五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第13話】最後のダンス

 1929年6月。

 

 マンハッタンの夏が来た。アスファルトが太陽に焼かれ、陽炎がビルの谷間に立ち昇っている。地下鉄の駅から吐き出される人々の額には汗が光り、タクシーの窓は全開で、クラクションの音が熱気の中に溶けていく。

 

 ニューススタンドには「景気好調、記録的水準続く」の見出し。ブロードウェイのカフェでは見知らぬ男同士が「RCAはいくらまで行く」と語り合い、地下鉄では主婦が証券口座の含み益を隣の乗客に自慢していた。

 

 レオの内側は、外気とは別の冷気を帯びていた。街の楽観が重いほど、胸の底にある冷たい塊が固くなる。

 

 もうすぐ来る。終わりが。

 

 

 

 

 6月第一週。

 

 レオはモーのオフィスで、ポートフォリオの清算を始めた。

 

「レオ。AT&Tの残りを全部売るのか」

 

「全部だ」

 

 モーが眼鏡を外してレンズを拭いた。チェストの上に置かれた父親の懐中時計が、午後の光を反射している。

 

「AT&Tは安定株だ。配当もいい。RCAほどの成長はないが、暴落しても最後に残る銘柄だぞ」

 

「売る」

 

「USスチールもか」

 

「USスチールも、GEも、ワーナーも。順次、全部」

 

 モーがゆっくり椅子に沈んだ。

 

「全部。お前、正気か」

 

「正気だ」

 

「RCAだけは残すのか」

 

「RCAも売る」

 

 モーの葉巻が止まった。15秒ほどの沈黙が落ちた。

 

「レオ。お前はこの数年間で、尋常ではない利回りを叩き出した。俺の30年のキャリアで見ても、これほどの成績は珍しい。それを今、全部売る。理由を聞いてもいいか」

 

「直感だ」

 

「直感だと? お前が直感で動く男か」

 

(言えない。あと4ヶ月でこの市場が崩壊するとは。言えば狂人だ。史料で読んだ数字も、ドキュメンタリーで見た映像も、この世界では根拠にならない)

 

「直感だよ、モー。ただ、新聞の数字を見てくれ。コール・ローン金利は12パーセントを超えている。FRBは3月に投機抑制の警告を出した。ブローカーズ・ローンの総額は60億ドルを超えた。去年は40億ドルだった。普通じゃない」

 

「普通じゃない? 1920年代は普通じゃない時代だ。アメリカの生産力は世界一だ。自動車、ラジオ、電話、どの産業も成長している。株価は経済の成長を反映しているだけだ」

 

「反映しすぎている」

 

 モーが唇を噛んだ。

 

「レオ。お前に一つ聞く。お前は俺を信用しているか」

 

「信用している」

 

「なら、俺の助言を聞け。今は売るな。少なくとも年末まで待て。DJIAが400を超えてからでも遅くない」

 

「モー。俺はお前を信用しているが、市場は信用していない。全て売ってくれ。目立たないように、少しずつ。一ヶ月かけて」

 

 モーの目に、30年分のプライドが光っていた。売り注文を書くペンが、止まっている。

 

「分かった。お前の金だ。お前が決めろ。だが俺の記録には残す。『1929年6月、モレッティはブローカーの助言に反して全ポジションの清算を開始した』と」

 

「残してくれ」

 

「一つ聞いておきたい。モレッティ・ミュージックの方は、どうなんだ。音楽事業は好調だろう」

 

「好調だ。そっちに集中する」

 

「マッシモの件は、片付いたのか」

 

 レオは一瞬息を止めた。モーのところにも噂が届いているのか。

 

「連邦が動いた。起訴された。保釈は却下された」

 

「そうか。あの件、お前が何かしたという噂もあるが」

 

「俺は何もしていない。新聞と電話帳で調べた情報を整理しただけだ」

 

「そうか。まあ、結果的にあの男が消えたのは、この街のためによかった」

 

 モーがペンを走らせた。売り注文の書類を作り始めた。

 

「レオ。もう一つ聞く。お前の全ポジションを清算して、その金をどうする。現金で持つのか」

 

「米国債に回す。それと、空売りの証拠金に回す」

 

「空売り」

 

 モーが顔を上げた。

 

「市場が下がる方に賭けるつもりか」

 

「保険だ」

 

「保険」

 

「全ポジションを清算して現金にする。だが現金は、市場が上がれば機会損失になる。空売りは、市場が下がった場合の保険だ」

 

「……レオ。空売りは博打だぞ。市場が上がれば損が膨らむ。理論上、損失は無限だ」

 

「だから小さく張る。ポートフォリオ全体に対して5パーセント程度の証拠金で。万が一上がっても、致命傷にならない額で」

 

 モーが首を振った。

 

「好きにしろ。だが俺は反対だと記録に残す」

 

「記録に残してくれ」

 

 レオは窓の外を見た。ウォール街の夏。ブローカーたちがタクシーから降りてくる。皆、明るい顔をしている。この街の全員が、永遠の繁栄を信じている。

 

(あと4ヶ月。あと4ヶ月で、この顔が全員、別の顔に変わる)

 

 

 

 

 6月中旬。

 

