五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く 作:生サーモン
十月に入って、通りの色が変わった。
マンハッタンの街路樹の葉が金と赤に灼け、朝の空気には冬の骨組みが混じり始めた。歩道の男たちのコートが厚くなり、女たちは首元にウールを巻いた。ミッドタウンの事務所の窓を開けると、コンクリートの隙間から石炭の煤が上がってきて、レオの鼻の奥をざらつかせた。
だが金融紙の紙面には、季節とは別の冷気が流れていた。
九月三日の史上最高値から、DJIAはじりじりと削られている。一日で数ドル下げ、翌日にほんの少し戻し、また下げる。海岸の砂が波の縁で少しずつ持って行かれる、あの引き際に似た速度だった。ウォール街の朝の挨拶が、九月までとは違う。「六百は堅い」と言っていたブローカーたちが、口数を減らしていた。ティッカーテープの数字を睨む肩に、彼らが自覚しないほど微細な角度で、力が入っていた。
金融紙の一面の下段に、小さな囲みがあった。「コール・ローン金利、10月に入り急上昇。一部20%に迫る」。
(金利が二割まで来た。株価が上がり続けていれば誰も気にしない数字だ。だが今、下げに転じている)
レオは記事の下に鉛筆で線を引いた。二割の金利は、含み益を溶かす刃物になる。まず利息が食い、次にマージン・コールが来て、最後に強制決済でポジションが吹き飛ぶ。金曜日から日曜日にかけて、この刃物は静かに研がれる。
電話が鳴った。ベークライトの黒い受話器を耳に当てると、モーの声が入ってきた。呼吸の間に、事務所の電話がもう一本鳴っている音が重なっていた。
「レオ。今朝のDJIAを見たか」
「見た。三二五だ」
「先週の三四〇から、十五ドル落ちた」少し間があった。「レオ。正直に聞く。お前の空売りポジションは、まだ持っているのか」
「持っている」
「含み益が出ているな」
「出ている」
受話器の向こうで、モーが息を継いだ。背後の電話の呼び出し音が、二回、三回と重なっていった。
「……追加するつもりか」
レオはコーヒーカップの取っ手に指を絡めた。カップの縁に、砂糖の粒がひとつだけ残っていた。指の腹で潰した。
「する」
沈黙。事務所の電話は鳴り続けている。
「何を、どれだけだ」
「RCAを一二〇〇株にしてくれ。US Steelを一〇〇〇株。GMを一五〇〇株。それとMontgomery Wardを五〇〇株、新規で建てる」
「Montgomery Ward?」
「百貨店株だ。消費者信用の残高が膨らんでいる。割賦購入の焦げつきが始まれば、小売から真っ先に穴が開く」
長い沈黙が挟まった。モーが自分の顎に手をやったのが、受話器越しの布擦れの音で分かった。
「……レオ。俺はブローカーだ。顧客の注文を執行するのが仕事だ。ただ、友人としては言う。この規模の空売り追加は、市場が反転した瞬間に、お前の帝国の柱を折る」
「分かっている」
「分かっているなら」
「モー。執行してくれ。証拠金を上乗せする。二十万ドル追加で預ける。レバレッジは、あんたが引ける最大まで引いてくれ」
「二十万」モーの声が半拍だけ止まった。「純資産の半分だぞ。正気か」
「正気だ。下がれば、証拠金は四倍の効きで働く」
「四倍だとしても、逆に振れたら二十万が一晩で消える」
「上がらない」
受話器の向こうで、モーが灰皿に葉巻を置く乾いた音がした。
「……分かった。俺の記録には、こう残す。『一九二九年十月、モレッティは全財産の半分を空売り証拠金として預託した』」
「残してくれ」
電話が切れた。
レオは受話器を戻し、机の万年筆を取った。金融紙の余白に、追加建て玉の内訳を書きつけた。手が乾いていた。指の関節の内側に、湿り気が一枚ある感覚だけがあった。
(モーは知らない。市場が反転しないことを、俺だけが知っている。だから俺が乗せた分の証拠金は、モーの顧客の証拠金と同じ天秤には乗らない)
鉛筆を置いて、椅子の背に腰を預けた。窓の外で、七番街のトラックが荷台の板を鳴らして通り過ぎた。板の音は一定で、それが妙に、聞き慣れない拍で聞こえた。
■
十月の第二週。追加の空売り注文が段階的に執行された。
建て玉は、九月までの「保険」から、一枚の絵になった。
RCA、一二〇〇株、建値平均四八五ドル。
US Steel、一〇〇〇株、建値平均二四八ドル。
GM、一五〇〇株、建値平均六九ドル。
Montgomery Ward、五〇〇株、建値平均一二八ドル。
証拠金として預けた額は、初期の三万二千に、二十万を上乗せして、二十三万二千。総建て玉規模は八十万ドルを超えた。
(教本に書いてある未来に、全財産の半分以上を賭けた。九年前に、俺という変数がこの世界に落ちてきた。九年間、俺は動いた。曲を書き、金を回し、マッシモを蹴った。教本の著者は、俺という一行が挟まったことを知らない)
(音楽を先にやったのは、そのためだ。コード進行は歴史が変わっても変わらない。いい曲は、どこの世界でもいい曲だ。だが暴落の日付は、俺がここにいるだけでずれるかもしれなかった。DJIAが九月に三八〇台の高値を刻んだ日、ようやく確信が持てた。教本と同じ軌道を、この世界も辿っている)
