五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第19話】新しい時代

 新聞の一面を、レオは、朝の光の下で二度読んだ。

 

『ルーズベルト大統領に決定。フーバー惨敗。ニューディールへ』

 

 一九三二年十一月八日。ニューヨーク・タイムズ。四段抜きの見出しの下に、フランクリン・デラノ・ルーズベルトの写真が、笑ってはいないが、負けそうにない顔で、こちらを見ていた。杖の存在は写真の中には映っていない。写真の中の男は、机の縁を両手で軽く押さえていた。

 

 事務所の窓の下で、通りが動き始めていた。八時前。牛乳配達の馬車の蹄の音。石炭を運ぶ台車が縁石に当たる乾いた音。パーク・アベニューは、リトル・イタリーやハーレムとは音の粒が違う。通りの底に、上等な絨毯の毛のような、金の匂いのする厚みがあった。

 

 レオは新聞を畳んで、机の隅に重ねた。

 

(勝った。フーバーは、消えた)

 

(ここから、市場が呼吸を戻す。俺の教科書にはそう書いてあった。教科書の中の「大統領」の欄には、赤い印がついていた。あの印が、いま、動く)

 

 左手が机の上の万年筆を拾い、右手がノートを引き寄せた。前世でスプレッドシートを睨みつけていた頃の癖が、今日も、パーク・アベニューの光の下で動いた。銘柄の列に印をつけていく。AT&T、USスチール、GM、RCA、GE。七月に底で買った五本の柱。数字の隣に、鉛筆で小さく矢印を書いた。上向きに。ただし短く。

 

(急がない。焦って刈ると、刈った側が転ぶ。ゆっくり回復させる。あの底の四十一台の記憶を、忘れる前に使う)

 

 電話が鳴った。モーからだった。

 

「レオ。時価が動いた。底から八割戻した。$1,800,000だ。まだ動く」

 

「モー。二割は現金に戻せ」

 

「まだ早い」

 

「早い方がいい。ルーズベルトが就任するまで、市場は先走る。就任した瞬間に、一度だけ、大きく息を吐く。そこで戻して、そこから、また上がる。取り分は先に落としておく」

 

 電話の向こうで、モーが息を継いだ。息の継ぎ方の間に、去年の秋、事務所を維持できるかどうかで震えていた頃の息の残りが、まだあった。

 

「……お前の言う通りにする」

 

 受話器を置いた。

 

 窓の外を、雀が三羽、パーク・アベニューの並木の枝を移った。一九二九年の秋にも、あの並木の下を、レオはコートの襟を立てて歩いていた。同じ通り。違う時代。

 

(禁酒法が始まった年に、俺はこの街で目を開けた。あれから十三年。もう、俺の朝は、パーク・アベニューだ)

 

 

 

 

 三月四日。

 

 朝の九時前から、事務所のラジオを弱く鳴らしていた。RCAの箱型受信機。真空管の予熱の匂いが、部屋の空気の乾いた層に、薄く混じっていた。

 

 ワシントン中継。ラジオのアナウンサーが、風の音と、群衆のざわめきと、儀仗兵の号令を、順番に拾って伝えていた。ルーは書類を抱えて入ってきて、ラジオの音量を上げた。サルは、コートを脱ぐのを途中で止めて、片袖を通したまま、扉のところで立ち止まった。

 

 新しい大統領の声が、電波に乗った。

 

『……偉大なるこの国民に伝えましょう。私が固く信ずるところ、我々が唯一恐るべきは、恐怖そのものであると……』

 

 The only thing we have to fear is fear itself.

 

 英語のまま、それを聞いた。この身体で聞くと、教科書の脚注ではなかった。ワシントンの三月の風の中で、生きた声帯が震わせた息の粒だった。ラジオのスピーカーは、その息の粒を全部は伝えられなかった。だが、伝わらなかった分の空隙が、逆に、大きさを持って残った。

 

 サルが、扉のところで、コートの片袖を持ったまま動かなかった。ルーが書類を胸に押しつけたまま、天井を見上げていた。

 

 演説が終わって、しばらく、誰も口を開かなかった。

 

 最初にサルが、袖を通し終えて言った。

 

「レオ。あの人は、勝てるのか」

 

「勝つ」

 

「なぜ、そう言い切れる」

 

 レオはラジオの前で椅子を回した。

 

「言い切ってるんじゃない。あの声の間の取り方だ。あの人は、恐怖を、恐怖と呼んだ。名前をつけた。名前をつけたものは、片付けの順番に入る」

 

