五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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内容の大筋は変わりませんが、文章・描写・整合性を全面的に見直しています。
既にお読みいただいた方も、よろしければ第1話からお楽しみください。


【第17話】隠していた音

 一九三一年の春が、マンハッタンには遅く来た。

 

 セントラル・パークの草坪に緑が戻り始めても、通りの空気は湿った灰色のままだった。パンを求める列は去年より一区画長い。街角の新聞売りが、去年より小さな声で呼び込みをする。フーバーヴィルはリバーサイド・パークの端まで這い上がっていた。

 

 レコード産業は、二〇年代半ばの一割ほどに縮んだ、という記事を、レオは事務所の窓辺で読んだ。総売上の細かい数字までは、頭の奥のどこか薄い層に残っているだけで、うまく引き出せない。ミュージシャンが電波の方へ流れていく、という結論だけは早い。

 

 だが、ラジオは伸び続けていた。

 

 NBCの提携局は去年から五十局増えた、とその記事は書いていた。受信機の世帯普及率は半分を越えた、とも。人々は金を使わない代わりに、家の中で、金のかからない声を聞いた。

 

 

 

 

 四月。レオはモーの事務所を訪ねた。

 

 昨年の初夏に一度顔を出してから、二度目だった。書類の山の位置が変わっていた。ルーがしばらく通って帳簿の並びを整えたと聞いていた。窓のブラインドの傾きも、去年より鋭かった。埃を通さない角度に、モーが自分で直したのだと分かった。

 

「レオ。来てくれたか」

 

「モー。元気そうだ」

 

「少しずつだ。這い上がっている。顧客は減ったが、残った顧客は、長期の投資家だ。彼らの手数料で、この一部屋分はやっと回る」

 

 モーの襟が、去年より上まで留まっていた。ネクタイの結び目も締まっていた。ブローカーの制服だ、と本人が昔、そう呼んでいた。

 

「今日は、何用だ」

 

 レオはコートの内ポケットに手を入れた。

 

「懐中時計を、返しに来た」

 

 モーの目が、瞬きひとつぶんだけ止まった。

 

「……返す? だが、借りた一万ドルを、俺はまだ返しきっていない」

 

「金の話は、待つと言った。今日は時計を返しに来た」

 

「レオ、それでは担保が」

 

「担保は要らなくなった。事務所はある。客もいる。借金を返す当てのある男に、担保は要らない。金は、これから何年かかけて返してくれ」

 

 銀の懐中時計を、机の上に置いた。蓋の裏の年号は、モーの父がハンブルクを離れた年より二年早い。刻印を入れ直した跡が、蓋の縁に細く残っている。

 

「モー。お前は、這い上がった。時計は、お前のものだ。返す」

 

 モーが震える手で、懐中時計を受け取った。蓋を開けた。針は動いていた。

 

「……レオ。俺は、この時計を質に入れるつもりだった。昨年の十一月に。だがお前が預かってくれた。あの時、お前が預からなければ、この時計は質屋に入り、いずれ他人の手に渡っていた」

 

 レオは机の縁に指を置いた。冷たい鉄の縁だった。

 

「モー。これからは、その時計をチェストの上に置いておけ。市場は嘘をつくことがある。だが、お前の父の記憶は嘘をつかない」

 

 モーが、少しだけ、笑った。頬の肉が痙攣した。

 

「ああ。置く。一生、置いておく」

 

 握手はしなかった。銀の時計を挟んで、二人の指の間に、代わりに何かが動いた。

 

(預かった十六ヶ月のあいだ、俺はゼンマイを月に一度だけ巻いた。回しすぎれば芯が伸びる。回さなければ止まる。他人の時計に触るときの手つきを、この身体は父の裏地から覚えている)

 

 

 

 

 五月。四十九丁目のNBCスタジオ。

 

 パールの全国ネット初回放送の、前日のリハーサルだった。

 

