五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第14話】暗黒の木曜日

 1929年10月。

 

 秋が来た。マンハッタンの街路樹が色づき始め、セントラル・パークの楓が赤と金に燃えている。朝晩の空気には冷たさが混じり、通りを歩く人々のコートが厚くなった。

 

 だが株式市場には、季節とは別の冷気が忍び寄っていた。

 

 10月初旬。DJIAは9月3日の史上最高値381.17ドルから、じりじりと下げ始めていた。一日に数ドル下げ、翌日に少し戻し、また下げる。波の引き際のように、砂浜の砂を少しずつ削りながら、潮が引いていく。

 

 ウォール街の空気が変わった。9月まで「600ドルは確実だ」と語っていたブローカーたちが、口数を減らしていた。ティッカーテープの数字を見つめる目に、かすかな不安が宿り始めている。だがまだ、パニックではない。「調整だ」と彼らは言った。「健全な調整だ。上がりすぎた分の修正にすぎない」

 

 調整ではない。始まりだ。

 

 レオはミッドタウンの事務所で、金融紙を広げていた。

 

「コール・ローン金利、10月に入り急上昇。一部では20パーセントに迫る」

 

 金利20パーセント。株価が上がり続けていれば気にならない。だが下がり始めた今、金利は刃物になる。含み益が溶け、金利負担だけが残り、やがてマージン・コールが来る。

 

 電話が鳴った。モーだった。

 

「レオ。今朝のDJIAを見たか」

 

「見た。325だ」

 

「先週の340から15ドル落ちた。レオ、正直に聞く。お前の空売りポジションは、まだ持っているのか」

 

「持っている」

 

「含み益が出ているな」

 

「出ている」

 

「……追加するつもりか」

 

 レオは一拍置いた。

 

「する」

 

 受話器の向こうで、モーの溜め息が聞こえた。

 

「何をどれだけだ」

 

「RCAは1,200株にしてくれ。US Steelを1,000株。GMを1,500株。それとMontgomery Wardを500株、新規で建てる」

 

「Montgomery Ward?」

 

「百貨店株だ。消費者信用が膨らんでいる。割賦購入が焦げつけば、小売は真っ先に打撃を受ける」

 

 長い沈黙。

 

「……レオ。俺はブローカーだ。顧客の注文を執行するのが仕事だ。ただ、友人として言う。空売りの追加は、市場が反転した時に壊滅的な損失を生む」

 

「分かっている」

 

「分かっているなら」

 

「モー。執行してくれ。それと、証拠金を増やす。$200,000追加で預託する。レバレッジを最大までかける」

 

「$200,000? お前、正気か。全財産の半分を空売り証拠金に突っ込むのか」

 

「正気だ。市場が下がれば、証拠金は4倍の効きを持つ」

 

「4倍だとしても、市場が上がったら$200,000が吹き飛ぶぞ。お前の純資産の半分が」

 

「上がらない」

 

「……分かった。俺の記録には『1929年10月、モレッティは全財産の半分を空売り証拠金として預託した』と残す」

 

「残してくれ」

 

 電話が切れた。

 

 市場は反転しない。レオはそれを知っている。モーは知らない。

 

 10月第2週。追加の空売り注文が執行された。

 

 レオの空売りポジションは、初期の保険から、本格的な投資に変貌していた。$200,000の追加証拠金と、4倍を超えるレバレッジ。総ポジション規模は$800,000を超えた。

 

 RCA、1,200株。建値平均$485。

 US Steel、1,000株。建値平均$248。

 GM、1,500株。建値平均$69。

 Montgomery Ward、500株。建値平均$128。

 

 証拠金として預託した額は、合計で$232,000(初期$32,000+追加$200,000)。

 

(これが、俺の全力だ。教本に書いてある未来に、全財産の半分以上を賭けた。市場が上がれば、証拠金が吹き飛び、俺の純資産は半減する。だが市場は下がる。99パーセントの確信がある。残り1パーセントは、記憶が間違っている可能性——と、もう一つ。俺がこの世界にいること自体が、教本の前提を壊している可能性だ)

 

(9年間、俺はこの世界で生き、動き、金を回してきた。教本の著者は、俺がここにいることを知らない。俺という変数は、教本のどこにも織り込まれていない。だから音楽を先にやった。コード進行は歴史が変わろうと変わらない。いい曲はどの世界でもいい曲だ。だが暴落の日付は——俺がここにいることで、ずれるかもしれなかった。DJIAが381を記録した時、ようやく確信した。教本通りの軌道を、まだ辿っていると。だから今夜、全力で賭けた)

 

(教本に書いてある未来に賭けた。完璧な計画、のはずだった。だが来週の月曜日に、計画通りにいかないことを学ぶことになる)

 

 レオはピアノの前に座った。

 

 いつものターンアラウンドを弾こうとした。Cmaj7——C、E、G、B。安定の和音。一日を閉じる儀式。

 

 右手がCmaj7を押さえようとして、3rdのEに指が届かなかった。力が入らない。指先が半音低いEbに落ちた。

 

