五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第18話】地獄の底

 夕刊は、机の端から半分だけ落ちていた。

 1932年7月8日の夕方。ミッドタウンの事務所。開けたままの窓から、アスファルトを煮溶かした匂いと、遠くのタクシーのクラクションが入ってきた。レオは椅子に腰かけ、活字を追う指先だけを動かしていた。

 

『ダウ平均、史上最安値を更新。四一ドル台。一九二九年のピークから、およそ九割の下落』

 

 三年と数ヶ月で、この国の株式は、価値の十分の九を失った、と記事は書いていた。数字の並び方は、教本で覚えたそれと、大まかには一致していた。四一ドル台。三年前の秋には、三八〇ドル台の紙面を、レオはこの手で開いていた。

 

(来た)

 

 紙面の一行の下に、白い余白があった。その余白を、レオはしばらく見ていた。

 教本には、この余白の色までは書いてなかった。ドキュメンタリーの画面には、当時の紙の匂いは映らなかった。今、指の先で紙の繊維を撫でている。少し湿っている。西向きの窓から差した夕日で、活字の輪郭がにじんでいた。

 右手の甲が、少しだけ震えているのに気づいた。押さえた。震えは、押さえた指の下で、二拍ほど残ってから消えた。

 

(三年待った)

 

 夕刊を丁寧に畳んだ。四つに折って、机の右端に置いた。角を揃えた。父の癖だった。仕立て屋の型紙を折る時と同じ、指先で角を撫でて空気を抜く動作を、いつのまにか自分もしていた。

 

 

 

 

 同じ月の下旬に、ワシントンで、テント村が焼かれた。

 新聞は連日その写真を載せた。カルダウ河の河川敷に、二万人以上の退役軍人が、家族連れでテントを張っていた。第一次大戦で戦った男たちだった。前倒しの手当てを、と議会に求めていた。数ヶ月そこにいた。夏の陽の下で、飯を炊き、洗濯物を干し、子供に絵本を読ませていた、と写真の下の文字は書いていた。

 議会は、要求を突き返した。テント村は残った。7月28日の午後、フーバー大統領が連邦軍の出動を命じた。マッカーサー将軍が、騎兵を率いた。歩兵と戦車が続いた。催涙ガスを撒き、松明で天幕に火を放った。妻と子供が煙の中を逃げ、退役軍人の父親が、負傷した仲間を背負って、川の方へ走った。

 次の朝刊の一面に、そのままの写真が印刷された。

 燃える天幕。サーベルを抜いた騎兵。逃げる妻。抱えられた乳児。アメリカの兵士が、アメリカの退役軍人を、アメリカの首都で、蹴散らした。

 レオは、その一面を、長い間見ていた。

 二回、目を上げて、また戻した。二回目に戻した時、写真の右下の隅に、片方だけの子供靴が写っているのに気づいた。踵の擦り切れ方が、六、七歳ぐらいの子供のそれだった。持ち主の姿は、写真の枠の外にあった。誰が拾ったのかは、記事にはなかった。

 新聞を閉じた。指先に、印刷の油が薄く付いた。ズボンで拭ってから、机の下の屑籠に落とすつもりで持ち上げて、落とせなかった。畳み直して、夕刊の下に重ねた。角を揃えた。

 窓の外で、七月のマンハッタンが、蒸していた。

 

 

 

 

 同じ日の遅い午後、レオはウォール街の一角にあるモーの事務所に向かった。

 古い煉瓦のビルの、五階。エレベーターの籠が上がる間、鉄の鎖の軋みが、耳の奥で細く残った。三年前の秋、レオがこの籠に乗った時、鎖の軋みはもっと若かった。同じ鎖のはずだった。摩耗しただけだ。

 事務所の扉を押すと、葉巻と紙の匂いがした。窓は東向きに開いていた。モーは机の向こうで立ち上がった。五十七歳。去年の同じ時期に比べれば、背筋が伸びていた。半年前に懐中時計をチェストの上に戻して以来、モーの首筋の後ろの緊張が、少しだけほどけていた。

 

「レオ。今朝のダウを見たか」

 

「見た。41.22」

 

「底か」

 

「底だ」

 

「根拠は」

 