 天井の高い部屋の中央に、拳ほどの銀色の筒が一本だけ立っていた。RCA製のコンデンサー・マイク。壁は分厚い麻布と綿の詰め物で覆われ、足音を吸っていた。この一本に、全員の音が入る。技師が奥のガラスの向こうで、ヘッドフォンの位置を直している。

 

「パール。マイクの前に。距離を決める」

 

「距離?」

 

「拳ふたつ分。近すぎると息が乗る。遠すぎると声が痩せる」

 

 パールがマイクの前に立った。レオが横から拳をひとつ、ふたつと当てた。

 

「クリフ。トランペットは四フィート下がってくれ。それとハーマン・ミュートをつけろ」

 

「オープンを潰すのか」

 

「潰さない。制御する。マイクは一本だ。全員の音がその一本に集まる。バランスは、部屋の中の距離で作るしかない」

 

「聴きもせずに、なぜ分かる」

 

「まずやってみよう。オープンで一度」

 

 クリフが鼻を鳴らし、トランペットを構えた。ピアノがイントロを弾く。『Midnight in Harlem』のスロー・ブルース。二小節目でクリフのラッパが入った瞬間、コントロール・ルームのスピーカーから返ってきた音を、部屋の全員が聴いた。

 

 パールの声が、消えていた。

 

 金属の反射音がマイクを埋め尽くしていた。ベースの低域はラジオのスピーカーが返しきれず、輪郭だけがぶら下がっていた。声だけが、ラッパの後ろに沈んでいた。

 

「止めてくれ」

 

 クリフがラッパを下ろした。反論は喉の中で消えた。

 

「クリフ。お前のトランペットは百デシベル以上出る。パールの声は八十デシベルがいいところだ。二十デシベルの差は、音量で百倍の差だ。マイクは人間の耳と違って、大きい音も小さい音も平等に拾う。だから配置で差をつける」

 

 クリフが黙って四フィート下がった。ハーマン・ミュートを装着した。ベーシストが柱の陰へ半歩逃げた。ピアニストがソフト・ペダルを踏んだ。

 

「もう一度」

 

 同じイントロが始まった。同じ二小節目でラッパが入った。だが今度は、パールの声が前に立っていた。ラッパのミュートが声の背後で、金属の光を布で漉したような温度で揺れた。ベースは相変わらず痩せていたが、リズムの骨だけは残った。ピアノが右手の高域だけで、和声の色を差した。

 

 二コーラス目。パールのブレスが聴こえた。歌の間の、短い吸気。マイクの近くでだけ拾える音だった。

 

 曲が終わった。ガラスの向こうで技師が親指を立てた。パールがマイクを見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

「……レコードより、近い」

 

「近い?」

 

「あたしの声が——聴いてる人の、すぐそばで歌ってるみたい。レコードは、遠くから聴こえた。ラジオは、耳元で囁いてる」

 

 クリフがミュートを外し、ラッパを膝に下ろした。

 

「レオ。俺のオープンの音は、死んだのか」

 

「死んでない。使い分けるだけだ。ラジオではミュート。ライブではオープン。同じ曲を、場所に合わせて変える」

 

 クリフは何秒か考えるように口を結んだ。それから、低い声で言った。

 

「同じ曲に、二つの姿を持たせる、か。そんな考えは、俺にはなかった」

 

「レコードは一種類しか作れない。ラジオとライブなら、パールの声もクリフの音も、両方生きる」

 

「認めるよ。今日は俺の負けだ」

 

(前世のDAWなら、ラッパのトラックのフェーダーを二十デシベル下げて、パンで左に振る。この時代、フェーダーはない。パンもない。この部屋の中で楽器を物理的に動かすことが、一九三一年のミキシングだ)

 

(同じ原理が、指の側から一枚ずつ剥がれ落ちていく。前世の指は、画面の中の目盛を撫でていた。この身体の指は、床の目盛を覚えている。両方の記憶を、今日だけ同時に使っている)

 

 

 

 

 翌日の本番。パールの声が、東海岸から中西部までの五十局以上に乗った。

 

 放送後、パールが事務所に来た。両手に、リハーサルで使った小さな帽子を握っていた。

 

