五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第7話】ハーレムの夜

 1925年11月。

 

 ハーレム、レノックス・アベニュー。

 

 コットン・クラブ。

 

 白人の客だけが入れるナイトクラブ。ステージでは黒人のミュージシャンが演奏し、客席では真珠のネックレスと葉巻の煙が交錯していた。甘いジンの匂いと香水が混ざり合い、バンドの音に紛れてグラスの触れ合う音が絶えない。レオは二階のバルコニー席から、その異様な光景を見下ろしていた。

 

 黒人が演奏し、白人が聴く。黒人の作った音楽が、白人の金で回る。しかし黒人の客は入れない。入り口には体格のいい用心棒が二人立っている。店の実権を握っているのはオウニー・マドゥンの一派だと、サルが言っていた。禁酒法下の酒を流し、ミュージシャンの出演料を決め、利益の大半を吸い上げる。ハーレム・ルネサンスの華やかさの裏に、別の力学が動いている。

 

 クリフは横にいたが、表情は固かった。

 

「お前が呼ばなければ、俺はここには来ない」

 

「分かってる。今夜は来てもらう理由がある」

 

「理由?」

 

「市場を見てほしい」

 

 ステージでバンドが演奏を始めた。ジャズ。スウィング感のある四拍子に、トランペットのソロが乗る。真鍮の楽器が照明を受けて金色に光っている。客が体を揺らしている。

 

 レオが注目していたのは、演奏ではなかった。客席の反応だ。白人の上流階級が、黒人の音楽に金を払っている。ジャズが好きなのだ。肌の色は気にしない、少なくとも音楽に関しては。しかし彼らは「黒人の店」でレコードを買わない。「白人の棚」に黒人の音楽がないからだ。

 

 需要はある。供給チャネルがない。

 

 そしてもう一つ。

 

(ASCAPの配分ランクは、版権の規模と在籍年数で決まる。大手が配分の大部分を持っていく。16曲の版権カタログでは話にならないと、理事会で面と向かって言われた。——だが、ASCAPの集計対象外の市場があるとしたら?)

 

「クリフ。レース・レコード市場に参入する」

 

「レース・レコード?」

 

「黒人のミュージシャンが演奏し、黒人のリスナーが買うレコード。OKehレコードのMamie Smithが100万枚売った。パラマウントがBessie Smithを録音して大ヒットしている。このマーケットは供給が追いついていない」

 

「知ってるさ。俺は黒人だからな」クリフの声に、かすかな棘があった。「レース・レコードは、白人のレコード会社が、黒人の音楽を安く買い叩いて、黒人の客に売りつけるビジネスだ。ミュージシャンへの支払いは雀の涙。版権は全部会社が持っていく」

 

「だからモレッティ・ミュージックがやる」

 

「お前の会社が?」

 

「俺の会社は、版権を折半する。お前にはそう約束したし、実行している。レース・レコード市場に、フェアな条件で楽曲を供給する。ミュージシャンの名前と版権を守りながら」

 

 クリフが鍵盤の上で指を丸めた。癖だ。ピアノがない時にこの動きをする。

 

「……お前は白人だ、レオ。どんな綺麗事を言っても、お前は白人としてこの市場から利益を得る」

 

「そうだ。否定しない」

 

「否定しないのか」

 

「しない。俺は白人で、イタリア系で、この時代の差別構造の中にいる。その構造を一人で壊すことはできない。構造の中で、少しだけマシなやり方を選ぶことはできる。版権を折半し、名前をクレジットし、正当な報酬を払う。完璧ではない。今ある選択肢の中では、一番マシだと思っている」

 

 偽善かもしれない。しかし何もしないより、偽善でも動く方が結果を変える。

 

 それに——もう一つ理由がある。ASCAPの配分ランクは版権規模で動く。レース・レコード市場は、ASCAP配分の計算対象外だ。つまり大手が占有する配分の枠を奪い合わずに、別の場所で稼げる。制度の壁を迂回する道だ。

 

(この考え方をクリフに言えるか? 言えない。「お前の文化を使ってASCAPの壁を迂回する」とは。だが事実だ。レース・レコード市場は、音楽ビジネスの版権構造において、ASCAPが支配するメインストリームの「外側」にある。外側で実績を積み、版権カタログを太らせ、ASCAPの配分ランクは版権規模の増大で押し上げる。制度の中と外を同時に攻める。——クリフにはフェアな条件で報いる。その上で、ビジネスとしても成立させる。両方が本心だ)

 

 クリフが手を差し出した。

 

「やるか」

 

