五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第9話】トーキー革命

 1926年の暮れ、モーの事務所で聞いたフロリダの男の話が、年を越えても頭にこびりついていた。

 

 51歳の工場労働者。退職金の全額$28,000をマイアミの沼地に突っ込んで、全てを失った男。ブローカーの机の前で泣いた男。20年分の労働が紙くずに変わった男。

 

(あと3年で——あの何百倍もの規模の崩壊が来る)

 

 1927年1月。レオは帳簿を開いた。

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1927年1月

 

 【資産】

  チェース銀行預金  $10,200

  株式ポートフォリオ $18,400(時価)

  音楽事業(版権38曲、設備、在庫)

  月間余剰キャッシュフロー $650/月

 

 【負債】

  なし

 

 【純金融資産】

  $28,600

 ――――――――――――――――――――――

 

 年末の$27,235から微増。フロリダ崩壊を横目に見ながら、じりじりと積み上げる日々が続いている。株式市場はフロリダの影響を受けていない。むしろフロリダから逃げた金が株式に流れ始めている。

 

 モーに電話した。

 

「フロリダの崩壊は株式に波及していないな」

 

「していない。ブローカーズ・ローンの残高が増えている。フロリダに入れていた金が、今度は株式市場に向かっているということだ。『不動産はダメだったが株式は安全だ』——そう信じる人間が増えている」

 

(バブルの燃料が移動しただけだ。燃える場所が変わっただけで、火種は消えていない)

 

「来年以降、資金流入は加速すると思うか」

 

「間違いなく加速する。FRBが金利を引き下げる動きもある。ニューヨーク連銀のベンジャミン・ストロングが——ヨーロッパの金本位制を支えるために、アメリカの金利を低く保ちたがっている」

 

「金利が下がれば」

 

「マージン取引のコストが下がる。借りて買うのが安くなる。もっと借りて、もっと買う。株価はさらに上がる」

 

(1927年の金利引き下げ。大恐慌の遠因。ストロングは来年死ぬ。彼がいなくなった後、FRBは遅すぎる引き締めに転じる)

 

 レオは受話器を握ったまま、窓の外を見た。1月のマンハッタン。灰色の空。人々は笑って歩いている。誰もまだ知らない。

 

 

 

 

 2月。

 

 レオは新しい投資の動きを始めた。

 

 音楽事業からの余剰資金を使い、ポートフォリオを拡大した。月$500-600の追加投資を続け、1月と2月でGEを30株、AT&Tを10株追加購入。

 

 同時に——映画関連の銘柄を調べ始めた。

 

「モー。映画関連の銘柄で、面白いものはないか」

 

「映画?」モーが書類の山から顔を上げた。「ワーナー・ブラザーズか。去年、ヴァイタフォンという音声付きフィルムのシステムを発表した。まだ実験段階だがな」

 

 レオの指先に力が入った。

 

(1927年10月6日。『ジャズ・シンガー』公開。映画が音を得る日。あと8ヶ月)

 

「ワーナーの株はいくらだ」

 

「$8前後。小さな映画会社だ。大手のパラマウントやMGMに比べると——」

 

「$8か。100株買う」

 

「100株? $800だ。——なぜワーナーを?」

 

「音声付き映画は——成功すると思っている」

 

 モーが眉を上げた。

 

「ヴァイタフォン? あれは失敗だと言われてるぞ。音と映像の同期が——」

 

「今は失敗かもしれない。だが映画に音がつく日は必ず来る。そしてワーナーがその最初の一歩を踏み出した。最初に動いた者が勝つとは限らないが、最初に動いた者の株は安い」

 

(トーキー映画の会社が大化けした、という程度の記憶だ。正確な株価の推移までは覚えていない。上がると信じて持つ。それでいい)

 

 ワーナー・ブラザーズ 100株 @$8.25($825)

 

 ポートフォリオに小さな一行が加わった。

 

 

 

 

 3月。

 

 音楽事業の側で、レオはもう一つの準備を始めていた。

 

 映画音楽だ。

 

 無声映画の時代は終わりに近づいている。レオだけがそれを知っている。映画館のピアニストたちが毎晩弾いているBGM——あの仕事が丸ごと消える日が来る。フィルムに音声が焼き付けられれば、もうピアニストは要らない。

 

 一方で、映画に音がつくということは、映画に「音楽が必要になる」ということでもある。

 

 無声映画のBGM集『Movie Moods』は、映画館のピアニスト向けの商品だった。トーキーが来れば、この商品は死ぬ。しかし同時に、トーキー映画のための「映画音楽」という新しい市場が生まれる。映画のために作曲された楽曲。シーンに合わせて録音された音楽。ハリウッドの映画音楽産業の始まりだ。

 

 レオはクリフを呼んだ。

 

「映画のための曲を書きたい」

 

「映画? 無声映画のBGMなら、もう売ってるだろう」

 

「無声じゃない。音がつく映画のための曲だ」

 

 事務所の窓から、3月のマンハッタンの埃っぽい風が吹き込んでいた。クリフがコーヒーカップを置き、不思議そうな顔をした。

 

「音がつく映画? ヴァイタフォンのことか? あれはまだ——」

 

「まだ実験段階だ。だが1年以内に本格的なトーキー映画が出る。音声と音楽が同期した映画が。その時に映画会社は大量の楽曲を必要とする。無声映画では音楽は映画館が用意していた。トーキーではフィルムに焼き付けられる。制作段階で音楽が必要になる。制作費の一部として作曲料が支払われる」