証拠金の預託を終えた夜、レオはピアノの前に座った。日を閉じる儀式。Cmaj7を鳴らそうと右手を鍵盤に置いた。C、E、G、B。安定の四つの音。
三度のEに、指が届かなかった。
中指が半音だけ落ちて、Eフラットを踏んだ。上のBも、指が滑って、Bフラットに滑り込んだ。
Cm7。マイナー・セブンス。明るいはずの和音が、色をひっくり返して手元で鳴った。
半音の差だった。二本の指が、それぞれ半音低い場所に落ちただけで、部屋の空気の温度が半度、下がった気がした。
レオはターンアラウンドを続けなかった。人差し指を鍵盤から離した。解決に向かわず、宙に浮いたまま、音が消えた。
(弾きたいから弾くのではない。閉じるために弾いている。前世の音大を辞めた夜も、これと同じだった。「ビジネスを覚えてから戻る」と言った。戻らなかった)
鍵盤の蓋を下ろした。
板の合わせ目に、僅かな軋みがあった。
■
十月二十一日、月曜日。DJIAが一日で五ドル以上下げた。出来高が跳ねた。
十月二十二日、火曜日。さらに下げて、三一九。
十月二十三日、水曜日。取引終了間際の一時間で、板が崩れた。引けにかけて売り注文が殺到し、三〇五まで落ちた。下げ幅は十六ドル。出来高は六四〇万株。通常の二倍以上。
ティッカーテープが遅れ始めた。取引終了後も、テープは一時間半にわたって数字を刻み続けた。ブローカー事務所の電話は鳴り止まなかった。
夜、レオの事務所にもモーから電話が入った。
「レオ。明日は、荒れるぞ」
「分かっている」
「ブローカーズ・ローンが膨らみすぎている。追証が払えない顧客が、かなりの数出る」
「モー。お前の顧客は」
「大丈夫じゃない。大丈夫な奴が何割いるか、俺にはもう分からない」
電話が切れた。
レオは窓辺に立った。ウォール街の方角には、遅い時間に灯る窓が多かった。ブローカーたちが残っている。マージン・コールの通知を書き、明日の売買の準備をしている。
(明日、木曜日。教本が呼ぶ日だ。ティッカーテープが遅れる。銀行家プールが買い支えに入り、市場は一時的に戻る。だが週の頭に、また崩れる。年は覚えている。月まで覚えている。日付までは——十月の下旬、木曜、それだけだ。細部は記憶の外にある)
(教本に書いていないことが一つだけある。取引所が混乱した時、注文はどうなるか。「DJIAが十一パーセント下落した」と書いてあるだけで、その裏で一件の空売り注文が板のどこに沈んだかは、歴史のどの脚注にも載らない)
窓を閉めた。ラジエーターが金属を打つ音を立てて、蒸気を吐いた。
レオは机に戻り、明日の想定を紙に並べた。数字ではなく、行動の順番だった。追加の空売り指値。取り消しのタイミング。既存ポジションの維持。回線が落ちた時の予備手順。書き終えて、鉛筆を横に置いた。
(サルは八月に降りている。全部売った。四五〇ドルで。今夜、それだけが、この暗い部屋の中で一つだけ確かなことだ)
■
一九二九年十月二十四日、木曜日。
六時に目が覚めた。窓のカーテンの隙間から、薄い曇り空の光が差していた。秋の光は、部屋の壁紙の色を少しだけ剥がしたように見せた。
顔を洗い、シャツを替えた。コーヒーを淹れる指が、微かに震えていた。
結果は知っている。知っているのに、心臓の音が耳の裏で鳴っていた。手のひらの皮膚の下に、血が濃く集まっている感覚があった。
(この身体は、三十一歳のイタリア系青年のものだ。教本を読んだことがない。今日起きようとしていることは、この身体にとって、世界の終わりだ)
深呼吸をひとつ。コーヒーを飲み干した。喉を落ちる熱に、酸味が引っかかった。
事務所へ向かう途中、ニューススタンドで朝刊を買った。少年に二セントを渡すと、新聞の束の上のを引き抜いて渡してきた。一面の見出しに目を落とす。
「市場に調整の動き。専門家、過度の心配は不要と」
この見出しを書いた記者は、明日、別の見出しを書くことになる。折り畳んで、コートの内ポケットに入れた。
事務所には八時半に着いた。ルーが先に来て、机の書類を並べていた。
「おはよう、レオ。株、荒れそうね。昨日の下げが新聞に出てたわ」
「荒れるだろう。ルー、今日は音楽の仕事に集中してくれ。コロムビアとの次のレコーディング契約の書類を確認しておいてほしい。それと、売掛金の回収を厳格に。全部、月内で締めろ」
「……分かったわ」
ルーはそれ以上聞かなかった。書類の束を抱えて、隣の部屋へ入っていった。扉が閉まる前に、レオの背中を一度だけ振り返ったのが、硝子越しに映った。
レオは自分のデスクに着き、電話の前に手を置いた。九時五十五分。取引開始の五分前だった。
電話が鳴った。モーだった。
「レオ。取引フロアに入る前に、一つだけ言っておく。今日は、今まで経験したことのない一日になるかもしれない」
「何が起きている」
「寄り付き前の気配が、異常だ。売り注文が板に山積みだ。昨日の引けで追証を通知した客から、朝一番で手仕舞いの注文が殺到している。板が真っ赤だ」