「レオ。あたし、来月から週三回のレギュラーが決まった。全国ネット。南部の黒人局にも流れる」

 

「おめでとう、パール」

 

「あんたのおかげよ。レコードの夢は消えた。盤は溶かされた。でもラジオのおかげで、あたしは歌い続けられる」

 

「お前の声が良いからだ」

 

「声だけじゃ歌えない。あんたがスタジオでマイクとの距離を決めて、クリフにミュートをつけさせて、ピアノの音域を指定した。あんたは作曲家じゃない。プロデューサーよ。歌い手の声を、一番いい形で届ける人」

 

 レオは机の書類の縁を指先で揃えた。

 

「パール。レパートリーを組もう。俺の曲を三曲軸にする。お前が歌いたい曲があれば、それも入れろ。レコードのときはレーベルが選んだ。ラジオなら、お前が選べ」

 

「あたしが選んでいいの?」

 

「お前が選べ。週三回、一回に五曲として、月に六十曲。それだけの数字が、お前の名前で電波に乗る。ラジオの向こうの客は、お前の選択を聴きに来る」

 

 パールが帽子を被り直した。窓の光がその縁に一瞬乗って、また外れた。

 

「数字、ね。あんたはいつもそう言う。でも、その数字があたしの声を救った。それだけで十分よ」

 

 パールが階段を降りていく足音が、事務所の床の下で薄れた。

 

(プロデューサー、と彼女は言った。芝居や映画の世界の言葉だ。だがパールが指したのは、その意味じゃない。レコードやラジオの音そのものを組み立てる人間に、この時代まだ名前はない。パールは一番近い言葉を借りて、俺がまだ欲しいと認めていない仕事を、先に言い当てた)

 

 窓の外の空気の中に、パールの声の残響が、しばらく残っている気がした。今日のスタジオはNBCの部屋だった。NBCのマイク、NBCの技師、NBCの枠。俺は借り物で、頭の中の音に近づけた。近づけただけだ。マイクがあと一本あれば、ベースの低域が拾えた。壁の吸音をもう少し削れば、声に空気が乗った。

 

 自分の部屋があれば、と考えて、その考えの新しさに気づいた。

 

(マイクの位置も、壁の材質も、楽器の距離も、全部この手で決める部屋。近づけるのではなく、そのまま出せる場所。金なら、ある。だがこれまでの金は生き延びるための金だった。舐められないための、仲間を守るための金。何かを作るために欲しいと思ったのは、初めてだ)

 

 

 

 

 六月。ブレナンとの協業が形になり始めていた。

 

 ブレナンが三十年かけて築いたASCAPの人脈は、細い水路を張り巡らせた古い畑に似ていた。パイプは細く、金属の継ぎ目は錆びていたが、水は今も流れていた。

 

「モレッティ君。ASCAPの理事会で、君のカタログが正式に評価された。今期の演奏頻度で、『Midnight in Harlem』『Moonlight Serenade』『Harlem After Hours』の三曲が上位百に入った。これで、配分ランクは確定だ」

 

「ブレナンさん。ありがとうございます」

 

「いや、ありがとうは俺の方だ。私がこの仕事を続けられているのは、君が搾取しなかったからだ」

 

 レオは机の縁に指を置いた。父のコートの裏地の縫い目のそば、白い糸で「C.M.」と刺された二文字を、事務所の椅子に掛けたコートの背中にだけ、頭の中で思い出した。仕立て屋の癖で、父は自分の縫った服には必ずその印を残した。裏地の縫い目の高さは、指の腹に、今も残っている。

 

「二十五ドルの話を、もう一度させてください」

 

「聞こう」

 

「俺は、あんたが二十五ドルで俺の曲を買い叩いたことを、今でも恨んでいる。それは、消えない。だが同時に、感謝もしている。あの二十五ドルがなかったら、俺は作曲家のまま終わっていた。自分で出版社を作ろうとは思わなかった。だから、あんたに感謝する」

 