 

「制作費の一部?」

 

「そうだ。今までの映画館向けBGM集は1セット2ドルだ。だが映画制作の音楽は——1曲あたり$100-500、それ以上になるかもしれない。市場の規模が桁違いに変わる」

 

(映画音楽は巨大な産業になる。まだ存在しないこの市場を、俺が最初に開拓する)

 

 クリフが腕を組んだ。

 

「面白い。だがトーキー映画が本当に来るのか? 業界では否定的な声が多いぞ。音声をフィルムに同期させる技術が未熟だし、映画館の設備投資が——」

 

「来る」

 

「なぜそう言い切れる」

 

 レオは窓の外に目をやった。通りの向こうに映画館の看板が見える。夕方になればあそこにピアニストが座り、スクリーンに合わせて鍵盤を叩く。その日常が、もうすぐ消える。

 

「映画は人間の視覚に訴えるメディアだ。そこに聴覚が加われば、表現力が桁違いに上がる。客は音のある映画に金を払う。映画館は設備投資をしてでもトーキーを導入する。客が来るからだ。これは技術の問題じゃない。経済の問題だ」

 

 ラジオも電気録音もそうだった。不完全でも、消費者が欲しがれば普及する。

 

「分かった」クリフが言った。「何を書けばいい」

 

「映画のシーンを想定した楽曲を書く。ただし今までのBGM集とは違う。演奏用の楽譜ではなく——録音を前提とした楽曲だ。電気録音で録る。フィルムに焼き付ける形を想定して」

 

「どうやって映画会社に売り込む」

 

「トーキー映画が発表された瞬間に映画会社は音楽を探し始める。その時に俺たちの手元に既にストックがあれば、先行者利益を取れる。電気録音の時と同じだ」

 

 クリフが低く笑った。

 

「お前はいつも——まだ誰も走っていないコースに旗を立てるな」

 

「旗を立てないと、誰かに取られる」

 

 二人でデモ曲のリストを書き出した。追跡シーン用のテンポの速い曲。恋愛シーン用のスローバラード。喜劇用の軽快な曲。サスペンス用の不協和音を使った曲。ラストシーン用の、余韻の残るテーマ。10曲。半年で仕上げる。

 

 翌日から、作曲に取りかかった。

 

 最初に手をつけたのは追跡シーン用の曲だった。レオがピアノの前に座り、左手でオスティナート(繰り返しのベースパターン)を叩く。BPM140。Dマイナーの暗い響き。右手で短いメロディの断片を投げる。四小節ごとに転調し、追跡の緊張感を描く。

 

「テンポが一定すぎる」クリフがトランペットを下ろして言った。「映画なら場面が動く。馬車が角を曲がる。階段を駆け上がる。テンポに——揺れがいる」

 

「リタルダンドとアッチェレランドを交互に入れるか」

 

「そうじゃない。もっと——」クリフがトランペットを構え直した。フレーズの頭をわずかに遅らせ、後半で畳みかける。同じメロディなのに、映像が見えた。路地を走る足音。振り返る影。

 

「……それだ」

 

「映画の音楽ってのは——画面の中の人間の心拍だ。等間隔じゃない。恐怖で速くなり、角を曲がる瞬間に止まる」

 

 レオは楽譜にクリフのフレージングを書き留めた。ルバート(テンポを自由に揺らす奏法)の指示を細かく記入する。これは楽譜だけでは伝わらない。録音で残すからこそ意味がある。

 

 3月から4月にかけて、二人はスタジオに籠もった。10曲のうち4曲を先に録音した。追跡、サスペンス、喜劇、恋愛。電気録音のマイクの前で、レオがピアノを弾き、クリフがトランペットとピアノを曲によって使い分けた。

 

 恋愛シーン用のスローバラードを録音した夜、クリフが珍しく黙り込んだ。

 

「どうした」

 

「……いい曲だ。映画の音楽なんて、添え物だと思ってた。だがこうやって弾いてみると——曲が場面を作るんだな。音が先にあって、映像が後からついてくる」

 

「映画音楽が添え物じゃなくなる時代が来る。俺たちが最初にそれを証明する」

 

 

 

 

 5月。

 

 日曜日の午前。

 

 レオは事務所に向かって28丁目を歩いていた。5月のマンハッタンは空気が乾いていて、朝の光が建物の壁を白く照らしている。通りには教会帰りの家族連れがちらほら。日曜のティン・パン・アレーは静かだ。

 

 事務所のビルまであと半ブロック。

 

 路地の角から、男が出てきた。

 

 フランク・マッシモ。

 

 いつもの仕立てのいいスーツ。今日はグレーのダブル。靴は黒のコードバン、先端が鏡のように光っている。偶然を装うのが上手い男だ。だが偶然ではないことを、レオは知っている。

 

「レオ。いい天気だな」

 

「マッシモ。——久しぶりだ」

 

 マッシモが微笑んだ。去年の秋に事務所に来た時の、あの値踏みをする笑顔と同じだ。ただし目の温度が違う。去年より——冷たい。

 

「散歩がてら来た。お前の事務所はこの辺だったな」

 

「入るか」

 

「いや、ここでいい」

 

 マッシモが路地の壁にもたれた。コードバンの靴の先が、日曜の薄い日差しを弾いている。

 

「お前の出版社は順調らしいな」

 

「おかげさまで」

 

「レコードが売れてる。ラジオでも流れてる。——映画の音楽にも手を出したそうじゃないか」

 

