんだ」

 

「店を潰して、安く買い叩くつもりだ」

 

「……レオ。お前、何を考えてる」

 

 レオはアンジェロの目を見た。アンジェロ・ルッソ。45歳。元パスタ屋。禁酒法施行後に地下室を改装してスピークイージーを始めた。レオの父カルロを知る古いリトル・イタリーの住人。温厚だが臆病。長年マッシモに屈服してきた。

 

「アンジェロ。あんたの店を、あの男から解放する方法がある」

 

 アンジェロの顔から血の気が引いた。

 

「レオ。俺にかかわるな。お前も殺される。シカゴで何があったか、新聞を読んだだろう。マッシモは同じことを、穏便に、と俺に言った。穏便に、だぞ。俺は商売を続けたいだけだ。お前の計画に巻き込まれるくらいなら、350ドルを払い続ける方がましだ」

 

「あと三ヶ月で450ドルになる。半年で600ドルになる。あんたの店の売上では払えない額になる。払えなくなったら、店はマッシモに安く買い叩かれる。あんたは追い出される。三十年かけて築いた客を、マッシモの手下に取られる」

 

 アンジェロの唇が震えた。

 

「それを、どうやって止める」

 

「連邦政府が動く。マッシモのスピークイージーの帳簿、食料品店の申告、ドライクリーニング店の収入。全て突き合わせれば、税務矛盾が浮かぶ。シカゴのカポネが今、連邦の追査を受けている。連邦は組織犯罪の資金洗浄に神経質だ。タイミングが良い」

 

「連邦」アンジェロが声を落とした。「連邦が動くとして、誰が情報を渡す。お前か。お前が動いたとマッシモに悟られたら、お前の命が」

 

「俺は表からは動かない。俺が連邦に渡せるのは、新聞と電話帳で調べられる範囲の情報だけだ。表面の事実。だがそれだけでは弱い。連邦が本格的に動くには、現場の情報が必要だ」

 

「現場の情報」

 

「あんたの店の客の動向。マッシモの酒の搬入経路。客が誰に金を払っているか。帳簿に書いてあることと、現場で起きていることの食い違い。そういう情報は、地下の扉の内側にいる人間しか持っていない」

 

 アンジェロが首を横に振った。

 

「俺にはできない。俺が情報を渡したと分かったら、ルイジが殺される。ルイジの家族も。俺の家族も」

 

「アンジェロ。あんたの名前は、どこにも出ない。俺が情報を整理し、匿名で連邦に渡す。あんたが俺に話した内容は、業界の人間なら誰でも知っている公然の秘密として処理する。トニーが知っているようなこと、ルイジが知っているようなこと。それを切り取って、新聞の記事のように組み立てる。あんたが情報源だと特定できる要素は、全て除く」

 

「それでも、バレたら」

 

「バレない方法を、俺が考える。あんたはただ、聞かれたことに答えるだけだ。俺が尋ね、あんたが答える。紙には書かない。電話にも残さない。この部屋で、二人だけで」

 

 アンジェロは長い間黙っていた。個室の外で、客の笑い声が聞こえた。ルイジがグラスを並べる音がした。三十年かけて作った店の音だ。

 

「レオ。一つ聞かせてくれ。お前の親父さんは、マッシモと同じ村の出身だった」

 

 レオは息を止めた。

 

「俺は親父さんを知ってる。仕立て屋だった。親父さんが死んだ時、俺は葬式に出た。マッシモは出なかった。親父さんが生きてる間、マッシモは一度も親父さんの店に行かなかった。それが『一族』か?」

 

「アンジェロ」

 

「マッシモは親父さんが死んだ後に、『一族』とか『同じ村』とか言い始めた。親父さんが生きてる間は、堅気の仕立て屋なんて見向きもしなかった。俺はそれを知ってる。リトル・イタリーで三十年暮らしていれば分かる」

 

 アンジェロが顔を上げた。目が変わっていた。三十年の間、臆病に耐えてきた男の目に、何かが灯っていた。

 

「……お前が本当に俺を守れるのか」

 

「守る。約束する」

 

「約束か」

 

「俺の親父は、堅気の意地で孤独に死んだ。マッシモはそれを笑う。だが俺は、親父の意地を無駄にはしない。あんたの店を、あんたのものにする。それが、親父が拒んだマッシモの論理を、俺も拒むということだ」