 ブレナンが葉巻を灰皿の縁に置いた。灰の落ちる音がしなかった。

 

「……モレッティ君。私はな、君の曲を二十五ドルで買った時、自分が賢いと思っていた。だが、それは賢くなかった。投資としても、人間としても。私は、君の曲の価値を見誤った。その報いを、恐慌の中で受けた」

 

「ブレナンさん。あなたは今、俺のパートナーとして、ASCAPの配分を上げてくれている。それで、十分だ」

 

「十分じゃない。だが、そう言ってくれると助かる」

 

 握手を交わした。老獪な男の手のひらは、乾いていて、意外に温かかった。

 

 

 

 

 七月。サルが事務所に来た。

 

 シャツの襟を一つはずしていた。ネクタイは持って来ていなかった。夏のブルックリンから来た、と分かる皺の寄り方だった。

 

「レオ。話がある」

 

「何だ」

 

「俺の仕事、増やしてくれ」

 

「増やす?」

 

「ああ。俺は今、集金と配送と契約の下ごしらえをやってる。それ以外にも、できることがあるはずだ。ラジオ局との交渉も、ブレナンさんの流通網の管理も、俺にやらせてくれ」

 

「サル。責任を、取りに来たのか」

 

「そうだ。俺はもう、ただの使い走りじゃない。マッシモの時も、RCAの時も、俺はお前の判断を信じて助かった。今度は、俺がお前に返したいんだ。俺にできることを、全部やらせてくれ」

 

 サルの目の色が、十年前より、二段深くなっていた。二十五だった若者は、三十六になった。マッシモの脅迫に耐え、RCAの値上がりの誘惑を降り、家族をニュージャージーへ避難させ、また戻した。その全部が、目の下の薄い皺の中に畳まれている。

 

「サル。ラジオ局との交渉を任せる。NBCの提携局との使用料交渉を、お前がやれ。ブレナンさんと組んで、東海岸の中小局も回ってくれ」

 

「任せろ」

 

「それと、給料を上げる。月五百ドルに」

 

「五百か。前の倍近いな」

 

「お前の責任も倍近い。見合った額だ」

 

 サルが笑った。ブルックリンの八百屋の息子だった頃の、屈託のない笑いに、事業を回す男の重みが加わっていた。

 

「レオ。日曜、ブルックリンに来いよ。ロザリアがローストを焼く。子供たちが『レオおじさんはいつ来るの』ってうるさくてな」

 

「……行く」

 

「本当に?」

 

「ああ。行く」

 

「約束だぞ」

 

「約束する」

 

 サルが階段を降りていった。踊り場のところで、いつもの調子でイタリア語の呪詛を壁に向かって呟くのが、階段の下まで聞こえた。

 

(一本足はよくない、と最初に鉛筆で書いたのは、この身体の一月末の紙の裏だった。それから十一年経った。柱は増えた。だが、柱の隣に立ってくれる人間の数は、金の柱の数より、遥かに少ない)

 

 

 

 

 夏。アンジェロの店の改装が進んでいた。

 

 禁酒法の廃止が新聞の一面に載る前から、アンジェロは合法の看板を掛ける準備を始めていた。床のタイルは張り替えられ、奥の壁に舞台が組まれ、厨房の煙突が新しく通っていた。

 

「レオ。見てくれ」

 

 アンジェロが新しいカウンターを掌で撫でた。撫でる手つきに、二十年間、隠し扉の奥で震えていた男の指の癖が、一本だけ残っていた。

 

「合法の看板が掛かる日には、マッシモの影も、密造酒の影もない。自分で選んだ酒を、自分の店で出す」

 

「いい店になる」

 

「名前を、考えてるんだ」

 

 まだ何も掲げていない、漆喰の壁を指した。

 

「三十年、俺は昼にパスタを茹でて、夜は隠し扉の奥で震えながら酒を出してきた。だが、この店は違う。昼の商売が終わって、世間が寝静まった後に、ミュージシャンが集まって、売り物にならない本物の音を鳴らす。そういう時間のための店にしたい。クリフたちが言うだろう。仕事がはねた後の、"アフター・アワーズ"のセッションが、一番いい音が出るって」

