イースは大丈夫だろうか。
彼の下へ戻る道すがら、ユエルは脳裏に刻まれた苦悶の表情に思いを馳せていた。
腐蝕の犠牲者など普通の人間が見ても深く動揺してしまう。常人より感受性の高いイースがトラウマレベルに傷つくのも当然だ。
問題は彼の言葉を信じなかったユエルにある。
(申し訳ないことをしてしまったな……)
言い訳ばかりつらつら並べたところで、ユエルの不注意がイースを傷付けたことに変わりはない。
彼の下へ戻ったらなんと言おう。謝ったところで問題解決には至らず、かといって謝罪以上のことは出来ない。いっそ全てを夢に出来れば……なんて荒唐無稽な妄想が浮かぶ。
(とにかく、今は彼の傍にいよう)
少しばかり夕食は豪華にして、可能な限り彼のトラウマを和らげるのだ。
固く決意を胸に、ユエルは陽の下へと出る。
「戻りました。お待たせして申し訳ありませ———」
不安に震える小さな体を探す群青の瞳は、しかし誰も映すことは無かった。
傍の瓦礫に確かに座らせていたイースは、忽然と消えていた。
「……イースさん。イースさん! イースさん!」
大声で呼びかけても返事はない。
背筋を凍らせる焦燥が襲うも、すぐに目を閉じて深呼吸をする。経験上、ここで慌てるのは悪手だ。
(落ち着いて。彼の痕跡を探せ)
自らにそう言い聞かせ、ユエルは地面に膝をついて足跡から探り始める。
乱闘の痕跡は存在しない。相手が盗賊や魔物なら、いかに憔悴していようと反撃したはず。砂埃が蓄積している黄土色の地面には乱暴な痕跡は一つも見当たらない。
あるのはただ一つ。何者かが一直線にどこかへ向かう足跡のみ。
「これは……イースさんの足跡?」
不意に乾いた発砲音が晴天に響いた。
きっとイースは、この音に釣られてこの場を離れたのだ。
「なるほど。そういうことですか」
こっちは心配で心配で気が気じゃなかったのに、肝心の本人は誘蛾灯に引っかかる羽虫のように音のした方へと突き進んだというのか。
ユエルは拳を握りしめて発砲音のした方へ体を向けた。
……イースを慰めるのは後だ。
「合流したら、まずはお説教ですからね」
醜悪な怪物たちが蔓延る大広間に似つかわしくない、深く透き通った低い声。
その声の主は、ちょうど大広間の扉を開けて入ってきたところだった。
「あのバカっ!」
舌打ちをするイース。その後ろから顔を覗かせるシモンが、フラグマーの大群を前に堂々と歩いてくる人影を見て口を押える。
「なにしてるのあの人⁉ 目が見えないわけじゃないよね?」
「あれを見せられちゃ自信ねぇな。ったく、ユエルの野郎……」
イースがいなくなったから探しに来たのだろう。だがこの状況下で平然とするほど能天気だとは思ってもみなかった。
二桁は下らない魔物を相手にただの剣と斧じゃ力不足だ。
……このままじゃユエルは殺される。
(ふざけんな。勝手に死なせてやるかよ)
もはや思考を置き去りにして、イースは物陰から飛び出していた。
「おいユエル! 早く逃げろ!」
背後で息を呑む声が聞こえる。彼には悪いが、今はそれどころじゃない。
しかし必死の呼びかけにも関わらず、ユエルはイースを見るや否やかすかに眉を顰めた。
「そこにいましたか。早く戻りますよ。言い訳は戻ってからお聞きします」
「それどころじゃねぇのが見て分かんねぇのか⁉ 逃げろっつてんだよ!」
「随分な物言いですね。約束を破ったことはもう忘れたのですか?」
「喧嘩してる場合じゃねぇんだよ! 逃げねぇと殺されるぞ!」
イースはレイラを抜いて怪物たちと向き合う。両サイドから挟み込むように獲物が現れたためか混乱するフラグマーたちだったが、レイラを抜いたのを境に敵意がイースへ集中する。
それでいい。どのみち引き寄せるつもりだったのだ。
「俺が気を引く! お前はそのうちに逃げろ!」
背後で隠れているシモンへ、そして無警戒でノコノコ顔を出したユエルへ呼びかけ、イースは魔物の大群へ突進———。
———するはずだった。
「……お静かに」
たった一言。それも決して怒鳴り声などではなく、むしろ冷静に呟かれた言葉だった。
にも関わらず、大気を震わせた声は見えない鎖となってイースをその場に押し留めた。
……心臓が早鐘を打つ。止まらない身の震えが恐怖が故なのか、それとも緊張が故なのかは分からない。