 

 アンジェロが長い息を吐いた。

 

「——何をすればいい」

 

 

 

 

 4月。

 

 RCA株が400ドルを超えた。

 

 サルが事務所に来た。ロザリアと子供たちをニュージャージーに送った後、サルはアパートを引き払い、事務所の奥の部屋に泊り込んでいる。

 

「レオ。RCA、405ドルだ」

 

「聞いた」

 

「俺の5株が、もう180ドルも上がってる。元手の437ドルが、900ドルに近い。含み益が500ドル超えだ」

 

(サルのRCAは5株のままだ。あの日、俺と約束した通り、ナンピンはしていない。437ドル以上のリスクは取らないと。だが株は上がり続け、サルの500ドルの含み益は、サルの月給の二ヶ月分だ。サルの目は、あの日よりも輝いている)

 

「サル。その含み益だが」

 

「言うな、レオ。俺は約束を守ってる。ナンピンはしてない。5株のままだ。だが俺が約束を守ってる間に、RCAは100ドル上がった。俺が正しかったんだ」

 

「分かっている」

 

「分かってるなら、いいだろう。俺の金だ。俺が決める」

 

(あと半年で、500ドルの含み益は消える。だが437ドルの元手は、今売れば、今なら、まだ助かる。いや、サルに「今売れ」とは言えない。サルはマッシモ撃退のために家族をニュージャージーに送ったばかりだ。レオへの信頼は回復しつつあるが、その矢印をRCAの売却に向けさせるのは、まだ早い)

 

「サル。一つだけ。RCAの含み益が1,000ドルを超えたら、その時は、半分だけでも現金にすることを考えてくれ」

 

「半分?」

 

「半分だ。元手の437ドルだけでも戻しておけば、残りがどう転んでも、マイナスにはならない」

 

「マイナスになんかならないよ。RCAはこれからも上がる」

 

「かもしれない。だが、マイナスにならない方法をとっておくのが賢明だ」

 

 サルが首を傾げた。

 

「……考えておく。だが今は売らない。まだ上がる」

 

「分かった」

 

 サルが出ていった後、レオは帳簿を開いた。サルのRCA、5株、建値350ドル。現在値405ドル。含み益280ドル。1,000ドルの含み益には、まだ遠い。

 

(あと数ヶ月でRCAはピークに向かう。ピークは夏、505ドル付近のはずだ。5株なら、ピークで約2,500ドルの含み益。そこで半分売れば、元手を回収して、残りの2株を保有できる。残り2株が暴落でゼロになっても、元手は戻っている。サルの家族の生活は崩れない)

 

(その説得を、夏にする。マッシモを倒した後に。そうすれば、サルは俺の判断を信じる。信頼の順序がある。マッシモを先に。RCAを後に)

 

 ピアノの蓋を開けた。コードを一つ鳴らした。Cmaj7。解決の和音。だが次の和音を弾かなかった。解決の手前で止めた。まだ、何も解決していない。

 

 

 

 

 同じ週。

 パールがヴィクターの専属契約書を持ってきた。

 

 契約書の最終頁。インクがまだ乾いていない。パール・ワトキンスの署名。三年の専属。年俸3,000ドル。版権はヴィクター保有。

 

「サインした」

 

 パールの声が弾んでいた。男物のソフト帽の下で、目が光っている。

 

「録音義務枠は、最小にしたか」

 

「あんたの言う通りにした。年6枚。最小ライン。でもそれ以上録音したいって言ったら、追加ボーナスがつく。来年は全国ツアーよ。ヴィクターが南部の黒人ラジオ局と提携して、ジョージアからテキサスまで回る」

 

 パールが契約書をテーブルに広げた。全国ツアーの計画書が添えられている。都市名が並んでいる。アトランタ、メンフィス、ニューオーリンズ、ヒューストン。

 

(来年、レコード産業は壊滅する。ピーク時の1割になる。全国ツアーの計画は、来年キャンセルになる)

 

「パール。おめでとう」

 

「ありがとう。あんたの録音枠の忠告、守ったよ。最小にした」

 

「助かる」

 