 

「『After Hours』か」

 

「そうだ。看板にはそう出す。表通りの、大きなドアの上にな。誰でも、明るいうちから、堂々と入れる。だが店の本当の顔が出るのは、夜が更けてからだ」

 

「いい名前だ。お前の店にふさわしい」

 

「改装費用、出資してくれてありがとう。この店は、俺とお前の合弁だ。利益は折半」

 

「楽しみにしてる」

 

 アンジェロが振り返った。木屑と漆喰の粉のにおいのする店内で、店主とレオの二人きりだった。

 

「レオ。俺は、お前に礼を言いたい」

 

「アンジェロ」

 

「俺はな、マッシモに搾取されている間、ずっと怖かった。みかじめ料が払えなければ、店を潰される。酒の仕入れの経路まで組織に握られていて、逃げ道がない。家族も巻き込まれる。俺は、三十年間、その恐怖と一緒に生きてきた」

 

「……」

 

「だがお前がマッシモを倒してくれた。俺の店を取り戻してくれた。俺は、自分の店の主人に戻った。それがどれほど嬉しいことか」

 

「アンジェロ。俺は、親父の意地を繋いだだけだ」

 

「親父さんの意地、か。カルロさんの意地。あんたの親父さんは、堅気を貫いて孤独に死んだ。だが、その意地を息子が繋いだ。息子が、俺の店を取り戻し、俺の第二の人生を生んでくれた。それは、カルロさんの意地の延長だ」

 

「……ありがとう、アンジェロ」

 

「ありがとうは、俺の方だ。レオ、お前がいなかったら、俺は今頃、マッシモに店を買い叩かれて、路上にいた。お前のおかげで、俺はここにいる」

 

 新しいカウンターの向こうから、大工の一人がハンマーの音を立てた。アンジェロが振り返り、身振りで返事をした。三十年、頭を下げ続けた男が、今は自分の名前で誰かを呼び、返事を返している。

 

 

 

 

 秋。改装の途中の店に、クリフが顔を出した。

 

 椅子もテーブルもまだ入っていない。床のタイルが張り替えられたばかりで、ニスの匂いだけが乾ききらずに残っていた。奥にアップライト・ピアノが一台。アンジェロがどこからか運んできた中古で、調律は甘かった。だが鍵盤は落ちる。

 

「弾けるのか、これ」

 

「弾ける。音程は少し狂ってるが、弾ける」

 

「じゃあ弾け。俺も吹く。誰もいない。好きに出せる」

 

 レオがピアノの前に座った。クリフが床にあぐらをかき、トランペットのマウスピースを掌で温めた。

 

「何をやる」

 

「何でもいい。お前が弾け。俺がつける」

 

 左手でベースラインを刻んだ。Cのキー。何百回と弾いた進行——Cmaj7、Dm7、Em7、Am7。

 

 だが、右手が違った。

 

 Cmaj7ではなく、Cmaj9を押さえていた。ルートのCと三度のE、五度のG、七度のBに、九度のDが乗る。五音が積み重なり、Cmaj7より明るく、しかし複雑に響いた。次のコード。Dm7ではなく、Dm9。その次。Em7ではなく、Em7(♭13)——五度の半音上のCが乗る不協和な色。

 

 クリフがトランペットを下ろした。

 

「……おい」

 

「何だ」

 

「今のコード。お前、前からそれ知ってたな」

 

「知ってた」

 

「なぜ使わなかった」

 

「……使う場面がなかった」

 

(嘘だ。使う場面がなかったんじゃない。使うのが怖かった。テンションを重ねれば重ねるほど、一九二〇年代のジャズから離れる。この時代にまだ存在しない響きを出してしまう。俺がどこから来たのか、指が証明してしまう)

 

