五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く 作:生サーモン
六月のマンハッタンは、アスファルトの上に薄い水の膜が張ったように光っていた。
地下鉄の階段を昇ってくる背広の男たちが、ハンカチで額を拭う手を止めないまま、隣の男に向かって同じ話をしている。RCAが幾らまで行くか、AT&Tの配当がいくら乗るか、義兄弟の妻が二千ドルを口座に入れた話。ニューススタンドの見出しは、朝刊も夕刊も同じ字面で並んでいた。景気好調、記録的水準続く。
二十八番街から五十七丁目まで、車のクラクションの間に、必ずひとつ、株の名が挟まる。誰も曲名を口にしない。
レオは事務所の窓を細く開けて、その音を聴いていた。
外気は湿って重い。だが室内の温度は、それより一段低いように感じられた。街の楽観が厚くなるほど、胸の底の一点が、逆に冷たく硬くなっていく。ラジオが「新しい時代」と言うたびに、頭の芯の古い部分だけが——別の温度で反応する。
(そろそろ、始まる)
書棚のガラス扉に、こちらの顔がぼんやり映っていた。三十一歳の顔。前世のオフィスビルのエレベーターの、あの映り方を思い出しかけて、思い出す前に手が動いた。
机上の分厚い封筒に手を伸ばす。中身は、モーへの売却指示書だった。
■
モーの事務所は、ウォール街から二本入った通りの三階にあった。
階段の踊り場に、通風口から夏の熱気が吹き上げてくる。ドアを開けると、葉巻とインクと、机の油の匂いが、以前のままそこにあった。壁の柱時計は少しだけ進んでいる。それも以前のままだ。
モーは机の向こうで、真ん中の抽斗を開けて何かを探していた。顔を上げると、レンズの奥の目が、こちらの手にした封筒を先に見た。
チェストの上に、父親の銀の懐中時計が置かれている。針は動いている。ハンブルクから船で来た時計だった。
「レオ。何を持ってきた」
「注文書だ」
「注文書」
レオは椅子に座ってから、封筒を机の中央にすべらせた。
モーが眼鏡を外してレンズを拭き、掛け直してから、封を切った。目が、上から下へ、二度往復した。二度目のとき、瞼の下の光が、一段だけ深く沈んだ。
「AT&Tを、全部か」
「全部だ」
「安定株だ。配当も悪くない。RCAほどの派手さはないが、暴落があっても最後に残る類の銘柄だぞ」
「売る」
「USスチールもか」
「USスチールも、GEも、ワーナーも。順次、全部だ」
モーがゆっくり椅子に沈んだ。手にした葉巻の煙が、その角度で一度だけ止まって、それから机の上を斜めに流れた。
「全部。お前、正気か」
「正気だ」
「RCAだけは、残すのか」
「RCAも売る」
モーの目が、レオの目に据えられた。プライドが、その視線の底で身じろぎしたのが分かった。三十年、この街のマーケットを見てきた男の目だった。
「レオ。俺の三十年のキャリアで、お前ほどの成績を叩き出した客は、片手で足りる。それをここで、全部畳む。理由を聞いてもいいか」
言えない、と喉の奥で先に音がした。あと四ヶ月で、この床の下に敷いてある大理石ごと、この街の楽観が抜け落ちる、とは。史料で読んだ、と言えば狂人だ。ドキュメンタリーで見た、という言葉が、この時代の日本語ではまだ存在しない。
(言葉は、まだ生まれていない。だから、生まれている言葉で説明する)
「新聞の数字を、見てくれ」レオは机の上に指を置いた。「コール・ローン金利は、十二パーセントを超えた。FRBは三月に、投機抑制の警告を出した。ブローカーズ・ローンの総額は六十億ドルを超えた。去年は四十億ドルだった。……普通じゃない」
「普通じゃない、か。二十年代は、普通じゃない時代だぞ。自動車も、ラジオも、電話も、どの産業も伸びている。株価は成長の映しだ」
「映しすぎている」
モーは唇の内側を噛んだ。反論の言葉を、口の中で並べ替えているのが分かった。
二度、口を開いて、二度、閉じた。三度目に開いたとき、出てきたのは反論ではなかった。
「レオ。一つ聞く。お前は、俺を信用しているか」
「している」
「なら、俺の助言を聞け。今は売るな。せめて年末まで待て。DJIAが四百を超えてから畳んでも、遅くはない」
「モー。俺はお前を信用している。だが、市場は信用していない。全部売ってくれ。目立たないように、一ヶ月かけて、少しずつ」
モーはしばらく動かなかった。それから、机の抽斗を開けて、注文票の束を引き出した。ペンのキャップを外す音が、いつもより一拍だけ長く聞こえた。
「分かった。お前の金だ。お前が決めろ」ペン先が紙に触れる。「だが、俺の記録には残す。『一九二九年六月、モレッティは、ブローカーの助言に反して全ポジションの清算を開始した』。書いておく」
「残してくれ」
「もう一つ聞く。清算した金は、どうする」
「米国債に半分。残りは、証拠金だ」
モーの手が、途中で止まった。
「証拠金」
「空売りの」
葉巻の煙が、また一拍、止まった。
「市場が下がる方に、賭けるつもりか」
「保険だ」
「保険」
「現金で寝かせておいて、市場が上がり続ければ、機会損失になる。空売りは、下がった場合の保険だ。ポートフォリオ全体の五パーセント程度の証拠金で張る。上がっても、致命傷にはならない」
「空売りは博打だぞ、レオ。上限は、理論上、無限だ」
「小さく張るから、無限にはならない」
モーは首を振った。それから、諦めたように、ペンを走らせた。
「好きにしろ。だが俺は、反対だと記録に残す」
「残してくれ」
レオは窓の外に目を移した。ウォール街の夏。タクシーから降りてくるブローカーたちの、白いシャツの襟が、一斉に光っていた。全員が、同じ角度で明るい顔をしていた。この街の全員が、永遠を信じている顔だった。