(——正しくは、俺の頭の中の色褪せた本に、名前がついていた。それをこの部屋の空気に置き直しただけだ。だがサルには、それは言わない。言わなくても、あの間の取り方は本物だった)

 

 ルーが、抱えていた書類の一番上をめくった。

 

「レオ、大統領令の下書きが新聞に載ってる。銀行を、全部、一週間閉める。健全な銀行だけ再開させる。……こういうことを、就任演説の三日以内にやる大統領がいるとは、思わなかった」

 

「バンク・ホリデー、と呼ばれるはずだ」

 

「はず?」

 

「三月十日前後で戻る。チェース、ナショナル・シティ、バンク・オブ・マンハッタン。うちの三行は再開組に入る。ルー。あなたが選んだ三行だ」

 

 ルーは書類を胸に押しつけたまま、しばらくレオの顔を見ていた。目の中の光の温度が、少しだけ下がって、そこから、戻った。追及しない。分かった上で追及しない。ルーは、この二年、そう選んできた。

 

「……分かった。三行に電話して、預金の帳簿を今週中に洗い直す」

 

「頼む」

 

 サルは、扉を閉めて、コートを掛けて、椅子に座った。座り方に、去年までなかった、腰の据わり方があった。

 

 ルーが出て行った後、ラジオが天気予報に切り替わった。ワシントンD.C.の午後は晴れ、と言っていた。

 

 サルが、ラジオを見ずに、通りの窓を見ながら言った。

 

「レオ。ロザリアが、この間、聞いた。『あなた、暴落の秋に、なんでレオを疑わずについていったの』って」

 

「ロザリアが」

 

「うちの子は、あの秋の意味を知らない。俺は、そのまま話す気はない。ただ、ロザリアには話した。理由は言えないが、レオを信じたら、金は残った。理由は今も分からない、と」

 

 サルはそこで一度、息を継いだ。

 

「ロザリアは、理由が分からなくても、いい、と言った。子供らが飯を食えてるうちは、いい、と」

 

「……そうか」

 

 サルは通りを見たまま笑った。笑い方が、二十二歳で幼馴染だった頃と同じ角度で、右の口の端だけ上がった。ベンソンハーストの八百屋の裏で、腐ったオレンジを二人で棒で叩き合っていた午後の笑い方だった。

 

 その口の角度が、レオの目の奥で、少しだけ、痛かった。

 

 

 

 

 四月に入ると、通りの空気の湿り方が変わった。凍った石の匂いが、湿った石の匂いになった。フーバーヴィルの掘っ立て小屋の列が、公共事業の入り口に立て札が刺さった一角から、少しずつ、削られていった。

 

 午後、レオは二十八番街を通った。

 

 用事があったわけではない。事務所からハーレムのスタジオに向かう途中で、遠回りの近道の途中で、通った。ティン・パン・アレー。錫鍋を叩くような音の路。あの、いくつもの階の窓からピアノの音が漏れてくる街並みは、まだ、あった。ただ、以前より、窓の数が少なかった。閉ざされた窓の内側で、埃をかぶった鍵盤が待っている。

 

 角に、ブレナン・ミュージック・パブリッシングの、金色の文字の看板があった。半年前に、看板の下に、うちの社名を並べた。「モレッティ・ミュージック/ブレナン・パブリッシング協業」。二社の名の間に、細い金線が引かれていた。金線を引いたのはブレナン本人だった。「線を細くしろ。両側の名前を、平行に走らせるんだ」と彼は職人に言った。

 

(あの二十五ドルの椅子を、今の俺は覚えている。ブレナンが忘れていないから、俺も忘れずにいる)

 

 二階に上がる階段の五段目が、今も少し軋んだ。前の階段板を、ブレナンは張り替えなかった。廊下に上がるとブレナンが自分の机から立ち上がって、右手を差し出した。

 

「モレッティ君。ちょうど良かった。西海岸から返事が来た」

 

「MGMか」

 

「そうだ。カタログの中から、十二曲を映画音楽の候補に置きたい、と。うちの流通に乗せる形で、来年の春の作品に間に合わせたい、という話だ」

 

「条件は」

 

「悪くない。……悪くない、と言わせるのは、少し悔しい」

 

 ブレナンが小さく笑った。五十歳が六十歳を過ぎた顔の笑い方だった。皺の入り方が、笑う前と後で、順番通りに入って、順番通りに戻った。

 

