五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第14話】暗黒の木曜日

 十月に入って、通りの色が変わった。

 マンハッタンの街路樹の葉が金と赤に灼け、朝の空気には冬の骨組みが混じり始めた。歩道の男たちのコートが厚くなり、女たちは首元にウールを巻いた。ミッドタウンの事務所の窓を開けると、コンクリートの隙間から石炭の煤が上がってきて、レオの鼻の奥をざらつかせた。

 だが金融紙の紙面には、季節とは別の冷気が流れていた。

 九月三日の史上最高値から、DJIAはじりじりと削られている。一日で数ドル下げ、翌日にほんの少し戻し、また下げる。海岸の砂が波の縁で少しずつ持って行かれる、あの引き際に似た速度だった。ウォール街の朝の挨拶が、九月までとは違う。「六百は堅い」と言っていたブローカーたちが、口数を減らしていた。ティッカーテープの数字を睨む肩に、彼らが自覚しないほど微細な角度で、力が入っていた。

 金融紙の一面の下段に、小さな囲みがあった。「コール・ローン金利、10月に入り急上昇。一部20%に迫る」。

 

 

(金利が二割まで来た。株価が上がり続けていれば誰も気にしない数字だ。だが今、下げに転じている)

 

 

 レオは記事の下に鉛筆で線を引いた。二割の金利は、含み益を溶かす刃物になる。まず利息が食い、次にマージン・コールが来て、最後に強制決済でポジションが吹き飛ぶ。金曜日から日曜日にかけて、この刃物は静かに研がれる。

 電話が鳴った。ベークライトの黒い受話器を耳に当てると、モーの声が入ってきた。呼吸の間に、事務所の電話がもう一本鳴っている音が重なっていた。

 

「レオ。今朝のDJIAを見たか」

 

「見た。三二五だ」

 

「先週の三四〇から、十五ドル落ちた」少し間があった。「レオ。正直に聞く。お前の空売りポジションは、まだ持っているのか」

 

「持っている」

 

「含み益が出ているな」

 

「出ている」

 

 受話器の向こうで、モーが息を継いだ。背後の電話の呼び出し音が、二回、三回と重なっていった。

 

「……追加するつもりか」

 

 レオはコーヒーカップの取っ手に指を絡めた。カップの縁に、砂糖の粒がひとつだけ残っていた。指の腹で潰した。

 

「する」

 

 沈黙。事務所の電話は鳴り続けている。

 

「何を、どれだけだ」

 

「RCAを一二〇〇株にしてくれ。US Steelを一〇〇〇株。GMを一五〇〇株。それとMontgomery Wardを五〇〇株、新規で建てる」

 

「Montgomery Ward?」

 

「百貨店株だ。消費者信用の残高が膨らんでいる。割賦購入の焦げつきが始まれば、小売から真っ先に穴が開く」

 

 長い沈黙が挟まった。モーが自分の顎に手をやったのが、受話器越しの布擦れの音で分かった。

 

「……レオ。俺はブローカーだ。顧客の注文を執行するのが仕事だ。ただ、友人としては言う。この規模の空売り追加は、市場が反転した瞬間に、お前の帝国の柱を折る」

 

「分かっている」

 

「分かっているなら」

 

「モー。執行してくれ。証拠金を上乗せする。二十万ドル追加で預ける。レバレッジは、あんたが引ける最大まで引いてくれ」

 

「二十万」モーの声が半拍だけ止まった。「純資産の半分だぞ。正気か」

 

「正気だ。下がれば、証拠金は四倍の効きで働く」

 

「四倍だとしても、逆に振れたら二十万が一晩で消える」

 

「上がらない」

 

 受話器の向こうで、モーが灰皿に葉巻を置く乾いた音がした。

 

「……分かった。俺の記録には、こう残す。『一九二九年十月、モレッティは全財産の半分を空売り証拠金として預託した』」

 

「残してくれ」

 

 電話が切れた。

 レオは受話器を戻し、机の万年筆を取った。金融紙の余白に、追加建て玉の内訳を書きつけた。手が乾いていた。指の関節の内側に、湿り気が一枚ある感覚だけがあった。

 

 

(モーは知らない。市場が反転しないことを、俺だけが知っている。だから俺が乗せた分の証拠金は、モーの顧客の証拠金と同じ天秤には乗らない)

 

 

 鉛筆を置いて、椅子の背に腰を預けた。窓の外で、七番街のトラックが荷台の板を鳴らして通り過ぎた。板の音は一定で、それが妙に、聞き慣れない拍で聞こえた。

 

 

 

 

 十月の第二週。追加の空売り注文が段階的に執行された。

 建て玉は、九月までの「保険」から、一枚の絵になった。

 

 RCA、一二〇〇株、建値平均四八五ドル。

 US Steel、一〇〇〇株、建値平均二四八ドル。

 GM、一五〇〇株、建値平均六九ドル。

 Montgomery Ward、五〇〇株、建値平均一二八ドル。

 

 証拠金として預けた額は、初期の三万二千に、二十万を上乗せして、二十三万二千。総建て玉規模は八十万ドルを超えた。

 

 

(教本に書いてある未来に、全財産の半分以上を賭けた。九年前に、俺という変数がこの世界に落ちてきた。九年間、俺は動いた。曲を書き、金を回し、マッシモを蹴った。教本の著者は、俺という一行が挟まったことを知らない)

 

 