レオは想定していた追加注文を口にした。
「モー。追加の空売り指値を入れたい。RCA五〇〇株、指値四二〇。US Steel二五〇株、指値二三〇。下がったところで積みたい」
「五〇〇株か。板に入れる。ただし、今日の出来高は歴史のどの日とも桁が違う数字になる。約定に時間がかかる可能性がある。それどころか、通らないかもしれない」
「分かった」
「もう一つ。回線がいつでも繋がる保証はない。ウォール街の交換手が捌ききれなくなる」
「了解した。行ってこい、モー」
電話が切れた。
十時。ブロードウェイの方角で、教会の鐘が鳴った。それより一拍遅れて、レオの頭の奥で、取引開始のベルが鳴った気がした。
■
最初の三十分で、底が抜けた。
電話が最初に鳴ったのは、サルからだった。
「レオ! ウォール街の方が大変らしい。ラジオで、そう言ってる」
「何と言ってる」
「『ニューヨーク証券取引所で、大規模な売りが発生。株価が急落。詳細は不明』。それだけだ」サルの息が受話器の吹き込み口を叩いた。「レオ、大丈夫なのか」
「俺は大丈夫だ。お前は八月に全部売っている。心配するな」
「……ああ。そうだった。売っておいて、本当に、良かった」
サルの声に、遅れて安堵が下りてきた。
「サル。今日は家にいろ。ロザリアと子供たちのそばにいてやれ。マルコが心配する。市場のことは、俺が見ている」
「分かった。分かった、レオ」
電話が切れた。
(サルは八月に降りた。五十株、四五〇ドルで。今日の板の上に、サルの名前は載っていない)
受話器を置いた指が、まだ温かかった。
十時四十五分。二本目の電話。モーだった。
声が切羽詰まっていた。背後の怒号の壁を、モーの声が薄く引っ掻いて越えてくる。
「レオ、聞こえるか」
「聞こえる。どうなっている」
「売りが、止まらない。マージン・コールの連鎖だ。追証を払えない客のポジションが強制決済されて、その売りがさらに株価を——」
「俺の追加注文はどうなった。RCA五〇〇株の指値」
「約定していない」
心臓が一度、跳ねた。
「約定していない?」
「四二〇の指値を入れたが、RCAは四二〇を一瞬で突き抜けた。気配が落ちる速度に、注文処理が追いついていない。フロアのスペシャリストが売り注文を捌ききれずに、板そのものが機能していない。注文を出しても、列に並ぶだけだ。何百件が滞留している」
「US Steelは」
「同じだ。二三〇の指値は板に入っているが、約定の確認が来ない。テープが遅れている。今テープに印字されているのは、三十分前の取引だ。実際の値が、フロアにいる俺にすら分からない」
回線が切れた。
レオは受話器を戻した。指先が白くなっていた。握りしめすぎていた。
(約定しない。教本には「一日で十一パーセント下げた」と書いてあるだけだ。その一行の裏に、こういう空白の秒数がある)
空売りの利益は、株価が下がれば膨らむ。だが追加の空売りを積むには、注文が約定しなければならない。市場が混乱しすぎて注文が通らなければ、計画通りの利益は積み上がらない。
十一時。事務所のラジオが続報を流した。
「ニューヨーク証券取引所、取引開始から一時間で出来高三〇〇万株超。ティッカーテープに深刻な遅延。正確な株価情報の取得は不能な状態が続いています」
テープに印字されている数字は、四十分前、あるいは一時間前の取引だ。今この瞬間の値は、フロアの人間にすら分からない。事務所の窓の下を、車が一台、警笛を鳴らして走り抜けた。ミッドタウンの通りは、いつもと同じ午前だった。ウォール街のことは、この街の他の場所にはまだ届いていなかった。
■
十一時半。モーから二度目の電話。
「レオ。追加注文の件だ」
「刺さったか」
「RCA、五〇〇株中六十株だけ約定した。四一五。残り四四〇株は板に滞留している。US Steelは、まだ約定なし。スペシャリストの処理能力が完全にパンクした」
六十株。五〇〇株の一割。
(教本には書いていない摩擦だ。注文が通らないという現実)
「レオ、それだけじゃない。もっと悪い話がある」
「何だ」
「お前の既存ポジション、RCA一二〇〇株の空売り、建値四八五。今のテープ上の値は四〇〇。含み益は出ている。だがテープは一時間遅れだ。実勢は三八〇かもしれないし、四二〇に戻っているかもしれない」
「戻っている?」
「フロアの一角で、妙な動きがあった。ブルーチップ銘柄に、まとまった買い注文が入り始めた。出所は、分からない」
レオの背筋を、細い針が上から下へ引いた。
(銀行家プールだ。モルガン、ナショナル・シティ、チェース。教本で読んだ通りに、彼らは動く。だがその介入で、俺の空売りに含み損が発生することまでは、頭の勘定に入れていなかった)
プールが買い支えれば、株価は一時的に上がる。上がれば空売りに含み損が生じる。一二〇〇株なら、一ドル戻るごとに一二〇〇ドルの含み損。十ドル戻れば一万二千ドル。一時的だと分かっている。だが「一時的」がどこまでの厚みを持つか、教本には書いていない。