 モーは、腰を下ろさなかった。デスクの縁に手を置き、その手のひらの下に、朝から書き込んだ売買記録の紙を挟んで押さえていた。

 

「配当利回りが十パーセントを超えた。一九〇七年の底値と、ほぼ同じ水準だ。この水準まで来た国は、たいてい底の底にいる」

 

 モーの目が、少しだけ動いた。1907年、というのは、モーがまだ一人前の営業員として、ウォール街の四つ角を走り回っていた頃の年だった。あの時、モーの上司は「これ以上は落ちない」と言って、頭を撃ち抜いた。以来モーは、底を口にする男の顔をよく見た。

 

「配当利回りは、俺も見ていた」モーは机の縁を離した。「だが、俺は今朝、動けなかった。手のひらに汗がにじんで、注文票にペン先が届かなかった。三十年やってきて、これほど手が動かなかった日は、二度目だ」

 

「二度目?」

 

「1907年の秋に一度目があった」

 

 レオは何も返さなかった。モーが自分で続けた。

 

「あの時、俺は買わなかった。上司がそう言ったからだ。以来、俺は同じ後悔を、二十五年、抱えてきた」

 

(今日、その後悔を、モーは畳もうとしている)

 

「モー」

 

「聞こう」

 

「AT&T、USスチール、GM、RCA、ゼネラル・エレクトリック。この五銘柄で、$1,000,000分。全額現金だ。マージンは使わない」

 

「$1,000,000」

 

 モーは復唱した。復唱した口の端が、ほんの少しだけ上がった。復唱の癖を、モーは前世紀の顧客から引き継いでいた。額の大きい注文は、口の中で一度転がしてから、書く。転がし方に、モー自身の手癖がある。

 

「純資産の三分の一だ」レオは続けた。「残りは現金と国債で寝かせる。株が下から動かなくても、日々の飯には困らない額を、手元に残す」

 

「三分の一。一本足打法にはしない、というわけだな」

 

 レオは、笑わなかった。

 

(一本足打法は、素人のやることだ)

 

 三年前の同じ言葉が、頭の中で、静かに元の場所に戻った。あの時は空売りの規模を制御するために、こう自分に言い聞かせた。今日は、上に張るために、同じ言葉を使う。方角は逆だが、重心の置き方は同じだった。

 

「銘柄の内訳だが」モーが紙を取った。「AT&Tを今の七十ドル前後で押さえれば、二〇〇〇〇〇ドル分で二八〇〇株。USスチールは三十ドル台、六六〇〇株。GMは十ドル。二〇〇〇〇株になる。RCAは今朝の値で、二ドル六二セント。二〇〇〇〇〇ドルで、七六〇〇〇株持てるぞ。ピーク時からの下落は、九割九分五厘だ」

 

「RCAは、ウェイトを落とす。レコード事業の負債が抜けていない」

 

「なるほど。ラジオは伸びる。だがレコードは死ぬ。RCAは両方の顔を持つ会社だから、片方の重さでもう片方が沈む可能性がある、と」

 

「そうだ」

 

(RCAは、ピーク時の$505から、$2.62に落ちた。値幅は千九百分の一だ。だが値段が九割九分下がった会社を、そのまま二倍に張ると、ラジオが失速した瞬間にレコードの残骸を丸ごと抱え込む。長い戻りに賭けるが、賭け方は控えめにする)

 

「AT&Tを軸にする。USスチールとGMは、実体経済の柱だ。RCAとGEは、次の十年の柱だが、次の十年に到達する前に、資本の再編成があり得る」

 

「分かった。今週中に、AT&Tから買い始める。RCAは分割して、慎重に拾う」

 

「頼む」

 

 モーが手を差し出した。レオは握手を返した。モーの手のひらの汗は、乾きかけていた。

 

「レオ」

 

「何だ」

 

「底で買う勇気は、正しさとは別のものだ」モーは握手をほどかなかった。「正しい額の注文票を書ける奴は、この街に千人はいる。だが、その注文票にペン先を届ける奴は、ほとんどいない。俺は、その千人の側にいた。二十五年、そこにいた」

 

「モー。俺の勇気じゃない。数字の余裕だ」

 

