五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く 作:生サーモン
1925年11月。レノックス・アベニュー。
コットン・クラブの二階のバルコニーは、真珠と葉巻の煙で息が詰まりそうだった。ステージには黒人の五重奏。客席は白いテーブルクロスと、白い襟と、白い手袋。黒い手だけがステージにあり、白い手だけがフロアにあった。入口には体格のいい用心棒が二人。黒人の客は入れない。ハーレムのど真ん中で、ハーレムの音を、ハーレムの外の人間が聴いていた。
クリフは横で、ボトル入りのジンジャエールを一口だけ舐めていた。ここでは客としてすら、酒は出てこない。用心棒が二人置いてある種類の店で、有色の男に酒を出すのは、後で誰かの不利になる。表情は動かなかった。ただ、テーブルの縁を指で叩く速さが、ステージのバンドのそれと合っていなかった。半拍ずれていた。それがクリフの返事だった。
「お前が呼ばなければ、俺はここには来ない」
声は静かだった。ステージの喧騒に押しつぶされない類の低さで、それだけがバルコニーの二人分の空気を占めた。
「分かってる」レオは短く応じた。「今夜は来てもらう理由がある」
クリフは目を上げなかった。
「理由」
「金の匂いを、二人で嗅ぐ」
クリフは、それで初めてこちらを見た。眉が動いたわけではなかった。ただ、指がテーブルを叩くのをやめた。
ステージでバンドがスウィングに入った。トランペットが金属質に光り、天井のシャンデリアがその音に共振してかすかに揺れた気がした。客席の白人たちが、体を四拍子で揺らし始めた。上流のクラブの、上等な酒の入ったグラスが、その揺れで少しずつフロアに近づいていく。
レオが見ていたのは、ステージではなかった。客の脚だった。膝から下の動きが、ステージの黒人ミュージシャンの左手のシンコペーションに、素直について行っていた。頭では認めない客も、脚では認めていた。
(この人たちは、ジャズが好きだ)
和音の一つが少しだけ濁った。バンドがブルースの三度に寄せてきたのだ。フロアの脚は、その濁りをむしろ喜んで受け取っていた。上等な酒と一緒に、少し陰のある音を飲み込んでいた。
(好きなのに、レコードは白人の棚からしか買わない)
葉巻の煙が二階まで昇ってきて、シャンデリアの光を斜めに切っている。レオは息を止めて煙をやり過ごし、それから、ゆっくり吐いた。
「クリフ」
「聞いてる」
「レース・レコード市場に、俺たちの盤を出したい」
クリフの指が、テーブルの縁で一度だけ止まった。
「レース・レコード」
「黒人の作った曲を、黒人の客に売る棚だ。パラマウントのベッシー・スミス、OKehのメイミー・スミス。売れる枚数は白人向けほどじゃないが、供給が追いついていない棚がある。ブレナンの流通も、ヴィクターの棚も、まだ本気で入っていない場所だ」
クリフは肘をテーブルに置いた。ジンジャエールの瓶の縁に指をかけたまま、しばらく口を開かなかった。それから、ステージの方に顎をしゃくった。
「あそこで弾いてる連中の名前を、お前は言えるか」
「ソプラノサックスは分からない。ドラムはチック・ウェッブに似ているが違う。ピアノは——アール・ハインズの弾き方じゃない」
「知ってる名前は、あるんだな」
「ある」
クリフは、初めて笑いに近い息を吐いた。笑いというより、鼻の奥で乾いた音を鳴らしただけだ。
「レース・レコードは、白人のレコード会社が、黒人の音を安値で買って、黒人の客に売りつける商売だ。歌い手のギャラは一曲二十ドル。版権は全部会社が持っていく。二十年後には、その歌が誰の歌かも忘れられる」
「知っている」
「知っていて、そこに参入したいのか」
「そこで、モレッティ・ミュージックがやる」
クリフはようやくジンジャエールをもう一口飲んだ。ボトルの底が、テーブルクロスに丸い染みを残した。
「お前の会社が」
「版権は共作名義で折半する。お前にはずっとそうしてきた。レース・レコードでも同じだ。名前をラベルに刷る。歌い手にはセッション料と、盤ごとの取り分を別途払う。パラマウントの二十ドル一回きりじゃない」
「……」
「一枚売れれば、続く。二枚売れれば、電気録音の設備を回せる。三枚売れれば——ヴィクターの棚に入る前に、ヴィクターの担当者が俺たちの盤を家に持ち帰る」
クリフは長く沈黙した。ステージのソロがフォアビートで七小節走り、八小節目でトランペットが半音上に食い込んだ。フロアの脚がそこでもう一度、素直に揺れた。
「レオ。一つだけ、聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は白人だ。お前がこの棚から取る金は、白人の金だ。名前をラベルに刷るのは正しい。だが、それでも、お前は白人としてこの市場から利益を得る。それは変わらない」
レオはグラスを持ち上げなかった。持ち上げれば、氷の音でこの会話が薄まる気がした。
「否定しない」
「否定しないのか」
「しない。俺は白人で、イタリア系で、この時代の差別構造の中にいる。構造を一人で壊すことはできない。構造の中で、少しだけマシなやり方を選ぶことはできる。ラベルに名前を刷る。版権を折半する。セッション料は業界の平均の三倍出す。完璧じゃない。今の選択肢の中で、いちばん恥ずかしくない額を出す」
(偽善だと言われる余地は残る。だが何もしないより、偽善でも動く方が結果を変える。ここで綺麗な棄権をしても、レース・レコードの棚は他の白人の会社に食われるだけだ)
クリフはテーブルの木目を見ていた。ステージのバンドが曲を終え、客がまばらに手を叩いた。手袋越しの拍手は、湿った布を叩くような、遠い音だった。
「もう一つ、聞くぞ」
「どうぞ」
