五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第8話】ウォール街の入り口

 1925年11月。

 

 チェース・ナショナル銀行、パイン・ストリート支店。

 

 窓口の向こう側に座るH・ドーソンという銀行員が、帳簿のページをめくりながら言った。

 

「モレッティさん。当行のお預けは現在32,400ドルです」

 

「ありがとう。それと、投資の相談がしたい」

 

 ドーソンの眉が上がった。

 

「投資? 不動産ですか」

 

「株式です。信頼できるブローカーを紹介してほしい。大手でなくていい。個人で動いている、腕の良い人間を。できれば移民の事情が分かる人間がいい」

 

 ドーソンが三秒ほど考えた。

 

「モーリス・シェイファーという男がいます。ドイツ系ユダヤ人の個人ブローカーで、大手を辞めて独立した。堅実な運用で評判がいい。当行の顧客でも何人か紹介しています。ただ」

 

「ただ?」

 

「少し変わった男です。新規の顧客には必ず面接をする。気に入らなければ断る」

 

「それでいい」

 

 面接をするブローカー。客を選ぶということは、自分の信用を値段以上に大事にしている。

 

 

 

 

 ブロード・ストリート。ウォール街から一本入った通りに、モーリス・シェイファーの事務所はあった。

 

 二階建てのレンガ造りのビル。ウォール街の華やかさとは無縁だ。狭い階段を上がった先の一室。ドアに「M・シェイファー証券」と小さな真鍮のプレートが打ちつけてある。ノックした。

 

「開いてる」

 

 中に入った。

 

 机一つ、椅子が三脚、壁際にファイルキャビネットが四つ。窓から差し込む午後の光がタバコの煙を照らしている。壁には黒板が一枚、チョークで数字がびっしり書かれていた。

 

 机の向こう側に、ずんぐりした体格の男が座っていた。50歳。丸い顔に小さな眼鏡をかけ、灰色のベストを着ている。髪は白髪交じりの黒で短く刈り込まれていた。顔立ちは温和だが、目だけが違う。数字を見慣れた人間の目だ。

 

「モレッティか。ドーソンから聞いてる。座れ」

 

 座った。椅子は硬く、座面の革が冷たかった。

 

「音楽の出版社をやってるそうだな」

 

「はい。モレッティ・ミュージック・パブリッシング。4年目です」

 

「4年で32,000ドル。銀行に寝かせてる」

 

「寝かせてます」

 

「なぜ今まで投資しなかった」

 

「音楽事業の基盤を固めるのが先でした。今は事業が安定して、毎月のキャッシュフローが——」

 

 言いかけて止めた。

 

(「キャッシュフロー」。1925年の作曲家が使う言葉じゃない)

 

「——毎月の収支が黒字化してる。余った金を働かせたい」

 

 モーが眼鏡を外してレンズを拭いた。

 

「いいだろう。俺は嘘をつかないが、全部は教えない。株が上がるか下がるかは、俺にも分からない。分かると言うブローカーがいたら、そいつは詐欺師だ。俺にできるのは市場のデータを読んで、お前が判断する材料を揃えることだ。判断するのはお前で、責任を取るのもお前だ。いいか?」

 

「いい」

 

「なら昼飯にしよう。近くにいいデリがある」

 

 二人でビルを出た。ブロード・ストリートを半ブロック歩いた先に、小さなユダヤ系デリがあった。カウンターの奥から燻製肉とピクルスの匂いが漂ってくる。

 

 モーがパストラミ・サンドイッチを二つ頼んだ。分厚いライ麦パンに燻製肉が山盛りになって出てきた。マスタードの黄色が鮮やかだ。

 

「うまい」

 

「ここの店は40年やってる。親父の代から通ってた」

 

 モーがサンドイッチを頬張りながら、ポケットから古びた懐中時計を取り出した。

 

 金色だが光沢はくすんでいる。蓋の彫刻は長年の使用で角が丸くなり、模様が判別できない。チェーンは銀だが、何度も修理した跡があった。

 

「親父がこの国に来た時——1880年だ——持っていたのはこの時計と、ポケットの中の3マルクだけだった。14歳。英語は一言も話せない。ハンブルクからの船で3週間吐き続けて、エリス島に着いた時には体重が30ポンド減ってた」

 