「数字の余裕を用意するのに、お前が何をしてきたかは、俺が一番よく知っている」

 

 レオは黙った。モーも黙った。窓の外で、ウォール街の一筋、ティッカーテープの帯が、日陰の側に沈んでいた。

 

 

 

 

 その週のうちに、注文は分割で執行された。

 

 AT&T、二八〇〇株。平均七一ドル。

 USスチール、六六〇〇株。平均三〇ドル。

 GM、二〇〇〇〇株。平均一〇ドル。

 RCA、七六〇〇〇株。平均二ドル六二セント。

 GE、一三三〇〇株。平均一五ドル。

 

 銀行の口座から、合わせて一〇〇万五〇〇ドルが引き落とされた。手数料と税金の合計は、桁からすれば端数だったが、その端数を紙に書き写す時のレオの鉛筆は、億単位の元帳を書く時と同じ角度で握られていた。父が仕立ての糸の端を切る時と、同じ角度だった。

 帳簿を閉じ、ペン立てに鉛筆を戻した。三年ぶりに、レオの資産の中に、株式の欄が復活していた。三年前の秋、その欄をゼロにした夜、レオは書斎の椅子の背に長い時間もたれかかっていた。今夜は、もたれかからなかった。

 ピアノの蓋を、開けた。

 Cmaj9で始めた。指の癖だった。1920年1月の午後、二十八番街の安アパートで、狂ったピアノの上に置いた同じ和音を、今夜のスタインウェイでも一度置いた。時代は変わったが、指の落ち方は変わらなかった。

 次に指が探した先の和音は、Am7だった。Cmaj9のあとに、素直にAm7を置くと、少し陰る。そこからFmaj7、G7、Cmaj7。ターンアラウンド。一日を閉じるための、儀式の四つの和音だった。三年間、毎晩これで一日を締めていた。

 

(今夜は、Cmaj7に、素直に戻った)

 

 三年前の暴落の夜、レオの指はCm7の陰から長調に戻れなかった。夜が明ける頃、指は途中で止まった。今夜は、戻れた。しかし戻ってしまうと、円環がまた閉じた。閉じた円環の内側で、指が居場所を探して、しばらく浮いていた。

 浮いた指の重心が、鍵盤の上を、少しだけ左に寄った。落ちた場所で、四つの音が、ゆっくり順番に鳴った。

 

 G——E——C——D。

 

 下がって、下がって、下がって、最後だけ、一音上がる。指が、勝手に、その形を置いた。置いた後で、指がその形の意味を、指自身に、問い直していた。

 

(——今の、四つ)

 

 もう一度、同じ場所に、指を戻そうとした。戻せなかった。今の四音は、たった今の空気の中でだけ、鳴った四音だった。二度目を弾こうとすると、指が、たった今の落ち方を、覚えていなかった。

 鉛筆を、机の端から取った。事務用の罫線ノートの、余白の一角に、G、E、C、D、と、四つ、鉛筆で書きつけた。譜面用の五線紙ではなかった。ただ、音名を、そのまま、四つ、罫線の上に並べた。書きつけて、鉛筆を、置いた。

 ノートを閉じた。閉じたノートを、机の一番上の抽斗に、そのまま入れた。今夜、この四音の続きを、指はまだ、探せなかった。DJIAが底を打った日の空気の中で、指が偶然拾った四音だった。拾った、というより、空気の側が、指に押しつけた四音だった。楽譜にする気は、まだ、なかった。

 抽斗を、閉じた。

 

 

 

 

 八月の午後、サルが事務所に来た。

 外は、七月の湿気がそのまま残っていた。サルの襟元は汗で色が濃くなっていたが、目は乾いていた。三年前、暴落の翌月に事務所の椅子に沈んだ、あの時の湿った目とは、質感が違った。

 

「レオ」

 

「何だ」

 

「話がある」

 

 サルは、椅子に腰を下ろす前に、まず一度、部屋の空気を見渡した。壁の版権リストの並び方、机の隅に立てかけた楽譜のインクの匂い、窓の下に積まれた月次帳簿の背表紙。三十七歳の男の目の動かし方は、レオの右腕を十年やってきた男の目の動かし方だった。

 

「聞こう」

 

