五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第6話】電気録音の夜明け

 1924年2月12日。

 

 ニューヨーク、エオリアン・ホール。

 

 開演30分前。ロビーはすでに人で溢れていた。毛皮のコートとシルクハット、葉巻の煙と香水。ポール・ホワイトマン楽団の演奏会——今夜のプログラムの目玉は、若い作曲家ジョージ・ガーシュウィンの新作だという。

 

 レオはバルコニー席の最前列に滑り込んだ。隣にはルーがいる。眼鏡のレンズに照明が反射している。

 

「満員ね。立ち見まで出てる」

 

「ホワイトマンの名前だからな。だが今夜の主役はピアニストの方だ」

 

(ジョージ・ガーシュウィン。26歳。——この男の名前を、100年後の人間も知っている。いま隣に座っている俺は、その100年後の記憶を持つ詐欺師みたいなものだが)

 

 客電が落ちた。

 

 

 

 

 クラリネットが鳴った。

 

 低いBフラットから始まったグリッサンドが、蛇のようにうねりながら2オクターブ半を駆け上がっていく。ただの音階の上昇ではない。ジャズクラブの煙と街灯の光が凝縮されたような、粘りのある音だ。

 

 オーケストラの和音の中にその音が溶け込んだ瞬間、ホールの空気が変わった。客席のざわめきが消え、咳払いすら止んだ。

 

 ガーシュウィンがピアノの前に座った。指が鍵盤を叩くたびに、和音の中にテンションが忍び込む。七度、九度、増四度。学問として知っているはずの音が、腹の底を震わせた。

 

 レオは拳を握りしめていた。

 

 ブルーノートがオーケストラの響きの中で呼吸している。クラシックの形式の骨格に、ジャズの血が通っている。知っている曲だ。何度も聴いた。分析もした。しかし生で浴びるこの音は、次元が違う。

 

 17分間。

 

 演奏が終わった時、ホールは割れんばかりの拍手に包まれた。聴衆が立ち上がった。レオも立ち上がっていた。手のひらが赤く熱い。

 

 隣のルーが眼鏡を外して目元を拭っていた。

 

「すごかった」

 

「ああ」

 

 レオの胸の奥が軋んだ。

 

(——勝てない)

 

 同時代に生きる天才の仕事だった。ガーシュウィンは、この時代の中にいながら、誰も到達していない場所に一人で辿り着いた。純粋な才能で。100年後の記憶なんか使わずに。

 

(俺はこの男のように書けない。100年分の音楽理論を知っていても、この男の左手の一打にかなわない。あのBセクションの転調——あれは理論じゃなく、直感だ。分析できる。真似はできない)

 

 ルーが横を向いた。

 

「あなたの曲とは違うわね」

 

「違う。ガーシュウィンは芸術家だ」

 

「あなたは?」

 

「ビジネスマンだ」

 

「そんなに簡単に割り切れるの?」

 

 レオは微笑んだ。努めて軽く。

 

「割り切るんだよ。割り切らないと、あの才能の前で立ちすくんだまま動けなくなる」

 

 拍手の残響がまだ耳に残っている。あの音を忘れてはいけない。しかし——引きずってもいけない。

 

(俺の武器は才能じゃない。情報だ。次に何が来るかを知っている。それだけだ。——それだけで、十分だ。十分でなければならない)

 

 コートの襟を立てて、ホールを出た。2月の風がマンハッタンを横切り、顔を切った。背後でまだ拍手が鳴っている。ガーシュウィンの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 

 レオは振り返らなかった。

 

 

 

 

 3月。

 

 ASCAP理事会の四半期会合。

 

 マンハッタンのミッドタウン、39丁目のASCAP本部。会議室の壁には歴代の理事長の肖像が並び、長いオーク材のテーブルを囲んで20人ほどの男たちが座っている。葉巻の煙が天井近くに層を作っていた。

 

 レオは末席にいた。

 

(この部屋の版権総数は、ざっと見積もって数万曲。俺のモレッティ・ミュージックは16曲。テーブルの端の端だ)

 

 議長のジーン・バック——ヴィクター・ハーバートの後を継いだ大物作詞家——が議事を進めている。ラジオ局との包括ライセンス契約の更新、分配比率の見直し、新規加入審査。退屈な報告が続く。

 

 レオが手を挙げたのは、分配比率の議題だった。

 

「発言してもよろしいですか」

 

 バックが眉を上げた。末席の若造が発言するのは珍しいらしい。

 

「どうぞ、モレッティ君」

 

「分配方式についてです。現在の分配は、大手出版社に有利な傾斜配分になっています。放送回数あたりの単価が、版権数の多い出版社ほど高くなる構造です。——これは、新規参入者にとって著しく不利です」

 

 空気が変わった。何人かが顔を見合わせた。

 

