五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く 作:生サーモン
1922年1月。
二十八番街に、雪の混じった風が吹いていた。ハドソン川からの風は、通りの一方向にだけ吹き抜けていく。前から吹かれれば、コートの襟の内側に細い針のような冷気が入る。振り返れば、背中を押される。歩幅の外に体を運ばれるようだった。石炭の煙の匂いが、いつもより低い位置にたまっている。
レオは、机の前で紙幣と硬貨を数え終えていた。二度数えた。三度目は数えなかった。数えるほど硬貨が増えるわけでもない。
ラジエーターがカンカンと蒸気を吐いた。三日ぶりに温まった鉄の筒の匂いが、部屋の隅の埃を巻き上げた。
鉛筆の腹で、紙の余白に横線を引いた。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1922年1月初旬
【資産】
現金 $327.15
アップライトピアノ $50(推定)
楽譜原稿 在庫8曲(未売却)
【負債】
なし
【月間収入】
楽曲売却 $30-50/月
演奏料 $60/月($7.50/夜×8回)
合計 $90-110/月
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三百二十七ドル。
(二年)
鉛筆の芯が、紙に残った溝を辿った。四十七ドルと二十三セントで目覚めた朝から、二年。曲を書き、地下の店で弾き、二十五ドルずつ積んで、三百に届いた。二十五ドルを十三回積めば三百二十五になる。積み上がった額のわりに、この数え方はうすら寒かった。
紙の裏に、去年の秋に書き付けた一行がまだ残っていた。「一本足打法は素人のやることだ」。書いた時の指の力が、紙の繊維に凹凸で残っている。今の指で、その凹凸をなぞった。
(版権を握る側に回る。だが、看板だけ立てても意味がない。楽譜を刷るのは金と紙があれば誰でもできる。問題は、刷った先に売る道を持っているかだ。ブレナンの流通網の外で、俺の楽譜はどこに流れる)
窓の外で、二頭立ての荷馬車が石畳を打つ音がした。馬の呼気の白さが、硝子の曇りの向こうに一瞬だけ見えた。
■
午後、二十八番街とブロードウェイの角を折れた。
ゴールドバーグ楽譜店。看板の金文字は、両端の「G」が下地の緑ごと剥げていた。父の代からある店だと、この身体の記憶が言った。ショーウィンドウには色褪せた楽譜が三、四冊、傾いて立てかけてある。奥の窓から、途切れ途切れのピアノが漏れていた。誰かがCの音を一つだけ、繰り返し押している。調律を計っているようだった。
ドアを押した。真鍮のカウベルが二度鳴った。
店の中は、外より一段暗かった。壁の三面が楽譜の棚で埋まっている。棚と棚の間の通路が、大人一人が横向きに通れる幅しかない。中央にアップライトピアノが一台。カウンターの奥に、痩せた中年の男が背を丸めて楽譜のページを繰っていた。ソロモン・ゴールドバーグ、と身体の記憶が答えた。ルーの父。四十年、この店を続けてきた男。ルーは店の奥、コーヒーの湯気の向こうから顔を上げた。
「モレッティさん」
黒髪を後ろでまとめ、丸縁の眼鏡をかけた小柄な女だった。二十一歳。父の店の帳簿を、去年の春から一人で預かっていると、街の噂で聞いた。ソロモンが右手を痛めて楽譜の写しが取れなくなってから、店の裏側の仕事は全部この娘がやっているという。
「今日は楽譜を買いに来たわけじゃない」
ルーは眼鏡の縁を指の腹で押し上げた。
「それは、ドアを押した音の勢いで、分かった」
カウンターの奥のソロモンが、こちらを見もせずに一言だけ言った。
「話は奥でしろ。表の埃は表に置いてこい」
声は嗄れていた。だが指先まで届く低さがあった。ルーが奥の小さなテーブルに案内した。テーブルの上には、印刷用の版下と、金額の並んだ紙が広げてあった。指の背でその紙を裏返してから、ルーは席を勧めた。
「それで」
「出版社を作りたい」
ルーの目が、一瞬光った。すぐに眼鏡の奥に戻った。
「資金は」
「三百」