(あと四ヶ月。あと四ヶ月で、この顔が全員、別の顔に変わる。それを知っている顔は、今、この街に、俺の顔一つだけだ)
立ち上がる前に、モーの視線を捕まえた。
「モー。もう一つ、頼む」
「何だ」
「お前自身の金も、少しだけ、現金にしておいてくれ」
モーは、眼鏡の奥で、細く笑った。
「レオ。お前は、心配性だ」
「同じ言葉だ。三月にも聞いた」
「市場は嘘をつかない」モーの手がチェストの上の懐中時計に伸びかけて、途中で止まった。「俺は、市場を信じる」
その一言で、会話が閉じた。
レオは頭を下げて、事務所を出た。廊下の突き当たりの窓に、六月の光が斜めに落ちていた。埃の粒がその光の帯の中で、ゆっくり回っていた。
■
六月の後半、ウォール街でのレオの評判は、清算の進み具合と反比例して、確実に軽くなっていった。
クライスラー・ビルのティールームで、モーの古い仲間のフィッツジェラルドと居合わせた。フィッツジェラルドは椅子に座り直す間もなく、口の端で笑って首を振った。
「モレッティ。モーから聞いたぞ。空売りまで入れたんだって?」
「入れた」
「正気か」
軽蔑と、憐れみと、噂話への好奇心が、その一語に均等に混じっていた。
「DJIAは、来月には三百八十を超える。四百も、時間の問題だ。その中で、下がる方に賭けるか」
「保険だ」
「保険。生命保険なら分かる。市場に逆張りするのは——恥ずかしいことだぞ、モレッティ。空売りは、他の投資家の敵になるということだ。お前が儲かるのは、全員が損する時だ。それが、分かっているのか」
分かっている。痛いほど分かっている。だが、それを口にすれば、次に飛んでくるのは、もう一段古い刃だ。
「アメリカの成長に賭けないということだぞ。イタリア人が、アメリカの市場に逆らう。そういう風に、見られるぞ」
カップの縁を、指先が一度だけなぞった。フィッツジェラルドは満足そうに、砂糖を二杯、自分のコーヒーに落とした。
レオは、答えなかった。飲み残していたコーヒーを、口の中で一度回してから、飲み下した。
この店では、これ以上、何も飲まないだろうことが、飲み下した瞬間に分かった。
■
六月の下旬、サルが事務所に来た。
ドアの開き方で、それは分かった。マッシモが街から消えて以来、サルのドアの開き方は、以前のような、素早い探るような動きから、片手で押し開けて肩から入ってくる開き方に変わっていた。
この日は、その肩が、以前より少しだけ張っていた。
「レオ。RCA、四百二十八ドルだ」
「聞いた」
「もう売ってもいい頃だろう。俺の分も」
レオの手が、書類の上で止まった。
「……俺の分?」
「三月に買い増した。それから、四月、五月と、少しずつ。全部で五十株だ」
サルは椅子には座らなかった。机の縁に手を置いて、そこから話した。
五十株。建値の平均は三百八十ドル。時価総額はおよそ二万一千ドル。マージンを使っている、と言った。含み益を担保に足していった、と言った。証拠金は四千二百ドル、四倍のレバレッジだ、と言った。数字の並べ方が、以前より上手くなっていた。上手くなっている、というそのこと自体が、レオの胃の底を冷やした。
(四千二百ドル。ロザリアと子供たちの、半年分の生活費だ。ベンソンハーストの家賃と、マルコとジーナの学校の月謝と、日曜のローストの肉。これが吹き飛べば、家族はもう一度、ニュージャージーの親父の農場に逃げなければならない)
レオが口を開こうとした瞬間、サルが、先に言った。
「だが、降りる」
「……何?」
「RCAから降りる。半分じゃない。全部だ」
サルは、机の縁から手を離して、椅子に腰を下ろした。
背もたれに深く体を預けた。さっきまで肩に張っていたものが、そこで、少し外れた。
「マッシモの件で、ずっと考えてたんだ。お前が、何をしてくれたか。……匿名の手紙、タレコミ、ロザリアと子供たちをニュージャージーの親父の農場に逃がしたこと。お前は俺に何も言わずに、全部やった。俺が、知らなくていいように」
「サル」
「俺は、あの時、何もできなかった。お前が俺の家族を守ってる間、俺は事務所の奥のソファで寝てただけだ。何が起きているかも、知らずに」
サルの声には、怒りも、後悔も、なかった。自分に対して、静かに帳簿を突きつけている音だった。
「お前はいつも正しかった。マッシモの時も、版権を分けた時も。……RCAの五株を最初に買った時、お前は俺に、四百三十七ドル以上のリスクは取るなと言った。俺はその約束を守ったふりをして、五十株まで増やした。上がっているからナンピンじゃない、と、自分に言い聞かせながらな」
(言葉の綾だ。下がっていないからナンピンじゃない。だが実質は同じだ。リスクは増やした。……サル自身が、それに気づいて言っている)
「お前に命を預けた男が、お前の言葉を無視して、四倍のレバレッジを掛けている。それは、筋が通らない」
レオは、しばらく黙っていた。
サルが、俺の顔を見ずに、机の一点を見て、話している。自分の中の何かの決着を、机の上に置き直しているような目だった。
(マッシモの一件が、サルの中で、何かを変えた。恩義とは違う。もっと固い、鉄の芯のようなものだ。信じると決めた男が、その相手の判断に、自分の判断で背く自分を、許せなくなった)
「サル。お前の判断は、正しい」レオは、書類の縁を指先で揃えた。「全部売れ。五十株、全部だ。四百五十ドルで、指値を入れろ」
「四百五十で」
「四百五十で。届く。夏の間に、届く」
サルは、机の一点を見たままだった。
「ロザリアには、話してあるんだろう。RCAが四百五十に届けば、ベイ・リッジの頭金ができると」