 清算が進むにつれて、ウォール街でのレオの評判が変わった。

 

 クライスラー・ビルのティールームで、ブローカーのフィッツジェラルド、モーの古い仲間に会った。フィッツジェラルドはレオを見るなり、首を振った。

 

「モレッティ。モーから聞いたよ。お前、全ポジション清算した上に、空売りまで入れたんだって」

 

「ああ」

 

「正気か?」

 

 フィッツジェラルドの声には、軽蔑と憐みが混じっていた。

 

「DJIAは来月380を超える。400も時間の問題だ。その中で下がる方に賭けるなんて」

 

「保険だよ」

 

「保険? 保険なら生命保険でも掛けろ。市場に逆張りするのは」フィッツジェラルドがカップを置いた。「恥ずかしいことだ、モレッティ。空売りはな、他の投資家の敵になるということだ。お前が儲かるのは、全員が損する時だ。それが分かってるのか」

 

 分かっている。痛いほど分かっている。

 

「アメリカの成長に賭けないということだぞ。イタリア人がアメリカの市場に逆らう。そういう風に見られるぞ」

 

 レオは何も言わず、コーヒーを飲み干した。

 

 

 

 

 6月下旬。

 

 サルが事務所に来た。久しぶりに、顔に緊張がなかった。ロザリアと子供たちがニューヨークに戻り、マッシモの影が消え、家族が安全を取り戻した後の顔だ。

 

「レオ。RCA、428ドルだ」

 

「聞いた」

 

「もう売ってもいい頃だろう。俺の分も」

 

 レオの手が止まった。

 

「……俺の分?」

 

「ああ。3月に買い増した。それから4月、5月と、少しずつ。全部で50株だ」

 

(50株。建値が380ドルとして、時価総額は21,400ドル。マージンを使っているなら証拠金は4,000から5,000ドル。サルの年収の1.5倍だ。RCAが25パーセント下がれば、証拠金が吹き飛ぶ)

 

「元手は」

 

「元手の437ドルに足して、貯金から800ドル足した。それと、含み益を担保にマージンで買い増した。建値の平均は380ドル。50株だから、証拠金は4,200ドル。4倍のレバレッジだ」

 

(4,200ドル。ロザリアと子供たちの生活費を半年賄える金だ。これを失えば、サルの家族はもう一度ニュージャージーに逃げなければならない)

 

 レオが口を開きかけた時、サルが先に言った。

 

「だが、降りる」

 

「……何?」

 

「RCAから降りる。半分じゃない。全部だ」

 

 サルが椅子の背に体を預けた。さっきまでの興奮はもう消えていた。

 

「マッシモの件で、ずっと考えてたんだ。お前が何をしてくれたか。匿名の手紙、タレコミ、俺の家族をニュージャージーに逃がしたこと。全部、俺に何も言わずにやった。俺が知らなくていいように」

 

「サル」

 

「俺はあの時、お前に何もできなかった。お前が俺の家族を守ってる間、俺は事務所の奥で寝てただけだ。何も知らずに」

 

 サルの声は落ち着いていた。怒りでも後悔でもなかった。自分に向けた静かな査定だった。

 

「お前はいつも正しかった。マッシモの時も、版権ビジネスの時も。RCAの5株を買った時、お前は『437ドル以上のリスクは取るな』と言った。俺はその約束を守ったふりをして、50株に増やした。上がってたからナンピンじゃないと自分に言い聞かせてな」

 

(言葉の綾だ。下がってないからナンピンじゃない。だが実質は同じだ。リスクを増やした。サル自身が、それに気づいている)

 

「レオ。お前に命を預けた男が、お前の言葉を無視して4倍のレバレッジを掛けてる。それは筋が通らない」

 

 レオはしばらく黙っていた。

 

(サルが自分から「降りる」と言っている。マッシモの件が、サルの中で何かを変えた。恩義ではない。信頼だ。レオの判断を信じると決めた男が、その判断に背く自分を許せなくなった)

 

「サル。お前の判断は正しい。全部売れ。50株全部だ。450ドルで指値を入れろ」

 

「ロザリアにも話してあるんだろう。RCAが450ドルに届けば、ベイ・リッジの頭金ができると」

 

 サルの目が一瞬揺れた。

 

「知ってたのか」

 

「お前が株を増やした理由は一つしかない。庭付きの家だろう。子供たちが走り回れる」

 

 サルは長い息を吐いた。

 

「……全部売る。450ドルで。それでいいか」

 

「それでいい。450ドルで50株。必ず売ってくれ」

 

「約束する。今度は本物の約束だ」

 

 サルが立ち上がった。ドアに手をかけてから振り返った。

 

「レオ。お前がマッシモの時にやったこと、俺は一生忘れない。だからこそ、お前の言葉を無視する真似は、もうしない」

 

 サルが出ていった。

 

(450ドルで50株売れば、利益は (450-380) × 50 = 3,500ドル。元手を回収して、まだ余る。サルが自発的に「降りる」と言った。全部降りると。俺がそれを受け入れた。この順序が重要だ。レオが「売れ」と命じたのではなく、サルが自分で決めた)

 