「なぜ、今なのか」
その質問だけは、ステージの喧騒より、静かにレオの耳に届いた。
「ラッパ吹き込みは、もうすぐ終わる」
「マイクの録音か」
「ウエスタン・エレクトリックが去年、コンデンサー・マイクを実用化した。ヴィクターとコロムビアが動いた。まずクラシックとオペラから盤にする。ポップは半年か一年遅れる。レース・レコードはさらに後回しにされる」
「そこに、お前は先に入る」
「先に入って、電気録音で差をつける。パラマウントの録音は、機械の性能で負ける。ラッパの前で歌うより、マイクの前で歌う方が、声の腹がよく残る。低音のベースラインも潰れない。差は、耳で分かる」
クリフの指が、鍵盤の癖でテーブルの縁を丸めた。ピアノがない場所で、指だけが鍵盤に触れる形を探す。長く一緒にやってきて、この癖が出るときが、クリフの内側で何かが動いた時だと、レオはもう知っていた。
「電気工学の雑誌でも読んだのか、お前は」
「読んだ」
嘘だった。読んだのは、前世で、DTMのソフトの解説記事だ。マイクの指向性の話は、あの記事の脚注に載っていた。この時代のことを、この時代の道具で説明できる範囲でしか、口に出さない。
「レオ」
「なんだ」
「やるか」
「やる」
クリフは、それで初めて手を差し出した。テーブル越しに、白いテーブルクロスの上を、四本の指の甲だけがすっと滑って、レオの前で止まった。ピアニストの手だった。手のひらの中央に硬い皮が薄く盛り上がっていて、その皮の位置で、鍵盤のどのオクターブに一番よく手が落ちるかが分かった。
握った。金属より少し温かい程度の、乾いた手だった。
■
その夜、二階のバルコニーを降りると、通りは冷えていた。ハーレムの11月は、マンハッタン島の南より二度低いように感じる。橋を渡る前に、風がもう一度、コートの襟を撫でた。
地下鉄の階段で、クリフは短くだけ言った。
「明日、うちに来いよ。譜面を並べて聞かせる」
「行く」
それだけだった。
■
三日後の朝。
事務所の扉が乱暴に開いた。サルが息を切らして入ってきた。マフラーの片方がまだ肩に届いていない。息が白かった。
「レオ。まずい話がある」
ルーが椅子から顔を上げた。眼鏡の上端越しにサルを見て、口の端で息を吐いた。
「玄関で靴を落としてから話しなさい、サル」
「そんな余裕ないんだよ、ルー」
サルは帽子を机の縁に置いた。マフラーはまだ肩の片方に垂れたままだ。
「ヴィクターの野郎が、クリフに手を伸ばしてる」
レオの手が、書類の縁で止まった。指の力で、紙の縁が少しだけ折れた。折り目を伸ばそうとして、伸びなかった。
「誰から聞いた」
「昨日の夜、レノックスの店で。楽屋の連中が話してた。ヴィクターのA&Rが、クリフを個別に呼び出したって」
「A&Rの誰だ」
「シュルツ。ナサニエル・シュルツ」
ルーがペンを机に置いた。カチ、と乾いた音が鳴った。
「シュルツ。名前は聞いたわ。ヴィクターの黒人音楽部門を広げようとしてる男。エセル・ウォーターズの引き抜きにも動いたって話」
「引き抜き工作か」
「独占契約の話が出たって、楽屋の連中は言ってた。詳しい額までは分からない」
サルは、そこまで言ってから、初めて椅子に腰を下ろした。マフラーがようやく肩から落ちて、床に垂れた。
レオは椅子の背にもたれ、天井の梁を見た。ペンキの隅に細いひび割れが入っている。目の焦点をずらした方が、頭の中の書類が並べ替えやすい時がある。
(クリフがヴィクターに行けば、共作分の権利は折半で残るが新曲が止まる。レース・レコード参入は白紙だ。ヴィクターはクリフを白人の棚に一段落として置きたい。俺は棚の隅に入り込もうとしている。同じ方角の話だが、規模が違う)
「サル」
「ああ」
「今日の午後、俺はクリフの家に行く」
「一人でか」
「一人だ。ルー、契約書の写しを出してくれ。共作条項と、ロイヤリティ条項の頁だけでいい」
ルーはすでに立ち上がっていた。ファイルの背表紙を指で撫でて、目的の一冊を引き抜いた。CFOの動きだった。感情の一往復を待たない。
「印は要る?」
「要らない。今日は、条件を書き換える相談だ。書き換える前に、まずクリフの家に行く」
■
ハーレム、西131番街。
階段を三階上がる間に、廊下の突き当たりの窓から差した光の色が、少しずつ黄色くなった。冬の午後は、影が長い。三階の扉の前に立って、レオは一呼吸だけ置いた。ドアの木目に、爪の先で誰かが小さな十字を刻んでいた。家主か、前の借家人か。誰の十字か、聞くことはない。
叩いた。
しばらく間があって、扉が開いた。クリフは起き抜けの顔だった。目の下の隈は昨日より濃い。深夜まで弾いていた匂いが、まだ服の襟のあたりに残っていた。
「朝じゃないんだな、もう」
「二時過ぎだ」
「入れ」
狭いワンルーム。アップライトが窓際に一台。ベッドが壁際に一台。テーブルと椅子二脚。壁にはデューク・エリントンの写真と、その隣に若い黒人の女の写真が、金属の画鋲で四隅を留められていた。
女は、目つきが、クリフに似ていた。ただ、目尻に幼さがあった。
クリフはコンロにケトルをかけ、豆を挽き始めた。挽く音の低さで、ケトルの底の水量が浅いのが分かった。
「妹か」
クリフは挽き手を止めなかった。
「見りゃ分かる顔だろう」
「ジョージアにいるのか」
「ああ」
「高校に行かせたいのか」
クリフは、そこで初めて挽き手を止めた。振り返らなかった。
「言ってなかったな」
「聞いてなかった」
「三年一緒にやってて、聞いてなかったか」
「聞いてなかった」
(三年、共作の版権比率と、セッションの入り時間の話ばかりしてきた。妹の名前は、まだ知らない)
