五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第3話】スピークイージーの夜

 1921年6月。

 

 アスファルトが陽の熱を吸っては、日が落ちた後も長くそれを吐き続けていた。リトル・イタリーの路地では、消火栓の栓を回して水を出す音がして、子供が短く叫んだ。走り抜ける裸足の裏で、水はねが石畳に散った。

 

 レオはハーレム行きの地下鉄の車内で、コートを膝に畳んで座っていた。父の遺した仕立てのウールは、この季節にはもう重かった。畳んだ襟の裏に、白い糸で縫い込まれた「C.M.」の二文字が、太腿の上で内側になっている。夏に着る服ではないと分かっていて、それでも、この街の外に出る時は、この一枚を持ち出す癖がついていた。

 

 窓の外は、地下の煤色から、時折差し込む白い光へと切り替わり続けた。

 

 二月の終わりに、リトル・イタリーの角のスピークイージーで、ハーレムから流れてきたトランペッターと一晩だけ卓を並べた。それがクリフだった。その後の五ヶ月、月に二度か三度、レオは125丁目で降りていた。クリフの音を聴き、時折並んで弾き、そのたびに、自分の指がまだ楽譜の紙面の上を歩いているのだと思い知らされていた。

 

(前世で、ジャズは何十時間も画面越しに触っていた。スウィングのハネの比率、ブルーノートの三種、9thと11thと13th。数字と表で並べれば、理論としては全部知っているつもりでいた)

 

(だが、指の方が知らなかった)

 

 125丁目で電車を降りた。地上に上がると、空気の匂いが変わった。教会の窓から漏れるオルガンとゴスペルの低音、路上のギタリストがブルースの三コードを弾き倒す音、ジュークジョイントから漏れる安いジンの甘い匂い。歩道の日陰で、労働者が氷屋の車の後ろに列を作っていた。

 

 レノックス・アヴェニュー沿い、道路より半層下がった扉の店。〈エディの店〉。看板はなく、扉の隣の煉瓦に、鍵盤の絵が指の腹ほどの大きさで刻んであるだけだった。ここもスピークイージーだったが、リトル・イタリーの地下とは客の色が違う。ドアの隙間から漏れる笑い声も、拍子の取り方も、違う。

 

 地下に降りると、視線がまとまってこちらを向いた。

 

(ここでの俺は白人だ)

 

(リトル・イタリーで「イタ公」と呼ばれる同じ顔が、ここでは差別する側の顔として読まれる。同じ皮膚の下で、扉一枚ぶんの緯度が違えば、名前も違う)

 

 その内側の温度差を、レオは黙って飲み下した。奥のカウンターの端で、クリフがトランペットのマウスピースを布で拭いていて、こちらに気づくと、顎で椅子を示した。それだけで、他の客の視線は元の卓に戻った。〈クリフの連れの、白い奴〉——その一語が、この店の中でだけ、レオに一時的な国籍を与えていた。

 

「来たか」クリフが言った。

 

「呼ばれた気がしてな」

 

「気のせいだ」

 

「そうか」

 

 クリフの目尻がわずかに動いた。それが笑ったという合図だった。

 

「今夜は少し新しいことを試す。お前も入るか」

 

「入らせてくれ」

 

 バンドは五人。クリフを入れて、クラリネット、ピアノ、バンジョー、ドラム。クリフはこの店ではトランペットとピアノを行き来する。今夜のピアノには先客がいたので、レオは客の椅子に座り直した。

 

 カウントが出た。四拍子のベースラインの上に、集団即興が立ち上がった。ニューオーリンズ・スタイルの縦の柱を、クリフが後ろから殴りに来る。フレーズを拍の後ろへ、後ろへ、置き続ける。裏拍が前拍を追い越しそうになり、寸前で戻ってくる。

 

(レイドバック。前世の画面では、グリッドから何十ミリ秒ずらすかを数値で入れていた。数字で書けば、遅らせて弾け、で終わる話だ)

 

(だが客の肩は、その数字では動かない)

 

 客の靴の踵が、床板を打っていた。誰も譜面を見ていない。誰も指揮を見ていない。それぞれが、隣の音の空いた場所へ、自分の音を置いていた。空いた場所を数えるのではなく、感じていた。

 

 二曲終わったところで、先客のピアニストが煙草を吸いに外へ立った。クリフがレオを見て、鍵盤の椅子を顎で示した。

 