(あと二ヶ月。RCAは夏の間に450を超える。史料で読んだ記憶では、500ドル台に届くはずだ。450で全部売れば、サルは完全に降りられる。10月の暴落より前に。ロザリアの頭金にはまだ足りないかもしれないが、元手と利益は手元に残る。致命傷どころか、無傷だ)

 

(だが、その「450で売る」という約束を、サルは守るだろうか。含み益が膨らめば膨らむほど、人間は「もっと上がる」と信じる。マッシモの恩義が冷めた頃、450を超えても「500に行くから待て」と言い出すかもしれない。恩義は時間と共に薄れる。バブルの高揚は時間と共に濃くなる)

 

 

 

 

 7月。

 

 パールとクリフをスタジオに呼んだ。来月からのコロンビア録音セッションを半減し、NBCの生放送枠を増やすと伝えるためだ。

 

「来月から録音を減らす」

 

 パールがマイクの前に立ったまま、レオを見た。

 

「減らす? あたしの盤は売れてるぞ。先月の『Harlem After Hours』は4,000枚だ。南部のオーダーが増えてる」

 

「売れている。だからこそ、頭打ちの前に」

 

「頭打ち? まだ増えてるよ」

 

「クリフ」レオはクリフを見た。「お前もそう思うか」

 

 クリフはトランペットを下ろした。

 

「……パールの盤は売れてる。一番録れてる時に、なぜセッションを減らす。俺にも分からない」

 

「ラジオの生放送枠を増やす。NBCのネットワークが拡大してる。生放送の方が、将来性がある」

 

「将来性?」パールが鼻を鳴らした。

 

「聴いてくれ」レオがスタジオのピアノの前に座った。「『Midnight in Harlem』。今のレコード版から弾く」

 

 イントロを弾き始めた。16小節。管楽器パートをピアノの高音域で代奏し、リズムセクションを左手で刻む。ダイナミクスが大きい。最弱音から最強音まで、フルレンジを使い切る。盤に刻む音——カッティング・マシンの針が深い溝を彫るための、振幅の大きな波形。

 

 16小節目が終わり、歌のメロディに入った。パールが自然に口ずさみ始める。聴き慣れた自分の曲だ。

 

 レオが弾き終えた。

 

「これが、レコード版。次、ラジオ版」

 

 同じ曲を弾き直した。

 

 イントロが4小節に縮まった。歌のメロディがすぐに始まる。ダイナミクスの幅が狭い。一番小さい音と一番大きい音の差が、レコード版の半分以下。だが平坦に聴こえるわけではなかった。音量差の代わりに、和音の密度が変化していた。1コーラス目は薄い2声、2コーラス目は厚い4声。音量ではなくテクスチャーで緩急をつけている。

 

「何が違う」

 

「三つ。イントロを短くした。ラジオの前のリスナーは、最初の5秒で聴き続けるか決める。16小節のイントロは長すぎる。次に、ダイナミクスを圧縮した。ラジオのスピーカーは小さい。小さすぎる音はノイズに埋もれて、大きすぎる音は歪む。だから音量差を最小にして、その分をテクスチャーの変化で補う。最後に、伴奏を薄くした。歌を前に出す」

 

(前世のDTMでは「マスタリング」と呼ぶ作業だ。コンプレッサーで音量差を圧縮し、リミッターで天井を揃え、小さなスピーカーでも潰れないように音圧を一定範囲に収める。この時代にコンプレッサーはない。だが編曲で同じ効果を近似できる。音量差を楽譜上で縮め、テクスチャーの変化で代替する。ハードウェアがないなら、ソフトウェア——つまり楽譜——でやればいい)

 

 クリフが腕を組んだ。

 

「ダイナミクスを殺したらジャズじゃない。ピアニッシモからフォルテシモまで、その差が音楽の呼吸だ。お前はそれを半分に縮めると言ってる」

 

「縮めるんじゃない。移し替えるんだ。音量の差を、和音の密度の差に変える。リスナーの耳には、どちらも『緩急』に聴こえる」

 

「聴こえるかもしれない。だがミュージシャンの耳には違う」

 

「ラジオのリスナーは、ミュージシャンの耳で聴いてない。家のスピーカーで、夕食を食べながら聴いてる。その耳に届く編曲が必要だ」

 

 パールが二人のやりとりを聞いていた。

 

「……レオ。あんたの言いたいことは分かった。でもレコードのロイヤリティは残る。盤は消えない。生放送はその場限りだ。あたし、ヴィクターと契約したばかりだよ。盤で行くって決めた」

 

「契約の録音義務枠は最小にした。それは守った」

 

「守ったさ。でも来月からセッションを半減するって? あたしの全国ツアーはどうなる。売れてる時に減らしたら、ヴィクターはあたしを冷遇する」

 

(ヴィクターは来年、レコード事業そのものを縮小する。パールの全国ツアーはキャンセルになる。だがそれを言えない)

 

「パール。これはビジネスの判断だ。リスクヘッジだ」

 

「リスクヘッジ」パールが帽子を被り直した。「あんたの言葉はいつも正しい。でも今回は、あたしの声をリスクヘッジの材料にするのは許さない」

 

 クリフが二人の間に割って入った。

 

「レオ。パール。落ち着け。レオ、お前の判断に従えとは言わない。だがセッションを半減するのは、極端だ」

 

「クリフ。お前まで」

 