「やろう」

 

 

 

 

 12月。

 

 レオはレース・レコード市場への参入計画を練った。

 

 既存の大手レーベルに曲を売り込むのではなく、小規模な黒人向けレーベルと直接取引する戦略を選んだ。ターゲットはブラック・スワン・レコード。アメリカ初の黒人が所有するレコード会社だ。

 

 ルーが調査してくれた。

 

「ブラック・スワンは1921年に設立された黒人オーナーのレコード会社よ。ハリー・ペイスが代表。エセル・ウォーターズのレコードがヒットしたけど、最近は経営が苦しいらしいわ」

 

「経営が苦しい?」

 

「大手と競争できるだけの資金がない。録音設備もプレス工場も、全部外注。コストが高くて利益が薄い。いい曲を出しても」

 

「流通で負ける」

 

「そう。パラマウントやOKehは大手の流通網を持ってる。ブラック・スワンは南部の黒人教会のネットワークで売ってるけど、限界がある」

 

 ブラック・スワン。まだ独立している。電気録音で差別化できる楽曲を持ち込めば。

 

 その時だった。

 

 ルーが声を落とした。

 

「レオ。もう一つ。嫌な話」

 

「何だ」

 

「ヴィクター・レコードの幹部が、クリフに接触してるらしいの」

 

 レオの手が止まった。

 

「——誰から聞いた」

 

「サル。ハーレムのクラブで噂になってるって。ヴィクターのA&R部門のナサニエル・シュルツという男が、クリフに個別に会ったらしい」

 

 ヴィクター・レコード。世界最大のレコード会社。録音・プレス・流通の全てを自前で持つ巨人だ。

 

(シュルツ。名前は聞いたことがある。ヴィクターの黒人音楽部門を拡大しようとしている男だ。——まずい。クリフに何を提示した?)

 

「内容は?」

 

「分からないわ。でもサルが言うには、独占契約の話が出たらしい」

 

 独占契約。

 

 つまり「モレッティから離れて、ヴィクターの専属になれ」という意味だ。

 

 レオはゆっくり息を吐いた。椅子の背にもたれ、天井を見た。

 

(落ち着け。パニックを起こすな。クリフがいなくなれば、モレッティ・ミュージックの版権カタログの半分が死ぬ。共作曲の版権は折半だから権利自体は残る。だが新曲が止まる。レース・レコード市場への参入も白紙だ。クリフの名前と演奏がなければ、レース・レコードの棚に信頼性がない)

 

「ルー。クリフとの契約書を出してくれ」

 

「今?」

 

「今だ」

 

 

 

 

 翌日。レオはクリフのアパートを訪ねた。ハーレム、西131番街。

 

 ドアを叩くと、しばらく間があって開いた。クリフは寝起きだった。深夜のクラブで弾いた後だろう。目の下に隈がある。

 

「朝の8時に何の用だ」

 

「話がある」

 

「……入れ」

 

 狭いワンルーム。アップライトピアノと、ベッドと、テーブルと椅子が二脚。壁にはデューク・エリントンとルイ・アームストロングの写真が貼ってあった。コーヒーの匂いがかすかに残っている。

 

 クリフがコーヒーを淹れてくれた。二人で向かい合って座った。

 

「ヴィクターの話か」

 

 直球だった。クリフは嘘をつかない男だ。

 

「ああ」

 

「誰から聞いた」

 

「サルが噂を拾った。ルーに伝わった」

 

 クリフが苦笑した。

 

「この街は狭いな」

 

「シュルツが何を提示した?」

 

 クリフがコーヒーを一口飲んだ。カップをテーブルに置き、レオの目を見た。

 

「専属契約。三年。年俸2,400ドル。録音セッションごとに別途50ドル。版権はヴィクターが保有するが、クレジットに名前は残す」

 

 年俸2,400ドル。月200ドル。ハーレムのジャズ・ピアニストにとっては破格だ。深夜のクラブで朝まで弾いて、一晩3ドルから5ドル。月にしても100ドルに届かない。安定した年俸はそれだけで魅力がある。

 

(版権はヴィクターが保有。——そこだ。名前は残すが金は入らない。ブレナンが俺にやったのと同じ構造だ。だがクリフにとって、安定した月200ドルは目の前のパンだ。版権が将来いくらになるかは、俺にしか分からない)

 

「レオ。正直に言う。揺れてる」

 

 レオの胸が軋んだ。

 

「揺れてる?」

 