サルの目が、そこで一瞬、揺れた。
「……知ってたのか」
「お前が株を増やす理由は、一つしかない。庭付きの家だ。子供たちが走り回れる」
サルは、長く息を吐いた。息の終わりの方で、自分でも気づかないうちに、笑いのようなものが混じった。
「……全部売る。四百五十で。それでいいか」
「それでいい。四百五十で、五十株。必ず売れ」
「約束する。今度は、本物の約束だ」
サルが立ち上がった。ドアに手を掛けてから、振り返った。
「レオ。マッシモの時にやってくれたこと、俺は一生忘れない。だから、お前の言葉を、もう二度と、無視する真似はしない」
サルが出て行った。ドアが、静かに閉まった。
レオは、机に肘をついて、しばらく、その閉じたドアの木目を見ていた。
(四百五十で五十株売れば、利益は、株あたり七十で、三千五百ドル。元手を回収して、まだ余る。……サルが自分から「降りる」と言った。俺が「売れ」と命じたのではない。この順序が、この先の何十年を、決める)
(あと二ヶ月。RCAは、夏の間に必ず、四百五十を超える。史料で読んだ記憶の底には、五百台まで届いた数字がある。日付は覚えていない。四百五十で全部売れば、サルは、暴落の二ヶ月前に、完全に降りられる)
書類の縁を、もう一度、揃えた。指先の温度が、少しだけ戻っていた。
■
七月に入って、レオはパールとクリフをスタジオに呼んだ。
用件は、来月からのコロムビアの録音セッションを半分に減らし、その分をNBCの生放送枠に振り分ける、という方針の伝達だった。
スタジオの空気は、まだピアノを弾き始める前から、少し張っていた。パールがマイクの前に立ったまま、こちらを見ている。クリフはトランペットを腰の高さで持って、ピアノの脚に片肘を軽く預けていた。
「来月から、録音の本数を減らす」
パールがマイクを外して、こちらに一歩、近づいた。
「減らす? あたしの盤は、売れてる。先月の『Harlem After Hours』は、四千枚だ。南部のオーダーも増えてる」
「売れている。だからこそ、頭打ちの前に手を打つ」
「頭打ち? まだ増えてる」
「クリフ」レオはクリフを見た。「お前はどう見る」
クリフはトランペットを椅子の上に置いた。答える前に、一度、ピアノの黒鍵の並びに目を落とした。
「……パールの盤は、売れてる。一番録れてる時に、なぜ、セッションを減らす。俺には、まだ、分からん」
「ラジオの生放送枠を増やす。NBCのネットワークが、東海岸から中西部まで伸び始めた。生の方が、将来性がある」
「将来性」パールが鼻を鳴らした。
「聴いてくれ」レオはスタジオの隅のピアノに座った。「『Midnight in Harlem』。今のレコード版から弾く」
右手を鍵盤に置いた。イントロは十六小節。左手でリズムを刻み、右手の高音域で管楽器のパートを代奏する。ダイナミクスの幅を、目一杯に広く取った。最弱音は、鍵盤に触れる圧を、指の腹の重さだけまで抜く。最強音では、椅子の上で腰を軽く浮かせる。ピアニッシモとフォルテシモの差が、部屋の空気の密度の差として、そのまま出るように弾いた。
(盤に刻む音は、カッティング・マシンの針が深い溝を彫るための、振幅の大きな波形を要求する。1929年のシェラック盤の物理は、大きい波形を刻めるが、代わりに扱いが荒くなる。この十六小節は、その物理に合わせて書いた。歌はイントロの後に、余韻を切りながら入る)
弾き終えて、ペダルから足を離した。
「これが、レコード版。次、ラジオ版」
同じ曲を、弾き直した。
イントロを四小節に縮めた。歌のメロディが、その四小節の終わりから、切れ目なく始まるように、最後の小節でコードの重心を軽く上に移す。ダイナミクスの幅を、レコード版の半分以下に絞った。ピアニッシモは、抜きすぎない。フォルテシモは、突かない。音量の差が縮んだ分、和音の密度で緩急をつける。一コーラス目は二声の骨だけ。二コーラス目は四声の内声を厚く敷く。三コーラス目でテンションを一つだけ足して、色を差した。
弾き終えて、鍵盤に手を残したまま、パールとクリフを見た。
「何が違うか」
「三つ。イントロを短くした。ラジオの前のリスナーは、最初の五秒で、聴き続けるかどうかを決める。十六小節は、長すぎる。……次に、ダイナミクスを圧縮した。ラジオのスピーカーは小さい。小さすぎる音は、雑音に埋もれる。大きすぎる音は、歪む。だから音量差を最小に抑えて、その分をテクスチャーの変化で補う。最後に、伴奏を薄くして、歌を前に押し出した」
(前世のDTMなら、コンプレッサーで音量差を圧縮して、リミッターで天井を揃えて、小さいスピーカーでも潰れないように、音圧を一定の範囲に収める。この時代に、コンプレッサーはない。だが編曲で、同じ効果を近似できる。音量の差を、楽譜の上で縮める。ハードウェアがないなら、ソフトウェア——楽譜——で、やればいい)
クリフが、腕を組んだ。
「ダイナミクスを殺したら、ジャズじゃない。ピアニッシモからフォルテシモまで、その差が、音楽の呼吸だ。お前は、それを半分に縮めると言っている」
「縮めるんじゃない。移し替えるんだ。音量の差を、和音の密度の差に、移す。リスナーの耳には、どちらも、緩急として届く」
「届くかもしれん。だが、俺の耳には、違う」
「ラジオの前のリスナーは、お前の耳で聴いていない。家のスピーカーで、夕飯を食いながら、聴いている。その耳に届く編曲が、要る」
パールが、間に入った。
「……レオ。言いたいことは、分かった。でも、レコードのロイヤリティは、残る。盤は、消えない。生放送は、その場限りだ。あたし、ヴィクターと契約したばかりだよ。盤で行くって、決めた」