挽き終わったコーヒーの豆が、細い金属漏斗の中に落ちた。ケトルの湯がゆっくり注がれた。豆の匂いが立った。湯の音の下で、階下の誰かがラジオをつけた。歌ではなく、天気予報だった。ハドソン河が、明日の朝、氷が張るかもしれない、と男の声が言った。
クリフはカップを二つ、テーブルに置いた。片方はレオの前に、片方は自分の前に。座った。
「ヴィクターの話か」
「ああ」
「誰から聞いた」
「サルが楽屋で拾って、ルーに伝えた」
クリフはコーヒーを一口だけ啜って、カップをテーブルに置いた。
「この街は、狭いな」
「狭い」
「聞くだけ聞くか」
「聞かせてくれ」
クリフは指の背でカップの縁を撫でた。それから、口を開いた。
「三年専属。年俸2,400ドル。録音セッションごとに50ドル。版権はヴィクター保有。ただし、ラベルには名前を残す。全米配給。南部にも、西海岸にも、俺の名前が入った盤が並ぶ」
二千四百ドル。月に直して二百ドル。ハーレムの夜のクラブでは、深夜まで弾いて一晩三ドルから五ドル。安定した月二百ドルは、この街で暮らす黒人のピアニストが、この時代に見る類の額ではなかった。
(版権はヴィクター保有。そこだ。名前は残すが金は入らない。俺がブレナンにやられたのと、まったく同じ構造だ)
(あの二十五ドル。俺が最初に売った曲は、今も月に何ドルかを、ブレナンの懐に入れ続けている。俺の名前は楽譜に刷られている。金は俺の口座には一セントも入らない)
(クリフに、その構造を数字で説明することはできる。だが今、クリフに必要なのは、来月の家賃と、来月の妹の学費だ)
「揺れてるのか」
クリフは、目を伏せなかった。
「揺れてる」
「揺れてるか」
「お前とやってきた三年は、正直に言えば、面白かった。版権は折半だ、名前は刷る、と最初に言った時、俺は半分は信じなかった。三年やって、それは本気だと分かった。分かった上で、揺れてる」
「金か」
「金でもある。全米でもある。ジョージアの父親は、リンチから逃げてきた土地だ。あの土地で、俺の名前が刷られた盤が売れる、と言われたら、揺れる」
「そうか」
「揺れる」
クリフはカップを両手で包んだ。指が、鍵盤の癖でカップの縁に軽く落ちた。オクターブ幅の、開いた手だった。
レオは、しばらく何も言えなかった。言葉を並べる順番を、頭の中で二回、組み直した。前世でスライドの構成を組み直した癖が、この時代のこの部屋で、また出た。
「クリフ」
「聞いてる」
「一つだけ、確認させてくれ。ヴィクターの条件で、一番大事なのは、金か、それとも全米か」
クリフは十秒ほど、答えなかった。ケトルが冷めていく音がした。カップの中の湯気が、ゆっくり細くなった。
「全米だ」
「全米か」
「金は、二番目だ。金だけなら、俺はこの街で夜通し弾けばいい。ヴィクターが出す額に届かなくても、生きていける。ただ、ジョージアには届かない。俺の音は、ハーレムの二ブロック四方でしか鳴らない」
(全米に届けること)
(今の俺には、できない)
(できないが、道はある)
(レース・レコードの棚は、南部の教会ネットワークに繋がっている。ブラック・スワンは、南部の黒人向けの流通に、まだ細いが線がある。ヴィクターの全米配給には、遠く及ばない。だが、ジョージアには届く)
「クリフ」
「聞いてる」
「返事を、一週間だけ待ってくれ」
クリフはカップを持ち上げた。もう半分冷めたコーヒーを、それでも一口飲んだ。
「一週間か」
「一週間だ」
「……分かった」
立ち上がるとき、コートの襟に、豆の匂いが残っていた。階段を降りるとき、二階の踊り場で、誰かがドアの向こうでラジオを消した。天気予報の男の声が、途中で切れた。
■
その夜、事務所の窓の外で、雨が凍って落ちてきていた。
ルーは机の向こうで、鉛筆を握ったまま、こちらを見ていた。眼鏡の縁が、事務所のガス灯の光を、鈍く弾いていた。
「レオ。数字を並べる前に、一つ聞くわ」
「どうぞ」
「あなた、クリフを引き留めたいの。それとも、モレッティ・ミュージックを守りたいの」
レオは机の向こうで、指を組んだ。
「両方だ」
「両方は、たいてい、片方より弱くなる」
「知っている」
ルーは鉛筆の芯を紙にあてた。書き始めなかった。書く前に、数字を並べる順番を決めていた。
「じゃあ、順番を先に決めましょう。今のモレッティ・ミュージックの月間収入は、版権使用料とセッション料の合計で700ドル前後。経費を引いた月間の利益は250ドル前後。ここから、クリフに年俸を出せる余地はない。年2,400ドルは月200ドル。うちの月間利益と同額よ」
「年俸では対抗しない」
「じゃあ何で」
「条件の中身だ」
レオは、机の中央に白紙の便箋を引いた。前世で、価格提示のスライドを組む時の癖で、まず紙の中央に見出しの位置を決めた。左寄せではなく、中央寄せ。相手の目が最初に落ちる場所に、いちばん譲った条件を置く。譲る、と最初に見せる。
鉛筆で、書き始めた。
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クリフトン・ジョンソン契約改訂案
【現行条件】
共作名義。版権は折半
ロイヤリティ 楽曲売上の5パーセントをクリフに
セッション料 1回50ドル
【改訂案】
共作名義は維持
版権比率をクリフ60・レオ40に変更
ロイヤリティを楽曲売上の8パーセントに引き上げ
セッション料を1回75ドルに増額
レース・レコード市場の売上から10パーセントを別途クリフに
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ルーが、鉛筆を止めた。
「版権を、60・40に落とすの」
「落とす」
「モレッティ・ミュージックの取り分が、20パーセント削れる。ロイヤリティも3ポイント上げる。レース・レコードの10パーセントの別枠。……あなた、これで、うちの月間利益はどうなるか、計算した?」