「モー。既存ポジションには何もするな。全て、そのまま持つ」
「分かっている。レオ、もう一つ」
「何だ」
「追加注文の残り。RCA四四〇株と、US Steel二五〇株。今からでも取り消すか。この状態で仮に約定しても、意図した値と、まるで違う場所で刺さる可能性がある」
レオは二秒、考えた。三秒目に、答えを口にした。
「取り消してくれ。追加は、全部取り消しだ」
「了解。取り消し注文を出す。ただし、取り消し自体が処理されるまで時間がかかる。今のフロアの状態では」
電話の向こうで誰かが怒鳴った。モーが受話器から口を離したのが、布擦れの角度で伝わった。戻ってきた声は、急いていた。
「切る。また、掛ける」
プツ、と回線が落ちた。
レオは受話器を戻した。手のひらを開いた。汗が光っていた。
窓の外の空を見た。曇り空の下で、雲だけが薄く動いていた。
(取り消し注文すら、すぐには処理されない。前世で教本を読んでいた男は、この一秒一秒を、想像したことがなかった。ページをめくるだけだった。「一九二九年十月二十四日、DJIA十一パーセント下落」。次の見出しへ)
レオはコーヒーの残りを口に含んだ。冷めていた。苦さだけが、舌の付け根に残った。
■
午後一時過ぎ。モーから三度目の電話。
今度は、声のトーンが違った。ほんの半音、上に戻っていた。
「レオ。銀行家が動いた」
「聞いている」
「リチャード・ホイットニーだ。モルガンの副頭取。取引フロアに入ってきて、US Steelのポストまで歩いていって、二〇五で一万株の買い注文を出した」
「現在値より高い」
「十ドル以上、高い」
いくらでもいいから買う、という意思表示だった。モルガンの名前で。
「フロアの空気が変わった。一瞬で変わった。ホイットニーはUS Steelの後、AT&T、GE、順に回った。市場価格より上の値で、大口の指値を並べていった。追随の買いが乗り始めた。市場が、反転している」
反転。
レオの胃が、静かに絞られた。
「DJIAは」
「さっき掲示板を見た。底値から二十ドル以上戻した。二八九まで落ちたのが、今は三一〇前後だ。テープが遅延しているから正確じゃないが」
「RCAは」
「三八〇の底値から、四一〇まで戻した」
四一〇。
既存ポジション、RCA一二〇〇株、建値四八五。追加分の六十株、建値四一五。
RCAが四一〇なら、追加分は一株五ドルの含み益。六十株で三百ドル。銀行家がさらに買い上げて四一五を超えれば、その三百ドルは反転する。金額としては、レオの帝国の柱を折る額ではない。
(問題はそこじゃない。計画が、ずれている)
既存の一二〇〇株は、まだ含み益がある。だが追加ポジションが積めていない。五〇〇株中六十株。US Steelは約定すらしなかった。木曜の暴落で追加分を積み、利益の土台を広げる、という筋書きが、今日の混乱に呑まれた。
「モー。追加の取り消しは処理されたか」
「US Steel二五〇株は取り消せた。RCAの残り四四〇株も、取り消し済みだ」
「約定した六十株は、そのまま持つ」
「そのまま持つ、で了解した」モーが息をひとつ吐いた。「レオ。市場は、支えられた」
「支えられたのは、今日だけだ」
「根拠は」
「ブローカーズ・ローンが八十億ドルを超えている。今日プールが投じた額は、その何十分の一だ」
受話器の向こうで、モーが葉巻を灰皿に置く乾いた音がした。
「……理屈は、分かる。だが今日は、モルガンの名前を信じたい。市場は結局、信用で動く。モルガンの名前は、まだ、通貨より強い」
(一九〇七年の恐慌では、モルガン一人が信用で市場を救った。今は、一人の銀行家の名前で支えられる規模を、この市場が越えている。それを言わなかった。モーはまだ、モルガンの名前を信じたい人間だ)
「モー。お前は、ホッとしているか」
「ホッとしている。正直に言えば、今日は三十年のキャリアで最悪の日だった。顧客からの電話が鳴り止まなかった。マージン・コールの通知を、何十通、書いた。数えたくない」
「週末に、ポジションを軽くしておけ。月曜は荒れる」
「……ああ。土曜に、減らせるだけ減らす」
電話が切れた。
■
夕方。取引終了後の数字が、順に出た。
DJIA引け値、二九九・四七。朝の底値近辺から回復し、前日比で数ドルの下落。出来高は一二九〇万株。NYSEの史上最高記録。
(下二桁までは、教本のどこにも書いていなかった。三〇〇近辺で終わる、とうっすら覚えているだけだった。目の前のティッカーの数字は、二九九・四七。細部は、初めて見る)
ティッカーテープが全ての取引を印字し終えたのは、取引終了から四時間後、午後七時八分だった。テープの前で数字を睨んでいた人々は、四時間前の幽霊を見ていたことになる。自分の資産がいくら残っているか、その瞬間には誰にも分からない。恐怖の本質は、未知だ。
レオは事務所の机にノートを広げ、引け値ベースで空売りの損益を計算した。
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空売りポジション(10/24 引け値ベース)
