五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第6話】電気録音の夜明け

 1924年2月。エオリアン・ホール。

 

 開演の三十分前、ロビーはもう毛皮の襟で埋まっていた。葉巻の煙と、女たちの香水と、外套の裏から立つ樟脳の匂いが、天井の照明の熱で一度混ざり合い、頭の高さでゆっくり回っていた。プログラムはポール・ホワイトマン楽団。目玉は、若い作曲家の新作だと刷ってある。ジョージ・ガーシュウィン。二十六歳。

 

 レオはバルコニーの最前列にルーと並んで座った。ルーの眼鏡のレンズに、天井のシャンデリアが二つ映っていた。

 

「ホワイトマンの名前で満員よ」ルーが小声で言った。「立ち見まで出てる」

 

「立ち見の連中の目当ては、ホワイトマンじゃない」

 

 レオは開いたプログラムの、Gershwin という綴りの上に、指の腹を置いた。二十六歳。この身体より、四つ上。

 

(この男の名は、百年経っても、消えない。俺は今、その百年後の教科書を頭の裏に貼りつけたまま、隣の席に座っている。詐欺師よりたちが悪い。詐欺師は少なくとも、まだ結果の出ていないことに賭けている)

 

 客電が落ちた。

 

 最初に鳴ったのは、クラリネットだった。

 

 

 

 

 低いB♭から始まった。

 

 ふつうの上昇音階なら、指板の目盛りを一つずつ踏んで登っていく。だがそのクラリネットは、目盛りをまたいだ。一つの音から次の音までを、鳥が屋根から屋根へ移るように滑らせ、二オクターブと半分を、ひとつの粘り気で駆け上がった。粘りの中に、街灯のにじみと、地下酒場の煙が同時に含まれていた。

 

 オーケストラの和音がそれを受けた瞬間、ホールの中の、喉の奥で何かを言おうとしていた人間たちが、一斉に、言うのをやめた。咳の音まで、途中で止まった。

 

 ガーシュウィンがピアノの前に座った。細身の若い男だった。座り方に構えがなかった。ただ、そこに椅子があるから座った、という座り方だった。指が鍵盤に落ちた。落ちた場所に、七度と九度と、増四度が混ざっていた。学問として整理された和音のはずのそれが——腹の底の、いつも自分でも触っていない場所を、下から突いた。

 

 レオは、拳を握っていた。

 

 ブルーノートが、オーケストラの弦の呼吸に混じっていた。クラシックの背骨の中に、ジャズの脈が通っている。この曲を、レオは知っていた。前世でCDで聴いた。ヘッドフォンで聴いた。楽譜を出して、Bセクションの転調を、DTMの画面で分解した。だが、この夜、この座席で浴びる音は、あのCDの音の、はるか手前と、はるか奥の両方に届いていた。

 

 十七分間だった。

 

 最後の和音が消えたあと、ホールは二秒だけ、完全に静かだった。二秒目の途中で、二階席のどこかから、堪えきれない声が漏れた。それを合図に、客席が立ち上がった。拍手が、ホールの側壁で跳ね返って、二重に鳴った。レオも立っていた。手のひらが赤くなっていた。

 

 隣で、ルーが眼鏡を外していた。レンズの内側を、シルクのハンカチで押さえた。

 

「すごかった」

 

「ああ」

 

 レオの喉の奥で、砂が擦れた。

 

(勝てない)

 

 同時代に生きている。同じ空気を吸っている。にもかかわらず、あの男は、この時代の内側から、この時代の誰も届いていない場所へ、一人で歩いていった。百年後の記憶を積んだ道具など、一切使わずに。

 

(俺はこの男のようには書けない。書けるはずがない。あのBセクションのあの転調は、理論の帳面に「セカンダリー・ドミナントの拡張」と書けば書ける。だが、書けたところで、あれと同じ音は鳴らない。指が違う。腹が違う)

 

 ルーが横を向いた。

 

「あなたの曲とは、違うわね」

 

「違う」レオは言った。「ガーシュウィンは芸術家だ」

 

「あなたは?」

 

「商売人だ」

 

「そんなに、簡単に、割り切れるの」

 

 レオは笑った。息を吐きながら、笑うふりをしただけだった。

 

「割り切るしかない。あの才能の前で立ち止まってたら、俺はここから一歩も動けなくなる」

 

 ルーは何か言おうとして、やめた。眼鏡を掛け直した。レンズの向こうの目が、まだ濡れていた。

 

 通路を歩いてホールを出た。二月の風がマンハッタンを横切って、コートの襟の内側まで届いた。背後で、まだ拍手が鳴っていた。ガーシュウィンの名前を呼ぶ声が、ドアが閉まる音と一緒に、細くなって消えた。

 

 レオは振り返らなかった。父のコートの裏地の縫い目、白い糸の「C.M.」の二文字を、右手の親指で一度だけ確かめた。

 

(俺の武器は才能じゃない。情報だ。次に何が来るかを、俺だけが知っている。それだけだ。それだけで足りると信じないと、この街で、この顔で、明日の朝の帳簿は開けない)

 

 

 

 

 三月。ミッドタウン、三十九丁目。ASCAP本部。

 

 オーク材の長机の周りに、二十人ほどの男が座っていた。壁には歴代の理事長の油絵が並び、そのどれもが、机の同じ場所を見下ろす角度で描かれていた。葉巻の煙が天井の近くに層を作り、その層の下で、ラジオ局との包括ライセンス契約の更新について、退屈な報告が続いていた。

 

 レオは末席にいた。ルーは会員ではないので廊下だ。

 

(この部屋の版権総数は、少なく見積もっても数万曲。うちの版権は十六曲。テーブルの端の端で、俺は、部屋の空気の温度を下から二段目で受けている)