(分かっている。この場でこれを言うことの意味は。だが——言わなければ変わらない)

 

「具体的に言います。モレッティ・ミュージックの16曲は、1923年の四半期で合計280回以上ラジオ放送されました。しかし分配金は、同じ放送回数のシャピロ・バーンスタインの楽曲と比べて、1回あたりの単価が3分の1以下です。放送回数に比例した均等配分に改めるべきです」

 

 沈黙が3秒続いた。

 

 テーブルの反対側で、恰幅のいい男が口を開いた。マックス・ドレイファス。T・B・ハームス社——ガーシュウィンの出版元であり、ブロードウェイの楽曲版権の3割を握る巨人だ。

 

「モレッティ君。ASCAPの分配方式は、加入者の実績と貢献に基づいている。16曲の出版社と——3,000曲の出版社が、同じ単価で分配されるべきだと?」

 

「放送回数あたりの単価を均等にすべきだと言っています。版権の数ではなく、実際に放送された回数に基づいて——」

 

「我々は20年かけてこのカタログを築いた」ドレイファスが遮った。声は穏やかだが、目は笑っていない。「ASCAP設立時から会費を払い、ラジオ局との交渉を重ね、法廷で著作権を守ってきた。その歴史の上に立って、16曲の出版社が——」

 

「16曲でも著作権者の権利は同じです」

 

「権利は同じだ。貢献が違う。——バック議長、次の議題に移りましょう」

 

 バックが頷いた。

 

「他に発言は? ——なければ次に進みます」

 

 それだけだった。

 

 レオの提案は議事録にすら残らなかった。

 

(——分かっていた。分かっていたが。16曲の出版社に、この場で発言権はない。大手出版社連合が「NO」と言えば、それで終わりだ。ASCAPは民主的な組織ではない。実態は——大手出版社の利益を守る互助会だ。新参者は、分け前を拾うことだけ許されている)

 

 会議室を出た。廊下でルーが待っていた。

 

「どうだった?」

 

「潰された」

 

「……やっぱり」ルーが唇を噛んだ。「ドレイファス?」

 

「ドレイファスとシャピロ。大手出版社連合。——分配方式は変わらない。俺たちが100曲持っても、1000曲持っても、大手が首を縦に振らない限り変わらない」

 

「じゃあ、どうするの」

 

 レオは数秒黙った。

 

「今は——受け入れる。戦うには持ち札が足りない。版権を増やす。実績を積む。ASCAPの中で発言力を持てるだけの規模になるまで、黙って積み上げる」

 

(だが忘れない。この構造を。大手が作ったルールの中で、大手だけが得をする仕組み。いずれ——壊す。壊す方法は、まだ見えない。でも、いずれ)

 

 ルーが小さく頷いた。

 

「……あなた、帰り道にアイスクリーム食べたいって顔してる」

 

「してない」

 

「してる。角のドラッグストアに寄りましょう。バニラでいい?」

 

「——チョコレートだ」

 

 ルーが少しだけ笑った。レオも少しだけ笑った。負けた日のアイスクリームは、悔しいほどうまかった。

 

 

 

 

 春。

 

 クリフの部屋。ハーレム、133丁目。

 

 二人でピアノに向かっていた。テーブルの上には冷めたコーヒーと、五線譜の束が散らばっている。

 

「クリフ。新しい曲を書きたい。今までとは違う方向の曲を」

 

「違う方向?」

 

「音量の幅を広く使う曲だ。ささやくような静かなパートから、一気に爆発するパートまで。ダイナミクスの変化が大きい曲」

 

 クリフが怪訝な顔をした。

 

「レオ。それはレコーディングには向かない。今の録音技術では——音量の幅が狭い。小さい音はホーンが拾わない。大きい音は溝が潰れる」

 

「今はね」

 

「今は?」

 

「来年の春までに、録音の技術が変わる」

 

 クリフの目が細くなった。

 

「何を知ってる、レオ」

 

「ベル研究所が新しいマイクロフォンの実験をしている。AT&Tの子会社のウエスタン・エレクトリックが、録音用のマイクを開発中だ。技術誌に断片的な記事が出ている。——もしマイクを使った録音が実用化されれば、音質が根本から変わる」

 

「記事を読んだ?」

 

「ああ」

 

(嘘ではない。ベル研究所のマイク開発は、この時期すでに進行中だ。技術誌に記事が出ていても不自然ではない。——ただ、俺が知っているのは記事の内容ではなく、100年後の歴史教科書だが)

 

 クリフはしばらく黙っていた。右手で鍵盤をなぞりながら、何かを考えている。

 

「面白い。——やってみるか」

 

 それだけだった。なぜ知っているかを問わない。「面白い」と思えば動く。それがクリフだ。

 

「ただし条件がある」

 

「何だ?」

 

