原型など残っていない。半ば液状化した肉塊が、開いた弾みで地面に倒れこむ。べちゃりと音を立てて小さな破片が散らばり、黒い軌跡は破片の衝突と共に周囲へ散乱、そのまま体液溜まりを作り出す。内部で淀んでいた空気がおぞましい異臭を伴って解放され、あまりの臭いに眼球がちかちかと刺すような痛みを訴える。
だがイースは目を逸らせない。自我を形成するあらゆる要素が「目を逸らせ」と訴えかけるにも関わらず。
ふと肉塊の中から白い球体が現れた。一つ二つと表面に現れ、やがて肉塊を埋め尽くした。
虫だ。白い球体は全て腐肉を貪る虫の頭だ。
不意に腕が痒くなり指先で皮膚を掻いた。なのに痒みは収まる様子を見せず全体へと広がっていき、両手を使って体中を掻き毟る。容赦ない指先に抉られた皮膚はこそげ落ち、その下の肉が表出しガリガリと削れ、中心部を通る骨がむき出しとなってなお痒みは止まらず、痛みばかりが増していく。
その時、掻いていた指先が崩れた。見ると爪の先端から腐敗が侵食していき、やがて肘を通過し胴体へと到達し、首から頭部へと昇っていく。イースは指先が崩れるのも厭わずに掻き続けた。
進行した腐敗が足の制御を奪い、イースの体が体液溜まりの中へ落ちる。衝撃で頭蓋骨が砕けて破片が肉を突き破り、隙間から腐った体液がどくどくと流れ出す。気付けばイースの眼球は白い虫の苗床となっており、網膜のすぐ傍を幾匹も蠢いているのが見えた。
頭上から鳥肌の立つ音が聞こえてくる。ブーンと耳障りな音はイースの皮膚の上に止まると、強靭な顎を突き立てて肉を貪り始めた。
何千、何万、何億もの顎がイースの腐肉を食み、血管を千切り、骨を砕いていく。もはや痛みという感覚は消え去り、生温かい不快感だけが鮮明に感じ取れた。
なにが出来るわけでもない。なにかが成せるわけでもない。
陽の光さえも届かない暗闇の中、イースは孤独に腐っていった……。
「イースさん!」
その声が聞こえた瞬間、イースの視界は暗闇に落ちた。
……違う。暗いのはこの空間だ。鮮明に見えていたはずの周囲の景色は暗がりに呑まれ、唯一胸元から伸びる人工の光が彼方の壁際を照らしている。
混乱するイースをよそに声の主はイースを抱きかかえた。甘い香りに落ち着く声、ほんのり高い体温が、その人物の正体を物語っていた。
「……ユエル?」
「大丈夫ですよ。大丈夫ですから」
イースを力強く抱きしめながらユエルは出口へとひた走る。
それからどうなったのかは覚えていない。眩い光の中に出たと思ったら固い地面に下ろされ、すぐに正面から抱擁された。背を撫でる手は剣だこだらけでごつごつしていて、その手つきもぎこちないもの。
しかしそれが、何よりも心強かった。
どれくらい経っただろう。
「……もう大丈夫」
イースは大きな体をそっと押し返して言った。
「本当ですか? あまり無理はしないでください」
「大丈夫だって。ほんとに平気……少し良くなったよ」
「そうですか……良かった……」
安堵のため息を零すユエル。額の冷や汗や荒い息が、動揺の程度を示している。
「ごめん。心配かけて」
「良いのです。事前に忠告をしなかった私にも責任はあります」
お互いに呼吸を整え、改めて顔を見合わせる。
どちらも聞きたいことはあった。ただあまりの衝撃に言葉に出来ず、先に相手が口を開くのを待っていた。
オニールのような会話上手ならスムーズに話せたのだろうか、なんて現実逃避染みた考えが脳裏を過る。
「……なにがあったかをお聞きしてもよろしいですか?」
先に口を開いたユエルに頷き、イースは先ほどの出来事を説明した。
未だ整理は付いていない。まるで悪夢の中を彷徨っていたかのような感覚で、正気を取り戻した現在は漠然とした衝撃のみが残っていた。