 

 議長のジーン・バックが議題を進めた。ヴィクター・ハーバートの後を継いだ大物作詞家だ。声は柔らかいが、次の議題に移るときの目の動かし方に、順番を決める癖がある。分配比率の議題に入ったとき、レオは手を挙げた。

 

「発言してもよろしいでしょうか」

 

 バックの眉が、上に一度動いた。末席の若造が発言するのは、この部屋の順番の中では珍しい。

 

「どうぞ、モレッティ君」

 

 レオは立たなかった。座ったまま、書き付けた紙の一行目に指を置いた。

 

「現行の分配は、版権数の多い出版社ほど、放送一回あたりの単価が高くなる方式です。同じ回数放送されても、大手の一回と、うちの一回の重みが違います。放送実績に沿った、単価を均等にする方式に、改めるべきだと考えます」

 

 空気の温度が、机の周りだけ、一度下がった。

 

 テーブルの反対側で、恰幅のいい男が、葉巻の灰を灰皿の縁に落とした。マックス・ドレイファス。T・B・ハームス。ブロードウェイの版権の三割を握る男だった。ガーシュウィンの出版元でもある。

 

「モレッティ君。うちのカタログは、二十年かけて積み上げた。ASCAP設立から会費を払い、ラジオ局を口説き、法廷で著作権を守ってきた。その二十年の上に、十六曲の出版社が、同じ単価で並ぶべきだと?」

 

「著作権者の権利は同じです」

 

「権利は同じだ。貢献が違う。バック議長」

 

 バックが頷いた。

 

「モレッティ君の意見は議事録に残そう。次の議題」

 

 議事録に残る、と言われた。だが、次の議題という声のほうが、先に部屋を占めた。ドレイファスは葉巻を口に戻した。灰皿の縁で、灰の輪郭が、一瞬前の位置と同じままだった。

 

(残す、と言った。残るのはインクの染みで、勘定の欄には入らない。分かってて来た。分かってて、それでも言った。言わなければ、俺の名前は、この部屋の空気の下二段目の、その下の階層に、これから五年、貼り付いたままになる)

 

 会議が終わって廊下に出ると、ルーが柱にもたれて立っていた。

 

「どうだった?」

 

「潰された」

 

「……ドレイファスね」

 

「ドレイファスと、シャピロ・バーンスタインだ。連合が首を縦に振らないと、方式は動かない」

 

「じゃあ、どうするの」

 

 レオは三秒だけ考えた。ホールの階段の、大理石の白い色が、目の下で少し滲んだ。

 

「今は、受け入れる。中で発言できる規模になるまで、外で稼ぐ。中の分配は、外の稼ぎで押し上げる」

 

(覚えておく。この部屋の温度差を。大手が作ったルールの中で、大手だけが得をする仕組みを。壊す時が、いつか来る。今日ではない。今日ではないが、今日の議事録の隅に、俺の名前が一行だけ残った。それでいい)

 

「アイスクリーム」

 

「なんだ」

 

「帰りに寄る。角のドラッグストアの。あなた、負けた顔してるから」

 

「してない」

 

「してる。バニラでいい?」

 

「チョコレートだ」

 

 ルーが、ほんの少し笑った。眼鏡のレンズの下に、まだ、二時間前のホールの光の残りがあった。

 

 

 

 

 四月。ハーレム、百三十三丁目。

 

 クリフの部屋のドアの向こうから、雑音混じりのラジオが鳴っていた。ノックすると、ラジオが小さくなり、クリフがドアを開けた。トランペットの油の匂いが、廊下側に一段流れた。

 

 テーブルの上には、冷めたコーヒーと、五線譜の束と、鉛筆の削りかすが散らばっていた。窓の外で、通りの反対側の子供たちが、石畳にチョークで四角を描いて、跳んでいた。

 

「クリフ。新しい曲を書きたい。今までと違う方向のだ」

 

 クリフはコーヒーを一口飲んで、湯気の残っていないカップを、机に戻した。

 

「違う方向、というのは」

 

「音量の幅を、思い切り広く使う曲だ。ささやくところから、一気に爆発するところまで。今のうちの曲は、真ん中で行儀よく揃えすぎだ」

 

「レオ。それはレコードには向かない。今の録音はホーンで拾う。小さい音は入らない。大きい音は溝が潰れる。分かって言ってるだろう」

 

「今はな」

 

 クリフの目が、細くなった。

 

「今は」

 

「来年の春までに、録音のやり方が変わる」

 

 部屋の空気が、そこだけ、二拍分止まった。窓の外で子供の一人が四角を踏み外した。石畳を蹴る足の音がして、笑い声が上がった。

 

「何を知ってる、レオ」

 

 レオは、上着の内ポケットから、折り畳んだ雑誌の切り抜きを一枚、テーブルの上に置いた。ベル研究所の技術報告の、電気による音の増幅という一節に、赤鉛筆で線が引いてあった。

 

「ベル研究所が、電話用に開発した増幅技術と、コンデンサーマイクの試作が、AT&Tの子会社のウエスタン・エレクトリックに渡っている。実験段階だ、と、この号は書いてある。だが実験段階の技術が、レコード会社の営業所の応接間に運ばれるまで、そう長くない」

 

「その、そう長くない、というのは、いつまでのことだ」

 

「一年以内だ」

 

 クリフは切り抜きを手に取って、赤鉛筆の線の場所を、指の腹でなぞった。それから、折り目のついた紙を、テーブルの端に、指四本分そっと横に置いた。切り抜きを尋問しない置き方だった。

 

「面白い。やってみるか」

 