(どこから聞いた。——いや、聞く必要もない。この界隈で誰が何をしているかは、この男の耳に自然に入る)

 

「準備をしているだけだ。まだ形になっていない」

 

「謙遜するな」マッシモが煙草を取り出した。火をつけた。白い煙が5月の朝の空気に溶けていく。「俺は数字を聞いた。月$1,200以上の収入があるそうじゃないか。23歳の若造にしては、大したもんだ」

 

(月収まで把握している。誰が漏らした。——いや、犯人探しをしても仕方ない。ティン・パン・アレーは狭い業界だ。聞けば分かる)

 

「マッシモ。——何の用だ」

 

 マッシモが煙草の煙を吐いた。ゆっくりと。

 

「前に話しただろう。同郷の人間は助け合うものだ、と」

 

「ああ。覚えてる」

 

「お前は去年、帳簿を通す話を断った。規模が小さい、税務局に目をつけられる、と」

 

「断ってはいない。今は難しい、と言った」

 

「そうだな。『今は難しい』と言った」マッシモが微笑んだ。煙草の先端の赤い火が、微笑みと同じ色をしていた。「あれから半年経った。お前の会社は大きくなった。レコードが売れた。ラジオ局との契約も増えた。——もう『難しい』とは言えないだろう」

 

 レオは黙っていた。

 

「帳簿の話は、もういい。あれはお前の言う通りだ。面倒が多い。——代わりに、簡単な話をしよう」

 

 マッシモが煙草を路上に落とし、コードバンの爪先で踏み消した。

 

「月$100。保険料だと思ってくれ」

 

「保険料」

 

「ああ。この街で商売をするなら——保険は必要だろう。火事。泥棒。窓ガラスが割れる。従業員が夜道で転ぶ。——いろいろある。月$100は安いもんだ」

 

 みかじめ料。

 

 ようやく来た。去年は資金洗浄だった。帳簿を通せ、という複雑な要求。レオの「税務局」という反論に、マッシモは引いた。今度は違う。$100/月のみかじめ料。シンプルで、断りにくい。

 

($100/月。年間$1,200。現在の月間余剰キャッシュの15%。払えない金額ではない。だが——一度払えば、$150になり、$200になり、$500になる。マフィアのみかじめ料には天井がない。払い続ける限り、要求は増え続ける)

 

「マッシモ。考えさせてくれ」

 

「また『考えさせてくれ』か」

 

 マッシモの声が半音下がった。5月の朝の空気が、急に冷えた。

 

「レオ。俺はお前が好きだ。頭の切れる若造だ。ピアノも上手い。だがな——この街で俺の提案を3回断った人間は、いない。3回目はないぞ」

 

 レオの背筋を冷たいものが走った。

 

「——1週間。1週間だけ待ってくれ」

 

「1週間?」

 

「事業の帳簿を整理する必要がある。$100を毎月どこから出すか、経理と相談しないと——」

 

「経理?——あの眼鏡のユダヤの女か。ルーとかいう」

 

 レオは答えなかった。マッシモの情報網の正確さが、胃の底に冷たく落ちた。

 

 マッシモがしばらくレオの目を見ていた。それから——微笑んだ。今日3度目の微笑み。だが3度目の温度は、最も冷たかった。

 

「1週間だ。来週の日曜に、サルの従兄弟のトニーをよこす。トニーに$100を渡してくれ。それが答えだ。渡さなければ——答えも違うものになる」

 

 マッシモが背を向けた。路地を出ていく。コードバンの靴が石畳を叩く音が、均等な間隔で遠ざかっていく。最後まで振り返らなかった。

 

 レオは路地に一人残された。

 

 5月の朝の光が、さっきと同じ白さで建物の壁を照らしている。教会帰りの家族連れが笑い声を立てて通り過ぎる。何も変わっていない。世界は何も変わっていない。ただレオの胸の奥で——氷の塊が一つ、生まれた。

 

(1週間。——1週間で何ができる)

 

 事務所に入った。鍵を閉めた。デスクの前に座った。

 

 帳簿を開いた。数字を見つめた。

 

($100/月を払えば、当面は安全だ。だが終わりはない。来年は$200になる。再来年は$500になる。マッシモの要求には天井がない。金額が増えるだけじゃない。やがて帳簿を通せと言い始める。演奏しろと言い始める。モレッティ・ミュージックが、マッシモの出先機関になる。そうなれば——コロムビアとの契約もラジオ局との関係も消える。事業が死ぬ)

 

(払わないことはできない。拒否すれば——サルの家族が危ない。サルの従兄弟のトニーが組織にいる。サルの父の八百屋がリトル・イタリーにある。マッシモの手下が店の前に立つだけで十分だ)

 

(暴力では勝てない。金でも勝てない。だが——)

 

 レオは帳簿の上に両手を置いた。

 

(カポネは何で捕まる?)