(音楽を先にやったのは、そのためだ。コード進行は歴史が変わっても変わらない。いい曲は、どこの世界でもいい曲だ。だが暴落の日付は、俺がここにいるだけでずれるかもしれなかった。DJIAが九月に三八〇台の高値を刻んだ日、ようやく確信が持てた。教本と同じ軌道を、この世界も辿っている)

 

 

 証拠金の預託を終えた夜、レオはピアノの前に座った。日を閉じる儀式。Cmaj7を鳴らそうと右手を鍵盤に置いた。C、E、G、B。安定の四つの音。

 三度のEに、指が届かなかった。

 中指が半音だけ落ちて、Eフラットを踏んだ。上のBも、指が滑って、Bフラットに滑り込んだ。

 Cm7。マイナー・セブンス。明るいはずの和音が、色をひっくり返して手元で鳴った。

 半音の差だった。二本の指が、それぞれ半音低い場所に落ちただけで、部屋の空気の温度が半度、下がった気がした。

 レオはターンアラウンドを続けなかった。人差し指を鍵盤から離した。解決に向かわず、宙に浮いたまま、音が消えた。

 

 

(弾きたいから弾くのではない。閉じるために弾いている。前世の音大を辞めた夜も、これと同じだった。「ビジネスを覚えてから戻る」と言った。戻らなかった)

 

 

 鍵盤の蓋を下ろした。

 板の合わせ目に、僅かな軋みがあった。

 

 

 

 

 十月二十一日、月曜日。DJIAが一日で五ドル以上下げた。出来高が跳ねた。

 十月二十二日、火曜日。さらに下げて、三一九。

 十月二十三日、水曜日。取引終了間際の一時間で、板が崩れた。引けにかけて売り注文が殺到し、三〇五まで落ちた。下げ幅は十六ドル。出来高は六四〇万株。通常の二倍以上。

 ティッカーテープが遅れ始めた。取引終了後も、テープは一時間半にわたって数字を刻み続けた。ブローカー事務所の電話は鳴り止まなかった。

 夜、レオの事務所にもモーから電話が入った。

 

「レオ。明日は、荒れるぞ」

 

「分かっている」

 

「ブローカーズ・ローンが膨らみすぎている。追証が払えない顧客が、かなりの数出る」

 

「モー。お前の顧客は」

 

「大丈夫じゃない。大丈夫な奴が何割いるか、俺にはもう分からない」

 

 電話が切れた。

 レオは窓辺に立った。ウォール街の方角には、遅い時間に灯る窓が多かった。ブローカーたちが残っている。マージン・コールの通知を書き、明日の売買の準備をしている。

 

 

(明日、木曜日。教本が呼ぶ日だ。ティッカーテープが遅れる。銀行家プールが買い支えに入り、市場は一時的に戻る。だが週の頭に、また崩れる。年は覚えている。月まで覚えている。日付までは——十月の下旬、木曜、それだけだ。細部は記憶の外にある)

 

 

(教本に書いていないことが一つだけある。取引所が混乱した時、注文はどうなるか。「DJIAが十一パーセント下落した」と書いてあるだけで、その裏で一件の空売り注文が板のどこに沈んだかは、歴史のどの脚注にも載らない)

 

 

 窓を閉めた。ラジエーターが金属を打つ音を立てて、蒸気を吐いた。

 レオは机に戻り、明日の想定を紙に並べた。数字ではなく、行動の順番だった。追加の空売り指値。取り消しのタイミング。既存ポジションの維持。回線が落ちた時の予備手順。書き終えて、鉛筆を横に置いた。

 

 

(サルは八月に降りている。全部売った。四五〇ドルで。今夜、それだけが、この暗い部屋の中で一つだけ確かなことだ)

 

 

 

 

 一九二九年十月二十四日、木曜日。

 六時に目が覚めた。窓のカーテンの隙間から、薄い曇り空の光が差していた。秋の光は、部屋の壁紙の色を少しだけ剥がしたように見せた。

 顔を洗い、シャツを替えた。コーヒーを淹れる指が、微かに震えていた。

 結果は知っている。知っているのに、心臓の音が耳の裏で鳴っていた。手のひらの皮膚の下に、血が濃く集まっている感覚があった。

 

 

(この身体は、三十一歳のイタリア系青年のものだ。教本を読んだことがない。今日起きようとしていることは、この身体にとって、世界の終わりだ)

 

 

 深呼吸をひとつ。コーヒーを飲み干した。喉を落ちる熱に、酸味が引っかかった。

 事務所へ向かう途中、ニューススタンドで朝刊を買った。少年に二セントを渡すと、新聞の束の上のを引き抜いて渡してきた。一面の見出しに目を落とす。

 

「市場に調整の動き。専門家、過度の心配は不要と」

 

 この見出しを書いた記者は、明日、別の見出しを書くことになる。折り畳んで、コートの内ポケットに入れた。

 事務所には八時半に着いた。ルーが先に来て、机の書類を並べていた。

 

「おはよう、レオ。株、荒れそうね。昨日の下げが新聞に出てたわ」

 

「荒れるだろう。ルー、今日は音楽の仕事に集中してくれ。コロムビアとの次のレコーディング契約の書類を確認しておいてほしい。それと、売掛金の回収を厳格に。全部、月内で締めろ」

 

「……分かったわ」

 

 ルーはそれ以上聞かなかった。書類の束を抱えて、隣の部屋へ入っていった。扉が閉まる前に、レオの背中を一度だけ振り返ったのが、硝子越しに映った。

 レオは自分のデスクに着き、電話の前に手を置いた。九時五十五分。取引開始の五分前だった。

 電話が鳴った。モーだった。

 