「レオ。俺たちは八年の付き合いだ。お前が何か隠してるのは、最初から分かってた。音楽を聴けば分かる。お前の書く曲は、この時代のジャズの五年先を見てる。いつもぎりぎりで踏みとどまってる。意図的に」

 

「……」

 

「ここには誰もいない。客もいない。レコーディングもしてない。全部出せ」

 

 鍵盤を見た。象牙の黄ばんだ端の何本か。がらんどうの店。クリフの目の奥。

 

 指が動いた。

 

 Am7からE7への進行——V度のドミナント。ジャズの基本中の基本。だがE7の代わりに、Bb7を弾いた。

 

 トライトーン・サブスティテューション。

 

 E7とBb7は、三度と七度が共通する。E7のG♯とD音は、Bb7ではD音とA♭(=G♯)として現れる。同じ機能のまま、ルートだけが半音で動く。Am7→Bb7→Am7。半音の滑らかな下降。E7が持つ緊張と解決を、もう一段洗練された響きで実現する。

 

(一九四〇年代にチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーが使い始める技法だ。ビバップの和声的基盤。今は三一年。十年早い)

 

 クリフが目を細めた。マウスピースを咥え直した。

 

 Am7→Bb7の進行の上で、ミュートを外したままのラッパが応答した。Bb7の上で、通常のE7では選ばないフレーズを吹いた。Bbのルートからスケールを探るように、短いパッセージを三回試し、四回目で見つけた。

 

「……Bb7か。E7じゃなくBb7。なぜ機能する」

 

「三度と七度が共通してるからだ。トライトーン、つまり増四度の対称性を使う」

 

「トライトーン。悪魔の音程か」

 

「悪魔じゃない。数学だ。十二音を半分に割ると六半音。CとF♯。EとBb。その対称性が代理コードを可能にする」

 

「数学で音楽をやるのか、お前は」

 

「数学は道具だ。使った結果が美しければ、道具が何でも構わない」

 

 クリフが鼻で笑った。だが目は笑っていなかった。

 

「もう一回。今度は全部つけろ。テンションも、代理コードも、お前が知ってる全部だ。俺はそれに合わせて吹く」

 

 レオが弾き始めた。

 

 Cmaj9——Fmaj7(♯11)——Bm7(♭5)——Bb7——Am9——Dm11——G13——Cmaj9。

 

 いつものターンアラウンドが、テンション・ノートで彩られ、代理コードが組み込まれ、別の音楽になっていた。骨格は同じ。だが肌理が違う。一九二〇年代のジャズの骨格に、一九五〇年代の和声が乗っている。

 

 クリフのラッパが、その和声の上を走った。最初の数小節は手探りだった。聴いたことのない響きに、いつものフレーズが合わない。三コーラス目から、耳が追いついた。Bb7の上でBbリディアン・ドミナントのスケールを、名前も知らないまま、直感で掴んだ。四コーラス目。フレーズの跳躍が大きくなった。半音階のパッセージが増えた。コードトーンから外れた音を、意図して選び始めた。

 

 八コーラス目で止まった。

 

 最後の音が、漆喰の壁と新しい床のタイルに吸われて消えた。調律の甘いピアノの残響が、二秒だけ、店に残った。

 

 クリフがラッパを膝に置いた。

 

「……レオ」

 

「何だ」

 

「今のが——お前の本当の音楽か」

 

「……そうかもしれない」

 

「なぜ隠してた」

 

「時代に合わないからだ」

 

 クリフはトランペットを膝に置いたまま、しばらく黙っていた。それから、低い声で言った。

 

「それは嘘だな」

 

「……」

 

「時代に合わないなら、少しずつ出せばいい。お前はいつもそうしてる。五年先の曲を、一年先まで薄めて売る。その匙加減が、お前の得意技だ。だが今の音は、薄めてすらいない。金庫にしまったままだ。なぜだ」

 

「……」

 

「売れないからだろう」

 

 レオは答えなかった。

 

「テンションだのトライトーンだの、そんな音はレコードにならない。ラジオでもかからない。金にならない。だからお前は、人前で弾かない。人前で弾かない曲は、お前の中で商品じゃないからだ。お前は曲を、売れるか売れないかでしか見ていない」