ただ漠然と、しかし確固たる『殺意』を前に、息すらできず留まるしかない。
「イースさん。あなたはそちらの方と隠れていてください」
ユエルはそう言いながら、優美な動きで剣を抜く。ガラス天井から差し込む光に照らされて、鋼鉄の刃が鈍く不気味に煌めく。
「速やかに終わらせます」
その宣言は、どす黒い鮮血を伴って放たれた。
間近にいた一体のフラグマーが、その場の誰もが捉えられない速度で縦に両断された。付近にいた別のフラグマーが仲間の死に気付くと同時に骸が倍に増え、更に気付いた時にはまた倍となって白いタイル張りの床を穢していく。
さながら獣の狩りを見ているかのようだ。戦意を鉤爪に乗せたフラグマーはたちまち縦横無尽に閃く剣によって絶命し、仲間の仇を取ろうと迫る個体もまた床のシミとなって一生を終えていく。どす黒い血と腐臭の漂う肉塊が飛び交う戦場の真ん中で、ユエルは穢れゆく肢体を動かしながら犠牲者を増やしていく。
死角から攻める知能を持った一体のフラグマーの鋭い刺突攻撃。尾を器用に折り曲げながら放たれた致死の一撃を、けれどユエルはわずかに頭部を逸らすだけで躱し、反撃の一撃を顔面へと深く刺し込む。夥しい量の出血をしながらも再生をしていく腐肉体を蹴って剣を抜いて一息に断頭、噛みつこうと口を開けた寸前での頭部の喪失にたじろぐフラグマーの胸部へ、ユエルは左手を勢いよく突っ込んだ。
「うぉっ⁉」
じっと見ていたイースは突然の奇行に腰を抜かす。武器越しでも不愉快な感触だと思っていた魔物の体内に素手を突き入れるなど正気の沙汰とは思えない。
にも関わらずユエルは躊躇なく左手を突っ込み、紫色の球体を強引に抉りだした。デイルだと理解したのも束の間、彼女は平然と握りつぶし、破片を迫りくる別のフラグマーへと投擲した。
仲間の心臓部を前にしては魔物も一瞬怯み、その隙を逃さずユエルは相手の首根っこを掴むと強引にぶん回して地面に叩きつけた。されるがままの中でも懸命に鉤爪を振るうフラグマーだったが、そのなけなしの反撃さえも剣によってあしらわれ、あろうことか同族を屠る武器として利用されてしまう。
野蛮の一言では片付けられない圧倒的な暴力に、普段の冷静沈着な彼女の姿は微塵も無い。
「あれがユエルの戦いか……」
「さっきから言ってるけど、もしかして君の連れって傭兵のユエル・エクスコート?」
後ろから顔を出したシモンの問いに頷くと、途端に彼は顔を輝かせた。
「やっぱり! あのユエル・エクスコートだったんだね⁉ 良かった……!」
「あいつのこと知ってんのか?」
「知ってるも何も有名人だよ。知らないのかい?」
イースが肩をすくめて肯定の意志を示すと、シモンは魔物の大群が眼前にいるという窮地にも関わらず、どこか嬉しそうな声音で語りだした。
「彼女は凄腕の傭兵なんだ。今までも多くのキャラバンや旅人が彼女のお世話になってきた。噂ではたった一人で上位種を討伐したことがあるらしいし、近隣の盗賊はユエル・エクスコートの名を聞くだけで、半年近くキャラバンを襲うのを止めるって言われるほどなんだ」
「話のスケールがデカすぎて良く分かんねぇ……」
イースが見て来た彼女は、口うるさくて細かいことに気を回していつも無表情で、けれどたまに一緒にいて良かったと思える人間だ。シモンが語るような偉人には見えない。
ただ、ほぼ無双状態のこの状況を見ていると、強ち作り話というわけでもなさそうだ。
などと話しているうちに戦いは終了した。
計十分ほどの戦闘の末、立っていたのはユエルただ一人だけだった。大広間に数多といたフラグマーの群れを相手にしてなお息が乱れる様子はなく、先ほどまでの苛烈な戦いとは縁遠い静謐な佇まいで、瘴気となって消えゆく最中の血肉の中心に立っていた。
「もう出てきて大丈夫です」
「お、おう」
呆然とその姿を見ていたイースは彼女の言葉で現実に引き戻された。
慌ててユエルの元へ駆け寄ってみるも、怪我があるような様子は微塵も無い。
「無傷で全滅させるとか、お前すげぇな。やっぱあれか? 伝説の傭兵様となるとフラグマーなんか目じゃねぇんだな」
「……」
「
「……」
「あ、そうそう! こいつキャラバンのメンバーらしいんだ。お前言ってたろ? キャラバンと会ったら買い物したいって。とっとと済ませちまおうぜ———」
パチンッ!