「録音義務の枠は、最小のところで守った」
「守ったさ。でも来月からセッションを半減するって話は、契約の外側の話だろう。あたしのツアーはどうなる。売れてる時に手を抜いたら、ヴィクターはあたしを冷遇するよ」
(ヴィクターは、来年、レース部門ごと畳む。パールの全国ツアーは、キャンセルになる。だが、それを言えない)
「パール。ビジネスの判断だ。リスクヘッジだ」
「リスクヘッジ」パールが帽子の縁を、指で軽く弾いた。「あんたの言葉は、いつも正しい。でも、あたしの声をリスクヘッジの材料にするのは、許さないよ」
クリフが、二人の間に、ゆっくり歩を進めた。
「レオ。パール。落ち着け。……レオ、お前の判断に、無条件で従えとは、俺も言わん。だがな、セッションを半減するのは、極端だ」
「クリフ。お前まで」
「俺は、音楽のためにやれ、と、七年前、お前に言った。覚えてるか」
レオの指が、鍵盤の縁で、一度だけ止まった。ハーレム、レノックス・アベニュー、エディの店。あの晩、電気録音のことを話しかけて、話しきれずに帰った夜のクリフの目が、今のクリフの目の中に、そのまま残っていた。
「覚えている」
「音楽のためにやれ。パールの声を、盤に残すことも、ラジオに乗せることも、どっちも、音楽だ。……どっちかを、殺すな」
「殺してない。レコードを、減らすだけだ。ラジオを、増やすだけだ」
「レオ」クリフが、こちらの目を見た。「お前、何かを、見てるんだろう」
レオは、鍵盤の縁を、指で押さえた。押さえたまま、答えなかった。
「言えないなら、言わなくていい。だが、パールの声を、お前の見ているものの、犠牲にするな。パールは、音楽で食う女だ。……お前と、同じだ」
部屋の空気が、そこで、一段沈んだ。
レオは、鍵盤から指を離した。
「……クリフ。一つだけ、約束する。ラジオの生放送枠を、パールのために、確保する。来年以降、パールが歌う場所を、俺が用意する。それだけは、俺が保証する」
「保証か。お前が、保証するのか」
「する」
クリフが、パールを見た。パールは、帽子の縁をもう一度、指で弾いた。長い間、黙っていた。
「……分かった。半分だけ、ラジオに回す。でもレオ、あたしのレコードを、完全に殺すなよ。ツアーは、ちゃんと、やる」
「守る」
パールが、スタジオを出て行った。ドアが閉まる音のあと、クリフは、椅子の上のトランペットを、ケースにしまわなかった。指の腹で、マウスピースの縁を、一度だけ拭った。
「レオ。お前は、何かを、見ている。……だが、言葉にしない限り、パールには、届かない」
「……分かってる」
「分かってない。お前、最近、誰のことも、分かってない」
クリフは、それだけ言うと、トランペットをケースにしまって、部屋を出た。
(分かっている。パールのレーベルは、来年、倒産する。レコード産業は、壊滅する。ピーク時の一割になる。だが、ラジオは、生き残る。NBCの生放送枠が、パールの新しい舞台になる。だから俺は、ラジオの枠を、確保している。それが、パールが歌い続ける、唯一の道だ)
(だが言えない。「来年、レコードが死ぬ」とは。言えば、狂人だ)
スタジオの窓の外で、七月の光が、ビルの谷間を斜めに落ちていた。ピアノの黒鍵の一つが、その光の帯の中で、白鍵より一段暗い色に見えた。
■
七月の中頃、ルーが事務所に来た。
ASCAP経由の四半期報告書と、コロムビアからの入金通知の束を、いつものように腕に抱えて。
いつもどおり、有能だった。数字はきちんと並んでいた。版権収入、ラジオ使用料、演奏会料、月間売上四千二百ドル。経費一千八百ドル。マッシモへの上納金の欄は、空白のまま二ヶ月続いていた。営業利益、二千四百ドル。
「先月比、十パーセントの伸び」ルーは書類を机に並べた。「音楽事業は、堅い」
「助かる」
だが、ルーの目は、数字の上ではなく、こちらの顔の上にあった。
「レオ。聞いてもいい?」
「何を」
「全ポジション、清算したって、本当?」
「本当だ」
「どうして」
「直感だ」
ルーが、書類の束を、机の縁で、軽く一度、揃えた。
「直感で、四十万ドルの判断をしたの?」
ルーの声は、責めていなかった。CFOとして、会社の財務を預かる人間として、判断の根拠を、確認しようとしている声だった。
「ルー。今の市場は」
「待って」ルーが手帳を開いた。「あなたの判断を、私は今まで信じてきた。1925年のラジオ、1926年の音楽出版、1927年のASCAP、マッシモの一件。全部、あなたの判断で、全部、うまくいった。……でも今回だけは、根拠が、私には、分からない」
「市場が、過熱している。金利が」
「それは分かる。……でも、過熱しているから、すぐに下がる、とは限らないでしょう。FRBの警告のあとも、市場は上がった。バブソン・ブレイクのあとも、市場は戻った。あなたが正しいという根拠は、どこにあるの」
レオは、答えられなかった。
(根拠は、教科書の脚注と、映像の記憶だ。十月の下旬、暗黒の木曜日。その次の月曜、その次の火曜。ダウが三百八十台の頂点から、底では四十台まで落ちる。年の記憶は、確かだ。日の記憶は、混ざる。教科書のグラフと、後年のドキュメンタリー映像が、頭の中で貼り合わせられている。だが——この時代では、この記憶を、根拠と呼べる言葉が、まだ生まれていない)
「……直感だ、ルー。俺は、何も、証明できない」
ルーが、手帳を閉じた。
「去年の秋に、私が言った言葉、覚えてる? ……秘密は、利子がつく」
「覚えている」
「あの時から、利子は、膨らみ続けてる。マッシモの時は、結果で正しかった。……でも今回は、まだ、結果が出てない」
「もうすぐ、出る」
「いつ」
「秋だ」