「モレッティ君。あの二十五ドルから、ここまで来たな」

 

 レオは、その言葉を、聞き流さなかった。だが、返さなかった。ブレナンも返しを期待していなかった。二人の間で、その一行は、これで三度目だった。二十九年の秋に一度。三十年の冬に一度。今日、三度目。回数が増えるほど、その一行は、軽くなるべきだった。だが軽くなっていなかった。

 

 葉巻の煙が、部屋の斜めの光の中で、ゆっくり回っていた。

 

「西海岸の話は、先方の窓口に、こちらの流通条件を返してくれ」

 

「もちろん」

 

 握手を交わして、階段を降りた。五段目の軋みを、行きと同じ角度で踏んだ。

 

 

 

 

 春の終わりに、モーが事務所に来た。

 

 黒のスーツ、灰色のネクタイ、二十九年の秋に着ていたのと同じ組み合わせだった。ただ、スーツの肘の擦り切れは、あの秋には、なかった。

 

 モーは、机の向かいの椅子に座って、内ポケットから、小さな革の巾着を出した。中から、銀の懐中時計を取り出した。文字盤の縁に、細かい傷が数本、以前より増えていた。ゼンマイを巻く手つきは、以前より、丁寧だった。

 

「レオ。娘が、こう言うようになった。『お父さん、また時計が動いてるのね』って」

 

 モーは時計の蓋を閉じて、机の上に置いた。

 

「ハンブルクから船に乗った十四歳の親父が、この時計と、ポケットの三マルクだけで、この国に着いた。……俺は、この時計を、質屋に入れる直前だった。お前が預かってくれた。今、これは、俺のチェストの上にある。娘が指を触れて、妻がそれを見て笑う」

 

「モー。それは、あんたが、這い上がったからだ」

 

「そういうことに、してくれるか」

 

「そういうことだ」

 

 モーは葉巻を取り出しかけて、止めた。禁酒法の時代に、酒の代わりに人が握りしめていた葉巻の握りしめ方だった。あれから、モーは葉巻を減らしていた。

 

「レオ。俺には、まだ、残りのキャリアがある。ブローカーとしての残りだ。長くはない。だが、まだ、ある。それを、お前のポートフォリオに使いたい。底で買った株を、頂上まで持たせるまでの仕事だ。それを、俺の仕事にしたい」

 

「頼む」

 

 モーは頷いた。頷き方が、市場が嘘をつかないと信じていた頃と、市場に嘘をつかれた後と、その両方を通り抜けた男の頷き方だった。角度は同じだったが、頷きの後の顔の戻し方が、以前より、遅かった。

 

 

 

 

 十二月五日。

 

 朝から、通りの空気に、湿った酒の匂いが混じり始めていた。まだ、店先で酒を注いでいる家はなかった。だが、通りを歩く人の口元の空気に、正午前から、酒屋の看板を待つ湿りが乗っていた。

 

 夕方、ユタ州が、憲法修正第二十一条を批准した。三十六番目の州の批准だった。憲法修正第十八条、通称ヴォルステッド法が、正式に、廃止された。禁酒法。十三年と十一ヶ月と十九日。

 

 事務所の受話器を、レオは、耳から離した。アンジェロの声が、まだ、受話器の中で笑っていた。

 

『レオ、レオ、来い、今夜だ、今夜、正面のドアから入れ、勝手口じゃない』

 

「今夜、行く」

 

『全員呼んだ。サル、ルー、クリフ、パール、モー、ブレナン。ロザリアも、子供らも。分かってるな。俺の店に、お前の——』

 

 アンジェロの声が、そこで一度、止まった。息を継いだ。

 

『……俺の店に、お前が集めた人間が、全員来る。俺は、それだけで、生きててよかったと思う』

 

 電話が切れた。

 

 レオは受話器を戻して、机の抽斗を開けた。中に、去年の七月にAブランドの安いノートに書きつけた四つの音の並びが、鉛筆のまま、待っていた。G、E、C、D。譜面用の五線紙ではなく、事務用の罫線ノートに、鉛筆で四つ、並べただけの音符だった。持ち出すつもりはなかった。持ち出しはしない。ただ、そこにあることを、抽斗を閉じる前に、指の腹で、一度、触れた。

 

(今夜は、これを、他人の口で聴く)

 

 

 

 

 After Hours。

 