「レオ。取引フロアに入る前に、一つだけ言っておく。今日は、今まで経験したことのない一日になるかもしれない」

 

「何が起きている」

 

「寄り付き前の気配が、異常だ。売り注文が板に山積みだ。昨日の引けで追証を通知した客から、朝一番で手仕舞いの注文が殺到している。板が真っ赤だ」

 

 レオは想定していた追加注文を口にした。

 

「モー。追加の空売り指値を入れたい。RCA五〇〇株、指値四二〇。US Steel二五〇株、指値二三〇。下がったところで積みたい」

 

「五〇〇株か。板に入れる。ただし、今日の出来高は歴史のどの日とも桁が違う数字になる。約定に時間がかかる可能性がある。それどころか、通らないかもしれない」

 

「分かった」

 

「もう一つ。回線がいつでも繋がる保証はない。ウォール街の交換手が捌ききれなくなる」

 

「了解した。行ってこい、モー」

 

 電話が切れた。

 十時。ブロードウェイの方角で、教会の鐘が鳴った。それより一拍遅れて、レオの頭の奥で、取引開始のベルが鳴った気がした。

 

 

 

 

 最初の三十分で、底が抜けた。

 電話が最初に鳴ったのは、サルからだった。

 

「レオ! ウォール街の方が大変らしい。ラジオで、そう言ってる」

 

「何と言ってる」

 

「『ニューヨーク証券取引所で、大規模な売りが発生。株価が急落。詳細は不明』。それだけだ」サルの息が受話器の吹き込み口を叩いた。「レオ、大丈夫なのか」

 

「俺は大丈夫だ。お前は八月に全部売っている。心配するな」

 

「……ああ。そうだった。売っておいて、本当に、良かった」

 

 サルの声に、遅れて安堵が下りてきた。

 

「サル。今日は家にいろ。ロザリアと子供たちのそばにいてやれ。マルコが心配する。市場のことは、俺が見ている」

 

「分かった。分かった、レオ」

 

 電話が切れた。

 

 

(サルは八月に降りた。五十株、四五〇ドルで。今日の板の上に、サルの名前は載っていない)

 

 

 受話器を置いた指が、まだ温かかった。

 十時四十五分。二本目の電話。モーだった。

 声が切羽詰まっていた。背後の怒号の壁を、モーの声が薄く引っ掻いて越えてくる。

 

「レオ、聞こえるか」

 

「聞こえる。どうなっている」

 

「売りが、止まらない。マージン・コールの連鎖だ。追証を払えない客のポジションが強制決済されて、その売りがさらに株価を——」

 

「俺の追加注文はどうなった。RCA五〇〇株の指値」

 

「約定していない」

 

 心臓が一度、跳ねた。

 

「約定していない?」

 

「四二〇の指値を入れたが、RCAは四二〇を一瞬で突き抜けた。気配が落ちる速度に、注文処理が追いついていない。フロアのスペシャリストが売り注文を捌ききれずに、板そのものが機能していない。注文を出しても、列に並ぶだけだ。何百件が滞留している」

 

「US Steelは」

 

「同じだ。二三〇の指値は板に入っているが、約定の確認が来ない。テープが遅れている。今テープに印字されているのは、三十分前の取引だ。実際の値が、フロアにいる俺にすら分からない」

 

 回線が切れた。

 レオは受話器を戻した。指先が白くなっていた。握りしめすぎていた。

 

 

(約定しない。教本には「一日で十一パーセント下げた」と書いてあるだけだ。その一行の裏に、こういう空白の秒数がある)

 

 

 空売りの利益は、株価が下がれば膨らむ。だが追加の空売りを積むには、注文が約定しなければならない。市場が混乱しすぎて注文が通らなければ、計画通りの利益は積み上がらない。

 十一時。事務所のラジオが続報を流した。

 

「ニューヨーク証券取引所、取引開始から一時間で出来高三〇〇万株超。ティッカーテープに深刻な遅延。正確な株価情報の取得は不能な状態が続いています」

 

 テープに印字されている数字は、四十分前、あるいは一時間前の取引だ。今この瞬間の値は、フロアの人間にすら分からない。事務所の窓の下を、車が一台、警笛を鳴らして走り抜けた。ミッドタウンの通りは、いつもと同じ午前だった。ウォール街のことは、この街の他の場所にはまだ届いていなかった。

 

 

 

 

 十一時半。モーから二度目の電話。

 

「レオ。追加注文の件だ」

 

「刺さったか」

 

「RCA、五〇〇株中六十株だけ約定した。四一五。残り四四〇株は板に滞留している。US Steelは、まだ約定なし。スペシャリストの処理能力が完全にパンクした」

 

 六十株。五〇〇株の一割。

 

 

(教本には書いていない摩擦だ。注文が通らないという現実)

 

 

「レオ、それだけじゃない。もっと悪い話がある」

 

「何だ」

 

「お前の既存ポジション、RCA一二〇〇株の空売り、建値四八五。今のテープ上の値は四〇〇。含み益は出ている。だがテープは一時間遅れだ。実勢は三八〇かもしれないし、四二〇に戻っているかもしれない」

 

「戻っている?」

 

「フロアの一角で、妙な動きがあった。ブルーチップ銘柄に、まとまった買い注文が入り始めた。出所は、分からない」

 

 レオの背筋を、細い針が上から下へ引いた。

 

 

(銀行家プールだ。モルガン、ナショナル・シティ、チェース。教本で読んだ通りに、彼らは動く。だがその介入で、俺の空売りに含み損が発生することまでは、頭の勘定に入れていなかった)