 

 前世の記憶が、断片的に答えた。

 

(脱税だ。確か——殺人でも密造酒でもなく、帳簿の不整合で有罪になったはずだ。正確な年は覚えていない。だが確実に覚えているのは——あのアル・カポネが、弾丸ではなく数字に殺されたということだ)

 

 暴力犯罪ではなく、税金で。マフィアを倒す方法は暴力ではない。数字だ。帳簿だ。

 

(マッシモにも同じ弱点があるはずだ。スピークイージーの売上。密造酒の仕入れ。みかじめ料の徴収。全て現金だが、どこかに記録がある。人間は、金の流れを記録せずにはいられない。たとえマフィアでも)

 

(だが今は証拠がない。今日、来週の日曜までにできることは——$100を払うことだ。払いながら、マッシモの弱点を探す。帳簿で攻める方法を、時間をかけて作る)

 

(負けたわけじゃない。時間を買うんだ)

 

(——だが正気の沙汰じゃない。マフィアの帳簿に手を出すということは、命を懸けるということだ。成功しても失敗しても、この街にはいられなくなるかもしれない。それでも——払い続けて事業を食い潰されるよりはましだ)

 

 その夜、レオはモーに電話した。株の定期報告のついでに、さりげなく話を振った。

 

「モー。新聞で読んだんだが——シカゴのカポネに対して、連邦政府が捜査を始めているそうじゃないか」

 

「ああ。カポネは年間$60,000,000以上を稼いでいると言われているが、税金を一銭も払っていない。連邦政府もさすがに動き始めたらしい」

 

「あれだけの男が、殺人ではなく税金で追い詰められるのか」

 

「理論上はな。マフィアは現金商売だ。帳簿がない。銀行口座もない。——だが逆に言えば、帳簿さえ見つかれば一発だ。証拠を掴むのが難しいだけで、法の穴はない」

 

「帳簿が見つかるとしたら——どこから出てくる」

 

「普通は内部の人間だ。組織の中に不満を持つ人間がいれば、そいつが持ち出す。FBIもそうやって情報を集めている」

 

「なるほど」

 

 電話を切った。

 

(内部の人間。——トニー。サルの従兄弟のトニー。マッシモの組織で帳簿を管理している男)

 

 まだ動けない。まだ早い。だが——道は見えた。

 

 来週の日曜、トニーに$100を渡す。渡しながら、トニーの顔を見る。目を見る。組織の中での立場を探る。

 

($100は投資だ。マッシモの信用を買い、トニーとの接点を作るための。最終的にマッシモの帳簿を手に入れるための——最初の$100だ)

 

 

 

 

 翌日。

 

 サルが事務所に来た。目の下に隈がある。

 

「レオ。——マッシモが来たって、本当か」

 

「来た」

 

「何を言われた」

 

「月$100のみかじめ料だ。保険料と呼んでたが」

 

 サルの顔が歪んだ。

 

「……$100か。くそ。やっぱりな」

 

「やっぱり?」

 

「トニーから聞いてたんだ。マッシモがお前の収入を調べてるって。——でも直接来るとは思わなかった。いつもはトニー経由で——」

 

「直接来た。路地の角で待ち伏せだ。日曜の朝にな」

 

 サルが拳を握りしめた。

 

「断れないのか」

 

「断れない。断ったら——お前の家族に何が起きるか分からない。お前の父さんの八百屋のことは、マッシモも知ってるだろう」

 

 サルの顔が蒼白になった。

 

「……親父は関係ないだろう」

 

「関係ないさ。だがマッシモはそう考えない。——サル。来週の日曜、トニーが金を取りに来る。$100を渡す。異論はないな」

 

「ないけど——レオ。$100で済むのか。来月は$200になるんじゃないか」

 

「かもしれない。だが今は$100だ。まず払う。払いながら——考える」

 

「何を考える」

 

「マッシモの弱点をだ」

 

 サルが怪訝そうな顔をした。

 

「弱点? マッシモに弱点なんてあるのか。あいつは——」

 

「ある」レオは静かに言った。「誰にでも弱点はある」

 

 サルはしばらくレオの顔を見ていた。それから、小さくうなずいた。

 

「……お前がそう言うなら。お前の『ある』は、今まで外れたことがないからな」

 

「今回も外さない」

 

(外せない。外したら——死ぬのは俺だけじゃない)

 

 

 

 

 翌週の日曜。

 

 トニー・ファルコーネが事務所に来た。

 

 サルの従兄弟。28歳。痩せた体に安物のスーツを着て、髪はポマードで撫でつけている。目つきはサルに似ているが、サルより暗い。暗いというより——疲れている。

 

「レオ。久しぶりだな」

 

「トニー。座ってくれ」

 

 コーヒーを淹れた。トニーに渡した。トニーはカップを両手で包んだ。指が細い。帳簿を書く手だ。

 

「——$100だ」

 

 レオは封筒をテーブルに置いた。トニーが封筒を手に取り、中を確認した。$20紙幣が5枚。

 

「毎月、同じようにすればいいのか」

 

「ああ。月の最初の日曜に、俺が取りに来る」

 

「分かった」

 

 トニーが封筒をジャケットの内ポケットに入れた。立ち上がりかけて——止まった。コーヒーカップを見つめている。

 

「トニー。急ぐのか」

 

「いや……別に」

 

「なら座ってろ。コーヒーが冷める」

 

 トニーが座り直した。二人でコーヒーを飲んだ。安い豆だが、ルーが淹れ方を教えてくれたおかげで飲める味にはなっている。

 

「……サルは元気か」

 

「元気だ。営業で走り回ってる」

 

「あいつはいつも走ってたな。ガキの頃から。リトル・イタリーの路地を走り回って、おばさんに怒鳴られてた」

 

 トニーの目元が、一瞬だけ柔らかくなった。

 

(この男は——組織にいたくているわけじゃない。金がなくて大学に行けなかった。頭がいいのに、選択肢がなかった。サルと同じイタリア系移民の二世。従兄弟同士でも、サルには合法の仕事があった。トニーに来たのは——マッシモからの誘いだけだった)