「お前との仕事は面白い。お前は俺の名前を残し、版権を折半してくれた。それは分かってる。だがヴィクターは世界最大のレコード会社だ。俺の音楽が全米に届く。南部のジョージアにも、西海岸にも。お前の出版社では——まだそこまで届かない」

 

 事実だ。モレッティ・ミュージックの流通力は、ヴィクターの百分の一にも満たない。コロムビアとの録音セッションは進んでいるが、共作名義の棚問題は未解決のままだ。クリフの音楽を全米に届ける力が、今のレオにはない。

 

「それに——月200ドルは大きい。俺には妹がいるんだ。ジョージアにいる。高校に行かせたい。今の収入では——」

 

「妹がいるのか」

 

「言ったことなかったか」

 

「聞いてなかった」

 

(三年一緒にやってきて、妹がいることを知らなかった。——俺は本当にビジネスのことしか見ていなかったのか)

 

 レオはコーヒーカップを両手で包んだ。陶器の温もりが指先に伝わった。

 

「クリフ。一つだけ聞かせてくれ。ヴィクターの条件で、一番大事なのは何だ。安定収入か、それとも全米に届くことか」

 

 クリフが考え込んだ。十秒ほどの沈黙。

 

「——全米だ。俺の音楽がジョージアに届くなら。父親がリンチから逃げてきた土地で、俺の名前が入ったレコードが売られるなら。金は二番目だ」

 

(全米に届けること。——今の俺にはできない。だが、レース・レコード市場経由なら、独立系の流通網で南部にも届く。ブラック・スワンの教会ネットワークは南部に強い。ヴィクターの流通網には勝てないが、南部の黒人コミュニティに届ける力はある。そしてヴィクターは——クリフの名前は残すが、版権は全部持っていく。長期で見れば、クリフが失うものの方が大きい)

 

「クリフ。返事を少し待ってくれ。一週間。俺から提案したいことがある」

 

 クリフがコーヒーカップを持ち上げた。湯気が立っている。

 

「一週間か」

 

「一週間だ」

 

「……分かった」

 

 

 

 

 その夜。レオは事務所に戻り、帳簿を広げた。

 

 ルーが横にいた。

 

「クリフが言った条件を書き出す。ヴィクターは年俸2,400ドルで版権はヴィクター保有。俺たちが対抗するなら、何が出せる?」

 

 ルーが鉛筆を走らせた。

 

「今のモレッティ・ミュージックの月間収入は——版権使用料とセッション料を合わせて月700ドル前後。経費を引いて月250ドル程度の利益。ここからクリフに年俸を払うとなると——」

 

「年俸では対抗できない。ヴィクターの資金力には勝てない」

 

「じゃあ、何で対抗するの」

 

「条件の中身だ。ヴィクターが絶対に出せないものを出す」

 

 レオは帳簿に書いた。

 

 

 ――――――――――――――――――――――

 クリフトン・ジョンソン契約改訂案

 

 【現行条件】

  共作名義。版権折半(50/50)

  ロイヤリティ: 楽曲売上の5%をクリフに

  セッション料: $50/回

 

 【改訂案】

  共作名義を維持

  版権比率をクリフ60/レオ40に変更

  ロイヤリティ: 楽曲売上の8%に引き上げ

  セッション料: $75/回に増額

  さらに: レース・レコード市場での売上から

  追加ボーナスとして10%をクリフに支払う

 ――――――――――――――――――――――

 

 

 ルーが鉛筆を止めた。

 

「レオ。版権を60/40にしたら——モレッティ・ミュージックの取り分が減る。ロイヤリティ8%に追加ボーナス10%。利益率が——」

 

「落ちる。大幅に」

 

「分かってるの?」

 

「分かってる。しかしクリフがいなければ、利益はゼロだ。共作曲の新曲が止まれば、版権カタログの成長が止まる。レース・レコード市場への参入も頓挫する。利益率が落ちても、利益がゼロになるよりはマシだ」

 

 ルーが眼鏡を外して拭いた。考え込んでいる。

 

「……もう一つ問題がある。ヴィクターは安定した年俸を出せる。うちは出せない。クリフの妹の学費を、月々のロイヤリティで賄えるかどうか——不安定すぎる」

 

「だから——前払いを出す」

 

「前払い?」

 

「クリフに契約改訂のサインボーナスとして、500ドルを前払いする。妹の一年分の学費に充てられる額だ」

 

 ルーの目が見開かれた。

 

「500ドル? 今の手元資金から?」

 

「出す。痛いが、出す」

 