 モーが時計の蓋を開けた。文字盤は黄ばんでいたが、針は正確に動いていた。

 

「時計職人だった。親父はいつも言ってた。『モー、市場は嘘をつかない。人間は嘘をつく。政治家も、銀行家も、新聞記者も。だが数字は嘘をつかない。数字だけを信じろ』」

 

 蓋を閉じた。カチリと小さな音がした。

 

「船から降りた時の唯一の財産だ。これだけは絶対に手放さない」

 

 モーが時計をポケットに戻した。手つきが丁寧だった。父親の遺品に触れるときの、あの特有のゆっくりとした動作。

 

(この男は4年後、全てを失う。事務所も、顧客も、信用も。だがこの時計だけは——)

 

「モー。俺が何を信じるか聞いたか」

 

「聞いてない。聞くつもりもない。信じるものは、金を失った時に分かる」

 

(——重い言葉だ。そして正しい)

 

 

 

 

 翌週。モーがNYSEのフロアを見せてくれた。

 

 ニューヨーク証券取引所。ウォール街11番地。ギリシャ神殿を思わせる列柱のファサードを抜けると、巨大なトレーディング・フロアが広がっていた。

 

 天井高は72フィート。大理石の柱が森のように林立し、天窓から光が差し込んでいる。フロアには木製の円形ブース——ポストが16台並び、それぞれの周りにブローカーたちが群がっていた。

 

 騒音が凄まじかった。

 

 数百人の男たちが同時に叫び、手を振り、紙切れを奪い合っている。ティッカーテープの機械がカタカタと休みなく動き、細いテープが床に積もっている。壁の巨大な黒板に株価がチョークで書き換えられていく。

 

 映画や写真で見たことはある。だが実際に立ってみると、音の暴力だ。数百人の怒号、電話のベル、ティッカーのカタカタ音、紙が破れる音。全てが同時に耳に押し寄せてくる。汗とインクとタバコの匂いが混ざり合い、空気そのものが熱い。

 

(これが1920年代の金融の心臓だ。あと4年で、この叫びは悲鳴に変わる)

 

 モーがレオの肩を叩いた。

 

「どうだ」

 

「凄まじいな」

 

「あのポストの周りにいるのがスペシャリスト。特定の銘柄の売買を仲介する男たちだ。ブローカーが注文を伝えに行って、買いと売りが合致すれば取引成立。あの騒音が、金の流れる音だ」

 

「あそこは何の銘柄だ」

 

「一番大きいのがUS Steel。その隣がAT&T。向こうの角がGeneral Motors」

 

「RCAは?」

 

「あっちだ。最近やたら人気がある。ラジオのおかげだな」

 

 RCAのポスト周辺は確かに人だかりが濃かった。ラジオの普及率は急上昇を続けている。この株は最終的に505ドルまで上がってから2ドル50セントに落ちる。

 

 今は触らない。

 

 

 

 

 12月。口座を開設し、最初の投資を始めた。

 

 モーが三つの銘柄を推奨した。

 

「AT&T。電話の独占企業だ。配当利回り5パーセント前後。株価はゆっくり上がる。退屈だが堅い。General Electric。電気は将来性がある。配当も出る。General Motors。自動車産業は成長期だ。フォードのモデルTが支配してるが、GMはセグメント戦略で追い上げている」

 

「三つに均等に入れてくれ。各$5,000ずつ」

 

 モーが目を細めた。

 

「$32,000あるのに$15,000しか入れないのか」

 

「残りは銀行に置いておく。マージンも使わない」

 

「堅い奴だな。今の相場なら全額突っ込んでマージンで倍にする客ばかりだ」

 

「確実でないものに全財産を賭けるのは、投資じゃなくて賭博だ」

 

 モーが笑った。初めて見る笑顔だった。

 

「親父と同じことを言う」

 

「いいだろう。AT&T、GE、GM。各5,000ドルずつ。合計15,000ドル」

 

 取引が成立した。

 

 AT&T 33株(@$149。$4,917)

 GE  125株(@$40。$5,000)

 GM  35株(@$143。$5,005)

 合計 $14,922

 

 薄い紙に銘柄名と株数と価格がタイプライターで打たれた取引確認書を受け取った。

 

「これでお前は株主だ。配当は四半期ごとに現金で入る。再投資するか引き出すかは、お前が決めろ」

 

「全額再投資する」

 

