五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第5話】ラジオという怪物

 新聞の三面に、四行の囲みがあった。

 一九二二年八月末の朝。タイムズ・スクエアのニューススタンドで二セントを払い、束の上のを一部引き抜いてもらった。歩道の縁に寄って、日陰の側で開いた。日陰と言っても、八月のアスファルトから立つ熱気が、紙の縁までじりじりと押し上げてくる。インクの匂いが、その熱に混ざって、いつもより濃かった。

 

 「WEAF局、初の商業放送を実施。不動産会社がアパートメントの広告を十分間放送、料金五十ドル」

 

 二度読んだ。三度目は、囲みの下の署名までなぞった。

 

(十分で五十ドル)

 

 その一行の値段を、もう一度、ゆっくり口の中で言い直した。楽譜が一部三十五セントで卸されるこの街の、十分と、この街の楽器店の店員の週給の、ちょうど半分。ラジオが、電波の空気を売り始めた朝の値段だった。

 新聞を折り畳んで、コートの下——八月に着るには重すぎるコートの裏地——のポケットに突っ込んだ。父の仕立てたコートは、去年よりも肩の縫い目が、少しくたびれてきている。

 通りに戻った。馬車と自動車が交互に石畳を打つ。石炭の煙と、排気ガスと、荷台の魚の匂い。息を吐くと、鼻の内側がざらついた。

 

(ラジオが「趣味」から「商売」に変わった朝だ)

 

 その一語だけを、頭の中で、一度置いてみた。二度は置かなかった。二度置くと、書き言葉のように整いすぎる。前世で報告書に書いていた癖が出てしまう。この街の朝は、そういう仕上がりを許さない。

 

 安食堂で、十セントのコーヒーとパン。カウンターの奥の壁時計は、埃で目盛の縁が丸くなっている。パンの端をコーヒーに浸して、一度だけ噛んで、あとは片手で歩きながら食べた。

 アパートに戻り、机の前に座った。

 

 帳簿を開いた。

 

 

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  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1922年8月末

 

  【資産】

   現金         $502.30

   アップライトピアノ  $50(減価償却なし)

   楽譜在庫       約280部

   モレッティ・ミュージック版権 4曲

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   楽譜売上(卸売) $35-45/月(流通妨害で減少)

   演奏料      $60/月(スピークイージー1軒)

   合計       $95-105/月

 

  【月間支出】$150/月

 

  【純資産】約$560

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 月に四十五から五十五ドルの赤字。ペンの尻で余白の一行を叩いた。十ヶ月で現金は尽きる。ブレナンが手を回したせいで、楽譜の卸先は五軒から三軒に減った。地味に、着実に、殴られている。

 だがこの朝の紙面が、殴られている場所そのものを、動かした。

 

(楽譜の卸ではもう、追いつかない。権利で稼ぐ。ラジオ局が、番組を埋める曲を大量に欲しがる時代が来る。俺の書いた楽譜がラジオで一度でも鳴れば、楽譜を一部も売らなくても、演奏権料が入る)

 

 余白に、ペンで書き付けた。

 

 「ASCAP加入条件を調べる」

 

 

 

 

 翌日の昼、ルーが来た。

 夏の午後の光が、事務所代わりのアパートの、机の縁を細く切っていた。ルーは麦わらの縁の狭い帽子を、机の端に丁寧に置いた。眼鏡の左のつるの、蝶番の部分に、細い糸が絡んで白く残っているのが見えた。父の楽譜店の裏で拾った染みだろうと、レオは何も言わずに目をそらした。

 

「ASCAPに加入したい」

 

「唐突ね。理由は?」

 

「昨日、WEAFが商業放送を始めた。十分で五十ドルの広告枠だ。ラジオ局は増える。ラジオが番組を埋めるために曲を大量に欲しがるようになる。ASCAPに加入していれば、俺の曲が電波に乗るたびに、演奏権料が入る」

 

「ラジオ、ね」

 

 ルーは繰り返してから、鞄の中から手帳を出した。表紙の角が、指の腹の油で黒く光っている。開いた頁の、几帳面な字。字の粒が全部同じ大きさで、そのくせ書き飛ばした跡が微かに残っている。父の教えだと本人は言わないが、レオはそう推し測っていた。

 

「加入条件は二つ。第一に、商業的に出版された楽曲を持っていること。第二に、既存会員からの推薦」

 

「推薦」

 

「そう。誰でも入れない。会員が『こいつは本物だ』と証言する必要がある。……あなた、業界にそこまでの人脈ある?」

 

 ルーは顔を上げず、指で頁の縁を撫でた。皮肉ではなかった。事実の確認だった。

 

(ない。ブレナンに卸を潰されかけている零細の看板に、ASCAPの誰が推薦状を書いてくれる)

 

「出版実績は?」

 

「モレッティ・ミュージックから四曲。自社出版だが、流通してはいる」

 

「四曲。少ないわね。せめて十曲あれば、申請に説得力が出る」

 

「今のペースで、半年」

 

「半年。来年の春。……ちょうどいいわ。ラジオ局は今年の残りで、ぐっと数が増える。ASCAPがラジオとの包括契約を本格的に動かすのが、来年になる。あなたが加入するのは、その仕組みが動き始めてからでいい」