「お前のやり方を、もっと学ばせてくれないか」

 

 サルは、まっすぐ言った。前置きも、照れ隠しもなかった。

 

(学ぶ、と言った)

 

「学ぶ」レオは復唱した。「何を」

 

「事業の全部だ。版権の値付け、ASCAP分配の理屈、映画音楽の契約書、ラジオ局への使用料の交渉。今は俺、ブレナンさんと二人でラジオ局の営業を回ってる。回れる。それはできる。だが、なぜその金額でその局に売れるのか、そこまでは、俺、まだ表面しか分かってない」

 

 サルは、両手を膝に置いた。ロザリアが結婚十年目の祝いに縫ったハンカチが、右のポケットから半分覗いていた。

 

「サル。お前はマネージャーだ。今のままで、俺は困ってない」

 

「俺が困ってる」

 

 サルは少し前かがみになった。

 

「マッシモの時、俺はお前の指図に従った。従っただけだ。RCAの時も、俺は自分で買った。買っただけだ。売れと言われて、売った。売っただけだ。全部、お前の判断だった。お前が判断できなくなった時、俺はどうする。ロザリアと、マルコと、ジーナを、俺はどうやって守る」

 

 ロザリア。マルコ。ジーナ。名前が三つ、部屋の中に置かれた。三つ並ぶと、事業の話ではなくなった。

 

「お前は、判断できなくなる予定があるのか」

 

「予定はない。だが俺は、お前が判断できなくなった時に、判断できる自分を用意しておきたい」

 

 レオは、机の縁を指で撫でた。三年前の秋にサルに全株を売れと言った夜のことを、思い出した。あの夜、サルは「お前を信じる」と言い、翌朝、五十株全部を四百五十ドルで手放した。信じた結果、助かった。信じただけだった。今、サルは、信じるだけの側を、卒業しようとしていた。

 

「サル」

 

「聞く」

 

「教えるよ。順番を、全部」

 

 サルは、口を薄く開けて、閉じた。その動きの中に、涙は出なかった。ただ、開けた口の奥で、息を一つ深く吸って、閉じた。

 

「才能は教えられない」レオは続けた。「俺の判断は、才能じゃない。手順だ。数字の読み方、リスクの分け方、味方を守る順番。手順なら、書ける。書けば、覚えられる」

 

「書けるのか」

 

「書ける」

 

「……そうか」

 

「お前は、十年、俺の隣で見てきた。手順を書けば、覚える速さは、この事務所で一番になる」

 

 サルは、うなずいた。うなずきの回数を、レオは数えなかった。数えなくても、サルの首の動きは、一つの重さを持っていた。

 

「レオ」

 

「何だ」

 

「今度は、俺が覚える番だな」

 

「そうだ」

 

(判断の枠組みも、リスクの取り方も、味方の守り方も、俺の中にしかない。俺と一緒に消えるものだ。だが手順に落として渡せば、俺と一緒に消えないものになる)

 

 サルが立ち上がった。ドアの前でもう一度振り返って、何か言おうとして、言わなかった。ただ、右手で額の汗を拭って、出ていった。

 

 

 

 

 九月の第一週、レオはハーレムのアンジェロの店を訪ねた。

 通りの一角に、新しい看板が下がっていた。板の縁の塗料はまだ乾ききっていない。金色の文字で「After Hours」。夜が明けた後の時間、という意味の店名だった。「密造酒の看板が下ろされる日のための店の名だ」とアンジェロは前に言っていた。禁酒法は、来年には廃止される、と、レオは知っていた。アンジェロは、それを知らないまま、賭けていた。

 店内は、以前のスピークイージーとは、匂いから違っていた。地下の湿気の代わりに、鉋屑と、新しいニスと、厨房のオーブンからの、脂と玉ねぎの匂いがした。テーブルは十二卓、ステージにはグランドピアノが置かれていた。マイクのスタンドも、コンデンサー・マイク用のクリップが用意されていた。

 

「レオ。見てくれ」

 

 アンジェロが、カウンターの一枚板を撫でた。オーク材だった。表面に鉋の跡が斜めに残っていた。

 