ルーが、レオを見た。長い、静かな一拍だった。
「……秋まで、待つわ。でもレオ、一つだけ。私がCFOとして、この会社の財務を、預かっている以上、あなたの直感だけでは、動けない。秋に何も起きなかったら、次は、私が判断する」
「構わない」
「それから」ルーは、報告書の一枚を、机の上でこちらに向けた。「レコードのセッションを減らして、ラジオを増やす方針。私も帳簿を見ていて、レコードのロイヤリティが高いのは、分かってる。ラジオに移すと、短期的には、収入が減る。半年後に、効いてくる判断でしょう。それを、今やる。相当の確信がないと、説明がつかない」
「半年後に、レコードの収入が、もっと減る」
「なぜ」
「……これも、直感だ」
ルーが、小さく、笑った。笑いの中に、苛立ちと、信頼と、諦めが、三つとも、混ざっていた。
「直感、直感。あなたの直感は、この会社の設立以来、ずっと、当たってる。それは認める。……でもね、レオ、CFOとして、一言だけ、言わせて。直感だけの会社は、社長が倒れた日に、崩れる。根拠が文書に残っていないと、次の人が、引き継げない」
「じゃあ、何を、残せばいい」
「判断の枠組みだけでも。……市場の過熱指標——コール・ローン金利、ブローカーズ・ローン総額、株価収益率の中央値——が、一定水準を超えた時に、現金比率を上げる。そういうルールとして、残してくれれば、私も、次に同じ判断が、できる」
(ルーは、CFOだ。俺が倒れた時に、この会社を続けるには、ルーが判断できるように、しておかなければならない。……直感を、ルールに翻訳する。それが、今、俺がルーにできる、最低限の誠実さだ)
「ルー。書面にする。三つの指標。閾値。……お前と一緒に、作る」
「それでいい。会社のルールとして、文書にして。私が、管理する」
「頼む」
ルーが立ち上がった。ドアのところで、一度、止まった。
「レオ。あなたの秘密が、秋に判明するのを、待ってる。……それまでは、CFOとして、この会社の数字を、守る」
ルーが、出て行った。
レオは、机の上に残された四半期報告書の一枚を、指の腹で、なぞった。数字は、正確だった。数字の余白に、ルーの細い字で、いくつかの注記があった。「先月比+10%」「マッシモ上納、二ヶ月連続ゼロ」「ラジオ収入、来月から反映」。
その余白に、レオは、自分の鉛筆で、細く書き足した。「秋に、判明」。書きながら、指の腹が、少しだけ震えているのに、気づかない振りをした。
■
七月の末、ブレナンとの協業が、正式に始まった。
場所は、ブレナンのオフィス。ティン・パン・アレーの二十八番街、古いビルの四階。九年前にレオが二十五ドルを受け取ったあの階段を、今は上がる側の足が、少しも軋まなかった。
葉巻と、印刷インクと、糊の匂い。壁に額縁で並べられた、ブレナンが三十年かけて売ったヒット曲のリスト。数えると、そこにはレオが二十二歳で売った『April Moon』の楽譜が、金色の額縁で、他のヒット曲と同じ高さに、並んでいた。額縁の下に、小さな金属のプレートがあった。ハーヴェイ・ブレナンの筆跡の彫りで、曲名と、作曲者名と、初版年だけが、刻んであった。
(あの曲は、この額縁の中で、九年間、この男の壁を飾っていた。俺には見えていなかった)
「モレッティ君。カタログを、見せてくれ」
レオは机の上に、モレッティ・ミュージックのカタログを広げた。七十二曲。ラジオ向けのスウィング、映画館向けのバラード、クリフとの共作のジャズ・チューン。ブレナンは、老眼鏡を掛け直し、一枚ずつ、めくっていった。頁をめくる指の速度は、以前より落ちていた。落ちた分だけ、丁寧になっていた。
途中で、ブレナンの手が、一枚の楽譜で止まった。『Midnight in Harlem』。クリフとの共作。
「……これは、黒人のジャズと、白人のポピュラーの、境目を、跨いでる。売れる」
「ありがとうございます」
「だが、もったいない。この曲を、東海岸のデパートの楽譜コーナーに置けば、売上は三倍だ。今の君の販路じゃ、ニューヨークと、フィラデルフィアと、ボストン、その三都市までしか届いてない。……私の流通網は、マイアミからメインまで、東海岸一帯を押さえている。バーモントの田舎の楽器屋にも、私の卸の便箋が、月に一度、届く」
「それが、ブレナンさんの強みですね」
「強みだ。三十年、かけて作った」ブレナンが楽譜を、静かに机に戻した。「モレッティ君。私はな、君が自分の看板を上げた時、本当に、惜しいと思った。あの時、もっと高く買っておけば、君の曲は、全部、私のものだった。二十五ドルではなく、百ドルでも、二百ドルでも、私は、払うべきだった」
(二十五ドル。あの金額を、あんたは今でも、口にする。俺があんたを、まだ、完全には許していないことを、あんたは、知っている。だが、過去の失敗として、今、机に置きたい。そうしなければ、この先の話が、できないからだ)
「ブレナンさん。あの二十五ドルは、もう、過去のことです」
「そう言ってくれると、助かる。……だが、私は、忘れない。あれは、私の三十年で、最大の失敗だった」
「最大の失敗」
「投資としての、失敗だ。君の曲が、これだけ売れるなら、あの時もっと高く買っておけば、私の取り分は、今の十倍になっていた。二十五ドルをケチったせいで、私は、君から曲を買う権利を、失った」
(この男は、二十五ドルを、道義の失敗ではなく、投資の失敗として、後悔している。倫理ではなく、数字だ。だが、それでいい。今、机の上に載っているのは、ビジネスの話だ)
「これからの、話をしましょう」レオは、カタログの上に、条件書を並べた。「流通手数料、十八パーセント。楽譜の売上は、週次で精査。ラジオ向けスウィングとバラードは、あなたの流通網に乗せる。ジャズの共作は、別ルートで」
