五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

8 / 20
いつも応援ありがとうございます。 皆様からいただくご評価やお気に入り登録の一つ一つが、この物語を完結までお届けしていく励みとなっております。


【第8話】ウォール街の入り口

 パイン・ストリートの銀行の窓口は、大理石のカウンターの奥にあった。

 

 ドーソンという小柄な行員が、レオの通帳を横に置いて、革張りの元帳をめくった。指先の湿り気で紙が薄く鳴った。金縁の眼鏡の下の目は、金額を数える時に、二度、瞬きの間隔が変わった。

 

「モレッティさん。当行のお預けは現在、三万二千四百ドルです」

 

「ありがとう。それと、投資の相談がしたい」

 

 ドーソンの眉が、事務的な高さから、一段だけ上がった。

 

「不動産で、いらっしゃいますか」

 

「株式です。信頼できるブローカーを紹介してほしい。大手でなくていい。個人で動いている、腕の良い人間を。できれば移民の事情が分かる人間がいい」

 

 ドーソンは三秒ほど考えた。天井の格子から下がる真鍮のシャンデリアが、その三秒の間、動かない光を落としていた。

 

「モーリス・シェイファーという男がいます。ドイツ系ユダヤ人で、以前は大手の一室に机を持っていた。数年前に独立して、ブロード・ストリートに個人の看板を出しています。堅実な運用で評判は悪くない。当行のお客様も何人か紹介させてもらっています。ただ」

 

「ただ」

 

「新規のお客様には、必ず面接をなさいます。……気に入らないと、断る」

 

「それでいい」

 

 ドーソンが引き出しから小さな厚紙のカードを取り出して、万年筆で紹介の名を書きつけた。ペン先が紙にひっかかる乾いた音がした。

 

(客を選ぶブローカー。……信用の値段を、金の値段より上に置いている男だ)

 

 カードを受け取ると、インクの匂いが指先に残った。銀行を出た。天井から差していた光が、正面の重い硝子扉を押し開けたとたん、通りの高い冷気に切り替わった。ウォール街の風は、片側の建物の壁に沿って川のように走る癖がある。この身体は、その癖を、去年の秋、二度この通りを歩いた時に覚えていた。

 

 

 

 

 ブロード・ストリート。ウォール街から一本入った通りに、その事務所はあった。

 

 二階建ての煉瓦造り。街路樹の煤けた枝が窓の縁に触れそうな高さで、二階の窓の内側に、赤茶色のカーテンが半分だけ引かれていた。狭い階段の中ほどの手すりが、ずっと前に一度、途中で継ぎ足されていた。継ぎ目に、握った掌の脂が黒く染みている。

 

 二階の突き当たりの扉に、真鍮の板が斜めに一枚。「M・シェイファー証券」。真鍮の下の四隅の釘のうち、右上の一本だけ、頭の色が違った。あとで打ち直した釘の色だった。

 

 ノックした。

 

「開いている」

 

 扉を押した。

 

 中は思ったより明るかった。西向きの窓から、午後の光が斜めに差している。光の帯の中で、葉巻の煙が上昇の途中で一度ためらい、また上がっていた。壁は東側にファイルキャビネットが四つ、床から天井まで。キャビネットの上に古い辞書が横倒しに積まれている。反対側の壁の下半分に黒板が一枚。上の余白にチョークの粉が薄く積もり、下半分には、細かい銘柄名と数字が、右上がりの筆致でびっしり書かれていた。

 

 机は窓を背にしていて、机の向こう側の男は、光を背負って座っていた。

 

 まず、輪郭で分かった。ずんぐりした肩。丸い顔。頭は白髪交じりで短く刈り込まれていて、耳の脇に少しだけ癖のある巻毛が残っている。四十代半ばか、少し上か。灰色のベストの胸ポケットから、細い鎖が一筋、机の縁に落ちている。鎖の先はポケットの奥にしまわれていた。

 

 その鎖の見え方で、この男の年齢を、レオはもう一度上に見積もった。

 

「モレッティか。ドーソンから聞いてる。座れ」

 

「はい」

 

 座った。椅子の座面の革は、冷たかった。冷たさに、指先が二拍だけ驚いた。

 

「音楽の出版社をやっているそうだな」

 

「はい。モレッティ・ミュージック・パブリッシング。四年目です」

 

「四年で三万二千ドル。銀行に寝かせている」

 

「寝かせています」

 

「なぜ、今まで手を出さなかった」

 

 問い方が、詰問ではなかった。ただ、事実の欠けている部分を数字で埋めたい人間の問い方だった。

 

「音楽事業の基盤を先に固めたかった。……月々の入りと出が、ようやく落ち着いた。余った金に、働いてもらいたい」

 

 言い終えてから、レオは自分の口の中を確かめた。「キャッシュフロー」の音節を、一度、飲み込んだあとだった。

 

(この時代の作曲家の口から、その語は出ない)

 

 モーが、眼鏡を外した。レンズをベストの裾で拭った。拭き方に、癖はなかった。癖がないのが、この男の癖だった。

 