 レオはステージに上がった。座って、鍵盤の温度を確かめた。前の男の熱がまだ残っていた。

 

 クリフのトランペットが、遠慮のない一音を投げてきた。

 

 レオは、右手でCmaj9を鳴らした。テンションを乗せた和音の上に、クリフのフレーズが着地して、少しの間、鍵盤と真鍮の間に空気の柱が立った。次にクリフが、その柱の外側に半音だけずらして音を置いた。レオは左手でベースをその半音の方へ滑らせた。二人で、一度、和音の外に出て、それから戻った。

 

 次の四小節でBセクションへ入る前に、クリフがミュートをつけた。金属の弱くなった声で、フレーズがひとつ小さく折れた。レオは右手の音を薄くした。ff から p へ。二人だけになった空間に、客の呼吸音の方が大きく届いた。

 

(薄くする。強くするより難しい。前世で機械の摘みを回しながら覚えたことだ)

 

 最後のCに戻して、指を離した。

 

 残響が二秒だけ地下の低い天井に留まった。それが消える寸前に、拍手が起きた。

 

 クリフが、初めて歯を見せて笑った。

 

「お前、今夜は息をしてたな」

 

「そうか」

 

「最初に会った晩のお前のピアノは、譜面の上を走ってるだけだった。今夜のは、少しだけ息をしてた」

 

「少しか」

 

「十分だ。白い奴で、ここまで弾ける奴は、そうはいない。和声の耳は本物だ。リズムの底が浅いのは、時間が押し込めてくれる」

 

 クリフがカウンターの方へ顎を振った。ビールが二つ来た。密造の、ぬるいビールだった。舌に残るのは酵母の刺々しさと、金属の後味だった。

 

「レオ」

 

「なんだ」

 

「一つ、話がある」

 

 クリフはグラスを卓に置き、その水滴の輪の中に指先を入れた。

 

「お前と、曲を作りたい」

 

 地下の空気が、そこだけ、一拍、止まった。

 

「俺のジャズと、お前のティン・パン・アレーの構造を、混ぜてみたい。お前の曲には骨がある。俺のには血が通ってる。合わせたら、どうなるか」

 

(黒人と白人が、共作。この時代のレコード会社は棚を分けている。〈レース・レコード〉と、それ以外。市場は分断されていて、間に紙を挟むように分けられている)

 

(ブレナンなら、〈ダブルで不利だ〉と言うだろう)

 

 だがレオは、その言葉を、ここで言葉に出さなかった。

 

(前世の教科書の何ページか目で、ジャズはやがて「アメリカの音楽」と呼ばれる名前に置き換えられる。誰の名で置き換えられたか、正確な人物名までは覚えていない。ガーシュウィンの名が、線の先に、ぼんやりある。もう一人、白人のバンドリーダーが、黒人の演奏家を舞台に上げる話が、線の後ろの方に、ある。年は覚えていない。方角だけを、俺は知っている)

 

「やろう」レオは言った。「ただ、すぐに売れるものにはならないかもしれない」

 

「分かってる」クリフは頷いた。「俺たちが面白いと思うものを作る。売る話は、その後だ」

 

 握手した。クリフの手は、金管の唄口を三十年握った男の指をしていた。

 

(後で、と言えるのは、お前が音を売っていないからだ、クリフ)

 

(俺は音を売っている。〈後で〉が〈いつか〉に化けるところを、何度も見てきた)

 

 だが、その皮肉は、口には出さなかった。飲んだ密造ビールの後味と一緒に、喉の奥へ落とした。

 

 

 

 

 7月。

 

 新聞の一面に、二人の名前が並んでいた。

 

 「サッコ=ヴァンゼッティ、有罪判決。死刑宣告」

 

 7月14日。マサチューセッツ州のディダム。二人のイタリア系移民に、陪審員が有罪の紙を渡した。

 

 レオはその新聞を、リトル・イタリーの角のカフェの外側で、鉄の椅子の上に広げた。日陰に入る椅子の位置を選んだのは、この記事を、汗の匂いの中で読みたくなかったからだった。

 

(覚えていた。この判決が出ることは、頭の中の遠い棚の、脚注の位置にあった)

 

(証拠は不十分だと、後の年に、幾人もの学者が書く。判事が偏見を口にしていたという話も、確か、ある。だが有罪は覆らない。何年後だったか——数年、控訴が続き、最後は電気椅子に運ばれる。年までは、思い出せない)