 

 ルーは手帳を閉じた。閉じてから、蝶番のつるを、片手で軽く直した。

 

「推薦者の当てはある?」

 

 その一問の前で、ルーの手が、はっきりと止まった。開いた口を、一度閉じてから、また開いた。

 

「……父なら」

 

「お父さん」

 

「父は昔、ASCAPの出版者会員だった。今は名前だけ、休眠。だけど推薦権は、まだ生きているはず」

 

(ソロモン・ゴールドバーグ。一時はティン・パン・アレーで名前のあった出版者。今は角の楽譜店の主。娘に、自分の名前の残り香だけを譲り渡してきた男だ)

 

「お父さんに、頼めるか」

 

「頼んでみる。だけど父は頑固よ。あなたの曲を聴いて、認めなければ推薦しない」

 

「聴いてもらえるだけで、こちらの願いはかなう」

 

 ルーは、一瞬、目を細めた。眼鏡越しに、こちらの言葉の裏を測る目だった。それから帽子を取って、被り直した。

 

 

 

 

 九月に入ってから、レオは曲の設計思想を変えた。

 紙の上で書きたい音楽ではなく、鉄の箱の中で鳴らして、隣の部屋まで届く音楽を書く。

 朝の六時。窓の外の煙突の輪郭が、藍色から灰色に上がっていくのが分かる時間帯。石炭ストーブの火はまだ小さい。指先が冷えている。鍵盤の象牙は、体温よりずっと低い。Cメジャーのスケールを、上行下行、十分。指先の血の巡りが戻ってくる音を、指の腹で数える。

 

(一九二〇年代のラジオの箱は、低音が潰れて、高音が割れる。真ん中の帯だけが、まだ人間の言葉に近い。前世のソフトなら、EQで底と天井を持ち上げてやれた。ここでは、曲そのものを、真ん中の帯に畳んで書く)

 

 左手はストライドの型を敷いた。C、G、C、G。ルートと五度の交互。だが低音の跳ねを深くしすぎない。深くすると、真空管が呑む。

 右手で旋律を探した。Eから下がる。E、D、C。下降。ありふれている。指を戻す。E、D、C、G。四度の跳躍を差し込む。跳躍のあとにステップで戻すと、耳が安心する。緊張と弛緩。音大の教室で年配の講師が繰り返していた言葉が、この街の朝の部屋で、鍵盤の中に沈んでいく。

 

 G、A、G、E。波のように揺れて元に戻る。

 E、D、C、G、A、G、E。七音。二秒で歌える。

 

(フックが要る。一度で耳が拾って、二度目に唇が真似る場所が)

 

 Aの音を、少し長く伸ばしてみた。E、D、C、G、A……G、E。

 

 伸ばした瞬間に、旋律が「歌い始めた」と、指の腹が言った。

 

(Aの上に、音節が乗せたくなる。歌詞がなくても、聴いた人間が、勝手に言葉を当てはめる。前世のヒット曲の癖だ。タイトルの音節が旋律の頂点に来る。この曲のAは、タイトルの場所だ)

 

 窓の外で、路面電車のレールを、鉄の車輪が擦った。乾いた高い音。頭の中で、その音の高さと、Aの伸びが重なった。

 

 『Walking Down Broadway(ブロードウェイを歩いて)』。

 

 Aに「Broad」を乗せた。Walk-ing-down-Broad-way。音節がぴたりと嵌まる。

 Aセクションを八小節。左手のストライドは控えめに。コードはC、Am、F、G7。四つ以上は積まない。ラジオの箱の中で、複雑な和音は団子になる。

 Bセクション。サブドミナントのFに寄る。音域は真ん中のまま。Bセクションの六小節目、Fに戻る一拍だけ手前に、A♭7を差した。裏コード。トライトーン・サブスティテューション。

 

(一九二〇年代の作曲家は、まだ楽譜には書き付けない。ジャムで手癖で似た響きを鳴らす者はいる。だが記譜はしない。この一粒は、耳が拒否しないが、覚える。ひとつまみだけ。多いと時代が離れる。少ないと埋もれる)

 

 A—B—A—Aの三十二小節を、通しで弾いた。壁掛けの時計を見上げたら、二時間半が経っていた。首の後ろが、じっとりと湿っていた。

 

 左手を書き直す。ストライドの基本を崩し、半音でベースを上げる。C、C♯、D、D♯、E。

 弾いた。

 

 曲が「歩き始めた」。

 

(低音の一段一段が、靴音になる。ブロードウェイの、乾いた敷石の色)

 

 昼までに固めた。午後は五線紙に清書した。清書していると、頭の底のどこかで、前世の画面が浮かんだ。マウスの右クリックでノートを掴んで、細い縦線をコピーして貼り付けていた画面。あの画面から、この五線紙まで、随分と回り道をした。

 

 夕方、サルが来た。麻の上着の袖に、干し草の匂いが混じっている。今日は義理の叔父の八百屋を手伝ってきたのだと、聞かなくても分かった。

 

「新曲か」

 

「ラジオ用の一曲目だ。『Walking Down Broadway』」

 

「弾いてくれ」

 