 それだけだった。なぜ一年以内だと言い切れるのか。その先を、クリフは訊かなかった。

 

(訊かない、が、この男の流儀だ。信じている、のではない。分かっていない、のでもない。信じるか信じないかを、この場では脇に置く、と決めているだけだ。俺はその余白を、雑誌の記事一枚で埋めた。何枚重ねても足りない、その一枚を)

 

「条件がある」

 

「なんだ」

 

「共作の名前に、俺の名前を入れる」クリフは肩を大きく上げて、下ろした。「白人の出版社が出すレコードに、黒人の名前が入ることは、そうない。モレッティ・ミュージックは、入れてくれるんだろう」

 

「共作者として名前を入れる。版権は折半する」

 

「折半」

 

「折半だ。曲の半分はお前の指の中にある。版権の半分もお前のものだ」

 

 クリフはしばらく、テーブルの、切り抜きの隣を見ていた。この時代、黒人の作曲家が白人の出版社と版権を折半する契約は、ほぼ存在しない。名前すら伏せられ、一時金で買い叩かれる。ブレナンがレオにしたことの、さらに底の方で、ずっと繰り返されてきたことだ。

 

 クリフが右手を差し出した。

 

「乗った」

 

 握手した。クリフの手はピアノの手だった。長く、硬い。指先の関節に、鍵盤のタコがあった。

 

 その日から、共作が本格化した。

 

 朝の十時に部屋に入り、夜の九時まで。クリフが即興で置いた四小節を、レオが構造で受ける。レオが持ち込んだコード進行に、クリフが指の運びで肉をつける。同じ和音を、レオはCmaj9と呼び、クリフはただ「この響き」と呼んだ。呼び方が違ったが、鳴らしている音は同じだった。

 

「この転調、半音上げじゃなくて、短三度上に振らないか」

 

「短三度は急だ。客の耳が置いていかれる」

 

「置いていくんだ、一瞬。着地でここだったのか、と思わせる」

 

 クリフが弾いた。四小節を助走にして、短三度上へ。一瞬の浮遊感。着地。

 

「……こっちがいい」

 

「お前が最初の三小節を置いたから、この着地が効くんだ」

 

「お前が転調を提案しなきゃ、この着地はどこにもなかった」

 

 二人で笑った。窓の外の子供たちが四角の中で片足で立って、両手を横に広げていた。

 

(これだ。一人の頭では書けない曲が、二人の頭では書ける。ガーシュウィンには勝てない。だが俺たちの曲は、俺たちにしか書けない。それは、勝ち負けの勘定の外に、ちゃんと一つ、勘定の欄がある)

 

 

 

 

 春から夏にかけて、二人で十二曲を書いた。

 

 全て、まだ来ていない録音のための曲だ。低い音を長く鳴らす曲。囁きの上に囁きを乗せる曲。ドラムのブラシの、皮を撫でる音を、譜面の一段目に組み込んだ曲。ホーンの前で叫べば潰れる音を、意図的に選んで、書いた。周囲から見れば、まだ存在しない機械のために自分の時間を燃やしている男が二人いる、という眺めだった。

 

 同時に、既存の商売は回した。

 

 1924年の夏、ラジオ受信機の推定台数が、千万台を超えたと業界紙が書いた。ラジオ局は全米で六百局を超え、ASCAPと局との包括ライセンスが本格的に動き始めていた。モレッティ・ミュージックの版権数は二十曲を超え、うち八曲がラジオで定期的に流れている。四半期の分配金が、ゴールドバーグ楽譜店経由で届いた。

 

「280ドル」ルーが小切手の額面を読み上げた。「四半期で280ドル。年換算で1,100ドル超のペース」

 

「伸びてはいる」

 

「その顔じゃないわね。不満?」

 

「不満じゃない」レオは言った。「うちの単価が、大手の三分の一だ、というのが、頭から離れないだけだ」

 

「三月の理事会」

 

「あれだ」

 

(伸びてはいる。伸びてはいる、と言葉に出すと、額面から一割抜かれた金額を、こちらから相手に差し出しているような気になる。分配の単価が均等なら、四半期で四百ドル以上だ。単価が三分の一なら、放送を増やしても、増やした分の三分の一しか帰ってこない。井戸の底に穴が開いている井戸に、水を汲みこんでいるようなものだ)

 

 映画館向けBGM集の売上は、着実だった。無声映画の黄金期がまだ続いていた。フィラデルフィアの十館、ボストンの八館、ニュージャージーの中規模チェーン。サルが列車で走り、日焼けした顔で戻ってきては、事務所の帳簿の右側に、鉛筆で正の字を書き足していった。

 

「レオ。シカゴの映画館チェーンから引き合いが来た。五十セット一括だとよ」

 

「五十セット」

 

「粗利は百ドル」

 

「デトロイトのほうは」

 

「十セット、追加。全国に匂いが出始めてる」

 

 サルが帽子を椅子の背にひっかけて、椅子ごとテーブルに近づけた。日焼けの下で、頬の骨が、去年より少し、痩せていた。

 

「一本足打法は、素人のやることだ」レオは言った。「ラジオが伸びるのは間違いない。だがラジオが伸びる過程で、大手に囲い込まれる可能性がある。映画館BGM集の販路は、地道でも、独立系だ。ここは離すな」

 

「離さねえ。だが、レオ」

 

「なんだ」

 

「無声映画も、いつかは終わるんだろう」

 

 レオは、鉛筆の腹で、机の縁を、一度だけ叩いた。

 

「終わる。だが今日じゃない」

 

 サルは少し黙って、頷いた。訊いた本人が、答えの半分は前世から来ていることを、たぶん知らずに、感じていた。この男は昔から、そうだった。

 