「俺の名前が入った曲にしてくれ。クリフトン・ジョンソン。白人の出版社が出すレコードに、黒人の名前が入ることは滅多にない。モレッティ・ミュージックなら、入れてくれるんだろう?」

 

 レオは頷いた。

 

「当然だ。共作者として名前を入れる。版権も折半する」

 

「折半?」クリフが珍しく驚いた顔を見せた。「——本気か」

 

「本気だ。曲の半分はお前のアイデアだ。版権も半分がお前のものだ」

 

 この時代、黒人の作曲家が白人の出版社と版権を折半するケースは、ほぼ存在しない。名前すら出ずに、安い一時金で買い叩かれるのが常だ。ブレナンがレオにやったことの、さらにひどい版だ。

 

 クリフが右手を差し出した。

 

「乗った」

 

 握手した。クリフの手はピアニストの手だ。長く、硬く、力強い。指先に鍵盤のタコがある。

 

 その日から、本格的な共作が始まった。

 

 朝10時にクリフの部屋に入り、夜9時まで。ピアノと五線譜の間を往復する時間。クリフが即興で弾いたフレーズをレオが構造化し、レオが提示したコード進行にクリフが肉付けする。二人のやり方は正反対だった。レオは理論から入る。クリフは音から入る。その衝突が——いい曲を生んだ。

 

「この転調——半音上げじゃなく、短三度上にしないか」

 

「短三度? 急すぎる。リスナーが置いていかれる」

 

「置いていくんだ。一瞬だけ。そこに着地した時に——ああ、ここだった、と思わせる」

 

 クリフが弾いた。短三度上への転調。一瞬の浮遊感。そして——着地。

 

「……いいな。こっちの方がいい」

 

「だろう。お前が正しい、クリフ」

 

「いや。お前が最初のコード進行を書かなければ、この転調は生まれなかった」

 

 レオは少しだけ笑った。

 

(これだ。これが共作の意味だ。一人では書けない曲が書ける。俺の知識とクリフの感性。——ガーシュウィンには勝てない。だが俺たちの曲は、俺たちにしか書けない)

 

 

 

 

 春から夏にかけて、12曲を共作した。

 

 全て、電気録音を前提とした楽曲だ。まだ存在しない技術のために曲を書く。周囲から見れば気が触れたように見えただろう。

 

 ダイナミクスの幅が広い曲。低音域を活用した曲。ドラムのリズムパターンを組み込んだ曲。アコースティック・ホーンでは録音不可能だが、マイクなら拾える音を、意図的に設計した。

 

 同時に、既存のビジネスも回していた。

 

 1924年はラジオの普及がさらに加速した年だった。受信機の台数が推定1000万台を超えた。ラジオ局は全米で600局以上。ASCAPとラジオ局の包括ライセンス契約が定着し、演奏権料の分配額が前年の倍以上になった。

 

 モレッティ・ミュージックの版権数は20曲を超え、うちラジオで定期的に放送される曲が8曲。ASCAPからの四半期の分配金が届いた。

 

「280ドル」ルーが小切手を確認した。「四半期で280ドル。年間1100ドル以上のペースよ」

 

「伸びてはいる」

 

「伸びてはいる——って顔じゃないわね。不満?」

 

 レオは首を振った。

 

「不満じゃない。ただ——この分配金の単価が、大手と同じなら、うちは400ドルもらえている」

 

「……さっきの理事会の話?」

 

「そうだ。放送回数は十分ある。単価が不利なだけだ。大手出版社と同じ土俵に立てれば——倍近い分配金になる」

 

(しかし今はどうにもならない。ASCAPの分配構造は、大手出版社のために設計されている。俺たちは——拾えるものを拾いながら、規模を大きくするしかない)

 

 映画館向けBGM集の売上も安定していた。無声映画の黄金期が続いており、ニューヨーク近郊だけでなく、フィラデルフィアやボストンの映画館にも広がっていた。サルの営業力が冴えている。

 

「レオ。シカゴの映画館チェーンから問い合わせが来た。50セット一括で欲しいと」

 

「50セット。100ドル」

 

「デトロイトからも10セット。全国に広がり始めてるぜ」

 

 既存ビジネスの歯車は回っている。だが、レオの目は12曲のストックに向いていた。電気録音が来れば——その12曲が武器になる。来年の春。あと1年。

 

(準備はできている。あとはタイミングだけだ)

 

 

 

 

 9月。

 

 サルが通りの向こうを顎でしゃくった。

 

「レオ。マッテオの仕立て屋、知ってるだろ。先月閉めたんだ」

 

「閉めた?」

 

「毎月、知らない男が来て金を持っていくようになったんだと。払えなくなって——店を畳んだ。イタリア人の店ばっかり狙ってるらしい」

 

 みかじめ料。この界隈では珍しくない話だが、近所で起きると空気が変わる。

 