 

 カフェの中では、老人たちが、テーブルの上に指の関節を立てて、イタリア語で怒鳴っていた。

 

 ——サッコもヴァンゼッティも無実だ。

 ——アメリカ人は俺たちを殺したいだけだ。

 ——この国に、正義はない。

 

 レオは、耳だけを開けたまま、新聞の写真の粒を、指の腹でなぞった。

 

(怒鳴る老人たちの正しさに、俺は何も足せない。もし何かを口に出すとしたら、正確な処刑の日付を——それも、覚えていない)

 

(数字と日付を、いつか失うかもしれない)

 

(俺の頭の中の棚は、この六年間で、少しずつ、掃かれていく。方角だけしか残らない棚を、時々、風が通り抜けていく)

 

 新聞を畳んだ。カフェの中の一人が、こちらに気づいて、目だけで頷いた。仕立て屋のカルロの息子だと、この一角ではまだ、そう覚えられている。レオも同じだけ、目だけで返した。

 

 

 その夜、アンジェロの店で弾いた。

 

 三曲目の途中で、階段に見知った足音が降りてきた。この店の階段は五段目が抜けているので、慣れた客はそこだけ広く跨ぐ。跨いだ後の着地の音で、レオは顔を上げた。

 

「レオ」

 

 サルヴァトーレ・コスタンツォ。サル。

 

 マルベリー・ストリートで一緒に育った、三軒隣の八百屋の息子だった。この身体の記憶が、名を呼ばれるより先に、その足音の方に手を伸ばしていた。

 

「サル。久しぶりだな」

 

「三ヶ月だぞ。会いに来い、と俺の親父も言ってる」

 

 サルはカウンターに座り、アンジェロに指を二本立ててみせた。密造ジンが二つ、細いグラスに注がれて出てきた。

 

 レオは演奏を続けた。四曲目を短く切り上げて、休憩に立った。

 

 サルは、グラスを一口だけ舐めて、顔をしかめていた。

 

「戦前のジンが恋しい」

 

「戦前を覚えてるくらいには、老けたな、お前も」

 

「二十五だぞ。老けたとは言うな」

 

 サルは前歯の隙間から短く笑った。

 

「で、お前は?」レオが聞いた。「親父さんの店は」

 

 サルの喉仏が、一度、上下した。

 

「まだやってる。やってはいる。だが、きつくなってきた。グランド・ストリートに、大きい食料品店ができただろう。あそこに客を持っていかれてる。品揃えで負ける。値段でも負ける。親父は〈うちは顔なじみが来る〉と言い張ってるが、顔なじみだって、安い方に行く」

 

「一人で回してるのか」

 

「俺と親父の二人だ。仕入れ、配達、帳簿、全部。弟はまだ十四で、妹は嫁に行った。俺が抜けたら店は畳むしかない。だが、俺がいても、じり貧だ」

 

 サルはグラスを両手で挟んだ。

 

「で、お前は。まだティン・パン・アレーの連中に、曲を売ってるのか」

 

「売ってる」

 

「いくらで」

 

「二十五ドルだ」

 

「二十五?」

 

 サルが眉を寄せて、声を落とした。

 

「レオ、あの連中は、お前の曲を楽譜にして、何百部と刷るんだろう。お前の取り分が二十五ドルか。割に合うわけがない」

 

「知ってるよ」

 

「知ってて、売ってるのか」

 

「他に売る先がないからだ」

 

「今のところは、な」

 

 レオはそこで、目を伏せた。

 

(今のところは、な——サルの語尾の跳ね上がりは、モレッティの記憶の中の、十四の頃のサルの声と、まだ同じ形をしていた。この男は、値段の話には、必ず食いつく)

 

「サル」

 

「なんだ」

 

「俺は、いつまでも二十五ドルで売るつもりはない」

 

 サルはグラスを卓に置いた。

 

「……どういう意味だ」

 

「自分の看板で売る。曲の権利を、俺の名前の側に残しておく仕組みを、俺が作る」

 

「出版社を作る、ってことか」

 

「そう呼ぶ」

 

 サルの目が、店の低い天井を一度なぞって、戻ってきた。

 

「金は」

 

「あと三ヶ月で、三百ドルは貯まる。登記料と、最初の楽譜の版下と、印刷の口銭。それで足りる計算だ」

 

「印刷して、それから、どうする」

 