 

 

 

 九月の初め。

 

 サルが事務所に入ってきて、帽子を取らずに、通りの向こうを、顎で示した。

 

「レオ。マッテオの仕立て屋、知ってるだろ」

 

「知ってる」

 

「先月、閉めた」

 

「閉めた?」

 

「毎月、知らねえ男が来て、金を持っていくようになったんだと。払えなくなって、店を畳んだ。イタリア人の店ばっかり狙ってるらしい」

 

 みかじめ料。この界隈では、椅子の脚が四本あるのと同じくらい、珍しくない話だ。だが、近所で椅子の脚が折れる音が続くと、部屋の空気の乾き方が変わる。

 

「うちには来てないな」

 

「まだな。来たら、俺が追い返す」

 

「来たら、まず、俺に教えてくれ。追い返すかどうかは、その後で判断する」

 

 サルは肩をすくめ、椅子の背に帽子を掛けて、コーヒーを注ぎに立った。

 

 その週の終わりの午後だった。

 

 事務所のドアが、ノックなしで開いた。

 

 薄いリネンのスーツ。金のカフス。靴は新品のコードバンで、革の縁の光り方が、この界隈のどの店の商品棚にも並んでいない類の光り方だった。二年前、リトル・イタリーの結婚式のパーティで、遠くから一度、顔を合わせた男だ。フランク・マッシモ。

 

「レオ。久しぶりだ」

 

「マッシモ。どうしたんだ、わざわざ」

 

「近くまで来た。景気はどうだ」

 

「おかげさまで」

 

 マッシモは椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。事務所を見回した。壁の楽譜、机の帳簿、隅のアップライト、コーヒーの湯気。マッシモの靴一足のほうが、この部屋の家具全部より高そうだった。

 

「音楽出版というのは、面白い商売だな」マッシモが言った。「金の流れが複雑だ。ASCAP、ラジオ局、レコード会社、映画館。一曲の権利から、細い流れが、何本も出る。追いにくい」

 

(追いにくい。今、この男は、その言葉を「難しい」の意味では言わなかった。「利用しやすい」の意味で言った)

 

「追いにくい、というのは」

 

「たとえばだが、ある事業者が、余った現金を、静かに帳簿に流したいとする。音楽出版は、そういう用途に、合うと思うんだ。権利の収入は、月ごとにばらつく。ASCAPの分配金が四半期二百八十のところを、三百八十と書いても、誰が調べる」

 

 事務所の狭い空気の中で、マッシモの言葉が、レオの帳簿の一行に、直接、貼り付いた。

 

(来た。資金洗浄だ。マッテオの仕立て屋は、みかじめ料で潰された。うちには、みかじめ料ではない話が来た。順番が違うだけだ)

 

「マッシモ。頼みたい、というのは——どういう規模の話だ」

 

「月に五百ドル、うちの現金を、そちらの帳簿を通してくれ。見返りは、マッテオの仕立て屋のような目には遭わない、というだけの話だ」

 

(月五百ドル。年間六千ドル。うちの年間収入の倍以上。それをうちの帳簿に流し、代わりに、この街の空気の湿度を、少しだけ、下げてもらう)

 

 レオは、机の上のコーヒーカップの縁を、指の腹で、一度だけ、なぞった。

 

「マッシモ。ありがたい話だが、今は難しい」

 

「難しい?」

 

「うちは、小さい。月五百ドルの現金が急に流れ込めば、四半期の税務申告で、税務局の目が、こちらに向く。うちが潰れたら、あんたにも迷惑がかかる」

 

 断ってはいない。断ると角が立つ。今は難しい、と言った。この身体の顔立ちで街に立つ以上、断り方の粒度は、覚えている。

 

 マッシモは、しばらくレオの目を見ていた。それから、ゆっくり微笑んだ。目は、笑わなかった。

 

「そうか。急がない。考えておいてくれ」

 

「考えておく」

 

 マッシモが立ち上がった。椅子の背に、リネンの後ろ皺が、一本、残った。ドアに手をかけて、振り返った。

 

「レオ。お前はイタリア人だ。同郷の人間は、助け合うものだろう」

 

「もちろんだ、マッシモ」

 

 ドアが閉まった。

 

 レオは、椅子の背にもたれたまま、動かなかった。手のひらが、机の下で、汗ばんでいた。父のコートの裏地の縫い目、白い糸の「C.M.」が、上着の内側に、体温よりわずかに低い温度で、貼り付いていた。

 

(親父。あんたが背広の裏地に縫い込んだ、頭文字のその向こう側で、この街は、あんたが避けて歩いた男たちの靴音を、今も鳴らしている。俺は、今日は、その靴音の向きを、少しだけ、ずらす言い方をした。ずらしただけで、消したわけじゃない)

 

(時間を稼いだ。稼いだ時間で、次の手を考える。この男に協力せずに済ませる方法は、うちが大きくなること以外にない。大きくなるには、電気録音の順番が、俺のところに回ってくる必要がある。全部、繋がっている。全部、俺の手の届かないところで、順番が決まっている)

 

 窓の外で、荷馬車の御者が、馬に短く命じた。石畳を打つ蹄の音が、事務所の窓ガラスの内側に、二回だけ、届いた。

 

 

 

 

 十一月。

 

 ルーが、いつもと違うドアの開け方で、事務所に入ってきた。押しの強い開け方ではなかった。逆だった。ドアの重さを、掌の付け根で全部受け止めながら、静かに、こじ開けるような開け方だった。目の下に、隈があった。夜、寝ていないときの、隈の残り方だった。

 

「レオ」

 

「どうした」

 

「父が」

 

「ソロモンが」

 