 弾いた。三十二小節。

 サルは、腕を組んだままだった。

 

「レオ。一つ聞くぞ」

 

「何だ」

 

「お前の曲は最近、妙にすっきりしてる。前に聴かせてくれた凝った奴とは全然違う。わざと簡単にしてるのか」

 

(耳のいい男だ)

 

「わざとだ。ラジオで流すなら、細かい細工は潰れる。潰れないところだけを残す」

 

「潰れる?」

 

「ラジオの箱は、細い音を拾わない。捨ててくる」

 

「ふうん」

 

 サルは、椅子の背に体重を預けて、天井の裸電球を見た。それから、こちらを見ずに言った。

 

「お前、曲を書いてるんじゃなくて、何か別のもんを設計してるな」

 

「曲は曲だ。聴いた奴が口ずさめれば、それでいい」

 

 サルは笑わなかった。だが、椅子から立ち上がるまでの間、ほんの一瞬、口の端で笑うかどうかを決めかねている顔をしていた。

 

 

 

 

 九月から十二月まで、月に二曲。四ヶ月で八曲を書いた。

 全部、ラジオの箱の帯域に畳んだ。中音域に旋律を寄せ、和声はシンプルに、フックは鋭く。AABAの三十二小節。一度聴いたら口ずさめる旋律。ルーが並行して、ラジオ局を回った。

 

「WEAFだけじゃない。ニュージャージーとコネチカットの新興局にも当たるわ。今、全米で開局ラッシュ。どこも番組の中身に困ってる。楽曲を無償で提供してもいいくらい。どうせASCAPに入れば放送回数で入るんだから」

 

「無償はやらない」

 

「え」

 

「無償で出せば、俺たちの曲の値段はゼロだと、市場に教えることになる。安くていい。だが必ず対価をつける。金額が無理なら、番組内で『モレッティ・ミュージック提供』とアナウンスさせろ」

 

(前世の広告屋の鉄則だ。無料で配ると、永遠に無料を期待される。フリーミアムは戦略で使うもので、自暴自棄の安売りとは違う。ただこの言い方は、この時代には無い)

 

「名前をアナウンス……」ルーは指で顎の下をなぞった。「宣伝になるわね。リスナーが名前を覚えれば、楽譜を探す。ブレナンが楽器店を押さえていても、ラジオで名前が流れれば、客の方から来る」

 

「そういうことだ」

 

「あなた、本当にただのピアノ弾きじゃないわね」

 

「しつこいな。ただのピアノ弾きだよ」

 

 ルーの顔に、一瞬だけ、皮肉と信頼の中間の表情が浮かんだ。それはこちらの根拠を追い詰める顔ではなかった。追い詰めれば消える相手だと、この娘は既に知っていた。

 

 

 

 

 年が明けた。一九二三年、一月。

 寒波がハドソン川を凍らせて、朝の埠頭で船夫が凍った縄を叩いている、そういう冬だった。事務所——というにはまだ狭すぎるアパートの、机の上に、ルーが小さな束を置いた。

 

「WEAFの夜の番組で、三曲が定期。WORで一曲。ニュージャージーのWAAM、コネチカットのWTIC、それぞれ新規」

 

「合計五局か」

 

「五。うち三局が、週三回以上。まだ少ないけどね」

 

(週三回、三局、四週で月三十六回。年内に全米で五百局を超える。今の五は、始まりの五だ)

 

「ラジオ局への売り込みは緩めるな。それから、俺は今度、ソロモン・ゴールドバーグさんに会う」

 

「父の楽譜店。日曜の午前に、店を開ける前が一番いい。父は日曜の朝、店の中で自分のためにピアノを鳴らす人だから」

 

 

 

 

 二月の日曜日。

 二十八番街のティン・パン・アレーは、日曜の朝だけ、通りの両側からピアノの音が聞こえないひとときが訪れる。ラグタイムもワルツも、日曜の礼拝の間だけは黙る。その静けさの中で、通りの角の、色あせたショーウィンドウの店は、ゴールドバーグ楽譜店だった。

 揚げ物とインクと石炭の匂いが、店の敷居のところで、一度立ち止まる。中に踏み込むと、埃を吸い込んだ木の匂いに変わる。

 

 店の奥の、小さなアップライトの前に、白い髪の老人が座っていた。

 小柄で、厚い眼鏡の奥の目が鋭い。眼鏡越しの知性は、ルーが受け継いだものだと一目で分かる。

 

「父さん。レオナルド・モレッティ。話していた——」

 

「座りなさい」

 

 短い、押し出すような声だった。ルーに似ていた。二人とも、余計な前置きを嫌う。

 レオは店の奥のアップライトの前に腰を下ろした。ペダルを軽く踏んで、右のペダルの戻りが少し重いのを確かめた。左端のFの音が、半音落ちて、Gに寄っている。右手の内側の親指で、鍵盤の窪みを一度なぞった。指先の油の匂いが、ニスの匂いの中に一瞬混じった。

 

「弾きなさい。お前の曲を」

 

 弾いた。『Walking Down Broadway』。三十二小節。中音域に畳んだ旋律。半音で上がるベース。Bセクション六小節目の一粒。

 