 

 

 プールが買い支えれば、株価は一時的に上がる。上がれば空売りに含み損が生じる。一二〇〇株なら、一ドル戻るごとに一二〇〇ドルの含み損。十ドル戻れば一万二千ドル。一時的だと分かっている。だが「一時的」がどこまでの厚みを持つか、教本には書いていない。

 

「モー。既存ポジションには何もするな。全て、そのまま持つ」

 

「分かっている。レオ、もう一つ」

 

「何だ」

 

「追加注文の残り。RCA四四〇株と、US Steel二五〇株。今からでも取り消すか。この状態で仮に約定しても、意図した値と、まるで違う場所で刺さる可能性がある」

 

 レオは二秒、考えた。三秒目に、答えを口にした。

 

「取り消してくれ。追加は、全部取り消しだ」

 

「了解。取り消し注文を出す。ただし、取り消し自体が処理されるまで時間がかかる。今のフロアの状態では」

 

 電話の向こうで誰かが怒鳴った。モーが受話器から口を離したのが、布擦れの角度で伝わった。戻ってきた声は、急いていた。

 

「切る。また、掛ける」

 

 プツ、と回線が落ちた。

 レオは受話器を戻した。手のひらを開いた。汗が光っていた。

 窓の外の空を見た。曇り空の下で、雲だけが薄く動いていた。

 

 

(取り消し注文すら、すぐには処理されない。前世で教本を読んでいた男は、この一秒一秒を、想像したことがなかった。ページをめくるだけだった。「一九二九年十月二十四日、DJIA十一パーセント下落」。次の見出しへ)

 

 

 レオはコーヒーの残りを口に含んだ。冷めていた。苦さだけが、舌の付け根に残った。

 

 

 

 

 午後一時過ぎ。モーから三度目の電話。

 今度は、声のトーンが違った。ほんの半音、上に戻っていた。

 

「レオ。銀行家が動いた」

 

「聞いている」

 

「リチャード・ホイットニーだ。モルガンの副頭取。取引フロアに入ってきて、US Steelのポストまで歩いていって、二〇五で一万株の買い注文を出した」

 

「現在値より高い」

 

「十ドル以上、高い」

 

 いくらでもいいから買う、という意思表示だった。モルガンの名前で。

 

 

「フロアの空気が変わった。一瞬で変わった。ホイットニーはUS Steelの後、AT&T、GE、順に回った。市場価格より上の値で、大口の指値を並べていった。追随の買いが乗り始めた。市場が、反転している」

 

 

 反転。

 レオの胃が、静かに絞られた。

 

「DJIAは」

 

「さっき掲示板を見た。底値から二十ドル以上戻した。二八九まで落ちたのが、今は三一〇前後だ。テープが遅延しているから正確じゃないが」

 

「RCAは」

 

「三八〇の底値から、四一〇まで戻した」

 

 四一〇。

 既存ポジション、RCA一二〇〇株、建値四八五。追加分の六十株、建値四一五。

 RCAが四一〇なら、追加分は一株五ドルの含み益。六十株で三百ドル。銀行家がさらに買い上げて四一五を超えれば、その三百ドルは反転する。金額としては、レオの帝国の柱を折る額ではない。

 

 

(問題はそこじゃない。計画が、ずれている)

 

 

 既存の一二〇〇株は、まだ含み益がある。だが追加ポジションが積めていない。五〇〇株中六十株。US Steelは約定すらしなかった。木曜の暴落で追加分を積み、利益の土台を広げる、という筋書きが、今日の混乱に呑まれた。

 

「モー。追加の取り消しは処理されたか」

 

「US Steel二五〇株は取り消せた。RCAの残り四四〇株も、取り消し済みだ」

 

「約定した六十株は、そのまま持つ」

 

「そのまま持つ、で了解した」モーが息をひとつ吐いた。「レオ。市場は、支えられた」

 

「支えられたのは、今日だけだ」

 

「根拠は」

 

「ブローカーズ・ローンが八十億ドルを超えている。今日プールが投じた額は、その何十分の一だ」

 

 受話器の向こうで、モーが葉巻を灰皿に置く乾いた音がした。

 

「……理屈は、分かる。だが今日は、モルガンの名前を信じたい。市場は結局、信用で動く。モルガンの名前は、まだ、通貨より強い」

 

 

(一九〇七年の恐慌では、モルガン一人が信用で市場を救った。今は、一人の銀行家の名前で支えられる規模を、この市場が越えている。それを言わなかった。モーはまだ、モルガンの名前を信じたい人間だ)

 

 

「モー。お前は、ホッとしているか」

 

「ホッとしている。正直に言えば、今日は三十年のキャリアで最悪の日だった。顧客からの電話が鳴り止まなかった。マージン・コールの通知を、何十通、書いた。数えたくない」

 

「週末に、ポジションを軽くしておけ。月曜は荒れる」

 

「……ああ。土曜に、減らせるだけ減らす」

 

 電話が切れた。

 

 

 

 

 夕方。取引終了後の数字が、順に出た。

 DJIA引け値、二九九・四七。朝の底値近辺から回復し、前日比で数ドルの下落。出来高は一二九〇万株。NYSEの史上最高記録。

 

 

(下二桁までは、教本のどこにも書いていなかった。三〇〇近辺で終わる、とうっすら覚えているだけだった。目の前のティッカーの数字は、二九九・四七。細部は、初めて見る)

 

 