 Cm7。C、Eb、G、Bb。

 

 メジャーセブンスが、マイナーセブンスに崩れた。明るい和音が、暗い和音に変わった。たった半音の違い。EがEbに。BがBbに。だがその半音が、和音の色を完全に反転させた。

 

(Cm7。マイナー。これが、今の俺の和音だ。Cmaj7は重すぎる。安定も、解決も、今夜の俺には遠い)

 

 ターンアラウンドを弾かなかった。Cm7を一音だけ押さえて、指を離した。解決に向かわず、不安定なまま、音が消えていった。

 

(いつから、ピアノが確認作業になった。帳簿を閉じるのと同じ儀式。弾きたいから弾くのではなく、一日を閉じるために弾く。72曲書いた。全部、ASCAPの配分を上げるための商品だ。前世と同じだ。音大を辞めた時も「ビジネスを学んでから音楽に戻る」と言った。戻らなかった)

 

 蓋を閉じた。

 

(明日。市場が動く。だがこの指で——この、Cmaj7すら弾けない指で——何を掴めるのか)

 

 

 

 

 10月21日、月曜日。

 

 DJIAが一日で$5以上下落した。出来高が急増している。

 

 10月22日、火曜日。さらに下落。DJIAは319。

 

 10月23日、水曜日。

 

 取引終了間際の最後の1時間で、市場が崩れた。引けにかけて大量の売り注文が殺到し、DJIAは305まで急落した。一日の下落幅は$16。出来高は640万株、通常の2倍以上。

 

 ティッカーテープが遅れ始めた。取引終了後も、テープは1時間半にわたって数字を刻み続けた。ブローカー事務所の電話が鳴り止まなかった。

 

 レオの事務所にも電話が来た。モーだった。

 

「レオ。明日は、荒れるぞ」

 

「分かっている」

 

「ブローカーズ・ローンが膨らんでいる。追証が払えない顧客が」モーの声が途切れた。「かなりの数になる」

 

「モー。お前の顧客は大丈夫か」

 

「大丈夫じゃない。大丈夫な奴がどれだけいるか、分からない」

 

 電話が切れた。

 

 レオは窓辺に立った。夜のマンハッタン。ウォール街の方角には、夜遅くまで明るい窓が多かった。ブローカーたちが残業しているのだ。マージン・コールの計算と、明日の準備。

 

 明日。ブラック・サーズデー。

 

 レオは前世の知識を反芻した。ティッカーテープが大きく遅延する。銀行家たちが買い支えに入り、市場は一時的に回復する。だがそれは一時しのぎで、数日のうちに、全てが崩壊する。史料で読んだのか、ドキュメンタリーで見たのか、もう曖昧だ。覚えているのは大まかな流れだけで、何時間遅れるのか、いつ崩れるのか、細部は記憶の外にある。記憶が正確だとしても、俺がこの世界で9年間やってきたことが、何も変えていない保証はどこにもない。

 

 計画は決まっている。暴落に乗じて空売りの利益を最大化する。それだけだ。

 

 だが、一つだけ、教本に書いていないことがあった。

 

 取引所が混乱した時、注文はどうなるのか。

 

 教本には「DJIAが11パーセント下落した」と書いてある。出来高も書いてある。ティッカーテープの遅延も書いてある。だが「個々の空売り注文が、全て予定通りに約定したか」は書いていない。そんなことは歴史の教本には載らない。

 

(考えても仕方がない。サルは8月に全て売った。あとは俺のポジションだけだ)

 

 

 

 

 1929年10月24日。木曜日。

 

 朝。

 

 レオは6時に目を覚ました。窓の外は薄い曇り空で、秋の冷たい光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

 

 身支度を整え、コーヒーを淹れた。いつもと同じ朝だ。だがレオの手は、かすかに震えていた。

 

 今日だ。

 

 心臓が速い。結果を知っているのに。知っているのに、心臓がこんなに速い。手のひらが汗ばんでいた。

 

(知っている。DJIAは底を打つ。一時的に回復して、月曜に本当の崩壊が来る。だが身体が知識を信じていなかった。この身体は、この時代を生身で生きてきた31歳の男のものだ。教本を読んだことのない身体にとって、今起きようとしていることは世界の終わりだ)

 

 深呼吸をした。手の震えを意志で押さえ込んだ。コーヒーを飲み干した。苦みが喉を焼いた。

 

 事務所に向かった。途中、ニューススタンドで朝刊を買った。

 

「市場に調整の動き。専門家、過度の心配は不要と」

 

 今日この見出しを書いた記者は、明日、別の見出しを書くことになる。

 

 事務所に着いた。8時半。NYSEの取引開始は10時だ。

 

 ルーが先に来ていた。

 

「おはよう、レオ。今日は株式市場が荒れそうね。昨日の下げが新聞に出てたわ」

 

「荒れるだろうな。ルー、今日は音楽の仕事に集中してくれ。コロムビアとの次のレコーディング契約の書類を確認しておいてほしい。それと、現金の回収を厳格に。売掛金を全部回収してくれ」

 