「でもレオ、あたしはレコードで行くよ。ラジオの生放送じゃなくて、盤で。あたしの声が盤になって、棚に並んで、南部の店で売れる。それが歌い手の証だ」

 

 パールが立ち上がった。帽子を被り直した。

 

「来年のツアーの話、また相談に来るよ」

 

 パールが出ていった。契約書のコピーが机の上に残った。

 

 レオは契約書を見た。三年の専属。1929年から1932年。版権はヴィクター保有。

 

(サルがRCAを持っているのと同じ構造だ。サルは株のバブルに乗り、パールはレコードのバブルに乗る。二人とも、これから来る崩壊に気づいていない。俺だけが気づいている。そして俺は、二人とも止められない。サルに株をやめろと言えなかったように、パールにレコードが死ぬとも言えない。沈黙するしかない)

 

 契約書を引き出しにしまった。サルのRCAの話と、パールのツアーの話と。両方とも、来年の今頃には幻になっている。

 

 

 

 

 4月から5月にかけて、レオはアンジェロの店に三度通った。

 

 一度目。客の動向。

 アンジェロが話したのは、特定の客の名前ではなかった。客層の変化だ。半年前まではリトル・イタリーの職人たちが多かった。最近はスーツの男たちが増えた。金の使い方が荒い。夜の十時を過ぎると、奥の個室でトランプ賭博が始まる。酒は三本目からサービスになる。それは酒ではなく、賭博の参加料だ。

 

 二度目。酒の搬入。

 アンジェロの店の酒は、シカゴから船で運ばれてくる。密造ウィスキーをナポリ風に香料で割ったものだ。運び屋は二系統。一つはトニーが知っている経路。もう一つはアンジェロが直接仕入れている、ブロンクスの小さな蒸留所。だが最近、マッシモがブロンクスの経路も押さえにかかった。アンジェロが直接仕入れることができなくなった。全てマッシモ経由になれば、仕入れ値はマッシモが決める。

 

「あいつが全部の蛇口を握れば、俺の店はあいつのものだ」とアンジェロが言った。「店を安く買い叩くために、蛇口を締めていく。俺が払えなくなったところで、『店を譲れ』と言う。あいつのいつもの手だ」

 

 三度目。帳簿の数字と現場の事実の食い違い。

 アンジェロは自分の店の帳簿を見せた。売上は月2,800ドル。酒の仕入れが1,200ドル。人件費が400ドル。家賃が300ドル。みかじめ料が350ドル。利益は550ドル。だが最近、客が減り始めている。売上は2,200ドルに落ちている。それでもみかじめ料は350ドルのまま。利益はマイナス50ドル。あと二ヶ月で、アンジェロの店は赤字に沈む。

 

「俺がマッシモに払っている350ドルは、表の帳簿には『食材仕入れ』と書いてある。食料品店への支払いということになってる。でもその食料品店はマッシモの店だ。俺が払った金が、マッシモの食料品店の『売上』として計上される。マッシモの表の帳簿では、あの店は赤字だから、そちらで税務署を煙に巻く」

 

(なるほど。みかじめ料の循環だ。末端の店が『仕入れ』としてマッシモの食料品店に払う。食料品店はその金を『売上』にするが、同時に別の経費をでっち上げて赤字にする。二重三重の帳簿。だが、現場の数字と表の帳簿を突き合わせれば、矛盾が浮く。月に350ドルの『食材仕入れ』が、食料品店の売上として計上され、食料品店は赤字。あり得ない。食料品店が赤字なら、誰もそこから仕入れないはずだ。だがリトル・イタリーの少なくとも五軒のスピークイージーが、そこから『食材を仕入れている』。これが循環の証拠だ)

 

「アンジェロ。あと二つ、教えてくれ。他の店も、同じ『食材仕入れ』をしているか。そして、その『食材』が実際に届いているか」

 

「他の店は知らない。俺は自分の店のことしか。でもレオ、俺の店に『食材』なんて届いてない。俺は酒と、オリーブと、チーズと、パンを仕入れてる。それだけだ。肉も魚も野菜も仕入れてない。でも帳簿には『肉類300ドル』と書いてある。マッシモが書けと言った」

 

「分かった」

 