「した」
「落ちる」
「大幅にな」
ルーは眼鏡を外して、袖で拭いた。長く磨いた。それは、ルーが頭の中で数字を並べる時の時間の稼ぎ方だった。
「これでも、まだヴィクターの2,400ドルには届かないわ。年俸の額では、絶対に届かない」
「だからもう一つ、出す」
「もう一つ」
「契約改訂のサインボーナスとして、クリフに500ドルを前払いする」
ルーは眼鏡をかけ直した。眼鏡越しの目が、細くなった。
「500ドル」
「500ドルだ」
「今の手元の現金から」
「そこから」
「レオ」
「言え」
「うち、家賃三カ月分と、印刷代の来月の見込みと、あなたの株式口座への追加入金と、それを引いたら、500ドルを出すと——現金の残りは、ぎりぎりよ。GMの含み損が短期で戻らなかったら、来月、私はサルの給料の支払いを二週間待ってもらう相談を、サルに持ちかけないといけない」
「サルにはさせない」
「じゃあ、あなたが自分の生活費を削るのね」
「削る」
「削って、500ドルを出すのね」
「出す」
ルーは、鉛筆を紙の上に静かに置いた。
「痛いわね」
「痛い」
窓の外で、凍った雨がガラスに小さく当たった。石畳を打ついつもの蹄の音が、今夜は聞こえなかった。皆、家に入っている。
(500ドルは、今の現金の三分の一に近い。だがクリフを失う痛みは、来月の帳簿では計れない額になる。500ドルは、家賃じゃない。あの妹の、一年分の学費に、届く額だ。妹の名前を、俺はまだ知らない)
「ルー」
「なあに」
「これで、年末の資産目標には届かない」
「30,000ドルは、届かないわね。25,000ドル台の後半で、精一杯」
「5,000ドルのショートだ」
「クリフに払う代償ね」
「代償だ」
ルーは眼鏡を外し、もう一度拭いた。それから、静かに言った。
「……合ってると思うわ」
「何が」
「クリフを引き留めることが。版権カタログの半分を失うより、利益率を下げて守る方が、長期では合理的よ。……あなたにしては、珍しいわね」
「何が珍しい」
「感情で動いてるのかと思った」
「合理的だよ、全部」
ルーは鉛筆を耳の上に挟んだ。
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「嘘じゃないなら、いいわ。CFOとしては、合理的な判断として承認する。会計の頁は、私が組み直しておく」
(半分は感情だ。クリフの演奏を、ヴィクターに差し出したくない。ラベルの名前と、演奏の中身と、ミュージシャンの生活が、それぞれ別の担当者の頁で管理される場所だ。俺の側では、その三つを、俺とルーとサルが同じ帳簿の頁でつつく。綺麗事だから捨てる、と言えるほど、俺はまだ潔癖じゃない)
■
一週間後の午後。
クリフのアパートに、もう一度、階段を上った。三階の踊り場の窓が、今日は磨かれていた。誰かが、埃を拭いていた。
扉が開いた時、クリフはすでに起きていた。窓際のアップライトの蓋が開いていた。鍵盤の上に、譜面が一枚。ハーレム風のスライドを効かせたブルースの、書きかけの譜面だった。
「座れ」
テーブルに向き合った。レオは書類を広げた。改訂案の頁を、順番に説明した。
版権比率の変更。ロイヤリティの引き上げ。セッション料の増額。レース・レコード市場での追加ボーナス。そして最後に、500ドルの前払い。
クリフは、黙って聞いていた。カップに手を伸ばさなかった。
説明が終わって、レオはペンをテーブルの縁に置いた。
沈黙が、部屋の中を、一度、半周した。
クリフが顔を上げた。
「版権を、俺の方が多くするのか」
「60・40。お前の音が核だ」
「500ドル。妹の学費に充てろ、ということか」
「そういうことだ」
クリフは椅子から立ち上がった。窓際に歩いていって、通りを見下ろした。ハーレムの午後の子どもたちが、路地でボール遊びをしていた。声が、階下から二階、三階と、少しずつ薄まって届いた。
「レオ。一つ、聞く」
「どうぞ」
「お前、この500ドルを出して、来月、苦しくならないのか」
レオは、一瞬、大丈夫だと言おうとした。大丈夫と言えば、この場は綺麗に閉じる。
閉じない方を選んだ。
「苦しくなる。年末の資産目標には届かない。利益率も落ちる。俺の生活費も、削ることになる」
「痛いのに、出すのか」
「出す。お前の音楽が要るからだ。お前がいなければ、俺の会社は——」
「金勘定の話だろう」
クリフの声に、刃があった。振り返った目が、鋭かった。窓の逆光で、目の中の光は見えなかった。声だけが、鋭かった。
「俺が抜けたら利益が減る。だから金で引き留める。そういう話だろう」
レオは、言葉に詰まった。
クリフが一歩、テーブルに戻ってきた。
「レオ。お前は、いつも数字の話をする。版権の比率。ロイヤリティのパーセンテージ。月間収入。年間目標。三年間、俺と会って、俺の音楽の話を、一度もしていない」
「……」
「一度もだ」
「……」
「ヴィクターのシュルツは、俺の演奏を聴いて泣いた。珍しくもない。何度も見てきた。だが、あの男は俺にこう言った。『お前の音楽を、全米の家庭のリビングルームに届けたい。子供たちが晩飯を食いながら、お前のピアノを聴く。そんな未来を作りたい』」
その言葉が、クリフの中で、まだ響いていた。レオには、それが分かった。分かるのが、遅かった。三年の間、条件は業界の平均より公正で、支払いは一度も遅れなかった。それでも、レオの口からは、一度も、音楽そのものの話が出ていなかった。
「シュルツの言葉は、本心だったと思うか」
「分からない」
「分からないのか」
「分からない。だが、お前の口からは、一度も聞いたことがない言葉だ」