「いいだろう。俺は嘘はつかない。だが、全部は教えない。株が上がるか下がるかは、俺にも分からん。分かると言う人間がいたら、そいつは詐欺師だ。俺にできるのは、市場の数字を読み、あんたが判断するための材料を並べることだ。判断はあんたが下す。損した時に泣くのも、あんただ。それでいいか」

 

「いい」

 

「なら、飯にしよう。近くにいい店がある」

 

 モーは眼鏡をかけ直して、机の下のフックからコートを取った。動作の順番に、無駄がなかった。

 

 

 

 

 ブロード・ストリートを半ブロック歩いた先の、地下に一段下がったデリだった。硝子扉の内側に「1885年より」と金の文字で刷ってある。押すと、燻製肉と酢漬けの匂いが、乾いた寒さを押し返した。

 

 カウンターの向こうの主人が、モーを見て顎で一つ頷いた。名前を呼ばなかった。ここが四十年通いの店だと、その顎の動きが伝えていた。

 

「二つ、いつもの」

 

「はい」

 

 厚いライ麦のパンに、燻製の牛肉が山のように積まれた皿が二つ、木の盆で運ばれてきた。マスタードの黄色が、ライ麦の褐色の上で、一段だけ暖かかった。

 

「うまい」

 

「四十年やっている。親父の代から通っていた」

 

 モーがパストラミを一口食べた。噛みながら、ベストの胸ポケットに指を差し込んで、細い鎖の先を引き上げた。

 

 金色だが、光沢はくすんでいた。蓋の彫刻は、指の脂と歳月で角が丸くなり、模様が読めなかった。鎖は銀で、途中に一度、輪の入れ替えた継ぎ目があった。

 

 モーは、パンに落ちたパン屑を、時計の下に落ちないように、盆の端に指で払ってから、蓋を開けた。

 

「親父がこの国に来た時、1880年だ、持っていたのはこの時計と、ポケットの中の3マルクだけだった」

 

 その台詞の、頭の温度と、指の動きの温度が、揃っていた。

 

「十四歳。英語は一言も話せない。ハンブルクからの船で三週間吐き続けて、エリス島に着いた時には体重が三十ポンド減っていた」

 

 蓋の内側の文字盤は黄ばんでいた。数字の3の縁が薄く欠けている。針だけが、正確に動いていた。二度、秒針の刻みを、レオの耳が拾った。

 

「時計職人だった。親父はいつも言ってた。『モー、市場は嘘をつかない。人間は嘘をつく。政治家も、銀行家も、新聞記者も。だが数字は嘘をつかない。数字だけを信じろ』」

 

 モーが蓋を閉じた。カチリと、鎖の輪より少し重い音がした。

 

「船から降りた時の唯一の財産だ。これだけは、絶対に手放さない」

 

 時計をベストの胸ポケットに戻す手つきが、遅かった。父の遺品に触れる時の、あの、時間を薄く引き伸ばす手つきだった。レオはその一秒だけ、目を伏せた。マスタードの黄色が、皿の縁で色を強めていた。

 

(この時計は、いずれ、この男の指を離れる。四年か、五年か。前後の年は、覚えていない。……ただ、この時計がこの胸ポケットからなくなる日が——この男の三十年の職業の底が抜ける日だ)

 

 背中でカウンターの主人が、氷を刻む音を続けている。氷の砕ける乾いた音の底に、レオの内側だけが、湿っていた。

 

「モー。俺が何を信じているか、聞かないのか」

 

「聞かない。聞いても分からん」

 

「なぜだ」

 

「信じているものは、金を失った時に、初めて分かる」

 

 パストラミが、口の中で、少しだけ味を変えた。

 

 

 

 

 翌週。モーがNYSEの中を見せてくれた。

 

 ウォール街十一番地。列柱の下を抜けて、扉の内側に一歩入った瞬間、耳が、空気の温度差を先に届けた。冷気ではない。人の熱と、金属の摩擦と、紙の擦れとが、一つの塊になって、頬に当たっていた。

 

 天井は高い。大理石の柱の合間から、天窓の光が、埃の柱を作っていた。フロアには、木の円形のブースが、頭数を減らした森のように立っている。ブースの周りで、男たちが、両手を頭より上に上げて、何かを叫んでいた。

 

 音が、耳を割った。

 

 電話のベルが、細かい鋸の目のように、絶えず鳴っている。ティッカーテープの機械が、その隙間を、二十四分音符で埋めていく。壁の巨大な黒板を、白いエプロンの少年たちが梯子で登り降りしながら、数字をチョークで書き換えている。書き換えた古い数字は、黒板消しではなく、湿った布で拭かれていた。乾く前に、次の数字が上書きされていく。

 

 汗と、インクと、葉巻の煙。空気そのものが温かい。冬の外気を、扉一枚で、四月の午後に変える建物だった。

 

(写真で見た。映画でも見た。だが、耳では聞いたことがなかった)