 

「トニー。帳簿の仕事は大変か」

 

「……まあな」

 

「マッシモは——いい雇い主か」

 

 トニーの手が止まった。コーヒーカップの縁に指が白くなるほど力が入った。それから——緩んだ。

 

「仕事だよ。いいも悪いもない」

 

(今日はここまでだ。急がない。トニーとの関係を、少しずつ作る。サルの従兄弟という絆を使って。焦れば壊れる。時間をかければ——道が開ける。かもしれない)

 

「また来月な、トニー」

 

「ああ」

 

 トニーが出ていった。ドアが閉まった。

 

 レオはデスクの帳簿を開き、支出欄に書き加えた。

 

 「雑費」$100

 

(嘘の記帳だ。みかじめ料とは書けない。だがこの$100は——レオナルド・モレッティの帳簿の上で、唯一の嘘だ。この嘘を、いつか終わらせる)

 

 

 

 

 8月23日。

 

 その日の夕刊は、一面にこう書いていた。

 

 「サッコとヴァンゼッティ、処刑」

 

 レオは新聞を持つ手が震えた。

 

 ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティ。イタリア系移民の二人の男。1920年に強盗殺人の容疑で逮捕され、1921年に有罪判決。7年間の控訴と国際的な抗議運動にもかかわらず——今夜、マサチューセッツ州チャールズタウン刑務所の電気椅子で処刑された。

 

(7年。7年間争って——殺された)

 

 記事を読んだ。

 

 記事はヴァンゼッティの言葉を引用していた。

 

 「もしこれらのことがなければ、私は街角で蔑む人々に語りかけながら一生を終えていただろう——」

 

 無名のまま死ぬはずだった男が、無実の罪で歴史に名を刻まれた。

 

 イタリア系移民であること。アナーキストであること。それが裁判の公正さを失わせた。証拠は不十分だった。裁判長はイタリア系移民を公然と「卑しい人種」と呼んだ。検察は二人のアナーキズム思想を犯行の動機として提示した。12人の陪審員は全員がアングロサクソン系だった。

 

 レオは新聞を畳んだ。

 

(前世なら——ニュースの向こう側の出来事だった。テストの出題範囲。「1927年のサッコ=ヴァンゼッティ事件について述べよ」。100年後の安全な教室で、他人事として書いた答案。だが今——俺はレオナルド・モレッティだ。イタリア系移民の二世だ。パーカーに「靴磨きか犯罪者」と言われた。マッシモに月$100を払っている。そしてサッコとヴァンゼッティが殺された。全てが繋がっている。イタリア系であること。この国での、その意味)

 

 表情は変えなかった。表情を変えることが何の役にも立たないことを、22年間の「レオナルド・モレッティ」の人生で学んでいた。

 

 

 

 

 翌日の夜。

 

 スピークイージーでの演奏の後、クリフと二人で酒を飲んだ。

 

「レオ。サッコとヴァンゼッティの件——聞いたか」

 

「聞いた」

 

「7年だぜ。7年間、世界中が抗議した。何十万人がデモをした。フランスの知識人が署名した。なのにアメリカの裁判所は、二人のイタリア人を殺しやがった」

 

「ああ」

 

「お前は——どう思う」

 

「……」

 

 レオはグラスの縁を指でなぞった。安物のジン。透明な液体が裸電球の光を受けて微かに揺れている。

 

「クリフ。この国は、サッコとヴァンゼッティを7年かけて殺した。証拠が不十分でも。世界中が抗議しても。それでも殺した。——なぜだと思う」

 

「簡単だ。イタリア人だからだ。アナーキストだからだ。白人のプロテスタントじゃないからだ」

 

「そうだな。——俺は今、月$100をマフィアに払ってる」

 

 クリフが目を見開いた。

 

「マフィアか」

 

「フランク・マッシモ。リトル・イタリーで顔の利く男だ。この街でイタリア人が商売をすれば、マッシモが来る。警察に行けるか? 行けない。イタリア人が警察に行けば——サッコとヴァンゼッティと同じ目で見られる。犯罪者か、犯罪者の仲間か。どちらにしても人間として扱われない」

 

「……」

 

「クリフ。黒人はもっとひどい目に遭ってるだろう」

 

「比べるな」クリフが静かに言った。「苦しみを比べるな。お前たちイタリア人が殺されたことと、俺たちが毎日リンチされていることは、別の問題だ。だが同じ根を持っている」

 

「同じ根」

 

「この国が、白人のプロテスタント以外の人間を——人間として扱わないという根だ」

 

 二人は黙って酒を飲んだ。安物のジン。喉が焼ける。

 

 胃に落ちた酒の熱が、怒りと混ざって胸の底に溜まった。

 

 サッコとヴァンゼッティは死んだ。俺にできることは何もなかった。だがこの国でイタリア人として生き残るために——できることがある。金を稼ぐことだ。金があれば、裁判官は少しだけ公平になる。陪審員は少しだけ慎重になる。差別はなくならない。しかし金は盾になる。

 

 そしてもう一つ。マッシモの$100を、いつか終わらせること。イタリア人がイタリア人を食い物にする構造を——帳簿の力で壊すこと。

 

(それが——俺にできる、唯一の抗議だ)

 

 

 

 

 翌週。

 

 パーカーに会った。投資家の集まりで。

 

 レオは意図的にサッコの話題を振った。

 

「パーカーさん。サッコとヴァンゼッティの処刑について——どうお考えですか」

 