「分かったわ」

 

 ルーが仕事部屋に入った。レオは自分のデスクに座った。

 

 電話の前で、待った。

 

 9時55分。NYSEの取引開始5分前。

 

 電話が鳴った。モーだ。

 

「レオ。取引フロアに入る前に一つ言っておく。今日は、今まで経験したことのない一日になるかもしれない」

 

「何が起きている」

 

「寄り付き前の気配が異常だ。売り注文が山積みになっている。昨日の引けで追証の通知を出した顧客から、朝一番で手仕払いの注文が殺到している。寄り付きの板が、真っ赤だ」

 

 レオは計画を確認した。追加の空売り指値注文を出す。RCA 500株を$420で、US Steel 250株を$230で。暴落のピークで追加ポジションを積み、利益を最大化する。

 

「モー。追加の空売り注文を出したい。RCA 500株、指値$420。US Steel 250株、指値$230。市場が下がったところで追加する」

 

「500株か。規模がでかい。分かった。板に入れる。ただしレオ、今日の出来高は過去に例がない水準になる。注文が立て込めば、約定に時間がかかるかもしれない」

 

「分かった」

 

「もう一つ言っておく。今日は電話がいつでも繋がるとは限らない。回線がパンクする可能性がある」

 

「了解した。行ってこい、モー」

 

 電話が切れた。

 

 10時。取引開始のベルが鳴った。

 

 

 

 

 最初の30分で、底が抜けた。

 

 電話が断続的に鳴った。最初はサルからだった。

 

「レオ! ウォール街の方が大変なことになってるらしい。ラジオで」

 

「何と言ってる」

 

「『ニューヨーク証券取引所で大規模な売りが発生。株価が急落。詳細は不明』、これだけだ。レオ、大丈夫なのか」

 

「俺は大丈夫だ。お前は8月に全部売っている。心配するな」

 

「……ああ。そうだ。売っておいてよかった」

 

 サルの声に安堵が滲んでいた。

 

「サル。今日は家にいろ。ロザリアと子供たちのそばにいてやれ。市場のことは俺が見ている」

 

「分かった」

 

 電話が切れた。

 

(サルは8月に全部降りている。50株全て。450ドルで。今日の暴落に巻き込まれずに済んだ。それだけで、十分だ)

 

 10時45分。モーから。

 

 声が切羽詰まっていた。背後の怒号で、半分以上聞き取れない。

 

「レオ、聞こえるか」

 

「聞こえる。どうなっている」

 

「売りが、止まらない。マージン・コールの連鎖だ。追証を払えない客のポジションが強制決済されて、その売りがさらに株価を」

 

「俺の追加注文はどうなった。RCA 500株の指値」

 

「約定していない」

 

 心臓が跳ねた。

 

「約定していない?」

 

「$420の指値を入れたが、レオ、RCAは$420を一瞬で突き抜けた。気配値が落ちるスピードに注文処理が追いついていない。フロアのスペシャリストが売り注文を捌ききれずに、そもそも板が機能していない。注文を出しても、列に並ぶだけだ。何百という注文が滞留している」

 

「US Steelは」

 

「同じだ。$230の指値は板に入っているが、約定の確認が来ない。テープが遅れている。今のテープに印字されているのは、30分前の取引だ。実際の市場価格がいくらなのか、フロアにいる俺にすら正確には分からない」

 

 電話が途切れた。回線が落ちたのか、モーが切ったのか。

 

 レオは受話器を置いた。指先が白くなっていた。受話器を握りしめすぎていた。

 

(約定しない)

 

 教本には書いていなかった。「株価が暴落した」という一行の裏に、注文が処理しきれないという現実があった。

 

 空売りの利益は株価が下がれば膨らむ。だが追加の空売りポジションを積むには、注文が約定しなければならない。市場が混乱しすぎて注文が通らなければ、計画通りの利益は出ない。

 

 11時。ラジオから続報が流れた。

 

「ニューヨーク証券取引所。取引開始から1時間で出来高が300万株を超えた模様。ティッカーテープに深刻な遅延が発生しており、正確な株価情報が取得できない状態が続いています」

 

 テープに印字されている数字は、40分前、1時間前の取引だ。今この瞬間の株価は、フロアにいる人間にすら正確には分からない。

 

 

 

 

 11時半。モーから2度目の電話。

 

「レオ。お前の追加注文の件だが」

 

「刺さったか」

 

「RCA、500株中60株だけ約定した。$415。残り440株はまだ滞留中だ。US Steelは約定なし。スペシャリストの処理能力が完全にパンクしている」

 

(60株。500株中の60株。計画の1割だ。教本には書いていない摩擦。注文が通らないという現実)

 

「レオ、それだけじゃない。もっと悪い話がある」

 

「何だ」

 

「お前の既存ポジション、RCA 1,200株の空売り建値$485。今のテープ上のRCA価格は$400。含み益は出ている。だがテープが1時間遅れている。実際の価格がいくらか分からない。$380かもしれないし、$420に戻っているかもしれない」

 

「戻っている?」

 