「三百ドルで、この街で出版社を作る」ルーは繰り返した。感想は挟まなかった。「事業登記が十五ドル。最初の楽譜の版型が三十から五十、紙代と印刷費で一千部あたり四十から六十。ここまでで百に届く。残り二百で、家賃と食費を月に三十で見積もって半年。半年で楽譜が売れなければ、あなたのアパートには次の家具がなくなる」
(さすがだ。挨拶が数字で返ってきた)
「半年で売れると思うか」
「曲による」
ルーはコーヒーカップを両手で挟んだ。指先が少し赤くなっていた。この店の暖房も、ろくに効いていない。
「一曲、弾いてくれない? あなたが自分の看板で出すつもりの曲を」
中央のピアノに歩いた。アップライトの蓋を持ち上げると、鍵盤の縁に薄い埃が積もっていた。ハンカチで拭くほどのものでもない。指の腹で払って、真ん中のFを叩いてみた。半音下に落ちていた。この店の空気の乾きが、鍵盤の狂い方に出ていた。
引き出しに溜めていた十五曲目を弾いた。ブレナンには持ち込まなかった曲だ。AABAの、Bセクションの二小節目で、ベース音を半音ずつ下降させながら、上の和声だけを保つ。景色が変わったように聞こえる仕掛けだった。景色が変わるが、着地はAに戻る。誰も置き去りにしない。
弾き終わった。ペダルから足を離すと、残響が二秒だけ床下を這った。
ルーは腕を組んで、目を閉じていた。目を開けたのは、残響が完全に消えてからだった。
「……Bセクションの、ベースだけ半音で降りるところ」
「気づいたか」
「気づく耳を持ってる人間は、この街に、そう多くない」
カウンターの奥のソロモンが、ページを繰る手を一度、止めた。止めて、また繰り始めた。
「ブレナンなら、いくらで買った」
「たぶん二十五ドルだろう」
「そうね。ブレナンはその曲を二十五ドルで買って、楽譜にして、もし当たれば数千ドル持っていく。あなたには一セントも入らない」
「だから自分で出す」
「そこまでは、あなたの頭で分かってる」ルーは眼鏡を直した。「分かってないことが、二つある」
(来た)
「一つ」ルーが指を立てた。「刷った楽譜を売る先。ブレナンにはヴォードヴィルの劇場、ダンスホール、デパートの楽譜コーナー、地方の小売、全部繋がってる。あなたの出版社にはそれがない。一千部刷って、どこの棚に置く」
「二つ目は」
「二つ目」ルーの指が二本になった。「ASCAP」
「加入すれば、ラジオやダンスホールで流れた分の演奏権料が入ると聞いた」
「入る。だが、それだけじゃない」
ルーはテーブルの下から古い冊子を引き出した。ASCAP規約集、と背表紙にあった。表紙の隅がすり減っていた。何度も繰った跡がある。
「演奏権料には、作家分と出版者分の二つがある。あなたがブレナンに買い切りで売った曲は、楽譜にあなたの名前が刷られていても、権利はブレナンにある。ASCAP経由の演奏権料は、作家分も出版者分も、両方ブレナンに入る」
「両方」
「両方」
ルーは繰り返した。強く言い直したのではない。ただ、聞き返された言葉を、そのままの重さで返しただけだった。
(両方——か。俺は「作家分」だけは残ると、勝手に思っていた。楽譜に俺の名前が刷られていれば、俺の曲だと、ASCAPが分かってくれると思っていた。だがこれは制度の話だ。俺の名前は、権利の所在を意味しない。買い切りの契約書に、作家分の留保は書かれていない。書かれていない以上、存在しない)
「あなたはブレナンに、九曲売った?」ルーが確かめた。
「八曲」
「八曲。仮に、それぞれ楽譜で二千部売れて、そのうち一曲がラジオの定番になったとして——」
ルーは紙の隅に鉛筆で数字を並べた。楽譜二千部×小売五十セント×卸掛率四割で、一曲あたり四百ドル。八曲で三千二百ドル。そこにASCAPの分配が、仮に定番一曲で年間三百ドル入る。翌年もその翌年も。曲が忘れられるまで。
「あなたが受け取った合計」
「二百」
「差は、三千。それが今年の話。演奏権料は来年も、その次の年も、曲が生きている限り、ブレナンに落ち続ける。八曲のうち一曲が長く残れば、あなたが二百で売ったものは、十年で軽く三千を超える資産になる」