 表通りに面した扉の上に、真鍮の文字で、店名が入っていた。書体は、細長い体の、少し斜めに傾いた大文字。禁酒法時代の勝手口のスピークイージーの扉には、看板がなかった。看板がないことが、看板の代わりだった。今夜、その扉に、看板が、正面から、光っていた。

 

 扉を押した。

 

 葉巻の煙、ピアノ、拍手、笑い声、それらより先に、部屋の温度が、レオの頬に届いた。石炭のストーブと、五十人分の体温と、湯気の匂いのする厚い赤茶色の空気だった。

 

 ステージには、クリフのクインテット。トランペット、サックス、ピアノ、ベース、ドラム。ステージの中央に、パール・ワトキンス。マイクは、パールの唇から、十センチほど。近い距離だった。ラジオのスタジオでレオが指定した距離感が、生の空間に持ち出されていた。

 

 演奏していたのは、『Midnight in Harlem』。

 

 十年前に、クリフと、二人でハーレムのアパートの六階で書き上げた曲だった。あの時、部屋の窓の外で、深夜零時前の125番街の街灯が、雪の粒を斜めに切っていた。クリフは、譜面のCmaj7の上に、鉛筆で丸を書いた。「ここは、もう一つ、上に載せられる」と言った。「載せていいか」とレオが訊いた。「載せていいなら、載せる」とクリフが言った。あの夜、二人はCmaj7のままで完成させた。載せなかった音が、鉛筆の丸の内側に残った。

 

 今夜、ステージのピアニストは、その丸の内側に、Dを一音、置いた。Cmaj9。十年前の丸の内側の空白が、今夜、埋まった。次のDm7がDm11に。Fmaj7に十一度の嬰。Am7が九度の音を得た。

 

 骨格は、あの夜の譜面のままだった。だが、和音の内側で、音が、微かに衝突し、解決し、また衝突していた。

 

(——載せていいなら、載せる、と、クリフは言った。あの夜載せなかった音を、十年、俺の頭の中じゃなくて、クリフのクインテットの耳の中に、預けていた)

 

 パールの声が、和声の上に乗った。声の張り方は、十年前とほとんど変わらなかった。ただ、マイクとの距離の取り方が、生の空間の中でも、放送室の中と同じ律で、動いていた。声を客席に届けようとしていなかった。客席に、置いていた。近くにいる誰かの耳のすぐ横に、置く。マイクが集めた声を、電波に乗せず、この店の空気の中に、そのまま、置く。

 

 テーブルに、サル、ロザリア、マルコ、ジーナ。二人の子供は、ちゃんと座っているのが精一杯という顔で、ジャズの拍を、椅子の上で、小さく足で真似ていた。ジーナが、テーブルの縁にコップを叩いて、それが自分の楽器のつもりの動きだった。ロザリアがそれを笑って、片手でコップを止めた。

 

 サルは、レオを見つけて、右手を上げた。指を四本広げた。四本の指の意味を、この十年、二人だけが分かっていた。あの月の相場は四つ、危ない。あの週の交渉は四つ、詰めろ。今夜の意味は、たぶん、四人で立った日、というくらいの意味だった。

 

 カウンターの奥から、アンジェロが出てきた。エプロンは新調してあった。真っ白なリネンに、糊が効きすぎていた。

 

「レオ。座れ。特等の席、空けてある」

 

「特等」

 

「舞台の真ん前だ。パールの声が、一番、落ちてくる場所だ」

 

 アンジェロが指した席には、既に、モーとブレナンが座っていた。二人の間に、椅子が一脚、空いていた。

 

 レオは腰を下ろした。

 

 パールが、こちらを一度だけ見た。眼の合図の残し方が、うまくなっていた。声を切らずに、視線だけで、来たな、と、置いた。

 

 アンジェロが、カウンターに戻って、バーボンをグラスに注いだ。液体は、澄んだ琥珀色をしていた。ステージの明かりの下で、色が、透き通っていた。

 

「レオ。合法の一杯目だ。金は取らない」

 

「取らないと、店が回らない」

 

「今夜だけは、取らない」

 

 グラスを受け取った。琥珀色の香りが、鼻の奥で、深く広がった。十三年、この街で口に入れてきた密造の酒には、いつも、蒸留の途中で切り落とすべきだった味が、細く残っていた。今夜の一杯には、それが、なかった。

 

 口に含んだ。

 

 舌の上で、味が、丸かった。

 

「……合法の味だ」

 

 アンジェロが、カウンターの向こうで、笑った。あの、去年の秋にはできなかった笑い方だった。

 

 

 

 