 サルは、レオがまだ何も答えていないうちに、続けた。

 

「ブレナンの流通網は、お前にはない。刷ったって、置く場所がなけりゃ、紙の山を抱えて終わりだぞ」

 

(さすがだ。八百屋の卓の上で、この頭を腐らせておくのは、惜しい)

 

「だから、お前の力が要る」

 

「俺の?」

 

「交渉と集金と、この街の脚。俺は書く方の脚しか持ってない。お前の脚は、こっちより速い」

 

 サルはグラスの底を指で回した。

 

「俺には親父の店がある。今でも綱渡りだ。俺が時間を割いたら」

 

「いきなり専業でとは言わない。夜と、日曜の午後だけでいい。売れた分から歩合を渡す。売上が固まって、お前が親父さんに話せる数字が見えてきたら、その時に、専業の話をする」

 

「歩合の間の週給は」

 

「専業に切り替えた月から、週二十五ドル出す」

 

「工場労働者と同じか」

 

「最初はな。一年で倍にする」

 

「倍」

 

 サルはその一音を、口の中で転がしていた。

 

「一つ、教えろ」サルが顔を上げた。「お前を二十五ドルで買い叩いているブレナンは、そこから、月にいくら稼いでる」

 

「少なく見積もっても、月三百は下るまい」

 

「三百」

 

 サルは短く、息を吐いた。

 

「三百か」

 

 その一語で、この夜のサルの目の色が、少しだけ、卓の外へ動いた。八百屋の卓の縁を、初めて、超えた目だった。

 

「乗るのか」レオが聞いた。

 

「三日、考えさせろ」

 

「三日で足りるか」

 

「三日で決める。それがコスタンツォの男の決め方だ」

 

 サルはグラスを空けた。空にした後で、少しだけ顔をしかめた。ジンの後味に対してではなく、決断の方の後味に対して、しかめたようだった。

 

(即答で乗る人間は、次に、即答で降りる。三日で決めると言う人間は、決めたら、降りない)

 

(俺の頭の中の脚注の中で、この男の名前は、脚注ではなくなる予定だ)

 

 

 三日後。

 

 サルがレオのアパートの扉を叩いた。

 

「入れ」

 

 サルは、いつもより背筋を伸ばして、椅子に座った。

 

「やる」

 

「親父さんには」

 

「話した。〈空いた時間で友人の商いを手伝う、店は今まで通り回す〉——それだけ言った。親父は、〈お前がやりたいならやれ。だが、店は潰すな〉と」

 

「分かった。パートナーだ」

 

「ああ。だが、一つだけ、条件がある」

 

「なんだ」

 

「俺の従兄弟のことは、気にするな」

 

 レオの指が、テーブルの上で、一瞬、鉛筆に触れる寸前の形で止まった。

 

「従兄弟」

 

「トニーだ。マルベリー・ストリートの、路地の奥に住んでる」

 

(トニー・コスタンツォ。サルの父方の従兄弟。モレッティの記憶の中では、十歳の頃までは、路地で一緒に石を投げ合った男の顔だった。十四で公立学校を出て、十六で〈あっち側〉に足を入れた。つまり——マフィアの下働きだ)

 

「トニーがどうした」

 

「フランク・マッシモの下で働いてる」

 

 マッシモの名が、この部屋の壁に、二月の夜のクラブの奥から、ふたたび貼られた。

 

「末端の下働きだ」サルは続けた。「大きな仕事は任されてない。だが血は繋がってる。お前と俺が組んだら、あいつの耳に、遅かれ早かれ、入る」

 

(サルと組むということは、間接的に、マッシモの視界に俺の名前を置くということだ)

 

(避けられなかった線だ)

 

「気にしない」

 

「本当に、いいのか」

 

「お前は堅気だ。それでいい」

 

 サルはしばらく、レオの目の中を確かめていた。それから、頷いた。

 

「乾杯しよう。ジンだが、密造の」

 

「密造の乾杯か」

 

「禁酒法の街だ。合法の乾杯はない」

 

 二つのグラスがぶつかった。まずいジンの、乾いた金属の後味が、この日の口の中に長く残った。

 

 

 

 

 8月。

 

 アンジェロの店で弾いていた、土曜の夜のことだ。

 

 階段を降りてくる足音が、いつもと違った。重い。ゆっくりだ。それでいて、迷いがない。五段目の抜けたところを、その足音は、慣れた広さで跨いだ。慣れているということは、初めての客ではないということだ。