「さっき、フロアの一角で妙な動きがあった。大口の買い注文が入った。ブルーチップ銘柄に、まとまった買いが入っている。出所は分からないが」

 

 レオの背筋が冷えた。

 

(銀行家プール。モルガン、ナショナル・シティ、チェース。教本で読んだ通り、彼らが買い支えに入る。だが教本の知識が、ここで裏目に出た。俺はプールの介入を知っている。だがその介入が、俺の空売りポジションに含み損を発生させることまでは、計算に入れていなかった)

 

 プールが買い支えれば、株価は一時的に上がる。上がれば空売りのポジションに含み損が生じる。1,200株なら、1ドル上がるごとに$1,200の含み損が膨らむ。10ドル戻れば$12,000。一時的だと分かっている。月曜には再び暴落する。だが一時的がどこまで続くか、教本には「一時的に回復した」としか書いていない。

 

「モー。俺のポジションには何もするな。既存の空売りは全てそのまま持つ」

 

「分かっている。レオ、もう一つ」

 

「何だ」

 

「追加注文の件。RCAの残り440株と、US Steelの250株。今からでも取り消すか。市場がこの状態では、仮に約定しても、いくらで刺さるか分からない。意図した価格とまるで違う水準で約定するリスクがある」

 

 レオは考えた。2秒。3秒。

 

「取り消してくれ。追加注文は全部取り消しだ」

 

「了解。取り消し注文を出す。ただし取り消し自体が処理されるまで時間がかかる。今のフロアの状態では」

 

 電話の向こうで誰かが怒鳴った。モーが受話器から口を離した。戻ってきた時、声が急いていた。

 

「切る。また電話する」

 

 プツ、と回線が落ちた。

 

 レオは受話器を置いた。手のひらを見た。汗で光っている。

 

(取り消し注文すら、すぐには処理されない)

 

 教本には「DJIAが11パーセント下落した」とだけ書いてある。パーセンテージ。数字。だがその数字の裏側には、電話が繋がらず、注文が通らず、テープが遅れ、何が起きているのか誰にも分からないという現実があった。

 

(前世で教本を読んでいた時、あの男は、ページをめくるだけだった。「1929年10月24日、ブラック・サーズデー。DJIAは11パーセント下落」。次のページへ。ただそれだけ。ページとページの間の、この1秒1秒を、あの男は想像したことがなかった)

 

 

 

 

 午後1時過ぎ。

 

 モーから3度目の電話があった。

 

 今度は声のトーンが違った。少しだけ、ほんの少しだけ、張が戻っていた。

 

「レオ。銀行家が動いた」

 

「聞いている。モルガンのオフィスの前に人だかりがあった」

 

「リチャード・ホイットニーが取引フロアに入ってきた。副頭取のホイットニーだ。US Steelのポストまで歩いていって、$205で1万株の買い注文を出した」

 

「現在値より高い」

 

「ああ。現在値より$10以上高い。いくらでもいいから買うという意志表示だ。モルガンの名前で。フロアの空気が変わった。一瞬で変わった」

 

「それで?」

 

「ホイットニーがUS Steelを買った後、他のポストにも同じことをやった。AT&T、GE、次々と市場価格より高い値段で大口の買い注文を出していった。追随する買いも出始めた。市場が、反転している」

 

 反転。

 

 レオの胃が絞られた。

 

「DJIAはどうなっている」

 

「さっき掲示板を見た時点で、底値から$20以上戻した。$289まで落ちたのが、$310前後まで戻っている。テープが遅延しているから正確じゃないが」

 

「RCAは」

 

「$380の底値から、$410まで戻した」

 

 $410。

 

 レオの空売りポジション。RCA 1,200株、建値$485。加えて追加で約定した60株、建値$415。

 

 RCAが$410なら、追加分の60株はかろうじて含み益だ。$415で空売りして、$410。1株$5。60株で$300。銀行家がさらに買い支えて$415を超えれば、含み損に転じる。

 

 金額としては小さい。だが問題はそこではない。

 

(計画が、ずれている)

 

 既存の1,200株は建値$485だから、$410でもまだ含み益がある。1,200株×$75で$90,000。だが追加ポジションが想定通り積めていない。500株中60株しか約定せず、しかもその60株の含み益はわずか$300。US Steelの追加は約定すらしなかった。

 

 計画では、木曜日の暴落で追加ポジションを積み、利益の土台を広げるはずだった。それができていない。

 

「モー。追加注文の取り消しは処理されたか」

 

「US Steelの250株は取り消せた。RCAの残り440株も取り消し済みだ」

 

「約定した60株はどうする」

 

「そのまま持つ。月曜に」

 

 言いかけて、止めた。月曜の暴落のことをモーに言うわけにはいかない。

 

「そのまま持つ」

 

「分かった。レオ、銀行家が入ったぞ。モルガンが動いた。市場は支えられた」

 

「支えられたのは今日だけだ」

 

「根拠は」

 

「ブローカーズ・ローンが80億ドルを超えている。プールが今日投じた額は、その何分の一だ」

 