「禁酒法が廃止されたら、この店を開ける。上等のバーボンとウィスキーを、正規の卸から仕入れる。密造の甘ったるい酒じゃない。ステージには、クリフのクインテットと、パールを立たせる。厨房では、南部風の料理を出す。ハーレムの客も、ダウンタウンの客も、両方を呼べる店にする」

 

「客の混ざる店を作るのは、易しくない」

 

「知ってる。だが俺は、両方の客を歓迎したい。マッシモの店の頃、俺の店には片方の色の客しか入れなかった。あれは、俺が選んだんじゃない。マッシモが選んだ」

 

 アンジェロは、カウンターから手を離した。左の手のひらを、右の袖口で拭った。手のひらの真ん中に、鉋屑の粉が薄く残っていた。

 

「レオ。改装の資金を出してくれて、ありがとう。この店は、俺とお前の合弁だ。利益は折半だ」

 

「経営はお前の側だ。俺の側は、金と、音楽だ」

 

「楽しみに、待ってる」

 

 アンジェロは、それだけ言って、しばらく無言だった。厨房の奥で、若い料理人が鍋を落とす音がした。金属の乾いた響きが、一度、ステージのグランドピアノの内側で、共鳴した。

 

「レオ」

 

「何だ」

 

「もう一度、礼を言わせてくれ」

 

「もう聞いた」

 

「何度言っても、足りない」

 

 アンジェロは、目を落として、床のオーク材のつぎ目を見ていた。

 

「マッシモに絞られている間、俺は、俺の店で息をしてなかった。呼吸はしていた。だが、店で息はしてなかった。息と、呼吸は違うんだ、レオ。俺の店で、俺の息の色が、他人の色に染められていた」

 

 言葉を切って、床の同じ場所を、しばらく見ていた。

 

「お前が、マッシモの色を、俺の店から抜いてくれた。今、俺は、自分の店で、自分の息を、吸っている」

 

「アンジェロ」

 

「カルロさんの意地を、あんたが繋いだ。俺の店の空気の色まで、その意地の続きにいる。俺は、一生、その意地に借りがある」

 

 レオは、返す言葉を、しばらく探した。父の名前が呼ばれると、いつも探した。三年前の初夏、マッシモを消した後、アンジェロの店の裏口で、同じ言葉の元になった一言を、聞いた。今日の言葉は、その時の一言に、三年分の空気を継ぎ足した形をしていた。

 

「アンジェロ」

 

 結局、名前を返した。名前だけで、二人とも次の言葉には進まなかった。

 

(父の意地を繋いだだけだと、俺は思っていた。だがその意地の先に、この店の空気の色があった。今、この空気の中で、一人の男が息をしている。それは、俺の帳簿には載らない資産だ)

 

 

 

 

 九月末。

 月次の帳簿を、レオは事務所で締めた。

 

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  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1932年9月末

 

  【資産】

   現金           $80,000

   銀行預金(三行分散)   $1,650,000

   米国債          $240,000

   株式ポートフォリオ(時価)

    AT&T   2,800株×$85 = $238,000

    US Steel 6,600株×$40 = $264,000

    GM    20,000株×$15 = $300,000

    RCA    76,000株×$3  = $228,000

    GE    13,300株×$20 = $266,000

     時価合計   約$1,296,000(取得原価$1,000,000から+約30%)

   音楽事業資産       $100,000

   After Hours 出資     $5,000

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料     $2,800/月

   レコード版権料     $100/月

   映画音楽契約料     $650/月

   楽譜売上        $250/月

   ラジオ局供給料     $900/月

   演奏料         $100/月

   米国債利子       $600/月

   株式配当        $200/月(減配中心・一部復活)

   合計          $5,600/月

 

  【月間支出】

   家賃(パーク・アベニュー) $200

   食費           $50

   サル給与         $500/月

   ルー報酬         $250/月

   クリフ報酬        $160/月

   ブレナン給与       $500/月

   印刷・郵送費       $30/月

   事務費・通信費      $40/月

   雑費           $50/月

   合計           $1,780/月

 

  【純資産】約$3,500,000

   (現金・預金$1,730,000 + 米国債$240,000

    +株式時価$1,230,000 + 音楽事業資産$100,000

    +出資$5,000 + 諸調整・9ヶ月分利益蓄積)