「昨日の夜——倒れた」

 

「意識は」

 

「戻ってる。でも、左半身が、動かないの。医者は、たぶん、もう、戻らないって」

 

 レオは椅子から立ち、コーヒーを淹れた。カップを二つ、机の上に置いた。ルーは片方のカップに手を伸ばして、伸ばしかけて、途中で、机の縁を握った。指の骨が、白くなった。

 

「店を、どうするか、考えなきゃならない」

 

「店番は、誰かいるのか」

 

「私が、モレッティ・ミュージックの仕事の合間に、行くしかない。母は、店には立てない」

 

「治療費は」

 

「月、三十ドルくらい」

 

 レオは、机の上の帳簿に手を伸ばしかけて、途中で止めた。伸ばしかけて、まず、ルーの顔を見た。ルーは、母親から泣くのを覚えていない娘の泣き方をしていた。目の縁の内側でだけ、水が動いていた。

 

(考えるより前に、算盤が、頭の中で音を鳴らす。ゴールドバーグ楽譜店。ティン・パン・アレーの、ブロードウェイ寄りの端。楽譜店の立地として、悪くない。ブレナンの流通妨害が続く限り、うちの楽譜は卸に載せてもらえない。ここが直営の販売拠点になれば、店頭で直接客に売れる。……という計算が、〇・五秒遅れて、恥ずかしくなる。今、彼女の父親が、半身を失った)

 

(恥ずかしいが、算盤は、鳴った。鳴った以上は、使う。使うところまで含めて、俺の職業だ。ルーの家計を助ける道と、うちの販路を広げる道が、同じ方向に伸びているなら、両方、歩けばいい)

 

「ルー」

 

「なに」

 

「店は、閉めるな」

 

「でも」

 

「ゴールドバーグ楽譜店を、モレッティ・ミュージックの直営販売拠点にする。家賃と運営費は、うちが持つ。ルーは、今まで通りうちの仕事をしながら、店番も兼ねる。ソロモンさんの治療費、月三十ドル、ルーの報酬に上乗せする。固定は六十ドルに引き上げる」

 

 ルーが眼鏡を外した。

 

 二月のエオリアン・ホールで、彼女がハンカチを取り出したときと、同じ手つきだった。ただし、二月の湿り気は、感動だった。今日のそれは、別の種類の湿り気だった。

 

「……なぜ。ビジネスマンのあなたが、こんな条件」

 

「不利な条件じゃない」レオは言った。「うちは楽譜の卸ルートを、ブレナンに握られている。直営の店頭ができれば、卸を経由しない直販の柱が立つ。ブレナンが妨害できない、うちの店だ。ビジネスとして、合理的だ」

 

(これは本当だ。ただし、全部じゃない。ルーは、うちの著作権戦略の要だ。彼女を失えば、月三十ドルどころではない額の穴が開く。慈善ではない。投資だ。……と、自分に言い聞かせている、その言い聞かせ方の生真面目さの端っこに、「父が倒れた」と言ったときのルーの顔が、混じっている。それも、含めていい)

 

「……ありがとう」ルーが小さく言った。「あなたに、出会えて、よかった」

 

「こちらもだ。ルーがいなければ、モレッティ・ミュージックは、去年の秋に、潰れていた」

 

 それは、本当だった。

 

 翌週、ゴールドバーグ楽譜店の看板の横に、小さな板が加わった。「モレッティ・ミュージック直売所」。看板代は、大工の代金込みで、三ドルだった。安い投資だ。

 

 店の奥の間に、ソロモンのベッドが置かれた。左半身の動かない老人が、時折、うめき声を上げた。ルーは、店番をしながら、父親の枕元にも、行き来した。

 

(ルーの負担が、増えている。俺にできることは、金を出すことだけだ。金を出すというのは、この場合、正しいことをしていることの、証明にはならない。ただ、今のところ、俺にはそれしか手がない)

 

 

 

 

 1924年の暮れ。

 

 レオは、年末の帳簿を、机の上に広げた。ランプの芯を、少し切った。炎が細くなり、白い紙の上で、影が、行から行へ、静かに移った。

 

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  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1924年12月末

 

  【資産】

   現金         $3,120

   銀行預金       $1,580

   アップライトピアノ  $50

   楽譜在庫       約180部

   映画館向けBGM集在庫  約30セット

   モレッティ・ミュージック版権 22曲

   共作ストック(未発表) 12曲(電気録音用)

   ゴールドバーグ楽譜店(直営拠点化)

 

  【負債】

   なし

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料    $70-90/月

   楽譜売上(直接注文+店舗) $60-70/月

   映画館BGM集     $30-40/月

   ラジオ局供給料    $25/月

   演奏料        $80/月

   合計         $265-305/月

 

  【月間支出】

   家賃(事務所)    $25

   食費         $20

   サル給与       $120/月

   ルー報酬       $60/月(引き上げ後)

   ゴールドバーグ楽譜店運営費 $15/月

   印刷・郵送費     $20/月

   電気録音準備投資(クリフ前払等) $20/月

   雑費         $10

   合計         $290/月

 

  【純資産】$5,000

   前年末比: +$1,970 (+65%)

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 鉛筆を置いた。

 

(五千ドル。前年末の三千ちょうどから、六割五分の増。数字だけ並べれば、伸びている、と、この帳簿の紙の上では言える。だが、前年の伸び率は五百パーセントだった。今年は六十五だ。伸び率で見れば、減速している。減速の理由は、はっきりしている。ASCAPの傾斜配分。電気録音用ストック十二曲への先行投資。ルーの報酬引き上げ。ゴールドバーグ楽譜店の運営費。支出の欄が、去年より、二段厚い)

 