 受話器の向こうで、モーが息を吐いた。

 

「……理屈は分かる。だが今日は銀行家の力を信じたい。市場は結局、信用で動く。モルガンの名前は、まだ通貨より強い」

 

(1907年の恐慌では、モルガン一人が信用で市場を救った。だが今は、一人の銀行家の名前で支えられる規模を、市場が超えてしまっている。それはモーに言わなかった。モーはまだ、モルガンの名前を信じたいのだ)

 

「モー。お前はホッとしているか」

 

「ホッとしている。正直に言えば、今日は30年のキャリアで最悪の日だった。顧客からの電話が鳴り止まなかった。マージン・コールの通知を何十通出したか分からない。強制決済した口座が、数えたくない」

 

「週末にポジションを軽くしておけ。月曜は荒れる」

 

「……分かった。土曜に減らせるだけ減らす」

 

 電話が切れた。

 

 夕方。取引終了後の数字が出た。

 

 DJIA引け値:299.47ドル。朝方の底値$289から回復したものの、前日比で約$6の下落。出来高は1,290万株、NYSEの史上最高記録。

 

 ティッカーテープが全ての取引を印字し終えたのは、取引終了から4時間後の午後7時8分だった。

 

 テープの前で数字を見ていた人々は、4時間前の幽霊を見ていたことになる。自分の資産がいくら残っているか分からない。恐怖の本質は、未知だ。

 

 

 

 

 夜。事務所に残って、一日の結果を整理した。

 

 レオは机の上にノートを広げ、引け値ベースで空売りポジションの損益を計算した。

 

 【既存ポジション】

 RCA $400(建値$485):含み益 1,200株×$85 = $102,000

 US Steel $193(建値$248):含み益 1,000株×$55 = $55,000

 GM $55(建値$69):含み益 1,500株×$14 = $21,000

 Montgomery Ward $85(建値$128):含み益 500株×$43 = $21,500

 

 【追加ポジション(約定分のみ)】

 RCA $400(建値$415):含み益 60株×$15 = $900

 

 空売り含み益合計:$200,400。

 

 追加の空売り注文がすべて約定していれば、含み益はさらに$19,000以上積み増せたはずだった。RCA 500株とUS Steel 250株。

 

 だが約定したのはRCA 60株だけだった。750株中の60株。追加注文の9割が、市場の混乱に呑まれた。

 

 $200,400。悪い数字ではない。だが計画通りではなかった。

 

 ペンを置いた。窓の外を見た。

 

(教本は、結果だけを教えてくれる。過程を教えてはくれない。「DJIAが11パーセント下落した」。その一行の中に、注文が通らない焦り、テープが遅れる不安、銀行家の介入で含み損が発生する恐怖、その全てが凝縮されていた。歴史は結果の集積だ。だが結果の間にある無数の瞬間は、教本のどこにも記録されない)

 

 

 

 

 10月25日、金曜日。

 

 市場は小幅に反発した。DJIA 301。銀行家プールの買い支え効果が残っている。

 

 新聞は楽観的だった。

 

「最悪は過ぎた。銀行家の介入で市場は安定」

「大統領も声明:『アメリカの基礎的経済は健全』」

 

 この言葉は後世で最も有名な外れた予言になる。だが今日の時点では、人々はこの言葉を信じたがっている。「最悪は過ぎた」。そう信じることで、自分を保とうとしている。

 

 RCAが$395まで戻した。空売りの含み益がさらに目減りしている。

 

 追加分の60株は、$415で空売りして$395、1株あたり$20の含み益。だが風向きが変われば一瞬で消える薄さだ。

 

(一時的だ。月曜に全て崩壊する。分かっている)

 

(分かっている。頭では分かっている。だが胃の奥が軋んでいる。銀行家プールの買い支えが想定以上に効果を持ち、月曜日までに市場が$340近辺まで回復したら、既存ポジションの含み益すら大幅に縮小する。教本には「回復は一時的だった」と書いてある。だが「一時的」が金曜の段階でどこまで続くかは、記述がない)

 

 電話が鳴った。サルからだ。

 

「レオ」

 

「サル。どうしてる」

 

「助かった。お前の言う通りにして、助かった。8月に全部売っておいて、本当に良かった。RCAは今日、$395まで戻したらしいが、もし50株持ったままだったら……考えただけでぞっとする」

 

「サル。お前が決めたんだ。俺の忠告を聞いて、自分で売ると決めた」

 

「そうだ。俺が決めた。だが、お前が『全部売れ』と言わなかったら、俺は今日まで持っていた。50株抱えたまま今日を迎えていた。そうしたら、全額飛んでいたかもしれない」

 

(「知っていたのか」とは聞かない。サルは「ありがとう」とだけ言う。信頼が、通じた。マッシモの時、版権の時、そして今回はRCA。信頼が裏切られなかった。それが、サルを救った)

 

「サル。家族と過ごせ。ロザリアと子供たちと。市場のことは、俺が見ている」

 

「ああ。ロザリアが、今夜はパスタを茹でるってさ。お前も来いよ、ベンソンハーストまで」

 