 

 モーがレオの肩を叩いた。手のひらの厚みが、一定だった。

 

「どうだ」

 

「音が、思っていたのと違う」

 

「音か」

 

「叫び声が、思っていたより低い」

 

 モーが少しだけ笑った。

 

「そうだな。高いのは、電話のベルの方だ。あれが上と下を刻む。人の声は、その間に落ちる」

 

「あのブースの周りにいるのが、スペシャリストか」

 

「そうだ。銘柄ごとに、決まった男が張り付いている。買いと売りが合えば、そこで取引が成立する。あの怒鳴り合いが、金の流れる音だ」

 

「一番大きいのは」

 

「USスチール。隣がAT&T。向こうの角がジェネラル・モーターズ」

 

「RCAは」

 

「あっちだ」

 

 モーが顎で示した先のブースには、他より人だかりが濃かった。梯子の少年が、そのブースの上の数字を、他の銘柄より頻繁に書き換えている。書き換える手が、既に、次の数字を握ったまま次の梯子段に足をかけていた。

 

「最近、やたら人気だ。ラジオのおかげだな」

 

(RCA。……あと三年で、五百の台まで登って、二の台まで落ちる。落ちる幅は——いま、指では、数えられない)

 

 レオは、書き換わっていく数字の桁だけを目で追った。今は触らない。手の中の温度が、それを決めた。

 

 

 

 

 十二月。口座を開設した。

 

 モーが三つの銘柄を紙に書き出した。鉛筆で、大文字だった。

 

「AT&T。電話の独占。配当は五分。上がり方は遅いが、堅い。ジェネラル・エレクトリック。電気は、これから伸びる。配当も出る。ジェネラル・モーターズ。自動車はまだ成長期だ。フォードのT型が押さえているが、GMは車種の並べ方で追い上げている」

 

「三つに均等に。各五千ドル」

 

 モーが目を細めた。

 

「三万二千あって、一万五千しか入れないのか」

 

「残りは銀行に置く。マージンも使わない」

 

「堅いな。今の相場なら、全額を突っ込んで、マージンで倍にする客ばかりだぞ」

 

「確実でないものに、全財産を賭けるのは、投資じゃない。賭博だ」

 

 モーの口の左の端が、一度だけ動いた。眼鏡の下の目に、他の客と話す時とは違う光の落とし方が、一秒だけあった。

 

「親父と、同じことを言う」

 

 注文票が机の上を滑ってきた。

 

 AT&T 三十三株(@$149。$4,917)

 GE  百二十五株(@$40。$5,000)

 GM  三十五株(@$143。$5,005)

 合計 $14,922

 

 薄い紙の下の欄に、レオは英字で自分の名を書いた。前世のペン先が持っていた癖が、ここではまだ動かなかった。この身体の指が、Lの下の縦棒を、少しだけ太く引いた。

 

「これでお前は株主だ。配当は四半期ごとに現金で振り込まれる。再投資するか、引き出すかは、お前が決める」

 

「全額、再投資する」

 

「全額か」

 

 モーが眼鏡の縁に指を当てた。

 

「珍しい客だな。この時代、配当は、家の暖房費と、子供の靴の代金だ」

 

 レオは頷いた。

 

(配当を消費に回すのが普通だ。再投資して複利を効かせる発想は、この時代の個人投資家の中ではまだ、常識になっていない。……なっていない、と言うより、家計の側にそれを許す余裕がない)

 

「今夜、家に帰ってから、この紙を、机の引き出しにしまう」

 

 言われた通りにした。

 

(電話、電気、自動車。二十年代を牽引した三つの産業の看板。市場は九月まで、平均で見れば上がり続ける。二年半後に、全部売る。ここまでは、覚えている)

 

 覚えている、と口の中で置いてみて、レオは一度、椅子の上で座り直した。覚えている、の隣に、覚えていない、が、じっと控えている。

 

 

 

 

 一九二六年一月。

 

 年が明けて二週間で、GMが下がり始めた。

 

 一四三ドルで買ったGMが、一月末に一三二ドルまで下がった。二月に入って一二五ドルを割った。モーの事務所で、確認書を受け取った。

 

 GM 三十五株 @$124(簿価$143、-13.3%)

 含み損 -$665

 

 紙の右下の角が、指の湿り気で、少し湿っていた。

 

(産業史の大枠は、覚えている。二十年代のアメリカで自動車産業は伸びる。その代表企業が、一月に一割三分下がるかどうかは、教科書の脚注にも、書かれていなかった。……俺が持っているのは、方角の紙だ。——距離の紙じゃない)

 

 モーが淡々と言った。

 

「短期の下げだ。ファンダメンタルズに、崩れは見えない。GMは、事業部制の軋みを、外に見せた。ディーラー網の組み直しに、費用がかかる。半年から一年で、戻る」

 

「待つ」

 

「正しい。今売る奴が、あとで後悔する。相場は、待つ時間の長さが値段だ」

 