 弾き終えた。

 ソロモンは、目を閉じていた。

 十秒。二十秒。針が動く音だけが、店の奥から鳴った。

 

「もう一曲」

 

 別の一曲を弾いた。『Midnight Coffee』。Amの暗い旋律が、Bセクションの一瞬だけ、Cメジャーに寄る。夜明け前の一杯の温度の変化を、コード進行に置き換えた曲だ。

 弾き終えた。ソロモンが、初めて口を開いた。

 

「Bセクションの六小節目。あの和声は何だ」

 

「トライトーン・サブスティテューション、と呼んでいます」

 

「名前はどうでもいい。あれは、聴いたことがない。だが耳が拒否しない。なぜだ」

 

「ドミナントと同じトライトーンを共有しているからです。機能的には同じ解決をします。ただし、色が違う」

 

 ソロモンの目が、細くなった。

 

「色が違う。……いい言い方だ」

 

 沈黙。ソロモンが、眼鏡を外して、レンズを袖口で拭いた。ルーがそうやって拭くのと、拭き終わったあとの鼻先で確認する動作まで、同じだった。

 

「ルー。この男は何者だ」

 

「ピアノ弾きよ、父さん。独学の」

 

「独学でこの和声を使う人間がいるか」ソロモンが眼鏡をかけ直した。「まあいい。推薦状は書く」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいらない」

 

 ソロモンは店の奥の小さな机の引き出しから、皺の寄った便箋を出した。指の腹で紙の縁を、二度、撫でて伸ばしてから、こちらを見た。

 

「モレッティ。一つ覚えておけ。ASCAPは、入ることが目的じゃない。入った後が戦場だ。お前は分かっているのか。あそこがどういう場所か」

 

「どういう場所ですか」

 

「大きい者がまず食い、残りを小さい者が分ける場所だ。私が辞めた理由でもある」

 

 ルーが気まずそうに、店の入り口の方に目をそらした。ソロモンは、それ以上は言わなかった。ペン先が便箋を掠る、細い音だけが、店の奥に残った。

 

 

 

 

 三月。ASCAPに申請を提出した。

 自社出版の実績十二曲。ソロモン・ゴールドバーグの推薦状。ルーがまとめた、ラジオ五局での放送実績のレポート。

 四月の第一週の終わり、封筒が届いた。ルーが赤い頬で階段を駆け上がってきた。麦わら帽子の縁を、指の腹で押さえていた。

 

「レオ。通った」

 

「何が」

 

「ASCAP。正式加入」

 

 椅子から立ち上がった。指の関節が、机の縁を軽く叩いた。

 

(来た。ここから、電波が金を運んでくる)

 

「分配は」

 

「次の四半期分から。四月から六月の放送実績で、七月に最初の分配金」

 

「三ヶ月か」

 

「三ヶ月」

 

「ルー。五局を十局にしたい」

 

「やる。今、月に二十局以上が新設されてる。全米で。どこも中身に困ってるから」

 

 ルーがコートを取って、階段を降りていった。麦わら帽子は忘れていった。机の端の帽子を、レオは指の背で軽く撫でて、椅子の背にかけた。

 

 

 

 

 五月。

 午前中はピアノ、午後は清書、夜はスピークイージーで演奏。帰宅すると翌朝の構想をメモして寝る。月に二曲。五月に二曲、六月に二曲。カタログは十六曲になった。

 その夜、サルが、油染みのついたテーブルクロスの店で、フォークをミートローフに突き刺したまま言った。

 

「レオ。映画館の話だ」

 

「映画館」

 

「グリニッチ・ヴィレッジの、リボリ・シアター。あそこのピアノ弾きが辞めた」

 

 フォークが止まった。

 

(無声映画の伴奏ピアニスト。映画館は、映画の間じゅう生でピアノを鳴らす。ピアニストを雇うか、既製の伴奏楽譜を買って弾かせる)

 

「辞めた理由は」

 

「給料が安いんだと。週十五で毎晩三時間ってのは、まともなピアノ弾きなら断る」

 

「断るだろう。だが俺たちには芽だ」

 

「芽? お前が弾くのか」

 

「違う。映画館に楽譜を売る。伴奏用のBGM集を、モレッティ・ミュージックから出す」

 

「伴奏用の……」

 

「場面ごとに使える楽譜の束だ。追いかけっこ用、恋愛用、喧嘩用、悲劇用、場面別に二、三曲ずつ。映画館のピアノ弾きが、場面を見て選んで弾ける」

 

(前世で、後にキュー・シートと呼ばれる仕組みに近い。映画スタジオが公式のキュー・シートを出す前に、俺が先に出す)

 

「ニューヨークだけで映画館は二百軒を超える。ピアノ弾きは常に楽譜を探してる。それに、サル」

 

「何だ」

 

「映画館の流通ルートには、ブレナンの手が届いていない」

 

「ブレナンが押さえてるのは、楽器店とヴォードヴィル劇場だな。映画館は……」

 

「そう。ニッチすぎて、ブレナンの視野に入っていない。だから俺たちが取れる」

 

 サルの口の端が、上がった。今度は、迷わずに笑った。

 

「いいね。裏口から入るのは、お前らしいやり方だ」

 