 パーカーがシャンパンを一口飲んだ。

 

「当然の判決だよ」

 

 レオの腹の底で、何かが冷たくなった。

 

「当然?」

 

「殺人犯は処刑される。それが法だ。彼らがイタリア人であることは関係ない」パーカーが肩をすくめた。「むしろ彼らがアナーキストであったことは、情状酌量の余地を減らすだろう。社会秩序を脅かす人間は——相応の報いを受ける」

 

「証拠の不十分さについては」

 

「裁判所が判断したことだ。我々が口を挟むことではない。——モレッティ、君がイタリア系であることは知っている。感情的になるのは分かる。だが法は法だ」

 

 法は法。

 

 裁判長はイタリア系移民を公然と「卑しい人種」と呼んだ。12人の陪審員は全員がアングロサクソン系だった。法は法だ。しかし法を運用する人間は、偏見の塊だ。

 

「パーカーさん。——ところでRCA株はいかがですか」

 

 話題を変えた。パーカーの目が光った。金の話になると、この男は生き生きとする。

 

「好調だよ。$80を超えた。去年の倍だ。ラジオは成長産業だ。RCAはGEとウェスティングハウスの支援を受けているし、NBCのネットワーク放送は——」

 

「マージンはどの程度ですか」

 

「証拠金率20パーセントだ。レバレッジ5倍で回している」

 

(レバレッジ5倍。$80のRCAが$64に下がれば、マージン・コール。——だが今は下がらない。$80から$505まで上がる。パーカーは大儲けする。そしてピークで売れない。暴落が来る。$28まで落ちる。レバレッジ5倍で突っ込んだ全てが消える)

 

「さすがですね。大胆な投資です」

 

「大胆ではない。合理的な判断だよ。RCAはアメリカの未来そのものだ」

 

 レオはシャンパングラスの中の泡を見つめた。微笑んだ。

 

「おっしゃる通りです。——法は法ですね。そして市場も、法のようなものですね。誰にでも等しく適用される」

 

「その通りだ」パーカーが満足そうにうなずいた。

 

(「当然の判決」か。——法は等しく適用される、とお前は言った。2年後、市場がお前のレバレッジを清算する時にも、同じことが言えるのかどうか。俺には関係ない。ただ——覚えておく)

 

 

 

 

 9月。

 

 クリフとの映画音楽デモが完成に近づいていた。10曲のうち8曲が録音済み。残り2曲は10月中に仕上がる。

 

 同時に——ワーナー・ブラザーズが、新しい映画の公開を発表した。

 

 『ジャズ・シンガー』。出演はアル・ジョルスン。ヴァイタフォンによる音声付き。

 

 10月6日公開。

 

 レオは新聞の広告を見て、心臓が跳ねた。

 

(来た。映画の歴史を二つに割る一本。あと1ヶ月)

 

 ルーに指示を出した。

 

「ルー。ワーナーの配給部門に連絡を取れ。映画音楽の楽曲提供について、提案書を出したい」

 

「映画音楽? ——ワーナーに?」

 

「ジャズ・シンガーの後、ワーナーは次のトーキー映画を撮る。その時に音楽が必要になる。モレッティ・ミュージックが楽曲を提供する」

 

「でもジャズ・シンガーはまだ公開されてないわ。成功するかどうかも——」

 

「成功する」

 

「なぜ——」

 

「アル・ジョルスンが歌う。ジョルスンは今、アメリカで最も人気のあるエンターテイナーだ。彼が画面の中で歌えば客は殺到する。映画に音が入る。客が音を求める。映画館がトーキーの設備を入れる。他の映画会社もトーキーに参入する。——その時に音楽を用意している出版社は、俺たちだけだ」

 

 電気録音の時と同じ構図だ。技術革新が来ることを知っている。だから事前に準備する。電気録音では12曲のストックが武器になった。トーキーでは映画に合わせた楽曲が武器になる。

 

「分かったわ。ワーナーに連絡する。——でもまずはジャズ・シンガーを観てからでもいいんじゃない?」

 

「観る。もちろん観る。だが連絡は先にしておけ。公開後では遅い。全員が殺到する前に扉を叩いておく」

 

 ルーが眼鏡を直して、小さくため息をついた。

 

「あなたといると、私の心臓がもたないわ。いつも嵐が来る前に傘を買いに走らされる」

 

「心臓が悪いなら——医者に行ってくれ。お前がいないと帳簿が回らない」

 

「……それは心配してるの? それとも帳簿の心配をしてるの?」

 

「両方だ」

 

 ルーが呆れた顔をした。だが口元は笑っていた。

 

 

 

 

 10月6日。

 

 ニューヨーク、ワーナーズ・シアター。ブロードウェイ1664番地。

 

 レオはルーとサルとクリフを連れて、『ジャズ・シンガー』の初日に足を運んだ。

 

 劇場は満席だった。ジョルスンの人気もあるが、「映画が喋る」という噂が客を引きつけていた。座席のビロードが体温で湿り、香水とポマードと煙草の残り香が暗闇に漂っている。

 

 映画が始まった。

 

 最初のうちは、通常の無声映画と変わらなかった。字幕が表示され、伴奏が流れる。ただしピアノではない。フィルムからの音だ。ヴァイタフォンのレコード。

 

 そして——

 

 ジョルスンが画面の中で口を開いた。

 

「Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothin' yet!」

 

 劇場が揺れた。

 

 文字通り、揺れた。客が一斉に声を上げた。笑い声。驚きの声。拍手。隣のルーが口に手を当てている。サルが身を乗り出して、前の席の背もたれを掴んでいる。

 