 モーの口調は、教える口調ではなかった。ただ、この銘柄をこれから何ヶ月かどう見るか、を、隣の男に共有している口調だった。

 

 含み損の六百六十五ドルは、金額としては致命ではない。だが、レオの胃の底で、その数字は、他の金額と違う場所に沈んでいた。

 

(知っているのに、当てられない。マクロを覚えていることと、来月の株価を当てられることの間には、狭くない海がある)

 

 AT&Tは、横ばい。GEは、微増。GMが、下から引っ張っている。全体では、含み損。

 

(当初の見立てでは、この時期に五万ドルの台に乗せているはずだった。……足りていない)

 

 窓の外を、氷売りの馬車が通った。馬の吐く息が、事務所の窓の下で、白く長く伸びていた。

 

 

 

 

 二月の末。事務所にサルが来た。

 

 入ってくるなりの、いつもの左肩の上げ下げがなかった。帽子を脱いで、椅子に座って、その帽子を、膝の上で回した。二度回して、一度止めた。

 

「レオ。ちょっと、嫌な話がある」

 

「聞こう」

 

「トニーから聞いた話だ」

 

 サルの従兄弟の名前だった。ここ二年、ずっと避けて呼ばずに来た名だった。今日は、その名の下に、話が続いた。

 

「フランク・マッシモが、お前の名前を出したらしい」

 

 レオは、鉛筆の手を止めた。鉛筆の芯が、書きかけの数字の一のところで、点を落とした。

 

 フランク・マッシモ。三年前、アンジェロの店で、レオの弾く鍵盤の脇に葉巻の煙を落としていった男だった。「いい腕だ」と言い、「俺のために弾け」と言った。それきり、直接には接していない。だが、視界の隅からは、一度も消えていない男だった。

 

「どういう文脈で」

 

「詳しくは分からん。……ただ、トニーの言葉では、『モレッティの音楽屋が、羽振りがいい』という話が、マッシモの周りで、いま出ている」

 

「それだけか」

 

「いまはな。直接的なことは、何もない。ただ」

 

 サルが帽子を被り直して、鍔の縁を、二本の指で並べて整えた。

 

「あいつらが名前を出すってことは、見てるってことだ。今すぐどうこう、じゃない。だが、知っておいた方がいい」

 

「ありがとう、サル」

 

「気をつけろよ。俺の従兄弟がいるから言うんだが、あの一族の中に入ったら、抜けられない。トニーも、後悔してる。金は入る。だが、自由がない。お前は、自由で、やってる。そこが目に付く理由だ」

 

 サルが帰った後、レオは窓の外を、しばらく見た。

 

 通りの向かい側の煉瓦の壁に、日射しが四時方向から当たっていた。煉瓦の目地に張った霜が、下から順にだけ溶けていく。溶けた水が、下の目地にまた凍って、その目地の高さが、少しだけ盛り上がっていた。

 

(マッシモ。……羽振りがいい、の一言で、名前を上がらせるほど、この街の視野は狭い。株で派手に増えれば、この目地の高さが、俺の名前の高さに、いずれ届く)

 

 鉛筆の芯を、一度削り直した。芯の粉が、机の右下の角に落ちた。

 

(堅く、静かに増やす。派手に増やすと、目地の高さが、俺の名の上まで盛り上がる。……ラジオ一本、株一本、ハーレム一本の一本足打法は、素人のやり方だ。柱は、少なくとも三本。マッシモの手が届く距離に置かない柱を、混ぜて立てる)

 

 鉛筆の芯を、机に置いた。芯が、机の木目の一本の溝に、綺麗にはまった。

 

 

 

 

 春が来た。GMが、戻り始めた。

 

 三月末に一三〇。四月に一三五。五月に一四〇を、少しだけ越えた。買値の一四三までは届かない。だが、含み損の面積は、目に見えて減っていた。

 

 AT&Tと、GEは、着実に上がっている。

 

 AT&T @$153(+2.7%)

 GE  @$44(+10.0%)

 GM  @$140(-2.1%)

 

 ポートフォリオは、含み益三百五十ドル。年初の含み損六百六十五ドルから、一千ドルの改善。数字の上では、悪くない。

 

 毎月、音楽事業の余りから六百ドル前後を、株の口座に流し込んだ。配当も、全部、そこに戻した。

 

(じわじわと、増えている。だが、当初の見立てから、遠い)

 

 自分に、焦るなと言い聞かせた。大恐慌までは、まだ三年半ある。三年半のうち、二年は、市場は上がる。上がり続ける方向で、この身体の指を、鍵盤に置き続けろ。

 

 

 

 

 六月。

 

 ミッドタウンのレストランで、音楽の側と、金融の側とが同じ卓に着く食事会があった。コロムビアのレヴィンからの紹介で、レオは末席に呼ばれた。

 

 二十人ほど。レコード会社の幹部、出版社の経営者、ラジオ局の関係者。投資家の顔も、三、四人混じっていた。

 

 話題の中心は、フロリダだった。

 