   前章比: +$880,000

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 鉛筆を置いた。$3,500,000。前年末から、$880,000ほどの増えだった。増分の大部分は、底値で拾った五銘柄の含み益と、九ヶ月分のキャッシュフローだった。数字だけを見れば、いい月だった。

 だが、数字を見終わったあとの部屋の空気は、いい月の色をしていなかった。

 

(この上乗せの、いくつかは、他人の絶望と交換した金だ)

 

 窓の外の、通りの向こう側で、フーバーヴィルの薄い煙が上がっていた。三本、上がっていた。一本目は炊事の煙、二本目は焚き付けが湿った音だけの煙、三本目は空気が動いていない位置に留まったまま、崩れずに立ち上っていた。三本の煙のうち、一本は、七月の朝刊で見た天幕の煙と、色が似ていた。

 

(俺が底値で買ったRCAは、誰かが底値で手放したRCAだ。手放した男は、三年前、四百ドルで買っていたかもしれない。妻に、いつか家を買うと言っていたかもしれない。その男の家を、俺は、二ドル六十二セントで、剥がして持っていった)

 

 この計算は、正しい。正しいから、消えない。三年前の空売りで、レオが手にした百万ドルの利益は、パーカーの絶望と交換した金だった。あの絶望は、パーカーが自分で選んで蹴った結果だから、レオは自分に許した。今回の絶望は、選んで蹴った男の絶望とは、また別の絶望だった。

 台帳の最終行に、レオは今夜、注釈を入れなかった。入れれば、注釈の言葉の中に、免罪を紛れ込ませてしまう気がした。免罪を書き込むための帳簿ではなかった。

 窓の下の三本目の煙は、まだ、崩れずに立っていた。

 

 

 

 

 帳簿を閉じてから、ピアノの前に座った。

 スタインウェイのグランド。三年前の秋、初めてこの部屋に運び込まれた日、調律師の男が「戦後最良の一台だ」と言った、あの一台だった。蓋を開けると、湿気を吸った黒鍵の匂いが、ほんの少し、鼻を掠めた。

 いつものターンアラウンドを弾こうとした。Cmaj9で始めるつもりだった。指が鍵盤の一寸手前で、止まった。

 

(今夜は、ターンアラウンドじゃない)

 

 三年前の暴落の夜、Cm7の陰から長調に戻れなかった夜。あれからずっと、この儀式のターンアラウンドが、一日を締めるための蓋になっていた。締めるための蓋なら、他のもので閉めてもいい。

 椅子から立って、机の抽斗を開けた。七月八日の夜に閉じ込めた事務用の罫線ノートが、二ヶ月分の埃を薄く乗せて、そこにあった。開いた。鉛筆の四つの音名が、罫線の余白に、書きつけたままの形で残っていた。

 

 G、E、C、D。

 

 二ヶ月前のあの夜、拾った四音の続きを、指は探せなかった。今夜、二ヶ月分の帳簿と、二ヶ月分の煙と、二ヶ月分のフーバーヴィルの列を、通ってきた。

 ノートを譜面台に立てかけて、椅子に戻った。右手が、鍵盤の上を、七月の夜と同じ場所に置いた。落ちた場所で、四つの音が、ゆっくり順番に鳴った。

 

 G——E——C——D。

 

 下がって、下がって、下がって、最後だけ、一音上がる。

 三つ下がる線の勾配が、四音目のDでほんの少し裏返る。裏返る一音の分だけ、モチーフに息が入る。指が、二ヶ月ぶりに、七月の夜に押しつけられた息の場所を、今夜は自分で拾い直していた。

 もう一度、同じ四音を弾いた。今度は左手が、Am7の和声を敷いた。四音の下にAm7が入ると、モチーフに色がついた。冷えた色だった。だが最後のDが上がる一拍だけ、色が薄くなる場所があった。氷が薄く張った池の中で、その一箇所だけ、まだ水が動いている、そういう薄さだった。

 

(七月の四音に、今夜、続きが来た)

 

 オクターブを一つ上げて、同じ四音を弾いた。上のオクターブでは、冷えた色が消えて、透明な色だけが残った。もう一度、下に戻した。下では、透明さが消えて、冷えた色だけが残った。両方を、一度ずつ確かめた。曲は、下のオクターブから始めることに、指が決めた。決めたのは指で、頭ではなかった。