(それでも。引き出しの中に、十二曲の楽譜が入っている。電気録音が来れば、この十二曲が、鳴る。あと、四か月)

 

 紙を裏返して、隅に、小さく、当面の順番を書き付けた。

 

  一、電気録音の発表を待つ。発表の翌週、レコード会社の応接間に、十二曲のデモを持ち込む。

  二、映画館BGM集の販路を、シカゴから西へ広げる。ラジオが囲い込まれても倒れない柱を、太くする。

  三、ゴールドバーグ楽譜店の直営を、月次で黒字化する道筋をつける。他社の楽譜も置く。

  四、マッシモの「協力」を、うちの規模で断れるところまで、時間を稼ぐ。

 

 書き終えて、鉛筆の腹で、右下の余白に、二行、線を細く引いた。

 

  ※一本足打法は——素人のやることだ。

  ※順番が来る、と信じられる範囲で、順番を待つ。信じられなくなったら、順番を、こちらから作りに行く。

 

 鉛筆を置いた。

 

 窓の外で、初雪が降り始めていた。粒はまだ小さく、街灯の光の中でだけ、光っては消えた。

 

 

 

 

 1925年3月。

 

 ルーが、店の入口の呼び鈴と一緒に、事務所に飛び込んできた。呼び鈴の音の余韻が、廊下の突き当たりで、細くなって止んだ。

 

「レオ。噂だけど。ヴィクターとコロムビアが、四月頃から、新しい録音方式を採用するって。ウエスタン・エレクトリックのマイクを使う。音が全然違うって」

 

 レオの心臓の左側が、内側から一度だけ、鍵盤を叩かれた。

 

(1925年春。予定通り、と、この胸の内側でだけ、俺は言える)

 

「詳しく」

 

「業界の卸先からの又聞き。ヴィクターの技術部が、三月中に最終試験を終える。四月から本格セッション。最初はクラシックとオペラの録り直しに、優先的に使うらしい、って」

 

「クラシックが先」

 

 部屋の空気が、そこだけ、一段、下がった。

 

(クラシックが先。そうか。それは知っていたはずだ。前世の教科書に、最初の電気録音の代表盤として、ストコフスキーのフィラデルフィア管弦楽団の名前があった。あの写真の脚注を、俺は一度、読んだ。読んだうえで、うちの十二曲の準備の速さに酔って、脚注のほうを、頭の隅に押しのけていた)

 

「あなた。驚かないのね」

 

「驚いている」レオは言った。「準備は、してある」

 

 机の引き出しを開けた。十二曲分の楽譜が、A4の紙束にきちんと揃えて、上から順に、静かに寝ていた。

 

「デモの持ち込み先を、絞る。ヴィクターは、まずクラシックだ。うちの十二曲は、コロムビアのポップ部門に、先に見せる。ルー、レヴィンに連絡取れるか」

 

「取れるわ」

 

「今週中に、面会を。デモ用の伴奏譜と、俺のピアノデモ、二つ用意する」

 

「あなた……」ルーが、机の縁に、指を置いた。「本当に、知ってたのね」

 

「確信が、あった」

 

(百年後の教科書を読んだ、とは、口が裂けても言えない。「確信があった」。これが、俺が使える、最も正直な嘘だ。嘘の内側の中身のほうが、嘘の言葉より、俺には重い)

 

 

 

 

 四月の初め。

 

 業界紙が一面で、ヴィクターの電気録音採用を告げた。

 

 最初の電気録音盤は、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団だった。業界の耳の早い連中は、盤を貰った翌日から、同じ台詞を、電話で言い交わした。「今までのレコードは、何だったんだ」。ピアノの低音がくっきり届く。歌手の息継ぎまで拾う。オーケストラの各パートが、分かれて聞こえる。ホーン録音との差は、耳の悪い者にも、二秒で、分かった。

 

 レコード会社が、電気録音向きの楽曲を探し始めた。レオはコロムビアに直行した。

 

 アーサー・レヴィンは、太い中年の男で、慎重な目と、好奇心の強い目を、同じ顔の中に交互に浮かべた。

 

「レヴィンさん。電気録音のために書いた曲を、十二曲、持って来ました」

 

「電気録音のため? まだ市場に一枚も盤が出ていないうちに、そのために書いた曲、と言ったのか」

 

「言いました」

 

「聴かせろ」

 

 レオはスタジオのアップライトの前に座った。冒頭の音は、ピアニッシモだった。指の腹を鍵盤の表面に触れるだけの音。それがBセクションで少しずつ膨らみ、サビで一気にフォルテに開く。ブレイクで完全な静寂を作り、最後のリフレインで、静寂の記憶の上に、爆発を置く。

 

 弾き終わって、ペダルから足を離した。ホールドが解けたピアノの、二秒の残響が、スタジオの吸音壁の内側に、吸い込まれた。

 

 レヴィンは、腕を組んでいた。

 

「……面白い」

 

「面白い、から先を」

 

「うちは、今、クラシックとオペラの録り直しで、手一杯だ」

 

 レオは、レヴィンの葉巻の煙の行き先を、目の端で追った。煙は天井のクロスの継ぎ目に一度当たって、進行方向を変えた。

 

「経営陣が、まずクラシックの名録音を、電気録音でやり直せ、と言っている。ストコフスキーは、もう始まっている。ベートーヴェンとブラームスと、次はワーグナーだ。ポップは、後回しだ、モレッティ」

 

「順番は、いつ回ります」

 

「半年か。一年か。悪い曲じゃない、モレッティ。だが——今じゃない」

 

「今じゃない」

 

「そうだ」

 

 レヴィンは葉巻に火を入れ直した。煙が、天井の同じ継ぎ目に、また当たった。

 