 ティッカーテープが全ての取引を印字し終えたのは、取引終了から四時間後、午後七時八分だった。テープの前で数字を睨んでいた人々は、四時間前の幽霊を見ていたことになる。自分の資産がいくら残っているか、その瞬間には誰にも分からない。恐怖の本質は、未知だ。

 レオは事務所の机にノートを広げ、引け値ベースで空売りの損益を計算した。

 

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  空売りポジション(10/24 引け値ベース)

 

  【既存ポジション】

   RCA $400(建値$485)      1,200株×$85=$102,000

   US Steel $193(建値$248)    1,000株×$55=$55,000

   GM $55(建値$69)        1,500株×$14=$21,000

   Montgomery Ward $85(建値$128) 500株×$43=$21,500

 

  【追加ポジション(約定分のみ)】

   RCA $400(建値$415)      60株×$15=$900

 

  【空売り含み益合計】 $200,400

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 追加の空売りが全て約定していれば、含み益はさらに一万九千ドル以上、積み増せたはずだった。RCA五〇〇株、US Steel二五〇株。実際に刺さったのはRCA六十株だけ。七五〇株中の六十株。追加注文の九割が、市場の混乱に呑まれた。

 二十万四百ドル。悪い数字ではない。だが計画通りではない。

 ペンを置いた。

 

 

(教本は結果だけを教えてくれる。過程は教えてくれない。「DJIAが十一パーセント下落した」。その一行の中に、注文が通らない焦り、テープが遅れる不安、銀行家の介入で含み損が発生する恐怖が、全部凝縮されている。歴史は結果の集積だ。だが結果と結果の間にある無数の秒は、教本のどこにも記録されない)

 

 

 窓の外を見た。ミッドタウンの通りに、いつも通りの夕方の車列が流れていた。今日ウォール街で何が起きたか、この通りの人間はまだ半分しか知らない。夕刊が出るまでは、半分のままだ。

 

 

 

 

 十月二十五日、金曜日。

 市場は小幅に反発した。DJIA三〇一。銀行家プールの買い支えの残響が、まだ効いていた。

 新聞は楽観に振れた。

 

「最悪は過ぎた。銀行家の介入で市場は安定」

「大統領声明——アメリカの基礎的経済は健全」

 

 この二つ目の一文は、後世でもっとも有名な「外れた予言」の一つになる。だが今日の時点では、人々はこの言葉を欲していた。「最悪は過ぎた」。そう信じることで、自分を保とうとしていた。

 RCAが三九五まで戻した。追加分六十株、建値四一五で空売り。一株二十ドルの含み益。風向きが少し変われば消える薄さだった。

 

 

(一時的だ。週の頭に、全て崩れる。分かっている)

 

 

(頭では分かっている。だが胃の底で何かが軋んでいる。プールの買い支えが想定以上に効いて、月曜までに三四〇近辺まで戻したら、既存ポジションの含み益も大幅に削られる。教本には「回復は一時的だった」と書いてある。だが、金曜の段階でどこまで続くかは、書いていない)

 

 

 電話が鳴った。サルからだった。

 

「レオ」

 

「サル」

 

「助かった。お前の言う通りにして、助かった。八月に、全部売っておいて、本当に、良かった。RCAは今日、三九五まで戻したらしいが、もし五十株抱えたままだったら——考えたくもない」

 

「サル。お前が決めたんだ。俺の話を聞いて、自分で売ると決めた」

 

「そうだ。俺が決めた。だが、お前が『全部売れ』と言わなかったら、俺は今日まで持っていた。五十株、抱えたまま、今日を迎えていた」

 

 サルの声に、ゆっくりと、重みが戻ってきた。恐怖の輪郭を、あとから指でなぞるような息の使い方だった。

 

 

(サルは「知っていたのか」とは聞かない。「ありがとう」とだけ言う。マッシモの時、ブレナンの流通の時、そして今回のRCA。三度、信頼が裏切られなかった。それが、サルを救った)

 

 

「サル。家族と過ごせ。ロザリアと子供たちと」

 

「ああ。ロザリアが、今夜はパスタを茹でるってさ。お前も来いよ、ベンソンハーストまで」

 

「……考えとく」

 

「考えとく、はお前の場合、『行かない』だ。今夜くらいは来い。ジーナがな、『レオおじさんはいつ来るの』って、うるさいんだ」

 

 レオは受話器を耳から少し離した。ジーナの声を、頭の奥で組み立てた。まだ会ったことのない、小さな声だった。

 

「分かった。行く」

 

「そう来なくちゃな。ロザリアが喜ぶ」

 

 電話が切れた。

 受話器を置いた掌の熱が、ゆっくりと引いていった。

 

 

 

 

 午後、レオはクリフに電話をかけた。呼び出し音が、いつもより長く続いた。エディの店のカウンター奥の電話は、昼はほとんど鳴らない。四度目のベルで、クリフが出た。

 

「クリフ」

 

「レオか。珍しい時間だな」

 

「クリフ。クリフのクインテットの来月の録音セッション、ヴィクターにキャンセルを打診してくれ」

 

「キャンセル?」布擦れの音の向こうで、トランペットが机の板に置かれた鈍い音がした。「パールの専属契約の義務枠だぞ。勝手にキャンセルしたら、違約金が」

 

「違約金は払う。それより、今のうちにキャンセルしておかないと、後でヴィクターの側からキャンセルされる。こっちから先に動いた方が、条件を整理できる」

 

「何だよ、それは。意味が分からない」

 