「うちには来てないのか」

 

「まだな。来たら俺が追い返す」

 

「来たらまず教えてくれ。追い返すかどうかは、その後に判断する」

 

 サルは肩をすくめたが、頷いた。

 

 その翌週だった。

 

 事務所のドアが開いて、マッシモ・トレヴィーゾが入ってきた。

 

 夏用の薄いリネンのスーツ。金のカフスリンクス。靴は新品のコードバン。前に一度パーティで会った男だ。リトル・イタリーの有力者——と、その周辺の人間は言う。有力者が何を意味するかは、誰も口にしない。

 

「レオ。久しぶりだ」

 

「マッシモ。——どうしたんだ、わざわざ」

 

「近くまで来たんでな。景気はどうだ?」

 

「おかげさまで」

 

 マッシモは椅子に座り、脚を組んだ。事務所を見回す。狭い部屋だ。壁に楽譜の束、テーブルに帳簿、隅にアップライトピアノ。マッシモの靴の方が、この部屋の家具全部より高そうだ。

 

「音楽出版社というのは面白いビジネスだな。——金の流れが複雑だ。ASCAP、ラジオ局、レコード会社。一曲の権利から何本もの収入が生まれる。追いにくい」

 

(追いにくい。——今、この男は何を言った?)

 

「追いにくい?」

 

「例えば——だが。ある事業者が、余剰の現金を処理したいとする。ビジネスの収入として自然な形で、帳簿を通したい。音楽出版社は——そういう用途に適している。権利収入は変動が大きい。実態の確認が難しい。仮に、ASCAPからの分配金が四半期280ドルのところを380ドルと記帳しても——誰が調べる?」

 

 空気が変わった。事務所の狭い部屋の中で、マッシモの言葉が妙に鮮明に響いた。

 

(——来た。資金洗浄だ)

 

 レオは背筋を伸ばした。

 

「マッシモ。はっきり言ってくれ。何を頼みたい?」

 

「頼みたい、というほどのことじゃない。——協力してくれないか、という話だ。月に500ドルの現金を、モレッティ・ミュージックの帳簿を通す。見返りとして——マッテオのような目には遭わない。それだけだ」

 

(月500ドル。——年間6,000ドル。俺の現在の年間収入の倍以上の金を、帳簿を通せと。見返りはみかじめ料の免除。つまり——断れば、マッテオの仕立て屋と同じ運命が待っているということだ)

 

 レオは3秒黙った。

 

「マッシモ。ありがたい話だが——今は難しい」

 

「難しい?」

 

「うちは小さな出版社だ。帳簿を動かす規模じゃない。月500ドルも余計な金が流れたら——税務局に目をつけられる。うちが潰れたら、マッシモにも迷惑がかかる」

 

 断ってはいない。断ると角が立つ。「今は難しい」と言った。

 

 マッシモはしばらくレオの目を見ていた。それから、ゆっくり微笑んだ。

 

「そうか。——まあ、急がない。考えておいてくれ」

 

「考えておく」

 

 マッシモが立ち上がった。ドアに手をかけて振り返った。

 

「レオ。お前はイタリア人だ。同郷の人間は——助け合うものだろう?」

 

「もちろんだ。マッシモ」

 

 ドアが閉まった。

 

 レオは椅子の背にもたれた。手のひらが汗ばんでいる。

 

(断った。——いや、断っていない。曖昧にした。今は難しい、と言った。これは時間稼ぎだ。マッシモは今日のところは引いた。だが——また来る。必ず来る。そして次は、「難しい」では済まされない)

 

(選択肢を整理しろ。受け入れれば——月500ドルの裏金を帳簿に通すことになる。脱税幇助。禁酒法下の資金洗浄。バレれば刑務所だ。断れば——マッテオと同じだ。店を潰される。あるいはもっと悪いことが起きる)

 

(第三の選択肢。——マッシモに協力しつつ、巻き込まれない方法を見つける。それが一番難しいが、一番必要な道だ。今は時間を稼ぐ。稼いだ時間で——考える)

 

 窓の外で、馬車の蹄が石畳を叩く音がした。午後の日差しが傾いている。

 

 

 

 

 11月。

 

 ルーの父ソロモンが倒れた。

 

 脳卒中だった。

 

 左半身に麻痺が残り、楽譜店の経営が困難になった。ルーが青い顔で事務所に来た。目の下に隈がある。昨夜は寝ていないのだろう。

 

「レオ……父が倒れた。店をどうするか考えなきゃならない」

 

「まず、お父さんの容態は?」

 

「命に別状はないわ。でも、店には立てない。もう——立てないかもしれない」

 

「店を閉める?」

 

「分からない。閉めたら、うちの家計が持たない。母は働いていないし。でも、店を続けるにも——父の代わりに毎日店番をする人間がいない。私はモレッティ・ミュージックの仕事もあるし」