「俺は音楽のためにやれと言ってる。パールの声を盤に残すことも、ラジオに乗せることも、どちらも音楽だ。どちらかを殺すな」

 

「殺してない。レコードを減らすだけだ。ラジオを増やすだけだ」

 

「レオ」クリフがレオの目を見た。「お前、何かを見てるんだろう。俺には分かる。何を隠してるか分からないが、お前がここ数ヶ月、市場の動きと同じ方向に歩いてないのは、俺にも分かる」

 

「……」

 

「言えないなら言わなくていい。だが、パールの声を、お前の見てるものの犠牲にするな。パールは音楽で食う女だ。お前と同じだ」

 

 レオはクリフの目を見返した。

 

「……クリフ。一つだけ約束する。ラジオの生放送枠を、パールのために確保する。来年以降、ラジオで歌う場所が必ずある。それを俺が保証する」

 

「保証か。お前が保証するのか」

 

「する」

 

「……分かった。パール、レオの保証を聞いたか」

 

「聞いた。でもあたしの盤を減らすのは、やっぱり許さない」

 

「減らすんじゃない。半分ラジオに移すだけだ。それで、来年もしものことがあった時、レオが保証した場所がある」

 

 パールがクリフとレオを交互に見た。長い間、黙っていた。

 

「……分かった。半分だけラジオに回す。でもレオ、あたしのレコードを完全に殺すなよ。来年のツアーもちゃんとやる」

 

「守る」

 

 パールが出ていった後、クリフが言った。

 

「レオ。お前は何かを見ている。でもそれを言葉にしない限り、パールには届かない」

 

「……分かってる」

 

「分かってない。お前、最近、誰のことも分かってない」

 

(分かっている。パールのレーベルは来年倒産する。レコード産業は壊滅する。ピーク時の1割になる。だが、ラジオは生き残る。NBCの生放送枠が、パールの新しい舞台になる。だから俺は、ラジオの枠を確保している。それが、来年パールが歌い続けるための唯一の道だ)

 

(だが言えない。「来年レコードが死ぬ」とは。言えば狂人だ)

 

 

 

 

 7月中旬。

 

 ルーが事務所に来た。ASCAP経由の四半期報告書と、コロムビアからの入金通知を持って。

 

 ルーはいつもどおり有能だった。音楽事業の数字は堅実だ。版権収入、ラジオ使用料、演奏会、月間売上4,200ドル。経費1,800ドル。マッシモへの上納金は止まっている。営業利益2,400ドル。

 

 だがルーの目は、数字ではなく、レオの顔を見ていた。

 

「レオ。聞いてもいい?」

 

「何を」

 

「全ポジション清算したって、本当?」

 

「本当だ」

 

「どうして」

 

「直感だ」

 

「直感で$400,000の判断をしたの?」

 

 ルーの声は冷静だった。責めているのではない。理解しようとしている。CFOとして、会社の財務を預かる人間として、判断の根拠を確認しようとしている。

 

「ルー。今の市場は」

 

「待って」ルーが手帳を開いた。「あなたの判断を、私は今まで信じてきた。1925年のラジオ番組、1926年の音楽出版社、1927年のASCAP、マッシモの件、全部あなたの判断で、全部うまくいった。でも今回は、根拠が分からない」

 

「市場が過熱している。金利が」

 

「それは分かる。でも過熱しているからすぐ下がるとは限らない。FRBの警告のあとも市場は上がった。バブソン・ブレイクのあとも市場は回復した。あなたが正しいという根拠は、どこにあるの」

 

 レオは答えられなかった。

 

(根拠は、史料で読み、ドキュメンタリーで見た記憶だ。10月の下旬、暗黒の木曜日。その数日後に、もっとひどい一日が来る。ダウは380ドル台の頂点から、底では十分の一近くまで落ちたはずだ。正確な日付や数字までは覚えていないし、記憶は混ざり、変質する。だがその知識は、この世界では根拠にはならない。言えない)

 

「……直感だ、ルー。俺は、何も証明できない」

 

 ルーが手帳を閉じた。

 

「去年の秋に私が言った言葉を覚えてる? 『秘密は利子がつく』。あの時から、利子は膨らみ続けてる。マッシモの時は、結果で正しかった。でも今回はまだ、結果が出てない」

 

「もうすぐ出る」

 

「いつ」

 

「秋だ」

 

 ルーがレオを見た。長い間、黙っていた。

 

「……秋まで待つわ。でもレオ、一つだけ。私がCFOとしてこの会社の財務を預かっている以上、あなたの『直感』だけでは動けない。秋に何も起きなかったら、次は私が判断する」

 

「構わない」

 

「それから、レコードのセッションを減らしてラジオを増やす方針。私も帳簿を見ていて、レコードのロイヤリティが高いのは分かってる。ラジオに移すと、短期的には収入が減る。半年後に効いてくる判断よ。それを今やるのは、相当の確信がないと説明がつかない」

 

「半年後に、レコードの収入がもっと減る」

 

「なぜ」

 

「……これも直感だ」

 

 ルーが小さく笑った。笑いの中に、苛立ちと、信頼と、諦めが混じっていた。

 