「全額? 珍しい奴だな」

 

 1920年代の個人投資家は配当を消費に回すのが普通だ。再投資して複利を効かせる発想は、まだ一般的ではない。

 

(ここまでは計画通りだ。電話、電気、自動車——1920年代のアメリカを牽引した産業の代表企業だ。市場全体が1929年のピークまで上がり続ける。2年半後に全部売る。それだけのことだ)

 

 そう思っていた。

 

 

 

 

 1926年1月。

 

 年が明けて2週間で、GMが下がり始めた。

 

 $143で買ったGMが、1月末には$132まで下がった。さらに2月に入ると$125を割り込んだ。

 

 モーの事務所で確認書を見た。

 

 GM 35株 @$124(簿価$143、-13.3%)

 含み損 -$665

 

 レオは数字を見つめた。

 

(なぜだ。自動車産業は1920年代を通じて成長するはずだ。その中核企業が下がるのか)

 

 答えはすぐに分かった。1926年初頭、GMの経営陣が組織再編を発表していた。アルフレッド・スローンの事業部制が軋みを見せ、ディーラー網の再構築コストが嵩む見通しが報じられていた。マクロでは成長するが、短期的にはニュースに振り回される。

 

(知っていたはずだ——いや、知らなかった。俺が知っているのは「1920年代のアメリカでは自動車産業が急成長した」という産業史の大枠だけだ。その代表企業が1926年1月に13パーセント下がるかどうかなんて、そんな解像度の知識は持っていない)

 

 モーが淡々と言った。

 

「GMの短期的な下げだ。ファンダメンタルズに問題はない。ただ、マージンを使ってないから強制売却はない。気長に待て」

 

「待つ」

 

「正しい判断だ。こういう時に売る奴が、後で後悔する」

 

 モーの言葉は正しかった。だがレオの胸の中にあったのは安堵ではなかった。

 

(俺は、未来を知っている。どの産業が伸びるか、市場がいつ崩壊するか——大きな流れは知っている。だが個別企業が来月いくらになるかは知らない。俺が持っているのは産業史の大枠であって、株価表ではない)

 

 含み損の665ドルは、金額としては致命的ではない。だが「知っている」と「儲かる」の間にある距離を、初めて肌で感じた。

 

 AT&Tは横ばい。GEは微増。GMが足を引っ張って、ポートフォリオ全体では含み損。

 

(計画では、この時期に資産を50,000ドルまで伸ばす予定だった。全然足りていない)

 

 

 

 

 2月。事務所にサルが来た。

 

 入ってくるなり、いつもの軽い調子がなかった。椅子に座って、帽子を脱いで、膝の上で回した。

 

「レオ。ちょっと——嫌な話がある」

 

「何だ」

 

「従兄弟のトニーから聞いた話だ。マッシモ・ヴェルディが——お前の名前を出したらしい」

 

 レオは手を止めた。

 

 マッシモ・ヴェルディ。イタリア系マフィアの中堅幹部。禁酒法の下で密造酒の流通を仕切っている男だ。スピークイージーの時代からレオは名前だけ知っていた。

 

「どういう文脈だ」

 

「詳しくは分からない。ただ、トニーが言うには『モレッティの音楽屋が羽振りがいい』という話が出たらしい。マッシモの周辺で」

 

「それだけか」

 

「今のところは。直接的なことは何もない。ただ——」

 

 サルが帽子を被り直した。

 

「あいつらが名前を出すってことは、見てるってことだ。今すぐどうこうってわけじゃない。でも、知っておいた方がいいと思って」

 

「ありがとう、サル」

 

「気をつけろよ。あいつらは——俺の従兄弟がいるから言うんだが——組織に入ったら抜けられない。トニーも後悔してる。金は入るが、自由がない。お前は自由でやってる。そこが目をつけられる理由だ」

 

 サルが帰った後、レオは窓の外を見た。

 

(マッシモ・ヴェルディ。まだ直接的な接触はない。だが「見ている」というのは、最初の一歩だ。スピークイージーで演奏していた頃から、イタリア系のビジネスがある程度の規模になれば組織が寄ってくることは分かっていた。問題は、いつ・どういう形で来るかだ)

 

 今すぐの対処は要らない。だが忘れてもいけない。

 