レオは、テーブルの木目に目を落とした。木目の年輪が、テーブルの端で急に曲がっていた。若い時に、風で幹が一度大きく傾いだ木の材だった。
(前世でDTMの画面越しに聴いたどんな録音より、目の前の男の演奏が好きだ。電気録音のテスト盤で、クリフの左手が低音のペダルポイントを踏んだ時、指の腹が象牙を撫でる摩擦音まで盤に残った。ラッパの吹き込みでは絶対に残らない音だ。それを、俺は一度もクリフに言わなかった)
レオは息を吸った。
「クリフ」
「ああ」
「俺は、ビジネスマンだ。音楽家じゃない。だから、音楽の話が、下手だ」
「下手でも、いい」
「聞きたいのか」
「聞きたい」
「お前の演奏は、本物だ。……この間の電気録音のスタジオで、お前がサビの前で、左手のオクターブを少しだけ遅らせた。あの半拍のためだ。マイクは、あの半拍の中にある間を、拾った。ラッパの吹き込みでは、あの間は、絶対に盤に残らなかった。俺は、あの再生を聴いた時、鳥肌が立った。ここで演奏している男の音を、盤に残さなければ、この時代の間違いだと思った」
言い終えて、恥ずかしくなった。柄でもない。
クリフは、しばらく、笑わなかった。目を細めた。
「お前、音楽の話も、できるじゃないか」
「二度とやらない」
「やれ。たまには」
クリフはテーブルに戻ってきた。書類を、もう一度、頭から読み直した。指の背で、条項の一つひとつを、丁寧に押さえていった。
読み終わった。
「レオ。条件は受ける。ヴィクターは断る」
レオの肩から、力が抜けた。自分でも、驚くほど、抜けた。
「ただし——」
「ただし」
クリフはレオの目を、真っ直ぐに見た。
「金勘定のためじゃなく、音楽のためにやれ。俺はそういう相手と仕事がしたい」
「……ああ」
握手した。二度目の握手だった。コットン・クラブのテーブル越しに交わした握手より、今度の手は、少し湿っていた。窓際で、日が沈む前の光が、鍵盤の白鍵に、細く伸びていた。
(音楽のためにやれ、か)
(音楽のためにやるには、金がいる)
(その矛盾を、抱えたまま走る)
■
12月末。
西135番街。ブラック・スワン・レコードの事務所。
入口の扉は、木の縁が、少し反っていた。冬になると、湿気を吸って、扉が閉まりきらない。事務所の中は、思ったより、暖かった。中央に鋳鉄のストーブが一つ、そのすぐそばに、机が三つ、寄せて置いてあった。壁には、これまで発売した盤のジャケットが、額装もされずに、画鋲で貼られていた。エセル・ウォーターズ、フレッチャー・ヘンダーソン。
ハリー・ペイスは、痩せた長身の男だった。教師出身の実業家。目つきに、講壇に立った時の癖がまだ残っていた。相手の目より、その少し上を見て、話す時に一瞬、視線を下ろす。
「モレッティ。白人の出版社が、なぜうちに来る」
「電気録音に適した楽曲を持っているからです。それをフェアな条件で、ブラック・スワンに提供したい」
「フェア」
ペイスは葉巻を持たなかった。この事務所には、葉巻の匂いはなかった。インクと、紙と、鋳鉄のストーブの、少し焦げた匂いだけだった。
「白人がフェアと言うときは、たいてい、自分にとってフェアなだけだ」
「言われる余地は残ります」
「残るなら、条件を先に言え」
レオはコートの内ポケットから、二枚に折った紙を出した。ペイスの前の机の上で、それを開いた。
「版権はモレッティ・ミュージックとクリフトン・ジョンソンの共有。ブラック・スワンにはプレスと流通を委託。売上の15パーセントを、版権使用料として、モレッティ・ミュージックに支払う。クリフへの演奏料は別途。売上の85パーセントは、ブラック・スワンの取り分です」
ペイスは、紙を見ていた。目を上げなかった。
「15パーセント」
「はい」
「パラマウントは、版権を全部持っていく上に、ミュージシャンには、セッション一回20ドルしか払わない」
「知っています」
「だからうちに来た」
「来ました」
ペイスは、鋳鉄のストーブに、薪を一本、追加で入れた。ストーブの内側で、赤い光が、揺れた。
「録音は、どうする。うちの録音設備は、ラッパの吹き込みしかない」
「録音は、コロムビアのスタジオを借ります。電気録音の設備がある。録音費用は、モレッティ・ミュージックが持ちます。ブラック・スワンは、プレスと流通だけを担当する」
「録音費用まで、持つのか」
「持ちます」
「なぜだ」
「電気録音の音は、パラマウントのラッパ吹き込みとは、耳で分かるほど違います。同じ市場で、音が良い盤が出れば、客はそちらを取る。ブラック・スワンの棚に、電気録音の盤が並ぶ。それが、うちの投資です」
ペイスは、扉の縁の、反っている部分に、目をやった。それから、レオに戻した。
「モレッティ。お前は、何者だ」
「小さな出版社の主人です」
「小さな出版社が、なぜ、電気録音の設備の借り方まで知っている」
「小さな出版社だから、大手にできない動き方を、するしかないんです」
ペイスは、しばらく、何も言わなかった。ストーブの中で、薪が一本、音を立てて崩れた。
手を差し出した。
「やろう」
その手を握った。ペイスの手は、教師の手だった。指の関節の内側に、チョークの粉の跡が、何年も落ちきっていない。
■
1926年1月。
朝、事務所の扉が、また乱暴に開いた。今度はサルは、マフラーを両肩にきちんとかけていた。ただ、息は前回より、荒かった。
「レオ。ブレナンの野郎の話だ」
「まだ何かあるのか」
「お前が去年売った曲。『Dancing in the Rain』。あれ、ラジオで大ヒットしてる」
レオの手が、ペンの上で止まった。
(『Dancing in the Rain』)
(一曲目に二十五ドルで売った九曲のうち、たしか、五曲目だ。テンションの少ないシンプルな進行に、Bセクションだけ半音上のセカンダリー・ドミナントを一つ差した曲。着地はCに戻る。三分半の、二十年代の耳に、ちょうど半歩だけ先を行く曲)