ルーは鉛筆を置いた。カウンターの奥で、ソロモンがまた一度、ページを繰る手を止めた。今度は、少し長く止めていた。
(八曲。二百ドル。この身体が、二年前に売れると思って安売りしたぶん。今、ルーの鉛筆の下で、別の額として並んでいる。数字は嘘をつかない。俺の側の作為で減った額と、ブレナンの側の権利で増える額——同じ紙の同じ列に)
「レオ」
初めて名前で呼ばれた。
「これから作る出版社では、絶対に買い切りにサインしないで。作家分と出版者分、両方を自社に残す契約にする。ASCAPには、自社出版の実績を積んでから加入申請を出す。順番はそれ以外にない」
「あんたは、その順番を、父親の店で通してきたのか」
ルーは即答しなかった。眼鏡の奥で、一度、まばたきをした。
「うちは、通してきた。だが、ASCAPの分配は、版権の規模と在籍年数で傾斜がかかる。うちみたいな零細出版社は、大手が上澄みを取ったあとの、澱の中の澱を分ける」
カウンターの奥のソロモンが、初めて顔を上げた。目は疲れていたが、眼球の光の芯だけは、動いていた。
「モレッティさんの息子か」
「はい」
「仕立て屋の息子だな。マルベリーとヘスターの角の」
「はい」
「親父さんの背広を、うちの家内が仕立ててもらった。二十年前だ。裏地に白い糸で印が入っていた」
「C.M.です」
ソロモンは頷いた。それだけだった。それから、ルーに向かって顎で示した。
「話を続けろ」
ルーが咳払いをした。
■
「話を戻す」ルーが姿勢を直した。「私に、何をさせたいの」
「うちの出版社の裏方をやってくれ。契約書と帳簿と、ASCAPとの折衝」
「うちの店は」
「並行してやってもらっていい。俺の出版社が育てば、この店の棚にもうちの楽譜が並ぶ。並べる棚を潰さないやり方で、共存させる」
「報酬」
「利益の十五パーセント」
「二十」
「十七」
ルーは眼鏡の縁を指の腹で押した。二秒、迷った顔をした。二秒でこの顔をする娘だ、と身体の記憶の外側で覚えた。
「十七。ただし、ブレナンに気取られたら、いつでも降りる」
「降りていい」
「握手を」
小さいが、握りが強かった。指の関節の骨が、こちらの掌の骨と当たる音がしそうな握り方だった。父親の店の帳簿を四十年ぶんの重みで背負っている手だった。
「一つ聞いていい」ルーが手を離しながら言った。
「なんだ」
「あなた、なぜラジオを信じてる」
三秒、間を空けた。
(前世でラジオがどう普及したか、俺は知っている。だがそれは言えない。言えないので、この時代のこの街の窓から見える範囲で、答える)
「WEAFが去年、広告料モデルで放送を始めた。企業が金を出して電波の枠を買う。番組の中身は音楽だ。ラジオ局は毎日、何時間分もの曲を必要とする。楽譜を刷って店に卸すやり方より、電波に乗せて家庭に届けるやり方のほうが、単位時間あたりの流通量が桁違いに増える。今はまだ小さい。数年で桁が上がる」
「数年で、を、信じる根拠は」
「新聞と、受信機メーカーの株価の動きと、去年ラジオを買った近所の家の増え方だ。三つが同じ方向を指している」
(前世の記憶は言えない。だが前世の記憶なしでも、この時代の空気の中に、材料は落ちている。落ちている材料だけで答えを組み立てて、ルーに渡す。それが、この娘に対する誠意だ)
ルーは頷いた。納得した頷きではなかった。「あなたの答えは覚えておく」の頷きだった。
「もう一つ」
「なんだ」
「あなた、この店に来る前に、どこかで賭けてきた顔をしてる」
カウンターの奥のソロモンが、また顔を上げた。今度は、口元がわずかに動いた。笑ったのだと、遅れて気づいた。
■
二月。
事業登記の手続きを、サルが役所に持って行った。書類はルーが整えた。レオは、自分の名前を英字で書く欄に、二度、署名した。前のモレッティの筆跡と、迷いなくつながった。
出版社の名前は決まっていた。
「モレッティ・ミュージック・パブリッシング」
サルが紙に書かれた名を、指の背で撫でた。
「レオ。イタリア人の名を看板にするのか」
「する」
「白人の中産階級が客だぞ。楽譜の背表紙に『モレッティ』と刷ってあるのを見て、五セント多く出すか」
「今は出さない」