(イタリア系のビジネスマンが急に金を持ち始めれば、最初に目をつけるのは組織だ。株で派手に稼いで目立つわけにはいかない。堅く、静かに増やす。それも今の俺の制約の一つだ)

 

 

 

 

 春が来て、GMがようやく戻り始めた。

 

 3月末に$130を回復。4月に$135。5月には$140を超えた。買値の$143にはまだ届かないが、含み損は大幅に縮小した。

 

 AT&TとGEは着実に上がっている。

 

 AT&T @$153(+2.7%)

 GE  @$44(+10.0%)

 GM  @$140(-2.1%)

 

 ポートフォリオ全体では、ようやくプラスに転じた。含み益$350。年初の含み損665ドルから1,000ドル以上の改善だ。

 

 毎月の音楽事業からの余剰資金——$600前後——を株式口座に入れ続けた。配当も全額再投資した。

 

(じわじわと増えている。だが当初の計画からは大幅に遅れている。50,000ドルには程遠い)

 

 焦るな、と自分に言い聞かせた。大恐慌までまだ3年ある。

 

 

 

 

 6月。

 

 ミッドタウンのレストランで、音楽業界と金融業界が交差する食事会があった。コロムビアのレヴィンの紹介で出席した。

 

 20人ほどの集まり。レコード会社の幹部、出版社の経営者、ラジオ局の関係者。投資家も数人混じっていた。

 

 話題の中心はフロリダだった。

 

「マイアミの海岸沿い、去年の3倍だぞ」「手付金だけで回転売買できるんだ。全額払う前に次の買い手がつく」「コーラル・ゲーブルズの分譲地が——」

 

(バブルの典型だ。全員が「まだ上がる」と信じている。全員が「自分だけは天井で売り抜けられる」と思っている。株なら空売りで崩壊の側に賭けられるが、不動産にはその仕組みがない。崩壊を知っていても、避けること以外にやれることはない)

 

「モレッティじゃないか」

 

 ウィリアム・パーカー三世が、シャンパングラスを片手に近づいてきた。相変わらず仕立ての良いタキシード。顔には初めて会った時より自信が増していた。傲慢と呼ぶべきかもしれない。

 

「パーカーさん。お久しぶりです」

 

「まだ曲を書いてるのか」

 

「書いてます」

 

「そうか。まあ、イタリア人には向いてる仕事だ。——ところで投資はやってるのか」

 

「少しだけ。AT&TとGE、GMを」

 

 パーカーが鼻で笑った。

 

「AT&T。電話会社か。退屈な選択だな。配当を貰って満足か」

 

「安全が好きなんです」

 

「安全は臆病者の言い訳だよ、モレッティ」パーカーが声を落とした。目が光っていた。「俺はRCAに入れている。ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカだ。今$40前後だが、$100は超える。いや、$200かもしれない。全てのアメリカの家庭にラジオが置かれる日が来る。RCAはその波の先頭にいる」

 

「いくら入れてるんですか」

 

「手持ちの大半だ。マージンも使っている。10倍のレバレッジだ」

 

 レオは一瞬、返す言葉を失った。

 

(10倍。つまり自己資金の10倍のポジションを持っている。株が10パーセント下がれば全額が消える。RCAの最終的な天井は$505。そこから$2.50まで落ちる。99.5パーセントの下落。10倍のレバレッジをかけてそこに乗っている人間の末路は——)

 

「素晴らしい読みですね」

 

「当然だ。市場は優秀な人間に報いる。フロリダの土地にも入れてみろ、倍になるぞ」

 

「フロリダは遠慮します」

 

「なぜだ。全員が儲けてるのに」

 

「全員が儲けてる時は、そろそろ終わりが近いと思う性分なので」

 

 パーカーが首を傾げた。すぐに笑った。

 

「慎重すぎるよ、モレッティ。まあいい。イタリア人は土地より歌の方が合ってるだろう」

 

 パーカーが去った。

 

 レオはシャンパンを一口飲んだ。安物の炭酸が舌を刺す。

 

(パーカーはRCAにレバレッジで集中投資。フロリダの不動産にも手を出している。どちらも5年以内に紙くずになる。だがイェールを出た名門の子息が、イタリア系移民の作曲家に教わることは何もないと、本気でそう思っている)

 

 その傲慢が、この男を殺す。経済的に。

 

 

 

 

 夏が過ぎた。

 