「楽譜は預かる。順番が来たら、こちらから連絡する」

 

 スタジオを出て、レオはブロードウェイの通りに立った。四月の日差しが、通りの反対側のビルの窓に反射して、こちら側の歩道を、白く洗っていた。街の人々の足取りは、去年より、明らかに、軽い。景気が上向いている空気は、通りの真ん中で、風のように、ひとつの方向に流れていた。レオだけが、その流れの反対を向いて、立っていた。

 

(十二曲が、塩漬けだ。準備は、正しかった。曲も、正しかった。ただし、レコード会社の順番表の、上の段は、こちらの都合では動かない。クラシックが先。ポップは後。順番が回るまで、うちの現金は、燃えている)

 

(前世で、同じ形の失敗を、俺は一度、上司の隣で見た。市場調査は完璧、プロトタイプの出来もいい、投資家の反応も上々、だがローンチが半年ずれて、後発の資本力のある競合に持っていかれた案件。俺はあのとき、あの上司の背中の後ろで、資料を差し出す係をしていた。今、俺は資料を差し出す側ではない。差し出される側だ。差し出しにも、順番がある)

 

 

 

 

 六月。

 

 帰り道、通りの角で、マッシモに、会った。

 

 偶然、ではない。この男は、偶然を装うのが、上手い。

 

「やあ、レオ。暑いな」

 

「暑い」

 

「レコードの話は、進んでいるか」

 

「少し、遅れている」

 

「そうか。金が要るなら、言ってくれ」

 

「足りている」

 

「そうか」マッシモが微笑んだ。「前に話した件、考えてくれたか」

 

 九月の帳簿の話。あの日から、九か月経っていた。

 

「考えている」

 

「考えている、な。レオ、お前は、慎重な男だ。嫌いじゃない、そういうの。だが、いつまでも考えている、というわけには、いかないだろう」

 

「分かる」

 

「良かった」マッシモがレオの肩を、友人がそうするように、軽く叩いた。「秋に、また話そう。秋になっても状況が変わらなければ、もう少し、具体的な話をしよう」

 

「ああ。また、話そう」

 

 マッシモが去った。コードバンの靴が石畳を叩く音が、通りの向こうへ、規則正しく、遠ざかっていった。

 

 レオは、通りの真ん中に立ったまま、しばらく、動けなかった。

 

(秋。マッシモは秋まで、と言った。秋までにレコードの話が進まなければ、うちの月次収支は今のままだ。うちの月次が今のままなら、俺は、断り方の粒度を、もう一段細かくしないと、この街の空気の湿度に、耐えられない)

 

 

 

 

 夏。

 

 ゴールドバーグ楽譜店の店番の日常。

 

 ルーが、店頭の帳簿を付けながら、店の入口を、時折、目の端で確かめていた。店の奥の間から、ソロモンの咳が聞こえていた。左半身の麻痺は回復の見込みがなく、ベッドの上での生活が続いていた。

 

 レオは、週に三度、店に顔を出すようになった。楽譜の在庫を確認し、客の動きを見る。そして、ルーの目の下の色を、見る。

 

「売上は」

 

「店頭で月二十ドル前後。直接注文と合わせて、悪くはない。だが、伸びていない。来店客の半分は、うちの楽譜じゃなくて他社の楽譜を探しに来る。品揃えが、偏ってるのよ」

 

「他社の楽譜も、置くか」

 

「出版社としての矜持が」

 

「矜持は、利益が出てから磨けばいい。まず客を呼ぶ。他社の楽譜で来店を増やし、来た客に、店頭のピアノでうちの曲を試弾してもらう」

 

「……一理あるわね。仕入れは、ブレナンを通す」

 

「通すな。シャーマー、シャピロ・バーンスタイン、ウィトマーク。全部に、うちの店主として、直接連絡してくれ。小売りとしての取引だ。出版社同士の敵対関係は、この帳合の外に置ける」

 

 ルーが眼鏡の縁を、指の関節で、一度直した。

 

「やってみるわ」

 

 小さな改善を、積み重ねる。劇的な、跳躍ではない。地道な、退屈な、日常の、積み上げ。

 

(二月のエオリアン・ホールで、ガーシュウィンがラプソディ・イン・ブルーで、この時代の空気を一夜で変えた。あの夜、俺は、隣の座席で、拍手をしていた。今、俺は、楽譜店の品揃えを、店頭のピアノの位置から半歩だけずらせるかどうかを、考えている。舞台が違う。舞台が違う、と、この夏の日差しの下で言葉にすると、その言葉の温度に、俺は、意外なほど、耐えられる)

 

 

 

 

 十月末。

 

 帳簿を、締めた。

 

 純資産は、五千ドルの、ままだった。横ばい。

 

(1924年の初めから、十か月と、ちょうど。ほぼ、横這い。収入と支出が、井戸の水位の底で、静かに、拮抗している。十二曲のストックは、コロムビアのレヴィンの机の引き出しの、今日は下から二段目に入っている、と、俺は、想像している。ASCAPの分配単価は、大手の三分の一で、動いていない。楽譜店の直営は、まだ黒字に届いていない)

 

(俺は前世で、資本主義の教科書に、順番を作るのは、資本と時間だ、と、赤鉛筆で線を引いた。ここまでの十か月で、俺は、その一行を、身体の内側に、もう一度、写している。前世の記憶が、あるからといって、順番の紙束の順番を、こちらから並べ替えられるわけではない。前世の記憶があると、待つあいだの、内側の景色だけが、少しだけ、余分に、はっきり見える)

 