 ステージが、『Midnight in Harlem』を終えた。拍手が、部屋の壁で、跳ね返って戻ってきた。

 

 サルが、こちらのテーブルに来て、隣の椅子に腰を下ろした。

 

「レオ。マルコがな、来年、ピアノを習いたいって言い始めた」

 

「マルコが」

 

「ロザリアが泣いた。うちの子供が、ピアノを習わせてもらえる家に育ったんだ、って」

 

「ベイ・リッジの庭付きは」

 

「あれは、あの秋に、消えた。……今は、ベンソンハーストの借家に、ロザリアが花壇を作った。窓辺に、小さい鉢が並んでる。子供らは、それでいい、と言う。俺も、それでいい」

 

「十分だ」

 

「十分だ」

 

 サルはそう言って、テーブルのバーボンのグラスを、少しだけ、下から支えた。飲まなかった。飲まないことに、意味があった。ロザリアが、遠くの席から、サルの手つきを見て、頷いた。

 

 ルーが向こうの席から立ち上がって、こちらに来た。手には、細い革の書類挟みを持っていた。祝いの夜に、書類挟みを持って来るのは、ルーだった。それがルーだった。

 

「レオ。ASCAPの今年最終の分配、正式に通知が来たわ。$3,800。前年の一・五倍。ブレナンさんの流通とラジオの分の底上げ」

 

「ルー。この店で、それを言うか」

 

「言うわ。今夜、あなたが座っている隣は、その数字を作ってくれた人よ」

 

 ルーはブレナンをちらりと見て、微笑んだ。ブレナンが、葉巻の煙の向こうで、目を細めた。

 

「それとね、レオ。今年、初めて、うちの会社の年間収支が、音楽事業だけの黒字で回った。株の含み益を、経営の柱に数えない前提で、音楽の柱だけで、回った」

 

「株が戻ったのに、株じゃないのか」

 

「株じゃないのよ。CFOとしての私の帳簿では、株は、戻る前提で組み立てない資産よ。音楽が、この会社を、支えてる」

 

 ルーは、そこで一度、書類挟みを胸に押しつけた。

 

「不思議だった。あなたは、株で勝ったはずなのよね。でも、この会社を、日々、支えてるのは、あなたが書いた楽譜と、ブレナンさんの流通と、パールの声と、クリフのバンドなの」

 

 ルーはグラスを掲げた。

 

「乾杯するのは、株の勝利じゃなくて、音楽の柱に対してね。CFOとして、私は、そっちの方が、好きよ」

 

 グラスを合わせた。ガラスの縁の、鈍い、丸い音がした。

 

(——ルー。あんたは、二九年の夏に、俺に「なぜ株を売るの」と訊いた。俺は答えなかった。俺の帳簿の意味を、あんたが今夜、俺の代わりに、翻訳してくれた)

 

 その内心を、今夜は、口に出さなかった。ルーはグラスを置いて、自分の席に戻った。

 

 

 

 

 モーが、隣の席で、グラスを掲げた。

 

「レオ。乾杯だ」

 

「モー」

 

「懐中時計は」

 

「チェストの上」

 

「そうか」

 

 それだけ言って、二人はグラスを合わせた。

 

 言葉が、少ない方が、意味が濃くなる年齢が、モーの中にも、レオの中にも、両方あった。モーが四十五でレオに出会ってから、八年経った。モーは五十三で、レオは三十五だった。年齢の差が、以前より、二人の間の話の間の取り方に、静かに落ちていた。

 

 ブレナンが、モーの向こうから、グラスを掲げた。

 

「モレッティ君」

 

「ブレナンさん」

 

「合法の酒だ。これで、私も、君の店の一杯目を、隠さず、飲める」

 

「乾杯します」

 

「乾杯」

 

 三つのグラスが、テーブルの上で、合わさった。合わさった時のガラスの音は、三つの高さがわずかにずれて、和音のような響きになった。ブレナンの葉巻の煙が、その響きの上を、細く、通り抜けた。

 

 

 

 

 ステージが、次の曲に入った。

 

 クリフが、譜面台から一枚、抜いて、ピアノに合図をした。ピアニストが、Am9の和音を、右手の一番柔らかいところで、置いた。九度のBの音が、和音の内側で、静かに、待っていた。

 

 その和音の上に、パールの声が、四つの音符を、置いた。

 

 G——E——C——D。

 