「今は?」
「五年後には、出す側と出さない側が入れ替わる」
サルは肩をすくめて笑った。反論の笑いではなかった。判断を預ける側の笑いだった。二年前、この身体の記憶の中でサルが「三日考えさせてくれ」と言ったときの顔と、今の顔は、地続きだった。
(サルは俺の判断を信じている。信じている、というより、他に信じる先がないのだ。八百屋の親父が去年から具合を悪くしている。ロザリアと来年結婚する話が出ている。三日考えて俺と組んだのは、賭けの意志ではなく、次の一歩の踏み場所の問題だった。俺が踏み場所を用意する側に回っている以上、俺の判断を疑うのは、この男には割の合わない仕事だ)
三月。登記が完了した。
所在地は、レオのアパートの住所。代表者、レオナルド・モレッティ。事業内容、楽譜出版および音楽著作権管理。登記費用十五ドル、印鑑三ドル、紙代二十セント。
登記証書の紙は、ざらついていた。指の腹で角をなぞると、繊維が引っかかった。
(始まった)
■
四月。
最初の楽譜を刷った。十五曲目、Bセクションのベースを半音で下ろすバラード。タイトルは『Silver Lining』——「Every cloud has a silver lining」。禁酒法の時代に、皮肉として通じる程度の英語だった。ルーがタイトルを見て、眼鏡の奥で一度だけ、笑った。皮肉が通じる娘だった。
印刷はソロモンの店の裏の版下と、フランス通り沿いの小さな印刷所を使った。一千部で、版型代三十ドル、紙と印刷四十五ドル。合計七十五ドル。
運び込んだ楽譜の束が、アパートの部屋の四分の一を埋めた。積み上げると、壁の代わりにもう一枚壁ができたようだった。
「ピアノまで、辿り着けないな」
ルーが呆れて言った。呆れるのが仕事、という顔だった。
「倉庫を借りる金はない」
「知ってる」
「知ってるなら早く売ってくれ」
サルが束の一つを肩に担いだ。
「リトル・イタリーの音楽好きの店主に十軒声をかける。グリニッチ・ヴィレッジのレコード屋を五軒。あとはアンジェロの店の常連客にちらつかせる」
「アンジェロの店で楽譜を売るのか」
「売らない。だが、常連がダンスホールに顔を出す。ダンスホールで曲が拾われれば、うちの楽譜の名前が出る。名前が出た先を、お前のルーの帳簿で拾えばいい」
ルーの、ではなく、お前のルーの、とサルは言った。
(サルの言い方には、俺の側にもう一人並ぶ位置ができた、という認識が入っている。二年間、俺の側は俺だけだった。今日、そこにルーが加わった。ルーには、ルーの父親の店がある。俺には、俺の看板がある。二つは別のものだ。だが、サルの言葉遣いの中では、既に混ざり始めていた)
サルは笑いながら、束を担いで階段を降りていった。
■
その週、ブレナンの事務所に呼ばれた。
二階の廊下の五段目が、また軋んだ。行きよりも、少しだけ深く。
葉巻の煙の匂いは、いつもと同じ濃さだった。だがブレナンの椅子の背もたれの角度が、いつもより少し起きていた。窓際に立たずに、机の向こうから、この身体を見ていた。
「モレッティ。先月渡した八曲目の代金だ」
机の上に、二十ドル札一枚と五ドル札一枚が置かれた。二枚の紙は、少し湿っていた。葉巻の匂いが染みていた。
「ありがとうございます」
紙幣を受け取って、指の腹で縁を確かめた。ブレナンからの二十五ドルは、これで八回目だった。二百ドル。ルーの鉛筆の下で並んだ数字と、指の中の紙が、同じ額を指していた。
「次の曲は」
三秒、間があった。ブレナンは、この三秒を計るために、この質問をしていた。
「しばらくは、持ち込めないと思います」
「しばらくは、か」
「はい」
ブレナンは、葉巻を灰皿の縁に置いた。煙の筋がまっすぐ立った。
「モレッティ」
「はい」
「お前、看板を立てたな」
嘘の入る余地がなかった。ティン・パン・アレーは狭い街だ。登記は公開情報だ。今、この場所で嘘をつけば、来週にはブレナンの耳に、俺自身の口とは違う経路から入る。その経路のほうが、はるかに悪意を伴う。
「先月、登記しました。モレッティ・ミュージック・パブリッシング、という名で」