 和声を差し替えた。Am7の代わりにFmaj7を置いた。四音の色が、暖かい方に転んだ。転がしすぎだった。Dm7を置いた。今度は沈みすぎた。Cmaj7を置いた。明るすぎた。Am7に戻した。Am7が、いちばん正直な色だった。

 

(前世のDAWなら、この四音を打ち込んで、コピーしてトランスポーズして、クオンタイズをかけて、ベロシティを揃えて——五分で、それらしいループが一本できる。五分で、聴かれない曲が一本できる)

 

 MIDIキーボードの、プラスチックの鍵盤の感触が、指の裏に、薄く戻った。あの鍵盤では、指を離せば音が止まった。デジタルの音には、指を離した後の時間がなかった。今夜のスタインウェイでは、指を離しても、弦がしばらく震え続けた。振幅がゆっくり小さくなり、途中で、部屋の空気の中に、消える音と消えない音の境目があった。境目の場所は、毎回、少しずつ違った。

 同じ四音を、もう一度、指の裏で確かめた。空気の中の音の消え方が、さっきとは違った。

 

(この、消え方が、この時代の音楽か)

 

 モチーフを、少しだけ変奏した。四音目のDを、半音上げて、Ebにした。Am7の上でEbが不協和に鳴った。不協和のまま置いておくと、耳が拒む。だがEbの次に、Db7の和音を左手で置くと——不協和が、必然に変わった。

 Db7からCmaj7へ。半音の距離で、解決した。いつものG7からCmaj7への、五度下降のドミナントより、ずっと近い距離で、ずっと遠い場所から帰ってくる感覚があった。

 

(裏コード。トライトーン・サブスティテューション。G7の代わりにDb7。同じ機能。だが響きが違う。G7からの解決が、太陽から地上に降りてくる光なら、Db7からの解決は、隣の路地から自分の玄関に帰ってくる、夜の足音のような響きだ)

 

(今夜の俺には、Db7の方が、正直だ)

 

 四音のモチーフが、八小節のAセクションになった。次に、和声を寄り道させた。Bセクションの八小節を書いた。BセクションのラストでDb7に着地し、そこからCmaj7に戻ってAの再現に入る。A-B-Aの三部形式。単純な骨組みだった。だが四音のモチーフと、裏コードの解決が、単純な骨組みの中で、静かに動いていた。

 紙に写した。楽譜用紙の五線に、四音を書き付ける鉛筆の芯が、線を一度、掠めた。掠めた場所を、消しゴムで消さずに残した。三年ぶりに、消しゴムを引き出しから出さないまま、五線を書き終えた。

 タイトルの欄が、余白のままだった。

 窓の外を見た。フーバーヴィルの三本目の煙は、もう、崩れていた。代わりに、街灯の光が、パーク・アベニューの並木の下で、一列に並んで、瞬いていた。街灯の並びの一つ手前に、街灯ではない、小さな灯りが一つあった。誰かの手のライターの火だった。夜勤の警備員が、煙草に火をつけた瞬間だった。火は、二秒、灯って、消えた。

 

(新しい日が、来る)

 

 鉛筆を戻して、タイトル欄に、三つの単語を書いた。

 

 『New Day Coming』

 

 新しい日、というのは、ルーズベルトの言葉に似ていた。教本で覚えていた、来年三月の就任演説の一節。「恐怖そのものを恐れよ」。あの演説より前に、この曲のタイトルは書いてしまった。演説の側に、こちらが寄せに行ったのではなかった。ただ、この夜のこの四音が、この単語を要求したから、こう書いた。

 五線譜の脇に、指定を書いた。テンポは中庸。三拍子ではなく、四拍子で。歌ものにする。ボーカルは、パールの声域を想定した。パールの声域なら、A-B-Aの中で、Bセクションの上のFの音まで、無理なく届く。

 弾き終えた。最後のCmaj7の余韻が、弦の中で、しばらく残った。振幅が小さくなり、部屋の空気の中で、いつのまにか消えた。消えた瞬間は、指では分からなかった。耳でだけ、分かった。分かった瞬間には、もう、鳴っていなかった。