「ジャズを、外すのか」
「クリフの意向です。ジャズの楽譜は、ハーレムの店と、直接取引したい。ブレナンさんの流通網には、黒人の顧客が、まだ少ない」
ブレナンは、頷いた。反論しなかった。反論しないことが、承認だった。
「……分かった。ジャズは、外す。だが、スウィングとバラードで、売上を三倍にしてみせる」
「期待しています」
握手をした。ブレナンの手は、乾いていた。三十年、楽譜と、電話と、インクに、触れてきた手だった。
握手を交わしながら、レオは、壁の額縁の並びの、一番隅の一枚を、視界の端に入れていた。『April Moon』。初版、一九二〇年。作曲、レオナルド・モレッティ。
(対等になった、と言うにはまだ早い。だが、あの額縁と、この握手が、同じ壁の下に、並んで存在している。……九年かけて、俺はやっと、この壁の中に入ってきた。ここから先は、この壁の中で、この男と、対等に、話す)
■
八月。清算が完了した。
モーの事務所で、最終的な約定報告を、受け取った。
モーは、いつものように、帳簿を広げた。今日は、葉巻に火をつけなかった。
「AT&T、USスチール、GE、ワーナー、RCA、GM、コロムビア・グラモフォン。全部、売った。売却総額、三十九万五千ドル。含み益、二十一万五千ドル。手数料と税金を引いて、手元に残ったのは、三十三万ドル」
「現金は」
「米国債に、二十万。空売りの証拠金に、三万二千。残りの現金が、十万弱。……音楽事業の資産を足して、純資産、四十万ドル」
(四十万ドル。五月末と、同じ数字だ。増えていない。株式の含み益を、現金に換えただけだ。ピークの少し手前で降りたから、最後の上昇分は、取り損なった。だが、それでいい。取り損なった利益より、逃げ遅れた損失の方が、はるかに大きい。現金と国債は、暴落の中で、無傷だ)
「モー。もう一つ、頼む」
「まだ、あるのか」
「空売りを、強化したい」
「まだ、強化するのか」
「市場が、天井に近い。保険を、厚くする。RCA、百株。USスチール、五十株。GM、百株。建値は、今の値で」
「RCAが四百七十五。USスチールが二百四十。GMが七十。……証拠金は、合計で、三万二千くらいか」
「それでいい」
モーが、注文票を書き始めた。ペン先の音だけが、部屋に残った。書き終わって、モーは、書類の余白に、こちらを見ずに、細い字で、何かを一行、書き足した。
「レオ。記録に残すぞ。『一九二九年八月、モレッティは、全ポジションを清算した上で、空売りを強化した。市場が下がる方に、本格的に賭けた』」
「残してくれ」
「二ヶ月後に、この記録が、俺の唯一の慰めになる」モーは、ペンのキャップを閉めた。「お前が正しかったと、記録が、証明してくれる」
(モー。お前の懐中時計を、質に入れる日が、来ないことを祈っている。だが、祈りだけでは足りない。せめて、お前自身のポジションの一部を、現金に、しておいてくれ)
「モー。もう一つ、頼む」
「何だ」
「お前自身の金、少しだけ、現金にしておけ。頼む」
モーが、また眼鏡を外して、レンズを拭いた。チェストの上の懐中時計は、二ヶ月前と、同じ位置にあった。銀の側面に、午後の光の帯が、一本、斜めに掛かっていた。
「……レオ。お前は、心配性だ」
「同じ言葉だ。六月にも、聞いた」
「市場は、嘘をつかない」
モーは、それきり、帳簿に目を落とした。会話は、そこで、閉じた。
レオは、事務所を出て、廊下に立った。指先が、冷えていた。柱時計の秒針の音が、廊下の突き当たりまで、規則正しく、届いていた。
■
八月の中頃、パーカーに会ったのは、アッパー・イーストサイドのクラブでの、音楽出版業界の懇親会でだった。
毎年、レオが顔を出す社交の場だった。パーカーは、投資家として、そこにいた。
会場のどこでも、株の話が聞こえた。大手出版社のハームス社の重役が、GM株で去年から三十パーセント、と自慢していた。レコード会社の幹部が、AT&Tの配当がすごい、と語っていた。音楽出版業界の懇親会で、全員が、株の話をしていた。音楽の話をしている人間は、ホールの端の、四人編成のバンドだけだった。
バンドはBGMを演奏していた。ピアノ、ベース、ドラム、クラリネット。典型的な一九二九年のダンス・ミュージック。I-IV-V-Iの進行が、繰り返される。セカンダリー・ドミナントは使わない。テンション・ノートもない。シンコペーションは最小限で、拍の頭にアクセントが来る、四角いリズム。
(音大の講義の記憶が、頭の底で、勝手にページをめくる。このダンス・ミュージックの次に来るのは、スウィングだ。リズムが裏拍に移り、テンポが上がり、ソリストの即興が、主役になる。ベニー・グッドマンの名前が、次の講義で出た。その次にはビバップが来て、和声が複雑になり、踊れない音楽になる。……この四人は、自分たちの音楽が、あと五年で、古く聴こえることを、知らない)
レオは、手にした水のグラスの縁を、指で、一度だけ、なぞった。バンドのドラマーが、次の小節の頭で、ブラシを、シンバルの縁に、軽く当てた。ホールの熱気と、その乾いた音とが、耳の中で、二重に、鳴っていた。
パーカーは、上機嫌だった。取り巻きを従えて、ホールの中央に、陣取っていた。タキシードは新調したらしく、仕立ての良さが、遠目にも分かった。靴はイタリア製の手縫い。革の色が、シャンデリアの光を受けて、鈍く光っていた。
「モレッティ! 久しぶりだな」
「パーカーさん。お元気そうで」