(痛い。本当に痛い。500ドルは現金の大きな部分だ。だがクリフを失う方が、長期的にはもっと痛い。——そして俺は、クリフの妹のことすら知らなかった男だ。金で解決しようとしている。せめて、金だけは誠実に出す)

 

 ルーが帳簿を見直した。利益率の低下。前払いの出費。苦しい数字だった。

 

「レオ。これ、当初の計画から大きくずれるわよ。年末までに30,000ドルを目指してたはずが——」

 

「届かない。25,000ドルがいいところだろう」

 

「5,000ドルのショート」

 

「クリフに払う代償だ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 ルーが眼鏡をかけ直した。

 

「……でも、合ってると思う」

 

「何が」

 

「クリフを引き留めることが。版権カタログの半分を失うよりは、利益率を下げて守る方が合理的よ。——あなたにしては珍しいわね。感情で動いてるのかと思った」

 

「合理的だよ。全部」

 

(嘘だ。半分は感情だ。クリフの音楽を失いたくない。あの演奏を、ヴィクターに差し出したくない。ヴィクターはクリフの名前は残すが、版権を全部持っていく。ブレナンが俺にやったのと同じだ。それを黙って見ていられるほど、俺はまだ割り切れていない)

 

 

 

 

 一週間後。

 

 レオはクリフのアパートを再び訪ねた。

 

 今度は日が高い時間だった。午後2時。クリフは起きていた。ピアノに向かっていたらしく、鍵盤の蓋が開いている。

 

「座れ」

 

 テーブルに向かい合って座った。レオは改訂案の書類を広げた。

 

 一つ一つ、条件を説明した。版権比率の変更。ロイヤリティの引き上げ。セッション料の増額。レース・レコード市場でのボーナス。そして500ドルの前払い。

 

 クリフは黙って聞いていた。

 

 説明が終わった。

 

 長い沈黙。

 

 クリフが書類から目を上げた。

 

「版権を——俺の方が多くするのか」

 

「そうだ。60/40。お前の音楽が核だ」

 

「前払い500ドル。妹の学費に充てろ、ということか」

 

「そういうことだ」

 

 クリフが椅子から立ち上がった。窓際に歩いていき、外を見た。ハーレムの通り。子どもたちが路地で遊んでいる声が聞こえてくる。

 

「レオ。一つ聞く」

 

「何だ」

 

「お前、これを出して——苦しくならないのか。正直に言え」

 

 レオは一瞬、嘘をつこうとした。「大丈夫だ」と。

 

「——苦しくなる。年末の資産目標には届かない。利益率も落ちる。痛い」

 

「痛いのに出すのか」

 

「出す。お前の音楽が要るからだ。お前がいなければ、俺の出版社は——」

 

「金勘定の話だろう」

 

 クリフの声に刃があった。振り返った目が鋭い。

 

「俺が抜けたら利益が減る。だから金で引き留める。そういう話だろう」

 

 レオは言葉に詰まった。

 

 クリフが一歩近づいた。

 

「レオ。お前はいつも数字の話をする。版権の比率。ロイヤリティのパーセンテージ。月間収入。年間目標。——お前は音楽の話をしない。一度もだ」

 

「……」

 

「ヴィクターのシュルツは、俺の演奏を聴いて泣いた。そんなの珍しくもないが——あいつは俺に言ったんだ。『お前の音楽を、全米の家庭のリビングルームに届けたい。子どもたちが晩飯を食いながら、お前のピアノを聴く。そんな未来を作りたい』と」

 

 シュルツの言葉が、クリフの中にまだ響いている。レオには分かった。

 

「シュルツの言葉は——本心だったと思うか?」

 

「分からない。だが、お前の口からは一度も聞いたことがない言葉だ」

 

 その通りだった。レオは数字で語る。版権の構造。市場の分析。収益の見通し。音楽そのものについて——クリフに語ったことがなかった。

 

(……俺は、クリフの音楽をどう思っているんだ。前世で聴いたどんなジャズの録音よりも、目の前のこの男の演奏が好きだ。あのスタジオで電気録音の再生を聴いた時、クリフの左手がベースラインを刻んだ時、鍵盤の摩擦音まで拾ったあの瞬間——鳥肌が立った。それを一度も言わなかった。版権の話ばかりしていた)

 

 レオは息を吸った。

 

「クリフ。俺はビジネスマンだ。音楽家じゃない。だから音楽の話が下手だ」

 

「下手でもいい。聞きたい」

 