 翌日、ルーに映画館の顧客リストを見せてもらった。ゴールドバーグ楽譜店の卸先に、映画館のピアノ弾き向けの注文が、十二軒分。

 BGM集の制作に入った。追跡(アレグロ)、恋愛(アンダンテ)、喜劇(モデラート)、悲劇(アダージョ)、冒険(マルチア)、日常(汎用モデラート)。それぞれ二曲ずつ、合計十二曲。

 

(ラジオ向けは、狭い箱の中の設計だ。映画館向けは、生ピアノの表現力を全部使える。強弱の幅を広く取り、場面の感情を、音の階層で描く。前世の映画音楽の原型が、この方角にある)

 

 

 

 

 六月の、深夜のことだった。

 スピークイージーの仕事を終えて、午前一時過ぎ。三ブロック先のデリカテッセンが、まだ黄色い電灯を灯していた。深夜勤務の工員と、新聞の配達の途中の少年たちが、順番に立ち寄る店だった。

 コーヒーを一杯。五セント。

 カウンターの奥の棚に、木の箱型のラジオ受信機が載っていた。三本の真空管が、鈍いオレンジ色に灯り、スピーカーの穴からノイズ混じりの音声が漏れていた。WEAFの深夜番組らしい。

 ぼんやりと、ラジオの音に、耳を向けていた。ノイズ、ノイズ。アナウンサーの声が、途切れ途切れに聞こえた。

 

「続いては、モレッティ・ミュージック・パブリッシングの……」

 

 コーヒーカップを持ち上げかけた手が、途中で止まった。

 ノイズ。そして。

 

 旋律が聞こえた。

 

 歪んでいる。高音がシャリシャリと割れる。低音は、聞こえない。真空管の癖で、真ん中の帯だけが不自然に持ち上がっている。だがその歪みの奥に、書いた覚えのある七音があった。

 

 E—D—C—G、A……G—E。

 

 『Walking Down Broadway』。中音域に畳んだ旋律。半音で上がるベース。狙った通り、真ん中の帯だけが、驚くほど鮮明に、耳に届く。

 WEAFの局のピアノ弾きが、譜を見ながら弾いているのだろう。名前も顔も知らない誰かの指が、レオの書いた音符を、電波の中で辿っている。

 息を吸うのを、忘れていた。三小節分、忘れていた。

 カウンターの向こうで、店主が皿を拭いていた。

 鼻歌が、混じった。

 

 E—D—C—G、A……。

 

 拾ったばかりの旋律を、この店主は、もう口ずさんでいた。皿を拭く手のリズムが、曲のテンポと合っている。左手のストライドを、皿を裏返すタイミングで踏んでいる。

 

(覚えてくれた。一度で。名前も知らない、深夜のデリカテッセンの店主が)

 

 前世では、こんなことは一度も起きなかった。

 1Kのアパートで、蛍光灯の一つが切れた台所で、電子レンジの湯気を挟んで、匿名で配信サイトに上げた曲の再生数が、三桁のまま止まっていた。イヤホンの外側では、永遠に鳴らない音楽だった。

 それが、今、電波に乗って、ニューヨークの夜のどこかに、散らばっている。名前も知らない男の、朝の何時かの、皿の音の中に、混ざっている。

 

「お客さん、コーヒーが冷めてるよ」

 

「ああ。もう一杯もらえるか」

 

「五セントだ」

 

 温かいコーヒーを受け取った。苦い。安い豆だ。だが、温かかった。

 

(帳簿には書けない三十秒だ)

 

 カウンターに硬貨を置いて店を出た。夜風が、髪の生え際を撫でた。目の縁が、少しだけ、熱かった。

 泣く癖は、前世でも失くしていた。今もない。ただ、目の縁が熱かった。

 

(前世で、俺のヘッドフォンの中でしか鳴らなかった音が、今、俺の知らない誰かの手のリズムになっている)

 

 アパートまで十五分。コートのポケットに手を突っ込んで、歩いた。頭の中で、次の一曲が、勝手に鳴り始めていた。あの店主が、また、鼻歌で辿ってくれるような曲を。

 

 

 

 

 六月の下旬。

 映画館向けBGM集『Movie Moods』を出版した。全十二曲入り、一セット二ドル。

 最初のひと月で三十五セット、七十ドル。ゴールドバーグ楽譜店の顧客リストからの直販が中心だった。映画館のピアノ弾きの口コミで、じわじわ広がる。

 同時に、ラジオを通して楽譜の問い合わせも増えた。ブレナンが潰した楽器店の卸先ではなく、リスナーが直接、手紙を送ってくるようになった。

 

「今月、個人からの手紙の注文が三十通」ルーが束を机に置いた。「全部、住所と切手が貼ってある封筒よ」

 

「ラジオで聴いて、気に入った人が、出版社を調べて手紙を書いてくる」

 

「ブレナンが楽器店を押さえていても、郵便は押さえられない」

 

(直接注文。ラジオの副産物として、ブレナンの流通妨害を迂回する道が、自然に生まれた)

 

 一通は楽譜一、二部。五十セントから一ドル。三十通で、十五から三十ドル。楽器店の卸より、利益率が高い。

 

 

 

 