 

(違う、と言い返したかった。だが、言葉が喉で止まった)

 

「7年前、俺はお前に言った。覚えてるか。金勘定のためじゃなく、音楽のためにやれ、と」

 

「……覚えてる」

 

「お前は逆をやった。音楽を、金勘定のためにやった。自分の版権が七十二。ブレナンさんの代理が二百。合わせて二百七十二曲、お前が一手に捌いてる。たいしたもんだよ。だが、その二百七十二の中に、今の八コーラスみたいな音は一つもない」

 

 クリフが立ち上がった。トランペットをケースにしまう。その手つきは丁寧で、怒ってはいなかった。ただ、悲しそうだった。

 

「お前は作曲家じゃない。版権屋だ」

 

 ニスの匂いのする、がらんどうの店に、その言葉が落ちた。

 

「街で一番の版権屋だ。それは認める。だが、作曲家じゃない」

 

「……」

 

「今の音は良かった。だからこそ言ってる。お前には書けるんだ。書けるのに、売り物にならないから書かない。それが、俺にはもったいない」

 

 レオは鍵盤に手を置いたまま、動けなかった。信用残高の論理も、リスクヘッジの論理も、いつもなら口が勝手に動く。だが今は、その全部が言い訳にしか聞こえなかった。

 

「また来る」クリフが言った。「ここが完成する前に。誰もいない店で、お前と俺だけで。今度は、お前の音を聴かせろ。版権屋の音じゃなく」

 

 クリフが出ていった。ドアの脇に立てかけてあった漆喰塗りの鏝が、彼のブーツの縁でかすかに揺れた。

 

(版権屋。自分で書いた七十二曲は、一曲残らず、売るために書いた。ブレナンから預かった二百曲も、売るために捌いた。合わせて二百七十二。数だけは、揃った)

 

(前世でも同じだった。売れない曲を作り続けた末に、売れる仕事へ逃げた。今世では、音楽のために稼ぐはずが、稼ぐために音楽を使った)

 

(パールは、作曲家じゃなくプロデューサーだと言った。あれは救いの言葉だった。クリフのは刃だった。だが二人とも、同じ一点を突いている)

 

 

 

 

 秋の終わり。ルーが事務所に来た。手帳を持っていた。

 

「レオ。今月の数字」

 

「聞こう」

 

 デスクの前に座り、手帳を開いた。字はいつもの、余白を惜しむ書き方だった。

 

「ASCAP分配金二千四百ドル。ブレナンさんの功績で、配分ランクが上がった。来月は二千八百ドルを見込める。ラジオ使用料も好調。映画音楽は、ハリウッドのミュージカル需要で維持。レコードはもうほぼゼロ。全体の月次売上は、四千八百ドルまで戻った」

 

「そうか」

 

「それと、来年の資金繰りの話。あなたが夏に大きな注文を出すつもりなのは、モーの口ぶりで察しがついてる。金額は聞かない。ただ、いつでも動かせるように、現金は三行に分けて待機させてある。指示があれば、その日のうちに執行できる」

 

「助かる」

 

 ルーが手帳を閉じた。少しだけ、レオを見た。窓からの光が、彼女の眼鏡の縁で一度だけ折れた。

 

「前は、あなたの判断の根拠を知りたかった。CFOとして当然だと思ってた。でも、やめにしたの」

 

「やめた?」

 

「根拠を問い続けるより、結果に賭ける方が、私には合ってる。あなたの数字は三年間、一度も外れていない。それで足りるでしょう。会社の帳簿は私が守る。あなたは、先を見ていて」

 

「……頼む、ルー」

 

「任せて」

 

 ルーが手帳を挟んだ脇に、ペン先の乾ききらないインクの香りが、しばらく机の上に残った。

 

(ルーは、根拠を問うのをやめた。詮索ではなく、信頼を選んだ。もう、あの手帳の裏にある問いを、俺に向けることはないだろう)