(食い違い。帳簿の『肉類300ドル』。現場には肉はない。この食い違いを、他の店でも確認できれば、循環の構造が証明できる。だが、他の店に直接聞くことはできない。アンジェロが動くと危険だ)

 

 レオは事務所に戻り、書き留めたメモを燃やした。灰皿の中で紙が黒く崩れていく。情報は紙に残さない。頭の中だけにしまう。

 

 その夜、レオはサルに尋ねた。

 

「サル。トニーに聞いてほしいことがある。ただし、聞くだけだ。トニーが答えなくてもいい。ただ、投げかけるんだ」

 

「何を聞く」

 

「マッシモの食料品店に『肉類』を仕入れている店が、リトル・イタリーに何軒あるか。トニーは帳簿を見ているはずだ」

 

 サルが眉をひそめた。

 

「レオ。お前、何を組み立ててる」

 

「まだ何も。ただ、数字を集めている」

 

「……分かった。聞くだけだな」

 

 三日後、サルが戻った。

 

「トニーは答えなかった。ただ、こう言った。『俺は帳簿の中の数字しか知らない。でも、帳簿の中の数字だけでも、メモを持って帰れとは言えない。ただ、マッシモの食料品店の仕入れ先リストに載っている店の数は、片手で足りるとも、足りないとも言えない』」

 

「片手では足りない、か」

 

「レオ。トニーは脅してるのか、教えてるのか」

 

「教えてる。ただ、自分が教えたとマッシモに悟られないように。トニーも必死だ」

 

(片手では足りない。六軒以上。五軒のスピークイージーが『肉類』を仕入れていることになる。月に平均300ドルなら、六軒で1,800ドル。年間21,600ドル。これがマッシモの食料品店の『売上』として計上されている。だが食料品店は赤字申告だ。売上21,600ドルで赤字。あり得ない。矛盾が完全に浮く)

 

(俺が帳簿で攻めると読んだマッシモは、自分の帳簿を強固にした。だが、現場の循環の構造までは消せなかった。アンジェロの店の帳簿と、マッシモの食料品店の申告と、トニーの知っている末端の店の数。この三つを突き合わせれば、連邦の捜査官が動ける)

 

(カードは揃った)

 

 

 

 

 5月初旬。

 

 レオはミッドタウンのアパートの机に向かっていた。

 

 夜の10時。通りの喧噪が遠く聞こえる。窓から入る風は、昼間の熱気をまだ含んでいた。

 

 タイプライターに紙を挟んだ。手書きではない。筆跡が残らないように。

 

 指紋も残さないように、薄い手袋をはめた。

 

 タイプライターのキーを叩いた。一文字ずつ、慎重に。

 

 手紙の内容は事実だけを書いた。具体的な名前。具体的な住所。リトル・イタリーの六軒のスピークイージーが、一軒の食料品店から『肉類』を仕入れていること。その食料品店が、年間2万ドル以上の売上があるにもかかわらず、赤字申告をしていること。スピークイージーの帳簿には『肉類300ドル』と書かれているが、実際には肉は仕入れていないこと。

 

 『申告所得と生活水準の著しい乖離』。

 

 最後に一行だけ、書き足した。

 

『シカゴの一件の後、連邦政府が組織犯罪の資金洗浄に厳しい今、この矛盾は看過できないはずです』

 

 手紙を封筒に入れた。封をした。宛先を書いた。差出人の欄は空白のまま。手袋越しに糊の匂いがした。

 

 消印はニューヨーク以外にする。明日、サルの家族をニュージャージーに送る帰りに、ニューアークの郵便局に寄ればいい。

 

 タイプライターから紙を抜いた。インクリボンを引き出し、燃やした。灰皿の中でリボンが黒く縮んでいく。

 

 手紙をコートの内ポケットにしまった。マッシモが残した紙切れの隣に。

 

 

 

 

 翌日。

 

 サルの妻と子供たちをニュージャージーのサルの父親の農場に送り届けた帰り道、レオはニューアークの郵便局に立ち寄った。

 

 封筒を投函口に滑り込ませた。

 

 金属の蓋がカタンと閉まる音がした。

 

 一通の手紙。タイプで打たれた一枚の紙。差出人不明。

 