「……考えとく」

 

「考えとく、はお前の場合『行かない』だ。今夜くらい来いよ。ロザリアが」

 

「分かった。行く」

 

 電話を切った。

 

(サルは「知っていたのか」とは聞かなかった。8月に全部売った。暴落の二ヶ月前に。それが偶然でないことに、サルは気づいているかもしれない。だが聞かない。信じたから助かった。それが、サルの仲間としての在り方だ)

 

 

 

 

 10月26日、土曜日。

 

 NYSEは土曜日も午前中だけ取引がある。市場はほぼ横ばい。出来高は通常レベルに戻りつつあった。

 

 レオは事務所で、ルーと音楽事業の打ち合わせをしていた。

 

「コロムビアとの契約更新、サインしておいたわ。来年分のレコーディング枠は確保してある」

 

「ありがとう。ルー、来月から現金の管理を厳格に。売掛金の回収を早めてくれ。楽譜の印刷も最小ロットにする」

 

「何かあるの?」

 

「景気が悪くなるかもしれない。備えておくに越したことはない」

 

 ルーはレオの顔をじっと見た。

 

「あなた、木曜日のことが気になっているのね。でも新聞は『最悪は過ぎた』と書いているわ」

 

「新聞は当てにならない」

 

「……分かったわ。現金管理、厳格にする」

 

 ルーが書類を片付け始めた。レオはクリフに電話をかけた。

 

「クリフ。クリフのクインテットの来月の録音セッション、ヴィクターにキャンセルを打診してくれ」

 

「キャンセル? パールの専属契約の義務枠だぞ。勝手にキャンセルしたら違約金が」

 

「違約金は払う。それより今のうちにキャンセルしておかないと、後でヴィクターからキャンセルされる」

 

「何だよ、意味が分からない」

 

「クリフ。木曜日の市場を見ただろう。月曜も荒れる。レコード会社は真っ先に経費を削る。外部への発注を止める。パールの次のセッションも、来月にはキャンセルされるかもしれない。こちらから先に動いた方が、条件を整理できる」

 

 クリフが沈黙した。トランペットを置く音が受話器越しに聞こえた。

 

「……レオ。お前、レコードの売上が下がると本気で思ってるのか」

 

「思ってる」

 

「根拠は」

 

「木曜に株で損をした連中が、来月もレコードを買うと思うか。盤は腹を満たさない。真っ先に消える出費だ」

 

 クリフが黙った。

 

「クリフ。パールのラジオ枠は、NBCと来年の契約を結んである。レコードがダメでもラジオが残る。パールの声を、ラジオに移す準備をしておいてくれ」

 

「レコードがダメでも、ラジオが残る、か。去年、お前がレコードセッションを減らしてラジオに振った時、パールは怒っていた。俺も半分疑っていた。だが今になって思うと、お前は最初からこうなることを知っていたんじゃないか」

 

「……知っていたら、もっと早くパールを説得していた」

 

「だろうな。お前は自分の知ってることを全部言わない。だからパールは怒る。だが結果が出ると、お前が正しかったことになる。それが、今の俺たちの関係だ」

 

「クリフ」

 

「分かった。ヴィクターにキャンセルを打診する。違約金はかかるが、レコード会社が勝手にキャンセルするよりは、条件を整理できる。パールには俺から説明する」

 

「頼む」

 

「レオ。一つ聞いていいか」

 

「何だ」

 

「パールの次のアルバムのレパートリー、お前が書いた曲が3曲入るはずだった。それもキャンセルか」

 

「キャンセルだ。だが、その3曲はラジオで使う。生放送のレパートリーに回す。パールの声を盤に乗せる代わりに、電波に乗せる」

 

「電波に、か。レコードより儲からないぞ」

 

「長くは稼げる」

 

 クリフが笑った。乾いた笑いだった。

 

「長く稼げる、か。お前はいつも長く考える。俺はジャズのリズムで生きてるから、来週のことしか考えない。パーカーみたいに、来年のことしか考えない奴もいる。お前だけが、10年先を見ている」

 

(10年先。1929年から10年。1939年。世界は別の形になっている。だが俺のカタログは残っている。ASCAPの分配金は残っている。ラジオは残っている。危機の後に残るものを、俺は持っている)

 

「クリフ。来月の録音はキャンセル。ラジオ枠を厚くする。パールにはそう伝えてくれ」

 

「分かった」

 

 

 

 

 レオはもう一つ、電話をかけた。ブレナンへ。

 

「ブレナンさん。モレッティです」

 

「モレッティ君。状況は見ているかね」

 

「見ています」

 

「私の楽譜の売上が、木曜日から二日で半減した。デパートの楽譜コーナーに客が来ない。人々が株で損をすると、楽譜なんて買わなくなる。恐慌の最初の被害者は、俺たちのような、買い換え可能な商品を売る連中だ」

 

「ブレナンさん。月曜の朝、楽譜の在庫を確認してください。デパートに置いてある委託在庫も含めて。月曜の市場が荒れたら、デパートがキャンセルを出してくる可能性があります。返品されてもいいように、在庫を圧縮してください」