 

 フランク・マッシモが、地下に姿を現した。

 

 四十歳。仕立てのいい麻のスーツを着ていたが、袖口のカフスボタンだけが、金メッキの剥げかけた安物だった。上等の生地の袖口に、その安物が、意図してか、意図せずか、光っていた。

 

 取り巻きが二人。片方は肩の張り具合で、上着の下に何を隠しているかが、分かった。

 

 アンジェロが、カウンターの内側で、背筋を、垂直より少しだけ手前まで、伸ばした。

 

「マッシモさん。いらっしゃい」

 

「アンジェロ。いつもの」

 

 マッシモはカウンターの中央に腰を下ろした。密造ウイスキーがすぐに出た。琥珀色。上等の瓶。おそらくは、マッシモ自身のルートで運ばれてきた、カナダ産の密輸品。自分の商品を、自分の傘下の店で、自分の値段で飲む。この街の裏側の、閉じた円のひとつだ。

 

 レオはピアノを止めなかった。ラグタイム風の軽い曲へ切り替えた。指は動いていた。それだけを、指に任せた。

 

(マッシモは、俺の記憶の中には、いない)

 

(前世の教科書の脚注にも、いない。カポネの名前はある。マッセリアの名前もあった気がする。だがこの男は、ローカルな幹部だ。二十世紀の全体史の粒度では、名前が拾われないサイズの、力)

 

(そしてローカルな幹部が、俺の生活の粒度では——一番、殴れる腕の届く距離にいる)

 

 三曲弾いた。マッシモがウイスキーの縁からレオを見た。低い、値踏みの視線だった。

 

「アンジェロ。あのピアノの小僧は」

 

「モレッティの息子です。仕立て屋の」

 

「モレッティ。ああ、マルベリー・ストリートの、角の。死んだ、あの男か」

 

「三年前に」

 

「腕は」

 

「悪くありません」

 

 マッシモがグラスを持ったまま、ゆっくり立ち上がった。二人の取り巻きは動かなかった。それが、この男の格を、店の中で言葉なしに示していた。

 

 マッシモがピアノの横に立った。

 

 レオは弾き続けた。指は正確に動いていたが、鍵盤の底を叩く力が、少しだけ、震えていた。

 

「おい」

 

「はい」

 

「何を、弾いてる」

 

「ラグタイムを、少し軽くしたものです。リクエストがあれば」

 

「音楽は分からん」

 

 マッシモがウイスキーを一口舐めた。それから、鼻から短く息を吐いた。

 

「だが、いい音と、悪い音の見分けはつく」

 

「ありがとうございます」

 

「お前の音は、悪くない」

 

「恐れ入ります」

 

 マッシモがピアノの譜面台に、片方の肘を軽く置いた。譜面台の板が、その重みで、目に見えないほど沈んだ。

 

「いい腕だ」

 

 低い声だった。

 

「俺のために弾け」

 

(来た)

 

「マッシモさんの、この店で、ですか」

 

「ここじゃない。ミッドタウンにも、俺の店がある。もっと上の客が来る。白人の紳士も来る。そこにピアニストが要る。週三回。一晩十ドル」

 

(一晩十ドル。アンジェロの店の倍だ。週三で月百二十ドル。金額だけ見れば、破格の条件だ)

 

(だが、金額の額面と、金額の重みは、別のものだ)

 

(マッシモの店で弾くということは、マッシモの傘下に、俺の名前を、俺の側から、明け渡すということだ。みかじめ料の代わりに、指の労働で、上納する。一度入ったら、出ていく時に、指が要らなくなる形で出ていく話も、ある)

 

「光栄です」

 

「そうか」

 

「ですが、今は、アンジェロさんのところと、書く方の仕事で、手一杯でして」

 

 マッシモの目が、ほんの少しだけ、細くなった。

 

「断るのか」

 

 空気が、地下の低い天井の下で、一度、止まった。取り巻きの二人のうち、右側の男の肩が、上着の下で、わずかに揺れた。

 

 レオは、指を鍵盤から離さなかった。離せば、この場が動く。動かせるのは、まだ、この男の側だけだ。

 

「断るわけでは、ありません」

 

「じゃあ、なんだ」

 

「両立が難しい、と申し上げているだけです。曲の口が固まって、余裕ができましたら、その時に、改めて」

 