「クリフ。木曜日の市場を見ただろう。月曜も荒れる。レコード会社は真っ先に経費を削る。外部への発注を、まず止める。パールの次のセッションも、来月にはキャンセル通知が来る可能性がある」

 

 クリフが、しばらく黙った。トランペットのマウスピースを外す、ネジの音が聞こえた。

 

「……レオ。お前、レコードの売上が、本気で下がると思ってるのか」

 

「思っている」

 

「根拠は」

 

「木曜に株で損をした連中が、来月もレコードを買うと思うか。盤は、腹を満たさない。真っ先に消える出費だ」

 

 クリフが、また黙った。

 

「クリフ。パールのラジオ枠は、NBCと来年の契約を結んである。レコードがダメでも、ラジオが残る。パールの声を、盤から電波に移す準備をしておいてくれ」

 

「レコードがダメでも、ラジオが残る、か」クリフが息を吐いた。「去年、お前がレコードセッションを減らしてラジオに振った時、パールは怒った。俺も、半分疑っていた。だが今になって、思う。お前は、最初からこうなることを、知っていたんじゃないか」

 

「……知っていたら、もっと早くパールを説得していた」

 

「だろうな。お前は、自分の知っていることを、全部言わない。だからパールは怒る。だが結果が出ると、お前が正しかったことになる。それが、今の俺たちの関係だ」

 

「クリフ」

 

「分かった。ヴィクターにキャンセルを打診する。違約金はかかるが、レコード会社が勝手にキャンセルするよりは、こっちで条件を整理できる。パールには、俺から説明する」

 

「頼む」

 

「レオ。一つ聞いていいか」

 

「何だ」

 

「パールの次のアルバムのレパートリー、お前が書いた曲が三曲、入るはずだった。それも、キャンセルか」

 

「キャンセルだ。だがその三曲は、ラジオで使う。生放送のレパートリーに回す。パールの声を、盤に乗せる代わりに、電波に乗せる」

 

「電波に、か。レコードより、儲からないぞ」

 

「長くは、稼げる」

 

 クリフが、乾いた笑いを一つ寄越した。

 

「長く、稼げる、か。お前はいつも、長く考えるな。俺はジャズのリズムで生きてるから、来週のことしか考えない。パーカーみたいに、来年のことしか考えない奴も、いる。お前だけが、十年先を見ている」

 

 レオは受話器の縁に指の腹を当てた。ベークライトの、ざらついた縁だった。

 

 

(十年先。一九三九年。世界は別の形になっている。だが俺のカタログは、残る。ASCAPの分配金は、残る。ラジオは、残る)

 

 

「クリフ。来月の録音は、キャンセル。ラジオ枠を厚くする。パールにはそう伝えてくれ」

 

「分かった」

 

 

 

 

 もう一本、電話をかけた。ブレナンへ。

 受付の女の声が、電話に出た。「モレッティ様ですね、少々お待ちください」。前世の会社の受付の声より、半音低い声だった。少し間があって、ブレナンの声に切り替わった。葉巻を口から外して喋る癖の、あの吐き方だった。

 

「モレッティ君。状況は、見ているかね」

 

「見ています」

 

「私の楽譜の売上が、木曜日から二日で、半減した。デパートの楽譜コーナーに、客が来ない。人々が株で損をすると、楽譜なんて買わなくなる。恐慌の最初の被害者は、我々のような、買い換え可能な商品を売る連中だ」

 

「ブレナンさん。月曜の朝、楽譜の在庫を確認してください。デパートに置いてある委託在庫も含めて。月曜の市場が荒れたら、デパートから返品のキャンセルが飛んできます。返品されてもいいように、こちらから在庫を圧縮しておいてください」

 

「……モレッティ君。君は、月曜も荒れると思っているのかね」

 

「はい」

 

「根拠は」

 

「追証の通知が金曜に出ています。週末を挟んで、払えない客が大量に出ます。月曜の寄り付きは、強制決済の売りが殺到します」

 

 ブレナンが沈黙した。金曜の午後の、太い葉巻の煙のような沈黙だった。

 

「……君の読みは、当たることが多い。分かった。月曜の朝一番で、在庫を確認する。デパートにも連絡を入れておく」

 

「ありがとうございます」

 

「いや、礼を言うのは、こちらだ。君が協業を持ちかけてくれたおかげで、私の楽譜事業も、東海岸の販路を広げられた。それ以上に、君の読みを、事前に聞けたことが、今から思えば、助けになる」

 

「読みが当たれば、私も嬉しい」

 

「モレッティ君」ブレナンが、間を置いた。葉巻を灰皿に置く音がした。「昔、私は君の曲を、二十五ドルで買い叩いた。覚えているだろう」

 

「覚えています」

 

「あの時、私は君を、若いイタリア人の一人としてしか見ていなかった。今、電話越しに、君の声を聞いている。同じ人間だが、同じ人間ではない」

 

 レオは目を細めた。

 

 

(ブレナンは、まだ、俺を完全には認めていない。ビジネス上の礼儀だ。本当に認めるのは、来週以降。月曜と火曜の暴落の後、彼が生き延びられたと分かった時。二十五ドルの反転は、そこで、もう一段深くなる)

 

 

「ブレナンさん。月曜の朝、電話をください。在庫の状況を、共有しましょう」

 

「掛ける。月曜の八時に、掛ける」

 

 電話が切れた。

 

 

 

 