 

 レオは数秒考えた。

 

(ゴールドバーグ楽譜店。ティン・パン・アレーの——正確にはブロードウェイ寄りの端だが、それでも楽譜店としては良い立地だ。ブレナンの流通妨害があっても、ここなら直接客に売れる。モレッティ・ミュージックにとって——物理的な小売拠点が手に入る)

 

(——と、まずビジネスの計算が走ることに対する罪悪感が、0.5秒遅れでやってくる。ルーの父親が倒れたんだ。だが。ルーを助ける方法がビジネスの計算と一致するなら——罪悪感を飲み込んで、両方やればいい)

 

「ルー。店は閉めるな」

 

「でも」

 

「ゴールドバーグ楽譜店を、モレッティ・ミュージックの直営販売拠点にする。家賃と運営費は俺が持つ。ルーは今まで通りモレッティ・ミュージックの仕事をしながら、店番も兼ねる。——お父さんの治療費は、月いくら要る?」

 

「……30ドルくらい」

 

「その分、ルーの報酬に上乗せする。17パーセントの契約はそのままで、固定報酬を月60ドルに引き上げる」

 

 ルーの目が潤んだ。眼鏡を外して、目元を拭った。この仕草を見るのは、ガーシュウィンの夜以来だ。あの時は感動の涙だった。今は——別の種類の涙だ。

 

「……なぜ? ビジネスマンのあなたが、こんな条件を」

 

「不利な条件じゃない」レオは言った。「ゴールドバーグ楽譜店は、ティン・パン・アレーの小売拠点だ。モレッティ・ミュージックの楽譜を店頭で直接売れる。今まで郵便注文だけだった直販ルートに、店舗が加わる。ブレナンが妨害できない、俺たち自身の店だ。——ビジネスとして合理的だ」

 

(本心だ。しかし全部ではない。ルーは俺のビジネスに不可欠なパートナーだ。著作権法に詳しく、業界の人脈を持ち、数字に強い。ルーを失うコストは、月30ドルの治療費より遥かに大きい。慈善ではなく投資だ)

 

(——と、自分に言い聞かせる。だがルーが「父が倒れた」と言った時、最初に浮かんだのは損得勘定ではなかった。それは認めざるを得ない)

 

「ありがとう」ルーが小さく言った。「あなたに出会えてよかった」

 

「こっちもだ。ルーがいなければ、モレッティ・ミュージックはとっくに潰れてる」

 

 それは本当だった。

 

 翌週から、ゴールドバーグ楽譜店の看板の横に、小さな看板が加わった。「モレッティ・ミュージック直売所」。費用は看板代3ドル。安い投資だ。

 

 店の奥には、ソロモンのベッドがあった。左半身が動かない老人が、時折うめき声を上げている。ルーは店番をしながら、父親の世話もしていた。

 

(ルーの負担が増えている。——だが、今の俺にできることは金を出すことだけだ)

 

 

 

 

 1924年の終わり。

 

 レオは年末の帳簿を締めた。

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1924年12月末

 

 【資産】

  現金        $3,120

  銀行預金      $1,580

  アップライトピアノ $50

  楽譜在庫      約180部

  映画館向けBGM集在庫 約30セット

  モレッティ・ミュージック版権 22曲

  共作ストック(未発表) 12曲(電気録音用)

  ゴールドバーグ楽譜店(直営拠点化)

 

 【負債】

  なし

 

 【月間収入】

  ASCAP演奏権料   $70-90/月

  楽譜売上(直接注文+店舗)$60-70/月

  映画館BGM集    $30-40/月

  ラジオ局供給料   $25/月

  演奏料       $80/月

  合計        $265-305/月

 

 【月間支出】

  家賃(事務所) $25

  食費      $20

  サル給与    $120/月

  ルー報酬    $60/月(引き上げ後)

  ゴールドバーグ楽譜店運営費 $15/月

  印刷・郵送費  $20/月

  電気録音準備投資(クリフへの前払い等)$20/月

  雑費      $10

  合計      $290/月

 

 【純資産】$5,000

  前年末比: +$1,970 (+65%)

 ――――――――――――――――――――――

 

($5,000。——前年の$3,030から65%増。数字だけ見れば悪くない。だが伸び率が鈍っている。前年は+507%だった。原因は明確だ。ASCAPの不利な分配構造。電気録音用ストックへの先行投資。ルーの報酬引き上げ。ゴールドバーグ楽譜店の運営費。——支出が増えている)

 

(それでも。12曲のストックが引き出しの中にある。電気録音が来れば——この12曲が爆発する。来年の春だ。あと4ヶ月)

 

 

 

 

 1925年3月。

 

 ルーが息を切らせて飛び込んできた。

 

「レオ! 聞いた?」

 