【既存ポジション】
RCA $400(建値$485) 1,200株×$85=$102,000
US Steel $193(建値$248) 1,000株×$55=$55,000
GM $55(建値$69) 1,500株×$14=$21,000
Montgomery Ward $85(建値$128) 500株×$43=$21,500
【追加ポジション(約定分のみ)】
RCA $400(建値$415) 60株×$15=$900
【空売り含み益合計】 $200,400
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追加の空売りが全て約定していれば、含み益はさらに一万九千ドル以上、積み増せたはずだった。RCA五〇〇株、US Steel二五〇株。実際に刺さったのはRCA六十株だけ。七五〇株中の六十株。追加注文の九割が、市場の混乱に呑まれた。
二十万四百ドル。悪い数字ではない。だが計画通りではない。
ペンを置いた。
(教本は結果だけを教えてくれる。過程は教えてくれない。「DJIAが十一パーセント下落した」。その一行の中に、注文が通らない焦り、テープが遅れる不安、銀行家の介入で含み損が発生する恐怖が、全部凝縮されている。歴史は結果の集積だ。だが結果と結果の間にある無数の秒は、教本のどこにも記録されない)
窓の外を見た。ミッドタウンの通りに、いつも通りの夕方の車列が流れていた。今日ウォール街で何が起きたか、この通りの人間はまだ半分しか知らない。夕刊が出るまでは、半分のままだ。
■
十月二十五日、金曜日。
市場は小幅に反発した。DJIA三〇一。銀行家プールの買い支えの残響が、まだ効いていた。
新聞は楽観に振れた。
「最悪は過ぎた。銀行家の介入で市場は安定」
「大統領声明——アメリカの基礎的経済は健全」
この二つ目の一文は、後世でもっとも有名な「外れた予言」の一つになる。だが今日の時点では、人々はこの言葉を欲していた。「最悪は過ぎた」。そう信じることで、自分を保とうとしていた。
RCAが三九五まで戻した。追加分六十株、建値四一五で空売り。一株二十ドルの含み益。風向きが少し変われば消える薄さだった。
(一時的だ。週の頭に、全て崩れる。分かっている)
(頭では分かっている。だが胃の底で何かが軋んでいる。プールの買い支えが想定以上に効いて、月曜までに三四〇近辺まで戻したら、既存ポジションの含み益も大幅に削られる。教本には「回復は一時的だった」と書いてある。だが、金曜の段階でどこまで続くかは、書いていない)
電話が鳴った。サルからだった。
「レオ」
「サル」
「助かった。お前の言う通りにして、助かった。八月に、全部売っておいて、本当に、良かった。RCAは今日、三九五まで戻したらしいが、もし五十株抱えたままだったら——考えたくもない」
「サル。お前が決めたんだ。俺の話を聞いて、自分で売ると決めた」
「そうだ。俺が決めた。だが、お前が『全部売れ』と言わなかったら、俺は今日まで持っていた。五十株、抱えたまま、今日を迎えていた」
サルの声に、ゆっくりと、重みが戻ってきた。恐怖の輪郭を、あとから指でなぞるような息の使い方だった。
(サルは「知っていたのか」とは聞かない。「ありがとう」とだけ言う。マッシモの時、ブレナンの流通の時、そして今回のRCA。三度、信頼が裏切られなかった。それが、サルを救った)
「サル。家族と過ごせ。ロザリアと子供たちと」
「ああ。ロザリアが、今夜はパスタを茹でるってさ。お前も来いよ、ベンソンハーストまで」
「……考えとく」
「考えとく、はお前の場合、『行かない』だ。今夜くらいは来い。ジーナがな、『レオおじさんはいつ来るの』って、うるさいんだ」
レオは受話器を耳から少し離した。ジーナの声を、頭の奥で組み立てた。まだ会ったことのない、小さな声だった。
「分かった。行く」
「そう来なくちゃな。ロザリアが喜ぶ」
電話が切れた。
受話器を置いた掌の熱が、ゆっくりと引いていった。
■
午後、レオはクリフに電話をかけた。呼び出し音が、いつもより長く続いた。エディの店のカウンター奥の電話は、昼はほとんど鳴らない。四度目のベルで、クリフが出た。
「クリフ」
「レオか。珍しい時間だな」
「クリフ。クリフのクインテットの来月の録音セッション、ヴィクターにキャンセルを打診してくれ」
「キャンセル?」布擦れの音の向こうで、トランペットが机の板に置かれた鈍い音がした。「パールの専属契約の義務枠だぞ。勝手にキャンセルしたら、違約金が」
「違約金は払う。それより、今のうちにキャンセルしておかないと、後でヴィクターの側からキャンセルされる。こっちから先に動いた方が、条件を整理できる」
「何だよ、それは。意味が分からない」
「クリフ。木曜日の市場を見ただろう。月曜も荒れる。レコード会社は真っ先に経費を削る。外部への発注を、まず止める。パールの次のセッションも、来月にはキャンセル通知が来る可能性がある」