 郵便局を出た。ニューアークの通りを歩いた。見知らぬ街の見知らぬ通り。投函口の金属の感触が、まだ指先に残っていた。

 

 駅に向かって歩きながら、空を見上げた。春の午後の空は高く、白い雲が流れていた。

 

(シカゴのカポネは、確か1931年に脱税で起訴されたはずだ。マッシモはカポネよりはるかに小物だが、同じ構造を持っている。連邦が動くには、カポネほどの規模は要らない。スピークイージー六軒分の循環と、赤字申告の食料品店、そしてキャデラックに乗る男の生活水準。それで充分だ)

 

 ただし、タイミングが問題だ。

 

(早すぎれば、マッシモが証拠を消す。遅すぎれば、マッシモが要求をエスカレートさせる。だが今は、シカゴの虐殺の直後だ。連邦政府は組織犯罪の取り締まりに神経質になっている。司法省はマフィアの資金洗浄を狙っている。手紙が届けば、放っておけない。必ず誰かが動く)

 

 

 

 

 5月中旬。

 

 レオの読みは、予想よりも早く当たった。

 

 サルが息を弾ませて事務所に飛び込んできた。

 

「レオ。マッシモのスピークイージーが、連邦の捜査官に踏み込まれた」

 

「踏み込まれた?」

 

「昨夜だ。マルベリー・ストリートの店と、エリザベス・ストリートの店。同時に。連邦禁酒局じゃない。連邦捜査局の捜査官だ。帳簿と書類を全部押収されたらしい」

 

 レオは顔に何の表情も浮かべなかった。

 

「マッシモは」

 

「逮捕はされてない。ただトニーが言うには、マッシモは弁護士と一日中会議してる。取り巻きも浮き足立ってる。連邦が入ってきたのは初めてだからな。警察なら金で黙らせられるが、連邦はそうはいかない」

 

 連邦の捜査官は地元のマフィアから金を受け取っていない。マッシモが市警に築いた賄賂のネットワークは、連邦には通用しない。

 

「トニーは大丈夫か」

 

「末端の使い走りだ。捜査の対象にはなってない。だがマッシモは、誰かが密告したと確信してるそうだ」

 

 レオの背筋にかすかな冷気が走った。

 

「誰を疑ってる」

 

「分からない。だがマッシモは手下を片っ端から締め上げてる。『俺の情報を連邦に売った奴がいる』って」

 

 サルがレオの顔を覗き込んだ。

 

「レオ。まさかお前」

 

「俺は何もしていない」

 

 レオはサルの目をまっすぐ見た。声は揺れなかった。

 

「俺は表からは何もしていない。新聞と電話帳で調べられる範囲の情報しか集めていない。あの手紙に俺の名前はどこにもない」

 

 サルには詳細を知らせない方がいい。知らなければ、心の底から「知らない」と言える。それがサルを守る最善の方法だ。

 

「サル。マッシモは今、自分の身を守るのに精一杯だ。お前の家族を脅す余裕はない。もう一度トニーに確認してくれ。ロザリアと子供たちは、あと一週間ニュージャージーにいてもらえるか」

 

「……分かった」

 

 

 

 

 5月の最終週。

 

 連邦捜査局の捜査は本格化していた。マッシモの食料品店とドライクリーニング店の過去5年分の税務申告書が精査されている。

 

 そして、決定的なニュースが入った。

 

 サルが事務所に来た。トニーからの伝言を持って。

 

「レオ。マッシモが、起訴された」

 

「起訴?」

 

「連邦大陪審の起訴だ。脱税と、組織犯罪の資金洗浄。マッシモ自身と、食料品店の名義人二人と、スピークイージーの帳簿係一人。合計四人」

 

「保釈は」

 

「却下された。逃亡の恐れがあると。弁護士が抗告したが、連邦の検察が『組織犯罪の資金洗浄』を強調して、危険性を主張した。シカゴの虐殺の後、連邦裁判所は組織犯罪に厳しい。保釈金を積んでも認められない空気だ」

 

 レオは椅子に深く座ったまま、天井を見上げた。

 

(いった。本当にいった)

 

「トニーは」

 

「トニーの名前は出てない。帳簿係として起訴されたのは別の人間だ。トニーは末端の使い走りとして、捜査の対象にはなってない。ただ、組織が凍り付いてる。誰もが『次は自分か』と怯えてる」