ブレナンの表情は、驚きでも、怒りでもなかった。むしろ、可笑しさに近い曲線が、口の端に浮かんでいた。
「流通は」
「まだ、ありません」
「ヴォードヴィルの契約は」
「ありません」
「デパートの棚は」
「ありません」
「ソング・プラガーは」
「雇えません」
「じゃあ、何を持ってる」
「ラジオへの供給の準備を、始めています」
ブレナンが、初めて椅子から立ち上がった。窓際に歩いた。振り返らずに言った。
「ラジオか」
「はい」
「あのおもちゃで、楽譜が売れると思うか」
「楽譜を売らなくても、電波に楽曲が乗れば、演奏権料が発生します」
「ASCAPの分配な。お前が入るには、実績が要る。実績を積むには、時間が要る。時間を持ちこたえるには、金が要る。お前に、その三つが揃っているか」
「揃っていません」
「なら、なぜ看板を立てた」
葉巻の煙が、窓の隙間の光の中で、細く曲がった。
(この男の質問は、俺の答えを聞くための質問じゃない。俺の口の端の動き方を計るための質問だ。答え方の速さと、目線の落とし方と、指の力の入り方。それでこの男は、俺の残り時間を見積もる。ここで慌ててはいけない)
「揃っていないから、立てました」
ブレナンが、初めて振り返った。
「揃っていないから、看板を立てた」
「揃うのを待っていたら、揃った時にはもう、席がありません」
ブレナンは、しばらく黙っていた。それから、机の上に両手をついた。禿げ上がった頭の両脇の白い巻毛が、机の光を反射していた。
「モレッティ。俺はこの街で、二十年、作曲家の看板を見てきた。半分は、二年で潰れる。もう半分は、五年で潰れる。残った奴は、俺の下で仕事をする側に回る。お前は、たぶん、半分の側だ」
「そうかもしれません」
「そうかもしれません、と言えるなら、まだ息はある」ブレナンは葉巻をまた口にくわえた。「だが忠告じゃない、警告だ。俺の許可を取らずにこの街で看板を立てた奴は、俺の流通網には二度と乗らない。デパートも、ヴォードヴィルも、地方の小売も、俺が話をつける先には、お前の楽譜は置かれない。お前が困った時にここに来ても、今日の二十五ドルは、二度と出さない」
「分かりました」
葉巻の火が、灰の縁で赤くなった。
立ち上がろうとしたとき、ブレナンが、もう一言だけ、遠くから声を放るように言った。
「あの父親も、堅気の意地で潰れた」
指の中で、二十五ドルの紙が、少しだけ湿った。
「父は、堅気で終わりました。息子は、看板を立てました」
「二十五ドルで、看板を立てた気になるな」
「二十五ドルで、看板の代金の一部を、いただきました」
ブレナンの目が、細くなった。葉巻の煙が、初めて、揺れずに止まった。
「行け」
扉を閉めるとき、ノブの真鍮の冷たさが、指の腹に残った。廊下の突き当たりの窓に、四月の光が斜めに差していた。埃が光の筋の中で、ゆっくり回っていた。階段の五段目は、降りるときも、行きよりわずかに深く軋んだ。
通りに出た。冷たい春風が、正面から来た。コートの襟を立てた。裏地の縫い目の「C.M.」の白い糸を、指の腹で一度だけ、確かめた。
背中の側、二階の窓から、電話のダイヤルを回す音が、通りにまで漏れていた。
「ああ、俺だ。モレッティって小僧がいただろう。あのイタリア人の……ああ、あいつが自分の看板を出したらしい。モレッティ・ミュージックだと。……ああ。潰すか」
足を止めなかった。角を折れた。
(想定内だ。遅いか早いかの違いでしかなかった。この街は狭い。狭い街で、電話は速い)
■
五月。
サルの営業報告が、紙一枚で届いた。ルーが清書していた。
リトル・イタリー、八十部。グリニッチ・ヴィレッジ、四十部。アンジェロの店の常連経由の楽器店、三十部。ソロモンの店で五十部。合計、二百部。
卸掛率四割、卸値一部三十セント。売上、六十ドル。
印刷費七十五ドル。差し引き、まだ十五ドルの赤字。だが、六百部が動く先には、まだ届いていない。
サルが、報告書を渡しながら言った。
「レオ。楽器店の三軒から、来月は取らない、と言われた」
「理由は」
「言わない」
「ブレナンか」
「たぶんな」