クリフが、しばらく黙った。トランペットのマウスピースを外す、ネジの音が聞こえた。
「……レオ。お前、レコードの売上が、本気で下がると思ってるのか」
「思っている」
「根拠は」
「木曜に株で損をした連中が、来月もレコードを買うと思うか。盤は、腹を満たさない。真っ先に消える出費だ」
クリフが、また黙った。
「クリフ。パールのラジオ枠は、NBCと来年の契約を結んである。レコードがダメでも、ラジオが残る。パールの声を、盤から電波に移す準備をしておいてくれ」
「レコードがダメでも、ラジオが残る、か」クリフが息を吐いた。「去年、お前がレコードセッションを減らしてラジオに振った時、パールは怒った。俺も、半分疑っていた。だが今になって、思う。お前は、最初からこうなることを、知っていたんじゃないか」
「……知っていたら、もっと早くパールを説得していた」
「だろうな。お前は、自分の知っていることを、全部言わない。だからパールは怒る。だが結果が出ると、お前が正しかったことになる。それが、今の俺たちの関係だ」
「クリフ」
「分かった。ヴィクターにキャンセルを打診する。違約金はかかるが、レコード会社が勝手にキャンセルするよりは、こっちで条件を整理できる。パールには、俺から説明する」
「頼む」
「レオ。一つ聞いていいか」
「何だ」
「パールの次のアルバムのレパートリー、お前が書いた曲が三曲、入るはずだった。それも、キャンセルか」
「キャンセルだ。だがその三曲は、ラジオで使う。生放送のレパートリーに回す。パールの声を、盤に乗せる代わりに、電波に乗せる」
「電波に、か。レコードより、儲からないぞ」
「長くは、稼げる」
クリフが、乾いた笑いを一つ寄越した。
「長く、稼げる、か。お前はいつも、長く考えるな。俺はジャズのリズムで生きてるから、来週のことしか考えない。パーカーみたいに、来年のことしか考えない奴も、いる。お前だけが、十年先を見ている」
レオは受話器の縁に指の腹を当てた。ベークライトの、ざらついた縁だった。
(十年先。一九三九年。世界は別の形になっている。だが俺のカタログは、残る。ASCAPの分配金は、残る。ラジオは、残る)
「クリフ。来月の録音は、キャンセル。ラジオ枠を厚くする。パールにはそう伝えてくれ」
「分かった」
■
もう一本、電話をかけた。ブレナンへ。
受付の女の声が、電話に出た。「モレッティ様ですね、少々お待ちください」。前世の会社の受付の声より、半音低い声だった。少し間があって、ブレナンの声に切り替わった。葉巻を口から外して喋る癖の、あの吐き方だった。
「モレッティ君。状況は、見ているかね」
「見ています」
「私の楽譜の売上が、木曜日から二日で、半減した。デパートの楽譜コーナーに、客が来ない。人々が株で損をすると、楽譜なんて買わなくなる。恐慌の最初の被害者は、我々のような、買い換え可能な商品を売る連中だ」
「ブレナンさん。月曜の朝、楽譜の在庫を確認してください。デパートに置いてある委託在庫も含めて。月曜の市場が荒れたら、デパートから返品のキャンセルが飛んできます。返品されてもいいように、こちらから在庫を圧縮しておいてください」
「……モレッティ君。君は、月曜も荒れると思っているのかね」
「はい」
「根拠は」
「追証の通知が金曜に出ています。週末を挟んで、払えない客が大量に出ます。月曜の寄り付きは、強制決済の売りが殺到します」
ブレナンが沈黙した。金曜の午後の、太い葉巻の煙のような沈黙だった。
「……君の読みは、当たることが多い。分かった。月曜の朝一番で、在庫を確認する。デパートにも連絡を入れておく」
「ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは、こちらだ。君が協業を持ちかけてくれたおかげで、私の楽譜事業も、東海岸の販路を広げられた。それ以上に、君の読みを、事前に聞けたことが、今から思えば、助けになる」
「読みが当たれば、私も嬉しい」
「モレッティ君」ブレナンが、間を置いた。葉巻を灰皿に置く音がした。「昔、私は君の曲を、二十五ドルで買い叩いた。覚えているだろう」
「覚えています」
「あの時、私は君を、若いイタリア人の一人としてしか見ていなかった。今、電話越しに、君の声を聞いている。同じ人間だが、同じ人間ではない」
レオは目を細めた。
(ブレナンは、まだ、俺を完全には認めていない。ビジネス上の礼儀だ。本当に認めるのは、来週以降。月曜と火曜の暴落の後、彼が生き延びられたと分かった時。二十五ドルの反転は、そこで、もう一段深くなる)
「ブレナンさん。月曜の朝、電話をください。在庫の状況を、共有しましょう」
「掛ける。月曜の八時に、掛ける」
電話が切れた。
■
十月二十七日、日曜日。
レオはアパートにいた。ラジオを消し、新聞を畳んで棚に置いた。一日、音のないままにしておいた。
昼過ぎ、ピアノに歩み寄った。新しい曲は書かなかった。既存の曲を、順に、指で撫でるように弾いた。クリフとの共作。ラジオ向けのスウィング。映画のバラード。指が、迷わず動いた。指だけが、この部屋の中で、迷いを持たない部分だった。