 

「ロザリアと子供たちは、来週ニューヨークに戻していい」

 

「……ああ。マッシモの組織は、レオへの圧力どころじゃない。全員が自分の身を守るのに必死だ」

 

 サルがレオの顔をじっと見た。

 

「レオ」

 

「何だ」

 

「お前は何もしてないんだな」

 

「俺は何もしていない。手紙を書いたわけでも、連邦に電話したわけでもない。新聞と電話帳で調べた情報を、ただ整理してあっただけだ」

 

 それは嘘であり、真実だった。手紙は書いた。だが、その手紙に書いた情報は、新聞と電話帳で手に入る範囲のものだった。アンジェロから聞いた現場の事実は、手紙には直接書いていない。ただ、連邦の捜査官が現場を調べるための「道しるべ」として、矛盾の構造を示しただけだ。

 

「……分かった。お前は何もしてないんだな」

 

 サルの声は、もう震えていなかった。

 

 

 

 

 翌日、レオはアンジェロの店を訪ねた。

 

 地下室の扉を開けると、アンジェロがカウンターの中にいた。グラスを磨いている。ルイジがテーブルを拭いている。

 

 アンジェロの顔が変わっていた。三十年間、その顔に張り付いていた慎重さと恐怖の翳りが、消えていた。

 

「レオ。見てくれ」

 

 アンジェロがカウンターの下から瓶を取り出した。ラベルのない瓶。中身は琥珀色。

 

「何だ」

 

「新しい酒だ。ブロンクスの蒸留所から、直接仕入れた。マッシモを通さずに」

 

「……マッシモが消えたのか」

 

「マッシモの手下が来なくなった。先週から。みかじめ料を取りに来る奴も、酒を卸しに来る奴も、全員消えた。組織が凍り付いてるからだ。誰もが『次は自分が起訴されるか』と怯えて、新しい商売どころじゃない」

 

「おめでとう、アンジェロ」

 

「おめでとうじゃない」アンジェロが瓶をカウンターに置いた。「あんたのおかげだ。あんたが連邦を動かしたんだろう」

 

「俺は何もしていない」

 

「俺は知ってる。リトル・イタリーで三十年暮らしていれば分かる。マッシモの帳簿の循環が、俺の店の肉類300ドルから始まってた。あんたがそれを突き合わせた。俺が話した現場の話を」

 

「アンジェロ。あんたが話したことは、どこにも書いてない」

 

「分かってる。あんたが守ってくれた。俺の名前も、ルイジの名前も、どこにも出てない」

 

 アンジェロが瓶の封を開けた。グラスを二つ出した。琥珀色の液体を注いだ。

 

「レオ。一杯やれ」

 

「俺は飲まない主義だ」

 

「今日は飲め。俺が頼んでるんだ」

 

 レオはグラスを受け取った。一口飲んだ。喉が焼けた。粗野な味だが、今までマッシモ経由で仕入れていた酒より、ずっと香りがいい。

 

「……いい酒だ」

 

「だろう。マッシモが混ぜてた香料がなくなった分、素の味が出てるんだ。三十年ぶりに、自分で選んだ酒を自分の店に出せる。俺は、自分の店の主人に戻ったんだ」

 

 アンジェロが涙を拭った。見栄を張って拭った。だが確かに涙だった。

 

「あんたの親父さんに、礼を言わせてくれ。カルロさんの息子が、俺の店を取り戻してくれた。カルロさんが拒んだマッシモの論理を、息子も拒んだ。親父さんの意地を、無駄にしなかった」

 

(親父——守れたよ。あんたが拒んだ男を、俺も拒んだ。あんたが堅気の意地で孤独に死んだのとは違う道を、俺は歩いている。意地は同じだ。だが孤独じゃない)

 

 レオはグラスを空けた。

 

「アンジェロ。商売、頑張れ。マッシモが消えた分、客は戻る。あんたの酒は、今までで一番いい」

 

「ああ。あの年寄りの常連たちも戻り始めた。マッシモが客に直接声をかけてたのが消えて、客も安心して来れる」

 

 レオは立ち上がった。

 

「また来る」

 