 

 

 

 

 十二月末。月次の資産台帳を締めた。

 

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  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1931年12月末

 

  【資産】

   現金         $80,000

   銀行預金(三行分散) $2,200,000

   米国債        $240,000

   音楽事業資産     $100,000

    (版権カタログ72曲+ブレナンカタログ販売代理、

    グランドピアノ2台、事務所設備、アンジェロ出資$5,000含む)

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料   $2,800/月(ブレナン功績でランク上昇)

   レコード版権料   $100/月(レコード産業壊滅状態)

   映画音楽契約料   $650/月

   楽譜売上      $200/月(ブレナン流通網で維持)

   ラジオ局供給料   $800/月(ラジオ絶好調)

   演奏料       $100/月

   米国債利子     $600/月

   合計        $5,250/月

 

  【月間支出】

   家賃(パーク・アベニュー)$200

   食費     $50

   サル給与   $400/月

   ルー報酬   $250/月

   クリフ報酬  $160/月

   ブレナン給与 $500/月

   ゴールドバーグ楽譜店 $30/月

   印刷・郵送費 $30/月

   事務費・通信費$40/月

   雑費     $50/月

   合計     $1,710/月

 

  【純資産】$2,620,000

   (現金・預金$2,280,000 + 米国債$240,000

    + 音楽事業資産$100,000)

   前章比: +$620,000(ASCAP・ラジオ・映画の成長で増加)

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 鉛筆を置いた。二百六十二万ドル。前年末より六十二万ドル増えた。ASCAPの配分ランクの上昇と、ラジオの伸びが効いている。

 

(来年の七月、DJIAが四十一の底を打つ。そこで底値の株を拾う。一本足はよくない、と紙の裏に書いた十二年前と同じ字が、今日の帳簿の裏にも残っている。柱は増えた。次の柱は、この帳簿の外にある)

 

 電話が鳴った。モーからだった。

 

「レオ」

 

「モー」

 

「懐中時計を、チェストの上に置いた。娘が見に来て、『お父さん、また時計が戻ったのね』と言ったんだ。妻も泣いてた」

 

「そうか」

 

「レオ。来年、市場が底を打つ時に、お前の注文を執行したい。俺の客は減ったが、お前の注文だけは、必ず執行する。三十年の経験を、お前のために使う」

 

「モー。頼む」

 

「……レオ。俺は、お前に救われた。懐中時計だけじゃない。信用も、プライドも、友情も。全部、お前が取り戻してくれた。だから俺は、残りのキャリアを、お前のために使う」

 

「モー。それは言い過ぎだ」

 

「言い過ぎじゃない。俺の言葉だ。受け取ってくれ」

 

「……分かった。受け取る」

 

 電話を切った。

 

 事務所の隅のラジオを、つけた。NBCの夜の放送だった。パールの声が、ノイズ混じりの電波の向こうから流れてきた。クリフのクインテットの伴奏に、今日はミュートがついていた。窓の外は冬のマンハッタン。ラジオの中だけが、別の季節だった。

 

 鍵盤に指を落とした。左手でCマイナー・セブンス。右手で、九度と十一度を重ねた響き。自分の書いた七十二曲のどれにも入れなかった音が、ひとつだけ、暗い店に落ちた。売れない、と分かっている音だった。

 

 指をそこで止めた。

 

 窓の外で、二十八番街とは違う角度から、また車輪の音がした。フォードの旧型ではなく、新型の乾いた音だった。世界が、この十二年で、確かに変わった。まだ変わっていない部分が、指の下に一音、残っていた。

 

(来年の七月。底値。そこで、最後の大博打を打つ)

 

 鍵盤から手を離すと、指の腹に、和音の残りだけがあった。前世で夜中の1Kにこもって鳴らしていた頃と同じ、Cマイナー・セブンスの残りだった。あの部屋の壁際のMIDIキーボードの、樹脂の鍵盤の感触は、もう、はっきりとは思い出せなかった。だが指の関節の角度だけは、覚えていた。

 

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