 

「……モレッティ君。君は、月曜も荒れると思ってるのか」

 

「ええ」

 

「根拠は」

 

「追証の通知が金曜に出ています。週末を挟んで、払えない客が大量に出る。月曜の寄り付きは強制決済の売りが殺到します」

 

 ブレナンが沈黙した。長い沈黙だった。

 

「……君の読みは、当たることが多い。分かった。月曜の朝一番で在庫を確認する。デパートにも連絡を入れておく」

 

「ありがとうございます」

 

「いや、ありがとうは俺が言う方だ。君が協業を持ちかけてくれたおかげで、俺の楽譜事業も、東海岸の販路を広げられた。だがそれ以上に、君の読みを事前に聞けたことが、今から思えば助けになる」

 

 電話を切った。

 

(ブレナンは「ありがとう」と言った。25ドルで俺の曲を買い叩いた男が、俺に「ありがとう」と言った。皮肉なものだ。だが、その「ありがとう」は、まだ完全な信頼ではない。ビジネス上の礼儀だ。ブレナンが本当に俺を認めるのは、来週以降だ。月曜と火曜の暴落の後に)

 

 

 

 

 10月27日、日曜日。

 

 レオは一日中、アパートにいた。

 

 ピアノを弾いた。新しい曲ではない。既存の曲を、ただ弾いた。クリフとの共作。ラジオ向けのスイング。映画用のバラード。指が勝手に動いた。

 

 午後、窓辺に座って空を見上げた。秋の空は高く、雲が薄く流れていた。

 

 明日、市場は大きく崩れる。1割を超える下落だったはずだ。明後日はさらにひどい。銀行家プールは今度は動けない。正確な数字には自信がない。記憶は変質する。だが流れだけは確かだ。

 

 モーはどうなる。サルは助かった。パーカーは。名も知らない無数の人々は。

 

 モーはまだ大丈夫だ。レオが3月から何度も勧めていた現金化分がある。土曜に少しポジションを減らしたはずだが、半日では限界がある。まだ重いポジションを抱えているだろう。懐中時計は、まだあるか。

 

 煙草に火をつけた。煙を天井に向かって吐いた。

 

 手が、震えていた。

 

 明日の市場が怖いのではない。明日の市場の結果は知っている。怖いのは、来週の火曜日だ。火曜日のパニックの中で、モーの声を聞くことだ。モーの父親の懐中時計が、まだチェストの上にあるかどうかを、確認することだ。

 

(前世の深夜のオフィスは、静かだった。パソコンのファンの音だけが聞こえた。数字と効率だけを追い求めて、心すり減らしていた日があった。あのオフィスで暮らすように働いていた男は、友人が資産を失い、時計を質に渡す前夜の重さを知らなかった)

 

 煙草を消した。

 

 ベッドに入った。眠れるとは思わなかった。眠れた。身体が、戦いの前の休息を求めていた。

 

 

 

 

 10月28日。月曜日。

 

 朝7時。目を覚ました瞬間、身体が重かった。

 

 今日だ。

 

 事務所に向かった。途中のニューススタンドで朝刊を買った。

 

「市場の安定回復へ。銀行家の支援体制は盤石」

 

 レオは新聞を畳んだ。

 

 9時45分。モーから電話。

 

「レオ。寄り付きの板を見た。木曜日と同じだ。いや、もっとひどい」

 

「何が見える」

 

「週末の間に、追証を用意できなかった顧客の強制決済注文が山積みになっている。銀行家プールの買い支えが、木曜日ほどの効果を持つかどうか」

 

「持たない」

 

 モーは反論しなかった。

 

「木曜日に市場を支えた銀行家プールの資金は、今すでに含み損を抱えている。追加の買い支えは、コスト的に不可能だ」

 

「……ああ。土曜に少し減らしたが、半日じゃ大して捌けなかった。レオ、今日は長い一日になるぞ」

 

 10時。取引開始のベルが鳴った。

 

 そしてこの日、銀行家プールは動かなかった。

 

 

 

 

 午前中の時点で、市場は制御不能に陥った。

 

 レオは事務所にいた。ラジオとモーからの断続的な電話が、唯一の情報源だった。

 

 11時。モーから。

 

「DJIA 280を割った。US Steel $200を下回った」モーの声は乾いていた。感情を絞り出す余裕すらないという声だった。「レオ、取引フロアは木曜日の比じゃない。木曜日はまだ怒号があった。声が出ていた。今日は静かだ。悲鳴すら出ない。みんなただ画面を見つめている」

 

 正午。ラジオ速報。

 

「ニューヨーク証券取引所。午前中の出来高が600万株を超えた模様。ティッカーテープの遅延は拡大中。株価は全面安。銀行家グループは現時点で買い支えの声明を発表していません」

 

 午後1時。モーから。

 

「DJIA 270。いや、これは30分前の数字だ。テープが追いつかない。実際はもっと下がっている。RCAは$340を切った」

 

 午後3時。取引終了のベル。

 