 レオのポートフォリオは回復基調にあったが、派手な上昇ではなかった。株式市場全体はゆっくりと上がっている。本当の急騰は1927年後半からだ。FRBが金利を引き下げ、そこから狂乱が始まる。

 

 フロリダの不動産の話は、夏を通じてますます過熱していた。新聞には毎日のように「マイアミの奇跡」が載り、北部の労働者や退職者がフロリダに金を送り続けている。

 

 モーの事務所で、8月の月次報告を受けた。

 

「お前の顧客で、フロリダに手を出してる人間はどのくらいいる」

 

「三割だ」モーが眉をひそめた。「俺はフロリダを勧めてない。土地にはティッカーテープがない。株なら1分ごとに値段が分かるが、土地の値段は売り手の言い値だ。数字に裏付けがない。親父の教えに反する」

 

「だが、三割は自分で入れたと」

 

「止められなかった。全員が儲けてるんだ。隣の床屋が儲けてる。教会の牧師が儲けてる。もう誰も俺の話なんか聞かない」

 

 モーが溜め息をついた。レオの口から、つい言葉が漏れた。

 

「靴磨きの少年が土地を買い始めたら、天井は近い」

 

 言ってから、少し後悔した。この比喩はまだ誰も使っていないはずだ。

 

 モーが目を細めた。

 

「靴磨きの少年、か。面白い言い方だ」

 

「——ただの例え話だ」

 

「いや、的を射てる。覚えておくよ」

 

 

 

 

 9月18日。

 

 その日のニュースはフロリダから来た。

 

 「グレート・マイアミ・ハリケーン。死者400人以上。マイアミ市街に壊滅的被害」

 

 新聞の見出しを見たとき、レオは何も感じなかった。

 

 予定通りだ。1926年9月。知っていた。

 

(知っていた。だが——)

 

 モーの事務所に行った。

 

 モーは電話に出ていた。表情が険しい。三本目の電話を終えて受話器を置いた。

 

「フロリダの客が三人、やられた」

 

「破産か」

 

「二人は破産だ。もう一人は——まだ分からない」

 

 モーが椅子にもたれた。両手で顔を覆った。モーの指の間から、赤い目が見えた。

 

「ハリケーンは引き金だ。本当の原因はレバレッジだ。全員が手付金だけで土地を買ってた。本体価格の10パーセントの手付金で。だから土地の価値が10パーセント下がった瞬間に全額がなくなる。しかも建物は壊れた。保険は大半がフロリダの暴風雨をカバーしてない。紙くずだ」

 

「……」

 

「俺はフロリダを勧めなかった。勧めなかったのに、三人は自分で入れた。だがお前は——迷いもしなかったな、モレッティ」

 

「ああ」

 

「三割の客が俺の忠告を無視して金を突っ込んだ。お前だけだよ、最初から見向きもしなかったのは。なぜだ」

 

「誰もが参入している市場は、新しい買い手がいなくなった時に崩壊する。モーの教えと同じだ——数字の裏付けがないものには手を出さない」

 

 モーが頷いた。だがその目は別のことを考えていた。三人の顧客。三人の人生。

 

 レオはモーの顔を見て、何も言えなかった。

 

(フロリダの崩壊は、予行演習だ。3年後、株式市場で同じことが起きる。レバレッジで膨らんだ資産が、一つのショックで連鎖的に崩壊する。だが今の俺にとって重要なのは——この男の目だ。数字を扱う人間が、数字の向こうにいる人間の痛みを感じている。この男が3年後、同じ痛みを自分自身のものとして経験する)

 

 

 

 

 10月。

 

 フロリダのバブルが崩壊していく中、ニューヨークの株式市場は冷静だった。

 

 DJIAは157。年初とほぼ同じ水準。フロリダの暴落が波及するのを恐れた投資家もいたが、株式と不動産は別の市場だとみなされた。むしろフロリダから逃げた金が株式市場に流れ込み始めていた。

 

(「不動産はダメだったが、株は大丈夫だ」。そう信じる人間が増えている。この金が、1927年以降の株式バブルの燃料になる)

 

 モーの事務所で、フロリダの後始末の話を聞いた。

 

「三人の客のうち、一人は自宅を売却して負債を返した。もう一人は——行方が分からなくなった。夜逃げだろう」

 