「——お前の演奏は、本物だ。電気録音のスタジオで、お前がサビを全力で弾いた時、俺は鳥肌が立った。マイクが拾ったお前の音は——今までのどんなレコードとも違った。お前のペダルワークの踏み分けまで聞こえた。あの音が、世の中に届くべきだと思った。全米とか南部とかじゃない。——聴く人全員に。お前の音楽が本物だから、俺はこの条件を出している。金勘定だけなら、お前を手放してソロの作曲家に戻る方が楽だ」

 

 言い終えて、恥ずかしくなった。柄でもない。

 

 クリフが目を細めた。

 

「……お前、音楽の話もできるじゃないか」

 

「二度とやらない」

 

「やれ。たまには」

 

 クリフがテーブルに戻ってきた。書類を手に取り、もう一度読み返した。

 

「レオ。条件は受ける。ヴィクターは断る」

 

 レオの肩から力が抜けた。自分でも驚くほど。

 

「ただし——」

 

「ただし?」

 

 クリフがレオの目を真っ直ぐに見た。

 

「金勘定のためじゃなく、音楽のためにやれ。俺はそういう相手と仕事がしたい」

 

「……ああ」

 

 握手した。クリフの手は大きく、硬かった。ピアニストの手だ。

 

(音楽のためにやれ、か。——そうだ。だが音楽のためにやるには——金がいる。その矛盾を抱えたまま、走り続けるしかない)

 

 

 

 

 12月末。

 

 ブラック・スワン・レコードのオフィス。ハーレム、西135番街。

 

 ハリー・ペイスは痩せた長身の黒人男性で、知性的な目をしていた。教師出身の実業家。音楽ビジネスの理想主義者だが、現実の壁にぶつかり続けている男だ。

 

「モレッティ。白人の出版社が、なぜうちに来る?」

 

「電気録音に適した楽曲を持っているからです。そして、それをフェアな条件で提供したいからです」

 

「フェア?」ペイスの目が細くなった。「白人が『フェア』と言う時は、たいてい自分にとってフェアなだけだ」

 

「条件をお伝えします。版権はモレッティ・ミュージックとクリフトン・ジョンソンの共有。ブラック・スワンにはプレスと流通を委託。売上の15パーセントを版権使用料としてモレッティ・ミュージックに。クリフへの演奏料は別途。つまり、売上の85パーセントはブラック・スワンの取り分です」

 

 ペイスが眉を上げた。

 

「15パーセント? パラマウントは版権を全部持っていく上に、ミュージシャンにはセッション一回25ドルしか払わない」

 

「知っています。だからブラック・スワンに来ました」

 

「デモを聴かせてほしい」

 

 クリフがピアノの前に座った。

 

 電気録音用に書いた共作曲。ダイナミクスの幅が広く、低音域のベースラインが効いた、ジャズとポップスの中間のような曲。クリフの左手が深い低音を刻むたび、古いアップライトピアノの筐体が共鳴して震えた。

 

 弾き終わった。

 

 ペイスが腕を組んだ。

 

「……いい曲だ。だが今のうちの録音設備では、この曲の良さは出ない。ホーン録音では低音が潰れる」

 

「だから提案があります。コロムビアのスタジオで電気録音する。録音費用はモレッティ・ミュージックが負担します。ブラック・スワンはプレスと流通だけを担当する」

 

「録音費用まで持つのか?」

 

「持ちます。投資です」

 

 ペイスが三秒黙った。

 

「モレッティ。お前は何者だ。イタリア人の小さな出版社が、なぜこんなに金と知識を持っている」

 

「小さな出版社だからですよ。大手にはできない動き方がある」

 

 ペイスが手を差し出した。

 

「やろう」

 

 

 

 

 1926年1月。

 

 サルが事務所に飛び込んできた。息が荒い。走ってきたのだ。

 

「レオ。ブレナンの曲が、ラジオで大ヒットしてるぜ」

 

「ブレナンの? どの曲だ」

 

「お前の曲だ」

 

「俺の曲?」

 

「お前がブレナンに25ドルで売った曲の一つ、『Dancing in the Rain』。あれがWEAFの夕方の番組で毎日流れてる。リクエストランキングの3位に入ったらしいぜ」

 

 レオの手が止まった。

 

 『Dancing in the Rain』。ブレナンに売った9曲のうちの一つ。あの曲の版権はブレナンが持っている。買い切りで25ドルで売った。ラジオでいくらヒットしても、一セントも入らない。

 

(ブレナンは今ごろ笑いが止まらないだろう。25ドルで買った曲が、年間何百ドルもの演奏権料を生んでいる。投資利回りとしては異常だ。——だが、もう終わった話だ)

 

「……そうか」

 

「そうかって、悔しくないのか?」

 