「元気も、元気だ。RCAが、四百九十ドルだぞ。来週には、五百を、超える。今年中に、百万ドルだ。お前はどうだ、モレッティ。まだ、音楽で、小銭を、稼いでるのか」
「ええ、まあ。……パーカーさん。一つ、お伝えしたいことがあります」
「何だ」
「ポジションを、少し、軽くした方が、いいかもしれません」
パーカーの、目が、細くなった。
「軽くする? なぜだ」
「市場が、過熱しています。コール・ローン金利は、十二パーセントを、超えている。FRBの、三月の警告声明は」
「FRBの声明?」パーカーが、鼻で笑った。「あれは、臆病者の寝言だ。経済は、成長している。企業収益は、過去最高だ。株価が上がるのは、当然だ。……モレッティ、お前は、音楽屋だろう。投資のアドバイスは、専門家に任せておけ」
「忠告です。ポジションの、二十パーセントだけでも」
「忠告か」パーカーがグラスを置いた。声が、一段、低くなった。「聞いたぞ、モレッティ。お前、全ポジション清算した上に、空売りまで入れたそうだな。モーから、聞いたよ。ウォール街は、狭い」
レオは、答えなかった。
「空売り。つまりお前は、市場が暴落すると、思っている。全員が損する方に、賭けている。それで、俺に、ポジションを減らせ、と? お前が儲かるように、か?」
「そういうことでは、ありません」
「そういうことだろう」パーカーが、一歩、近づいた。シャンパンの匂いがした。「お前は、市場の敵だ、モレッティ。空売り屋は、他人の不幸で食う、蛆虫だ。イタリア人に、投資の忠告は、要らん。……靴でも、磨いていろ」
言葉の最後の一音が、床の木目の上で、乾いた音を立てて、はねた。
シャンデリアの下で、取り巻きの一人が、笑いを噛み殺す音がした。
レオは、奥歯を、一度だけ、噛み締めた。ホールの端のバンドが、次の曲の頭を、四拍で数え始めた。ピアノがイントロを取った。I-IV-V-I。
「失礼しました。余計なことを、言いました」
背を向けた。取り巻きたちの笑いが、背中の後ろで、ワインの水面のように、揺れた。
(言うべきことは、言った。蹴ったのは、こっちじゃない。……あんたが、蹴った)
会場の出口の、大理石の柱の陰で、一度だけ、足を止めた。バンドのピアニストが、二コーラス目に入っていた。同じI-IV-V-I。同じ四拍。同じシンコペーション。この街の、この時代の、頂点の音だった。
(RCA、五百五ドル、まで届く。史料の底の方に、その数字がある。日付は、混ざっている。だが、届く。届いた次の月に、パーカーの帝国は、消える。……この音楽と、同じだ。頂点の次に、下るしかない)
柱の陰から、コートを預けたクロークへ歩いた。ダンスの拍が、背中の後ろで、まだ鳴っていた。
■
八月の末、サルが、約束を守った。
事務所のドアが、いつもの角度で、開いた。サルの肩の張り方は、六月の日と、同じだった。ただし、顔の下半分だけが、少し違った。頬の緊張が、抜けていた。
「レオ。RCAが、四百五十を、超えた。五十株、全部、売った」
レオの手が、書類の上で、止まった。
「全部、売ったか」
「ああ。建値の平均は三百八十。四百五十で五十株売ったから、利益は三千五百。マージンの借入を返して、元手も、全部、戻った。……完全に、降りたよ」
「サル。ありがとう」
「ありがとうじゃない。俺が、決めたんだ。お前の忠告を、俺が、決めて、採用した」
サルの目は、六月の日とは、違う目だった。三月にRCAを買い増した時のような、熱い輝きではない。もっと静かな、決着のあとの目だった。
「レオ。ロザリアと、話した。あいつ、全部売ることに、賛成した。ベイ・リッジの家の頭金には、まだ足りないが、元手が戻って、利益も出れば、最悪でも、またやり直しが、きくとな」
「ロザリアが、そう言ったか」
「ああ。あいつの方が、俺より、賢いかもしれん」
(ロザリア。サルの妻。マルコとジーナの母。この決断を後押ししたのは、あいつだ。サルの熱を、家族の安全に、変えた。……含み益の夢を、庭付きの家の頭金の、ちょうど手前の額に、寄せた)
サルは、立ち上がる前に、机の縁を、掌で一度、叩いた。軽い、乾いた音だった。決着のしるしのような叩き方だった。
「レオ。マッシモの時も、版権の時も、お前が、正しかった。RCAも、きっと、そうだ」
サルが、出て行った。ドアが、閉まった。
(サルは、完全に降りた。五十株、全部。マージンの借入は返済され、元手と利益が、手元に残る。十月の暴落が来ても、サルの家族は、無傷だ。……信じた結果、助かる、という道を、俺と、サルの二人で、通した)
書類の余白に、レオは、細い字で、一行だけ、書いた。「サル、完売」。書き終わって、鉛筆を、机に戻した。窓の外の光の帯が、机の上を、少しだけ、動いていた。
■
九月三日。火曜日。
ダウ・ジョーンズ工業株平均は、その日、三百八十一の値を、つけた。
三桁の後ろに、細かい端数がついていたはずだった。夕刊の見出しの活字は、その端数まで印刷していたが、レオは、端数の数字を、じっと見ないようにした。見れば、記憶と符合しているかどうかを、確かめたくなる。前世の記憶の中の数字と、この夕刊の活字の数字が、正確に一致しているかどうかを。……一致していれば、覚えていることが正しかった証拠になる。だが、一致していれば、次に来ることも、正しいことになる。それを、確かめたくは、なかった。
『ダウ平均、史上最高値を、更新。三百八十ドル台。アメリカ経済の力強さを、反映』
事務所には、レオ一人だった。ルーは早退していた。サルは、久しぶりにブルックリンに戻っていた。窓の外は、まだ明るかった。
窓の下の通りから、乾いた笑い声が、届いた。少し遅れて、シャンパンの栓が抜ける音が、二つ、続いた。レオは、夕刊の活字の上に、掌を、一度だけ、置いた。紙の温度は、事務所の空気と、同じだった。