「どこで流れてる」
「WEAFの夕方の枠。毎日流れてるらしい。リクエストランキングの三位に入った」
ルーが、算盤を弾き始めた。指の運びが速かった。
「レオ。ラジオの演奏権料の分配は、ASCAP経由よ。あの曲の版権はブレナンが持ってるから、演奏権料もブレナンの懐に入る。作家分も、ブレナンの手前で名義が違うから、あなたには一セントも入らない」
「知ってる」
「悔しくないのか」
サルが拳を握っていた。マフラーの下で、肩が少し震えていた。
「悔しいさ」
「悔しいなら、なんでそんな顔してるんだよ」
「悔しさの置き場所を、決めているところだ」
サルは、その言葉の意味を、しばらく計った。
レオは、椅子の背にもたれた。
「サル。ルー。二人とも、聞いてくれ」
二人が、こちらを見た。
「あの二十五ドルは、授業料だ。ブレナンは、あの九曲の井戸を、二十五ドルずつで買い上げた。今、その中の一曲がラジオで走っている。ブレナンには、演奏権料が入る。だが、ブレナンの手元には、もう、新しい曲は一枚もない」
「新曲がゼロってことか」
「ゼロだ。俺は、あの日以来、ブレナンには一曲も売っていない」
「じゃあ、ブレナンは、今の九曲だけで食っていく気か」
「食っていく気だろう。だが、この街の作曲家仲間の間で、噂は広がっている。『あの曲を書いたのは、モレッティだ。ブレナンに二十五ドルで買い叩かれた男だ。今は自分の看板を出している』——その話が、業界の耳に届いている。若い作曲家が、モレッティ・ミュージックの扉を、少しずつ叩き始めた。版権を折半する会社が、この街に一つできた、と」
サルが目を丸くした。
「お前、ブレナンのヒットまで、自分の宣伝に使う気か」
「使う。ブレナンは、俺の無料の広告塔だ」
サルは、しばらく口を開けたままだった。それから、拳を、机の上に、ゆっくり置いた。
「……お前、たまに、怖い時があるぜ」
「悪かった」
「謝るな。褒めてる」
(安アパートで、半音狂ったアップライトで、初めて書き上げた曲だった。Bセクションの二小節目で、半音上に一瞬だけ寄り道して、着地でCに戻る。あの一拍のために、俺は前世の音大の練習室に何年もいた。あの一拍が、今、ラジオで走っている。走らせているのは、俺ではない。悔しさは、置き場所を決めた者が、いちばんうまく使う。ブレナンには、もう、新曲はない)
■
2月。
電気録音のポップ音楽への拡大が、ようやく動き始めた。
前年の春に、ウエスタン・エレクトリックのコンデンサー・マイクが実用化されてから、ヴィクターとコロムビアは、まずクラシックとオペラの盤を、電気録音に切り替えていた。カルーソーの再録音、フィラデルフィア管弦楽団の交響曲。ラッパの吹き込みとは、耳で分かる格の違いだった。
ポップ音楽は、後回しにされていた。
1924年から、レオが用意していた電気録音対応の12曲のストックは、半年以上、塩漬けだった。ダイナミクスの幅が広く、低音のベースラインが効いた楽曲群。ラッパの吹き込みで盤にすれば、低音は潰れ、ダイナミクスも切り詰められる。電気録音の設備が回るまで、この12曲は、音を鳴らすための機会を、待っていた。
(先読みは当たった。だが、当たってから金になるまでの間に、家賃とルーの給料が落ちる。クリフへの500ドルも先月落ちた。この半年、12曲は俺の帳簿から金を吸っていただけだった)
コロムビアのアーヴ・レヴィンから、電話が入った。
「モレッティ。お前の曲、通常のポップ・ラインナップに入れる。電気録音盤の、第二弾だ」
「ようやくですか」
「ようやくだ。最初はクラシックからだったが、市場の反応を見て、拡大の判断が出た。お前の曲は——正直に言えば、電気録音に合っている。他の候補と、音の設計が違う。ダイナミクスの幅が広いし、低音の書き方が丁寧だ。……なぜだ」
「たまたまです」
「たまたま、な」
「ええ」
「たまたま、で、お前の曲だけこの半年、俺のところに残っていたのか」
「そうです」
レヴィンは、電話の向こうで、一瞬、笑ったようだった。
「まあ、いい。来月末に、二弾目のプレスに乗せる」
電話を置いて、ルーが顔を上げた。
「動き出したのね」
「動き出した」
「半年、遅れたわ」
「半年、遅れた」
ルーは算盤の玉を、二つだけ弾いた。
「当初は、電気録音の先行者利益で5,000ドルは見込んでたわ。半年の遅れで、他の出版社もマイク用の書き方を覚え始めてる。もう独占じゃない。……回収は、半分に届けばいい方よ」
「届けばいい」
「タイミングのずれは、金額のずれ」
「そうだ」
(機械の宣伝としてはクラシックの方が箔がつく。ヴィクターがそこから始めたのは、当たり前だった。下から順に対応する会社は、この世界にはない)
■
3月。
ブラック・スワンから、最初の共作盤が発売された。
78回転のシェラック盤。ラベルの中央に、こう刷ってあった。
「MORETTI & JOHNSON」
「Midnight in Harlem」
Black Swan Records
ハーレムの店に、その盤が並んだ日、レオは自分で店を回った。二軒目の店で、店主が盤を蓄音機にかけて、客に試聴させていた。客は黒人の中年の男で、耳を、蓄音機のホーンに近づけた。曲の頭で、クリフの左手がベースを踏んだ。その瞬間に、男の眉が、少しだけ動いた。低音の腹が、ラッパの吹き込みでは絶対に出ない厚みで、盤から出ていた。男は、盤の値段を店主に聞いた。
その盤は、その男が持ち帰った。
二週間で、最初のロットの500枚が、完売した。
ペイスから、電話が入った。
「モレッティ。追加プレスが要る。1,000枚」
「1,000枚ですか」