「悔しいさ。25ドルで売った曲が、ラジオのヒット曲になった」

 

 サルが拳を握りしめた。

 

「あの野郎。お前の曲で儲けやがって」

 

「サル。落ち着け」

 

 レオは椅子に深く座り直した。

 

「ブレナンが儲けているのは事実だ。あの曲の権利はブレナンにある。契約は有効だ。——だがブレナンの版権カタログには、もう新曲は1曲もない。9曲で終わりだ。業界の才能ある作曲家は、モレッティ・ミュージックの存在を知り始めている。版権を折半し、名前をクレジットする出版社がある、と」

 

「つまり——」

 

「あの25ドルは、授業料だった。ブレナンがヒットさせてくれたおかげで、『あのヒット曲を書いたのはモレッティだ。ブレナンに25ドルで買い叩かれた』という最高のストーリーが業界に広まっている」

 

 サルが目を丸くした。

 

「お前、ブレナンのヒットまで自分の宣伝に使うのか」

 

「使う。ブレナンは俺の無料の広告塔だ」

 

 あの最初の屈辱が、回り道をして返ってきた。ブレナンの手元にはもう新曲がない。あの9曲の井戸は、もう枯れた。

 

(だが——正直に言えば、悔しくないわけがない。25ドルの曲がヒットチャートに入っている。あの曲を書いた時の、安アパートのアップライトピアノの感触を覚えている。あの曲は俺の一部だった。金に換えたのは俺だ。後悔はしない。だが——悔しいさ)

 

 

 

 

 2月。

 

 電気録音がようやく動き出した。

 

 前年の春にウエスタン・エレクトリックのコンデンサーマイクが実用化されたが、最初にヴィクターとコロムビアが電気録音を採用したのはクラシックとオペラだった。ポップ音楽は後回しにされた。レオが1924年から準備していた12曲のストック——電気録音に最適化した、ダイナミクスの幅が広い楽曲群——は半年以上塩漬けにされていた。

 

(予測は当たった。電気録音は来た。だがポップ音楽への採用が遅れた。先行者利益を取る計画だったのに、半年間は一ドルにもならなかった。その間も家賃は出ていく。ルーの給料は出ていく。クリフへの前払い500ドルも出ていった。——先読みが当たっても、タイミングのずれで金が燃える。これが知識チートの限界だ)

 

 しかし、ようやく風が吹き始めた。

 

 コロムビアのレヴィンから連絡が入った。

 

「モレッティ。お前の曲を、通常のポップ・ラインナップに入れる。電気録音盤の第二弾だ」

 

「ようやくですか」

 

「ようやくだ。最初はクラシックからだったが、市場の反応を見て拡大する判断が下りた。お前の曲は——正直に言えば、電気録音に合っている。他のポップ曲より、音の設計が違う。ダイナミクスの幅が広い。なぜだ?」

 

「たまたまです」

 

 たまたまではない。電気録音の特性を知っていたから、それに合わせて書いた。だがそれは言えない。

 

 コロムビアからの電気録音盤、第二弾ラインナップ。しかし半年遅れのぶん、先行者利益は目減りしていた。他の出版社も電気録音対応曲を準備し始めている。独占的な優位は、もうない。

 

(当初の計画では、電気録音の先行者利益だけで5,000ドルは見込んでいた。実際には——半分もいかないだろう。タイミングのずれは金額のずれだ)

 

 

 

 

 3月。

 

 ブラック・スワンからレコードが発売された。

 

 78回転のシェラック盤。ラベルにはこうあった。

 

 「MORETTI & JOHNSON」

 「Midnight in Harlem」

  Black Swan Records

 

 コロムビアのスタジオで電気録音した盤だ。レース・レコード市場の既存品は、ほとんどがアコースティック録音の劣悪な音質——パラマウントなどは音質の悪さで有名だった。その中に、電気録音の盤が出た。

 

 発売から2週間で、最初のロットの500枚が完売した。

 

 ペイスが電話をかけてきた。

 

「モレッティ。追加プレスが必要だ。1,000枚」

 

「1,000枚?」

 

「ハーレムの店だけで200枚売れた。南部のディーラーから注文が来てる。電気録音のブラック・スワン盤が噂になってる」

 

 電気録音の音質が、差別化要因として機能した。リスナーは音の違いに気づいた。

 

 4月末までに、3曲合計で3,000枚が売れた。1枚75セントの小売で、版権使用料15パーセント = 1枚あたり約11セント。3,000枚で330ドル。

 