「三人目は」

 

「三人目が一番ひどい。ハロルドという男だ。51歳。工場の現場監督を30年やって、退職金の$28,000を全額フロリダに入れた。それがゼロになった」

 

「$28,000。退職金の全額か」

 

「昨日、ハロルドが事務所に来た」

 

 モーが立ち上がって、窓の方に歩いた。外を向いたまま話した。

 

「51歳の男が、俺の机の前で泣いた。妻に何て言えばいいか分からない、と。30年働いて、毎朝5時に起きて、昼飯を15分で食べて——その全部が、マイアミの沼地の権利証と引き換えに消えた。30年分だ」

 

 沈黙が長かった。壁の時計の秒針が動く音だけが聞こえていた。

 

「モー。フロリダで起きたことは、株式市場でも起き得ると思わないか」

 

 モーが振り返った。

 

「フロリダと株は違う。土地にはハリケーンがあるが、株式は会社の利益に裏打ちされている。GEが電球を作り、AT&Tが電話線を引き、GMが車を売る。実体のあるビジネスだ」

 

「だがレバレッジの構造は同じだ。マージン取引で10倍のポジションを取る人間が増えている。土地の手付金10パーセントと、株のマージン10パーセント。構造は同じだろう」

 

「……」

 

 モーが数秒黙った。

 

「お前は面白い奴だな、モレッティ。金を稼ぎに来たのか、警告しに来たのか」

 

「稼ぎに来た。だが出口を見ないで入る気はない」

 

 モーが窓辺から戻って椅子に座った。机の引き出しから父の懐中時計を取り出して、手の中で転がした。

 

「お前の言うことは分かる。理屈としては。だが、今の株式市場は健全だ。企業業績は好調で、失業率は低い」

 

「……そうだな」

 

(ファンダメンタルズが良い時にこそ、過信が生まれる。景気が良いからレバレッジを積んでも安全だと全員が思い込む。その確信そのものがバブルの燃料だ。だがそれをモーに言ったところで何になる。この男は数字を信じている。数字が良い限り、耳を貸さない)

 

(ハロルドの話が頭に残っている。51歳の男が泣いた。30年分の労働が消えた。数字としては知っていた——1926年のフロリダ不動産バブル崩壊、数千人の個人投資家が破産。だが「数千人」のうちの一人に名前があり、顔があり、涙があることを、俺は今日初めて知った。暴落は数字じゃない。暴落は人を壊す。1929年の大暴落はこの何百倍の規模で起きる。あの日、何人のハロルドが生まれるのか。俺が知っている歴史は——そういう物語だ)

 

 

 

 

 11月。

 

 音楽事業は安定して回り続けていた。

 

 コロムビアとの契約が安定し、モレッティ&ジョンソンのレコードは全米で売れ続けている。サルが営業を回し、ルーが版権管理と経理を仕切り、クリフが新曲を共作する。レオが全てを指示しなくても、組織が動くようになっていた。

 

 月間収入は$1,200を超えていた。支出は$600前後。月$600の余剰資金が株式口座に流れ込む。

 

 事務所に戻ると、ルーがまだ机に向かっていた。もう8時を過ぎている。

 

「ルー。まだいたのか」

 

「コロムビアの四半期報告をまとめてたの。明日までに」

 

 机の上にはコーヒーのカップが二つ。一つはルーの、もう一つはレオの定位置の前に、書類に被らないように端に寄せて置いてある。冷めているだろう。

 

「先に帰れ。暗くなった」

 

「あと少し。大丈夫よ」

 

 レオは自分の席に座り、冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦い。ルーが淹れるコーヒーは、いつも少し濃い。

 

 卓上の四半期報告の束をちらりと見た。版権の分配、録音のロイヤルティ、ラジオ局からの供給料、支出の内訳。ルーが一人で回している。経理、財務、契約管理。前世の会社なら、これだけを束ねる人間に役職名があった。

 

「ルー。お前、うちのCFOだな」

 

「シー……エフオー?」

 

 ルーが眼鏡の奥から顔を上げた。

 

「Chief Financial Officer。財務の責任者」

 

「聞いたことない言葉ね」

 

(前世の言葉だ。この時代にそんな役職はない。だがルーの仕事を一言で表すなら、これしかない)

 

「どこかで読んだんだ。似合うと思ってな」

 