「……なぜ、一人で行動したのですか?」
頬に強く叩きこまれた焼けるような痛み。
それが、ユエルが叩いたからだと気付いたと同時に、冷たい声が突きつけられた。
「言ったはずです。荷物を取ってくるので、少々お待ちください、と。その程度のことも守れないのですか?」
「……だって、音がしたから、人がいると思って」
「だからなんですか? その過程で魔物に襲われるかもしれないとは考えなかったのですか? 魔物だけではありません。物資を狙う盗賊や建物の倒壊などでいつ命を落とすか分からないのですよ。なぜもっと思慮深く行動できないのですか」
「なんだよ。なんだよその言い方」
じんじんと脈打つ痛みに呼応するように、焼けつくような激情が胸の奥から這い上がってくる。
「困ってる奴がいたから助けに行っただけじゃねぇか。それにそいつがキャラバンだったらお前も嬉しいだろ」
「いいえ。むしろ私が間に合わなければあなた方は死んでいたのですよ。どこに喜ぶ要素があるのですか」
「結果的には万々歳だったじゃねぇか。俺たちは生き延びて、お前はキャラバンと出会えた。何が不満なんだよ」
「自らの命を危険に晒したことです。結果論で推し量れるほど世の中は単純ではないのです」
「じゃあ見捨てろっつうのかよ!」
「はい」
即答だった。
イースを見つめるユエルの瞳は恐ろしいほどに冷たく、何の感情も浮かんでいない。
「自らの命を危険に晒すほど価値のある人間は存在しません。死の危険を孕む場合は見捨てることが最善策です」
「……なら、なんであの夜俺を助けた?」
「それは……」
「お前にとっちゃ死ぬ可能性なんかゼロな事だったってのか? んなわけねぇよなぁ⁉ なのになんで怒られなきゃなんねぇんだよ。俺はただ……お前の役に立ちたくて……」
感情任せの叫び。もはやなんのためにここへ来たのかも、荒れ狂う感情の濁流の中では見当もつかなかった。
重く苦しい沈黙が二人の間に降りる。互いに掛けるべき言葉を見失い、ただ自分の感情が発散されるのと待つだけの時間。
そんな空気を壊したのは、気弱な声の第三者だった。
「えっと、お取込み中すみません……」
「あなたは?」
「シモンって言います。モルソアキャラバンのランナーをしてて」
「ランナー……物資回収係でしたか。だからこのような場所に一人でいたのですね」
「いやぁ……自分でもしくじったなとは思ってまして。お二人を巻き込んだのも完全に僕の所為ですし、助けてくださって感謝のしようもありません」
商人特有ともいうべき愛想笑いをしながら、シモンは出口の方を指差した。
「折角なので、僕らの野営地に来てくれませんか? どうかお礼をさせてください」
「……とのことですが、構いませんね?」
「……うん」
顔を合わせず首肯したイースに、ユエルは呆れたような眼差しをしつつシモンに向き直る。
「では案内をお願いします」
「任せてください!」
シモンは元気よく返事をした。息の詰まる空気感を前にしては、その健気な勇気も無力だったが。