「おい、レオ。一曲弾いていけよ。昔みたいに」

 

「今度な」

 

 階段を昇りながら、レオは思った。

 

(一つ目の時計が止まった。マッシモの時計。あと三つの時計が動いている。市場の時計。サルの時計。レコードの時計)

 

 

 

 

 5月末。

 

 月末の帳簿を締めた。

 

 音楽事業、月間売上4,200ドル。経費1,800ドル。マッシモへの上納金は、3月と4月分を支払った後、5月分は保留にした。起訴された今、マッシモの組織が上納金を取りに来ることはない。営業利益、2,400ドル。マッシモに700ドルを抜かれていた時に比べると、一月分の利益がまるまる戻った計算になる。

 

 株式ポートフォリオは、2月から5月にかけて大きく膨らんだ。RCAが400ドルを超え、AT&T、USスチール、GM、GE、ワーナーも軒並み上昇した。レオはまだ売らない。ピークは9月のはずだから、夏までポジションを持つ。

 

 月末の資産台帳。

 

――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1929年5月末

 

 【資産】

  現金         $25,000

  銀行預金(チェース) $70,000

  株式ポートフォリオ(時価)

   AT&T  100株 × $230 = $23,000

   US Steel 100株 × $180 = $18,000

   GM    100株 × $220 = $22,000

   GE    120株 × $185 = $22,200

   RCA    100株 × $405 = $40,500

   ワーナー  100株 × $140 = $14,000

    時価合計      $139,700(元手$57,000、借入$82,700)

  パーク・アベニューの家具等 $3,000

  グランドピアノ・楽器 $2,000

  ゴールドバーグ楽譜店(運営権・在庫・設備)$30,000

  モレッティ・ミュージック版権 72曲(評価額$60,000)

 

 【負債】

  マージン借入   $82,700(コール・ローン金利12%)

  マッシモみかじめ料 停止(5月分支払保留)

 

 【月間収入】

  ASCAP演奏権料   $1,800/月

  レコード版権料   $800/月

  映画音楽契約料   $650/月

  楽譜売上      $100/月

  ラジオ局供給料   $100/月

  演奏料       $150/月

  株式配当      $200/月

  合計        $3,800/月

 

 【月間支出】

  家賃(パーク・アベニュー)$200

  食費     $50

  サル給与   $300/月

  ルー報酬   $180/月

  クリフ報酬  $160/月

  ゴールドバーグ楽譜店 $30/月

  印刷・郵送費 $40/月

  録音スタジオ費$150/月

  事務費・通信費$40/月

  マージン金利 $830/月($82,700 × 12% ÷ 12)

  雑費     $80/月

  合計     $2,060/月

 

 【純資産】$400,000

  (現金・預金$95,000 + 株式時価$139,700

   + 固定資産$5,000 + 音楽事業資産$95,000

   + ゴールドバーグ楽譜店$30,000 + 版権評価$60,000

   − 負債$82,700 + 4ヶ月分利益蓄積調整)

  前章比: +$100,000 (+33%)

――――――――――――――――――――――

 

 $400,000。前年末の$300,000から$100,000の増加。株式の含み益と、マッシモへの上納金停止による利益回復の二輪だ。

 

 棚の奥に、二冊の白いノートが並んでいる。十月に書いた出口戦略と、マッシモへの支払記録。マッシモへの支払記録のノートは、もう役目を終えた。連邦の起訴状の中に、マッシモの循環の構造が刻まれている。俺の手元にある証拠は、もはや誰の目にも触れない。

 

 出口戦略のノートは、まだ動かない。ピークは9月のはずだ。

 

 

 

 

 その日の午後。

 

 事務所の電話が鳴った。受話器を取ると、低い馴染みのある声がした。

 

「モレッティ君か。ハーヴェイ・ブレナンだ」

 

 レオの手が止まった。

 

「ブレナンさん」

 

「久しぶりだな。三年ぶりか。最後に会ったのは、君が自分の看板を上げた時だった」

 

 ハーヴェイ・ブレナン。50歳。大手楽譜出版社の社長。1920年の春、レオの最初の曲を25ドルで買い叩いた男。

 

「お元気そうで」

 