「マイアミの海岸沿い、去年の三倍だぞ」

 

「手付だけで、回転売買ができる。全額払う前に、次の買い手がついている」

 

「コーラル・ゲーブルズの分譲地は、もう、届く値段じゃない」

 

 その声の連なりを、レオは、ワインの色を目で見ながら、耳の端で受けていた。

 

(バブルの型だ。全員が、まだ上がる、と信じている。全員が、自分だけは天井で売り抜ける、と思っている。……株なら、暴落の側に賭ける仕組みがある。土地には、その仕組みがない。知っていても、避けること以上のことは、やれない)

 

「モレッティじゃないか」

 

 声の主が、シャンパングラスを片手に、近づいてきた。仕立ての良いタキシード。襟の折り返しの角度が、去年より少し、上を向いていた。

 

「パーカーさん。お久しぶりです」

 

「まだ、曲を書いているのか」

 

「書いています」

 

「そうか。まあ、イタリア人には、向いた仕事だ」パーカーは、グラスを軽く傾けて、話題を替えた。「投資はやっているのか」

 

「少しだけ。AT&TとGE、GMを」

 

 パーカーが、鼻で笑った。笑いの角度に、去年、社交界の隅で出会った時よりも、二度分の傾きが加わっていた。

 

「AT&T。電話会社か。退屈な選択だな。配当を貰って、それで満足か」

 

「安全が、好きなんです」

 

「安全は、臆病者の言い訳だよ、モレッティ」

 

 パーカーが、少しだけ声を落とした。目の奥の光が、シャンパンの泡より速く動いていた。

 

「俺は、RCAに入れている。ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ。今、四十ドル前後だが、百は超える。いや、二百かもしれない。全部のアメリカの家庭にラジオが置かれる日が、来る。RCAは、その波の先頭にいる」

 

「いくら、入れているんですか」

 

「手持ちの、大半だ。マージンも使っている。十倍のレバレッジだ」

 

 レオは、一瞬、口の中で唾の位置を確かめた。

 

(十倍。……自己資金の、十倍のポジション。株が一割下げれば——全額が、消える)

 

 パーカーの葉巻の煙が、レオの左の頬に、細く一筋、届いた。煙は、レオの頬の少し先で、シャンデリアの光の中に散った。

 

(RCAの天井は、五百の台。そこから二の台まで落ちる。九割半の下落。十倍のレバレッジで、そこに乗った人間の末路は、破産のあとに、まだ、続きがある)

 

「素晴らしい読みですね」

 

「当然だ。市場は、優秀な人間に報いる。フロリダの土地にも入れてみろ、倍になるぞ」

 

「フロリダは、遠慮します」

 

「なぜだ。全員が、儲かっているのに」

 

「全員が儲かっている時は、そろそろ終わりが近い。……そういう性分なので」

 

 パーカーが、首を、右に一度だけ傾げた。傾げたまま、二秒だけ止まった。その二秒は、レオの一言を、内側で書き直そうとした二秒だった。書き直せなかったらしい。パーカーは、笑った。

 

「慎重すぎるよ、モレッティ。まあいい。イタリア人は、土地より、歌のほうが合っているだろう」

 

 パーカーが、去った。

 

 レオは、シャンパンの底の細い泡を、目で追った。舌に載せると、安物の炭酸が、内側から皮膚を刺した。

 

(RCAにレバレッジ。フロリダの不動産。……どちらも、五年以内に紙になる。イェールを出た名門の子息が、イタリア系移民の作曲家に、教わることは何もないと、本気で、思っている)

 

 その傲慢が、この男の値段を、暴落の日に決める。

 

 卓の反対側で、レコード会社の幹部が、フロリダの海岸沿いの写真を出して、隣の男に、絵葉書を裏返して渡していた。絵葉書の裏の余白に、鉛筆で、一区画の値段が書き足されていた。

 

 

 

 

 夏。

 

 新聞は、毎日、マイアミの奇跡を刷った。北部の労働者や、退職した男たちが、フロリダに為替を送り続けていた。フロリダの三分の一の家が、そこに住む人ではなく、そこに住むかもしれない人の名で、登記されていた。

 

 モーの事務所で、八月の月次を受けた。

 

「お前の客で、フロリダに入っている人間は、どれくらいだ」

 

 モーは、椅子の背もたれに深く体を預けて、天井の隅を見た。

 

「三割だ」

 

「モーは勧めているのか」

 

「勧めていない」眼鏡の縁の下で、モーの目が、少しだけ細くなった。「土地には、ティッカーテープがない。株なら、一分ごとに値段が分かる。土地の値段は、売り手の言い値だ。数字の裏付けが、ない。親父の教えに、反する」

 

「だが、三割は、自分で入れた」

 

「止められなかった。全員が儲かっている。隣の床屋が儲かっている。教会の牧師までが、儲かっている。誰も、俺の話を聞かない」

 

 モーが、机の引き出しから、あの懐中時計を取り出した。手のひらに載せて、蓋を、開けなかった。開けずに、手のひらの上で、二度、位置を直した。

 