 三秒だけ、沈黙があった。

 

 マッシモが、鼻から短く笑った。ウイスキーの匂いが、レオの右の耳の後ろを、一度、掠めた。

 

「いいだろう。急がん」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、覚えておけ、モレッティ」

 

「はい」

 

「俺は、待てる男だ」

 

「はい」

 

「だが、いつまでも待つ男ではない」

 

 マッシモが、譜面台から肘を離した。板が、目に見えないほどの高さで、元の位置に戻った。

 

 マッシモはカウンターに戻り、ウイスキーの残りを飲み干して、席を立った。取り巻きの二人が、後ろに、二歩、間を空けて続いた。階段を上る時、五段目を跨いだ足音は、降りてきた時と同じ広さだった。

 

 扉が閉まった。地下の空気が、ようやく、動き出した。

 

 レオは弾き続けた。指は動いていた。だが、背中に流れた汗が、シャツの生地を、地の色より濃く染めていた。アンジェロが、カウンターの内側で、初めて長い息を吐いた。

 

 

 演奏を終えて、地上に出た。夏の夜の空気は、地下より重かった。石畳が、まだ日中の熱を吐いていた。

 

 通りの角に、サルが立っていた。

 

「サル。ここで何をしてる」

 

「外で聞いてた。マッシモが来たって話を、店の裏から聞いたから」

 

「聞いて、どうする気だった」

 

「どうするもこうするもない。ただ、いた」

 

 サルの答え方は、この夜の彼にしては短かった。短いことが、この男の答えの重さだった。

 

「大丈夫だ」レオは言った。「断った」

 

「断ったのか」

 

「曖昧に、な」

 

 サルは短く、息を吐いた。その息の吐き方は、一度、安堵の形をして、すぐに、眉間の方へ、寄って戻った。

 

「レオ」

 

「なんだ」

 

「あの男を、怒らせたか」

 

「怒らせてはいない。曖昧にした。時間を、少し、稼いだ」

 

「時間を稼いで、どうする」

 

「金を、貯める」

 

 レオは、自分でその答えの短さに驚いた。もう少し複雑な返しがあったはずだが、この夜の口からは、その一語しか出なかった。

 

「金を貯めて、出版社を作る。マッシモに頼らなくても食える形を、こちらの側で先に作る。そうすれば、次に来る時、あの男は、条件を、下げて来る」

 

「あいつは、頭で考えないぞ」

 

「知ってる」

 

「拳で考える」

 

「知ってる」

 

(分かっている。今この夜、拳では勝てない。金でも、まだ勝てない。だが、いつか、拳と金の両方で勝てなくても、別の一手で勝てる日が来る。ミクロの日付までは、覚えていない。方角だけを、俺は知っている)

 

(連邦の検察が、この街の裏側に、脱税という切り口で刃を入れる時代が来る。カポネがそれで倒れる。年は、覚えていない。二十年代の終わりだったか、その少し先だったか——ぼんやりしている。方角だけ、俺は覚えている)

 

(拳で殴れない側の相手を、拳の男は、殴れない)

 

「行こう」レオは言った。「明日は曲を書く」

 

「明日は日曜だぞ」

 

「曲に日曜はない」

 

 サルが、片方の肩をすくめた。二人で、リトル・イタリーの夜の通りを、南へ歩いた。歩道の縁に、まだ日中の熱が残っていた。

 

 

 

 

 9月。

 

 閉店後の〈エディの店〉で、レオはクリフと、二人だけのセッションをした。

 

 カウンターの椅子は上げられ、床の掃除の水がまだ乾いていない場所を避けながら、ステージの前まで椅子を二つ引きずってきた。クリフはトランペット。レオはピアノ。他には誰もいなかった。

 

 クリフが最初の音を、ミュートをつけたまま吹いた。金属の弱くなった声が、店の低い天井を舐めた。

 

 レオは、右手だけで、応えた。左手は膝の上に置いたままだった。

 

 二人で、四小節を静かに走らせた。次の四小節で、クリフがミュートを外した。開放的な音が、天井を打ち抜いて、店の奥まで届いた。レオは左手を鍵盤に置いた。ff。二人の音が、店の空間の四隅にまで、届いた。

 

 その次の四小節で、また薄くした。pp。

 

 その振れ幅を、二人で、五セット続けた。

 

 弾き終えた時、クリフはトランペットを膝の上に置いた。マウスピースの表面が、ステージの上のランプの光を、鈍く返していた。

 