 

(三十年で、初めて、自分のための曲を書いた)

 

 二つの人生を足せば、三十年になる。前世で書いた曲は、匿名で配信サイトに上げた曲だった。誰にも聴かれず、再生数は三桁で止まった。ヒットしなかったから、自分のための曲だったわけではなかった。売れなかった商業曲を、自分のための曲と言い換えて、慰めていただけだった。

 今世で書いた曲は、全て、売るための曲だった。ブレナンに買い叩かれた曲。ASCAPの分配のために積んだ曲。映画のスコアのために書いた曲。ラジオの三分枠のために書いた曲。楽譜の売上のために編曲した曲。カタログの数を増やすために書いた曲。どれも、自分のための曲ではなかった。

 

(クリフに言われた。お前は作曲家じゃない、版権屋だ、と)

 

 去年の秋、まだ内装の始まっていない空バーの中で、クリフはトランペットを膝に置いたまま、そう言った。反論しなかった。反論する材料がなかった。

 今夜、初めて、反論の一枚目の紙が、机の上にあった。五線譜の上に、四音。A-B-Aの三部形式。Db7からCmaj7への半音の解決。売り先はない。ラジオ枠の三分に収めるための調整もしていない。ただ、鳴らしたかった四音を、五線に落としただけの紙だった。

 その紙を、机の上の帳簿の隣に置いた。

 帳簿の$3,500,000と、五線譜の四音は、同じ机の上にあった。数字の側は、他人の絶望と交換して積み上がった金だった。四音の側は、他人の絶望から遠い場所で、鳴った音だった。二つは、隣り合っていた。

 

 

 

 

 ピアノの蓋を、閉じなかった。

 閉じないまま、椅子から立ち上がった。

 窓に近づいた。パーク・アベニューの街灯が、また一つ、遠くで揺れた。警備員のライターの火は、もう、消えて久しかった。

 

(底で買った。味方は、全員、生きている。今夜、初めて、自分のための音を、鳴らした)

 

 三つの事実が、続けて頭の中を通り抜けた。三つのうち、一つ目は数字の話で、二つ目は人の話で、三つ目は、名前のつかない話だった。名前のつかない話には、まだ、行き先がなかった。

 去年の秋、パールがNBCのスタジオでマイクの前に立った時、レオはマイクとの距離、ミュートの装着、ピアノの音域指定を、その場で決めた。決められる場所だったから、決めた。だが、決められた場所は、NBCの部屋だった。NBCの技師が回した機械の側の部屋だった。ヴィクターから借りた機材の側の部屋でもあった。あの時、少しだけ、思ったことがあった。

 

(自分の部屋があれば)

 

 あの時は、いい録音のためだった。マイクとピアノの距離を、他人の判断ではなく、自分の耳で決めるためだった。今夜の四音は、いい録音のためのものではなかった。売る当てもなかった。ただ、この四音を、いま鳴ったままの色で、残したい、と思った。残す場所がなかった。

 窓の外の、パーク・アベニューの並木の、いちばん高い一本の枝が、風で一度、揺れた。揺れて、また、止まった。

 

(この四音を、そのまま残せる部屋が、欲しい)

 

 金なら、ある。三年前の空売りで積んだ金だ。他人の絶望から手を離せない、あの金だ。あの金で、初めて、何かを建てたくなった。建てるものの中に、四音を封じ込めれば、あの金の一部が、四音の側に、渡る。渡り切りはしない。だが、渡らないよりは、渡る。

 机の上の五線譜を、封筒に入れた。宛先は書かなかった。宛先が要る紙ではなかった。

 封筒の口を、糊で閉じずに、机の一番上の引き出しに、そのまま入れた。父のコートを衣紋掛けから外して、羽織った。裏地の縫い目の「C.M.」の白い糸に、指の腹で、二回だけ触れた。糸の結び目は、まだ、砂粒ほどの高さで、盛り上がっていた。

 部屋の灯りを、消した。

 ピアノの蓋は、開けたままにした。夜の間に、弦の残りの震えが、部屋の空気に、まだ、少し、残っているかもしれなかった。残っている分を、閉じ込めたくなかった。

 

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