 その二度の直し方に、モーの、この二か月の疲れが、乗っていた。レオの口から、勝手に、比喩が漏れた。

 

「靴磨きの少年が、土地を買い始めたら、天井は近い」

 

 言ってから、一拍だけ、後悔した。この比喩を、この年に、この街の誰かが口にしていたかどうか、俺は覚えていない。覚えていないうちに、俺の口から出た。

 

 モーが、時計を、手のひらの上でもう一度直した。

 

「靴磨きの少年、か」

 

「例え話です」

 

「いや」

 

 モーの目が、レオを一度、真ん中で捉えた。

 

「的を、射ている。……覚えておく」

 

 時計は、机の引き出しには、戻らなかった。ベストの胸ポケットに、戻された。

 

 

 

 

 九月十八日。

 

 その日のニュースは、フロリダから、電話で先に来た。新聞の見出しは、翌朝、遅れて追いついた。

 

 「グレート・マイアミ・ハリケーン。死者四百人以上。マイアミ市街に壊滅的被害」

 

 新聞の紙は、朝の空気を吸って、少し柔らかくなっていた。指の腹に、活字のインクの端が、うっすらと移った。

 

 モーの事務所に上がった。

 

 モーは、電話に出ていた。受話器を耳に押し当てたまま、もう一方の手を、額の下、眉の高さで、そのまま固まらせていた。三本目の電話を切って、受話器を置いた。置くまでの動作が、遅かった。

 

「フロリダの客が、三人、やられた」

 

「破産か」

 

「二人は、破産だ。もう一人は、まだ、分からない」

 

 モーが、両手で顔を覆った。指の間に、赤い目が、覗いていた。

 

「ハリケーンは、引き金だ。本当の原因は、レバレッジだ。全員、手付だけで、土地を買っていた。本体価格の、一割の手付で。だから、土地の価値が一割下がった瞬間に、全額が消えた。しかも、建物は壊れた。保険は、大半が、フロリダの暴風雨を、カバーしていない。紙だ。全部、紙だ」

 

「……」

 

「俺は、フロリダを勧めなかった。勧めなかったのに、三人は、自分で入れた。だが、お前は、迷わなかった。最初から、見向きもしなかった」

 

「ええ」

 

「なぜだ」

 

「誰もが入っている市場は、次の買い手がいなくなった時に、崩れます。……モーの、お父さんの教えと、同じです。数字の裏付けのないものには、手を出さない」

 

 モーが、頷いた。ただし、頷いた顎の底の光は、レオを見ていなかった。三人の顧客の、顔の並びを見ていた。

 

 レオは、それ以上、何も言わなかった。

 

(フロリダの崩壊は、三年後の予行演習だ。株式市場で、この構造が、桁を三つ増やしてもう一度起きる。……だが今の俺にとって、大事なのは、この男の目だ。数字だけを扱ってきた三十年の男が、数字の向こう側にいる人間の、床の色を、初めて見ている)

 

 モーの指の間の目が、二秒だけ、閉じた。閉じている間、事務所の隅の柱時計が、四つ、鳴った。

 

 

 

 

 十月。

 

 フロリダのバブルが崩れる中で、ニューヨークの株式市場は、静かだった。

 

 DJIAは、一五七。年初と、ほぼ同じ水準。フロリダの暴落が波及する、と恐れた投資家もいた。だが、株式と不動産は別の市場だ、と、卓を挟んだ声のほとんどが、そう合意した。むしろ、フロリダから逃げた金が、株式市場に、こっそりと流れ込み始めていた。

 

(「不動産はだめだったが、株は大丈夫だ」。この一行が、次の三年の、燃料になる)

 

 モーの事務所で、後始末の話を聞いた。

 

「三人の客のうち、一人は、自宅を売って、負債を返した。もう一人は、行方が分からない。夜逃げだろう」

 

「三人目は」

 

「三人目が、一番、ひどい」

 

 モーが、窓の方に立って、外を向いたまま話した。西向きの窓の下に、朝の光が、狭い長方形で落ちていた。

 

「ハロルドという男だ。五十一。工場の現場監督を、三十年やった。退職金の二万八千を、全額、フロリダに入れた。それが、ゼロになった」

 

「二万八千。……退職金の、全額」

 

「昨日、ここに来た」

 

 モーが、窓の縁の埃を、指で一度、なでた。埃が、指の腹に、細く一筋残った。

 

「五十一の男が、俺の机の前で、泣いた。妻に、何と言えばいいか分からない、と。三十年、毎朝五時に起きた。昼飯を、十五分で食べた。土曜も、半日、工場にいた。……三十年分が、マイアミの沼地の権利証と引き換えに、消えた」

 

 沈黙が、長かった。壁の柱時計の秒針だけが、動いていた。

 

「モー。……フロリダで起きたことは、株式市場でも、起き得ないか」

 

 モーが、振り返った。

 