「財務責任者」ルーが少しだけ口元を緩めた。「悪くない響きね」

 

 株式ポートフォリオは、GMの回復によってようやくプラス圏を維持していた。

 

 AT&T 33株 @$155(簿価$149、+4.0%)

 GE  129株 @$44(簿価$40、+10.0%)——配当再投資分を含む

 GM  45株 @$148(簿価$143、+3.5%)——追加購入分を含む

 

 ポートフォリオ時価 $17,735

 音楽事業からの追加投資累計 $5,400(月$600×9ヶ月)

 配当再投資累計 $530

 含み益 $1,883

 

 だが含み損の時期があったせいで、当初の計画からは大きく遅れている。追加投資を含めても、総投資額に対するリターンは控えめだった。

 

 

 

 

 12月末。

 

 年末の帳簿を締めた。

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1926年12月末

 

 【資産】

  チェース銀行預金  $9,500

  株式ポートフォリオ $17,735(時価)

  音楽事業(版権35曲、設備、在庫)

  月間余剰キャッシュフロー $600/月

 

 【負債】

  なし

 

 【純金融資産】

  $27,235

 

 【音楽事業の推定価値を含む総資産】

  約$40,000

 ――――――――――――――――――――――

 

 $40,000。年初の計画では$50,000に達しているはずだった。

 

(GMの含み損で2ヶ月分のリターンが飛んだ。フロリダには手を出さなかったから致命傷は避けたが、攻めの投資もできなかった。未来を知っていても、金は簡単には増えない)

 

 帳簿を閉じて、窓の外を見た。

 

 雪が降り始めていた。

 

 $50,000には届かなかった。だが生きている。資金も残っている。フロリダの崩壊を冷視できた。GMの含み損から回復できた。マッシモの影はまだ遠い。

 

 大晦日の夜、モーの事務所に顔を出した。閉まっている時間だったが、明かりがついていた。

 

 モーがウイスキーのグラスを手に窓辺に立っていた。禁酒法下だが、ブローカーの事務所でウイスキーを飲むことに罪悪感を覚える人間は、1926年のニューヨークにはいない。

 

「年末の帳簿を持ってきた」

 

「見せろ」

 

 数字を追ったモーが言った。

 

「$40,000か。堅実だ」

 

「計画より遅れてる」

 

「計画?」

 

「もう少し早く増やすつもりだった」

 

 モーが窓の外を見た。雪片がウォール街の街灯にオレンジ色に照らされている。

 

「$50,000を目標にしていたなら、初年度で$40,000は悪くない。焦る奴が一番危ない。ハロルドもそうだった——退職金を一発で倍にしようとして、全部失った」

 

 レオは黙った。

 

「来年は良い年になるだろう」モーが言った。「企業業績は好調だ。クーリッジの減税が効いている。FRBも——金利を下げる方向に動いている」

 

「そうだな」

 

(1927年。DJIAは200を超える。リンドバーグが大西洋を横断し、国民の楽観主義が頂点に達する。全員が踊り始める。音楽が鳴っている限り)

 

(フロリダのことを忘れるな——そう言いたかった。だが言ってどうなる。ハロルドの涙を見たこの男が、それでも「株は土地とは違う」と言ったのだ。人間は自分が聞きたい言葉しか聞かない。預言者を気取るのは、助ける気がないのに善人ぶるのと同じだ)

 

「モー。来年もよろしく頼む」

 

「ああ。良い年にしよう」

 

 モーがウイスキーを差し出した。レオは受け取った。琥珀色の液体が、ガラスの中で揺れている。

 

「新年に」

 

「新年に」

 

 グラスが触れ合って、カチンと軽い音が鳴った。

 

 窓の外で、ウォール街に雪が積もっていく。4年後、この静かな通りが叫びと涙に変わることを、レオだけが知っている。

 

 1926年が終わる。

 

 コーヒーのカップを置いた。ウイスキーの余韻が喉に残っている。

 

($50,000には届かなかった。GMの含み損で、「知っている」と「儲かる」の距離を知った。フロリダの崩壊で、暴落が人を壊すことを知った。パーカーのレバレッジを見て、傲慢が人を殺すことを知った。マッシモの影が忍び寄っていることも知った。計画通りにはいっていない。だが——失敗の仕方を知っているだけでも、この世界では武器になる)

 

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