 七月。

 ASCAPから、最初の分配金の封筒が届いた。

 開けた。小切手が一枚。

 

 金額の欄に、三十一ドルと書いてあった。

 

 数字を見つめた。

 もう一度、字面を追った。ドル記号の縁の擦れまで、目でなぞった。

 

(三十一ドル)

 

 紙をひっくり返した。もう一枚、明細が挟まっていた。会員の格付け。傾斜配分。版権規模と、在籍年数と、楽曲の市場価値を掛け合わせた係数。新参の零細出版社は、最下位のClass 4に置かれる。分配の優先順位が最も低い。

 椅子の背に、体重を預けた。天井の裸電球が、ゆるく揺れた。

 

(四月から六月の三ヶ月間。五局で、月平均四十回以上の放送。三ヶ月で百二十回。百二十回の放送で、三十一ドル。一回、二十五セント)

 

 二十五セント。新聞売りの少年に、二セントで新聞を売ってもらう朝を、十二回半、繰り返した金額だった。

 ソロモンの言葉が、耳の奥に戻ってきた。「大きい者がまず食い、残りを小さい者が分け合う場所だ」。

 あの日曜日の午前の、店の奥のアップライトの前で、ペン先が便箋を掠っていた音まで、鮮明に思い出せた。あの老人は、知っていた。知っていて、教えてくれていた。

 

 ルーが階段を上ってきた。麦わら帽子は、今日は被っていなかった。

 

「分配金、届いた?」

 

「三十一ドルだ」

 

 ルーの顔から、色が引いた。

 

「……三十一」

 

「傾斜配分だ。俺たちはClass 4。最下位。版権十六曲、在籍一年未満。ハームス社は千曲、在籍十年。掛ける係数が全部小さい」

 

 ルーは、机の縁を、指の腹で軽く撫でた。それから、何か言いかけて、口を閉じた。

 

「父が言ってたこと……」

 

「お父さんは正しかった。ASCAPに入ること自体は間違いじゃない。問題は、ASCAPの中の分け方だ」

 

 レオは帳簿に三十一ドルを記入した。桁が、隣の欄より、二桁分低かった。数字の底が、他の科目の底より、ずっと下に沈んでいた。

 

(三十一ドル。だが落ち着け。分け方が変わらないなら、外に稼ぐ道を増やす。ラジオ局への直接の楽曲供給料、映画館のBGM集、楽譜の直接注文。ASCAPの分配は、収入源のうちの一つで済むように、他を太くする。ブレナンの流通を迂回したのと同じ)

 

「レオ。大丈夫?」

 

「大丈夫だ。三十一ドルは三十一ドルだ。想定より少ないが、ゼロじゃない。方針は変えない。曲を書き、ラジオ局を増やし、配分のランクを上げる」

 

 ルーが頷いた。だが眼鏡の奥の目に、疑念が薄く残っていた。

 

 

 

 

 九月のある夜。

 パーク・アベニューの高級ホテル。ロビーの大理石の柱が、シャンデリアの下で、湿った光を返していた。

 音楽出版業界の懇親会。ルーの紹介で、レオは十五ドルの既製のスーツで出席した。この部屋にいる男たちの、片方の靴一足分にもならない金額だった。だが、来なければならなかった。ASCAPの理事会の人間と、大手出版社の幹部が集まる場だった。人脈は、金と同じくらいの資産だ。

 ルーが小声で耳打ちした。

 

「背の高い白髪、ハームス社のマックス・ドレイファス。ガーシュウィンを発掘した人。あっちの太った男が、リミック社のフレッド・ミルズ。そして……」

 

 ルーの声が、途中で止まった。

 

「どうした」

 

「……あの人。ウィリアム・パーカー三世。投資家。音楽出版社への投資もしてる。気をつけて」

 

「何に」

 

「人種に、よ」

 

 視線の先。二十八歳前後の、痩せた長身の男が、シャンパンのグラスを持って笑っていた。仕立ての良いタキシード。口元にかすかな冷笑。周囲に五、六人の男女が、耳を傾けている。

 

「ラジオ株はまだ早い。放送免許の法整備が追いついていない。投資するなら三年後だ。今は自動車。フォードが値下げを続けている限り、部品メーカーの株が上がる」

 

(判断は妥当だ。頭は良い)

 

 パーカーの視線が、こちらを捉えた。

 

「君は?」

 

「レオナルド・モレッティです。モレッティ・ミュージック・パブリッシングの代表です」

 

「モレッティ?」パーカーが片眉を上げた。「イタリア系か」

 

「はい」

 

 パーカーがグラスを軽く回した。中の泡が、一度昇って、消えた。

 

「音楽出版か。面白い。イタリア人が音楽をやるのは自然だな。オペラの国だ」

 

「ありがとうございます」

 

「だが出版となると話は別だ。出版はビジネスだからね。イタリア人のビジネスは……」

 

 パーカーが、口元を歪めた。

 

「まあ、靴を磨くか犯罪に走るかが一般的だろう」

 

 周囲の何人かが、笑った。気まずそうに目をそらした者もいた。笑いは長くはなかった。だが、短くもなかった。

 

(サッコ=ヴァンゼッティの国の空気を、そのまま吸って育った男だ)

 