「何を」

 

「ヴィクターが新しい録音方式を発表するらしいわ。ウエスタン・エレクトリックのマイクロフォンを使った電気録音。コロムビアも同時に導入するって」

 

 レオの心臓が跳ねた。

 

(1925年春。予定通りだ)

 

「詳しく聞かせてくれ」

 

「まだ噂の段階よ。でも、業界の信頼できる筋から——ヴィクターが4月頃からマイク録音のセッションを始める。音質が全然違うらしいわ」

 

「そうか」

 

「そうか、って。あなた、驚かないのね」

 

「驚いてるよ。——準備はしてある」

 

 レオは引き出しを開けた。12曲分の楽譜が、きちんと整理されて入っている。

 

「この12曲。全部、マイク録音のために書いた曲だ。レコード会社にデモを持ち込む」

 

 ルーが目を見開いた。

 

「……あなた。本当に知ってたのね」

 

「確信があった」

 

(100年後の教科書を読んでいた、とは言えない。「確信があった」。これが俺に許される最も正直な嘘だ)

 

 

 

 

 4月。

 

 ヴィクターが電気録音を正式に採用した。

 

 業界に激震が走った。最初の電気録音盤を聴いた関係者は、誰もが同じ反応を示した——「今までのレコードは何だったんだ」。

 

 ピアノの低音域がくっきりと聞こえる。歌手の息遣いまで拾う。オーケストラの各パートが分離して聞こえる。アコースティック録音との差は歴然だった。

 

 レコード会社は大慌てで新しい録音方式に合った楽曲を求め始めた。

 

 レオが動いた。ルーの紹介で、コロムビア・レコードの制作担当アーサー・レヴィンに接触した。

 

「レヴィンさん。電気録音に最適化した楽曲を12曲持っています」

 

 レヴィンは太った中年の男で、慎重だが好奇心旺盛な目をしていた。

 

「最適化? 何のことだ。電気録音はまだ始まったばかりで、最適化もへったくれもないだろう」

 

「だからこそです。——聴いていただけますか」

 

 レオはスタジオのピアノの前に座り、共作曲の1曲を弾いた。冒頭はピアニッシモ。ほとんど触れるだけの音量。それがBセクションで徐々に膨らみ、サビで一気にフォルテに開く。ブレイクで完全な静寂を作り、最後のリフレインで爆発する。

 

 弾き終わった。

 

 レヴィンが腕を組んでいた。

 

「……面白い。だが——」

 

「だが?」

 

「うちは今、クラシックとオペラの録り直しで手一杯だ」

 

 レオの体が固くなった。

 

「クラシック?」

 

「電気録音のインパクトが一番大きいのは、オーケストラの大編成だ。ホーン録音では入りきらなかった楽器が全部拾える。経営陣は——まずクラシックの名録音を電気録音で作り直せと言っている。ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団で最初のセッションをやる。ベートーヴェン。ブラームス。——ポップの楽曲は、後回しだ」

 

(——クラシックが先。ポップは後回し)

 

 知っていた。いや——知っていたはずだ。電気録音の初期採用はクラシックとオペラが中心だった。大手レコード会社が巨額の投資で導入した新技術を、まずは「格式ある」ジャンルに使うのは当然の経営判断だ。

 

(なぜこれを見落とした? ——答えは簡単だ。見落としたのではなく、見たくなかったのだ。12曲の準備が完璧だったから。準備があれば勝てると思い込んでいた。だが——タイミングが合わなければ、準備は意味がない)

 

「いつ頃になりますか。ポップの録音セッションは」

 

「分からん。半年か、1年か。経営陣の判断次第だ。——悪い曲じゃない、モレッティ。だが、今じゃない」

 

「今じゃない」

 

「そうだ」

 

 レヴィンが葉巻に火をつけた。煙が天井に向かって立ち上った。

 

「楽譜は預かっておく。順番が来たら連絡する」

 

「……ありがとうございます」

 

 スタジオを出た。

 

 外は春の日差しだった。ブロードウェイの通りを歩く人々の足取りは軽い。好景気の空気が街全体に漂っている。レオだけが——足が重かった。

 

(12曲が塩漬けだ。電気録音の準備は正しかった。曲は正しかった。だが——レコード会社のスケジュールは、俺の都合では動かない。クラシックが先。ポップは後。いつ順番が来るか分からない)

 

(問題は金だ。12曲のストックは、レコードにならなければ1ドルも生まない。クリフへの前払い、録音デモの準備費用、ゴールドバーグ楽譜店の運営費——支出は増え続けている。収入は増えていない。月の収支がほぼ均衡している状態で、いつ来るか分からない「順番」を待つ。——現金が、燃え続けている)

 

 

 

 

 6月。

 

 帰り道、通りの角でマッシモに会った。

 