 最後のDだけが、少しだけ、上がる。前の三つは、階段を一段ずつ下りるように、下がっていく。下がる、下がる、下がる、そして、最後の一段だけ、下がらない。

 

 レオは、グラスを、口に付けたまま、動かなかった。

 

 あの、一九三二年七月八日の夜、DJIAの底値が四十一台に落ちた日の深夜、パーク・アベニューの部屋のピアノの前で、指が勝手に置いた四つの音だった。売るためでもなく、譜面にするためでもなく、ただ、鳴らしたい形で、鍵盤に置いた四音。二ヶ月後の九月末に、初めて五線に落として封筒に入れたが、その封筒は、机の抽斗の中に、そのまま置いていた。ASCAPに登録しなかった。人前でも弾かなかった。

 

 その四音が、今夜、パールの声で、店の空気の中に、置かれていた。

 

 ラジオのスピーカーは、パールの声の一番上の帯域を、切り落として届ける。今夜、店の空気には、その切り落とされる帯域が、残ったまま届いていた。声帯の細かい震え。息の擦れ。音になる前の空気の粒。ラジオが「近さ」を運ぶ器なら、生の声は、それより前の何かを運ぶ器だった。

 

(——ラジオが「親しさ」を運ぶ器なら、この空気の中の声は、「実在」を運ぶ器だ。俺の頭の中の、前世のオーディオの本の言葉で言えば、一万六千ヘルツを超える、耳ではほとんど聞こえない領域の空気の震え。数字で書けば、聞こえないはずのもの。だが、聞こえないはずのものが、この五十人の背中の姿勢を、揃えている)

 

 サビに入って、コードが、Db7からCmaj7に、半音上から解決した。裏コード。前世でトライトーン・サブスティテューションと呼ばれていた、四十年代のジャズ理論の技法だった。この時代のポピュラー音楽には、まだ、ほとんど降りていない。だが、今夜、パールの声が、その解決の一音先を、先に、置いてしまった。声が、和音の機能を、追い越した。和音が「解決」する前に、声が「到着」していた。

 

 五十人の客の背中が、椅子の上で、そのまま、動かなかった。

 

 曲が、終わった。

 

 拍手が、部屋の壁で、跳ね返って戻ってきた。前の曲より、遅れて、戻ってきた。手を打つ動作を、一拍、遅らせて始めた客が、多かったからだった。

 

 パールが、マイクから半歩、下がった。眼だけで、こちらのテーブルに、一度、視線を落として、また上げた。

 

 クリフが、トランペットを膝の上に置いて、こちらを向いた。ミュートは、ケースの中だった。今夜は、ミュートは要らない、という顔をしていた。ラジオでは覆っていた、100デシベルを超える金属質の輝きの音を、今夜だけ、開いた。

 

 クリフの目が、レオを、まっすぐ、見た。

 

 目だけで、こう言っていた。

 

 ——版権屋じゃない音を、鳴らしたな。

 

 レオは、頷かなかった。頷いたら、それは、地の文の総括になってしまう。頷かない代わりに、グラスを、少しだけ、傾けた。琥珀色の縁が、ステージの照明を、下から一度、拾って、また置いた。

 

 クリフが、視線を、次の曲の譜面台に戻した。トランペットに息を通した。

 

 パールが、次の曲のイントロの合間に、レオの座っているテーブルに、視線を落として、片方の口の端で、笑った。

 

 

 

 

 夜が更けて、演奏が三順目に入った頃、店の奥のテーブルで、サルが、静かに笑い出した。

 

 ロザリアが「どうしたの」と訊いた。

 

「あんな席で、あんな真面目な顔をして、酒を舐めてる男を、今日、初めて見た」

 

「誰のこと」

 

「レオ」

 

 ロザリアが、レオの席の方を、そっと見て、少し笑った。

 

「あの人は、二十二の頃から、あの顔よ」

 

「そうなんだ」

 

「そうなの。あの子は、あの顔で、あんたの家族を、守ってくれたの」

 

 サルは、テーブルの下で、ロザリアの手を、一度だけ、握った。ロザリアも、握り返した。二人の手は、二秒ほどで離れた。マルコとジーナは、ステージの方を見ていて、気づかなかった。

 

 

 

 

 閉店間際。

 

 パールとクリフが、テーブルまで来た。

 

 パールがレオに、こう言った。

 

「あの四音、預かってた。ずっと。今夜、返した」

 

「預かってたのか」

 

「クリフから」

 

 クリフが、トランペットのケースを膝に置いたまま、頷いた。

 