「直感、直感。あなたの直感は、この会社の設立以来ずっと当たってる。それは認める。でもね、レオ、CFOとして一言わせてもらうと、直感だけの会社は、社長が倒れた時に崩れる。根拠が文書に残っていないと、次の人が引き継げない」

 

「じゃあ、何を残せばいい」

 

「判断の枠組みだけでも。『市場が過熱した時に、現金比率を上げる』という方針。『レコードの売上が天井を打った時に、ラジオに移す』という方針。そういうルールとして残してくれれば、私も次に同じ判断ができる」

 

(ルーはCFOだ。俺が倒れた時にこの会社を続けるには、ルーが判断できるようになっていなければならない。直感をルールに翻訳する。それが、俺がルーにできる最低限の誠実さだ)

 

「ルー。書面にする。『市場の過熱指標——コール・ローン金利、ブローカーズ・ローン総額、PERの中央値——が一定水準を超えた時に、現金比率を上げる』。そのルールを、お前と一緒に作る」

 

「それでいい。会社のルールとして、文書にして。私が管理する」

 

「頼む」

 

 ルーが立ち上がった。ドアのところで立ち止まり、振り返った。

 

「レオ。あなたの秘密が、秋に判明するのを待ってる。それまでは、CFOとして、この会社の数字を守る」

 

 ルーが出ていった。

 

(ルーは有能だ。俺の嘘を見抜いている。だが、結果が出れば、嘘は嘘ではなくなる。秋。もうすぐだ)

 

 

 

 

 7月末。

 

 ブレナンとの協業が始まった。

 

 ブレナンのオフィス。ティン・パン・アレーの28番街、古いビルの四階。葉巻と紙の匂いが染みついた部屋。壁に額入りの楽譜が並んでいる。ブレナンが30年かけて集めたヒット曲のコレクションだ。

 

 ブレナンは50歳だった。白髪交じりの髪、仕立てのいいスーツ。レオが最初に会った時と変わらない。ただし目は、あの時よりも深い。業界の長い年月が、男の目にものを言わせていた。

 

「モレッティ君。カタログを見せてくれ」

 

 レオはモレッティ・ミュージックのカタログを広げた。72曲。ラジオ向けのスイング、映画館向けのバラード、クリフとの共作のジャズ・チューン。ブレナンが一枚ずつめくっていく。

 

「……いい曲だ」

 

 ブレナンが一枚の楽譜で止まった。『Midnight in Harlem』。クリフとの共作。

 

「これは黒人のジャズと白人のポピュラーの境界を跨いでる。売れる」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、もったいない。この曲を東海岸のデパートの楽譜コーナーに置けば、売上は三倍だ。今の君の販路じゃ、ニューヨークとフィラデルフィアとボストンしか叩けてない。私の流通網は、マイアミからメインまで、東海岸一帯を押さえている」

 

「それが、ブレナンさんの強みですね」

 

「強みだ。30年かけて作った」ブレナンが楽譜を置いた。「モレッティ君。私はな、君が自分の看板を上げた時、本当に惜しいと思った。あの時、もっと高く買っておけば、君の曲は全部私のものだった。25ドルではなく、100ドルでも200ドルでも、払うべきだった」

 

(25ドル。あの金額を、あんたは今でも口にする。俺があんたを許していないことを知っている。だが、過去の過ちとして処理したい。そうすれば、ビジネス関係が作れるからだ)

 

「ブレナンさん。あの25ドルは、もう過去のことです」

 

「そう言ってくれると助かる。だが、私は忘れない。あの25ドルが、私の最大の失敗だった」

 

「最大の失敗?」

 

「投資としての失敗だよ。君の曲がこれだけ売れるなら、あの時もっと高く買っておけば、私の取り分は今の十倍になっていた。25ドルをケチったせいで、私は君から曲を買う権利を失った」

 

(この男は、25ドルを「道義的失敗」としてではなく「投資的失敗」として後悔している。倫理ではなく数字だ。だが、それでいい。ビジネスの話をしているのだから)

 

「ブレナンさん。これからの話をしましょう。流通手数料18パーセント。楽譜の売上を週次で精査。私のカタログのうち、あなたの流通網に乗せるのはラジオ向けスイングとバラードに限定。ジャズの共作は別ルートでお願いします」

 

「ジャズを外すのか」

 

「クリフの意向です。ジャズの楽譜は、ハーレムの店と直接取引したいと。ブレナンさんの流通網には、黒人の顧客が少ない」

 

「……分かった。ジャズは外そう。だがスイングとバラードで、売上を三倍にしてみせる」

 

「期待しています」

 

 ブレナンと握手した。男の手は乾いていた。30年、楽譜と電話とインクに触れてきた手だ。

 

(25ドル。あの日、俺は金がなくて、この男に曲を売るしかなかった。今は、この男と対等に握手している。条件を提示し、交渉し、合意した。搾取される側から、対等なパートナーへ。それが、俺の成長の尺度だ。だが、完全に搾取の構造が消えたわけじゃない。ブレナンはまだ俺より強い。流通網を持っているのはあっちだ。俺のカタログは、あっちの網に乗せてもらわないと東海岸に広がらない。対等になるには、もう少し時間がいる)

 

 

 

 

 8月。

 

 清算が完了した。

 