午後、窓辺に椅子を寄せて、空を見上げた。日曜のマンハッタンの空は、いつもより高く見える。雲が薄く流れていた。
明日、市場は大きく崩れる。一割を超える下げになるはずだった。明後日は、さらに深い。銀行家プールは、明後日は、動けない。正確な数字は覚えていない。記憶は変質する。だが、順番だけは確かだった。
モーは、どうなる。サルは、助かった。パーカーは、月曜の朝に、まだ「一時的だ」と言うだろう。名も知らない人々は。
モーは、まだ大丈夫だ。三月からレオが何度も勧めていた現金化分がある。土曜に少し減らしたと言っていた。だが半日では、限界がある。まだ重いポジションを抱えているだろう。
懐中時計は、まだあるか。
レオは煙草に火をつけた。マッチの燐の匂いが、鼻の奥まで届いた。煙を、天井の隅に向けて吐いた。
手が、震えていた。
明日の市場が怖いのではなかった。明日の結果は、知っている。怖いのは、明後日の、火曜日だった。火曜日のパニックの中で、モーの声を聞くことだった。モーの父が、ハンブルクから船に乗せてきたあの銀の懐中時計が、まだチェストの上にあるかどうかを、確認することだった。
(前世の深夜のオフィスは、静かだった。ノートPCのファンの音だけがしていた。数字と効率だけを追い求めて、心が半月分ずつ薄くなっていた。あのオフィスで暮らすように働いていた男は、友人が資産を失い、時計を質屋に置く前夜の重さを、知らなかった)
煙草を灰皿の縁に置いた。ゆっくりと灰が落ちた。
ベッドに入った。眠れるとは思わなかった。だが眠れた。身体が、戦いの前の休息を、勝手に取りに来た。
■
十月二十八日、月曜日。
朝七時。目を覚ました瞬間、身体の背中が重かった。骨の下に、湿った砂が張りついているような重さだった。
今日だ。
事務所へ向かう途中、ニューススタンドで朝刊を買った。
「市場の安定回復へ。銀行家の支援体制は盤石」
レオは新聞を畳んで、コートの内ポケットにしまった。読みたい記事ではなかった。ただ、今日の朝、この見出しが世界に出ていたことを、覚えておく必要があった。
事務所に着くと、ブレナンから電話があった。八時ちょうど。約束通りだった。
「モレッティ君。デパートの在庫は、金曜のうちに七割を引き上げた。月曜の朝までに、残り三割の圧縮を掛ける。委託契約の解除の書類も、月内に整える」
「早いですね」
「君の読みを信じた。それだけだ」
「ありがとうございます」
「……モレッティ君。もう一つ、聞かせてくれ。今日の市場は、木曜より深くなるのか」
レオは半拍だけ、迷った。
「深くなります」
ブレナンの息が、受話器の吹き込み口を叩いた。
「そうか。分かった。楽譜の卸先には、月曜の朝、こちらから連絡を入れる。仕入れを絞るように、と」
電話が切れた。
九時四十五分。モーから。
「レオ。寄り付きの板を見た。木曜日と、同じだ。いや、木曜より深い」
「何が見える」
「週末の間に、追証を用意できなかった顧客の強制決済注文が、板の上に山積みだ。銀行家プールの買い支えが、木曜ほどの効果を持つかどうか」
「持たない」
モーは、反論しなかった。
半拍おいて、レオは言葉を継いだ。
「木曜に市場を支えたプールの資金は、今、含み損を抱えている。追加の買い支えは、コスト的に、彼らでも重い」
「……ああ。土曜に少し減らしたが、半日では大して捌けなかった。レオ、今日は長い一日になるぞ」
十時。取引開始のベルが鳴った。
そして、この日、銀行家プールは動かなかった。
■
午前中の時点で、市場は制御を失った。
レオは事務所にいた。ラジオと、モーからの断続的な電話が、今日の唯一の情報源だった。
十一時。モーから。
「DJIA、二八〇を割った。US Steelは二〇〇を下回った」モーの声は、乾いていた。感情を絞り出す余裕すら、切り離した声だった。「レオ、フロアは、木曜の比じゃない。木曜はまだ、怒号があった。声が出ていた。今日は、静かだ。悲鳴すら、出ない。みんな、ただ、掲示板を見上げている」
正午。ラジオ速報。
「ニューヨーク証券取引所、午前の出来高六〇〇万株超。ティッカーテープの遅延は拡大中。株価は全面安。銀行家グループは、現時点で買い支えの声明を発表していません」
午後一時。モーから。
「DJIA、二七〇。いや、これは三十分前の数字だ。テープが追いつかない。実際は、もっと下がっている。RCAは、三四〇を切った」
午後三時。取引終了のベル。
だがティッカーテープは、まだ午後一時頃の取引を印字していた。
最終的な数字が出揃ったのは、午後五時半だった。
DJIA引け値、二六〇・六四ドル。
前日比マイナス三八・三三ドル。下落率一二・八パーセント。出来高、およそ九二五万株。
一二・八パーセント。一日で。
(史料では「一日で一割以上」とだけ覚えていた。一二・八という細かい数字までは、記憶になかった)
レオは机の上にノートを開き、含み益を計算した。指の動きが、木曜の夜より、ゆっくりだった。