 偶然ではないだろう。マッシモは偶然を装うのが上手い男だ。

 

「やあ、レオ。暑いな」

 

「暑い」

 

「レコードの話は進んでいるか?」

 

(なぜ知っている。——いや。この界隈で誰が何をしているかは、マッシモの耳に自然に入るのだろう。それがこの男の商売だ)

 

「少し遅れている」

 

「そうか。——金が要るなら言ってくれ」

 

「金は足りてる」

 

「そうか」マッシモが微笑んだ。「前に話した件——考えてくれたか?」

 

 帳簿を通す話。9月に断って——いや、曖昧にしてから9ヶ月。

 

「考えている」

 

「考えている。——レオ、お前は慎重な男だな。嫌いじゃないよ、そういうの。だが、いつまでも考えているわけにはいかない。分かるだろう?」

 

「分かる」

 

「良かった」マッシモが肩を叩いた。友人にそうするように。「——じゃあ、また話そう。秋に。秋になっても状況が変わらなければ——お互い、もう少し具体的な話をしよう」

 

「ああ。また話そう」

 

 マッシモが去った。コードバンの靴が石畳を叩く音が遠ざかっていく。

 

 レオは通りに立ったまま、動けなかった。

 

(秋。マッシモは秋まで待つと言った。秋までに——レコードの話が進まなければ。収入が増えなければ。マッシモの「提案」を断る理由がなくなる)

 

(12曲のストックが武器になるはずだった。その武器が——使えない。クラシックが先だから。いつ順番が来るか分からないから。そして俺の現金は——燃え続けている)

 

 空を見上げた。夏至が近い。日が長い。マンハッタンの空は、ビルの間から見えるわずかな切れ間だけが青い。

 

(準備は正しかった。タイミングだけが——合わなかった。こういうことは前世でもあった。市場調査は完璧、製品は良い、だがローンチのタイミングが半年ずれて——)

 

(——いや。前世の失敗談は今いらない。必要なのは、次の手だ。12曲が使えないなら、別の方法で金を作る。ラジオの版権収入を伸ばす。映画館BGM集の販路を広げる。ゴールドバーグ楽譜店の売上を上げる。——地道に。一歩ずつ。電気録音の順番が来るまで、持ちこたえる)

 

(マッシモの提案に——頼らずに)

 

 

 

 

 夏。

 

 ゴールドバーグ楽譜店の日常。

 

 ルーが店番をしながら帳簿をつけている。奥の部屋からソロモンの咳が聞こえる。左半身の麻痺は回復の見込みがなく、ベッドの上の生活が続いていた。

 

 レオは週に3回、店に顔を出すようになった。楽譜の在庫を確認し、客の動向を見る。そして——ルーの様子を見る。

 

「売上はどうだ」

 

「店舗は月20ドル前後。直接注文と合わせて——悪くはないけど、伸びてもいない。正直に言うと……来店客の半分は、うちの楽譜じゃなくて他社の楽譜を探しに来るの。品揃えが偏ってるから」

 

「他社の楽譜も置くか?」

 

「それは——出版社としてのプライドが」

 

「プライドは利益が出てから磨けばいい。まず客を呼ぶ。他社の楽譜を取り扱って、来店客を増やす。その客にモレッティ・ミュージックの曲を試弾してもらう。——店頭ピアノで」

 

 ルーが眼鏡を直した。考えている顔だ。

 

「……一理あるわね。でも他社の楽譜の仕入れは——ブレナンを通すことになるんじゃ」

 

「ブレナン以外の卸も当たれ。シャーマー、シャピロ・バーンスタイン、ウィトマーク。全部に直接連絡する。小売店としての取引なら、出版社同士の敵対関係は関係ない」

 

 ルーが頷いた。

 

「やってみるわ」

 

 小さな改善を積み重ねる。劇的なブレイクスルーではない。地道な——退屈な——日常の積み上げ。

 

(ガーシュウィンが2月にラプソディ・イン・ブルーで世界を変えた時、俺は楽譜店の品揃えを考えている。——差は才能だけじゃない。舞台が違う。だが、これが俺の戦場だ)

 

 

 

 

 10月末。

 

 帳簿を締めた。

 

 純資産は——$5,000のまま。横ばい。

 

(伸びていない。1924年の初めから10ヶ月、ほぼ横ばい。収入と支出が均衡している。12曲のストックは塩漬け。ASCAPの分配は不利なまま。ゴールドバーグ楽譜店は黒字化していない。——停滞だ)

 

(前世の記憶がある。情報のアドバンテージがある。それでも——停滞する。未来を知っていても、市場のタイミングは操れない。大手出版社のルールは変えられない。マフィアの要求は消えない。——俺は万能ではない。当たり前のことだが、当たり前のことを忘れていた)

 