「パーカーさん。イタリア人が得意な分野は、音楽と、ビジネスですよ」

 

「ほう。それは失礼。しかしモレッティ、君の会社はどのくらいの規模なんだ。版権はいくつ持っている」

 

「十六曲です」

 

「十六曲」パーカーが鼻で笑った。「ブレナンは三百曲以上の版権を持っている。ハームス社は千を超える。十六曲の出版社がこの部屋にいるのは、勇気があるか、身の程を知らないか、どちらかだな」

 

(どちらでもない、パーカー。俺がこの部屋にいるのは、お前の全財産が数年で紙くずになる日に、俺の十六曲が生きているからだ。……マクロは覚えている。何年の何月かは、覚えていない。ただ、十年以内のどこかに来ると、俺は知っている)

 

「身の程は知っているつもりです。だから、ここで学ばせていただいています」

 

「謙虚だな。イタリア人にしては」

 

 パーカーが、レオの肩を軽く叩いた。友好の仕草ではなかった。格下に向ける温情の仕草だった。二秒。長すぎた。

 

「頑張りたまえ、モレッティ。才能があるなら、靴磨きや犯罪の世界に行かなくても済むだろうからね」

 

「ありがたい忠告です」

 

 レオは、微笑みを崩さなかった。

 パーカーが背を向けて、次のグラスを取りに行った。

 

 ルーが小声で言った。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫だ。慣れてる」

 

 慣れている。この身体の二十二年は、ああいう視線の中で通り過ぎてきた。イタリア系は靴磨きか犯罪者。父も、その視線の中で仕立ての針を運んでいた。針の代わりに、俺はペンを運ぶ。それだけの違いだ。

 

 

 懇親会の帰り際、もう一つの視線があった。

 ロビーで、コートを受け取っている時。背の低い男が、こちらの脇に、静かに立った。三十代前半。黒いスーツに、黒いネクタイ。丸い顔に人懐っこい笑み。だが目の底の温度が、笑みと合っていなかった。

 

「モレッティさん。少しいいですか」

 

「はい」

 

「あなたの曲、ラジオで聴きましたよ。『Walking Down Broadway』。あれはいい曲だ」

 

「ありがとうございます。失礼ですが、お名前を」

 

「グレコ。トミー・グレコ。同郷のよしみで、挨拶だけ」

 

 差し出された手を、握った。柔らかい手だった。労働者の手ではない。人差し指の付け根に、細いペンだこも見えなかった。

 

「モレッティさんの事務所は、イースト・ハーレムの近くですか」

 

「ティン・パン・アレーです」

 

「そうですか。私はイースト・ハーレムに事務所を持っています。お困りのことがあれば、いつでも」

 

「今のところは、大丈夫です」

 

「ええ。今のところは」

 

 グレコは微笑んだ。それから背を向け、ホテルの外に消えた。黒い車が一台、玄関口で待っていた。後部座席のドアが開き、閉まった。

 ルーが横で、息を止めていた。

 

「レオ。あの人……」

 

「知ってるのか」

 

「マッシモの周りにいる人よ。イースト・ハーレムで、何度か見たことがある」

 

「分かった」

 

 分かっていた。握手の柔らかさ、目の底の温度、「今のところは」の言い直し。全て、あるひとつの職種の男の所作だった。

 

(トミー・グレコ。友好的に見える。今のところは。この手の人間は、理由なく挨拶には来ない。俺の曲をラジオで聴いた——それは本当かもしれない。だが、耳より先に、あの男は俺の売上を聴いている)

 

「ルー、帰ろう。今夜はもう十分だ」

 

 

 

 

 十月。ラジオ局の数は、全米で五百を超えた。

 モレッティ・ミュージックの曲を扱うラジオ局は、八局。ニューヨーク近郊だけでなく、フィラデルフィアの局も加わった。

 映画館向けBGM集の売上も伸びた。八月までに百セット。九月以降は口コミで、ニューヨーク近郊の映画館にじわじわ広がっていた。

 ASCAPの第二四半期の分配金が届いた。四十八ドル。前期の三十一から、五割増し。

 

(パイは大きくなっている。ラジオ局が増え、包括ライセンス料が増え、ASCAPの総収入が増えた。だが分け方は変わらない。Class 4は、まだClass 4だ)

 

 ルーに、条件をもう一段強めるよう頼んだ。

 

「ラジオ局に楽曲を出す時、条件をつけてくれ。『この曲はモレッティ・ミュージック提供』というクレジットを、放送中に読み上げること」

 

「前にも、名前をアナウンスさせるって言ってたわね」

 

「あの時は口約束だった。今度は契約条件にする。読まない局には、曲を出さない」

 

「強気ね」

 

「強気じゃない。当たり前だ。ラジオ局は、曲がなければ番組が組めない。俺たちの曲は、質が高い。交渉の力は、こちらにもある」

 

 十一月から、八局のうち六局が、クレジット読み上げに同意した。ラジオから「モレッティ・ミュージック提供」の名前が、繰り返し流れるようになった。

 

 

 

 

 十二月の初旬。サルが、目を丸くして帰ってきた。

 

「レオ。信じられないことが起きた」

 

「何だ」

 

「ブレナンの事務所から、電話があった」

 