「ハーレムの店だけで、200枚売れた。南部のディーラーから、注文が来始めた。ジョージア、ルイジアナ、ミシシッピ。ブラック・スワンの電気録音の盤が、噂になっている」
電気録音の音質差が、レース・レコード市場で、差別化の要因として、確かに機能していた。ラッパの吹き込みの盤は、ホーンの共鳴で、低音がこもる。マイクの盤は、低音が、はっきり鳴る。同じ値段の盤なら、鳴る方を取る。
4月末までに、3曲合計で、3,000枚が売れた。1枚75セントの小売で、版権使用料は15パーセント。1枚あたり、およそ11セント。3,000枚で、330ドル。
金額としては、大きくない。だが、これはASCAPの主要な集計対象の外で稼いだ金だった。大手出版社と配分を奪い合わずに、別の場所で、別の帳簿の頁で、動いた金だった。
(レース・レコードの版権収入が、月ごとに積み上がる。積み上がれば、モレッティ・ミュージックの版権カタログの規模が膨らむ。ASCAPの配分ランクは、版権規模で動く。制度の外で稼いだ金が、制度の中の順位を、少しずつ押し上げる。二重で効く)
■
5月。
コロムビアの通常ラインナップからも、モレッティ・ミュージックの楽曲が、電気録音盤で出始めた。第二弾で3曲、第三弾で2曲。プレスの初回ロットは3,000枚。まだ大ヒットではない。だが、着実に動いていた。
棚の問題は、残っていた。
レヴィンが、コロムビアの応接室で言った。
「白人と黒人の共作名義は、棚で扱いにくい。白人向けの棚にも、黒人向けの棚にも、置きにくい」
「両方の棚に置いてくれる店を、探します」
「独立系の小さな店ならともかく、大手チェーンは、まず動かない」
「まず、独立系から始めます」
グリニッチ・ヴィレッジの独立系レコード店を3軒。ハーレムの人種混在地域の店を2軒。サルが、五軒を、一日で回って、話を通してきた。
「条件は簡単だ。うちの盤を、白人棚にも、黒人棚にも、両方に一枚ずつ置いてくれ。二枚分の仕入れは、うちが負担する。売れなかったら、返品していい」
三週間で、五軒全てで、完売した。白人棚からも、黒人棚からも、およそ同じ枚数が売れた。棚の色を、客が超えた瞬間だった。
「小さいデータだが、データだ」
サルの報告に、ルーが頷いた。
「これを、レヴィンに投げる」
「投げよう」
ヴィクターのシュルツからも、6月に、電話が入った。ルーが応対した。
「レオ。ヴィクターのシュルツから。あなたの共作曲を、ヴィクターの通常ラインナップで、出したいって」
「ヴィクターが」
「ブラック・スワンの電気録音の盤が、噂になって、シュルツの耳に入ったらしいわ。ただし、条件がある」
「条件」
「クリフの名前を、外してほしい、と」
レオの目の温度が、二度、下がった。
(シュルツ。クリフを引き抜こうとした男が、今度は、クリフの名前を消した盤を、俺に出させたい、と言う)
(それは、話にならない)
「断ってくれ」
「レオ」
「クリフの名前を外した盤は、うちからは出さない」
「断り方は、どうする?」
「クリフの名前を外す条件が入っている限り、うちからは何も出さない、と伝えてくれ。コロムビアとの取引を拡大するだけだ、とも」
ルーは、受話器を、しばらくの間、握ったままだった。
「シュルツを、正面から敵に回すことになるわ」
「敵に、いつかは、なる」
「今日でなくてもいい相手を、今日、敵にするの」
「今日でなくてもいい、ならいつだ。俺は、あの二十五ドルで、自分の名前を、ブレナンに一度売った。あの屈辱は、二度は繰り返さない。それを、他人の名前でやることは、まして、しない」
ルーは、しばらく黙って、それから、受話器に口を寄せた。
「シュルツさん。モレッティ・ミュージックの回答をお伝えします。共作名義の維持が条件です。それが受け入れられない場合、この件は、これで終わりです」
電話を切った後、ルーは眼鏡を外し、ゆっくり拭いた。
「あの男、電話越しに、笑ったわ」
「笑ったか」
「せせら笑いよ。だが、笑いながら、電話を、簡単には切らなかった」
「そうか」
「あなた、勝つときは、どうやって勝つ気なの」
「棚のデータで、勝つ。両棚実験の枚数が、あと三カ月で、コロムビアの経営会議の議題に届く。届いたら、シュルツはヴィクターの経営会議で、同じ議題を、後追いで出す。棚の壁が、少しずつ、こちら側から、崩れる」
ルーは眼鏡をかけ直した。
「あなた、CFOと話してるのを、忘れないでね」
「忘れてない」
「じゃあ、その三カ月の、うちの資金繰りは、私が別紙で作るわ」
「頼む」
■
6月から9月にかけて。
モレッティ・ミュージックは、三つの戦線で、同時に動いていた。
一つ目。レース・レコード市場。ブラック・スワン経由の盤が、南部で回り続けた。ジョージアの田舎町の教会の日曜礼拝の後、共同購入の帳簿にモレッティ&ジョンソンの盤が並んだ、という報告を、ペイスがわざわざ手紙で寄越した。累計は、9月末で、およそ8,000枚。版権使用料の入りは、およそ880ドル。ASCAPの機械的複製権料が、四半期ごとに、45ドル。
二つ目。コロムビアの通常ラインナップ。電気録音の二弾目以降で、モレッティ・ミュージックの楽曲が、3曲、採用された。棚の問題は解けていない。だが両棚実験のデータが、月ごとに、少しずつ蓄積されていた。
三つ目。ラジオの演奏権料。ASCAPからの四半期分配金が、版権カタログの増加と共に、少しずつ動いた。3年前の第一回で31ドルだった分配金が、今回の四半期で、85ドルになった。まだ雀の涙だ。だが、カーブの向きは、上を向いていた。
9月末。
事務所の机の上で、レオは帳簿を広げた。ルーが横で、算盤の玉を並べていた。窓の外で、二十八番街の店の看板が、夏の名残の光を受けて、白く反射していた。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1926年9月末