「……なるほど」
話を聞き終えたユエルは空を仰いだ。
「以前仰っていたことが、今なら信じられます」
「なんの話だ?」
「像力量が三倍ある、という話です。あの時は自身を強く見せるための嘘だと思っていましたが、どうやら本当のことだったのですね」
首を傾げて先を促すと、ユエルは言葉を選ぶように慎重に続ける。
「像力は外部からの刺激に強く反応し、性質を変化させます。いわゆる『感応』という現象です。人間の場合は感応した像力が精神に作用することもあるので———」
「普通より像力があるばっかりに、人の死体を見て余計に反応しちまったってことか」
続きを繋いだイースは苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべた。
今までなんとも無かったのは閉鎖空間で刺激が少なかったから。だとすれば今後は同じような状況に陥るかもしれない。
長所だと思っていた特徴に牙を剥かれ、イースは舌打ちを響かせる。
「くそっ、初めて自分が嫌いになりそうだ」
「仕方がありません。まさか私も『腐蝕』の死体があったとは思いもしませんでした」
「ふしょく?」
「瘴気が生命にとって毒となるのはご存じですね? 腐蝕は瘴気を大量に取り込んだ者に発症する病のようなものです。生きたまま全身が腐っていき、やがてあのように命を落とします」
あの亡骸はもしかしたら、冷蔵庫に隠れて魔物をやり過ごしたものの、瘴気に汚染されて罹患したのかもしれない。暗く、狭く、孤独で、きっと筆舌に尽くしがたい苦痛を感じていたはずだ。
像力のせいか、瞼の裏を黒い亡骸が過った途端、全身の皮膚に痛みが走った。
「……最悪だ」
なんだか異様に疲れてしまった。
イースは顔を上げた。
「悪ぃ、探索は一人でやってくれ。少し休みたい」
「謝らないでください。それに今日の探索はここまでにしましょう」
「良いのか? 物資を見つけないとだろ?」
「そこまで困窮してはいません。荷物を取ってくるので、少々お待ちください」
ようやくそこで彼女が手ぶらなことに気付いた。きっと物音を聞いて慌てて駆けつけてくれたのだろう。
「分かった。待ってるよ」
申し訳なさに俯きながらイースは言った。
離れていく足音が聞こえなくなったのを見計らって、一人深々と呟く。
「はぁ……だせぇ、俺」
屋上で啖呵を切った時はこんな目に遭うとは思ってもみなかった。所詮は箱庭で暮らしていただけの箱入り息子、厳しい世界を生きる実力なんて
これではお荷物扱いされても仕方ない。
「やっぱり、一人じゃ生きられねぇのかな」
弱気な心の思うがままに感情を口にするイース。
破裂音が聞こえたのはちょうどその時だった。
パァンッ!
「な、なんだ⁉」
慌てて音のした方角へ顔を向けると、続けざまに二回の破裂音が青空に木霊した。
ユエルが使っていた
「誰かいるのか?」
武器を使う状況ということは魔物に襲われているのかもしれない。
「助けねぇと」
立ち上がったイースは、しかし後ろ髪を引かれるように振り返る。
「お待ちください」とユエルには言われた。きっと戻ってくるのにそこまでの時間は掛からないだろう。
だが、誰かが魔物に襲われているのなら一刻の猶予も無い。ここで見捨てて嫌な気分になるぐらいなら怒られた方がマシだ。
それに人助けが理由であれば、彼女もそこまで怒るまい。
「散々厄介になったんだ。少しは役に立たねぇと」
襲われているのがキャラバンであれば御の字、無関係でもこちらの手伝いはしてくれるかもしれない。
淡い希望を胸に、イースは音のする方角へ駆け出した。