 大きな額ではない。しかしこれはASCAPの配分枠の外で稼いだ金だ。

 

(レース・レコード市場はASCAPの主要な集計対象外だ。つまりここでの売上は、大手出版社と配分を奪い合わずに済む。レース・レコードの版権収入が積み上がれば、版権カタログ全体の規模が膨らみ、ASCAP内の配分ランクも上がる。制度の外で稼ぎ、制度の中のランクを押し上げる。二重の効果だ)

 

 同時に、コロムビアの通常ラインナップからも電気録音盤が出始めた。

 

 ただし棚の問題は残っていた。

 

 レヴィンが言った。

 

「白人と黒人の共作名義は棚で扱いにくい。白人向けの棚にも黒人向けの棚にも置けない」

 

「両方の棚に置いてくれる店を探します」

 

「独立系の小さな店ならともかく、大手チェーンは——」

 

「まず独立系から始めます。データを作ります。売れるという証拠を」

 

 グリニッチ・ヴィレッジの独立系レコード店3軒と、ハーレムの人種混在地域の店2軒が、「置いてみる」と言ってくれた。サルが交渉した。

 

「条件は簡単だぜ。うちのレコードを、白人棚にも黒人棚にも、両方に1枚ずつ置いてくれ。2枚分の仕入れは俺たちが負担する。売れなかったら返品していい」

 

 3週間で、5軒全てで完売した。白人棚からも、黒人棚からも、同じくらいの枚数が売れた。

 

 小さなデータだが、データだ。

 

(まだ証明には足りない。だがこのデータを積み重ねれば、コロムビアを動かせる。——今はまだ種蒔きだ)

 

 

 

 

 5月。

 

 レース・レコード市場でのヒットが波及効果を生み始めていた。

 

 ブラック・スワンから出したレコードが南部でよく動き、その評判がニューヨークにも戻ってきた。白人の客が、レース・レコードの棚でモレッティ&ジョンソンのレコードを探し始めた。コットン・クラブの客層と同じ人たちだ。ジャズが好きで、金がある白人たち。

 

 ヴィクターのシュルツから連絡が入った。ルーが電話を受けた。

 

「レオ。ヴィクターのシュルツから。あなたの共作曲を、ヴィクターの通常ラインナップで出したいと」

 

「ヴィクターが?」

 

「ブラック・スワンの電気録音盤が話題になって、ヴィクターの耳に入ったらしいわ。ただし、条件がある」

 

「条件?」

 

「クリフの名前を外してほしい、と。白人の棚に、黒人の名前は売りにくい」

 

 レオの目が冷えた。

 

(シュルツ。クリフを引き抜こうとした男が、今度はクリフの名前を消したレコードを出したいと言う。——話にならない)

 

「断る。クリフの名前を外したレコードは出さない」

 

「レオ」

 

「断る。シュルツに伝えてくれ。モレッティ&ジョンソンの共作名義が条件だ。嫌なら、コロムビアとの取引を拡大するだけだ」

 

 ルーが電話を切った後、レオは小さく息を吐いた。

 

(ヴィクターを敵に回す必要はない。だがクリフの名前を消す取引は、どんな金額でもやらない。俺はブレナンに25ドルで名前を売った。あの屈辱を二度は繰り返さない——それも、他人の名前で)

 

 

 

 

 6月から9月にかけて。

 

 モレッティ・ミュージックは三つの戦線で動いていた。

 

 一つ目。レース・レコード市場。ブラック・スワン経由のレコードが順調に売れ、南部を中心に累計8,000枚に達した。版権使用料は約880ドル。ASCAPの機械的複製権料が四半期ごとに別途入り、初回は45ドル。

 

 二つ目。コロムビアの通常ラインナップ。電気録音盤の第二弾以降に、モレッティ・ミュージックの楽曲が3曲採用された。棚の問題は完全には解決していないが、独立系レコード店での「両棚配置実験」のデータが少しずつ蓄積されている。コロムビアからの初回プレスは3,000枚。まだ大ヒットと呼べる数字ではないが、着実に動いている。

 

 三つ目。ラジオの演奏権料。ASCAPからの四半期分配金が、版権カタログの増大にともなって微増し始めた。$31から始まった分配金が、最新の四半期で$85に上がった。まだ雀の涙だが、カーブは上向いている。

 

 レオは帳簿を広げた。

 

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1926年9月末

 

 【資産】

  現金・預金     $18,200

  版権カタログ    28曲(推定評価 $4,000)

  グランドピアノ   $800

  録音マスターテープ $500(推定)

  ゴールドバーグ楽譜店 $1,500(推定)