「ブレナンから」

 

「正確には、ブレナンの秘書だ。お前の曲を使いたいと言っている」

 

 椅子の背に、体重を預けた。天井の裸電球の紐が、ゆっくり揺れた。

 

「俺の曲を。ブレナンが」

 

「ブレナンが直接楽譜を刷りたいんじゃない。ブレナンの顧客のヴォードヴィル劇場が、ラジオで流れてるモレッティ・ミュージックの曲を生演奏でやりたいと言ってきた。劇場がブレナンに問い合わせたが、版権を持っていない。だから」

 

「だからモレッティ・ミュージックに、電話を回してきた」

 

「そういうことだ」

 

(一年前に、俺の曲を二十五ドルで買い叩いた事務所が、俺の曲を、俺から借りに来た。流通を潰し、卸先を奪い、業界のコネで包囲して、それでも、ラジオは潰せなかった)

 

「サル。ブレナンに伝えてくれ。演奏権の使用許諾は、ASCAPを通じて正規の手続きで行う。ブレナン個人への特別条件はない。他の劇場と同じ条件でどうぞ、と」

 

 サルが、歯を見せて笑った。

 

「いいねえ。二十五ドルで買い叩いてきた相手に、正規料金でどうぞ、ってか」

 

「公平なだけだ」

 

 

 

 

 一九二三年十二月末。

 年末の帳簿を作った。

 

 

 ——————————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1923年12月末

 

  【資産】

   現金         $2,150

   銀行預金       $580(チェース銀行に口座開設)

   アップライトピアノ  $50

   楽譜在庫       約200部

   映画館向けBGM集在庫  約50セット

   モレッティ・ミュージック版権 16曲

   ラジオ局との関係   12局(うち正式契約5局)

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料   $16/月(四半期ベースの月割り)

   楽譜売上(卸売)  $20-25/月

   楽譜売上(直接注文)$30-40/月

   映画館BGM集     $25-35/月

   ラジオ局供給料   $15/月

   演奏料       $70/月(スピークイージー1軒+臨時)

   合計        $176-201/月

 

  【月間支出】

   家賃     $22

   食費     $18

   サル給与   $100/月(週$25)

   ルー報酬   $25/月(利益の15%相当の月額)

   印刷・郵送費 $18/月

   雑費     $8

   合計     $191/月

 

  【純資産】$3,030

  前年末比: +$2,530

 ——————————————————————

 

 

 鉛筆を置いた。数字の底の並びを、上から下へ、目でなぞった。前年末、一本柱と二本柱の間だった収入源が、今、六つに枝分かれしている。ブレナンの流通妨害は、もう効いていない。ASCAPの三十一ドルは、六本のうちの一本になった。

 問題は、その一本を太くする道が、今のところ見えていないことだ。

 

 帳簿を閉じ、別の紙を引き寄せた。深夜に書き溜めていたメモの束だ。

 ラジオ向けとは正反対の楽譜が、束の中に混じっている。極めて弱い記号から、極めて強い記号まで、細かい強弱を書き込んだ楽譜。高音域と低音域を、目一杯使う楽譜。

 

(今のラジオの箱では、この設計は潰れる。ラッパ型ホーンの録音でも潰れる。だが、真空管を使った電気の録音方式が、あと数年で来る。マイクロフォンが、この帯域を、拾える。何年の何月かは、覚えていない。ただ、二十年代の半ばの、どこかだ)

 

 束の中の一枚を、明かりの下に置いた。強弱の指示が、五線の下に、細かい鉛筆の粒として並んでいた。前世で、DAWのオートメーションを、細い縦線で並べていた画面が、頭の底で一瞬だけ光った。あの画面と、この鉛筆の粒は、同じ設計思想の別の道具だった。

 

 窓の外で、隣の部屋のラジオが、途切れ途切れに鳴っていた。

 E—D—C—G、A……G—E。

 『Walking Down Broadway』。壁越しの、雑音混じりの、途切れ途切れの音。三月の深夜のデリカテッセンの店主の、あの鼻歌と、同じ順番。

 

(あの店主が、今夜も、どこかの店で皿を拭いている。一年前は俺の頭の中にしかなかった七音が、今、ニューヨークの夜のどこかで、皿を拭くリズムになっている)

 

 机の引き出しに、七月の最初の分配金の小切手が、しまってある。三十一ドル。換金せず、記念にとってある。指の背で、引き出しの縁を、一度だけ叩いた。

 

(三十一ドル。この数字を、変える)

 

 鍵盤に指を置いた。

 左手が、Cから循環の型を刻んだ。C、Am、F、G。右手が、その上に、次の一曲の最初の四音を置いた。今度は、ラジオの箱のためではない。あと数年で来る、マイクロフォンの前で映える四音だ。

 

 窓の外で、路面電車のレールを、鉄の車輪が擦った。乾いた高い音が、去年より少し遠くから、聞こえた。

 

(傾斜配分の壁は、まだそこにある。マイクロフォンは、まだ来ていない。パーカーの笑いは、まだ乾いていない。トミー・グレコの手は、まだ柔らかいままだ)

 

 鍵盤に指を置き直した。次の四音を、伸ばした。

 

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