(クリフの音は、録音されるべきだ。この、pp から ff の振れの、途中の全部が)

 

(だが、今の録音技術では、この振れは、記録できない)

 

 地下鉄で通いながら、レオはこの数年、頭の棚の中で、録音技術の項目を、時々出しては入れ直していた。

 

 現在の主流の録音は、アコースティック方式。巨大なラッパ型のホーンに向かって、演奏家が音を送り込み、その振動で、ワックスの原盤に、針が直接、溝を刻む。マイクロフォンは、まだ使われない。ラジオの側では使われ始めているが、レコードの側には、まだ、来ていない。

 

 だから音量の調整は、楽器とホーンの距離で行う。トランペットが大きすぎればホーンから遠ざけ、ヴァイオリンが弱ければ近づける。ドラムは、振動が針を飛ばすので、そもそも使えない。

 

「クリフ」

 

「なんだ」

 

「レコードの音が、いつか、もっと良くなる」

 

 クリフが眉を寄せた。

 

「良くなる、というのは、どういう意味だ」

 

「マイクを使った録音だ。ホーンの代わりに、マイクで音を拾って、電気の信号に変えてから、盤に刻む。周波数の幅が広がる。ダイナミクスも記録できる。お前のミュートの、あの弱くなった音の、途中の全部が、盤に入る日が来る」

 

「マイクか。ラジオで使ってる、あれか」

 

「あれだ。それが、いずれ、盤の側にも来る」

 

「いずれ、というのは」

 

「数年のうちに、と、聞いている」

 

「聞いている?」

 

「電気工学の雑誌で、ウエスタン・エレクトリックが研究している、という記事を読んだ」

 

(嘘ではない。読んだ。ただし、実用化の年までを、俺は雑誌の外側の記憶で知っている。そこは、口には出さない)

 

「ふうん」クリフはさして興味を示さなかった。「まあ、良くなるならいいことだ。今の盤は、俺の音の半分も入っちゃいない」

 

「そうだ」

 

 レオは鍵盤に指を戻した。

 

「だから、俺たちの共作は、その時に備えて、今から仕込んでおく」

 

「マイク録音、というのに、備える曲、というのは、どういう曲だ」

 

「pp から ff まで、大きく振れる曲だ。今の方式では、振れの片側が、潰れる。ホーンに近づけた側だけが残って、遠ざけた側が消える。マイクなら、両側とも、残る」

 

「両側が残る、というのが、大事なのか」

 

「大事だ。ジャズの、あの、息を殺すところと、天井を打ち抜くところの、両方が、同時に、盤の上にある。それが〈記録〉というものだ」

 

「それを、いつ、出す」

 

 クリフが、ミュートを膝の上で回した。

 

「その、いつかを、待つのか」

 

「待たない」

 

 レオは、鍵盤の上で、指を鳴らさずに、動かした。

 

「待つ間に、金と、名前が要る。だから足元では、別の商いを走らせる。今の技術でも、確実に売れる先を、一本、掴む」

 

「別の商い」

 

「レース・レコードだ。大手が、白人の棚と分けて、少なく刷っている棚。あそこの棚は、まだ空いてる。俺たちの盤を、そこに置く」

 

 クリフが、少し、目を細めた。

 

「白人が、レース・レコードに入ってきて、稼ぐ、という話か」

 

「その、白人の側の顔は、俺じゃない。俺は看板の裏側にいる。看板は、お前の名前で出す」

 

「俺の、名前で」

 

「ハーレムの棚に、白人の看板で入っていくのは、いくつかの意味で、無理筋だ。だから、看板の側は、お前だ。書類の側は、俺だ」

 

 クリフは、しばらく、床を見ていた。掃除の水の跡が、まだ乾いていなかった。

 

「それは、俺には、悪い話じゃない」

 

「それでいい」

 

「だが、レオ」

 

「なんだ」

 

「本命の、マイク録音の側の曲は、俺たちの、俺とお前の両方の名前で、出したい」

 

 レオは、ピアノの鍵盤の縁を、指の腹で、一度、押した。

 

「そうしよう」

 

「そうか」

 

 クリフが、少しだけ、微笑んだ。トランペットを膝の上で回した。ミュートの重さと、真鍮の重さが、その動きの中で、釣り合っていた。

 