「フロリダと、株は、違う。土地には、ハリケーンがあるが、株は、会社の利益に、裏打ちされている。GEが電球を作り、AT&Tが電話線を引き、GMが車を売る。実体のある事業だ」

 

「だが、レバレッジの構造は、同じだ。マージンで、十倍のポジションを取る人間が、増えている。土地の手付の一割と、株のマージンの一割。……同じ骨だ」

 

 モーが、二秒、黙った。二秒の間、秒針が、四回、動いた。

 

「……」

 

「モー」

 

「お前は、面白い男だな、モレッティ。金を稼ぎに来たのか、警告しに来たのか」

 

「稼ぎに来た。……だが、出口を見ないで、入る気はない」

 

 モーが、窓辺から、机に戻った。座って、また、あの懐中時計を、机の上に置いた。今度は、蓋を開けなかった。手のひらで、時計の上を軽く覆って、開けなかった。

 

「お前の言い分は、理屈としては、分かる。だが、今の株式市場は、健全だ。企業の業績は、いい。失業率は、低い」

 

「……そうだな」

 

(ファンダメンタルズが良い時にこそ、過信が育つ。景気が良いからレバレッジを積んでも大丈夫だ、と、全員が確信する。その確信そのものが、バブルの燃料になる。……モーに、これを言っても、意味はない。この男は数字を信じている。数字が良い間は、耳を貸さない)

 

(ハロルドの、名前が、頭に残っている。五十一の男の、涙。三十年分の労働の重さ。数字としては、俺は知っていた。一九二六年のフロリダ不動産バブル崩壊、数千人の個人投資家が破産、と、その一行の教科書の記述を。だが、その「数千人」の一人に、名前と、顔と、涙があることを、俺は、今日、初めて見た)

 

 レオは、ハロルドの名を、口の中で、一度、置いてみた。

 

(一九二九年の暴落は、桁が違う。ハロルドが、何人、生まれるのか。……その中に、モーの名前があることを、俺は既に、方角として、知っている)

 

 

 

 

 十一月。

 

 音楽事業は、安定して回っていた。

 

 コロムビアとの契約が、去年よりも一段だけ堅くなった。モレッティ&ジョンソンの盤は、全米で、細く長く売れ続けている。サルが街の卸を回り、ルーが版権と経理の全体を握り、クリフが夜のクラブで、次の一曲の骨組みを叩いている。レオが一日ごとに指示を出さなくても、事業の輪郭が、勝手に動くようになっていた。

 

 月間の収入は、千二百ドルの台に乗った。支出は六百の台。差の六百ドルが、毎月、株の口座に、流し込まれ続けている。

 

 事務所に戻ると、ルーが、まだ机に向かっていた。八時を、少し過ぎていた。

 

「ルー。まだ、いたのか」

 

「コロムビアの四半期の分配、明日までにまとめたいのよ」

 

 机の上に、コーヒーのカップが二つ。片方はルーの。もう片方が、レオの席の前に、書類に被らないよう、机の端に、少しだけ離して、置いてあった。冷めているだろう。ルーは、それを、ずっと前に自分の分と一緒に淹れて、そこに置いていた。

 

「先に帰れ。もう暗い」

 

「あと少し。大丈夫」

 

 レオは、自分の席に座った。ルーの淹れたコーヒーを一口飲んだ。苦かった。ルーの淹れ方は、いつも、少しだけ濃い。

 

 四半期報告の束を、目の端に入れた。版権の分配、録音のロイヤルティ、ラジオ局からの供給料、支出の内訳。前世の会社なら、この束を一人で回している人間には、役職の名前が、ついていた。

 

「ルー」

 

「ん?」

 

「例の肩書、そろそろ帳簿の頭にも、載せていいか」

 

 ルーが眼鏡の奥から顔を上げた。

 

「Chief Financial Officer。私が、この半年、勝手に口に出してた語」

 

「聞いてた。聞いた上で、まだ紙には、載せていなかった」

 

「なぜ、今日」

 

「四半期報告を、一人で回している人間の役職の名前を、そろそろ、紙の頭に、書きたくなった」

 

(前世の、名前だ。この時代の卓には、まだ載っていない。だが、ルーがやっていることを一言で言うなら、この語しか、当たらない)

 

「……いい響きね」ルーが、口の端を少しだけ動かした。「モレッティ・ミュージックのCFO。ようやく、紙に載る」

 

 その動きが、机の上のコーヒーの湯気の上で、二秒だけ、続いた。

 

 株のポートフォリオは、GMの回復で、ようやくプラスの側を保っていた。

 

 AT&T 三十三株 @$155(簿価$149、+4.0%)

 GE  百二十九株 @$44(簿価$40、+10.0%)※配当再投資分を含む

 GM  四十五株 @$148(簿価$143、+3.5%)※追加購入分を含む

 

 ポートフォリオ時価 $17,735

 音楽事業からの追加投資累計 $5,400(月$600×9ヶ月)

 配当再投資累計 $530

 含み益 $1,883

 