 だがティッカーテープは、まだ午後1時頃の取引を印字していた。

 

 最終的な数字が出揃ったのは、午後5時半だった。

 

 DJIA引け値:260.64ドル。

 

 前日比マイナス38.33ドル。下落率12.8パーセント。出来高は約925万株。

 

 12.8パーセント。一日で。

 

 レオは空売りポジションの含み益を計算した。

 

 【既存ポジション】

 RCA $320(建値$485):含み益 1,200株×$165 = $198,000

 US Steel $185(建値$248):含み益 1,000株×$63 = $63,000

 GM $52(建値$69):含み益 1,500株×$17 = $25,500

 Montgomery Ward $80(建値$128):含み益 500株×$48 = $24,000

 

 【追加ポジション】

 RCA $320(建値$415):含み益 60株×$95 = $5,700

 

 空売り含み益合計:$316,200。

 

 まだ確定利益ではない。明日、市場がさらに下がれば、含み益はさらに膨らむ。

 

(明日、火曜日。ブラック・チューズデー。教本が呼ぶ日が、来る)

 

 電話が鳴った。夜の10時。モーだった。

 

「レオ。起きているか」

 

「起きている」

 

「今日の最終集計が出た。俺の顧客の3分の1が、マージン・コールに応じられなかった。明日の寄り付きで強制決済する。全員だ」

 

「3分の1」

 

「3分の1だ。31人のうち10人。退職金を全額入れていた老人。結婚資金を株に変えた若い男。俺が『買い増せ』と勧めた客も、いる」

 

 モーの声が、初めて、揺れた。

 

「モー」

 

「俺は間違えていたのか。市場は上がると言った。RCAは600に届くと」

 

「モー。今は考えるな。明日のことを考えろ」

 

「明日。そうだ、明日がある。明日は市場が反発するかもしれない。銀行家が」

 

「モー」

 

 レオは言いかけて、止めた。

 

(言えない。言えば今夜、モーが眠れなくなる。そしてモーに言っても何も変わらない。明日の暴落は同じように起きる。俺にできるのは、モーの声を聞くことだけだ)

 

「モー。今夜は寝ろ。明日は、明日考えればいい」

 

「……ああ。そうする」

 

「お前の懐中時計は、まだ持っているか」

 

 唐突な質問だった。モーが戸惑った。

 

「懐中時計? ああ、親父の時計か。持ってるよ。チェストの上に置いてある。なぜ聞く」

 

「何でもない。おやすみ、モー」

 

「おやすみ。レオ」

 

 電話を切った。

 

(モーの懐中時計は、まだある。だが明日の暴落の後、どうなるか。モーは土曜に少しポジションを減らしたと言っていた。だが半日では限界がある。俺が勧めた現金化分と合わせても、痛手は免れない。足りない分を補うために、あの時計を質に入れるかもしれない)

 

 レオは帳簿を閉じた。

 

 

 

 

 暫定的な資産台帳を計算した。

 

 現金・米国債:$330,000

 空売り含み益:$316,200

 音楽事業資産:$68,000

 

 暫定純資産:約$714,200。

 

(火曜日に空売りが最大限効けば、含み益は$500,000を超える。火曜日の引けで空売りの半分を買い戻し、残りを数週間かけて決済する。その後に、底値で優良株を拾う)

 

($1,200,000に届く。恐慌を乗り越えるには十分だ)

 

 窓の外を見た。

 

 マンハッタンの夜景。ビルの窓にはまだ灯りが点いている。ウォール街の方角には異様に多くの窓が明るかった。ブローカーたち。銀行員たち。弁護士たち。全員が、明日のために働いている。

 

 ティッカーテープが全ての取引を印字し終えたのは、ついさっきだ。午後3時に終わった取引の最後の一行が、午後10時過ぎにテープに刻まれた。7時間の遅延。

 

 テープが遅延する市場で、教本の知識はどこまで通用するのか。

 

 木曜日に学んだ。「DJIAが11パーセント下落する」という知識があっても、自分の注文が約定するかどうかは別の問題だ。市場の混乱は、知識の外側で起きる。未来を知っていても、操作はできない。

 

($1,200,000まで、あと50万ドル弱。火曜日に全てが決まる)

 

 灯りを消した。

 

 暗闇の中で、天井を見つめた。

 

 明日。1929年10月29日。火曜日。

 

 教本が「暗黒の火曜日」と呼ぶ日が、来る。

 

 レオは知っている。だがもう「全て知っている」とは思わない。

 

 木曜日に学んだ。注文は通らないことがある。テープは遅れる。銀行家の介入で含み損が生まれる。教本には載っていない変数が、いくつも存在する。

 

 明日もまた、計画通りにはいかないかもしれない。

 

 だが計画を持たないよりは、ましだ。

 

 目を閉じた。

 

 サルの声が耳に残っていた。「8月に全部売っておいて、本当に良かった」。

 

 サルは助かった。それだけでも、今夜は眠れる。

 

 やがて意識が沈み、暗闇が深くなった。

 

 明日、歴史が動く。

 

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