「去年の秋に、お前のところに寄った日、譜面台の一番下に、一枚だけ、鉛筆で書かれた紙が挟まっていた。G、E、C、D。名前がなかった。俺は、それを、一枚だけ、書き写した」

 

「……気づいてたのか」

 

「気づいてた。書き写してから、しばらく、置いておいた。パールがラジオで、あるフレーズを歌うのに、乗るかもしれない、と思った。今年の秋に、パールに渡した。パールが、キーを一度だけ動かして、歌い方を、決めた」

 

「クリフ」

 

「今夜、それを、店の空気に置くのが、いいと思った。お前の許可は取っていない。だが、鉛筆の四音は、譜面台の下に、置いたお前が悪い」

 

 パールが横で笑った。

 

「あんたが版権を主張したら、あたしは払うけど、面倒よ」

 

「主張しない」

 

「じゃあ、そういうことね」

 

 クリフが、初めて、少し笑った。あの、寡黙な、音でしか喋らない男が、閉店間際のカウンター前で、口の端だけで、一秒、笑った。

 

「——ジョンソン」レオは、名字の方で、呼びかけた。「あの四音は、俺が書いた。だが、あれが、店の空気に置ける音になったのは、あんたと、パールが、Am9の九度と、キーの半音と、マイクの十センチを、乗せたからだ」

 

「そういう風に、話す男が、七年前は、いなかったな」

 

「今も、そんなに、話しやすい男じゃない」

 

「知ってる」

 

 三人で、少し、笑った。笑いが、店の閉店前の空気の中で、丸く残った。

 

 

 

 

 レオは、店を出る前に、カウンターのアンジェロに、右手を差し出した。

 

 アンジェロは、両手で、その右手を、包んだ。

 

「アンジェロ」

 

「レオ」

 

「合法の一杯目、うまかった」

 

「二杯目からは、金を取る」

 

「取ってくれ」

 

 アンジェロが、レオの右手を、離した。離した後で、カウンターの木の端を、掌で軽く叩いた。この店の板の触感を、確かめるように、二度。

 

 

 

 

 通りに出ると、冬の夜の空気が、鼻の奥を、乾いた冷たさで刺した。パーク・アベニューまでは歩く距離ではなかった。タクシーを止めるつもりで、レオは、少しだけ、通りの角で立った。

 

 通りには、まだ、酒を持って歩いている男たちが、いた。合法の酒の瓶を、隠さずに、片手で持って、笑いながら、通りの真ん中を歩いていた。十三年、勝手口の隙間から匂わせるだけだった酒が、通りの真ん中で、光っていた。

 

 角のサルーンの、あの、板を打ち付けていた店の跡に、新しい看板が、灯っていた。名前は変わっていた。だが、店主の姿は、あの、朝の板打ちの音を腕を組んで聞いていた男と、同じ肩の傾きだった。彼は、今夜、店の中で、合法のグラスを、客の手に渡していた。

 

(——一九二〇年の一月十七日。俺は二十二歳で、この街の角のサルーンに板が打ち付けられるのを、見ていた。あの朝の店主は、腕を組んで、それを聞いていた。今夜、あの店主は、店の中にいる。俺は、通りの側にいる)

 

(十三年で、店主は、店に戻った。俺は、ここで、暮らしている)

 

 タクシーが、通りの向こうから、屋根の灯を光らせて、こちらに来た。

 

 

 

 

 パーク・アベニューの部屋に戻ると、ラジオの真空管の予熱の名残の匂いが、まだ、部屋の隅に薄く残っていた。

 

 コートを、木の椅子の背もたれに掛けた。裏地の「C.M.」の縫い目が、椅子の背もたれの木目の上に、ゆっくり、乗った。父の仕立てた白い糸の二文字が、部屋の灯りの下で、少しだけ、盛り上がって見えた。指の腹で、一度だけ、なぞった。

 

 机の抽斗を開けた。夏の終わりに、月次の資産台帳の下書きを閉じ込めていた。そのままにしていた。今日、閉める。

 

 鉛筆を取って、去年の癖のまま、線を引いた。

 

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  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1933年12月末

 

  【資産】

   現金          $30,000

   銀行預金(三行分散)  $1,570,000

   米国債         $240,000

   株式ポートフォリオ(時価)

    AT&T   2,800株×$125 = $350,000

    US Steel 6,600株×$80 = $528,000

    GM    20,000株×$30 = $600,000

    RCA   76,000株×$7.5 = $570,000

    GE   13,300株×$47 = $625,000

      時価合計      約$2,673,000

      (取得原価$1,000,000/含み益+$1,673,000)