 モーのオフィスで、最終的な約定報告を受け取った。

 

「レオ。全ポジション、売却完了だ」

 

 モーが帳簿を広げた。

 

「AT&T、USスチール、GE、ワーナー、RCA、GM、コロムビア・グラモフォン。全部売った。売却総額、$395,000。含み益$215,000。手数料と税金を引いて、手元に残ったのは$330,000」

 

「現金か」

 

「現金と米国債に回す。国債は$200,000。空売りの証拠金が$32,000。残りの現金が$100,000弱。音楽事業資産を足して、純資産$400,000」

 

($400,000。5月末と同じ数字だ。増えていない。株式の含み益を現金に換えただけ。含み益から現金への変換。実質的な変化はない。ピークの少し手前で降りたから、最後の上昇分は取り損なった。だがそれでいい。取り損なった利益より、逃げ遅れた損失の方がはるかに大きい。現金と国債は、暴落の中で無傷だ)

 

「モー。もう一つ。空売りを強化したい」

 

「まだ強化するのか」

 

「市場が天井に近い。保険を厚くする」

 

 モーが首を振った。

 

「……分かった。何をどれだけ」

 

「RCA、100株。USスチール、50株。GM、100株。建値は今の値で」

 

「RCA、475ドル。USスチール、240ドル。GM、70ドル。証拠金は合計で$32,000くらいか」

 

「それでいい」

 

 モーがペンを走らせた。売り注文の書類を作り始めた。

 

「レオ。記録に残すぞ。『1929年8月、モレッティは全ポジションを清算した上で、空売りを強化した。市場が下がる方に、本格的に賭けた』」

 

「残してくれ」

 

「2ヶ月後、この記録が俺の唯一の慰めになる。お前が正しかったと、記録が証明してくれる」

 

(モー。お前の懐中時計を質に入れる日が来ないことを祈っている。だが祈りだけでは足りない。お前自身のポジションの一部を、現金にしておいてくれ。俺が何度言っても聞かないなら、せめて、お前の懐中時計だけは守ってくれ)

 

「モー。一つだけ頼む」

 

「何だ」

 

「お前自身の金、少しだけ現金にしておけ。頼む」

 

 モーがまた眼鏡を外してレンズを拭いた。チェストの上の懐中時計は、二ヶ月前と同じ位置で午後の光を反射している。

 

「……レオ。お前は心配性だ」

 

「同じ言葉だ。3月にも聞いた」

 

「市場は嘘をつかない。俺は市場を信じる」

 

 モーはそれきり帳簿に目を落とした。会話は終わった。

 

 オフィスを出て廊下に立つと、指先が冷えていた。

 

 

 

 

 8月中旬。

 

 パーカーに会ったのは、アッパー・イーストサイドのクラブだった。

 

 音楽出版業界の懇親会。レオが毎年顔を出す社交の場。パーカーも投資家として参加している。

 

 会場のどこでも株の話が聞こえた。大手出版社のハームス社の重役が「GM株で去年から30パーセント」と自慢し、レコード会社幹部が「AT&Tの配当がすごい」と語っている。

 

 音楽業界の懇親会で、全員が株の話をしている。音楽の話をしている人間は、ほとんどいなかった。

 

 ホールの隅で、4人編成のバンドがBGMを演奏していた。ピアノ、ベース、ドラム、クラリネット。典型的な1920年代のダンス・ミュージック。I-IV-V-Iの進行が繰り返される。セカンダリー・ドミナントも使わない。テンション・ノートもない。シンコペーションは最小限で、拍の頭にアクセントが来る、四角いリズム。

 

(音大で聞いた講義を思い出す。このダンス・ミュージックの次に来るのはスウィングだ。リズムが裏拍に移り、テンポが上がり、ソリストの即興が主役になる。講義でベニー・グッドマンの名前が出た。その次にはビバップが来て、和声が複雑になり、踊れない音楽になる。この4人は、自分たちの音楽がいずれ古く聴こえることを知らない)

 

(株も音楽も、今が頂点だ。株式市場はもうすぐ崩壊する。ダンス・ミュージックも、いずれ変質する。どちらも、今いる人々には見えていない。見えているのは、俺だけだ)

 

 誰にも言えない。株が落ちることも、音楽が変わることも。

 

 パーカーは上機嫌だった。取り巻きを従えて、ホールの中央に陣取っている。タキシードは新調したらしく、仕立ての良さが際立っている。靴はイタリア製の手縫い。

 

「モレッティ! 久しぶりだな」

 

「パーカーさん。お元気そうで」

 

「元気も元気だ。RCAが490ドルだぞ。来週には500を超える。今年中に百万ドルだ。お前はどうだ、モレッティ。まだ音楽で小銭を稼いでるのか」

 

「ええ、まあ。パーカーさん。一つ、お伝えしたいことがあります」

 

「何だ」

 

「ポジションを、少し軽くした方がいいかもしれません」

 

 パーカーの目が細くなった。

 

「軽くする? なぜだ」

 

「市場が過熱しています。コール・ローン金利は12パーセントを超えている。FRBの3月の警告声明は」

 

「FRBの声明?」パーカーが鼻で笑った。「あれは臆病者の寝言だ。経済は成長している。企業収益は過去最高だ。株価が上がるのは当然だ。モレッティ、お前は音楽屋だろう。投資のアドバイスは専門家に任せておけ」