サルの声には、腹の据わり方が入っていた。腹立ちではなく、こういう手が来るとは思っていた、という腹の据わり方だった。ロザリアと来年結婚する男の、次の一歩を計る目の力だった。
「リトル・イタリーの店は」
「義理で残ってる。だが、いつまで持つか分からない」
「ルーに、ラジオを前倒しにしてもらう。楽譜の流通を潰されるなら、楽譜に頼らない収入源を先に立てる。ラジオ局と、直接、話をつける」
「WEAFか」
「WEAFと、あと、WORとWJZに順に当たる。ルーが局の担当者の名前を掴んでいる」
サルが、初めて息を吐いた。息の吐き方に、笑いが混ざっていた。
「お前、頭の中に、何本、路線図があるんだ」
「今日は、三本だ」
冗談で返した。冗談で返せる程度には、まだ、余裕があった。四本目の路線図は、頭の中の別の紙に、まだ書いていない。
■
六月。
WEAFの局の裏口に、ルーとサルとレオの三人で立った。ラジオ局のスタジオは、AT&Tのビルの六階にあった。エレベーターは動いていたが、乗らずに階段で上がった。エレベーターの箱の中で待つ時間を、レオは信用していなかった。息の匂いが、こもった箱の中では、面接に響く。
担当者は、若い男だった。二十七、八歳。放送する音楽の曲目を、毎日、頭を抱えて選んでいる顔だった。
「モレッティ・ミュージック?」
「はい」
「聞いたことがない」
「今月、看板を立てたばかりです」
男は、机の上の紙束を、手の甲で押した。ため息を吐きかけたが、吐かなかった。
「持ってきた楽譜は」
鞄から三曲分の楽譜と、四本のアセテート盤を出した。ソロモンの店の裏で、レオ自身が演奏を録ったものだった。録音の質はひどい。だが、ラジオの音の悪さで放送されれば、家庭のスピーカーから出るときには、大差ない音になる。
男は一本目を蓄音機にかけた。二本目もかけた。三本目もかけた。四本目の、Bセクションでベースが半音で降りるところで、男の右手が、机の縁の上で、一度、止まった。
「これ、あんたが書いたのか」
「私です」
「編曲も」
「私です」
「独学か」
「独学です」
男は、蓋を閉じた。針を戻した。
「うちの局は、月に八時間、音楽の時間枠を持っている。そのうちの一時間で、あんたの曲を試したい。使えたら、三時間まで拡大する。使えなかったら、そこで終わる」
「使えます」
「即答するな」
「即答したのは、使えると分かっているからです」
男は、また、ため息を吐きかけて、吐かなかった。
「ASCAPには」
「これから、実績を積んで加入申請します」
「入ってからうちに来い、と言いたいところだが、うちは今、曲が足りない。ASCAPの分配は、あんたが加入したあとで、事後精算する。今月から、一時間ぶん、使う」
男は名刺を出した。名刺の裏に、放送予定表の欄外を鉛筆で書き足していた。
裏口から出て、六階分の階段を降りた。降りている途中の三階の踊り場で、ルーが立ち止まった。眼鏡の奥で、まばたきを二度した。
「レオ」
「なんだ」
「一時間、取れたわね」
「取れた」
「一時間の一時間ぶんは、当分、お金にならない」
「ならない」
「でも、来年の一時間には、お金がついてくる」
「そうなるようにする」
ルーは頷いた。眼鏡の縁を指の腹で、一度、押した。
外に出ると、六月の午後の光が、通りの両側の建物の間で、まっすぐに落ちていた。
■
七月。
サッコ=ヴァンゼッティの一審有罪判決から一年が経った、というカフェの新聞の見出しを、指の腹で押さえた。控訴審の見通しは不透明、と記事は結んでいた。見出しの下段に、リトル・イタリーの老人が、判決に抗議して聖アントニオ像の前で手を組んでいる写真があった。老人の背中の丸まり方が、この身体の中の父の背中の丸まり方と、ほぼ同じだった。
(この二人は、たぶん、この街の空気ごと死ぬ。年は覚えていない。二十年代の後半だったと思う。正確な日付は覚えていない。だが、死ぬ。控訴が何年続いても、結果は変わらない)
新聞を折り畳んだ。
カフェの窓の外を、ダンスホールの案内係の男が、束を抱えて走っていった。束の一番上に、『Silver Lining』の楽譜の背表紙が見えた。モレッティ・ミュージックの、金色の細字。三ヶ月で四百部を超えた。ヒットではない。だが、零細の一曲目としては、悪くない数字だった。