「お前は、面白い奴だな」クリフが言った。「ミュージシャンの話をしてるかと思うと、急に商いの話になる」

 

「両方をやらなきゃ、この街では、食えない」

 

「両足で立つ、というやつだな」

 

「一本足打法は、素人のやることだ」

 

 クリフは、その一語で、笑った。今夜、初めての、声を出した笑いだった。

 

「違いない」

 

 深夜二時。二人でクラブを出た。ハーレムの通りは静かで、遠くの信号の色だけが、時々、赤と緑に切り替わっていた。

 

 地下鉄の車内で、レオは手帳を開いた。鉛筆で、書きつけた。

 

 

  電気録音対応・曲リスト

   一、ダイナミクス幅の広いバラード(pp〜ff)

   二、ミュートトランペットとピアノの二重奏

   三、ブラシドラムを使った四拍子

 

 

(今は、まだ録音できない。だが、曲は書ける。楽譜の形で、引き出しに溜めておく。ウエスタン・エレクトリックが電気録音を発表した瞬間に、最初のセッションを入れる。それまでに、曲を増やし、クリフとのアンサンブルを重ね、金を貯めておく)

 

(方角だけを頼りに、この時代を渡る)

 

 

 

 

 10月。

 

 窓の外の街路樹の葉が、色を変え始めていた。二十八番街の裏の煉瓦の壁に、蔦の紅が、遠くから、少しずつ、差してきていた。

 

 レオはテーブルに紙を広げ、鉛筆を握った。前世でエクセルの表を睨みつけていた頃の癖が、この部屋のこの机の前で、この夜も動いた。

 

 

 ————————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1921年10月末

 

  【資産】

   現金         $196.40

   アップライトピアノ  $50(推定)

   楽譜原稿       $0(在庫5曲+共作用ストック3曲)

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   楽曲売却       $25-40/月(平均)

   演奏料        $40/月(アンジェロのスピークイージー)

   合計         $65-80/月

 

  【月間支出】

   家賃         $15

   食費         $13(夏場は果物が安い)

   交通費        $3(ハーレム通いが増えた)

   楽譜用紙等      $2

   雑費         $1

   合計         $34/月

 

  【純資産】$246.40(ピアノ含む)

 ————————————————————

 

 

(あと100ドル、足りない。出版社の登記料と、最初の楽譜の版下と、印刷の口銭で、三百ドルは要る。この収支なら、三ヶ月で、そこには届く)

 

(1922年の頭には、動ける)

 

 鉛筆を置いた。窓の外は、秋の灰色だった。ラジエーターが、今夜も、蒸気を、カンカンと吐いていた。

 

 新聞を、机の端から引き寄せた。片隅に、こう書いてあった。

 

 

  「不況の底を脱したか。企業景況感、回復の兆し」

 

 

 この夏、株価は底を打っていた。ダウ平均は、六十台の前半。戦後不況の底の水準だ。

 

(買いたかった。買っておけば、この先、数年で、数倍になる。方角だけは、覚えている。だが今の俺の懐は、家賃と食費と、出版社の版下で、既に、割り当てが済んでいる。株に回せるのは、多くて、数十ドル。それが数倍になったところで、百に届かない)

 

(順番を、間違えてはいけない。まず版権。次に金融)

 

(一本足で立つのは、素人のやることだ。まず一本目を、しっかり地面に、埋める)

 

 テーブルの上に、紙が二枚あった。片方は資産台帳。もう片方には、これから書く曲の、四つの音のスケッチが、まだ何にも接続していないまま、置かれていた。

 

 左手を、鍵盤に落とした。

 

 C、Am、F、G。手垢のついた四つの和音の型を、左手で叩いた。右手が、その上に、四つの音を置いた。E、G、A、C。最後のCを少し伸ばして、次の小節でBフラットに落とした。Bセクションへの、細い橋を、そこで一本、架けた。

 

 部屋の中で、指の下の鍵盤だけが、この時代の他の全てから、少しだけ、遅れて鳴った。

 

 窓の外で、リトル・イタリーの路地の奥から、犬が一度、遠くで吠えた。

 

 マッシモの影は、まだ、背中の、少し後ろの位置に、残っていた。

 

 その影の重さを、レオは、右手のCmaj9の残響で、一度、押し返した。押し返せる範囲は、まだ、鍵盤一つ分の広さだった。

 

 だが、鍵盤の広さは、明日には、少しだけ、広がる。

 

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