 スクリーンの中の人間が——喋った。

 

 クリフはじっとスクリーンを見つめている。その横顔に映写機の光が白く踊っていた。

 

(映画が音を得た瞬間だ)

 

 映画が終わった時、劇場は割れんばかりの拍手に包まれた。

 

 外に出た。ブロードウェイの夜。ネオンサインが煌々と光り、車のクラクションが鳴り、人々が興奮した顔で歩いている。

 

 クリフが最初に口を開いた。

 

「……映画が変わったな」

 

「ああ」

 

「あの音は——」クリフが言葉を探した。「不完全だ。音質は悪い。ジョルスンの声が歪んでる。それでも——」

 

「それでも客は、音のある映画に金を払った」

 

「ああ。払った」

 

 ルーが眼鏡を直した。

 

「レオ。あなた、これを知ってたでしょう。音がつく映画が来ることを。だから映画音楽の曲を準備してた」

 

「予測しただけだ」

 

「予測ね」ルーの声に、もう追及する気力はなかった。「……あなたの予測はいつも当たるわね」

 

 サルが肩をすくめた。

 

「レオ。ワーナーへの売り込みはいつ動くんだ?」

 

「明日」

 

「明日!?」

 

「明日だ。今夜の客の反応を、ワーナーの経営陣も見ていたはずだ。明日の朝、彼らは次のトーキー映画の企画会議を開く。その会議室にモレッティ・ミュージックの提案書が届いていなければならない」

 

 ブロードウェイの夜風がコートの襟を叩いた。10月の空気は既に冷たい。他の出版社が「トーキーとは何か」を議論している間に、俺は契約書を出す。常に先手だ。

 

 帰り道、サルが隣を歩きながら小声で言った。

 

「レオ。——マッシモへの支払い、今月分はトニーに渡した」

 

「ああ」

 

「トニーが——ちょっと気になることを言ってた」

 

「何だ」

 

「マッシモが新しいスピークイージーを開くらしい。ミッドタウンに。——金がかかる。つまり、俺たちへの要求が増えるかもしれない」

 

 レオは歩調を変えなかった。

 

「増えるだろうな。——だが今はトーキーが先だ。金を稼がないと、$100も$200も払えない」

 

(二正面作戦。金を稼ぎながら、マッシモから身を守る。トーキー映画で事業を拡大し、同時にマッシモの弱点を探す。どちらかだけでは足りない。両方やる)

 

 

 

 

 11月。

 

 ワーナーとの交渉は、予想以上に早く進んだ。

 

 ジャズ・シンガーは大ヒットした。全米の映画館で客が押し寄せ、ワーナーの収益は急増した。他の映画会社が慌ててトーキーへの対応を始めた。パラマウント、MGM、ユニバーサル、FOX——全社がトーキーの設備投資を発表した。

 

 ワーナーの音楽部門の責任者、アーロン・コーエンから連絡が来た。

 

「モレッティ。お前の提案書を読んだ。映画に合わせた楽曲を提供できるのか」

 

「できます。モレッティ・ミュージックには、電気録音に最適化した楽曲の制作実績があります。映画音楽への応用は自然な拡張です」

 

「サンプルはあるか」

 

「10曲のデモを用意しました。追跡シーン、恋愛シーン、喜劇シーン。映画の場面ごとに、録音済みのデモをお聴かせできます」

 

 3月から準備していた映画音楽のストック。クリフとの共作で10曲。電気録音で録音済み。この10曲が、今、武器になる。

 

 デモを持っていった。コーエンが聴いた。

 

「……いい。音質が——うちの社内で作ったものより良い。お前は電気録音の経験が長いのか」

 

「2年前から電気録音に取り組んでいます」

 

「2年前? ——2年前に電気録音をやっていた出版社がいるのか」

 

「モレッティ・ミュージックだけです。たぶん」

 

 コーエンが笑った。

 

「お前、変な奴だな」

 

「もう一つ。モレッティ・ミュージックは、ワーナー・ブラザーズの株主でもあります」

 

 コーエンが煙草の手を止めた。

 

「株主? 何株だ」

 

「100株です。規模は小さい。しかしヴァイタフォンの発表直後に買いました。御社の未来に賭けた、ということです」

 

「ヴァイタフォンの発表直後に——」コーエンが煙草に火をつけた。「本当に変な奴だ。だが嫌いじゃない。次のトーキー映画2本に、お前の楽曲を使いたい。条件は——」

 

 交渉が始まった。

 

 結果。

 

 ワーナーの次期トーキー映画2本に、モレッティ・ミュージックの楽曲を提供する契約が成立。

 

 条件:

  楽曲使用料: 1曲あたり$75-150(映画の尺と重要度による)

  版権: モレッティ・ミュージック保持

  クレジット: エンドロールに「Music by Moretti Music Publishing」

 

 映画音楽の第一歩だった。1曲$75-150は、今までのBGM集とは桁が違う。しかし本当の価値は単価ではない。映画に使われれば楽曲の知名度が飛躍的に上がる。映画館で何百万人もの観客が聴く。さらにASCAPの演奏権料が発生する。映画館での上映は「公衆の演奏」に該当する。使用料、知名度、演奏権料。一粒で三度おいしい。

 

(映画音楽で事業を伸ばす。伸ばした事業で——マッシモの要求に耐えながら、帳簿で反撃する準備を整える。両方やるんだ。片方だけでは足りない)