 窓の外は秋のマンハッタン。街路樹の葉が黄金色に染まっている。通りにはフォードのモデルTが増え、馬車は減った。ラジオのアンテナが屋根に林立している。景気は上向いている。人々の顔は明るい。レオだけが——帳簿の数字を見つめて歯を噛んでいる。

 

 ラジオから、ニュースが流れていた。フロリダの不動産バブルが過熱しているという話題。

 

(フロリダ。来年の秋に崩壊する。——そしてその3年後に、もっと大きなスケールで株式市場が崩壊する。俺はその両方を知っている。知っていて、何もできない。今の資産$5,000では、空売りも何もできない)

 

(焦るな。焦るな。——電気録音の順番は、いずれ来る。レヴィンが「楽譜は預かっておく」と言った。クラシックの録り直しが一段落すれば——ポップの番が来る。その時のために、曲を磨いておく。クリフとの共作を続ける。既存ビジネスを守る)

 

(マッシモの秋が来た。——まだ何も言ってこない。だが、来る。あの男は忘れない)

 

 ピアノの蓋を開けた。

 

 鍵盤に指を置いた。何を弾くか、考えなかった。指が勝手に動いた。

 

 ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』の冒頭。あのクラリネットのグリッサンドを、ピアノの右手で模倣する。低いBフラットから、うねりながら上がっていく音。

 

 途中で止めた。

 

(——俺の曲じゃない。これはガーシュウィンの曲だ)

 

 指を置き直した。自分の曲を弾く。クリフと書いた12曲のうちの1曲。静かに始まり、膨らみ、爆発し、沈黙し、もう一度爆発する曲。マイクの前で映えるように設計した曲。

 

 まだ誰にも聴かせていない曲。

 

 レコードの溝に刻まれる日を——待っている曲。

 

(待つんだ。待つしかない。——だが、ただ待つわけじゃない。待ちながら、次の手を打つ。次の次の手を考える。停滞は——助走だ。そう思わなければ、やっていられない)

 

 最後の音を弾いた。余韻が狭い部屋に残った。

 

 窓の外を、冬の最初の風が通り過ぎた。

 

 

 

 

 11月。

 

 マッシモが事務所に来た。

 

 今度はスーツではなく、黒いオーバーコートだった。カシミアだろう。襟に小さな雪の粒が付いている。初雪だ。

 

「レオ。秋だと言っただろう? もう冬だがな」

 

「冬だな」

 

「考えは——まとまったか」

 

 レオはコーヒーを淹れた。マッシモに渡した。カップの端が少し欠けている。マッシモは気にせず受け取った。

 

「マッシモ。正直に言う。今のモレッティ・ミュージックの規模では——帳簿を通せる金額には限界がある。月500ドルは多すぎる。不自然だ。税務局に目をつけられる可能性がある。それは——お互いに困る」

 

「俺が困ることは分かっている」

 

「だからこそ——今は無理だ」

 

 マッシモがコーヒーを一口飲んだ。カップを置いた。

 

「レオ。お前の会社が大きくなれば、通せる額も増える。——そういうことだろう?」

 

「そういうことだ」

 

「つまり——お前の会社が大きくなるまで待て、と」

 

「そう解釈してもらえると、ありがたい」

 

 マッシモが目を細めた。3秒間。5秒間。

 

 それから——笑った。

 

「面白いな、お前は。断るにしても——断り方がうまい」

 

「断っているわけじゃない。タイミングの問題だと言っている」

 

「タイミングか。——分かった。待つよ。お前が大きくなるのを。だが——レオ」

 

「何だ」

 

「大きくなった時には——忘れるなよ。俺が待ったことを」

 

「忘れない」

 

 マッシモが立ち上がった。コートの襟を立てた。ドアの前で振り返って——微笑んだ。

 

「また話そう」

 

 ドアが閉まった。

 

 レオは椅子に座ったまま動かなかった。コーヒーが冷めていく。

 

(「また話そう」。——3回目だ。マッシモはこの言葉を3回言った。1回目は社交辞令だった。2回目は催促だった。3回目は——予告だ。次に来る時は、「話」ではなく「要求」が来る)

 

(時間を稼いだ。だが、時間は有限だ。モレッティ・ミュージックが大きくならなければ——マッシモの要求を退ける力が手に入らない。電気録音のレコードが出なければ——会社は大きくならない。レコード会社がクラシックを優先している限り——俺の曲の順番は来ない)

 

(全てが繋がっている。そして全てが——俺の手の届かないところで決まっている)

 

 窓の外で、初雪が降り続いていた。

 

 ピアノの上に、12曲分の楽譜が置いてある。

 

 まだ、レコードの溝に刻まれていない楽譜。

 

 来年こそ——と、レオは思った。

 

 来年こそ、この曲たちの順番が来る。

 

 来なければ——。

 

 その先は、考えないことにした。

 

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