 だが、含み損の時期があった分、当初の見立てからは、まだ、遠かった。

 

 

 

 

 十二月末。

 

 年末の帳簿を、机の上に広げた。

 

 ——————————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1926年12月末

 

  【資産】

   チェース銀行預金    $9,500

   株式ポートフォリオ   $17,735(時価)

   音楽事業(版権35曲、設備、在庫)

   月間余剰キャッシュフロー $600/月

 

  【負債】

   なし

 

  【純金融資産】

   $27,235

 

  【音楽事業の推定価値を含む総資産】

   約$40,000

 ——————————————————————

 

 鉛筆を、机に置いた。

 

 四万ドル。年初の見立てでは、五万ドル。GMの含み損で、二か月分のリターンが、飛んだ。フロリダには、手を出さなかった。だから致命傷は、避けられた。だが、攻めの投資も、できなかった。

 

(未来を、方角として、知っている。それでも、金は、簡単には増えない)

 

 帳簿を閉じて、窓の外を見た。

 

 雪が、降り始めていた。二十八番街の裏道で降る雪と違って、ウォール街から流れて来た風の中の雪は、粒が、細かかった。街灯の下で、粒が、二度、右に流れて、それから、下に落ちた。

 

 大晦日の夜、モーの事務所に、寄った。

 

 閉まっている時間だったが、二階の窓の下半分に、灯りが点いていた。階段を上がる時、真ん中の段が、来た時より、少しだけ、深く軋んだ。

 

 モーは、ウイスキーのグラスを片手に、窓辺に立っていた。禁酒法の下で、ブローカーの事務所でウイスキーを飲むことに、罪の意識を覚える人間は、一九二六年のニューヨークには、いない。

 

「年末の帳簿を、持ってきた」

 

「見せろ」

 

 数字を、上から下まで、目で降ろした。降ろす速さが、一定だった。

 

「四万か。……堅い」

 

「見立てより、遅い」

 

「見立て」

 

「もう少し、早く増やす気だった」

 

 モーが、窓の外を見た。窓の外で、雪片が、ウォール街の街灯にオレンジ色に照らされて、通りに落ちていた。

 

「五万を目標にして、初年度で四万は、悪くない。焦る奴が、一番危ない。……ハロルドも、そうだった。退職金を、一発で倍にしようとして、全部、失った」

 

 レオは、黙った。ハロルドの名の音節を、モーが、口に載せて、離した。その離し方が、少しだけ、遅かった。

 

「来年は、いい年になる」モーが、グラスを軽く回した。「企業の業績は、いい。クーリッジの減税が効いている。FRBも、金利を下げる方向に動いている」

 

「そうだな」

 

(一九二七年。DJIAは、二百の台に乗る。リンドバーグが、大西洋を、単発機で越える。国民の楽観が、頂に達する。そこから、二年で、全部が、変わる。音楽が鳴っている間だけ、この街の全員が、踊る)

 

(フロリダを、忘れるな、と、言いたかった。だが、言って、どうする。ハロルドの涙を、この目で見たこの男が、それでも、株は土地とは違う、と、口にした。……人間は、自分が聞きたい言葉だけを聞く。預言者を気取るのは、助ける気がないのに、善人の顔をするのと、同じだ)

 

「モー。来年も、頼む」

 

「ああ」

 

 モーが、もう一つ、グラスを取り出した。氷は、入れなかった。琥珀色の液体が、注がれて、二秒だけ、ガラスの内側で揺れた。

 

「新年に」

 

「新年に」

 

 グラスの縁が、触れ合った。カチリと、鎖の輪より重い音が、鳴った。あの、時計の蓋を閉じる時の音の、少しだけ、乾いた版だった。

 

 窓の外で、雪が、ウォール街の敷石の上に、細かく積もっていく。三年後の秋——この敷石の上に、走る男と、叫ぶ男と、崩れ落ちる紙とが、重なって落ちる。それを、この街で、レオだけが、方角として、知っている。

 

 モーの胸のポケットに、あの時計の鎖の先が、また、覗いていた。

 

 コートを羽織って、事務所を出た。階段の真ん中の段が、下りる時に、上りより、少し高く軋んだ。踊り場の窓から、外の街灯を透かして、雪が、斜めに、続いていた。

 

(GMの含み損で、知っていると儲かるの距離を、指で数えた。フロリダの崩壊で、暴落が人を壊す様子を、目で見た。パーカーのレバレッジで、傲慢の値段の付き方を、耳で聞いた。マッシモの影が、名前の高さで、動き始めた。……計画通りには、いっていない)

 

(未来を知っていても、金は、簡単には、増えない。だが——失敗の仕方を、方角として知っているだけでも、この世界では、武器になる)

 

 雪の敷石を、階段の下から、レオは、一歩踏んだ。ブロード・ストリートの角の風が、右の頬に、細く一本、当たった。

 

 一九二六年が、終わる。

 

 二階の窓の下半分の灯りが、レオの背中の後ろで、まだ、消えなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。