ルーが、そろそろASCAPの加入申請ができる、と紙に書いてよこした。
二曲目の準備に入っていた。『Midnight Rhythm』。スピークイージーの空気を、瓶詰めにしたつもりの曲。密造ジンの甘さと、警官の靴音への警戒とが同じ空気の中で溶ける場所で、それでも三分だけ生き延びる旋律。
クリフとの共作は、電気録音の時代に備えたストックとして、十曲を超えた。指の中では、あと三曲、書ける。書いておいて、寝かせておく。この街のスタジオが、マイク録音に切り替わる日まで、寝かせる。年は覚えていない。二十年代の半ば頃だったはずだ。
■
八月末。
資産台帳を、月末の癖で、机の上に広げた。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1922年8月末
【資産】
現金 $438.20
アップライトピアノ $50(推定)
楽譜在庫 約600部(原価$45相当)
モレッティ・ミュージック版権 2曲(評価額:未定)
【負債】
なし
【月間収入】
楽譜売上 $60-80/月(卸売)
演奏料 $60/月
合計 $120-140/月
【月間支出】
家賃 $15
食費 $15
サル給与 $100/月($25/週)
印刷費積立 $15
雑費 $5
合計 $150/月
【純資産】約$533.20(版権・在庫含む)
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(月に十から三十ドル、現金が減る。サルの給与を出しながら、印刷費を積みながら、家賃を払う。この赤字は、ASCAPの分配が始まるまで続く。分配は、来年の年末が最初のはずだ。それまで持ちこたえる。持ちこたえるための現金は、四百三十八ドル。細く長く、燃やす)
窓の外で、夏の終わりの空が、二十八番街の看板の上に低く広がっていた。
■
九月。
夜、アパートの階段を上がってくる足音がした。二段抜かしの、急いだ足音だった。ドアがノックの手前で開いた。
サルだった。額に汗を浮かべていた。
「レオ」
「どうした」
「うちに卸してくれてた楽器店のうち、三軒から、来月は取れないと連絡が来た。理由は言わない。だが、そのうちの一軒の店主が、こっそり教えてくれた」
「誰の名前が出た」
「ブレナン。あと、ブレナンの後ろにいるらしい、卸元の名前」
「卸元の名前は」
「ノースイースト・シート・ミュージック・ディストリビューション。中西部からニューヨークまで、楽譜の卸を仕切ってる大手だ」
「大手を動かしたか」
「動かした」
サルは、椅子の背に手をかけた。座らずに、立ったまま報告を続けた。
「安定してるのは、あと五軒。リトル・イタリーの店は義理で残ってるが、いつまで持つか分からない。ソロモンの店は、動かない。ソロモンは、店を潰しても、うちの楽譜は棚に置く、と言った」
「そう言ったのか」
「そう言った。理由は、聞かなかった」
(ソロモン。二十年前の背広。裏地の白い糸のC.M.。あの一言で、俺の父の名前が、ソロモンの店の棚の話と、繋がった。ソロモンが繋げた。俺が頼んだのではない)
サルの息が、少しずつ整っていった。
「レオ。次の手は」
「WEAFの、一時間の枠を、来月から二時間に押し上げてもらう。ラジオの担当者が、三ヶ月で判断すると言っていた。三ヶ月を待たずに、成果を出す」
「どうやって」
「番組の合間で、モレッティ・ミュージックの名前を、担当者から一度だけ、電波で呼んでもらう。名前が電波に乗れば、聴いた家庭のうち、百人に一人が楽譜を買いに走る。楽器店ではなく、ソロモンの店に走らせる」
「ソロモンの店に、そんな在庫はない」
「在庫は、うちのアパートの床にある。四百部が、ここで、床の四分の一を、まだ占めている」
サルが、床の楽譜の束を、目の端で数えた。
「レオ」
「なんだ」
「お前、頭の中で、電話の線を、何本引いてる」
「今夜は、三本だ」