 

 

 

 

 12月。

 

 株式市場は年末に向けて加速していた。

 

 FRBの金利引き下げが効いている。DJIAが200を超えた。年初の157から28パーセントの上昇。

 

 レオのポートフォリオ——

 

 AT&T 43株 @$174(取得平均$152)

 GE  175株 @$56(取得平均$42)

 GM  50株 @$170(取得平均$145)

 ワーナー 100株 @$18(取得$8.25)

 

 ポートフォリオ時価: $22,952

 マージン借入: $7,800

 ポートフォリオ純資産: $15,152

 

 ワーナーが$8.25から$18に跳ねていた。ジャズ・シンガーの大ヒットが反映された結果だ。まだ序の口に過ぎない。

 

 年末の帳簿を締めた。

 

 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1927年12月末

 

 【収入の柱】

  楽曲版権   $450-550/月

  録音関連   $600-700/月

  ASCAP    $400-500/月

  映画音楽   $200-350/月(契約開始直後)

  月間合計   $1,650-2,100

 

 【支出】

  事務所経費・人件費等 $700-900/月

  マッシモへの支払い  $100/月

  月間余剰  $650-1,100

 

 【資産】

  チェース銀行預金  $12,300

  株式ポートフォリオ $15,152(純資産)

  音楽事業(版権42曲、設備、在庫)

 

 【負債】

  マージン借入 $7,800

 

 【推定総資産】

  約$80,000(音楽事業の推定価値含む)

 ――――――――――――――――――――――

 

 $80,000。年初の$40,000から倍増した。映画音楽参入とワーナー株の値上がりが効いている。事業の四本柱が回り始めた。

 

 だが帳簿の中に、$100×8ヶ月=$800の「雑費」が並んでいる。マッシモへの支払いだ。嘘の記帳。レオの帳簿の唯一の汚点。

 

 

 

 

 大晦日。

 

 モーの事務所で、今年も年末の酒を飲んだ。

 

「1927年は良い年だった」モーが言った。「DJIAは28パーセント上がった。お前のポートフォリオも——悪くない」

 

「悪くない。——だが来年は、もっと上がるだろう」

 

「そうだ。ストロングの金融緩和が続く限り——止まらない。全員が買っている。全員が儲けている」

 

 レオの背筋を、フロリダの時と同じ寒気が走った。全員が儲けている時は、天井が近い。

 

(1929年9月。あと21ヶ月)

 

 まだ踊れる。まだ音楽は鳴っている。

 

「モー。一つ聞いていいか」

 

「何だ」

 

「RCA株は——今いくらだ」

 

「$80前後だ。去年の倍だ。パーカーは$40で買ったから、倍になっている」

 

「パーカーは追加で買ったか」

 

「追加どころか。パーカー本人が先日のパーティで自慢していた。『レバレッジ5倍で回している。これがプロの投資だ』と。$80のRCAが$64に下がれば、マージン・コールが来る計算だが——本人はそんなことは起きないと信じている」

 

($80から$505まで上がる。パーカーは大儲けする。そしてピークで売れない。$28まで落ちる)

 

 レオはウイスキーの氷を指で回した。

 

「モー。お前はRCAを持ってるか」

 

「少しだけ。50株。ラジオは成長産業だ。持っておいて損はない」

 

「……そうだな」

 

 モーの手元の懐中時計が、蛍光灯の光を反射した。この男も来年、再来年と買い増すのだろうか。「数字は嘘をつかない」と自分に言い聞かせながら。

 

 ウイスキーを一口飲んだ。喉が焼ける。

 

「モー。もう一つ聞いていいか」

 

「何だ」

 

「マフィアの——帳簿を持ち出す人間。そういう人間は、どうやって身を守る」

 

 モーがグラスを置いた。ゆっくりとレオの顔を見た。

 

「……また『知人の話』か」

 

「知人の話だ」

 

「身を守る方法は一つしかない。連邦の検察に行くんだ。帳簿を渡して、司法取引をする。正式な制度はまだないが——検察側が証人の安全を保証してくれる場合がある。名前を変えて、街を出る。実際にそうした人間を知っている」

 

「その人間は——生きているか」

 

「生きている。名前を変えて、シカゴを離れた。二度と故郷には帰れないが——生きている」

 

 レオはグラスの中の氷を見つめた。

 

(帳簿を持ち出して、FBIに渡す。——まだ遠い。だが道は見えた。トニーがその帳簿を持っている。サルの従兄弟のトニーが)

 

 窓の外では、ニューヨークの新年のカウントダウンが始まっていた。タイムズスクエアの方角から、歓声が風に乗って聞こえてくる。

 

 1928年が来る。

 

 トーキー映画の時代が始まる。株式市場はさらに加速する。事業は四本柱になる。楽曲版権、録音、ラジオ、映画。その全てが、1929年10月に向かうカウントダウンの中にある。

 

 そしてもう一つのカウントダウン。マッシモの$100が$200になり、$500になる日が——いつか来る。その前に手を打たなければならない。帳簿という名の武器を手に入れなければならない。

 

 新年の花火が上がった。ウォール街の窓から見える夜空に、赤と白の光が散った。火薬の匂いが風に乗って届いた。

 

(音が映画館を支配する。マッシモの帳簿が俺の手に届く。二つの戦線を、同時に戦う。——金を稼ぎながら、暴力から身を守る。片方だけでは足りない。両方やるんだ)

 

 1928年。

 

 あと21ヶ月。

 

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