 窓の外は、秋のマンハッタン。街路樹の葉が、街灯の下で、金の縁を持ったまま、落ちていた。通りに、フォードの型式Tの数が増え、荷馬車の数が、去年より、目に見えて減った。屋根の上のラジオのアンテナが、去年より、一段、増えていた。景気は、上向いている。人々の顔は、明るい。レオだけが、帳簿の数字を、見つめて、奥歯を、噛んでいた。

 

 ラジエーターがカンカンと蒸気を吐いた。ラジオから、ニュースが、細く、聞こえていた。フロリダの不動産の値段が、去年の倍を超えたところがある、という話題。声のトーンは、記者の意見ではなく、記者が反射した、街の気分の側を伝えていた。

 

(フロリダ。もうすぐ、崩れる。年までは覚えていない。二十年代の半ば、と、俺の身体の中の教科書には書いてある。そして、その三年か四年後に、フロリダより桁の違う規模で、株の市場が、崩れる。年は、二十九年の、秋。俺は、その両方を知っていて、今、資産五千ドルの帳簿を前にして、両方に対して、何も、できない)

 

(焦るな。順番は、来る。レヴィンは「楽譜は預かる」と言った。「順番が来たら」と言った。クラシックの録り直しが、一段落する。一段落したら、ポップの番だ。順番が来るまで、うちは、大きくなくていい。ただし、小さくても、生きていなければ、順番が来た日に、机の引き出しに、楽譜が入っていない)

 

 ピアノの蓋を、開けた。

 

 鍵盤に指を置いた。何を弾くかは、考えなかった。指が、勝手に動いた。

 

 ラプソディ・イン・ブルーの冒頭を、右手だけで、ピアノの上で追った。低いB♭から、うねりながら、上がっていく音。あのクラリネットの、屋根から屋根へ渡る、粘り気を、鍵盤で真似た。真似は、真似だった。二小節目で、指を止めた。

 

(これは、俺の曲じゃない)

 

 指を、置き直した。

 

 クリフと書いた十二曲のうちの一曲を、弾いた。静かに始まり、膨らみ、爆発し、沈黙し、もう一度、爆発する曲。マイクの前で、初めて、正しい音の粒として鳴るように、設計した曲。まだ誰にも、聴かせていない曲。レコードの溝に、まだ、一度も、刻まれていない曲。

 

(待つ。ただ待つのではない。待ちながら、次の手を打つ。停滞は助走だ、と、この身体の指が、鍵盤の上で、勝手に、言っている。俺は、その一行を、今夜だけ、信じることにする)

 

 最後の音の残響が、狭い部屋の、机の縁と、窓ガラスの内側で、二度、跳ね返って、消えた。

 

 窓の外を、冬の最初の風が、通り過ぎた。

 

 

 

 

 十一月。

 

 マッシモが、事務所に、来た。

 

 今度は、リネンのスーツではなかった。黒いオーバーコートだった。カシミアだろう。襟に、初雪の粒が、二つ、まだ溶けずに、乗っていた。

 

「レオ。秋、と、俺は言ったな。もう、冬だが」

 

「冬だな」

 

「考えは、まとまったか」

 

 レオは、コーヒーを淹れて、マッシモに、カップを差し出した。縁の一箇所が欠けているカップだった。マッシモは、欠けを、気にせず、受け取った。

 

「マッシモ。正直に、言う。今のうちの規模では、月五百ドルは、多い。四半期の帳簿に載せれば、税務局の目が、こちらに向く。それは、あんたにも、俺にも、都合が悪い」

 

「俺にとって都合が悪いのは、分かっている」

 

「だから、今は、無理だ」

 

 マッシモが、コーヒーを、一口、飲んだ。カップを、机に、置いた。

 

「レオ。お前の会社が、大きくなれば、通せる金額も、増える。そういう話だ、というのは、俺の理解で、合っているか」

 

「合っている」

 

「つまり、お前の会社が大きくなるまで、待て、と」

 

「そう、理解してくれると、ありがたい」

 

 マッシモが、目を、細めた。三秒。五秒。

 

 それから、笑った。

 

「面白いな、お前は。断るにしても、断り方が、いい」

 

「断っている、わけじゃない。タイミングの問題だ、と、言っている」

 

「タイミングか。分かった。待つよ。お前が大きくなるのを。だが、レオ」

 

「何だ」

 

「大きくなった時に——忘れるなよ。俺が、待った、ということを」

 

「忘れない」

 

 マッシモが立ち上がった。コートの襟を、指の腹で、二度、立て直した。ドアの前で振り返って、微笑んだ。目は、笑わなかった。

 

「また、話そう」

 

 ドアが、閉まった。

 

 レオは、椅子に、座ったままだった。コーヒーが、机の上で、湯気を上げなくなっていた。

 

(「また話そう」。三回、聞いた。一回目は、社交だった。二回目は、催促だった。三回目は、予告だ。次に来る時、この男の口から出るのは、話ではない。要求だ)

 

 窓の外で、初雪が、降り続いていた。粒が、少しずつ、大きくなっていた。

 

 ピアノの上に、十二曲分の楽譜の束が、置いてある。

 

 まだ、レコードの溝に、刻まれていない、楽譜。

 

 父のコートを、椅子の背から取って、腕を通した。裏地の縫い目、白い糸の「C.M.」の二文字を、右手の親指で、一度だけ、確かめた。

 

 来年こそ——と、レオは、思わなかった。

 

 思わずに、代わりに、机の帳簿の右下の余白に、鉛筆で、細く、一行だけ、書き足した。

 

  「順番を、こちらから作りに行く準備を、始める」

 

 鉛筆を、置いた。

 

 窓の外で、初雪が、二十八番街の街灯の下だけを、白く、静かに、覆っていった。

 

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