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空売りポジション(10/28 引け値ベース)
【既存ポジション】
RCA $320(建値$485) 1,200株×$165=$198,000
US Steel $185(建値$248) 1,000株×$63=$63,000
GM $52(建値$69) 1,500株×$17=$25,500
Montgomery Ward $80(建値$128) 500株×$48=$24,000
【追加ポジション】
RCA $320(建値$415) 60株×$95=$5,700
【空売り含み益合計】 $316,200
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まだ確定利益ではない。明日、市場がさらに下がれば、含み益はさらに膨らむ。
(明日、火曜日。教本が呼ぶ日が、来る)
電話が鳴った。夜の十時。モーだった。
「レオ。起きているか」
「起きている」
「今日の最終集計が出た。俺の顧客の、三分の一が、マージン・コールに応じられなかった。明日の寄り付きで、強制決済される。全員だ」
「三分の一」
「三分の一だ。三十一人のうち、十人。退職金を全額入れていた老人が、いた。結婚資金を株に変えた若い男が、いた。俺が『買い増せ』と勧めた客も、いる」
モーの声が、初めて、揺れた。低い場所で、細く。
「モー」
「俺は、間違えていたのか。市場は上がると、俺は言った。RCAは六〇〇に届くと」
「モー。今夜は、それを考えるな。明日のことを、考えろ」
「明日。そうだ、明日がある。明日は、市場が反発するかもしれない。銀行家が」
「モー」
レオは、言いかけて、止めた。
(言えない。言えば今夜、モーは眠れない。俺が言ったところで、明日の暴落は、同じように起きる。俺にできるのは、モーの声を、今夜、聞くことだけだ)
「モー。今夜は、寝ろ。明日は、明日、考えればいい」
「……ああ。そうする」
「モー。一つだけ、聞かせてくれ」
「何だ」
「お前の懐中時計は、まだあるか」
唐突な質問だった。モーが、半拍、戸惑った。
「懐中時計? ああ、親父の時計か。チェストの上に、置いてある。なぜ、聞く」
「何でもない。おやすみ、モー」
「おやすみ、レオ」
電話を切った。
(モーの懐中時計は、まだ、ある。だが明日の暴落の後、どうなるかは、俺にも分からない。モーは、土曜に少しポジションを減らしたと言った。俺が三月から勧めていた現金化分と合わせても、痛手は免れない。足りない分を補うために、あの時計を、あの男は、質屋の窓口に持っていくかもしれない)
レオは帳簿を閉じた。
■
夜。事務所の窓辺に立って、暫定的な資産の見積もりを、頭の中で並べた。
現金・米国債 $330,000
空売り含み益 $316,200
音楽事業資産 $68,000
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暫定純資産 約$714,200
含み益はまだ確定していない。火曜の引けで空売りの半分を買い戻し、残りを数週間かけて決済する。その後で、底値の優良株を拾う。計画は、頭の中で線を引かれている。
(一二〇万に届く。そこまでは、教本の通りに手が動けば、届く)
マンハッタンの夜景を、窓越しに見た。ビルの窓には、まだ多くの灯りが点いていた。ウォール街の方角では、異様に多くの窓が明るかった。ブローカーたち、銀行員たち、弁護士たち、代書屋たち。全員が、明日のために、今夜働いている。
ティッカーテープが今日の取引を全て印字し終えたのは、ついさっきだ。午後三時に終わった取引の最後の一行が、午後十時過ぎに、テープの端に刻まれた。七時間の遅延。
(教本の知識は、テープが遅延する市場で、どこまで通用するか。木曜に学んだ。「一日で十一パーセント下落する」という知識があっても、自分の注文が約定するかどうかは別の問題だ。市場の混乱は、知識の外側で起きる。未来を知っていても、細部は、操作できない)
灯りを消した。事務所の椅子に浅く座って、天井を見上げた。硝子扉の向こうの廊下の灯りが、天井の一角に、細く、細く、こぼれていた。
明日。十月末の火曜日。
教本が「暗黒の火曜日」と呼ぶ日が、来る。日付は覚えていない。木曜の翌週の頭、火曜だった。それだけだ。
レオは知っている。だが「全て知っている」とは、もう思わない。
木曜に、学んだ。注文は通らないことがある。テープは遅れる。銀行家の介入で含み損が生まれる。教本には載っていない変数が、いくつも、この現実の側に落ちている。
明日もまた、計画通りにはいかないだろう。
だが、計画を持たないよりは、ましだ。
目を閉じた。
瞼の裏に、サルの声が残っていた。「八月に全部売っておいて、本当に、良かった」。
サルは助かった。それだけでも、今夜は、眠れる。
やがて意識が沈み、事務所の暗闇が、深くなった。
(明日——歴史が、動く)