「元気なもんだ。君の噂を聞いたよ。モレッティ・ミュージック、随分と大きくなったじゃないか。ラジオで君の曲を聞かない日はない。ASCAPの配分ランクも上がったと聞く」

 

「おかげさまで」

 

「おかげさまで、じゃない。君の実力だ。——今だから言うが、あれは私の判断ミスだった」

 

「……」

 

「私の出版社が持っているのは、君が昔書いた曲の権利だけだ。新しい曲は全部、モレッティ・ミュージックだ。私はそれを、惜しいと思っている」

 

(忘れるわけがない。あんたが買い叩いた曲が、今もラジオで流れている。印税はあんたの懐だ)

 

「ブレナンさん。ご用件は」

 

「単刀直入に言おう。君のカタログを、私の流通網に乗せないか」

 

「流通網」

 

「私はティン・パン・アレーで三十年やっている。東海岸のデパートの楽譜コーナー、ヴォードヴィルの劇場、ラジオ局の楽譜部門、全ての販路を持っている。モレッティ・ミュージックのカタログは良い曲ばかりだ。だが、私の流通網に乗っていない。それは損だ。君にとっても、私にとっても」

 

「ブレナンさん。私の楽譜は、ゴールドバーグ楽譜店と、直接注文の顧客に販売しています。それで充分です」

 

「いや、充分じゃない。君が東海岸のデパートに楽譜を置けば、売上は三倍になる。私の流通網は、君が一人で築けるものではない。三十年かけて作ったものだ」

 

(同じ目だ。値踏みの目。ただし今回は、俺を安く買うのではなく、俺の曲を自分の流通網に乗せて取り分を増やそうとしている。構造は変わらない)

 

「条件は」

 

「カタログ流通の手数料は、売上の25パーセント。私の販路を通す代わりに、四分の一を私に払う」

 

「25パーセント」

 

「相場だ。私の規模の流通網なら、どこでもそのくらいだ」

 

「ブレナンさん。15パーセントなら、お考えします」

 

「15は安すぎる。20にしてくれ」

 

「18です。それ以上は払えません」

 

「18か」ブレナンが笑った。「君は交渉が上手くなったな。三年前は、25ドルで曲を売るしかなかったのに」

 

「三年前は金がありませんでした。今はあります」

 

「違いない。18で手を打とう。詳細は、来週あたり私のオフィスに来てくれ」

 

「分かりました」

 

「楽しみにしているよ、モレッティ君」

 

 電話が切れた。

 

 受話器を置いた。

 

(恨みは消えない。だが——今のお前には、俺にない流通網がある。利用する。感情と勘定は別だ)

 

 引き出しを開けた。マッシモが残した紙切れと、パールの契約書のコピーが並んでいる。マッシモの紙切れは、もういらない。シュレッダーに通せばいい。

 

 だが捨てなかった。引き出しの奥にしまっておくことにした。マッシモが父カルロを「俺のもの」と言った瞬間の、あの声を忘れないために。親父が拒んだものを、俺も拒んだ。その証として。

 

 窓の外を見た。

 

 1929年5月。マンハッタンの春。街路樹が緑を取り戻し、パーク・アベニューを歩く人々の足取りは軽い。株価はまだ上がる。楽観が空を突いている。

 

 レオの頭の中で、三つの時計が動いている。

 

 一つ目、市場の時計。ダウが381ドルに届くまでのカウントダウン。あと4ヶ月。

 二つ目、サルの時計。RCAの5株の含み益が膨らむカウントダウン。夏にピーク、その後に説得。

 三つ目、レコードの時計。パールの声が盤から消えるまでのカウントダウン。

 

 マッシモの時計は止まった。

 

 三つの時計が全て、同じ季節に鳴る。

 

 1929年。秋。

 

 レオだけがその音を知っている。そして今、知っているのはレオだけではない。連邦の検察が、マッシモの帳簿の中に同じ音を聞いている。

 

 帳簿を閉じた。

 

(親父——守れたよ。あんたの意地は無駄にしなかった。あんたが拒んだ男を、俺も拒んだ。ただし、俺は孤独じゃない。サルも、アンジェロも、ルーも、クリフも、パールも、今はまだ俺の周りにいる。この陣営を、嵐の中で守り抜く。それが、あんたが歩かなかった道だ)

 

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