 十月二十七日、日曜日。

 レオはアパートにいた。ラジオを消し、新聞を畳んで棚に置いた。一日、音のないままにしておいた。

 昼過ぎ、ピアノに歩み寄った。新しい曲は書かなかった。既存の曲を、順に、指で撫でるように弾いた。クリフとの共作。ラジオ向けのスウィング。映画のバラード。指が、迷わず動いた。指だけが、この部屋の中で、迷いを持たない部分だった。

 午後、窓辺に椅子を寄せて、空を見上げた。日曜のマンハッタンの空は、いつもより高く見える。雲が薄く流れていた。

 明日、市場は大きく崩れる。一割を超える下げになるはずだった。明後日は、さらに深い。銀行家プールは、明後日は、動けない。正確な数字は覚えていない。記憶は変質する。だが、順番だけは確かだった。

 モーは、どうなる。サルは、助かった。パーカーは、月曜の朝に、まだ「一時的だ」と言うだろう。名も知らない人々は。

 モーは、まだ大丈夫だ。三月からレオが何度も勧めていた現金化分がある。土曜に少し減らしたと言っていた。だが半日では、限界がある。まだ重いポジションを抱えているだろう。

 

 

 懐中時計は、まだあるか。

 

 

 レオは煙草に火をつけた。マッチの燐の匂いが、鼻の奥まで届いた。煙を、天井の隅に向けて吐いた。

 手が、震えていた。

 明日の市場が怖いのではなかった。明日の結果は、知っている。怖いのは、明後日の、火曜日だった。火曜日のパニックの中で、モーの声を聞くことだった。モーの父が、ハンブルクから船に乗せてきたあの銀の懐中時計が、まだチェストの上にあるかどうかを、確認することだった。

 

 

(前世の深夜のオフィスは、静かだった。ノートPCのファンの音だけがしていた。数字と効率だけを追い求めて、心が半月分ずつ薄くなっていた。あのオフィスで暮らすように働いていた男は、友人が資産を失い、時計を質屋に置く前夜の重さを、知らなかった)

 

 

 煙草を灰皿の縁に置いた。ゆっくりと灰が落ちた。

 ベッドに入った。眠れるとは思わなかった。だが眠れた。身体が、戦いの前の休息を、勝手に取りに来た。

 

 

 

 

 十月二十八日、月曜日。

 朝七時。目を覚ました瞬間、身体の背中が重かった。骨の下に、湿った砂が張りついているような重さだった。

 今日だ。

 事務所へ向かう途中、ニューススタンドで朝刊を買った。

 

「市場の安定回復へ。銀行家の支援体制は盤石」

 

 レオは新聞を畳んで、コートの内ポケットにしまった。読みたい記事ではなかった。ただ、今日の朝、この見出しが世界に出ていたことを、覚えておく必要があった。

 事務所に着くと、ブレナンから電話があった。八時ちょうど。約束通りだった。

 

「モレッティ君。デパートの在庫は、金曜のうちに七割を引き上げた。月曜の朝までに、残り三割の圧縮を掛ける。委託契約の解除の書類も、月内に整える」

 

「早いですね」

 

「君の読みを信じた。それだけだ」

 

「ありがとうございます」

 

「……モレッティ君。もう一つ、聞かせてくれ。今日の市場は、木曜より深くなるのか」

 

 レオは半拍だけ、迷った。

 

「深くなります」

 

 ブレナンの息が、受話器の吹き込み口を叩いた。

 

「そうか。分かった。楽譜の卸先には、月曜の朝、こちらから連絡を入れる。仕入れを絞るように、と」

 

 電話が切れた。

 九時四十五分。モーから。

 

「レオ。寄り付きの板を見た。木曜日と、同じだ。いや、木曜より深い」

 

「何が見える」

 

「週末の間に、追証を用意できなかった顧客の強制決済注文が、板の上に山積みだ。銀行家プールの買い支えが、木曜ほどの効果を持つかどうか」

 

「持たない」

 

 モーは、反論しなかった。

 半拍おいて、レオは言葉を継いだ。

 

「木曜に市場を支えたプールの資金は、今、含み損を抱えている。追加の買い支えは、コスト的に、彼らでも重い」

 

「……ああ。土曜に少し減らしたが、半日では大して捌けなかった。レオ、今日は長い一日になるぞ」

 

 十時。取引開始のベルが鳴った。

 そして、この日、銀行家プールは動かなかった。

 

 

 

 

 午前中の時点で、市場は制御を失った。

 レオは事務所にいた。ラジオと、モーからの断続的な電話が、今日の唯一の情報源だった。

 十一時。モーから。

 

「DJIA、二八〇を割った。US Steelは二〇〇を下回った」モーの声は、乾いていた。感情を絞り出す余裕すら、切り離した声だった。「レオ、フロアは、木曜の比じゃない。木曜はまだ、怒号があった。声が出ていた。今日は、静かだ。悲鳴すら、出ない。みんな、ただ、掲示板を見上げている」

 

 正午。ラジオ速報。

 

「ニューヨーク証券取引所、午前の出来高六〇〇万株超。ティッカーテープの遅延は拡大中。株価は全面安。銀行家グループは、現時点で買い支えの声明を発表していません」

 

 午後一時。モーから。

 

「DJIA、二七〇。いや、これは三十分前の数字だ。テープが追いつかない。実際は、もっと下がっている。RCAは、三四〇を切った」

 

 午後三時。取引終了のベル。

 だがティッカーテープは、まだ午後一時頃の取引を印字していた。

 最終的な数字が出揃ったのは、午後五時半だった。

 

 

 DJIA引け値、二六〇・六四ドル。

 前日比マイナス三八・三三ドル。下落率一二・八パーセント。出来高、およそ九二五万株。

 