 

 【負債】

  なし

 

 【月間収入】

  版権使用料(ラジオ演奏権) $85/四半期 → 約$28/月

  レコード版権料       約$250/月

  レース・レコード版権料   約$120/月

  楽譜売上          約$80/月

  セッション料・その他    約$100/月

  合計   約$580/月

 

 【月間支出】

  事務所家賃  $60

  ルー給与(17%) 約$100

  クリフ関連   約$130

  印刷・流通経費 $40

  生活費     $50

  合計   約$380/月

 

 【月間利益】約$200

 

 【純資産】約$25,000

 ――――――――――――――――――――――

 

 

 25,000ドル。

 

 当初の計画では、30,000ドルに届くはずだった。電気録音の遅延。クリフへの条件改善。前払いの出費。三つの要因が、計画から5,000ドルを削り取った。

 

(5,000ドルの未達。先読みが当たっても、タイミングのずれと人間関係のコストで目減りする。完璧な計画は存在しない。——だが47ドルで始まった旅が、6年で25,000ドルになった。そして今、収入源が五つに分散している。版権カタログは28曲。月間利益は安定して黒字だ。土台は、できた)

 

 

 

 

 10月の夜。

 

 ハーレム。レノックス・アベニューの地下クラブ「エディのところ」。

 

 レオとクリフが並んでピアノに座っていた。二人で一台のピアノを弾くのは、もう何年も続けてきた習慣だ。

 

 店はほぼ空だった。深夜2時。常連の数人が酒を飲んでいるだけ。ステージのランプだけが灯っている。

 

 クリフが静かにブルースのコードを弾いた。レオがそれに合わせた。Bフラットのペンタトニック。クリフの左手がベースラインを歩かせ、レオの右手がメロディを乗せた。

 

「レオ。俺たちのレコード、南部でも売れてるって聞いた」

 

「ああ。ジョージアとルイジアナでよく動いてるらしい」

 

「ジョージアか」

 

 クリフの指が一瞬止まった。すぐに動き始めたが、コードが暗くなった。マイナーに転調している。

 

「父親はジョージアから逃げてきた。リンチから。その土地で、俺の名前が入ったレコードが売れてるのか」

 

「売れてる」

 

「……不思議な気分だ」

 

「不思議か」

 

「ああ。——お前のおかげだ、とは言わない。お前は仕掛けを作っただけだ。音楽が届いたのは、音楽の力だ」

 

「その通りだ」

 

 クリフが鍵盤の上で指を止めた。

 

「だからな、レオ。もう一度言う」

 

「何を」

 

「金勘定のためじゃなく、音楽のためにやれ」

 

 レオは笑った。静かに。

 

「ヴィクターの話をまだ引きずってるのか」

 

「引きずってる。——お前は俺を引き留めるために、版権の比率を変え、ロイヤリティを上げ、500ドルの前払いまで出した。全部、数字の話だった。俺が残ったのは数字のためじゃない」

 

「何のためだ」

 

「お前があの日——電気録音の話をした時の目だ。鳥肌が立ったと言った時の。あの目が本物だったからだ」

 

 レオは鍵盤に目を落とした。象牙の白と黒檀の黒が、ランプの光を受けて鈍く光っている。

 

「……俺はビジネスマンだよ、クリフ」

 

「知ってる。だがビジネスマンにも二種類いる。金のために音楽をやる奴と、音楽のために金を回す奴だ。お前がどっちか、俺はまだ分からない」

 

 深夜のクラブに、二人のピアノだけが鳴っていた。窓の外から夜明け前の冷えた空気が流れ込み、コーヒーとタバコの匂いを押し流していく。

 

(金勘定のためじゃなく、音楽のためにやれ。——そうだ。だが音楽のためにやるには——金がいる。クリフの音楽を全米に届けるには、もっと大きな資金が要る。レース・レコード市場は入り口にすぎない。コロムビアの流通網を使い切るには交渉力が要る。交渉力は実績と資金から生まれる。結局、金だ)

 

(次は株式市場だ。音楽で稼いだ金を、金融で増やすフェーズに入る。モーリス・シェイファー。ウォール街のブローカー。まだ会っていない男が、次の幕の鍵を握っている)

 

(だが今夜は——ピアノを弾く。クリフの隣で。金勘定はまだ先でいい。今夜は、音楽だ)

 

 指が鍵盤の上を走った。クリフが微笑んで、それに応えた。二人のピアノが一つの音楽になっていく。

 

 ハーレムの夜が、静かに明けようとしていた。

 




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