 

「忠告です。ポジションの20パーセントだけでも」

 

「忠告か」パーカーがグラスを置いた。声が冷たくなった。「聞いたぞ、モレッティ。お前、全ポジション清算した上に、空売りまで入れたんだって? モーから聞いたよ。ウォール街は狭い」

 

 レオは答えなかった。

 

「空売り、つまりお前は、市場が暴落すると思っているんだな。全員が損する方に賭けている。それで俺にポジションを減らせ? お前が儲かるようにか?」

 

「そういうことではありません」

 

「そういうことだろう」パーカーがレオに一歩近づいた。シャンパンの匂いがした。「お前は市場の敵だ、モレッティ。空売り屋はな、他人の不幸で食う蛆虫だ。イタリア人に投資の忠告は不要だ。靴でも磨いていろ」

 

 レオは何も言い返さなかった。奥歯を噛み締めた。

 

「失礼しました。余計なことを言いました」

 

 背を向けた。言うべきことは言った。

 

(これが最後の忠告だ。蹴ったのは、パーカーの方だ)

 

(505ドル。史料で読んだ記憶では、RCAはこの後、十分の一以下に落ちたはずだ。正確な底の数字までは覚えていない。パーカーは自分のプライドと一緒に、崖から飛び降りる)

 

 

 

 

 8月末。

 

 サルが約束を守った。

 

「レオ。RCAが450ドルを超えた。50株、全部売った」

 

 レオの手が止まった。

 

「全部売ったか」

 

「ああ。建値の平均は380ドル。450で50株売ったから、利益は3,500ドル。マージンの借入を返して、元手も全部戻った。完全に降りたよ」

 

「サル。ありがとう」

 

「ありがとうじゃない。俺が決めたんだ。お前の忠告を、俺が決めて採用した」

 

 サルの目が、あの日のような輝きではなかった。3月にRCAを買い増した時のような、熱狂的な輝きではない。もっと静かな、何かを決断した後の目だ。

 

「レオ。ロザリアと話した。あいつ、全部売ることに賛成した。ベイ・リッジの家の頭金にはまだ足りないが、元手が戻って利益も出れば、最悪でもまたやり直しがきくとな」

 

「ロザリアがそう言ったか」

 

「ああ。あいつの方が俺より賢いかもしれない」

 

(ロザリア。サルの妻。子供たちの母。この決断を後押ししたのは、ロザリアだ。サルの熱狂を、現実的な判断で支えた。サルの含み益の夢を、家族の安全に変えた)

 

 サルが立ち上がった。ドアに手をかけてから振り返った。

 

「レオ。マッシモの時も、版権の時も、お前が正しかった。RCAも、きっとそうだ」

 

 サルが出ていった。

 

(サルは完全に降りた。50株全部。マージン借入を返済して、元手と利益が手元に残る。10月の暴落が来ても、サルの家族は無傷だ。これでいい)

 

 

 

 

 9月3日。火曜日。

 

 ダウ・ジョーンズ工業株平均は、その日、381.17ドルの値をつけた。

 

 史上最高値。

 

 ニューヨーク証券取引所の取引フロアは、午後3時の取引終了まで狂騒に包まれていた。ブローカーたちは叫び、手信号を振り、注文票を投げた。ティッカーテープが数字を刻み続け、引けのベルが鳴った時、フロアには歓声と拍手が上がった。

 

 レオはウォール街にはいなかった。ミッドタウンの事務所で、夕刊を読んでいた。一人で。

 

『ダウ平均、史上最高値を更新。381ドル台。アメリカ経済の力強さを反映』

 

 381ドル。史料で読んだ数字だ。正確な年までは覚えていなかった。1929年の秋ということだけは確かだった。今、その数字が現実のテープに刻まれた。

 

(この記録は、この先何十年も破られないはずだ。今夜お祝いをしている人々は、自分たちが歴史の頂点に立っていることを知らない。頂点の次は、下るしかない)

 

 事務所の電話が鳴った。モーだった。

 

「レオ。381ドルだぞ。見たか」

 

「見た」

 

「RCAは498ドルだ。明日には500を超える。俺の客は全員が買い増してる。お前の空売りポジションは、含み損が出てるぞ」

 

「出ている」

 

「それでも持つのか」

 

「持つ」

 

「……正気か。RCAが500を超えれば、お前の空売り100株の含み損は、1株あたり25ドル広がる。100株で2,500ドル。お前の証拠金を食べ始めるぞ」

 

「食われても構わない。追加証拠金は払う」

 

「レオ」

 

「モー。俺の判断に付き合ってくれ」

 

「……分かった。だが記録に残す。『モレッティは史上最高値の日に、空売りを維持した』」

 

「残してくれ」

 

 電話が切れた。

 

(381ドル。ここから、市場は下り坂を転がり始める。10月の下旬に、暗黒の木曜日が来る。その数日後に、もっとひどい一日が来る。史料で読んだ記憶と、ドキュメンタリーで見た映像が混ざっている。正確な日付や数字までは覚えていないし、記憶は変質する。だが流れだけは確かだ。もうすぐだ)

 