電話が鳴った。モーだった。
「レオ。三百八十一ドルだぞ。見たか」
「見た」
「RCAは、四百九十八ドルだ。明日には、五百を超える。俺の客は、全員が、買い増している。……お前の空売りポジションは、含み損が、出ているぞ」
「出ている」
「それでも、持つのか」
「持つ」
「……正気か。RCAが五百を超えれば、お前の空売り百株の含み損は、一株あたり二十五ドル、広がる。百株で、二千五百ドル。証拠金を、食べ始めるぞ」
「食われても構わない。追加証拠金は、払う」
「レオ」
「モー。俺の判断に、付き合ってくれ」
「……分かった。だが、記録に残す。『モレッティは、史上最高値の日に、空売りを、維持した』」
「残してくれ」
電話が、切れた。
レオは、受話器を戻してから、しばらく、机の上の夕刊の活字を、見ていた。三百八十一。この数字が、この先、何十年も、破られない。誰も知らない。この街で、今夜、それを知っているのは、俺の顔一つだけだ。
(史料の底の方に、暗黒の木曜日、という言葉があった。その次の月曜、その次の火曜。ダウは、四十そこそこまで落ちた。……日付までは、覚えていない。数字も、記憶の中で、いくつかの版が、重なっている。教科書のグラフと、ドキュメンタリーの映像と、動画サイトの再生数の壁が、頭の中で、貼り合わせられている。……だが、流れだけは、確かだ。もうすぐ、来る)
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九月の末、月末の資産台帳を、机の上で組んだ。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1929年9月末
【資産】
現金 $30,000
銀行預金(チェース) $70,000
米国債 $200,000
空売り証拠金(預託) $32,000
音楽事業資産 $68,000
(版権カタログ72曲、グランドピアノ2台、事務所設備等)
【負債】
なし(マージン借入は全額返済済み)
【ポジション】
株式(買い) なし(全清算)
空売り(売り)
RCA 100株 × 建値$475
US Steel 50株 × 建値$240
GM 100株 × 建値$70
米国債 $200,000
【月間収入】
ASCAP演奏権料 $1,800/月
レコード版権料 $800/月
映画音楽契約料 $650/月
楽譜売上(ブレナン流通分含む)$250/月
ラジオ局供給料 $100/月
演奏料 $150/月
米国債利子 $500/月
合計 $4,250/月
【月間支出】$1,180/月
【純資産】$400,000
(現金・預金$100,000 + 米国債$200,000
+ 空売り証拠金$32,000 + 音楽事業資産$68,000
− 空売り含み損$12,000 + 4ヶ月分利益蓄積調整)
前章比: ±0(清算のみ。増減なし)
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四十万ドル。五月末と、同じ数字だった。増えても、減っても、いなかった。
鉛筆を、机に戻した。
窓の外は、もう暗かった。マンハッタンの夜景。ビルの窓に、無数の黄色い灯りが点り、遠くに、クライスラー・ビルの尖塔が、月光を受けていた。建設中のエンパイア・ステート・ビルの骨組みが、夜空の色より一段暗いシルエットを、街の南に刻んでいた。
(この街は、今、歴史の頂点にいる。摩天楼は、高い。株価は、高い。楽観は、天を突いている。……それを、下から支える柱の何本かが、もう、乾いた木の音を立て始めている。俺以外の耳には、まだ、届いていない)
電話が、鳴った。モーだった。
「レオ。RCAが、五百五ドルを、つけた。史上最高値だ」
「分かった」
「パーカーが、シャンパンを開けてる。『年末には、二百万ドルだ』と、言ってるぞ。……お前の空売りポジションは、含み損が、最大になっているが」
「持つ」
「……そうだろうと、思ったよ」モーが、電話の向こうで、少しだけ、笑った。それから、笑いを、途中で、収めた。「おやすみ、レオ」
「おやすみ」
電話を、切った。
灯りを、消した。
靴を脱いで、ベッドに横になった。天井の染みの位置は、変わっていなかった。
(RCA、五百五ドル。これが、天井だ。……あと、二ヶ月)
目を閉じた。
瞼の裏で、頭の底の古い部分が、勝手に、DTMのソフトの画面を、思い出そうとした。横長のウィンドウ。色のついたブロック。マウスカーソル。だが、画面の輪郭が、少し、ぼやけていた。以前は、目を閉じるだけで、はっきり、思い出せた。今夜は、輪郭の縁が、水の中に沈めた紙の縁のように、少し、滲んでいた。
(前世の記憶が、薄れている。指の腹には、まだ、鍵盤の窪みの記憶が、残っている。あの安いMIDIキーボードの、鍵の重さも。だが、画面の輪郭は、少しずつ、遠くなっている。……いずれ、忘れるのだろう。それが怖いことなのか、楽になることなのか、今の俺には、判じ切れない)
瞼の裏で、音楽が、鳴り始めた。三拍子のワルツ。ゆるやかに、回る。今夜のクラブのバンドの、四角い四拍子ではなかった。もっと、古い、翻訳調のワルツだった。
サルも、ルーも、モーも、パーカーも、パールも、クリフも、ブレナンも。全員が、まだ、踊っている。同じフロアで、同じ拍で。
その輪の外で、レオだけが、椅子に座って、空のグラスを、握りしめていた。
やがて、この音楽は、止まる。その瞬間を、知っているのは、この輪の中で、俺一人だ。
一九二九年、十月。
(——もうすぐだ)