サルは息を吐いた。息の中に、笑いが混ざっていた。四月に見せた笑いより、一段、深かった。
■
十月末。
もう一度、資産台帳を広げた。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1922年10月末
【資産】
現金 $412.55
アップライトピアノ $50
楽譜在庫 約400部
モレッティ・ミュージック版権 3曲
ラジオ局との関係 3局(供給口約束)
【負債】
なし
【月間収入】
楽譜売上 $40-50/月(流通妨害の影響で減少)
演奏料 $60/月
合計 $100-110/月
【月間支出】
合計 $150/月(変動なし)
【純資産】約$500(版権・在庫含む)
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鉛筆の腹で、月末純資産の欄に、横線を一本引いた。
(月四十ドルの赤字。四百十二ドルの現金。十ヶ月分の、赤字の持ち時間。ASCAPの初回分配は、順当なら来年末。ラジオ局への供給が二時間に増えれば、電波に乗った曲の演奏権料が、加入後に事後精算される。事後精算の額は、読めない。だから読めない額を当てにする以上、読める額の支出を絞る)
紙の裏に回して、細い字で、当面の順番を書き足した。行の頭に、一本足打法は素人のやることだ、と一月に書いた文字が、まだ薄く残っていた。その文字の下に、書き足した。
一、ソロモンの店の棚を、うちの楽譜の常設拠点にする。今夜、ソロモンに礼を言いに行く。
二、WEAFの二時間枠を、十一月の頭に取りに行く。ルーが担当者に、既に連絡している。
三、映画館のピアノ弾き向けのBGM集を、来年の春までに、一冊、編む。楽譜出版とは別の入口を作る。
四、ASCAPへの加入申請の書類を、来月から準備する。ルーが規約集の該当条項に印をつけている。
書き終えて、鉛筆を置いた。
紙の余白の隅に、鉛筆で、四つの数字を書き付けた。二十五、五百、五千、五万。八曲を売って積んだ額、今日この紙の上の純資産、一年後にラジオ収入が乗った先で見える額、そしていつか、この時代の音楽産業のどこかの卓に呼ばれる夜、椅子の下に置いてある鞄の中身の見当。全部、この十月末の紙の上ではただの数字だった。
窓の外で、秋の風が、通りの一方向にだけ吹き抜けていた。二頭立ての荷馬車が、石畳を打つ音が、一度、少し離れた場所で止まった。御者が馬に短く命じる声がした。
ピアノに向かった。
四曲目を書く。ラジオ向けの、シンプルな旋律。電波の帯域は狭い。歪みが多い。だから、複雑な和声は潰れる。メロディラインを際立たせ、中音域を厚くし、サビを短く、繰り返す。前世で音の悪いスピーカーから流すことを前提に組み立てた曲の設計思想と、この時代のラジオの設計思想は、細部でよく似ていた。似ているところだけ、指の下に置く。
左手が、四分音符でCから循環の型を刻んだ。C、Am、F、G。手垢のついた四つのコード。右手が、その上に、旋律の最初の四音を置いた。C、E、G、E。四音目のEを少しだけ長く伸ばして、次の小節でDに落として、Aセクションを繋いだ。
部屋の隅で、床の四分の一を占めていた楽譜の束が、少しだけ、低くなっていた。
ドアをノックする音がした。乾いた二回のノックだった。
「レオ」
ルーの声だった。
「開いてる」
ルーが入ってきた。眼鏡の縁の、右側の枠が、少し曇っていた。冷たい外気から、暖房の効いた部屋に入ったばかりの、湯気の跡だった。
「WEAFの担当者から、返事が来た」
「二時間か」
「二時間半」
ルーは、手に持った紙を、机の上に置いた。担当者の手書きの、鉛筆の書き足しだった。放送予定表の欄外に、モレッティ・ミュージック、の名前と、放送の曜日と、時間帯が並んでいた。
「レオ」
「なんだ」
「担当者が、番組の合間で、うちの名前を電波に一度だけ乗せる、と書いてる」
窓の外で、ラジオ受信機を買った隣の部屋から、かすかに音楽が漏れていた。ノイズだらけの、途切れ途切れの放送。旋律は聞き取れなかった。だが、拍だけは、伝わってきた。
(乗る)
指の下で、鍵盤のCが、鳴っていた。