 

 

 

 9月末。

 

 月末の資産台帳を作成した。

 

――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1929年9月末

 

 【資産】

  現金         $30,000

  銀行預金(チェース) $70,000

  米国債        $200,000

  空売り証拠金(預託) $32,000

  音楽事業資産     $68,000

   (版権カタログ72曲、グランドピアノ2台、事務所設備等)

 

 【負債】

  なし(マージン借入は全額返済済み)

 

 【ポジション】

  株式(買い) なし(全清算)

  空売り(売り)

   RCA   100株 × 建値$475

   US Steel  50株 × 建値$240

   GM    100株 × 建値$70

  米国債 $200,000

 

 【月間収入】

  ASCAP演奏権料   $1,800/月

  レコード版権料   $800/月

  映画音楽契約料   $650/月

  楽譜売上(ブレナン流通分含む)$250/月

  ラジオ局供給料   $100/月

  演奏料       $150/月

  株式配当      なし(全清算)

  米国債利子     $500/月

  合計        $4,250/月

 

 【月間支出】

  家賃(パーク・アベニュー)$200

  食費     $50

  サル給与   $300/月

  ルー報酬   $180/月

  クリフ報酬  $160/月

  ゴールドバーグ楽譜店 $30/月

  印刷・郵送費 $40/月

  録音スタジオ費$100/月(セッション減のため減額)

  事務費・通信費$40/月

  雑費     $80/月

  合計     $1,180/月

 

 【純資産】$400,000

  (現金・預金$100,000 + 米国債$200,000

   + 空売り証拠金$32,000 + 音楽事業資産$68,000

   − 空売り含み損$12,000 + 4ヶ月分利益蓄積調整)

  前章比: ±0(清算のみ。増減なし)

――――――――――――――――――――――

 

 $400,000。増えていない。減ってもいない。5月末と同じ数字だ。

 

 株式を全て売却し、現金と米国債に変えた。空売りを入れた。含み損は$12,000。RCAとUSスチールがまだ微増しているからだ。だが、その含み損は一時的だ。もうすぐ、含み益に変わる。

 

(増えない章だ。意図的に増やさなかった。市場がピークを打つ前に、全てを現金に変えた。天井の少し手前で降りる。取り損なった利益より、逃げ遅れた損失の方がはるかに大きい。今、手元にある$400,000は、来月以降、全ての資産の中で最も価値のある数字になる)

 

(サルのRCAは全て売却済みだ。元手も利益も手元にある。暴落が来ても、サルの家族は無傷だ。モーはまだ大丈夫だ。懐中時計はまだある。パールはレコードの半分をラジオに移した。レコードが死んでも、ラジオが残る。アンジェロはマッシモのいない店で繁盛し始めている。ブレナンとの流通網は動き出した)

 

(陣営が整った。嵐が来る。だが俺たちは、嵐の中で生き残る準備ができている)

 

 帳簿を閉じた。

 

 窓の外を見た。

 

 マンハッタンの夜景。ビルの窓には灯りが点り、遠くにクライスラー・ビルの尖塔が見えた。建設中のエンパイア・ステート・ビルの骨組みが、夜空にシルエットを刻んでいる。

 

 この街は今、歴史の頂点にいる。

 

 摩天楼は高く、株価は高く、楽観は天を突いている。

 

 だがレオだけが知っている。この頂点が、終わりだということを。

 

 381ドル。あの数字は、もう更新されない。

 

 電話が鳴った。モーからだ。

 

「レオ。RCAが505ドルをつけた。史上最高値だ」

 

「分かった」

 

「パーカーがシャンパンを開けてる。『年末には二百万ドルだ』と言ってるぞ。お前の空売りポジションは含み損が最大になっているが」

 

「持つ」

 

「……そうだろうと思ったよ。おやすみ、レオ」

 

「おやすみ」

 

 電話を切った。

 

(RCA、505ドル。これが天井だ。あと2ヶ月。パーカーの帝国は消える。サルは全部降りた。無傷だ。モーの懐中時計は、まだある。パールの盤は、来年消える。だがラジオが残る。ブレナンとの流通網は、恐慌の中でこそ効く。アンジェロの店は、合法の時代まで待つ)

 

 灯りを消した。

 

 靴を脱ぎ、ベッドに横になった。

 

 天井の染みを見つめた。

 

(前世の記憶が薄れている。DTMのソフトの画面が、ぼんやりとしか思い出せない。横長のウィンドウ。色のついたブロック。あの画面を毎晩見つめていたはずなのに、もう、思い出すのに時間がかかるようになった。いずれ完全に忘れるのかもしれない。それは怖いことなのか、楽になることなのか、分からない。今、俺の手元にはグランドピアノがある。あの頃の俺には、なかったものだ)

 

 目を閉じた。

 

 頭の中で、最後のダンスの音楽が鳴り始めた。ジャズのワルツ。三拍子。ゆるやかに回る。

 

 サルも、ルーも、モーも、パーカーも、パールも、クリフも、ブレナンも。全員がまだ踊っている。レオだけが椅子に座って、空のグラスを握りしめている。

 

 やがて音楽が止まる。その瞬間を、レオだけが知っている。

 

 1929年10月。

 

 もうすぐだ。

 

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