 

 一二・八パーセント。一日で。

 

 

(史料では「一日で一割以上」とだけ覚えていた。一二・八という細かい数字までは、記憶になかった)

 

 

 レオは机の上にノートを開き、含み益を計算した。指の動きが、木曜の夜より、ゆっくりだった。

 

 ——————————————————————

  空売りポジション(10/28 引け値ベース)

 

  【既存ポジション】

   RCA $320(建値$485)      1,200株×$165=$198,000

   US Steel $185(建値$248)    1,000株×$63=$63,000

   GM $52(建値$69)        1,500株×$17=$25,500

   Montgomery Ward $80(建値$128) 500株×$48=$24,000

 

  【追加ポジション】

   RCA $320(建値$415)      60株×$95=$5,700

 

  【空売り含み益合計】 $316,200

 ——————————————————————

 

 まだ確定利益ではない。明日、市場がさらに下がれば、含み益はさらに膨らむ。

 

 

(明日、火曜日。教本が呼ぶ日が、来る)

 

 

 電話が鳴った。夜の十時。モーだった。

 

「レオ。起きているか」

 

「起きている」

 

「今日の最終集計が出た。俺の顧客の、三分の一が、マージン・コールに応じられなかった。明日の寄り付きで、強制決済される。全員だ」

 

「三分の一」

 

「三分の一だ。三十一人のうち、十人。退職金を全額入れていた老人が、いた。結婚資金を株に変えた若い男が、いた。俺が『買い増せ』と勧めた客も、いる」

 

 モーの声が、初めて、揺れた。低い場所で、細く。

 

「モー」

 

「俺は、間違えていたのか。市場は上がると、俺は言った。RCAは六〇〇に届くと」

 

「モー。今夜は、それを考えるな。明日のことを、考えろ」

 

「明日。そうだ、明日がある。明日は、市場が反発するかもしれない。銀行家が」

 

「モー」

 

 レオは、言いかけて、止めた。

 

 

(言えない。言えば今夜、モーは眠れない。俺が言ったところで、明日の暴落は、同じように起きる。俺にできるのは、モーの声を、今夜、聞くことだけだ)

 

 

「モー。今夜は、寝ろ。明日は、明日、考えればいい」

 

「……ああ。そうする」

 

「モー。一つだけ、聞かせてくれ」

 

「何だ」

 

「お前の懐中時計は、まだあるか」

 

 唐突な質問だった。モーが、半拍、戸惑った。

 

「懐中時計? ああ、親父の時計か。チェストの上に、置いてある。なぜ、聞く」

 

「何でもない。おやすみ、モー」

 

「おやすみ、レオ」

 

 電話を切った。

 

 

(モーの懐中時計は、まだ、ある。だが明日の暴落の後、どうなるかは、俺にも分からない。モーは、土曜に少しポジションを減らしたと言った。俺が三月から勧めていた現金化分と合わせても、痛手は免れない。足りない分を補うために、あの時計を、あの男は、質屋の窓口に持っていくかもしれない)

 

 

 レオは帳簿を閉じた。

 

 

 

 

 夜。事務所の窓辺に立って、暫定的な資産の見積もりを、頭の中で並べた。

 

  現金・米国債      $330,000

  空売り含み益      $316,200

  音楽事業資産      $68,000

  ————————————————

  暫定純資産       約$714,200

 

 含み益はまだ確定していない。火曜の引けで空売りの半分を買い戻し、残りを数週間かけて決済する。その後で、底値の優良株を拾う。計画は、頭の中で線を引かれている。

 

 

(一二〇万に届く。そこまでは、教本の通りに手が動けば、届く)

 

 

 マンハッタンの夜景を、窓越しに見た。ビルの窓には、まだ多くの灯りが点いていた。ウォール街の方角では、異様に多くの窓が明るかった。ブローカーたち、銀行員たち、弁護士たち、代書屋たち。全員が、明日のために、今夜働いている。

 ティッカーテープが今日の取引を全て印字し終えたのは、ついさっきだ。午後三時に終わった取引の最後の一行が、午後十時過ぎに、テープの端に刻まれた。七時間の遅延。

 

 

(教本の知識は、テープが遅延する市場で、どこまで通用するか。木曜に学んだ。「一日で十一パーセント下落する」という知識があっても、自分の注文が約定するかどうかは別の問題だ。市場の混乱は、知識の外側で起きる。未来を知っていても、細部は、操作できない)

 

 

 灯りを消した。事務所の椅子に浅く座って、天井を見上げた。硝子扉の向こうの廊下の灯りが、天井の一角に、細く、細く、こぼれていた。

 明日。十月末の火曜日。

 教本が「暗黒の火曜日」と呼ぶ日が、来る。日付は覚えていない。木曜の翌週の頭、火曜だった。それだけだ。

 

 

 レオは知っている。だが「全て知っている」とは、もう思わない。

 木曜に、学んだ。注文は通らないことがある。テープは遅れる。銀行家の介入で含み損が生まれる。教本には載っていない変数が、いくつも、この現実の側に落ちている。

 明日もまた、計画通りにはいかないだろう。

 だが、計画を持たないよりは、ましだ。

 

 

 目を閉じた。

 瞼の裏に、サルの声が残っていた。「八月に全部売っておいて、本当に、良かった」。

 サルは助かった。それだけでも、今夜は、眠れる。

 

 

 やがて意識が沈み、事務所の暗闇が、深くなった。

 

 

(明日——歴史が、動く)

 

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