   音楽事業資産       $150,000

    (版権カタログ341曲+ブレナンカタログ販売代理、

      グランドピアノ2台、事務所設備、

      After Hours 出資$5,000 含む)

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料     $3,800/月

   レコード版権料     $100/月

   映画音楽契約料     $800/月

   楽譜売上        $300/月

   ラジオ局供給料     $1,200/月

   演奏料         $200/月

   米国債利子       $600/月

   株式配当        $400/月

   After Hours 利益分配 $200/月

   合計         $7,600/月

 

  【月間支出】

   家賃(パーク・アベニュー) $200

   食費             $50

   サル給与          $600/月

   ルー報酬          $300/月

   クリフ報酬         $200/月

   ブレナン給与        $600/月

   印刷・郵送費        $30/月

   事務費・通信費       $40/月

   雑費            $80/月

   合計         $2,100/月

 

  【純資産】約$4,670,000

   (現金・預金$1,600,000 + 米国債$240,000

    + 株式時価$2,680,000 + 音楽事業資産$150,000)

   前章比: +$1,170,000

 ————————————————————

 

 鉛筆の腹で、下線を引いた。三十六年の月末を閉じるより、一年前の年末を閉じる方が、線を引く手の動きが、少しだけ、遅かった。

 

(去年、地の底で買った五本の柱が、含み益を、こんな形に、抱えている。ここから先は、モーに預ける。ゆっくり戻す。焦って刈らない)

 

(音楽事業の$150,000は、金額の小ささが、逆に、この会社の骨に近い。株の含み益は、抜け落ちても、この会社は死なない。抜け落ちたら死ぬのは、$150,000の側だ)

 

 鉛筆を、置いた。

 

 窓の外を見た。パーク・アベニュー。冬の午前二時。街灯の光が、乾いた並木の枝の上で、静かに、止まっていた。フーバーヴィルの跡地の、公共事業の看板の下の灯が、遠くで、二つ、三つ、動いていた。夜の作業班が、まだ、働いていた。

 

 ピアノの蓋を、開けた。

 

 今夜、いつものターンアラウンドは、弾かなかった。

 

 右手の四本の指を、鍵盤の上に、平らに置いた。左手が、Am9の和音を、下から支えた。右手が、G、E、C、D、と、四つの音を、順番に落とした。最後のDだけが、前の三音より、少しだけ、高い場所に、着地した。

 

 パールが今夜、ステージの上で、置いた四音と、同じ形だった。だが、パールの声がない部屋で鳴らすと、四音は、部屋の空気の中に、そのまま、裸で残った。パールの息の粒はない。クリフのトランペットのミュートを外した金属の輝きもない。ただ、G、E、C、D、が、事務用のノートの罫線の上を鉛筆で滑るように、机の上の空気の中を、通っていった。

 

(——前世で、俺は、深夜のアパートで、この四音を、MIDIキーボードで叩いた。DAWの画面が、四音を波形として拾って、色のついた線として保存した。あの線は、コピーできた。ペーストできた。別のトラックの上に、何度でも、置き直せた。今夜、この四音は、この部屋の空気の中で、鳴って、消える。壁が吸って、床が吸って、ゼロになる)

 

(コピーもペーストもできない。ASCAPにも登録しない。今夜、店の空気に置いた四音は、店の空気だけが持って、あの五十人の耳の中だけに残った。俺の手元の四音は、パーク・アベニューの部屋の空気の中で、消えていく)

 

(消える四音の方が、残る四音より、真実に、近い側にある)

 

 ピアノの蓋を、閉じた。

 

 鍵盤の上を、手のひらで、一度だけ、撫でた。

 

 窓の外を、しばらく、見ていた。パーク・アベニューの街灯が、乾いた並木の枝の上で、動かなかった。

 

 立ち上がって、机の上の鉛筆で、資産台帳の余白に、細い字で、一行だけ、書き足した。

 

  ※次の年。自前の録音スタジオの敷地を、探す。マンハッタンで一階建て、防音のある一区画。物件は、恐慌の底に、まだ、残っているはずだ。

 

 鉛筆を、机の上に、戻した。

 

(一本足打法は、素人のやることだ)

 

 窓の外の街灯が、少しだけ、風で揺れた。並木の枝の影が、床の絨毯の上を、一度だけ、通って、また、戻った。

 

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