【資産】
現金・預金 $18,200
版権カタログ 28曲(推定評価 $4,000)
グランドピアノ $800
録音マスターテープ $500(推定)
ゴールドバーグ楽譜店 $1,500(推定)
【負債】
なし
【月間収入】
版権使用料(ラジオ演奏権) $85/四半期→ 約$28/月
レコード版権料 約$250/月
レース・レコード版権料 約$120/月
楽譜売上 約$80/月
セッション料・その他 約$100/月
合計 約$580/月
【月間支出】
事務所家賃 $60
ルー給与 約$100
クリフ関連 約$130
印刷・流通経費 $40
生活費 $50
合計 約$380/月
【月間利益】約$200
【純資産】約$25,000
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二十五千ドル。
当初は、三十千ドルに届くはずだった。届かなかった。電気録音の遅延で半年、金は燃えた。クリフへの条件改善で、月間の利益率が落ちた。500ドルの前払いが、現金の三分の一を、削った。三つの要因で、五千ドル、削れた。
ルーが、算盤を止めた。
「五千ドルのショート。あなた、悔しくないの」
「悔しい」
「顔に出ないわね」
「二十五ドルの時の悔しさに比べれば、五千ドルの悔しさは、まだ、金額の話だ」
ルーは、少しだけ笑った。
「合理的な悔しさね」
「そうだ」
(47ドルで始まった旅が、六年で、25,000ドルになった。収入源は五つに分かれた。版権カタログは28曲。月間の利益は、細いが、黒字で回り続けている。土台は、できた)
(次は、この土台の上に、金融の柱を、もう一本、立てる。ウォール街のブローカーで、モーリス・シェイファーという男の名前を、ルーが去年から、何度か聞いてきていた。まだ、会っていない)
(会う前に、もう一晩、この街の音を、聴いておきたい)
■
10月の夜。
ハーレム。レノックス・アベニュー。地下のクラブ、「エディのところ」。
深夜二時。ステージには、ランプが一つだけ灯っていた。常連が数人、カウンターで、密造ジンを舐めていた。バーテンダーは、洗い物の途中で手を止め、ステージの方を、聴く姿勢で見ていた。
レオとクリフが、一台のピアノを、二人で弾いていた。ここ何年か、深夜に、二人で一つの鍵盤に触れる時間は、少しずつ、二人の中で、決まった位置に落ちていた。話をするための時間ではなかった。話をする気配を、鍵盤の上で、片手ずつ、確かめる時間だった。
クリフが左手を鍵盤に置いた。Bフラットのブルースの、下三度の低音を、静かに踏んだ。レオが右手で、その上に、五度と七度をそっと乗せた。二人の指が、鍵盤の中央のCのあたりで、一度、指先が、触れた。触れたことに、どちらも、指を止めなかった。
「レオ」
クリフの声は、鍵盤の音の下で、静かだった。
「聞いてる」
「俺たちの盤、南部で売れてるって、聞いた」
「ジョージアと、ルイジアナが、よく動いてるらしい」
クリフの指が、一瞬、鍵盤の上で止まった。それから、また、動き始めた。コードが、明るいメジャーから、少しだけ暗いマイナーに、寄った。
「父親は、ジョージアから逃げてきた。リンチから。あの土地で、俺の名前が入った盤が、売れているのか」
「売れている」
「……不思議な気分だ」
「不思議か」
「ああ。お前のおかげだ、とは、言わない。お前は、仕掛けを作っただけだ。音楽が届いたのは、音楽の力だ」
「その通りだ」
クリフは、しばらく、指を鍵盤の上で、休ませた。左手の親指の腹が、白鍵の上で、静かに、下向きの三度に落ちた。深い低音の一音が、店の中で、二秒ほど、残った。
「だからな、レオ。もう一度、言うぞ」
「聞く」
「金勘定のためじゃなく、音楽のためにやれ」
レオは、笑いに近い息を、鼻から、少しだけ吐いた。
「ヴィクターの話を、まだ引きずっているのか」
「引きずってる。お前は、俺を引き留めるために、版権の比率を変えて、ロイヤリティを上げて、500ドルの前払いを出した。全部、数字の話だ。俺が、残ったのは、数字のためじゃない」
「何のためだ」
「お前が、あの日、電気録音の話をした時の、目だ。鳥肌が立ったと、言った時の目だ。あの目が、本物だったからだ」
レオは、鍵盤に、目を落とした。象牙の白と、黒檀の黒が、ランプの光の中で、鈍く光っていた。
「……俺は、ビジネスマンだよ、クリフ」
「知ってる。だがビジネスマンにも二種類いる。金のために音楽をやる奴と、音楽のために金を回す奴だ。お前がどっちか、俺はまだ分からない」
鍵盤の上に、二人の指が、それぞれの位置で、置かれたままだった。カウンターの奥で、バーテンダーが、グラスをタオルで、静かに拭いていた。窓の外の、レノックス・アベニューを、夜明け前の風が、一度、乾いた音で、通り過ぎた。
(音楽のためにやれ、か)
(そうだ。だが、音楽のためにやるには、金がいる。クリフの音を、ジョージアの田舎町の教会の日曜礼拝に届けるには、電気録音の設備が回る流通が要る。設備が回る流通には、資金が要る。資金は、金融で増やすのがいちばん早い。ウォール街に、名前を聞いた男が一人、いる)
(矛盾は、まだ、抱えたままだ。抱えたまま、走る)
(だが、今夜は、ピアノを弾く。クリフの隣で。金勘定は、まだ、明日にとっておく)
指が、鍵盤の上を、走った。クリフが、それに、笑わない目で応えた。二人のピアノが、一つの音楽に、なっていく。
ハーレムの夜が、静かに、明けようとしていた。
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